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佛教大学総合研究所紀要 2006(別冊)号(20061225) 073安達俊英「法然『一枚起請文』の文献的性格 (浄土教典籍の研究)」

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全文

(1)

法然

出立官

の文献的性格

はじめに

認可 八巻伝﹄巻四五の記述︵弁 枚起請文﹄は一般的に 川 定 慶 一 編 ﹃ 法 然 上 人 低 金 集 ﹄ ︵ 以 下 ﹃ 法 伝 全 ﹄ と 略 ︶ 一 一 八 四

i

二 八 五 頁 ︶ 、 及び黒谷金戒光明寺に伝わる伝法然自筆本に記す 二 年 正 月 二 十 三 日 ﹂ という日付に基づき、法然上人がな くなる二日前に源智の要請によってしたためられた﹁御遺制﹂ と さ れ て い る 。 し か し な が ら 、 ﹂のような定義した伝承とは裏 腹に、学問的レベル ︵ 文 献 学 的 視 点 ︶ で﹃一枚起請文﹄を論じ ょうとする場合、本文献がかなり多くの問題をはらんでいるの は確かである。例えば、諸本のテキストの相違や低一本の問題、 それと関連する添え書きの問題や金戒光明寺所蔵倍法然真筆本 の真偽の問題、タイトルの問題、伝承者の問題、執筆︵成立︶ 年代についての問題、更には文献的性格の問題、 そしてそれと ,_L・ー

tチ凸

1

も関連する内容解釈の歴史的展開の問題など、種々の問題が列 挙 で き る 。 そのような中にあって、本稿においては、 まず始めに諸本の 整 理 を 行 い 、 その上で伝承者の問題やタイトルの問題などにも しながら、主としては文献的性格の開題に関して検討を行 うこととする。特に本文献が本来的に﹁起請文﹂ の性格を鍛え ているのか またその後この文献に対する受け取り方がどのよ うに変化していったのかという点を中心に、論を進めてゆきた し、

諸本の一覧・分類

﹃一枚起請文﹄の諸本は、江戸期以緯のものを除いても相当 数、現存する。既にその一覧は林彦明、 王山成元の各氏によっ

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併 殺 大 学 総 合 研 究 所 紀 要 別 冊 ﹁ 浄 土 教 典 絡 の 研 究 ﹂ て作成されているが、遺漏があったり、間違いが含まれていた りするので、私なりに作成し直したのが、以下の表である。 覧の作成にあたっては、江戸期以前に作成されたと考え られる諸本をできうる限り集め、それらをおおよその成立順に ︵ 3 ︶ 列挙することにした。成立年代の不明確なものは、最後にまと 本 め て い る 。 また、文献名の前が数字ではなくアルファベットと なっている項目は、三枚組詩文﹄の本文そのものを掲載する ことはないものの、何らかの形でそれに言及している書物、も ﹃一枚起詩文﹄諸本一覧 所 収 テ キ ス ト ・ 書 写 本 咽 清浄華民他 龍 谷 大 学 龍 谷 大 学 堂本四郎氏 法 然 続 ・ 大 正 大 学 他 知恩院 常 楽 ム 口 常 楽 ム 口 知恩院 ︵ 江 戸 期 刊 本 ︶ ︵ 江 戸 期 刊 本 ︶ 所蔵者 ー 、 聖 光 2 、 道 光 ﹃ 和 認 後 録 い 3 、 道 光 一 ﹁ 和 語 燈 録 ﹄ 巻 五 4 、 司 弘 顕 本 ﹄ 巻 二 5 、 ﹃ 九 巻 伝 ﹄ 巻 七 下 6 、 ﹃ 四 十 八 巻 伝 ﹄ 巻 凶 五 7 、 ﹃ 存 覚 始 日 記 ﹄ 在 、 同 4 存 党 袖 臼 一 記 ﹄ 8 、 貞 治 版 ︵ 新 摺 ︶ b 、 聖 問 ﹃ 一 枚 起 請 之 設 b c 、 壁 際 ﹃ 一 一 枚 起 議 見 開 ﹄ ー ヒ gg しくは吋 枚起請文﹄の注釈官官一であることを意味する。これら はタイトルを伺うためにあえてこの表の中に入れた。更に︹ 示 す 。 ま た で固まれたタイトルはそれが通称として用いられていることを ︶で囲んだタイトルは最初からそのようなタ イトルが付されていたのかどうか、 不確かであることを表す。 智系に分類した。 次に分類に関してであるが、本文の違いによって盟諸光系と源 は玉山成元氏も時様の分類をされている が、氏は伝真筆本などに付される﹁為証以両手印一一以下の﹁添 成 立 ・ 書 写 年 代 一 二 一 一 八 一 二 七 五 一 二 じ 瓦 一 一 一 一 世 紀 後 半 一 四 肢 紀 前 半 一 四 段 紀 前 半 二 一 一 六 三 一 六 五 頃 一 一 三 ハ 七 一 三 六 五 ︵ ﹀ ︶ 一 回 世 紀 末 一 五 位 紀 前 半 タ イ ト ル ︵ 無 題 ︶ 御 誓 晋 口 の 書 ︵ 無 題 ︶ ︵ 無 題 ︶ ︹ 一 枚 消 怠 ︺ ︹ 一 枚 消 息 ︺ 法 然 上 人 御 起 論 文 御 誓 言 書 ・ ︹ 一 枚 消 怠 ︺ ︵ 泉 谷 上 人 起 詩 文 ︶ 一 枚 起 請 e ︹ 起 詩 文 ︺ 一 枚 起 請 分 類 源 日 朝 m x 源 知 日 X 源 知 B X 滋 知 u x

(3)

d 、隆発議写芸市導寺御消息﹄所収本奥書 叩 、 際 発 ︵ ? ︶ 日、足利義政 E 、一休宗純﹃狂雲集﹄巻下 辺 、 一 休 宗 純 ︵ 版 本 新 聞 拍 ︶ 日、足利義槌 弘、後柏原天皇 f 、後柏原天皇女房奉議 g 、﹃実践公記﹄大永四年六月六日条 h 、 翌 聡 ︵ ? ︶ ﹃ 浄 土 一 一 一 国 仏 複 伝 集 ﹄ 巻 下 P ﹁ υ

ハh u

口 、 足 利 義 嗣 即 時、足利義姉 山 口 、 道 残 初、貞安 れ 、 問 問 感 辺、宗演 お 、 正 胡 税 対 詩 人 皇 ︵ 日 ﹀ 位、伝隆寛作﹃法然上人伝﹄ ぉ 、 伝 法 然 十 共 同 京 本 路、伝法然真祭本 U 、伝聖光書写本 法 然 ﹃ 一 枚 起 筒 ヌ 中 の 文 献 的 性 格 浄厳院 伊藤真徹氏 知思続 奥村重兵衛氏・関恩庵他 京都誓願寺 知恩院 知 囚 仙 寺 知恩寺 東大史料編纂所 禿氏祐祥氏他 鎌倉光明寺 和泉長泉寺 知恩院 知 関 仙 波 越 前 関 ⋮ 福 寺 八幡問光寺 浄厳院 越前西福寺 知怒院 静 岡 智 満 点 守 ︵ 天 台 宗 ︶ 金 戒 光 開 問 寺 菜生光明寺 越前回福寺 一 回 一 一 五 一 五 位 紀 前 半 ? ・ ︶ 一 四 五 一 二 一五世紀後半 一 問 中 ハ 八 ︵ ? ︶ 一 疋 二 一 一 一 五 二 二 一六位紀前半 一 五 二 回 一五二回以降 一六世紀前半 一 玄 関 二 一 五 五 回 一 五 六

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一六位紀後半 二 ハ 世 紀 後 半 十 一 五 七 九 一 五 九

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一 双 九 三 一 枚 起 請 ︵ 黒 谷 上 人 起 詩 文 ︶ ︵ 無 題 ︶ 一 枚 起 請 ︵ 一 枚 起 請 文 ︶ ︵ 無 題 ︶ ︵ 無 題 ︶ 一 枚 起 詩 一 枚 起 諒 一 枚 起 請 一 一 枚 起 詩 文 黒谷上人起請文 ︵ 無 題 ︶ ︵ 無 題 ︶ 一 枚 起 詩 文 一枚起詩文 ︵ 無 題 ︶ 一枚起請文 ︵ 無 題 ︶ 起 詩 文 ・ ︹ 一 枚 の 消 息 ︺ 一枚起請文 一 枚 起 請 文 一 枚 起 請 文 源管 x 源智 x 源智 x 源 知 百 X 源 日 相 官 X 源 日 明

