高継 嵩碑考釈

14  Download (0)

Full text

(1)

高継 嵩碑考釈

渡辺 久

は じ め に

中 国 山 西 省 の 南 西 部 に は 、 縦 に 細 長 く 臨 紛 盆 地 が ひ ろ が る 。 そ の 北 方 の 出 入 口 に 審 州 市 が あ り 、 省 北 部 の 中 心 で あ る 太 原 市 と 西 南 部 の 臨 紛 市 を む す ぶ 中 継 地 と な っ て い る 。 市 の 東 方 に は 霊 峰 霧 山 が そ び え 、 西 に は 山 西 を 南 北 に 貫 流 す る 扮 水 を の ぞ む 。 典 型 的 な 黄 土 地 帯 に あ る 雷 州 市 は 、 北 緯36度 付 近 に 位 置 す る の で 、 日 本 で は 栃 木 県 宇 都 宮 の あ た り で あ ろ う 。 雷 州 の 歴 史 は 古 く 、 周 代 の 雷 伯 国 の 地 と し て 知 ら れ て い る 。 春 秋 時 代 に は 永 安 、 そ し て 前 漢 に 饒 県 と な り 、 後 漢 に は ふ た た び 永 安 と 呼 ば れ た 。 階 代 に 雷 邑 と さ れ る と 、 唐 、 宋 を 通 じ て こ の 名 が 用 い ら れ る 。 現 在 の 呼 称 と な る 霧 州 と さ れ た の は 金 代 で あ る 。

高 継 嵩 碑 を 訪 ね る に は 、 雷 州 市 街 か ら 北 東 へ 北 張 村 、 庫 抜 村 と 、 の ど か な 聚 落 を 進 み 、 峡 谷 を ひ と ま た ぎ す る と 、 雷 山 へ 連 な る 、 見 わ た す 限 り の 黄 土 高 原 の 上 に 出 る 。 そ の 台 地 を 北 へ と た ど っ た 断 崖 の 上 に 、 土 壁 に 囲 ま れ た 家 々 が 散 在 し て い る 。 高 王 荘 で あ る 。 雷 州 市 街 か ら は 、 北 北 東 へ 約15kmの 地 点 に あ る 。 村 は ず れ の 高 台 か ら は 、 南 方 は る か に 審 州 市 街 を 眼 下 に0望 す る こ と が で き る 。 そ こ に 村 を 鎮 守 す る か の よ う に 、 さ さ や か な 祠 が あ る 。 北 宋 時 代 の 人 、 高 継 嵩(981‑1040)の 廟 で あ る1。

す で に 『(康 煕)鼎 修 霧 州 志 』 に お い て 碑 の 存 在 は 知 ら れ て い た 。 そ の 録 文 は 、『(道 光)直 隷 雷 州 志 』 あ る い は 『山 右 石 刻 叢 編 』 に も 収 録 さ れ て い る 。 近 年 、 『山 西 碑 砥 』 に お い て 、 そ の 神 道 碑 の 拓 影 と 釈 文 に あ わ せ て そ の 概 容 も 紹 介 さ れ た 。 碑 身 の 大 き さ は 、 高151cm、 幅87cm、 厚28cmで あ り2、 横 斜 め に 二 本 の 亀 裂 が 走 っ て い る 。 碑 文 は 楷 書 で 全28行 あ り 、0行 に は 最 大62字 を お さ め る 。 そ の 周 囲 に 忍 冬 花 紋 の 線 刻 が 施 さ れ て い る 。 碑 額 の 大 き さ は 高79cm、 幅88cm、 厚28cmで 、 一 行 に 笈 書 で4文 字 、 そ れ が 全3行 あ る 。 亀 座 は 、 長100cm、 幅78cmで あ る 。 亀 首 は 脱 落 し て 失 わ れ て い る 。 碑 陰 に は 高 氏 の 系 譜 が 刻 ま れ て い る 。 こ れ に つ い て は 『山 西 碑 砺 』 お よ び

『山 右 石 刻 叢 編 』 に 録 文 が あ る も の の 、 碑 陰 の 拓 影 は 示 さ れ て い な い 。 な お 、 碑 本 体 お よ び 碑 額 、 亀 座 と も に 現 在 も 、 こ の 高 王 廟 内 に 保 管 さ れ て い る 。 本 稿 は そ の 訳 注 で あ る 。

『山 右 石 刻 叢 編 』 巻16、 高 継 嵩 碑 の 条 に は 、碑 高 四 尺 四 寸 、広 二 尺 二 寸 、二 十 八 行 、 行 六 十 二 字 ・ 正 書 。 今 在 雷 州 庫 抜 村 。 と し て お り 、 こ れ は 碑 文 に あ る 記 述 と 一 致 す る 。 た だ し 『山 西 碑 硯 』 高 継 嵩 碑 解 説(225頁)で は 、 現 在 は 審 州 市 の 東 郊 外15㎞ に あ る 高 王 荘 の 高 継 嵩 墓 前 に あ る と い う。 ま

た 『(雍 正)山 西 通 志 』 巻172に は 、 宋 節 度 使 高 継 嵩 墓 在 州 東 二 十 五 里 高 家 庄 。 と あ る 。 現 代 の 地 図 に よ れ ば 、 庫 抜 村 か ら 北 方 数 キ ロ に 高 家 庄 は 位 置 し て い る 。 な お 、 『中 国 文 物 地 図 集 』 山 西 分 冊 (上)302頁 の 「審 州 市 文 物 図 」 で は 、 高 王 荘 と 庫 抜 の 中 間 地 点 に 、 高 継 嵩 墓 の 現 在 位 置 が 示 さ れ て い る。

2『 三 晋 石 刻 総 目 』 臨 扮 巻、雷 州 市 存 碑 目録(224頁)に こ の 碑 の 情 報 を 掲 載 し て い る が 、 碑 の 大 き さ の 測 定 値 に 若 干 の 異 同 が あ る 。そ こ に は 、碑 首80×88×28m.碑 板155×77×26m.碑 座60×82×20cm.

と あ る 。

1

(2)

}ω移知火山軍改礼賓副使充邪寧環慶路駐泊安撫都監知環州累遷西京左國庫使公勇而有謀臨敵未嘗挫折前後屡奏勝捷仁宗遣中貴人伝

=宣記録姓名將以擢任至是乞朝観稟辺事詔命其請到閾圓凹射後苑一発中銭孔賜銀絹一百疋両襲衣金帯奏対称旨擢授昭州刺史知

一ω慶州有戌卒謀為乱逐指揮使周美欲殺之美挺身帰公衆畏公不敢動縦其餓党謙首議者十七人圃一詔美之美官至節度使復移知鎮戎軍完

一①人素畏公名望風遁去辺境清粛民立生祠至今奉祀不怠又遷保㎜山刺史当時大臣萢文正公韓魏公最圃公為可用力薦引之嘗命副魏公為契丹

旨国信使以疾免魏公亦以公故辞不行康定元年九月七日以疾園π鎮戎軍之正寝享年五十有九諸孤[閥翼帰平陽以慶暦七年二月二十一日葬於窪

一︒︒邑県永太郷庫抜村有故人焦換実銘其墓公嬰史氏封河南囲君生子男八人永信永友永誠永堅永洗永圃永享永宣後以子貴累贈公定武軍節

一⑩度使諸孫蕃術碑陰為譜以系之大観二年公之姪孫洵為皇城使揚歴二広間朝廷方且選任皇城君□草従游窪四方族中旅殖而未葬者六十人

NO慨然恒傷以論朝廷恩許移本州兵馬鈴轄聚族営弁富者岡]貨貧者効力二年之問以畢其事而夫人史氏国是而合葬焉且謂公功烈如彼催其無

曽伝欲立碑以表其墓以行状来求文於遽遽郷里後進也猶及蘭國公之二季永奇永亨今皆亡 永奇軽財重國渾厚長者永亨沈驚好謀恢廓有大志所至

卜︒卜︒立奇功尤知名於時亦可以概見公之遺範亦嘗拝公之画像真一時英偉人也辞不獲免因為論口口圃π史氏謂三世為將道家所忌東漢取氏自

卜︒ω況而下累葉以功名自終其独能隆於当時者量徒然哉観定国公保全繧州以五県之衆帰干我朝m図其人去彼凶虐復為王民方其迎拝鼓舞

障楽趨

卜Q

N①

N刈NO 皇化其功徳被人者豊有窮邪宜其後世爵緑困文天之報人固其理也銘日

大河之西高氏世顕赫赫定武蚤以オ選謀之具減

公之未来犬戎這難公之既来克除克躬稽首服従

定国勲賢干何不善緩城之衆免爾塗炭山豆惟其免

公子公孫公侯L灸裳忠義有本無恭履践 勇干義醐]帝用疇之委苑方面

威霊大口凡此武功虎臣寮審

被爾冠圓囲有施有報其報必遠

大観四年十一月二日立石郡人牛美刻 2

(3)

録文

︽笈額︾

O一故定武軍

O卜︒節度使高

Oω公神道碑

︽碑文︾

o一宋故銀青光禄大夫検校太子賓客使持節保州諸軍事保州刺史兼御史大夫騎都圃渤海県開国伯食邑九百戸贈定武軍節度使高公神道碑銘[井序]

ON承議郎新差同勾当代州五台山寺務司井真容院及図善鎮煙火巡検公事王遽撰

Oω姪孫皇城使充晋州兵馬鈴轄上柱国保定県開国男食邑三百戸口洵書

O劇文思副使充晋州兵馬都監兼在城巡検武騎尉郡邨笈額

O㎝惟高氏為河西大姓世有顕功勲在王府威震夷落自領軍而下枝分丞國散居於延安繧徳平陽固不知幾何人本其忠義相伝縄縄翼翼大者侯封

8小者材進錐山西気俗漸磨使然而大門功徳界付有以高祖諺思口口口囮唐困以破賊勲為工部尚書圏州刺史領軍誰君立公之大父也

O刈父誰文胚始為本州衙校以計破叛莞逆謀殺其愛将卒完城以帰干本朝太宗嘉歎委以辺囮終汝州防禦使累贈定国軍節度使公即

O︒︒定国第三子也誰継嵩字惟嶽以将家子結國従戎有志於功名故歴任未嘗不在圃婁而所至有威声治状回述真宗東封需恩授右班殿直祀扮

O⑩陰礼成転左班殿直定国遺表転右侍禁差晋州兵馬監押就徒晋限同巡検㎜]方略捕殺強賊史胡土凶功賜勅書奨諭改左侍禁又遷供奉官移秦

一〇州床穰塞兵馬監押累戦以多就移環州管界巡検時吐蕃叛命公以軽兵入団焚焼族帳殺獲甚多西國畏服納降乃還朝廷疇労特授圖門砥候移

=晋州兵馬都監改晋限等州都巡検使就徒原州駐泊都監兼沿辺巡検使先是關π招降吐蕃酋豪数十族圖公来競越境韓走持物以献公稿労撫

一ト︒慰而遣之其威恵感人心如此就差知[囲州移知鎮戎軍龍図閣学士王博文挙公実暁軍機諸練辺事㎜團丙殿崇班坐公累移陳州駐泊未幾転内殿承制 3

(4)

