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Academic year: 2021

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中世の荘園における勢力関係の変化 園弓削島の荘園を事例にして‑

教科@領域教育専攻 社会系コース 堀 本 貴 央

序章

弓削島は愛媛県の東予にあり、周囲 20キ ロ、最大幅2キロの瀬戸内海上に浮かぶ小さ な島であり、それ故に、耕作面積は少なく、

一般的な米の荘園ではなく、塩の荘園として 存在していた。

本研究は、確立過程期 (1135 年~1203 年) までの、弓削島荘において、どのような勢力が 存在し、その勢力がどのように影響を与えてい たのか、勢力関係がいかに変化したのかを明ら かにしていくO

第1章確立過程期における社会の動向 弓削島荘の確立過程期は、権力最閥均1相次い で起きた時期であり、そのさえたるものが、源 平の内乱である。弓削島荘が歴史上確認できる のは、 1135(保延元)年からであり、鳥羽院に よる荘園急増の流れの中の荘園で、あった。鳥羽 院政期においては、すでに知行国主制が行われ、

院近臣を国司へと補任し、支配を広げていった。

その中でも、伊予国は安定した経済確保のため に重要な国で、あった。

後白河が実権を握ると、 1156(保元元)年間 9月新制などを発布し、天皇家が専制君主であ ることなどを宣言した。そのような中で、平治 の乱・保元の乱をきっかlナとして、平清盛が中 央政界で、主導的な立場へとのぼりつめていく。

清盛は、知行国を一門で持ち合い、知行国や荘 園の数を増大させ、伊予国もその中の1つであ った。

指 導 教 員 大 石 雅 章

1185 (元暦2)年に、壇ノ浦の戦いで平氏は 滅亡したが、源頼朝は治承・寿永の内乱に乗じ て、平家・謀反人等の追討跡に地頭を補任し、

支配を拡大していった。頼朝は伊予国の知行国 主となったが、任期は短く、弓削島荘において、

地頭が補任されるのは少なくとも 1221(承久3) 年以後のことである。

第2章確主晶程期にみられる勢力

弓削島荘において、1135(保延元)年から1170 (嘉応 2)年までの荘園領主を史料上特定する ことができないが、鳥羽院の近臣が、命に従っ て外題を出していること、住人百姓等が院に、

救済を求める史料が確認できないことから、鳥 羽院を本家とは考えにくいものの、弓削島荘に おいて大きな影響力を持ち得ていた。荘園領主 が明らかとなるのは、1171(承安元)年であり、

平氏とつながりの強い藤原綱子が荘園領主とな っている。平氏滅亡後、藤原綱子は、後白河完 へと弓削島荘を寄進し、ここにおいて、後白河 院を本家、綱子を領家とする荘園体制ができあ がる。

国司については、弓削島荘に関係する史料か ら、「藤原忠隆J

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高階盛章J

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藤原能盛J

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藤 原 親信J

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高階泰経Jが確認でき、平氏勢力が介入 してきたことで、院の近臣だけでなく、平氏勢 力が確認できるようになる。また国語市人につ いては、姓名のわかる「俊清朝臣J

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平国景」と いう人物が確認でき、俊清朝臣は伊予国の在地 勢力である新居氏の一族であると推測される。

(2)

- 268 - 姓名は確認できないものの、国

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苛宮人の入部を 確認することができる。

住人百姓等は史料から、12名の住人が登場し ており、これらの人物が角平伏をしたためる上で の中心的な前生で、あった。さらに、その中には、

下司平助道という人物がみられ、下司という荘 官的な立場から権力をもっていたといえ、さら に、島の3分の1の耕作面積を有する末久名が、

助道の給田畠で、あったことから、かなりの経済 力も持っていたといえる。

第3章確部品程期における勢力関係

弓削島荘は、国司を介して、中央の権力者が 関係していた。特に、その中央権力は、天皇家 と平氏であり、弓削島荘は、この2つの勢力の 中で揺れ動いている。1135(保延元)年から1170

(嘉応2)年までは荘園領主が明らかではない ものの、鳥羽院やその近臣が外題を行い、平氏 勢力が介入した時期には平清盛が命令し、その 家司が外題を下している。 1171(承安元)年に は、平氏とつながりの

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齢、藤原綱子が荘園領主 となり、平氏滅亡後には、後白河を本家とする 荘園体制へと変化をしている。

国司と国語

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宮人の関係、は、対立しているよう にみえる。国司の命に従って行動するはずで、あ る国

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官官人であるが、弓削島荘においては、国 司の意に背き、島に入部を繰り返している。国

?官官人の入部のねらいは史料上では、一国平均 役の徴収であると確認できるが、田地の面積の 少なさから、違うねらいがあると考えられる。

その一つの見解として、平氏の国梧古人の拠織 化という見j韓があるが、弓削島荘では常に国衛 官人の押領を停止させようと、外題を出してお り、平氏の家人掌握の鵬号性が表れているとし、

う見解もある。さらに、 1171(承安元)年以後、

弓削島荘が平氏を後ろ盾とする荘園へと向かう

中で、国街勢力を介入させる必要はないと考え られることから、平氏と国街古人は協調と対立 をしながら、弓削島荘を支配した。

国街の非法に対して、住人百姓等は、院宣や 庁宣を盾にしながら、粘り強く対応しており、

時には逃散をほのめかすなどしたたかな動きを 確認することができる。そうした動きは、下司 平助道を中心として、住人百姓等が結合してい たからである。また、荘園領主について確認し てみると、角平伏の中で、荘園領主を示す言葉が あまり確認できず、藤原綱子が荘園領主となっ て、解伏の数料胤〉したことカもすると、少な くとも、 1171(承安元)年までは、荘園領主の 支配は及んでいなかったといえる。

終章確封晶程期における勢力関係の変化 解伏の出された頻度の違い、国語市人の性質 の違いなどから、確立過程期を1つの区分とし て把慢することは難しく、確立過程期を「在地 勢力介入期J

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平氏勢力・在地勢力混合期J

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荘 園領主確立期」にさらに区分すべきである。

荘園領主と中央勢力の開系の変化に注目する と、「在地勢力介入期J

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平氏勢力・在地勢力混 合期Jの藤原綱子が荘園領主となるまでは、荘 園領主は、弓削島荘の支配に深く関わらず、遊 離した状態にあった。そのため、住人百姓等が 院や国司へと解伏をしたため、救済を求めたと しても、国街支配と対時し、荘園として確立す る根本的な解決には至らなかった。

しかし、荘園領主が、藤原綱子のように中央・

国家権力と結びつくようになったことで、国街 勢力に対し、領主権を行使しえたのである。荘 園制・荘園領主権は、国家体制・国家勢力を基 盤として、農民層・在地勢力を支配していたの であり、在地の変化に対して敏感に反応しなけ ればならなかったといえる。

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