H

O

源 知 官 X 源智 x 源智 x 源智ム ︵ 未 縫 認 ︶ 滋 智 ︵ ︶ 瞭 盟 否 源智 x 閣 制 都 否 関 盟 百 源 内 制 官 。 一 七 五

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岬 問 教 大 学 総 合 研 究 所 紀 前 芦 別 限 一 i 浄 土 教 典 絡 の 研 究 一 部分を欠くものを霊光系、有するものを源智系として お ら れ る 。 しかしながら、聖光が倍承したことを明言する 導寺御消怠﹄所収本︵これを﹁聖光

a

﹂ と 表 記 ︶ や 和語燈 録﹄巻五﹁霊光上人伝説の詞﹂所収本︵これを﹁霊光 b ﹂と表 記︶と、源智桔承を明言する吋和語燈録﹄巻一・吋九巻低﹄・ ﹃四十八巻伝﹄所収本などとを比較した場合、そこにはテキス ト の に明確な違いがあるので、私は本文テキストの奥向に 基づいて霊光系と源智系に分類した。 その異関の詳細については後ほど述べるが、 その源智系の中 で も ま た 、 一 添 え 骨 一 回 き ﹂ を 有 す る も の と そ う で な い も の に 別 れ る の で 、

え を欠くものには×、有するものには

O

︵更に腎頭の題号の下に﹁源空述﹂と記されているものは@︶、 日付のみの添え書きがあるものにはムを付した。また、聖光も し く は 漉 智 へ の 相 承 を 添 え 世 帯 き 等 で 明 言 す る も の は 、 型 車 光 ・ 源 智の名を四角で臨んだ。 さて、以上の一覧表からまず分かることは、 その多くが鎮西 系の文献に引用されるか、主として鎮西系の僧倍によって −註釈されているにもかかわらず、聖光系のテキストは広ま ることなく、源智系のテキストのみが後世に伝承されていった と い う 事 実 で あ る 。 その理由として考えられるのは、 一つには源智伝承本が法然 七 ノ、 の 臨 終 近 き 頃 に 遺 の 如 く し て 授 け ら れ た と い う 伝 承 ︵一四十八巻伝﹄巻四五、﹃九巻倍﹄巻七下︶を有することが挙 げ ら れ よ う 。 やはり遺一言の如き法語ということであれば、法然 門弟の者にとっては、特別な意味を有しているといえるからで ある。そしてもう一つの理由としては、源智伝承本のみに の蜂れみにはずれ﹂云々の一文が存在することが指摘できよ ぅ。この一文を法然自身の ﹁ 起 語 ﹂ と み な す な ら 、 そ の法語の重要度は格段に増すからである。 そこで以下において、鎮西系と源智系ではどのように異なる のかを、もう少し詳細に見てゆくことにする。 そ の 捺 、 ま ず 吋和語燈録﹄に所収されている源智系テキストと聖光系テキス トの比較から始めるのがよかろう。なぜなら、 どちらも﹃和語 燈録﹄所収本だからである。なお、以下の引用の中で、波線の 方にのみ見られ他方に見られない筒所、実線の傍線は 傍線は 相互に対応する部分はあるものの、表現が異なる箇所を示す。 ︹ 資 料 1 ︺ 吋 和 語 燈 録 ﹄ 巻 所 収

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源智系

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①もろこしわか朝叫、もろもろの智者たちの沙汰し中さる る 観 念 の 念 に も あ ら す 。 ②又学問をして念の心をさとりて申す念仏にもあらす。 ③たた柱生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申してうたか

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ひなく註生するそとおもひとりて申すほかには別の子縮 開 出 制 。 ③ た た し = 一 心 四 修 な ん と 申 す 事 の 候 は 、 みな決定して、南 ⑤ 』まjこ

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一 ︷ 一 ー 幕 m u i 概 創 出 科 目 明 叫 ⑤ 念 仏 を 信 せ ん 人 は 、 たとひ一代の御のりをよくよく学す と ・ も 、 文不知の愚鈍の身になして、足入道の無智のと もからにおなしくして、智者のふるまひをせすして た た 向 に 念 仏 す へ し 。 ﹂ れ は 御 自 筆 の り。勢観聖人にさつけられき。 ︵ 龍 谷 大 学 本 叢 日 ﹃ 間 一 一 ⋮ 谷 上 人 語 燈 録 ︵ 和 語 ︶ ﹄ 五六五真下

1

五 六 六 ︹ 資 料 2 ︺﹃和語燈録﹄巻五﹁聖光上人伝説の 所 収

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聖光系

bi

− − 上 人 の の 給 は く 、 ①創似創出出射す事山、もろこしわか輔副、もろもろの智 者たちの沙汰し申さるる観念の念仏にもあらず。 。又学問をして念仏の心をさとりとほして申す念仏にもあ 法然円一枚起請文﹄の文献的性格 ら す 。 ③ た た 属 製 出 ︻ ∼ 白 明 以 創 出 制 阿 南 無 阿 弥 陀 仏 と 申 て 、 う た かひなく往生するそとおもひとりて申すほかに別の事な しj ④ た た し 一 一 一 心 そ 四 修 そ な ん と 申 事 の 候 は 、 U 4 十 以 南 無 阿 粥 陀 仏は決定して往生するそとおもふうちに料出記村民。 信 し と る ぺ 叫 引 世 。 ⑤念仏を信せん人は たとひ一代の御のりをよくよく学し きはめたる人なりとも、文字一もしらぬ愚痴鈍根の不覚 叫謝になして、尼入道の走智のともからに材料謝出おな しくなして、智者のふるまひをせすして、たた 向に南 無 阿 弥 陀 仏 と 山 中 て そ か な は ん す る と 。 ︵ 龍 谷 大 日﹃黒谷上人語燈録︵和語︶﹄ 本 叢 六 六 二 真 上 ︶ 両者の違いは、波線・実線の傍線部分であるが、これらの違 いのうち、後掲の塁間導寺制御消息﹄︵﹁聖光三︶とも共通する 相違箇所、即ちいわゆる聖光系には共通するが、源智系とは栢 違する筒所は以下の通りである。 七 ヒ

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帥 仰 教 大 学 総 合 研 究 所 紀 要 泌 m m ﹁ 浄 土 数 政 ︵ 務 の 研 究 ﹂ 聖光系 念仏往生と申ことは 観念の念仏 念仏の心 さとりとほして せんがために 別の事 コ 一 心 そ 田 修 そ おさまれり 文字一もしらぬ愚擦鈍根の不覚の身 わか身を 南無阿弥詑仏と市中てそ、かなはむする 以 上 の 表 現 は 、 源智系 ︵ 欠 ︶ 観念の念 念の心 別 の ・ さ の た と 子 ・ め り 縮 ・ に て は− 文・も・心 不・り・四 知・{民・修 のな・ 愚 り ・ 鈍 の 身

1ょ、− す− """ 聖光系・源智系のそれぞれに特有の表現であ り、聖光系か源智系かを分別するメルクマ

i

ルとなるものであ る。ただし、これらの相違は基本的には、内容の違いというよ り、表現の違いといえる。それに対して、右記の表には示され ていないものの、両者で最大の相違箇所といえる⑤の一文は、 まさしく内容上の違いである。 ただし、この は、後ほど、詳しく行う。 についての検討 なお、源智系の諸本の中にも本文に関し細かな違いはあるも ー と ; \、 ﹁南無阿弥陀仏と申して﹂と﹁荷無 の の 、 ﹁ 尚 子 関 ﹂ と 阿弥陀仏と申せは﹂といった細かな違いであり、源智系の諸本 の 場 合 、 やはり最大の違いは﹁添え書き﹂ の有無ということに な ろ う 。

タイトルに関して

さて、本稿では主として、この﹃一枚起請文﹄が本当に の要素を持つのかという問題を論じるのであるが、 そもそもこの文献が ﹁ 起 請 ﹂ であるという認識は、 古 4 m ずはそのタイトルに由来するといえる。 ところが、既に指摘されているように、本選文には本来、 タ イトルは付されていなかったと考えるのが自然である。初期の ﹁法然上人制御起詩文一といった呼称は、敬 の と お 、 語が用いられている放に後世の者が付したタイトルであること は 明 白 と い え る 。 枚消息﹂という呼称も、 ま すこ 吋四十八巻倍﹄吋存覚袖日記﹄のいずれにおいても、 それが世間 での通称であることを間切言している。更に 一枚起請﹂という タイトルも、法然滅後一五

O

年以上後の聖隠﹁ 枚 起 請 之 註 ﹄ が初出である放に、 オリジナルなタイトルとは考えにくい。 一枚起請文﹂というタイトルについても、金戒光明寺所蔵の

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伝真筆本が本当に真筆本であるならそれが本来のタイトルとい え よ う 、 か 、 一一枚起請文﹂というタイトルは初期の文献・写本 t主 切現れない故に、これまた最初から存した題号と 難 い 。 一覧表から分かるとおり、一一枚起請文﹂というタイト ルは、源智系でしかも一添え書き﹂を有する写本のみに現れる タイトルであって、年代のある程度限定できる文献・写本とし て は 一 国 仏 祖 伝 集 ﹄ 巻 下 ︵ 一 五 一 一 四 年 以 降 成 立 ︶ 所 収 の もしくは尊鎮法親王 ︵ 一 五