書 き下 し

《筆 額 》 故 定 武 軍節 度 使 高 公 神 道 碑

《碑 文 》

宋 故 銀 青 光 禄 大 夫 、 検 校 太 子 賓 客 、使 持 節 保 州 諸 軍 事 、 保 州 刺 史 兼 御 史 大 夫 、騎 都 囲 、渤 海 県 開 国伯 、 食 邑九 百 戸 、 贈 定武 軍 節 度 使 、 高公 神 道 碑 銘[井 び に序]

承 議 郎 、新 差 同 勾 当代 州 五 台 山寺 務 司 井真 容 院 、及 び圓 善 鎮 煙 火 巡 検 公 事 王 遽 撰

姪 孫 皇 城 使 、 充 晋 州 兵 馬 鈴 轄 、 上 柱 国 、 保 定 県 開 国 男 、 食 邑 三 百 戸 、 口 洵 書 文 思 副 使 、 充 晋 州 兵 馬 都 監 、 兼 在 城 巡 検 、 武 騎 尉 、 郡 郡 築 額

惟 れ 高 氏 は 河 西 の 大 姓 た り 。 世 よ 顕 功 あ り 、勲 は 王 府 に 在 り 、威 は 夷 落 を 震 わ す 。 領 軍3よ り 而 下 、 枝 は 分 れ 、 派 は 図 れ て 、 延 安4、 繧 徳5、 平 陽6に 散 居 す る 風 幾 何 人 な る を 知 ら ず 。 本 よ り 其 の 忠 義 は 相 い 伝 え て 、 縄 縄 翼 翼 た り7。 大 な る 者 は 侯 も て 封 せ ら れ 、 小 な る 者 は 材 も て 進 め ら る 。 山 西 の 気 俗 は 漸 く 磨 し て8然 し む と 錐 も 、 而 れ ど も 大 門 の 功 徳 、 界 付 は 以 て す る あ り9。 高 祖 、諦 は 思[下 一一 字 仁 宗 廟 諦 を 避 く]10、

唐困 に仕 え、 賊 を破 る の勲 を以 て 工 部 尚書 、國 州 刺 史 と為 る。 領 軍 、誰 は 君 立 、公

の 大 父 な り 。 父 、 誰 は 文 胚 、 始 め 本 州 衙 校 と 為 り 、 計 を 以 て 叛xの 逆 謀 を 破 り 、 其

の愛 将 を殺 し、卒 に 城 を完 く し以 て本 朝 に 帰 すU。 太 宗 嘉 歎 し、委 ぬ る に辺国 を以 て

3領 軍 こ こ で は 祖 父 の 高 君 立 を さ す

。 領 軍 は 帰 順 した 部 族 長 級 の 人 物 に 与 え ら れ る 領 軍 衛 将 軍 な ど の 略 称 で あ ろ う。 『宋 史 』(中 華 書 局 本)巻6真 宗 本 紀 、 威 平 三 年(1000)に 、 九 月 庚 辰 、 賜 契 丹 降 人 薫 肯 頭 名 懐 忠 、 為 右 領 軍 衛 将 軍 、 厳 州 刺 史 。 招 鵤 名 従 化 、 為 右 監 門 衛 将 軍 、 虫pfb名 従 順 、 為 千 牛 衛 将 軍 。 と あ り 参 考 に な る 。

4延 安 は 宋 の 永 興 軍 路 の 要 衝 で あ り

、 た び た び 西 夏 と 宋 の 激 戦 が 行 な わ れ た 。 現 在 の 陳 西 省 延 安 市 に あ た る 。 『宋 史 』 巻87地 理 志 、 陳 西 路 に 、 延 安 府 、 中 、 都 督 府 、 延 安 郡 、 彰 武 軍 節 度 。 本 延 州 。 元 祐 四 年 、 升 為 府 。 旧 置 鄭 延 路 経 略 安 撫 使 、 統 延 州 、 鄭 州 、 丹 州 、 坊 州 、 保 安 軍 、 四 州 一 軍 。 其 後 増 置 繧 徳 軍 、 又 置 銀 州 、 凡 五 州 二 軍 。 と 記 す 。

5rr徳 は 延 安 に 隣 接 す る。 『東 軒 筆 録 』 巻5に 、 延 州 当 西 戎 三 路 之 衝 、 西 北 金 明 塞 、 正 北 黒 水 塞 、 東 北 懐 寧 塞 、而 懐 寧 直 横 山 、最 為 控 要 。頃 年 、醇 向 、神 謬 取 緩 州 、建 為1i徳 城 、拠 無 定 河 、連 野 鶏 谷 、 将 謀 復 横 山 、 而 朝 廷 責 其 檀 兵 、 二 人 者 皆 黙 罷 。 と あ る 。 こ こ は 、 黄 河 の 支 流 無 定 河 と大 里 河 の 分 岐 に あ る 要 地 で 、横 山 を は さ み 西 夏 と の 帰 属 を め ぐ り 激 戦 の 地 と な っ た 永 楽 城 、米 脂 暴 を そ の 域 内 に も っ 。 現 在 の 陳 西 省rr徳 に あ た る 。

6平 陽 河 東 路 晋 州 平 陽 郡 建 雄 軍 節 度

。 治 臨 紛 。(『元 豊 九 域 志 』 巻4>山 西 南 部 に あ る 要 地 で あ る 。 現 在 の 山 西 省 臨 扮 市 に あ た る 。

7縄 縄 『詩 経 』 周 南 麺 斯 に、 宜 爾 子 孫 縄 縄 。 と あ り子 孫 が 絶 え な い こ と を 言 う。 翼 翼 は 『詩 経 』 小 雅 楚 茨 に 、 我 穫 翼 翼 。 と あ り 、 盛 ん に 茂 る さ ま を 意 味 す る 。

8漸 磨 使 然 『宋 会 要 輯 稿 』(以 下 『宋 会 要 』)選 挙18 ‑14武 挙 に、[慶 元 二 年(1196)]八 月 二 十 八 日 、 臣 僚 言 、 両 潅 荊 嚢 皆 楚 地 也 。 山 川 之 勝 風 土 至 厚 鍾 、 為 人 物 往 往 豪 気..o有 足 観 者 、 漸 磨 之 以 学 問 、 勧 誘 之 以 爵 禄 、 莫 不 奮 起 。 と あ る 。 ま た 『資 治 通 鑑 』 巻17、 漢 紀9、 建 元 元 年(前140)十 月 の 董 仲 箭 の 言 に 、 「是 以 刑 者 甚 衆 、 死 者 相 望 、 而 姦 不 息 、 俗 化 使 然 也 。」 と あ り 、 ま た 『宋 史 』 巻162、 地 理 志 、 江 南 西 路 建 昌 軍 に 「其 俗 性 桿 而 急 、 喪 葬 或 不 中 礼 、 尤 好 争 訟 、 其 気 尚 使 然 也 。」 と あ る こ と か ら 、 こ こ で は 山 西 地 方 の 気 風 が 漸 次 に そ こ な わ れ て ゆ く と い う 方 向 の 意 味 か と考 え る 。

9界 付 『程 史 』 巻10

、 成 都 貢 院 に 、 成 都 新 繁 有 蔵 芸 祖 御 容 者 、 莫 知 始 何 年 、 令 長 交 事 医 護 、 昇 付 惟 謹 。 と あ る 。 界 は た ま う 、 あ た え る 。 付 は つ く 、 し た が う の 意 味 だ ろ う。

10前 掲 の 『山 右 石 刻 叢 編 』 お よ び 『山 西 碑 砺 』 高 継 嵩 碑(225 〜228頁) 、拓 影 に 「下 一 字 避 仁 宗 廟 誰 」 の 小 字 双 行 注 あ り。 宋 仁 宗 、 誰 は 禎 。(高 思 禎 一 高 君 立 一 高 文 旺 一 高 継 嵩)

ll高 文 蛭 が 宋 に 帰 属 した 年 に つ い て

、 『皇 朝 編 年 綱 目備 要 』 巻5、 太 宗 の 淳 化 五(994)年 三 月 に 、 李 継 遷 入 夏 州 。 趙 保 吉 徒1州 民 於 平 夏 、左 都 押 衙 高 文::+‑N・走 之 、 以 綴 州 内 属 。 乃 命 文 胚 知 州 事 。 と記 す 。

ま た 『武 経 総 要 』 前 集 、18下 、 辺 防 繧 州 の 条 に 、 本 朝 太 平 興 国 中(976‑983)、 李 継 遷 叛 、 河 右 椒 4

(5)

す12。 汝 州 防 禦 使 に 終 り 、定 国 軍 節 度 使 を 累 贈 せ ら る13。公 は 即 ち 定 国 の 第 三 子 な り。

誰 は継 嵩 、字 は惟 嶽 、将 家 の子 な る を以 て 結 國 す るや 戎 に従 い 、志 を功 名 に 有 す 。 故 に歴 任 は未 だ 嘗 て回 要 に在 ら ざる は な く、而 も至 る所 、威 声 治 状 の述 ぶ団 き あ り。

真 宗 東 封 の 需 恩14に 、右 班 殿 直 を 授 け ら れ 、扮 陰 を 祀 る の 礼 成 り15、左 班 殿 直 に 転 ず 。 定 国 の 遺 表 も て 右 侍 禁 に 転 じ 、 晋 州 兵 馬 監 押 に 差 せ ら れ 、 就 ち 晋 限 同 巡 検 に 徒 る 。