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1

一 五 五

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︶書写本が初 出 で あ る 。 はその改行や体裁からして明らかに倍真 第 一 十 本 を 写 し た も の で あ る の で 、 伝 習 一 六 筆 本 の 成 立 は 一 六 世 紀 前 半 か、それを少し湖る頃と推察されよう。 よ っ て 、 一覧表やこれまでの検討からそのタイトルの変遷を まとめると、以下のようになる。即ち、﹃一枚起詩文﹄の原本 ︵ お ︶ にはもともとタイトルは付けられていなかったが、後世の人た ︵ む ︶ ちが便宜上、ご枚消息﹂などと呼び噴わすようになり、更に 一回世紀頃からは﹁法然上人︵黒谷上人︶起請文﹂などという タイトルも見られるようになる。そして一五世紀に入ると 枚起藷﹂という呼称も現れ、 一六世紀初頭の前後くらいから ご枚起請文﹂という呼び方が使われだす。そして江戸時代に なるとこれが一般的になって、今日に至ったと。 いずれにせよ、﹃一枚起請文﹄の原本には一切、 タイトルが 法然可一枚起詩文一の文献的性格 付けられていなかったのは間違いない。 よ っ て 、 この文献が ﹁ 起 請 ﹂ といえるか杏かについて論じようとするなら し 、 ば、まずは タイトルに起因する先入観を排して、本文の ム 山 F雨

内容そのものから判断されるべきといえる。

聖光系の検討

さて、後世にとはいえ、本文献が ﹁ 起 請 ﹂ と 認 識 さ れるに至ったのは、源智系のテキストにみられる⑤﹁このほか に お く ふ か き 事 を 存 せ は 、 一 一 尊 の 御 あ は れ み に は つ れ 、 本 願 に もれ候へ という一文に起因するのは確かである。 ところ が、この部分が聖光系では大きく奥なる。まず霊光系のうち、 ﹃ 和 語 燈 録 ﹄ 所 収 本 ︵ ﹁ 霊 光 b ﹂ ︶ で は 、 ﹂の部分は﹁たた南無 阿弥詑仏と申せは、決定して往生する事なりと信しとるへき 也﹂となっており、弟子等に対して念仏往生の確実性を確信す るようにという﹁教誠 と み な せ 、 一 ー 起 請 ﹂ の 意 味 合 い は 全 く な い 。 それに対し、向じ聖光系でも吋善導寺御消息﹄︵

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一 ︶ ではそのあたりのところが か 徴 妙 で あ る 。 ﹁ 善 導 寺 制 御 消 息 ﹄ とは、法然滅後の安貞二年︵ 一 二 八 ︶ 、 製 光 が あ る 人 か ら 法 然の教えとはどのようなものであったのかを関われて、 そ れ に 七 九

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併 殺 大 学 総 合 研 究 所 紀 前 官 則 的 情 一 浄 土 数 典 籍 の 研 究 答える形で吋 枚起語文﹄の内容を紹介した文献である。

っ て、本テキストには聖光の詞と法然の詞とが混在するが、吋 枚起語文﹄の引用詰所においてさえ、 その混在が見られ、複雑 な構造となっている。以下におおよそ三枚起請文﹄に相当す るとみなせる部分のみを引用する。なお、波線の傍線は源智系 の﹁御誓言の ︵ ﹃ 和 一 語 燈 録 ﹄ 巻 一 所 収 ︶ には見られない部 分、実線の傍線はそれと相違する部分である ︵ た だ し 、 聖 光 の 詞と考えられる部分は比較の対象から除く︶。 ︹ 資 料 3 ︺ 聾 光 ﹃ 善 導 寺 御 消 息 ﹄ ︵ 徳 富 本 ︶ 所 収

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霊 光 系

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i

[ ①割引似出射付対判バ倒可パ川、故法然上人ノ御房ノ候シ モロコシ我朝ニモロモロノ智者達ノサタシマウサ ル、観念ノ念仏ニモプラス。 ②酬明い克ヲシテ念仏ノコ、ロヲポぃリトヲシ久マウス念仏ニ モ プ ラ ス 。 ③ 夕 、 往 生 援 楽 利 一 円 引 ぺ M K I 川斗ナモアミタ仏トマウシテ、 ウ タカヒナク註生スルソト思トリテ、 マウシ侠ホカニヘツ ノ コ ト 侯 ハ ス 。 ④ 夕 、 シ 一 一 一 心 ソ 四 修 ソ ナ ム ト マ ウ ス ノ侯ハ、ミナ決定シ テナモアミタ仏ベ往生スルソト思ウチニ判明引 iMJ 引 。 ⑤コノホウシモヨクヨクナラヒ侯テノチニ思アハセ、放ヒ 八 0 シ リ ノ 御 一 房 モ ヲ ホ セ ラ レ ヲ ホ セ ラ レ テ ハ 、 判 叫 判 利 ベ 制 題 、 百 円 割 刑 判 別 川 割 引 川 村 、 汁 ム ト レ ト コ ソ 候 シ カ 、 コノホカニヲクフカキコトノアルソトハマタクヲ オ セ 候 ハ ス 。 モシソレコノホカニヲクフカキ事ノアルソ ト モ 、 ヒシリノ御麗ノヲ、セコト候ハ、、 アミタ仏ト釈 迦仏トノヲムアハレミマカリカフリ候ハシ。 又念仏守護 ノ ホ ム テ ム 、 タイシヤクノヲムハチフカクアタリ候ハ ム

⑥念仏ヲ信シタマハム人ハ、 一 代 ノ ミ ノ リ ヲ ヨ ク 学 シ ナ 一 フ 対 訊 ベ ︻

1 4

シ ラ ヌ ク μ 引パ身トナシテ、足入選無智ノトモカラニワカミブ例外 テ、智者ノフルマイナカクセスシテ、 ミタ仏トマウシテソカナハムト。 夕、一向ニナモア ︵石井教道一綿吋昭和新修法然上人全集﹄︵以下吋昭法 全 ﹄ と 略 ︶ 四 三 一 一 一

1

四 三 五 頁 ︶ ①の部分においても﹁故法然上人ノ御一房ノ候シハ一という聖 光の詞が挿入されているが この他に襲光の詞が混在するの は、今問題としている⑤の部分である。そこでもう一度⑤の部 分だけ引用して、私が聖光の詞と考える部分に点線の傍線を施 す こ と と す る 。

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︹ 資 料

4

︺ ⑤コノホウシモヨクヨクナ一フヒ候テノチニ患アハセ、故ヒ

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ノ 御 一 野 中 レ 1 u ト が き で い デ ボ 七 一 万 一 円 一 万 八 、 判 ︶ 掛 川 引 り 川 列 似 b ナリトシムトレトコソ候 シ カ 、 カ オセ候ハス。モシソレコノホカニヲクフカキ事ノアルソ トモ、ヒシリノノ侮房ノヲ、セコト侯ハ、、プミタ仏ト釈 迦 仏 判 。 ル 丸 山 下 ん い ? と 川 マ 対 抗 か 別 配 侯 川 、 三 克 念 仏 守 麓 ノホムテム、タイシヤクノヲムハチフカクアタリ候ハ i入1 0 まず、傍線

a

の 盟 主 光 の 詞 の 部 分 が あ り 、 それに続いて波線﹁ナ モアミタ仏トマウスハ決定シテ往生スル ナリトシムトレ﹂と いう﹁霊光上人伝説の詞一所収本の⑤の部分とほぼ間内容の詞 が紹介される。ここは明らかに法然の である。そしてその後 に源知日系のテキストを訪悌とさせる傍線 cd の部分が示され る。林彦明氏はこの部分に基づいて、源智系の ﹁ こ の ほ か に お 見 く な ふ せ か る き と 事 主 を 張 存 さ せ

:

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ft るさ」 I>. 々 の 文 は 確 カ ミ ﹁ 起 請 ﹂ と しかしながら、私はこの傍線 cd の部分は法然の詞ではな く、聖光の詞であると考える。 ま 、 ず 傍 線

c

は﹁この他に奥深き 法然吋一枚起詩文﹄の文献的性総 ﹂ と 、 が あ る な ど と は ︵法然上人は︶申されなかった﹂と意味で あるので、聖光の説明文であることは明らかである。 一方、傍線 d は ﹁ も し 翠 の 御 一 房 、 郎ち法然上人が奥深きこと があるということを述べておられたら、弥陀・釈迦の憐れみに はずれ、念仏守護の党天・帝釈天の罰を受けることであろう﹂ という意味であり、確かに ﹁ 起 請 ﹂ であることは明確 で あ る 。 ﹁起請一も法然の謂では し か し な が ら 、 の なく、聖光の詞と考えられる。なぜなら、傍線

c

で述べた﹁法 然上人はこの他に奥深きことは申されなかった﹂という私︵持 霊 光 ︶ の詞が間違いならば、私は弥陀・釈迦等に罰せられても 仕方ないと受け取るのが文脈からして自然だからである。確か に、で法然上人が私には﹁奥深きことはない と申しておられ ながら、他の人には奥深きことを説いておられたならば、法然 上人に罰が当たるであろう﹂という意味に理解することも不可 能ではないが、製光が師の法然に対し、罰が当たるであろうな どと述べること自体考えがたいし、もしたとえそうであって も、それは聖光の詞であって法然の認とはいえないであろう。 少なくともこの部分を法然の詞とするためには、 その末尾に と市中された﹂という意味の一句が必要不可欠といえる。 よってこのような理由で、私は﹃議官導寺御消怠﹄一所収本で も、少なくとも法然自身は 一 起 請 ﹂ は行っていないと /¥