方 略 を圃 い て 強 賊 史 胡 子 を捕 殺 し、功 を図 て勅 書 を賜 わ りて 奨 諭 せ られ 、左 侍 禁 に

改 め ら る 。又 た 供 奉 官 に 遷 り 、秦 州 床 穰 塞 兵 馬 監 押16に 移 り 、累 戦 し て 以 て 多 あ り17、

就 ち環 州 管 界 巡 検 に移 る。 時 に 吐蕃 命 に叛 く。 公 は 、 軽 兵 を以 て入 りて圖 ち 、族 帳 を焚 焼 し、殺 獲 す る こ と甚 だ 多 し。西國 は畏 服 し納 降す 。乃 ち還 る に 、朝 廷 は 労 に蔭 い て 特 に圖 門砥 候 を授 く18。晋 州 兵 馬 都 監 に 移 り、晋 限 等州 都 巡 検 使 に 改 め らる。就 ち原 州 駐 泊 都 監 兼 沿 辺 巡 検 使 に徒 る。

是 よ り先 、國 州 に 吐 蕃 の 酋 豪 を招 降 す る こ と数 十 族 、公 の 来 る を固 き 、競 い て 境

を 越 え て 韓 走 し 、 物 を 持 し 以 て 献 ず 。 公 、 労 を 稿 い 撫 慰 し て こ れ を 遣 る 。 其 の 威 恵

の人 心 に感 ぜ しむ こ と此 くの 如 し。 就 ち 知厨 州 に 差 せ られ 、 知 鎮 戎 軍 に移 る。 龍 図

擾 、 以 高 文 蛭 知 州 事 。 継 遷 攻 撃 不 已 、 因 徒 文X泊 居 民 干 石 州 、 廃 殿 其 城 。 と あ り 、 繧 州 は そ の 後 、 放 棄 さ れ た と す る 。

12前 掲 『山 右 石 刻 叢 編 』 は、 継 嵩 父 文 胚 、 史 亦 無 伝 。 惟 高 永 能 伝 有 云 、 永 能 世 為rr.州 人 、 伯 祖 文 蛭 挙 州 来 附 、 即 拝 団 練 使 。(中 略)長 編 、 詔 以 高 文 蛭 為rr,州 団 練 使 。 碑 所 謂 完 城 帰 朝 、 太 宗 嘉 歎 、 授 以 辺 任 者 是 也 。 と 注 記 す る 。 『続 資 治 通 鑑 長 編 』(以 下 『長 編 』 と す る)巻35、 淳 化 五 年(994)夏 四 月 甲 申 に 、 上 聞 趙 保 忠 既 成 檎 。 詔 以 趙 光 嗣 為 夏 州 団 練 使 、 高 文 蛭 為rr州 団 練 使 、 削 保 吉 所 賜 姓 名 復 為 李 継 遷 。 と あ る 。

さ ら に 『長 編 』 巻58、 景 徳 元 年(1004)十 二 月 丁 未 に 、 廃 石 曝 州 部 署 、 置 石 限 縁 辺 都 巡 検 使 、 傍 命 汝 州 防 禦 使 高 文 蛭 領 之 、 西 上 閤 門 使 張 守 恩 為 都 監 、領 駐 泊 兵 。 侯 河 水 合 、 即 往 来 巡 察 。 と あ り、 汝 州 防 禦 使 に 進 ん で い る 。

な お 繧 州 高 氏 の 軍 団 に つ い て 、 『長 編 』 巻47、 威 平 三 年(1000)八 月 己 未 に 、 詔 晋 州 以 嚢 陵 県 公 田 五 頃 給 相 州 兵 馬 都 監 魚 彦 燐 為 永 業 、{乃蜀 其 賦 。 彦 燐 本1/;.州人 、 与 高 文 蛭 同 帰 化 、 故 優 待 。 と あ り、

ま た 『長 編 』 巻54、 威 平 六 年(1003)三,月 壬 辰 に 、石 限 都 巡 検 使 高 文 胚 言 、rr州 東 西 蕃 部 軍 使 葉 錦 等 百 九 十 五 口 内 属 。 と記 さ れ て お り 、 魚 氏 、 葉 氏 な ど の 土 着 豪 民 勢 力 が 高 氏 軍 団 に 含 ま れ て い た 。 13高 文Xの 死 に つ い て、 『長 編 』 巻83、 大 中 祥 符 七 年(1015)九 月 甲 午 に 、 石.,,.州縁 辺 都 巡 検 、 峡 州

防 禦 使 高 文 胚 卒 。詔 遣 中 使 護 喪 、帰 晋 州 、録 其 子 孫 。 文 蛭 自 践 廷 来 帰 、人 許 其 忠 而 知 変 、久 在 石 州 、 得 軍 民 心 。又 蕃 衆 先 随 至 者 数 千 戸 。上 慮 其 失 所 、即 以 文 蛭 長 子 継 昇 為 崇 儀 副 使 、領 父 任 焉 。 と 記 す 。 高 文 蛭 は 石 曝 州 縁 辺 都 巡 検 と して 十 年 あ ま り を 務 め 、峡 州 防 禦 使 の 位 で 、任 地 に 没 し た こ と が わ か る 。 た だ 累 贈 と あ る が 、 今 の と こ ろ 高 文 胚 が 節 度 使 の 位 を 贈 ら れ た 記 事 は み つ か ら な い 。 な お 、 宋 の 定 国 軍 節 度 使 は 知 枢 密 院 や 知 太 原 府 な ど に 兼 ね て 任 命 され る 高 位 の 官 職 で あ る 。

14真 宗 の 東 封 と は 泰 山 で の 封 禅 を 指 す。 大 中 祥 符 元 年(1008)十 月 に 挙 行 され た 。 そ の 際 、 文 武 百 官 に は 官 位 の 進 級 を 恩 典 と し て 与 え た 。 こ の 時 「三 班 使 臣 の 五 年 を 経 た る 者 は 考 課 を 与 え る 。」(『 長 編 』 巻70、 大 中 祥 符 元 年 十 月 癸 丑)と あ る の で 、 高 継 嵩 も こ れ に あ ず か っ た の だ ろ う。

15真 宗 が 扮 陰 を 祀 っ た の は 大 中 祥 符 四 年(1011)で あ る。

16秦 州 床 穰 塞 『長 編 』 巻132 、 慶 暦 元 年(1041)六 月 己 亥 、 陳 西 体 量 安 撫 使 王 尭 臣 が 対 党 項 戦 略 を 上 言 す る 中 に 、 秦 州 の 床 穰 塞 の 戦 略 的 位 置 に つ い て 言 及 す る 。 其 次 、 秦 州 絶 在 西 南 、 去 賊 界 差 遠 。 其 入 冠 之 路 、 東 則 自儀 州 西 南 生 属 戸 八 王 界 族 経 過 、 至 水 洛 城 北 、 是 賊 界 党 留 等 族 地 。 水 洛 城 南 与 秦 州 冶 坊 、 床 穰 塞 相 接 。(中 略)必 須 益 兵 万 人 、 分 屯 安 遠 、 伏 莞 、 冶 坊 、 床 穰 、 弓 門 塞 、 清 水 県 、 以 擁 東 西 之 来 路 。 云 々 。 な お 秦 州 床 穰 暴 に つ い て 、 前 田 正 名 『河 西 の 歴 史 地 理 学 的 研 究 』 吉 川 弘 文 館

1964年(427〜428ペ ー ジ)に 若 干 の 説 明 が あ る 。 17『 周 禮 』 夏 官 司 勲 に

、 戦 功 日 多 。 と あ る 。

1R『 長 編 』 巻104 、 天 聖 四 年(1026)六 月 癸 未 に 、 賜 環 州 縁 辺 巡 検 、供 奉 官 、 閤 門 砥 候 高 継 嵩 等 器 幣 有 差 。 以 璃 爾 黙 族 冠 辺 而 継 嵩 等 率 衆 捕 撃 有 労 也 。 と あ り 、 す で に 高 継 嵩 の 武 階 は 閤 門 砥 候 と あ る 。

5

(6)

閣 学 士 王 博 文19は 、公 の 実 に 軍 機 に 暁 る く 、辺 事 に 諸 練 す る を 挙 ぐ 。内 殿 崇 班 に 國 ず 。 公 累 に 坐 し20、 陳 州 駐 泊 に 移 る21。 未 だ 幾 く な ら ず し て 内 殿 承 制 に 転 じ 、 知 火 山 軍22に 移 り 、 礼 賓 副 使 に 改 め ら れ 、 那 寧 環 慶 路 駐 泊 安 撫 都 監 ・知 環 州 に 充 て ら る23。 累 遷 し て 西 京 左 國 庫 使 と な る 。 公 、 勇 に し て 謀 あ り。 敵 に 臨 み て 未 だ 嘗 て 挫 折 せ ず ・ 前 後 ・

屡 しば 勝 捷 を奏 す 。 仁 宗 は 中 貴 人 を遣 り宣 を伝 え姓 名 を 記 録 し、 将 に 以 て 擢 任 せ ん

ゆ る

と す 。 是 に 至 り 、 朝 観 し 辺 事 を 稟 せ ん こ と を 乞 う 。 詔 し て 其 の 請 を 命 す 。 闘 に 到 り 後 苑 に 射 す に 囮 し 、 一 発 し て 銭 孔 に 中 る 。 銀 絹 一 百 疋 両 、 襲 衣 金 帯 を 賜 る 。 奏 対 、

旨 に 称 い 、 擢 ん ぜ ら れ て 昭 州 刺 史 ・知 慶 州 を 授 け ら る24。 戌 卒 の 謀 り て 乱 を 為 し 、 指

正9王 博 文(973‑1038) 、 字 は 仲 明 、 曹 州 済 陰 の 人 。 彼 は や が て は 知 枢 密 院 事 へ と 昇 進 す る 。 そ の 見 識 は 多 方 面 に お よ び 、人 事 分 野 に も発 揮 さ れ た 。 と り わ け 西 北 方 面 の チ ベ ッ ト系 諸 族 に 対 す る 施 策 に お い て 、 完 族 の 撒 適 渇 の 叛 乱 に 際 し 、 曹 璋 や 田 敏 を 推 挙 し て 、 乱 の 平 定 に 成 功 す る 。 王 博 文 がJ 族 の 実 情 に 精 通 して い た こ と は 、『宋 史 』 や 『長 編 』 の 中 に も 次 の よ う に あ る 。 初 、 沿 辺 軍 民 之 逃 者 必 為 熟 戸 畜 牧 、 又 或 以 遺 遠/易 羊 馬 、 故 常 没 者 数 百 人 。 其 禽 生 莞 、 則 以 錦 抱 、 銀 帯 、 茶 絹 賞 之 。 問 有 自 帰 、 而 中 道 為 夏 人 所 得 、 亦 不 能 弁 、 坐 法 皆 斬 。 博 文 乃 遣 習 知 辺 事 者 、 密 持 信 紙 往 招 、 至 則 悉 貸 其 罪 、 由 是 歳 減 殊 死 甚 衆 。 朝 廷 下 其 法 労 路 。(『 宋 史 』 巻291、 王 博 文 伝)

ま た 、『長 編 』 巻104、 天 聖 四 年 十 月 己 亥 に 、 戸 部 副 使 王 博 文 言 、 陳 西 沿 辺 蕃 部 捕 送 逃 軍 、 多 因 樵 採 或 遠 探 伏 路 、 而 被 蕃 人 所 執 、 亦 有 脱 身 得 帰 、 復 為 掠 去 者 、 有 司 皆 準 法 処 置 、 情 実 可 衿 。 自 今 請 決 配 遠 悪 州 軍 。 詔 止 配 外 州 牢 城 、 情 軽 者f乃 奏 聴 裁 。[原 注 、1二 月 甲 戌 、王 随 下 教 、 与 此 署 同 。 当 考 。 博 文 事 又 見 明 道 元 年 七 月 甲 戌]と あ る 。

な お 、前 掲 『山 右 石 刻 叢 編 』は 次 の よ う に 注 記 す る 。 又 天 聖 九 年 王 博 文 以 知 秦 州 、龍 図 閣 直 学 士 、 徒 知 鳳 翔 府 。 此 碑 称 、 博 文 挙 公 実 暁 軍 機 、 度 継 嵩 知 原 州 移 鎮 戎 軍 、 亦 必 在 天 聖 末 年 也 。

20坐 公 累 『東 都 事 略 』 巻115 、 文 芸 伝 、 李 建 中 の 条 に 、 李 建 中 、 字 得 中 、 其 先 京 兆 人 也 。(中 略)太 宗 嘉 之 、召 対 便 殿 。会 建 中 坐 公 累 、降 監 在 京 権 易 院 。 と あ る 。公 累 に つ い て は 、『宋 会 要 』選 挙30‑7、

紹 興 三 十 年(1160)正 月 十 四 日 に 、 詔 、 諸 州 守 臣 、 間 有 閾 官 、 可 令 六 曹 尚 書 、 侍 郎 、 翰 林 学 士 、 両 省 台 諌 官 、 正 言 以 上 、 各 挙 曽 任 通 判 及 通 判 資 序 、 公 勤 廉 慎 、 治 状 顕 著 、 可 充 郡 守 者 二 員 聞 奏 、 以 備 錐 択 。 イ乃保 任 終 身 犯 賊 及 不 職 、 与 同 罪 。 其 曽 任 郡 守 錐 有 公 累 、 而 才 実 可 用 者 、 亦 許 淳 挙 。 と あ る 。 両 者 を 考 え 合 わ せ る と 、坐 公 累 と は 公 事 連 坐 の 意 味 に 通 ず る か と 考 え る 。梅 原 郁 『宋 代 司 法 制 度 研 究 』 創 文 社2006年(713〜721ペ ー ジ)参 照 。

21陳 州 駐 泊 都 監 と し て 明 珠 族 と戦 う。『長 編 』巻111、 明 道 元 年(1032)九 月 甲 戌 。降 浬 原 路 副 都 部 署 、 捧 日天 武 四 廟 都 指 揮 使 、 聾 州 防 禦 使 高 化 為 滑 州 部 署 、 知 滑 州 、 西 上 閤 門 使 安 継 昌 、 知 丹 州 、 浬 原 路 都 監 、 左 験 騨 使 、 英 州 刺 史 王 懐 節 為 河 陽 都 監 、 知 鎮 戎 軍 、 内 殿 崇 班 、 閤 門 砥 候 高 継 嵩 為 陳 西 都 監 、 並 坐 掩 撃 明 珠 族 失 利 也 。先 是 、化 等 以 盛 夏 出 兵 、径 抵 賊 帳 、一 日行 幾 百 里 、兵 素 不 整 、渉 険 皆 困 乏 、 既 与 賊 遇 、首 尾 不 能 相 救 、遂 自 奔 潰 、騎+渇 死 者 又 三 之 一一。 自 是 、指 明 珠 為 強 族 、不 敢 復 言 攻 取 云 。 22火 山 軍 『宋 史 』 巻86 、 地 理 志 。 火 山 軍 、 同 下 州 。 本 嵐 州 之 地 。 太 平 興 国 七 年 、 建 為 軍 。 治 平 四 年 、 置 火 山 県 、 煕 寧 四 年 、 廃 之 。 崇 寧 戸 五 千 四 十 五 、 口 九 千 四 百 八 十 。 貢 柴 胡 。 砦 一 、 下 鎮 。[原 注 、 火 山 軍 旧 領 雄 勇 ・偏 頭 ・董 家 ・横 谷 ・桔 檸 ・護 水 六 砦 。 慶 暦 初 、 置 下 鎮 砦 。 嘉 祐 六 年 、 廃 偏 頭 砦 。 煕 寧 元 年 、 廃 桔 桿 砦 。 元 豊 九 域 志 、 領 砦 一 。]

23こ の 時 期 に 遺 矢 に よ る 疑 惑 事 件 が も ち あ が る。 高 継 嵩 は 韓 碕 に よ り 窮 地 を 救 わ れ る 。 『長 編 』 巻 122、 宝 元 元 年(1038)八 月 の 条 。丙 子 、工 部 郎 中 知 制 諾 王 挙 正 為 契 丹 生 辰 使 、礼 賓 副 使 張 士 禺 副 之 、 右 司 諌 直 集 賢 院 韓 碕 為 正 旦 使 、左 蔵 庫 使 高 継 嵩 副 之 。 埼 言 、 継 嵩 昨 知 環 州 、 因 軍 士 得 遺 箭 、 繋 匿 名 文 字 、 言 継 嵩 将 叛 。 継 嵩 心 不 安 、 乞 還 朝 。 臣 察 其 事 之 偽 者 有 二 。 弁 其 惑 者 有 一 、 継 嵩 久 在 西 辺 、 頗 以 勇 敢 聞 、或 為 西 賊 所 悪 、設 反 問 而 去 之 。 不 然 、則 駅 下 厳 、而 為 戌 卒 巧 計 以 中 之 、此 其 偽 可 察 二 也 。 且 継 嵩 背 義 投 誠 、 元 昊 必 陰 納 其 説 、 若 元 昊 忠 於 朝 廷 、 則 当 密 奏 其 事 、何 必 以 遺 箭 達 其 叛 状 乎 、 此 又 其 惑 可 弁 一 也 。 臣 愚 以 謂 宜 急 遣 継 嵩 還 辺 、 其 元 告 匿 名 文 字 、 亦 乞 論 罪 如 律 。 外 以 杜,,.q賊行 間 之 謀 、 内 以 破 惰 兵 論 中 之 計 、次 以 堅 継 嵩 用 命 之 心 。使 辺 郡 聞 之 、敦 不 畏 朝 廷 之 明 、而 属 忠 義 之 懐 也 。庚 辰 、 詔 継 嵩 復 知 環 州 、 以 西 染 院 副 使 兼 閤 門 通 事 舎 人 王 従 益 代 使 契 丹 。 従 益 、 漢 忠 子 也 。

24『 長 編 』 巻122

、 宝 元 元 年(1038)九 月 庚 戌 、 徒 知 慶 州 、 復 州 刺 史 趙 振 知 環 州 、 西 京 左 蔵 庫 使 高 継 嵩 領 昭 州 刺 史 、 為 環 慶 路 鈴 轄 兼 知 慶 州 。 前 注 の 遺 矢 に ま つ わ る 疑 惑 事 件 と 、 そ れ に 関 連 す る で あ ろ

う 、 御 苑 で の 射 撃 の 一 件 の の ち 、 こ の 命 が 下 っ た の だ ろ う。

ま た 、 『長 編 』 巻123、 宝 元 二 年(1039)四 月 丁 卯 に 、 環 慶 鈴 轄 高 継 嵩 言 、 今 元 昊 将 兵 冠 延 安 、 請 令 石 、 限 州 発 五 関 塞 捉 生 兵 、 夜 済 大 河 、 入 定 仙 嶺 鉄 茄 平 、 設 伏 掩 襲 。 従 之 。 と あ り 、 環 慶 路 鈴 轄 と し て 軍 略 を 献 じ た 記 事 が あ る 。 呉 廷,一 著 『北 宋 経 撫 年 表 』 に よ れ ば 、 こ の 時 期 、 環 慶 路 の 帥 府 は 邪 州

6

(7)

揮 使 周 美 を 逐 い こ れ を 殺 さ ん と 欲 す る あ り 。 美 、 身 を 挺 し て 公 に 帰 す 。 衆 、 公 を 畏

れ 敢 て は動 か ず 。 其 の 餓 党 を縦 し、 首 と して議 す る者 十 七 人 を諌 す 。 詔 を團 し これ

を 美 と す 。 美 、 官 は 節 度 使 に 至 る25。 復 た 知 鎮 戎 軍 に 移 る26。J"c人 素 よ り公 の 名 を 畏 れ 風 を 望 み て 遁 去 し 、辺 境 清 粛 た り 。民 は 生 祠 を 立 て 今 に 至 る ま で 奉 祀 し て 怠 ら ず 。

又 た保 囲 刺 史 に 遷 る。 当時 の大 臣 、 萢 文 正 公 、 韓 魏 公 最 も公 の 用 う可 き を圓 り、力

薦 し て こ れ を 引 く27。 嘗 て 命 じ て 魏 公 の 契 丹 国 信 使 た る に 副 た ら し め ら る も 、 疾 を 以 て 免 ぜ ら る28。 魏 公 も 亦 た 公 の 故 を 以 て 辞 し て 行 か ず 。 康 定 元 年(1040)九.月 七 日 、 疾