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係数大学総合研究所紀姿別冊一浄土教胤ハ絡の研究一 理 解 す べ き と 考 え る 。 そ の 方で、この部分が源智系の n ︸ ご 一 、 中 / 争 J テキストを訪沸とさせるのは確かであり、 そこには何らかの関 係があるものと理解せざるをえない。私はおそらく、 盟 主 光 が 賜った﹃一枚起請文﹄は﹁霊光上人伝説の詞﹂所収本であった が 、 ﹁ 並 立 場 寺 御 消 息 ﹄ が 成 立 す る 安 貞 一 一 ︵ 一 一 一 二 八 ︶ と い う 時期までに、源智系のテキストの存在も知り、あまりに違う⑤ の部分を自身のテキストと整合的に理解すべく、このような表 現に至ったのではないかと推測する。もし、 霊光が法然から相 承したテキストが、法然自身の﹁起請﹂を含むものであったな らば、このような回りくどいいい方はせず、 そのことをそのま ま明示したことであろう。

聖光系と源智系の前後関係

次に源智系のテキストの検討に移るが、 そ の 前 に 源 知 日 系 と 聖 光系の関係について述べておきたい。既に江戸時代にこの点に ついては検討が行われ、聖光系が源智系に先行するという理解 が一般的であった。源知閣が法然の晩年に初めて﹃一枚組請文﹄ それと同じものを聖光にも送ったという組もあるが、 を 賜 り 、 雨テキストの字句の相違からして、 それはまずありえないと考 え ら れ る 。 玉山成元氏が既に指摘しておられる如く、霊光が /¥ 三枚起請文﹄を賜ったのは、最初の面謁が行われた建久八年 一 九 七 ︶

O

四 ︶ から霊光が九州へ下向する元久元年︵一 までの足かけ八年間であろう。それに対し、源智は建久五年 一 九 四 ︶ に既に法然の一冗に入門しているが その時はまだ 一 枚 起 請 文 ﹃ ﹄ を 梧 承 し た の は 、 少 ︵ お v なくとも一二

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年代以緯のことと考えられる。よって、可能 一 歳 で あ る の で 、 源 智 が 性としてはやはり聖光に授け、 その後源智に別バージョンを援 けたと見なすのが順当ではある。 ただし、年代的に 一人が法然の元にいた時期は重なってい て、確実に霊光相伝が先とは断定できないのも事実である。 し かしながら、型光本と源智本の両テキストの文体を鑑みるなら ば、聖光系では鰐えばその冒頭が﹁念仏往生と山中す事は、もろ こしわが朝のもろもろの智者たちの沙汰し取さる冶観念の念仏 又学問をして念仏の心をさとりとほして申す念仏 に も あ ら す 。 に も あ ら す ﹂ ︵ 一 ﹁ 和 語 燈 録 ﹄ 所 載 本 ︶ となっており、源智系のテ キストと比べた場合︵傍点を施した文字が相違する部分︶ 光系の此一一か説明的でまわりくどい表現に対し、源智系の方が表 現に流一麗さが加わっているように思われるので、 やはり霊光本 から源智本へという流れを想定するのが自然と考えられる。

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源智系の検討

では、次にその源智系のテキストを検討してゆくことにしよ ぅ。源智系では問題の⑤の 文は了﹂のほかにおくふかき事を 存 せ は 、 一一尊の御あはれみにはつれ、本願にもれ候へし﹂と ︵ m m ︶ ﹁起請一ととるか、弟子達 なっている。これを法然の へ の ﹁ 教 誠 ﹂ ととるかは、判断が難しいところである。既に ﹁ 和 語 燈 録 ﹄ で は の というタイトルが用いられ、 更に存覚は﹁法然上人御起語文﹂と標題していることからし て、比較的早い段階で 起請一とする理解が芽生えて い た こ と は 確 か で あ る が 、 その一方で単に 一枚消息一とも通 称され、﹁起請文﹂という理解とは別の呼称があるのも事実で ある。そうすると、法然滅後のそう遠くない時期においても、 あ る と 「

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な 請 る

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」 と 戸之 ム〈ー け 取 る 人 と そうでない人がいた可能性が いずれにせよ、件の一文は法然の 一 起 請 ﹂ と も 弟 子 達への﹁教誠一とも解釈することができ、 ﹂ の 一 文 だ け か ら 、 そのどちらであるかを判新することは難しい。そこでいくつか の外的側面から、この一文の原意を採ってみることとする。 法 然 ﹃ 一 枚 起 詩 文 中 の 文 献 的 性 同 問 ア 文脈に基づく検討 の全体は、①②③④で念仏の教えを説き示し、最後 '-の の⑤で﹁念仏を信ぜむ人は:::ただ一向に念仏すベ と あ る 如く、念仏行者はその教え通りに修してゆくべきことを門弟達 に示すという構成になっている。 つ ま り 、 こ の 法 語 の 趣 旨 は 、 門弟への教えの説示とそれに基づくところの門弟への ﹁ 訓 戒 ー 一 にあると考えられるのである。 よ っ て 、 そのような全体構成か らするならば、問題となっている⑤﹁このほかにおくふかき事 を 存 せ は ﹂ の一文も、門弟達への﹁訓戒一とみた方が自然であ る と い え る 。 ただし、文脈という観点からすると、①②③舎で教えを説 し、@でそれを門弟たち き、③でそれが正しいことを﹁起請﹂ に﹁教誠﹂するという構成であっても、 不自然とはいえないの も 確 か で あ る 。 よって、文脈だけからはやはり カミ

誠﹂かの判断は閤難といわざるをえない。 イ 法 然 の 起 請 ・ 起 請 文 ・ 誓 一 吉 田 の 実 例 に 基 く 検 討 そこで別の視点からの検討として、法然の他の遺文中での ﹁ 起 請 ﹂ ﹁ 起 請 文 ︶ という語句の検討や、法然遺文中に お け る こ 起 詰 ﹂ 文献の実関の検討を通し、この⑤の一 文の原意を探ってみることとする。 まず、一起詩文﹂と題され /\

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肺 仰 教 大 学 総 合 研 究 所 紀 要 則 m m 間﹁浄土教典鎮の研究 た文献群の検討を行うが、﹃七筒条起請文﹄や﹁七簡条の起請 文﹄といった後世に命名されたと考えられる文献を除くと、法 然自身が﹁起請﹂もしくは﹁起詩文﹂とみなしていたのは﹃没 後 起 請 文 ﹂ 一 と 一 ﹁ 送 山 門 起 請 文 ﹄ の 一 一 つ の み で あ る 。 そ の う ち 、 ﹃ 没 後 起 請 文 ﹄ ︵ ﹃ 昭 法 全 ﹄ 七 八 一 一 一

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七八六 没後一一筒条事﹂とあり、法然自身がこれを﹁起 に﹁起詰 請 ﹂ と 呼 ん で い る 。 た だ し 、 こ こ で 一 一 一 一 口 わ れ る ﹁ 起 詰 ﹂ と は 、 単 なる﹁制誠﹂のようなものと考えられる。なぜなら、第一条は 没後の追替のあり方を指示し、第ニ条は没後に弟子達の間で相 争い、虚説を説くようなことがないようにという訓戒を示すだ け で 、 ﹁ 誓 い ﹂ の要素は全くないからである。 おそらく ﹂ ト ﹂ で の ﹁ 起 詰 ﹂ とは、良源吋二十六箇条起請﹄などのように、 一ある特定のグループに属している僧偲等が 制の条文集﹂のようなものを意味していると思われる。 るべき規制・禁 そ れ に 対 し 、 ﹃ 送 山 内 起 語 文 ﹄ ︵ ﹃ 昭 法 全 ﹄ 七 九 四

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七 九 五 頁 ︶ は 最 初 に 宝護法普神御宝前﹂と示し、更に本文で 誓うべき事を述べ、最後に ︹ 資 料

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︺ ﹃ 送 出 門 起 請 文 ﹄ 上 件 ノ 子 組 、 以 ニ 虚 一 宮 口 一 設 一 一 遍 ノ 念 仏 、 空 ク 失 づ 其 利 イ 臨 一 一 在 ν 一 一 一 途 一 一 、 現 当 二 世 依 身 、 常 一 一 釈一者、毎日七万 /¥ 在日 沈 34 盛 一 苦 一 永 ク 受 訂 楚 証 明 知 見 シ 下 へ 。 伏乞、当寺ノ語尊、満山ノ護法、 ︵ ﹃ 昭 法 全 ﹄ 七 九 五 頁 ︶ と結んでいる。定型通りではないものの、 ほ ぼ ﹁ 前 書 ﹂ ﹁ 神 文 ・ t主 罰文﹂を備えており、これこそ﹁起請文﹂といってよいであろ ワ