を以 て 鎮 戎 軍 の正 寝 に困 す29。享 年 五 十 有 九。諸 孤 、喪 を国 りて平 陽 に帰 り、慶 暦 七

年(1047)二 月 二 十 一 日 を 以 て 、 霧 邑 県 永 太 郷 庫 抜 村 に 葬 る 。 故 人 焦 撲 実 、 其 の 墓 に 銘 す る 有 り 。 公 、 史 氏 を 癸 る 。 河 南 園 君 に 封 ぜ ら る 。 子 男 八 人 を 生 む 。 永 信 、 永 友 、 永 誠 、 永 堅30、 永 洗 、 永 圖 、 永 亨 、 永 宣 。 後 に 子 の 貴 き を 以 て 公 に 定 武 軍 節 度 使 を 累 贈 す 。 諸 孫 蕃 衛 し 、 碑 陰 に 譜 を 為 り 以 て こ れ を 系 す 。

大 観 二 年(1108)、 公 の 姪 孫 洵 は 皇 城 使 と 為 り 、 二 広 の 問 に 揚 歴 す31。 朝 廷 、 芳 宜 に 皇 城 君 を 選 任 す 。 口 草 従 し て 四 方 に 游 宙 し 、 族 中 の 旅 に 殖 し て 未 だ 葬 せ ざ る 者 六 十

お も

人 、慨 然 と して 恒 傷 し以 て 論 う。 朝 廷 恩 もて 本 州 兵 馬 鈴 轄 に移 る を許 す 。 族 を 聚 め

営 弁 す る に 、 富 者 は 貨 を 圃 し 、 貧 者 は 力 を 効 し 、 二 年 の 間 に 以 て 其 の 事 を 畢 る 。 夫 人 史 氏 は 是 に 国 っ て こ れ に 合 葬 す 。 且 つ 謂 え ら く 、 公 の 功 は 烈 な る こ と 彼 の 如 し 。

に 置 か れ て い る 。そ の 北 に 広 が る 、党 項 と の 戦 闘 地 域 こ そ 、高 継 嵩 が 赴 任 した 環 州 、慶 州 で あ っ た 。 25周 美

、 字 は 之 純 、 霊 州 回 楽 の 人 。 『宋 史 』 巻323に 本 伝 あ り。 本 文 で 「節 度 使 に 至 るJと あ り、

前 掲 『山 右 石 刻 叢 編 』 は 、 周 美 、 霊 州 、 回 楽 人 。 官 至 耀 州 観 察 使 、 馬 軍 副 都 指 揮 使 、 卒 贈 忠 武 軍 節 度 使 、 論 忠 毅 。 と 注 記 す る 。 な お 、 『宋 会 要 』 儀 制11‑17武 臣 追 贈 、 軍 職 観 察 使 に 、 馬 軍 副 都 指 揮 使 耀 州 観 察 使 周 美 、 皇 祐 四 年 九 月 、 贈 忠 武 軍 節 度 使 。 と あ り 、 追 贈 は1052年 で あ っ た 。

26浬 原 路 北 部 の 要 衝 が 鎮 戎 軍 に あ た る。『長 編 』 巻123、 宝 元 二 年(1039)五 月 丙 午 に は 、徒 環 慶 鈴 轄 高 継 嵩 為 浬 原 鈴 轄 。 と あ る が 、 お そ ら く は 知 鎮 戎 軍 に 任 じ ら れ 、 旧 例 に し た が っ て 浬 原 鈴 轄 を 兼 任 した の だ ろ う 。 こ の こ と に つ い て 、 『長 編 』 巻125、 宝 元 二 年 閏 十 二.月、 知 延 州 萢 雍 の 上 言 に 、 自 昊 賊 不 臣 、 邸 延 、 環 慶 、 浬 原 三 路 並 近 賊 界 、 河 南 麟 、 府 亦 接 連 延 州 、 最 当 要 害 。(中 略)其 浬 原 路 、 即 鎮 戎 軍 、 滑 州 、 城 壁 堅 固 、 屯 兵 亦 衆 、 復 有 弓 箭 手 、 蕃 落 騎 精 強 、 況 高 継 嵩 累 経 任 使 、 其 鯨 偏 稗 、 並 是 諸 処 選 換 之 人 、 兼 有 西 蕃 膳 藍 牽 制 、 賊 衆 不 敢 輻 進 。 と あ る 。 そ こ で は 、 浬 原 路 鎮 戎 軍 に は 弓 箭 手 、蕃 落 の 騎 兵 を 中 心 と し た 精 強 軍 が 配 備 さ れ 、そ れ を 選 り 抜 き の 部 将 た ち が 率 い て お り 、そ の 要 に 高 継 嵩 が い る と 述 べ て い る 。

27萢 仲 掩 の 高 継 嵩 へ の 評 価 に つ い て、『宋 名 臣 奏 議 』 巻 六 四 、 百 官 門 、 諸 将 、萢 仲 滝 「上 仁 宗 乞 督 責 管 軍 臣 僚 挙 智 勇 之 人 」に 、臣 窃 見 辺 上 将 帥 、常 患 少 人 。今 高 継 嵩 綾 亡 、人 情 頗 骸 。恐 鎮 戎 不 能 守 禦 。 云 々 。 と あ る 。 これ は 萢 仲 滝 が 知 延 州 で あ っ た 康 定 元 年(1040)九 月 の 上 奏 で あ る こ と が 知 られ て い る(『 萢 文 正 公 集 補 編 』巻 一)。 高 継 嵩 の 死 去 を 同 年 五 月 と す る 、こ の 碑 の 記 述 と も 一 致 す る 。 ま た 、 韓 碕 に よ る 高 い 評 価 に つ い て は 、 前 掲 『長 編 』 巻122、 宝 元 元 年(1038)八 月 丙 子 の 条 参 照 。 28病 気 に よ り 韓 碕 と と も に 使 者 を 辞 退 した とす る が 、前 注23の 『長 編 』 は 、 遺 矢 疑 獄 事 件 に よ り現

役 を 解 任 さ れ 、 副 使 と し て 契 丹 へ 派 遣 さ れ る 危 難 を 、 韓 碕 に よ っ て 救 わ れ た と 記 述 す る 。

29高 継 嵩 の 死 に つ い て、 『宋 会 要 』 儀 制11‑27、 観 察 使 追 贈 に 、 保 州 刺 史 高 継 嵩 、 康 定 元 年 十 一 月 贈 随 州 観 察 使 。 と あ る 。 前 掲 『山 右 石 刻 叢 編 』は 、碑 言 、継 嵩 卒 於 康 定 元 年 九 月 初 七 日。長 編 注 謂 、 康 定 初 、 継 嵩 死 於 鎮 戎 園 城 中 、 与 碑 適 合 。 朱 観 以 是 年 十 月 辛 卯 知 鎮 戎 、 即 代 継 嵩 。 蓋 其 卒 以 九 月 、 而 朝 廷 十 月 始 聞 之 耳 。 と 注 記 す る 。 な お 、 庫 抜 村 に 葬 む られ た 慶 暦 七 年 は1047年 。

30高 永 堅 継 嵩 の 第 四 子

。 『長 編 』 巻343、 元 豊 七 年[1084]二 月 丁 酉 に 、 以 蕃 官 如 京 副 使 高 永 堅 為 荘 宅 副 使 、 統 領 官 、 副 総 管 曲 珍 、 知 環 州 張 守 約 降 救 奨 諭 、 各 賜 銀 絹 二 百 。 非 漢 族 出 身 を 意 味 す る 「蕃 官 」 と 明 記 され て い る 。 ま た 、 蕃 官 荘 宅 副 使 高 永 堅 為 右 験 験 副 使 、 文 思 副 使 許 利 見 為 左 蔵 庫 副 使 、

内 殿 承 制 雅 爾 為 供 備 庫 副 使 、内 殿 崇 班 吹 恭 為 内 殿 承 制 。河 東 経 略 司 上 出 西 界 逢 賊 戦 功 推 賞 也 。(『 長 編 』 巻346、 元 豊 七 年 六 月 庚 寅)碑 陰 で は 、 内 殿 承 制 に 進 ん だ と あ る 。

31こ の 碑 文 の 書 を な し た 姪 孫 の 高 洵 に つ い て 詳 細 は 不 明 で あ る 。 二 広 は 広 南 東 西 路 を さ す 。 7

(8)

其 の 伝 無 き を儂 れ 、 碑 を立 て 以 て 其 の 墓 に 表 せ ん と欲 す 。 行 状 を 以 て 来 りて 文 を遽

に 求 む 。 遽 は 郷 里 の 後 進 な り 。 猶 お 公 の 二 季 、 永 奇 、 永 亨32を 圏 る に 及 ぶ も 、 今 皆 亡 し 。 永 奇 は 財 を 軽 ん じ國 を 重 ん ず 、渾 厚 な る 長 者 な り 。永 亨 は 沈 驚 に し て 好 く 謀 り 、 恢 廓 に し て 大 志 あ り 。 至 る 所 に 奇 功 を 立 て 、 尤 も 名 を 時 に 知 ら る,,亦 た 以 て 公 の 遺 範 を 概 見 す 可 し 。 亦 た 嘗 て 公 の 画 像 を 拝 す る に 、 真 に 一 時 英 偉 の 人 な り 。 辞 す る も 免 が る を 獲 ず 。 因 り て 為 に ロ ロ を 論 ず る こ と か く の 如 し 。

史 氏 謂 え ら く 、 三 世 将 と 為 る は 道 家 の 忌 む 所 な り。 東 漢 の 歌 氏 、 況 よ り 而 下 、 累 葉 功 名 を 以 て 自 ら 終 る33。 其 の 独 り能 く 当 時 に 隆 き は 量 に 徒 然 な ら ん や 。 定 国 公 を 観 る に 、 綴 州 を 保 全 し 、 五 県 の 衆 を 以 て 我 朝 に 帰 し 、 其 の 人 を し て 彼 の 凶 虐 を 去 り 、 復 た 王 民 と 為 さ し む 。 方 に 其 れ 迎 拝 鼓 舞 し 、 楽 し み て 皇 化 に 趨 く 。 其 の 功 徳 の 人 に 被 る はwに 窮 ま り あ ら ん や 。 宜 に 其 の 後 世 の 爵 緑 困 だXき ざ る な り。 天 の 人 に 報 ず る は 、 固 よ り 其 れ 理 な り。 銘 に 日 く 、

大 河 の 西 、 高 氏 世 よ 顕 る 。 赫 赫 た る 定 武 、 蚤 に 才 を 以 て 選 ば る 。 こ れ に 謀 る に 具 く 減 し 、 義 國 に 勇 な り 。 帝 用 て こ れ に 疇 い 、 こ の 方 面 を 委 ぬ ・ 公 の 未 だ 来 ら ざ る に ・ 犬 戎 難 を 適 え 、 公 の 既 に 来 ら ば 、 克 く 除 き 克 く 鶉 る 。 稽 首 し て 服 従 し 、 威 霊 大 い に 口 。 凡 そ 此 の 武 功 、 虎 臣 のaaた る な り 。 定 国 は 勲 賢 に し て 、 何 に お い て か 不 善 あ ら ん 。 緩 城 の 衆 、 そ の 塗 炭 を 免 が れ り 。wに 惟 だ 其 れ 免 が れ る の み な ら ん や 、 そ の 冠 冤 を 被 ら ん 。 施 あ れ ば 報 あ り 、 其 れ 報 は 必 ず 遠 く す 。 公 の 子 、 公 の 孫 、 公 侯 の 嚢

哀 た る な り。 忠 義 に 本 あ り 、 履 踵 を 慕 す 無 か ら ん 。 大 観 四 年(1110)十 一.月 二 日 立 石 、 郡 人 牛 美 刻 す 。

32高 永 亨 継 嵩 の 第 七子。 皇 城 使 嘉 州 刺 史 に 進 む 。 『長 編 』 巻235、 煕 寧 五 年(1072)七 月 己 亥 に は 、 折 克 篤 、曲 珍 、拓 践 忠 、李 顯 、燕 達 ら と と も に 、夏 人 と 商 議 し て 緩 徳 城 界 二 十 里 に 封 喉 を 修 置 し た 。

ま た 、『長 編 』 巻244、 煕 寧 六 年(1073)四 月 庚 辰 に 、供 備 庫 使 高 永 亨 遷 一 官 、減 磨 勘 二 年 。 高 永 能 遷 一 官 、 王 充 循 資 再 任 、 以 邸 延 路 経 略 司 言 、 永 亨 等 括 田 招 弓 箭 手 有 労 也 。 と記 す 。 さ ら に 、 『長 編 』 巻298、 元 豊 二 年(1079)五 月 己 巳 に 、 如 京 使 、 権 鄭 延 路 都 監 高 永 亨 先 次 衝 替 、 以 本 路 経 略 使 呂 恵 卿 奏 已 劾 治 永 亨 役 使 蕃 兵 不 平 、 及 職 事 弛 慢 也 。 と あ り 、 呂 恵 卿 と の 確 執 か ら 高 永 亨 は 解 任 さ れ る 。

こ の 呂 恵 卿 と の 一 件 が 高 氏 一 族 に 大 き な 影 を お とす こ と に な る 。『宋 会 要 』 刑 法3‑19。 神 宗 元 豊 三 年(1080)六 月 十 五 日に 、 次 の よ う に 記 す 。 如 京 使 高 通1.其 叔 永 亨 獄 中 訴 冤 文 字 二 十 二 紙 、 乞 移 永 亨 別 路 州 軍 待 報 、 免 為 呂 恵 卿 等 刑 禁 冤 死 牢 獄 。 上 批 、 永 亨 辺 遠 小 臣 、 犯 法 而 主 帥 治 其 好 状 、 尚 不 知 儂 、 乃 敢 飾 情 自 言 凶 頑 之 実 、 於 此 可 見 。 仰 見 勘 官 司 分 析 寛 縦 罪 人 漏 泄 獄 情 因 依 以 聞 。{乃将 来 遇 恩 不 原 。 こ の 記 事 に あ る 高 通 は 高 永 堅 の 子 で あ る 。 叔 父 の た め の 嘆 願 も か え っ て 藪 蛇 と な る 。 そ の 冤 罪 を 雪 ぐ た め 、 元 豊 五 年(1082)の 永 楽 城 の 戦 い へ 参 陣 す る が 、 そ こ で 高 一 族 は 多 く の 戦 死 者 を 出 す 。

永 楽 城 の 戦 い に お け る 高 氏 の 働 き に つ い て 次 の 記 事 が あ る 。『宋 会 要 』兵8‑29、 元 豊 五 年 九 月 の 沈 括 の 上 言 。(中 略)初 、 虜 兵 尚 遠 、 諸 将 多 請 撃 之 以 挫 賊 鋒 、 而 高 永 能 言 尤 切 。 禧 独 不 聴 。 及 虜 兵 大 至 、 極 目 不 見 辺 際 、 俄 而 鉄 騎 渉 無 定 河 。 永 能 又 日 、 此 号 鉄 鶏 子 、 過 河 得 平 地 、 其 鋒 不 可 当 、 乗 其 未 渡 撃 之 、可 使 繊 焉 。若 縦 之 尽 、則 我 師 殆   。禧 又 不 聴 、故 及 於 敗 。高 永 能 は 高 氏 一 門 と 考 え て お く 。 さ ら に 『宋 史 』 巻334、 徐 禧 伝 に は 、 永 楽 の 戦 い に お け る 大 将 高 永 亨 に つ い て 次 の よ うに 記 す 。 夏 兵 二 十 萬 屯 浬 原 北 、 聞 城 永 楽 、 即 来 争 辺 。 人 馳 告 者 十 数 、 禧 等 皆 不 之 信 、 日 、 彼 若 大 来 、 是 吾 立 功 取 富 貴 之 秋 也 。 禧 亟 赴 之 、 大 将 高 永 亨 日 、 城 小 人 寡 、 又 無 水 、 不 可 守 。 禧 以 為 沮 衆 、 欲 斬 之 、 既 而 械 送 延 獄 。 比 至 、 夏 兵 傾 国 而 至 、 永 亨 兄 永 能 請 及 其 未 陳 撃 之 。 禧 日 、 爾 何 知 、 王 師 不 鼓 不 成 列 。 禧 執 刀 自率 士 卒 拒 戦 。 夏 人 益 衆 分 陣 、 迭 攻 抵 城 下 。 曲 珍 兵 陳 於 水 際 、 官 軍 不 利 、 将 士 皆 有 催 色 。 珍 白 禧 日 、 今 衆 心 已 揺 、 不 可 戦 、 戦 必 敗 、 請 収 兵 入 城 。 禧 日 、 君 為 大 将 、 奈 何 遇 敵 不 戦 、 先 自 退 邪 。 俄 夏 騎 卒 度 水 犯 陳 。 邸 延 選 鋒 軍 最 為 驕 鋭 、 皆 一 当 百 、 銀 槍 錦 襖 、 光 彩 耀 日 、 先 接 戦 而 敗 、 奔 入 城 、 躁 後 陳 。 夏 人 乗 之 、 師 大 潰 、 死 及 棄 甲 南 奔 者 幾 半 。 こ の ほ か に 高 継 嵩 の 孫 の 世 代 で は 高 通 、 高 選 、 高 蓬 、 高 逢 ら が 永 楽 で 戦 没 し た こ と が 碑 陰 に 刻 ま れ て い る 。

33『 後 漢 書 』 列 伝9 、 臥 算 列 伝 の 論 に 日 く 、 三 世 為 将 、 道 家 所 忌 、 而 取 氏 累 葉 以 功 名 自 終 。 8

(9)

《碑 陰》

[第 一 段]

定 武 軍 節 度 使 高 公 墓 表 碑 陰

[第 二 段][第 三段][第 四段]

長 男 永 信(三 班 差 使 井 白氏 葬 従 西 第 二料 丙 穴)

孫 世 清(葬 従 西 下 第 四 料 壬 穴)三 子 惟 簡

世 萬(葬 従 西 下 第 四 料 甲穴)

惟 定

惟壷

四子 惟正 惟 岳 惟福

惟広

次 男 永 友(三 班 差 使 井 王 氏 葬 第 一 料 乙 穴)

孫 世 忠(葬 従 西 下 第 五 料 丙 穴)一 子 惟 甫 世 元(葬 従 西 下 第 五 料 壬 穴)一 子 惟 新

世 緒(葬 従 西 下 第 五 料 癸 穴) 二 子 惟 貴

惟 景 次 男 永 誠(三 班 借 差 井 郭 氏 葬 従 西 第 二料 壬 穴)

孫 世 明(葬 従 西 下 第 五 料 之 穴)一 子 惟 熊

世 徳(堂 葬 第 二 料 壬 穴) 一 子 惟 顯

9

[第 五 段]

三 子 居 口 居 迫 居 宝 三 子 居 口 居 本 居 仁 二 子 居 口 居 栄 一 子 居 ロ ー 子 居 □ 三 子 居 口 居 善 居 潤 二 子 居 口 居 口

一 子 居 □ 五 子 居 口 居 楊 居 譜 居 間 二 子 居 口 居 礼 一 子 居 □

五 子 居 口

居 遇

居 寛

居 口

居 ロ

ー 子 居 □

(10)

世 長(葬 第 二料 丁 穴)

世安

二子 惟 義

惟 師

三 子 惟 鎮 惟 俊 惟 用

二 子 居 口 居 順 二 子 居 口 居 雅 一 子 居 ロ ー一子 居 □ 三 子 居 口 居 平 居 弁

次 男 永堅(内 殿 承制 井 長 壽 県 君 趙 氏 葬 従 西 第 二 料 甲穴)

孫 通(従 七太尉 戦 残 永 楽)

選(従 七 太尉 戦 残 永 楽)

逡(従 七 太尉 戦 残 永 楽)

適(堂 葬 第 二 料 甲穴)

二 子 淵

湛 皆 堂 葬(闘)

二 子 澄(堂 葬 第 二料 口 穴)

演 一 子 居 □

二 子 浩 浦

次 男 永 洗(内 段 承 制 井 長 安 県君 魏 氏 葬 従 西 第 三 料 丙 穴) 孫遜(右 班殿 直 副 第 三 料 丙 穴)一 子 汚

逢(従 七太 尉 戦 残 永 楽)

次 男 永 奇(左 蔵 庫 副使 井 崇 徳 県 君 路 氏 葬 従 西 第 三 料 壬 穴)

孫 建 侯(左 班 殿 直 副 第 二 料 甲 穴)一 子 癸 一 三 子 発 沓 登 次 男 永 亨(皇 城 使 嘉 州 刺 史葬 従 西 第 三 料 甲穴)