次にこれほど明確な起語文の形ではないが、 一 応 、 ﹁神文・罰文﹂を備えた形の一文を含む文献がある。 てコ t主 吋 遺 北 陸 道 警 状 ﹂ 一 ︵ 通 称 ﹃ 念 義 停 止 起 請 文 ﹄ ︶ であり、ここで は﹁法然上人の門弟一一十人中、利根の者である五人だけに を授けられたが、自分はその一人である﹂ い ふ ら し て いる者がいるという噂に対し、法然は次のように説く。 ︹ 資 料

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︺ ﹃ 遺 北 陸 道 書 状 ﹄ フ パ 者 、 皆 以 テ 虚 無 相 似 て : 、 道 断 ナ リ 。 難 シ 不 川 足 レ 論 ス ル 一 一 、 為 に 及 ン ガ 貧 道 若 シ 秘 山 之 、 偽 テ 宣 九 一 此 ノ 旨 イ 註 日 パ 日フ知見一、毎日七万返ノ 風 開 説 也 凡 ソ 不 可 説 ナ リ 、 一 世 一 口 迷 者 ッ 、 今 立 日 ン 誓 不 安 ︿ ノ ヲ 者 、 十 方 ノ

念 仏 、 併 フ 空 ク 失 つ 其 利 益 ヲ O ︵ 明 昭 法 全 ﹄ 八

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一 一 頁 ︶ 更 に 、 ﹁ 神 文 ﹂ に当たる部分を欠くが、﹁起請﹂をしていると

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見なせる法語がある。 それは﹁聖光上人伝説の詞﹂ の つ で あ っ て そこでは聖光が法然に﹁法然上人は智者であるので、 上人の念仏は我らの申す念仏とは異なると考えるのは間違い か一と尋ねたところ、法然は顔色を変えてそれを強く否定し、 ︹ 資 料

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︺ ﹁ 諸 人 伝 説 の より﹁聖光上人伝説の も し わ れ 山 中 す 念 仏 の 様 風 情 あ り て 山 中 候 は は 、 毎 日 六 万 一 遍 の つとめむなしくなりて、三悪道におち候はん、 またくさる 事 候 は っ と 、 ま さ し く 御 誓 一 言 侯 し か は 、 それより弁問はい よいよ念仏の信心を思ひさためたりき。 ︵ ﹃ 昭 法 全 ﹄ 四 五 八 真 ︶ と山中されたとある。聖光が述べているように、確かにこれは 一2 御 誓 一 宮 口 ﹂ と い っ て よ か ろ う 。 以 上 、 一 一 一 つ の 文 献 は い ず れ も ﹁ 起 請 ﹂ といえる。確 かに、﹃送山内起詩文﹄は﹃漢語燈録﹄にも﹁私云執筆宰相法 印 聖 覚 出 店 ︵ ﹃ 昭 法 全 b 七 九 五 一 貝 ︶ とコメントされており、法然 遺文といってよいかどうか微妙な点もあり、また﹃遣北陸選書 状﹄に対しても偽撰説があるので、資料としては必ずしもよく な い か も し れ な い が 、 とりあえずこれらを法然遺文と認めると す る と 、 こ こ で 注 目 す べ き は 、 一 一 一 文 献 で 誓 い の 内 容 が 異 な る の 法然﹃一枚起請文﹄の文紋的役格 に 、 平 副 ム マ ︿ ﹂ 七 万 一 遍 ︵ 六 万 に当たる内容としてはいずれも 遍 の念仏が全く無駄になるであろう﹂ と述べている点であ る。ここでのヱハ万・七万遍の念仏﹂ はその文脈や法然の日々 の念仏数からして明らかに自身の念仏であり、 よってこの部分 が自身に関す であることが明確といえ ぃ、部ち る 。 更 に 、 ︹ 資 料

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︺ ︹ 資 料 7 ︺ で は 途に盟ちること﹂も付 け 加 え ら れ て い る 。 このように、法然は﹁起請﹂をするときはかなり明確に﹁罰 文﹂を一示し、起請を行っていたといえる。そこには﹁起請﹂ カ 否か、迷わせるような要素はない。ところが、源智系テキスト の ﹂のほかにおくふかき事を存せは 二尊の御あはれみには つれ、本願にもれ候へし﹂ の 一 文 に は 、 一 念 仏 の 無 効 ﹂ も ﹁ 一 一 一 途に堕つこと一も説かれていない。 よって、法然の他の﹁起 請 ﹂ と 北 べ た 場 合 、 そこには他の﹁起請﹂との共通性を欠くが 故に、この一文を﹁起請﹂と見なすのはやはり難しいように思 えるのである。もし法然がこの一文において一起語一を意思し て い た な ら 、 お そ ら く ︹ 資 料 ︺ 516 にみられるような形での 明確な﹁罰文﹂が提示されたことであろう。 また、資料的に︹資料 ︹ 資 料

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︺が法然の詞でないとす る な ら ば 、 をする文献はわずかに︹資料 のみとな り、法然はまず﹁起請﹂をしなかったといえるので、この場合 F1、 五

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帥 帥 教 大 学 総 合 研 究 所 ね 比 四 究 開 山 間 一 浄 土 教 典 絡 の 研 究 もやはり件の一文は で な い 可 能 性 が す 向 く な る 。 ウ 類似表現からの検討 のあはれみにはずれる﹂﹁本願にもれる﹂という表現と ほぼ同じ表現は、法然遺文中では全く見られない。 ただし、類 似の表現は少ないながら存在する。まず﹃登山状﹄では一念義 の 教 え に 対 し て 、 ︹ 資 料

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︺ ﹃ 登 山 状 ﹄ ﹂の義またくしかるへからす。釈放吋の説法にも見へす。 の釈にもあらす。もしかくのことく存せんものは、惣し ては諸仏の郷心にたかふへし、加しては弥陀の本願にかな ふ へ か ら す 。 ︵ ﹃ 昭 法 全 ﹄ 四 ニ 六 頁 ︶ と 説 く 。 つまりご念義の如く考える者は、諸仏の御心に皮 し、弥陀の本願にもれる﹂という意味であり、後半の表現には 一一一守 の御あはれみにはつれ、本願にもれ候へ という表現 との類似性が認められる。 ま た 、 の 一 一 一 郎 へ っ か は す 御 返 事 ﹄ ︵ 九 月 十 八 日 付 ︶ で は ス 、 ﹂ 、 ノ 一 ノ ︹ 資 料

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︺ の 一 一 一 郎 へ つ か は す 御 返 事 ﹄ ひろき弥陀の本願をたのみ、あまねき善導のすすめをひろ め ん 物 、 いかてか無智の人にかきりて、 有 知 日 の 人 を へ た て んや。もししからば弥陀の本願にもそむき、 の 御 心 に もかなふへからす。 ︵ 吋 昭 法 全 ﹄ 五

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ニ 頁 ︶ というように、﹁弥陀の本願は無智の人に限ると えるなら と ば し 、 、 うお? 。)そ7 の 人 l土 弥 陀 の 本 願 背 き の御心にも反する﹂ 以 上 の 一 一 つ の 到 の う ち 、 ︹ 資 料

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︺ 一 存 、 ぜ は 前 半 十 が ま ず 、 ば一という仮定表現ではないので、源智系テキストの件の一文 とは異なるが、後半は類似しており、 ︹ 資 料

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︺ に 査 つ て は 斗 別 半 十 も 仮 定 表 現 で 、 後 半 も 類 似 し て い る 。 ちらの引用においても、 し か し な が ら 、 そのど 一般論として、門弟達への﹁教誠﹂を 述べていると見なすことができ、決して自身の と し て 述 、 べ ら れ て い る わ け で は な い 。 ﹂のように、諸仏や弥詑の本願に反するという表現は、法然 遺文において﹁起請一としては用いられず、むしろ﹁教誠﹂と して用いられているといえる。 よって三枚起語文﹄の問題の 一文も﹁起語﹂ではなく﹁教誠﹂ととる方が自然といえよう。

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一 一L . / '¥

以上の検討などをふまえて、﹃一枚起請文﹄の文献的展開を 述べるならば次のようになろう。 一枚起請文﹄は最初、聖光 系のテキストにあるように、教えを説く﹁教説﹂ の部分︵①

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③︶と弟子達に対してその教え通り修すべきことを説く一教 誠﹂の部分︵⑤⑤︶から成っていたが、吋遺北陸道諮問状﹄など に見られるような、奥深きことを説く輩が出てきたため、それ を誠めるために⑤の部分を変更して、源町四百系のテキストのよう な 文 一 一 首 に 改 め た 。 ただ、最初はこの⑤の部分は弟子達に対する﹁訓戒 で あ っ た カ1 ﹂の法語が広まり珍重されるにつれて、⑤の部分を法然 自身の ﹁起詰﹂と見なすことにより、 ﹂ の 法 諮 問 の 文献的価値を高めようとしたのであろう。 その後、﹁起藷﹂という理解と単なる ︵ ﹁ 教 誠 ﹂ ︶ と す る理解とが混在していたようであり聖間三枚起請之註﹄に お い て も 、 で は 一 ! 起 請 と 明 言 し 、 タ イ ト ル に そ の 文﹂とまで述べているにもかかわらず、件の一文に対しては 一2 此 ノ 称 名 ノ 外 一 一 奥 深 炉 事 ヲ 存 セ ハ 不 川 曲 家 計 一 一 尊 ノ 憐 イ 者 也 一 と か の本意に背くので︶﹁可勺ノ五本願一漏レ侯二 尊 九 、 五 よ ︶ と 簡 単 に 触 れ る だ け で 、 ﹁ 起 請 ー 一 であることを強調するこ 法 タJミ

枚 起 請 文 ’ 一 の 文 欲 的 性 格 とはもとより、明言さえしていない。ところが、弟子の嬰聴に 一自証〆救三末代ノ迷 歪 る と 一 此 ノ 安 心 ノ 之 外 ニ 無 プ ソ 卜 奥 ク 徒 イ 也 ﹂ 九 、 九 真 下 ︶ というようにこの部分を﹁自証一 と 述 べ 、 い わ ゆ る ﹁ 起 請 ﹂ であるということを比較的明確に示 す よ う に な る 。 そ し て 江 戸 時 代 に な る と 、 ﹁ 添 え 帯 一 一 回 き ー 一 付 き の 源 智 本 が 急 速 に一般化し、それとともに件の一文が明確に一ー起請﹂と位霞づ けられ、一添え書き﹂部分と共にこの法一誌の中心部分と見なさ れるようになる。﹁御遺誠の来由の肝要は、此起誇の一段に極 ま る 一 と 述 べ 、 この法語に設かれることは加設普通のことばか りなので、この法語の中心は の部分と﹁添え書き﹂部 分にあるとする忍激の主口水遼警諺論

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浄 全 ﹄ 九 、 四 五 頁 上 ︶ その典型といえよう。 の 主 張 な ど は 、

読諦文献としての

! 人 二 戸 、 今 ι

i e ’ iJ7 、 t y ﹁ 訓 戒 ﹂ 一 教 一枚組請文﹄が ぉ 、 誠﹂かという問題を述べてきたが、最後にそれとは別の文献的 特邑を指摘してみたい。 現在、浄土宗において、最も読請されている法然の法語とい えば、断然、﹃一枚起請文﹄である。これはなぜかといえば、 /\ ー と

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係数大学総合研究所紀姿別問 浄 土 教 的 問 問 料 の 研 究 教えが非常に短くコンパクトにまとめられていること、読請し このコンパクトさ、読諦し やすさは偶然なのかというと、私はそれは偶然というより、意 やすいことが挙げられよう。 で は 、 識されたものではないかと考える。即ち、もともと読請される ことを念頭に いて作成されたのではないかということであ る というのも、法然遺文中、あるテ!?に関して、超く紹介し た法語はたくさんあるものの、自身の教えの全体に関して、 ンパクトにまとめた法語というのは、 いわゆる三紙小消息﹄ とこの﹃ 一 枚 起 請 文 ﹄ く ら い だ か ら で あ る 。 ただし、教えの全体がコンパクトにまとまっているだけで は、読請を

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的とした文献ということはできない。やはり、 請を目的とするなら、当然読諦しやすさ、即ち語調のよさが重 要になろう。その点、﹃一枚起請文﹄は実に語調がなめらかで ある。特に源智系のテキストにそのこと、かよりよく当てはま る 先に述べたように、聖光系テキストが先に成立し、それに手 を加えて源智系テキストが成立したとすると、その改変には伺 らかの目的があったはずである。宮頭部分と大きく変更された ⑤の部分は別として、それ以外の部分は、内容的にはほとんど 差違はなく、基本的に文章表現上の相違である。その相違は既 八 ;\、 に一覧表にして提示したので、 そ ち ら を 見 て い た だ く と 、 車 窓 光 系に比べて、源智系の方が多くの場合、表現が短くなってい て、しかも発音しやすく変化しているいることに気付く。例え ば 、 ﹁ 競 念 の 念 仏 に も あ ら ず ﹂ より﹁観念の念にもあらず一 の 方が、﹁文字一もしらぬ愚療鈍根の不覚の身﹂ よ り ご 文 不 知 の 愚 鈍 の の 方 が 、 ま た ﹁ 南 無 阿 弥 陀 仏 と 市 中 て ぞ 、 かなはむ ずる一より単に一念仏すベし一 の方が、簡潔で唱えやすいのは コ 確 か と い え よ う 。 シ ラ ブ ル 数 自 体 は 長 く な っ て い る 一 一 箇 ま た 所 ︵ ﹁ 加 の 子 細 ﹂ ﹁ こ も り 候 な り ﹂ ︶ でも、語調としては源智系 の方がけツズムがよい。それに対し、聖光系は全体的に説明的で あ る と い え る 。 このようなことを考癒した場合、聖光系のテキストが成立し た時点では、読請が意識されていたかどうかはわからないもの の、聖光系から源智系への語句の変更は、読諦のしやすさを念 頭においてなされたように思われるのである。 おそらく法然 は、晩年にいたって、自身の教えが口語としても受け継がれて ゆくことを目指したのであろう。もし、この私の仮説が正しい と す る な ら ば 、 法 然 は 口 一 一 閥 で の 教 え の 伝 承 ・ 普 及 と い う 布 教 形 態を採用した、最初期の人師といえるのではなかろうか。

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おわりに

以上、本稿では聖光系の﹃一枚起請文﹄は全く﹁起請﹂を合 まないこと、 また源智系のそれも、法然の一起請﹂ の 実例と比較し、更に﹁二尊のあはれみには、ずれる 2 本願にも れる一という表現との類似表現を検討するならば、自身の

世間﹂とは見なされず、弟子達への 言1i 戒 ﹁ 教 誠 ー 一 と 見 な す べ きではないかということを述べた。 ま た それと並んで、士一枚起請文﹄︵中でも源智系︶ は 社 抗 一 誠 されることを念頭に作成されたのではないかということも指鵠 し た 。 加 ︸ ご − J

ふ / 、 T 、L いずれの結論も一断定﹂というレベルに達するもの ではなく、あくまでその可能性が高いということを示すにとど まるのも事実である。 より蓋然性の高い結論を得ょうとすれ ば、特に前者の場合、法然と同時代の同様の表現などを広く渉 猟することが必要となろう。 まさに今後の課題である。 註 ︵ 1 ︶ 林 彦 明 ご 枚 起 詩 文 の 研 究 ﹂ 一 一 、 昭 和 九 年 ︶ 、 宝山成元ご枚起誇文について﹂︵﹃日本名僧論訪米第六巻法 然 ﹄ 士 阿 川 弘 文 館 、 昭 和 五 七 年 、 論 文 初 出 は ﹃ 浄 土 学 ﹄ 一 二 ハ 、 昭 法然 枚 起 請 文 ﹄ の 文 献 的 性 格 和 三 一 一 一 年 ︶ 。 ︵ 2 ︶ただし、江戸期直前の一五九

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年代のものの一部は省略され ている。また、註︵ l ︶ 所 数 、 林 論 文 の 七 一 只 に は 東 本 願 寺 所 蔵 で 一 ︻ け ん ち 一 房 け ん 空 ﹂ 議 写 の 写 本 が 現 存 す る こ と が 記 さ れ て い るが、原本・写真版・翻刻のいずれをも確認できなかったの で 、 そ の 内 容 や 成 立 年 代 等 は 不 羽 で あ る 。 ま た 却 番 の 貞 安 帝 羽 田 写 本については、本庄災文氏を通して西光寺の関係者の方に問い あわせていただいたが、現在、所在不明とのことであった。写 真版・翻刻も残されていないので、データは先行論文に基づい た も の で あ る こ と を お 断 り し て お く 。 ︵ 3 ︶年代は正確に年口すまで判明しているものと、ある程度の年代 しかわからないものがあるので、各項目の前後関係については お お よ そ の 順 番 で あ る と い え る 。 ︵ 4 ︶一覧表所収の写本・刊本の多くは、その写真版が小川龍彦 ﹃ 一 枚 起 詩 文 原 本 の 研 究 ﹄ ︵ 隠 護 刊 行 会 、 昭 和 五 九 年 、 初 出 は 加 熱 最光寺刊、昭和四五年︶に掲載されている。 ︵ 5 ︶ ﹃ 昭 法 全 ﹄ m 三 一 一 一 一 1 四 三 五 頁 。 芸 口 導 寺 御 消 怠 ﹄ に は 現 占 化 、 徳 宮 本 ・ 清 浄 華 院 本 ・ 浄 厳 続 所 蔵 附 限 発 書 写 本 と い う 一 一 一 つ の 写 本 が 知られているむこれら三者の鵡刻と解説が、中野正明司法然遺 文の基礎的研究﹄︵法政館、平成六年︶第亘部第六章に掲載さ れ て い る 。 な お 、 ﹁ 議 同 世 禅 寺 御 消 怠 ﹂ と い う タ イ ト ル は 最 J m w の 二 本にはなく、院位十発書写本にのみ付されたものであるが、使笈 上、本論ではこのタイトルを使用する。 ︵ 6 ︶﹃昭法全﹄四一五 1 四 一 六 真 。 龍 谷 大 学 警 本 議 室 日 日 ﹃ 黒 谷 上 人 一 諮 燦 録 ︵ 和 語 ︶ ﹄ ︵ 開 門 朋 会 出 版 、 平 成 八 年 ︶ 一 一 一 五