次 男 永 宣(東 頭 供 奉 官 葬 従 西 下 第 四 料 丙 穴)

孫 建 初 一 子 緊

大観 四 年 十 一 月 二 日、 姪 孫 皇城 □ 、 晋 州 兵 馬 鈴 轄 、上 柱 国 洵 立 石 、 孫 婿 劉 術 書 朱 建 一 管 勾 刊 字

[以 上 、()内 は 小 字割 注]

文 字 の 異 同

上 ・下 か ら 字 目 拓 影 録 文 山 右

44 口 郡 郡

520 口 者 者

632 仕 仕

727}二

8 F 9 7fi 需 需

10l」[門+台] [門+台

直 隷 奮 州 志 X

者 仕 於

10

(11)

9 疇 疇 疇 酬

1215 口 坐 坐 坐

1415 襲 襲 襲 嚢

1513 美 美 美 な し

1518 口 降 降 除

1617 口 知 知 知

185 公 公 公 な し

1914 窪 窪 窪 宙

18[] 口 侯

27 揚 揚 揚 激

2018 至 口 口 至

2220 口 口 次 次

19 n 口 之 之

18 a 如 如 如

12 口 世 世 世

11 口 為 為 為

5 東 東 東

4 漢 漢 漢

2319 口 口 使 使

242 趨 趨 趣 趨

255 之 之 之 盗

11 干 於 干 於

14 具 具 具 其

269 門 口 [コ X

275 報 撮 報 X

289 忠 中 忠 X

上 表 は 碑 陽 の み 。 拓 影 、 録 文 と も に 『山 西 碑 硯 』、 山 右 は 『山 右 石 刻 叢 編 』 巻16 に よ る 。 そ の 他 の 略 字 、 異 体 字 な ど は 印 刷 、 表 示 可 能 な も の に 改 め た 。 な お 、 『道 光 直 隷 審 州 志 』 巻25の 録 文 で は 、1〜4お よ び26〜28行 目 は 省 略 さ れ て い る 。

山 西 の 大 姓 高 氏 の 記 憶

現 在 の 甘 粛 ・陳 西 か ら 山 西 に か け て 、 い わ ゆ る 中 国 の 西 北 地 域 に は 、 従 来 、 トル コ 系 を は じ め 、 チ ベ ッ ト系 の 部 族 が ゆ る や か に 進 入 し て い た 。 彼 ら は 主 に 軍 事 集 団 と し て 、 唐 か ら 五 代 、 さ ら に 北 宋 と も 様 々 な か か わ り を 持 っ た 。 た と え ば 、 北 宋 末 の 靖 康 の 変(1126〜1127)に お い て 、 宋 の 首 都 開 封 へ と 駆 け つ け た 、 山 西 の 紳 氏 や 眺 氏 、 代 北 の 折 氏 な ど も そ の 一 例 と し て よ い だ ろ う。

こ こ で 取 り 上 げ た 高 氏 は 、 北 宋 時 代 を 通 じ て 、 党 項 と の 戦 争 で 活 躍 す る 、 西 北 の チ ベ ッ ト系 豪 民 勢 力 の 一 つ で あ る 。 そ の 根 拠 地 は 、 は じ め は 繧 州 、 延 州 、 の ち に 平 陽 に 置 か れ た 。 繧 州 は 現 在 の 陳 西 省 繧 徳 付 近 に あ た る 。 い わ ゆ る 横 山 の 南 東 麓 で あ

り 、 当 時 は 宋 と 党 項 と の 係 争 の 地 で あ っ た 。

高 継 嵩 の 高 祖 に あ た る 高 思 禎 は 唐 代 に1r州 刺 史 に 任 じ ら れ て い る の で 、 す で に そ の こ ろ に は 一 勢 力 を 率 い て い た に ち が い な い 。祖 父 は 高 君 立 と い う 。 こ の 人 物 は 「領 軍 」 と 呼 ば れ た 。 そ れ は 非 漢 族 の 酋 長 が 宋 へ 帰 順 し た 時 に 任 じ ら れ る 右 領 軍 衛 将 軍

11

(12)

の 略 称 と も 考 え ら れ る 。

父 の 高 文 蛭 が 宋 か ら 繧 州 の 知 事 に 任 じ ら れ る の で 、 唐 か ら 五 代 を 経 て 宋 代 ま で 三 代 に わ た り 、 綴 州 を 中 心 と し て あ る 程 度 の 勢 力 を 維 持 し て い た こ と が う か が え る 。 し か し な が ら つ い に 転 機 が 訪 れ る 。 碑 文 に 、 高 文 蛭 が 「叛 莞 を 破 り 、 城 を 完 く し て 本 朝 に 帰 す る 」 と あ る 。 時 期 と 場 所 か ら 、 こ の ば あ い 「叛 莞 」 と は 党 項 の 李 氏 を 指 す と 考 え て よ い だ ろ う 。 唐 以 来 、 一 定 の 関 係 を 保 っ て い た 李 氏 と 高 氏 で あ っ た が 、 こ こ に 至 っ て 李 継 遷 と 対 立 し た 高 文 蛭 は 、 つ い に 庇 護 を 求 め て 宋 へ 帰 属 し た と い う 方 が 、 「叛 莞 を 破 り 云 々 」 と い う よ り も 実 情 に 近 い だ ろ う。 な ぜ な ら こ の 時 、 高 氏 一 族 は 糸r,.州を 離 れ 、 黄 河 を 東 に わ た り 、 本 拠 を 平 陽 へ 移 し て い る か ら で あ る 。 太 平 興 国 年 間(976‑984)の こ と で あ る 。 平 陽 は 山 西 省 臨 扮 市 の 古 名 で あ る が 、 現 在 の 雷 州 市 も 行 政 上 は 臨 扮 市 に 属 し て い る 。

辺 境 豪 民 の 懐 柔

北 宋 の 禁 軍 に は 、 明 ら か に 非 漢 族 を 意 味 す る と 思 わ れ る 蕃 落 を は じ め 帰 明 渤 海 、 吐 渾 小 底 、 吐 渾 直 、 檎 戎 、 三 部 落 と 号 す る 馬 軍 を 備 え て い た 。 ま た 地 方 で は 、 西 北 辺 境 の 現 地 民 を 郷 兵 や 土 軍 の か た ち で 編 成 し て 、 西 夏 へ の 防 衛 と そ の 地 の 治 安 維 持 に あ て て い る 。 そ う し た 必 要 も あ っ て 辺 境 地 域 に 勢 力 を も つ 豪 民 の 指 導 者 や そ の 子 弟 を 宋 の 下 級 武 官 に 任 じ る ば あ い が あ っ た 。 お そ ら く は 仁 宗 時 代 に 激 化 す る 西 夏 戦 争 に 前 後 し て 、 そ う し た 事 例 が 急 増 し 、 に わ か に 制 度 の 整 備 が す す め ら れ た よ う で

あ る 。 『長 編 』 巻132、 慶 暦 元 年(1041)六 月 己 亥 の 記 事 が そ の 参 考 に な る 。

西 北 辺 み な 蕃 兵 あ り。 蕃 兵 な る 者 は 、 塞 下 の 内 属 せ る 諸 部 落 を 以 て 団 結 し て 1/611

/‑iiiの 兵 と為 す も の な り。 莞 戎 の 種 落 は 相 い 統 一 せ ず 、 塞 を 保 つ 者 は こ れ を 属 戸 と 謂 い 、 蝕 は こ れ を 生 戸 と 謂 う。 陳 西 は 則 ち 秦 鳳 、 浬 原 、 環 慶 、 邸 延 。 河 東 は 則 ち 石 、 限 、 麟 、 府 。 其 れ 大 首 領 は 都 軍 主 、 百 帳 已 上 は 軍 主 、 都 虞 候 、 指 揮 使 、 副 指 揮 使 、 軍 使 、 副 兵 馬 使 と 為 す 。 功 次 を 以 て 補 さ れ る 者 は 刺 史 、 諸 衛 将 軍 、 諸 司 使 、 副 使 、 承 制 、 崇 班 、 供 奉 官 と 為 り 、 殿 侍 に 至 る 。

其 れ 本 族 巡 検 に 充 て ら る る 者 、 俸 は 正 員 に 同 じ く 、 添 支 銭 十 五 千 、 米 麺 簾 馬 は 差 あ り 。 刺 史 、 諸 衛 将 軍 と 為 る は 、 請 給 は 蕃 官 の 例 に 同 じ 。 首 領 の 軍 職 に 補 さ れ る 者 、 月 俸 銭 は 三 千 よ り 三 百 に 至 る 。 又 た 歳 ご と に 冬 服 綿 錦 炮 を 給 す こ と 凡 そ 七 種 、 紫 綾 二 種 。 十 将 而 下 は 皆 土 田 を 給 す 。

高 継 嵩 は 三 班 の 下 級 に 位 置 す る 右 班 殿 直 か ら 出 発 し て 、 左 班 殿 直 → 右 侍 禁 → 左 侍 禁 → 供 奉 官 → 内 殿 崇 班 → 内 殿 承 制 → 西 京 左 蔵 庫 副 使 → 昭 州 刺 史 → 保 州 刺 史 と 武 階 を 進 み 、 巡 検 、 都 監 、 鈴 轄 と 地 方 に お け る 軍 政 の 実 務 官 を 務 め た 。 彼 の 経 歴 は 、 ま さ に 蕃 族 の 首 領 や そ の 子 弟 が た ど る コ ー ス に ほ ぼ 一 致 し て い る 。 ま た 、 彼 が 率 い て い た と 思 わ れ る 兵 力 は お そ ら く は 蕃 兵 と よ ば れ る も の で 、 た と え ば 「浬原 路 蕃 落 指 揮 を 升 せ て 禁 軍 と 為 し 横 塞 の 上 に 在 ら し む 。」(『 長 編 』 巻104、 天 聖 四 年[1026]十 一一月 戊 午)と あ る よ う に 、禁 軍 に 格 上 げ さ れ 、宋 の 軍 事 体 制 に 編 入 さ れ て い っ た の だ ろ う 。

12

(13)