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一 一 一 六 支 、 一 一 一 八 七

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一 一 一 八 八 支 ︵ 以 上 、 写 真 版 ︶ 、 五 六 五 頁 下

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五六六頁 上 、 六 六 二 真 上 ︵ 以 上 、 翻 刻 ︶ 。 八、 九

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似品拡大学総合研究所紀姿別冊 浄土教典絡の研究 ︵ 7 ︶ ﹃ 弘 駁 本 ﹄ ﹃ 九 巻 伝 ﹄ ﹃ 四 十 八 巻 伝 ﹄ の 傾 に 、 ﹃ 法 伝 会 ﹄ 五 一 一 一 一 一 一 良 上 1 下 、 四 一 一 一 八 一 夫 下 1 凶 一 一 一 九 頁 上 、 一 一 八 四

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二 八 五 支 。 ︵ 8 ︶龍谷大学普十 4 4 殺 害 3 ﹃ 存 覚 上 人 一 期 記 ・ 存 党 上 人 袖 臼 記 ﹄ ︵ 同 間 刷 会 出 版 、 昭 和 五 七 年 ︶ 一 五 五

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一 五 六 一 良 、 一 六 七 一 良 ︵ 以 上 、 写 真 版 ︶ 、 三 一 五 真 上 1 下 、 一 一 二 七 質 上

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下 支 ︵ 以 上 、 翻 刻 ︶ 。 ︵ 9 ︶﹃浄土系金書﹄︵以下﹃浄 A 去 と 略 ︶ 九 、 一 一 一 1 六 一 良 、 七 l 一 一 頁 。 ︵

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︶奥書は、中野、註︵ 5 ︶ 所 載 書 、 五 一 一 九 交 に 線 刻 が な さ れ て いる。また、栗東歴史民俗博物館編﹃︿企画淡﹀経発法印と阿 弥陀?浄惇区︵楽東歴史民俗博物館、平成一一一年︶一九交に 奥警の写玄版が掲殺されている。 ︵ 日 ︶ 日 本 思 想 大 系 山 山 吋 中 段 禅 家 の 思 想 ﹄ 一 一 一 五 二 久 下 。 ︵ロ︶河書とも、中井真孝一隆寛作﹁法然上人伝﹂に関する若干の 考 察 ﹂ ︵ 中 井 真 孝 吋 法 然 伝 と 浄 土 宗 史 の 研 究 い ︵ 忠 文 間 出 版 、 一 平 成六年︶、論文初出は仰教大学文学部学会編﹃人文学論集﹄ 一 八 、 昭 和 五 九 年 ︶ 一 一 七 一 丸 の 補 注 ︵ 一 一 ︶ ︵ 一 一 一 ︶ に よ る 。 な お 、 ﹃実隆公記﹄の当該館所は﹃突隆公記﹄︵続群書類従完成会、昭 和三六年︶巻六上、一八五頁に、また﹃浄土三関仏組伝集﹄の 当 該 笛 諮 は ﹃ 浄 全 ﹄ 統 ︵ 新 版 ︶ 十 七 、 一 一 一 三 回 頁 下 に 所 収 さ れ て い る 。 ︵日︶伊藤祐晃ご枚起詩文並に二枚起請文に就てに伊藤祐問先﹃浄 土宗史の研究﹄図書刊行会、昭和五九年、初絞は妙泉寺刊、昭 和十二年︶二

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一 ニ 真 に 叡 刻 が 掲 殺 さ れ て い る 。 ︵ M H ︶ ︷ 主 口 岡 山 良 哲 ﹁ 新 出 の 降 立 作 ﹁ 法 然 上 人 伝 ﹂ に つ い て い ︵ 明 大 正 大 学研究紀要︵仏教学郎・文学部︶﹄六九、昭和五九年︶九五 1 九 八 頁 を 参 照 の こ と 。 ︵ 江 川 ︶ 芸 問 中 点 寸 中 市 リ 御 消 息 ﹄ 所 収 本 の 表 現 に は 、 一 部 、 完 刊 誌 問 燈 録 ﹄ 一 所 収 九

禦光伝承本より、むしろ滋智系テキストの方に共通する箇所も あ り 、 問 中 平 光 系 の 一 一 本 、 間 即 ち 一 聖 光 a ﹂ ﹁ 癒 す 克 b 一の表涜が完全 に 一 致 す る わ け で は な い 。 ︵日間︶後者の遠いに関しては、註︵l︶所談、林論文、一一

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一 一 一 頁、参照。また、同論文の六 1 七頁では、いくつかの源智系諸 本の校異がなされている。 ︵げ︶望月信苧ご枚起詩文に就て﹂︵翠月信字的浄土教之研究﹄、 論 文 初 出 は ﹃ 宗 教 界 ﹄ 六 、 明 治 凶 一 一 一 年 ︶ 七 間 五 1 七 四 七 真 。 ︵日︶ただし、一覧表の番号ロの一休宗純書写本に恭づくとされる 版本には、﹁狂雲集﹄所収の用問文を少し改編した出向文が付さ れ 、 そ の 中 の 第 一 一 一 匂 で 二 枚 起 請 文 最 奇 特 ﹂ と い う 文 言 、 か 見 ら れ る が 、 町 村 位 雲 集 ﹄ 所 収 の

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文ではヱ又﹂の一字がなく、しか も七字一勾であるのに﹁文﹂を入れたために第三句のみ八字に な っ て し ま っ て い る こ と か 、 り し て 、 こ の 版 本 は 原 十 恥 か ら 改 編 さ れているか、そもそも一休書写の三枚起請文﹄などなかった かのいずれかである可能性が高い。 ︵ 川 口 ︶ 既 に 註 ︵ 日 ︶ 所 裁 、 中 芥 論 文 、 一 一 一 一 1 一 一 一 二 頁 に お い て そ のことが指摘されている。なお、金戒光明寺本真筆説をとる学 者は、林彦明、小川龍彦の各氏であり、逆にそれに疑義を出す のは、伊藤祐問先、玉山成光、中井真孝、中野正明︵註︵ 5 ︶所 裁 書 、 問 。 一 一 l m 問 。 一 ニ 頁 ︶ の 各 氏 で あ る 。 と こ ろ で 、 近 代 の 学 者で﹃一枚起請文﹄の文献的多蕊を最初に行った思われる望月 信亨氏は、註︵げ︶所持戦論文において、タイトルや﹁添え書 き﹂の点から、金戒光明寺本の真筆説に強い疑問を口正しながら も、結論としては文筆談を支持すると述べられる。 ︵却︶薮山も吋和語燈録沼議私記﹄巻一において、一此に御笠宮口の 書とあるも、枚起誌と云ふも、山首後に標題すること也﹂︵吋浄

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全 ﹄ 九 、 七

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六一良下︶と述べて、タイトルは後段に付けられた ものであるという見解を示している。 ︵幻︶吋九巻伝﹄巻七下の﹁︵川合の法眼が︶世間に披露して、上人 の 一 枚 消 息 と 云 へ る も の 也 ﹂ ︵ 司 法 伝 全 岡 山 間 三 九 頁 上 ︶ と い う 記 述や、﹃四十八巻伝﹄巻四五の﹁上人の一枚消息となづけて、 役 に 流 布 す る こ れ な り 一 ︵ ﹃ 法 伝 全 ﹄ 一 一 八 双 頁 ︶ と い う 記 述 か ら して、もともとタイトルはなかったが、世間同に広まってご枚 消息﹂と通称されるようになったことが窺える。 ︵詑︶註︵ 1 ︶一併殺、宝山論文には付録として二枚起誌文注釈書 図録﹂が掲載されている。それによると笠間・聖聴の註釈以外 は 全 て 江 戸 期 以 降 の も の で あ る が 、 そ れ ら の 校 釈 諮 問 の ほ 、 ほ 全 て が二枚起請﹂もしくはそれ以上にご枚起詩文﹂という呼称 をタイトルに付しており、このことからも江戸以降はご枚起 誇︵文ごといういい方がいかに一般的になったかが窺える。 ︵お︶註︵ 1 ︶ 一 所 裁 、 林 論 文 、 一 回 頁 。 ︵ 何 日 ︶ 白 川 間 十 八 巻 伝 ﹄ 巻 四 六 に は 禦 光 の 乏 ’ ω 仏役生修行門﹄︵現存せ ず︶という書物からの略抄として、法然の法一誌がいくつか引用 され、その最後に、一詮するところ、此念仏は決定往生の行な りと信をとりぬれは、自然に一ニ心は具足して、往生するそと、 やすやすと仰られ侍しなり。もしこれならばぬことを、ならひ た り と い ひ 、 仰 ら れ ぬ こ と を 、 仰 ら れ た り と 市 中 侍 ら は 、 一 一 一 肢 の 諮仏、十万の菩薩、ことにはたのみたてまつる所の釈迦弥陀、 観音勢至、設問導型霊、念仏守護の党天帝釈等の、御あはれみな く し て 、 現 役 後 段 、 か な は ぬ 身 と な り 侍 ら ん ﹂ ︵ 吋 法 伝 全 い 一 一 一