高 纏 嵩 の 死

高 継 嵩 は 父 祖 以 来 の 繧 州 出 身 の 魚 氏 、 葉 氏 ら を 中 心 と す る 自 前 の 軍 団 を 率 い て 常 に 前 線 に 立 ち っ づ け た 。 父 の 死 後 、 晋 州 兵 馬 監 押 と い う 下 級 部 隊 長 と な り 、 さ ら に 晋 州111¥州 同 巡 検 と い う広 域 武 装 警 察 隊 長 を つ と め る 。 こ の 時 捕 殺 し た 盗 賊 の 史 胡 子 な る も の の 詳 細 は よ く わ か ら な い が 、 あ る い は 高 一 族 が 平 陽 に あ っ た 在 地 の 旧 勢 力 を 排 除 す る 過 程 で 起 こ っ た 事 件 の 一 つ で あ っ た か も し れ な い 。

そ の の ち 彼 は 辺 境 の 任 務 に の ぞ む こ と に な り 、 沿 辺 巡 検 と し て 、 天 聖 四 年(1026) に 党 項 の 本 拠 で あ る 興 慶 府 の 東 南 に 接 す る 環 州 へ 赴 い た 。『長 編 』に 次 の よ う に あ る 。

環 州 縁 辺 巡 検 、 供 奉 官 、 閤 門 砥 候 高 継 嵩 等 に 器 幣 を 賜 う こ と 差 あ り 。 礪 爾 黙 族 の 辺 に 冠 す る も 、 継 嵩 等 は 衆 を 率 い て 捕 撃 し 労 あ る を 以 て な り 。(『 長 編 』 巻 104、 天 聖 四 年 六 月 癸 未)

環 州 は 現 在 の 甘 粛 省 環 県 で 、 当 時 は 陳 西 の 中 心 で あ る 永 興 軍 か ら 、 慶 州 へ さ ら に 西 北 の 環 州 を 経 て 、 党 項 の 本 拠 夏 州 へ と い た る 、 防 禦 の 最 前 線 に 位 置 す る 。 い わ ゆ る 横 山 の 西 南 地 域 で あ る 。 こ の 記 事 に あ る 璃 爾 黙(磨 摩)族 、 敏 珠 爾(明 珠)族 な ど の 諸 族 は 、 『長 編 』 巻101、 天 聖 元 年(1023)八 月 乙 未 の 記 事 で は 「属 莞 の 明 珠 、 磨 塵 族 し ば し ば 反 覆 し 、[劉]平 は 潜 兵 も て 数 千 人 を 殺 す 」 と あ る よ う に 、 宋 と 党 項 の 李 氏 と の 間 に あ っ た や は り 党 項 系 の 部 族 で あ っ た だ ろ う34。 碑 文 に は こ れ ら を 「吐 蕃 」 と ひ

と ま と め に す る 。 こ の 当 時 、 党 項 の 李 氏 に 対 抗 す る た め 、 宋 は 中 小 の 諸 族 を 味 方 に 引 き 入 れ よ う と し て い た 。 し か し 強 硬 に 反 抗 す る 明 珠 族 を 、 宋 軍 は し ば し ば 討 伐 す る も の の 、 明 道 元 年(1032)、 知 鎮 戎 軍 で あ っ た 高 継 嵩 が 明 珠 族 に 大 敗 し た こ と を も っ て 、 そ れ 以 後 、 明 珠 族 へ の 宋 の 武 力 制 圧 は 敬 遠 さ れ る35。 こ う し て 「吐 蕃 」 諸 族 を

こ と ご と く 宋 に 取 り 込 も う と す る 目 論 見 は 潰 え た 。

お わ り に

高 継 嵩 の 死 後 は 、 わ ず か に 子 の 高 永 亨 、 高 永 堅 ら の 名 前 が 煕 寧 か ら 元 豊 年 間 の 記 事 に あ ら わ れ る の み で あ る 。 注32に あ る よ う に 、 中 央 政 府 の 高 官 と の 確 執 か ら 、 高 永 亨 は 投 獄 さ れ る こ と に な る 。 追 い っ め ら れ た 高 一 族 は つ ね に 戦 場 に 身 を お く こ と に よ っ て し か 、 宋 へ の 忠 誠 を 証 明 で き な か っ た 。 こ の 碑 陰 に は 、 元 豊 五 年(1082)、

西 夏 の 猛 攻 に よ っ て 陥 落 し た 永 楽 城 の 激 戦 に お い て 没 し た 、 高 氏 一 族 の 名 が 列 記 さ れ て い る 。 永 楽 城 は 、 高 一 族 の 故 地 、 繧 州 北 辺 に あ る 。 西 夏 の 興 起 を め ぐ る 戦 い の 中 に 、 高 継 嵩 と そ の 兵 団 は 繰 り返 し 投 入 さ れ た 。 こ の 碑 に は 、 常 に 辺 境 の 戦 場 に 身 を 置 き 、 黙 々 と 闘 い っ づ け 、 や が て 一 族 の 力 は 徐 々 に 削 が れ 、 つ い に は 歴 史 の 舞 台

39『 涼 水 記 聞 』 巻9 、 環 原 州 之 問 、 属 差 有 明 珠 、 滅 威 、 康 奴 三 種 最 大 、 素 号 横 猜 、 撫 之 則 驕 不 可 制 、 攻 之 則 険 不 可 入 、 常 為 原 州 患 。 ま た 、『夢 漢 筆 談 』 巻13、 宝 元 中 、 党 項 犯 辺 有 明 珠 族 、 首 領 驕 桿 、 最 為 辺 患 。 ま た 梅 原 郁 『夢 漢 筆 談 』 訳 注(平 凡 社1979)第2冊78〜80ペ ー ジ 参 照 。 な お 、 『長 編 』 巻 101、 天 聖 元 年 八 月 乙 未 の 条 に あ る 属 莞 名 に つ い て 、 文 淵 閣 四 庫 全 書 版 お よ び 漸 江 書 局 本 に よ る 世 界 書 局 版 で は 薦 爾 黙 、 敏 珠 爾 とす る が 、 中 華 書 局 本 で は そ れ ぞ れ 、 薦 爾 黙 は 磨 魔 、 敏 珠 爾 は 明 珠 と す る 。 た だ し 、 上 記 『長 編 』 巻104、 天 聖 四 年 の 記 事 は 中 華 書 局 本 に も 璃 爾 黙 と した ま ま で あ る 。 35『 長 編 』 巻111 、 明 道 元 年[1032]九 月 甲 戌 。

13

(14)

か ら 消 え て い っ た 高 氏 一 族 が 残 し た 、 わ ず か な 記 憶 の 断 片 が 刻 さ れ て い る 。 『宋 史 』 に 高 継 嵩 の 伝 は た て ら れ て い な い 。

付 記 「河 南 ・山 西 地 区 の 多 民 族 融 合 社 会 史 の 研 究 一 石 刻 史 料 に よ る 中 国 地 域 社 会 史 解 明 の 試 み 一 」(平 成23年 度 科 学 研 究 費 補 助 金 基 盤 研 究(B)研 究 代 表:龍 谷 大 学 教 授 村 岡 倫)に よ り 、2012年3月 に 現 地 を 訪 れ 、 立 碑 の 歴 史 地 理 状 況 を 含 め 貴 重 な 知 見 を 得 る 機 会 に 恵 ま れ ま し た 。 ま た 中 国 の 現 地 調 査 で は 、 関 係 各 位 に 格 別 の ご 配 慮 を 賜 り ま し た 。 重 ね て 心 よ り 感 謝 い た し ま す 。

高継嵩略年表

年 年 令 官 遣(そ α)他)

981 (太 平 興 国1) 1 (誕 生)

994 13 父 高 文Xが 宋 に 帰 属

1008 真宗 の 東封 17 右 班 殿 直 正9

1011 扮 陰 の 祀 zo 左 班殿 直 正9

1015 定 国 遺 表(高 文 蛭 び)死) 24 右 侍 禁 正9 晋州 兵 馬 監 押 晋 限 同 巡 検

史 胡 子 を 倒 す 左 侍 禁 正9

供 奉 官 従8 秦 州 床 穰 塞 兵 馬 監 押 → 環 州 管 内 巡 検

1026 (天 聖4) 45 閤 門 砥 候 閤 職 環 州 沿 辺 巡 検 、 供 奉 官 、 閤 門 砥 候

晋 州 兵 馬 都 監 → 晋 州 等 州 都 巡 検 使 知 原 州 ・原 州 駐 泊 都 監 兼 沿 辺 巡 検 使

1032 (明 道1) 51 知 鎮 戎 軍

(明 道1.9) 内 殿 崇 班 正8 陳 州 駐 泊 都 監

内 殿 承 制 正8 知 火 山 軍

1038 (宝 元18) 57 礼賓 副 使 従7 知 環 州 ・邪 寧 環 慶 路 駐 泊 安 撫 都 監

遺 矢 疑 獄 事 件 西 京 左 蔵 庫 副 使 従7 (契 丹 国 信 副 使)

(宝 元L9) 領 昭 州 刺 史 知 慶 州 ・環 慶 路 鈴 轄

1039 (宝 元2.4) 58 定 仙 嶺 設 伏 を 献 策(環 慶 路 鈴 轄)

(宝 元2.5) 保 州 刺 史 知 鎮 戎 軍 浬原 路 鈴 轄

1040 (康 定1.9.7) 59 贈 随 州 観 察使 (死 去)

《 主 要 参 考 文 献 》

山 西 省 考 古 研 究 所 『山 西 碑 砺 』 山 西 人 民 出 版 社 出 版1997年

解 希 恭 ・張 新 智 編 『三 晋 石 刻 総 目 』(臨 扮 巻)山 西 人 民 出 版 社2004年 (清)胡 聰 之 撰 『山 右 石 刻 叢 編 』 石 刻 史 料 新 編(新 文 豊 出 版 公 司1977年)

(清)黄 復 生 ・黄 颯 聖 『(康 煕)鼎 修 雷 州 志 』 稀 見 中 国 地 方 志 涯 、刊(中 国 書 店1992年) (清)崔 允 昭 ・李 培 謙 『(道 光)直 隷 雷 州 志 』 中 国 地 方 志 集 成(鳳 鳳 出 版 社2005年) (清)揚 立 旭 ・ 白 天 章 『(光 緒)績 刻 直  ̄.…一州 志 』 中 国 地 方 志 集 成(鳳 鳳 出 版2005年)

(わ た な べ ひ さ し 龍 谷 大 学)

14

Figure

Updating...

References

Related subjects :