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一等兵︶といった起諮がなされている。ここには﹃誘導 寺御消息﹄の岳部分との親近性が指摘されうるが、この一文も 一 私 が 法 然 上 人 と 逢 っ た こ と を 述 べ た な ら ば 、 釈 迦 ・ 弥 陀 枯 一 寸 の 法 然 ﹃ 一 枚 起 誌 文 中 の 文 献 的 性 格 憐れみからはずれてしまうであろう﹂という意味であり、明ら かに法然ではなく霊光の起請といえる。 ︵ お ︶ 忍 激 主 口 水 透 明 一 品 諺 論 ﹄ で は 一 も と 鎮 西 の 聖 光 上 人 に 付 属 し 去 へる平生の御法一誌なり。その法認の中に、更に起諮の一段を設 加 ヘ モ 一 ふ の み が 正 し く 泣 誠 の 伽 仰 木 窓 な れ ば 、 古 よ り 股 人 相 伝 へ て 、 一 枚 起 請 文 と は 名 け け る な り ﹂ ︵ 吋 浄 全 ﹄ 九 、 二 ハ 一 良 下 ︶ と 述 べ て い る 。 ま た 、 法 州 内 一 枚 起 論 議 説 ﹄ ︵ ﹃ 浄 全 ﹄ 九 、 一 一 回 一 頁下︶もそれを受けて、同様のことを支張する。交に、経円 三 口 水 道 誓 諺 論 刻 録 正 流 弁 ﹄ ︵ 司 浄 全 ﹄ 九 、 五 一 一 氏 下 1 五 八 頁 上 ︶ では、同テキストの関係について、かなり詳しく検討・解説さ れ て い る 。 ︵お︶伝脱出党内法然上人伝いにそのように説かれている。註︵日︶ 一 併 殺 、 ︷ 子 高 論 文 、 九 七 頁 を 見 よ 。 ︵幻︶註︵ 1 ︶ 一 併 殺 、 玉 山 論 文 、 一 一 一 六 八 頁 。 た だ し 、 宝 山 氏 は 建 久 一 ︿ ︶ 年 以 降 の 六 年 間 と さ れ る 。 ︵ お ︶ な お 、 吋 九 巻 伝 ﹄ ︵ ﹃ 法 伝 全 ﹄ 四 一 一 一 八 頁 下 ︶ で は 形 見 と し て と 述 べ 、 吋 間 十 八 巻 伝 い ︵ 司 法 伝 全 n一二一八四支︶では源智への相承 を法然の終湾問間近なときに形見としてとするが、それらに先立 つ ﹃ 弘 阪 本 ﹄ ︵ ﹃ 法 伝 全 ﹄ 五 三 二 頁 上 ︶ の 記 事 に 基 づ く な ら ば 、 むしろ平生の時と見なすことができる。 ︵ 却 ︶ ﹁ 前 書 ﹂ ﹁ 神 文 −

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文﹂を備えた正式な一ー起諮文﹂と比絞する なら、この一文はとても﹁起請文一とはいえない。しかしなが ら、内容的にはず﹂のほかにおくふかき事を存せは﹂を﹁前 書 ﹂ 、 ﹁ 二 尊 の 御 あ は れ み に は つ れ 、 本 開 制 に も れ 候 へ し ﹂ を 一 神 文 −

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文﹂と見なせないこともないので、そのような見方に基 づ い て 、 こ の 一 文 を 法 然 の ﹁ 向 日 昔 悶 ﹂ ﹁ 起 諮 ﹂ と す る 理 解 が 生 じ て き た の で あ ろ う 。 九

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飾 品 私 大 学 総 合 研 究 所 紀 要 別 冊 ﹁ 浄 土 教 典 絡 の 研 究 ︸ ︵ 初 ︶ ﹁ 消 怠 ﹂ ︵ こ の 場 合 は 実 質 的 に 一 i 法活どの意味︶という遼解が 消 え 、 一 起 請 ﹂ と い う 理 解 が 定 着 す る よ う に な る の は 、 取 引 一 間 ・ 取 引 一 聡 あ た り 以 降 で あ る 。 そ し て 江 戸 郊 に な る と 、 鋲 市 開 系 を 中 心 に、ほぼそれで統一される。それは鎖商系の﹃一枚起請文﹄の 注釈書を見れば一目瞭然である。ただし、天台宗や浄土真宗大 谷派の学僧によって引ぎされた﹃一枚起詩文﹄の注釈書類には、 ﹁起請﹂という見方が批判されている。註︵ l ︶所哉、林論 文 、 一 回 一 良 、 参 照 。 ︵幻︶そもそも﹁起請﹂とは、佐藤進一主肉文護学入門﹄︵法政大 学出版会、昭和四六年︶によると、﹁事を発起︵企繭︶して、 それを実行することの許可を上︵支配者︶に税制うことであり、 ひいては、そのために作成する文書﹂︵二二七頁︶のことであ る。良源円二十六街条起請﹄はその形式を仏教界で用いた円以初 期のもので、山良源が叡山衆徒に対する焼制・制誠を発起し、そ れに対して天台宗閥復最液の許可を得るという形を採っている と 見 な す こ と が で き る 。 さて、良源吋二十六筒条起請﹄がそうであるように、普通、 一起諮﹂には訪文は同門んられない。ところが後になって、その ﹁起諮一に﹁祭文﹂︵自己呪認としての訪文を含むところの宗教 的祈綴文香︶が合体して、﹁罰文﹂を含むところの﹁起詩文﹂ が 成 立 し て く る と い う ︵ 一 一 二 六 頁 ︶ 。 そして、この一起詩文﹂が成立するのは、早川庄八﹁起請管 見﹂︵関晃先生古稀記念会編﹃律令霞家の構造﹄古川弘文館、 昭和六四年︶に基づくならば、それは十一没後半から十二役紀 初頭にかけて︵即ち法然誕生の少し前︶であるという︵問。由 1 図 。 六 一 気 ︶ 。 ところで、その早川氏は﹁起請﹂を︵ ︶制緩・制誠、 九 ︵ 二 ︶ 禁 制 、 ︵ 一 一 一 ︶ 誓 約 の 三 者 に 分 け ら れ る が 、 吋 二 十 六 銭 条 起 請 ﹄ な ど の 仏 教 系 の 一 ー 起 請 ﹂ は ︵ 一 ︶ 制 規 ・ 判 例 誠 に 分 類 さ れ る ︵ 一 一 一 八 二

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一二八三頁︶。そしてそこにあげられている議文献を見 ると、これら仏教系の﹁起請﹂は、ある人の弟子・門弟ゃある 寺院に所属する者たちに対する、まさに﹁制規・制誠﹂である ことがわかる。おそらく、法然以前の仏教系の﹁起諮﹂はほぼ すべてこのような意味で使用されていたのであろう。 ただ、﹁起請文﹂の成立以降は﹁起請﹂は﹁秘誠﹂と表現さ れるようになり︵例えば﹃七箇条制誠﹄︶、﹁起誇﹂という用語 自体はむしろ﹁起請文﹂を意味することが多くなってゆく。し かしながら、﹁起詩文﹂の成支以降も﹁起請﹂が本来の﹁起 請﹂の意味でも舟いられていたことは確かで、この﹃没後起詩 文 b の冒頭の﹁起請﹂などはまさにその好例といえる。 更に、早川氏によると逆に﹁起請文﹂という言葉が単なる ﹁起請﹂︵即ち﹁制誠﹂︶の意味で用いられる場合もあるという ︵問。八頁︶。この﹁没後起請文﹂や﹁七箇条起詩文﹂﹁七箇条 の起論文﹂といった文獄名における﹁起詩文一という呼称は、 まさにその代表例といえよう。 なお、存覚が﹃一枚起詩文﹄会﹁法然上人起請文﹂と呼んで いるが、この﹁起請文﹂という呼称もいわゆる一起請﹂︵郎ち ﹁制誠﹂︶を意味していただけなのかも知れない。ただし、陀時 に ﹁ 御 折 口 苦 口 の 設 ど と い う 一 ⋮ い 方 も し て い る こ と か ら 、 存 党 の 場 合、その可能性は低いが。 ︵辺︶大矯俊雄﹁法然上人に於ける制誠と勧誠特に制誠関係書の 真偽撰と制談内容を中心として

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﹂ ︵ ﹃ 日 本 仏 教 ﹄ 六 、 昭 和 一 一 一 四 年 ︶ 一 一 一 五 1 一 一 一 七 頁 。 ︵お︶同様の一文は内鎌倉の二伎の禅尼へ進ずる御返事﹄︵吋昭法

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会﹄五二八頁︶にもみられる。 ︵お︶ただし、詳述はできないが、同じ鎮西系でも﹁起請﹂の部分 に対する見方は必ずしも一定ではなく、強一調する者からあまり 強調しない者、更には﹁起請﹂と見ているのかどうか不明確な 者 ま で あ る 。 ︵お︶﹁口議﹂という形での教えの伝承としては何といっても﹁和 讃﹂がその代表といえる。﹁和議﹂は既に千綴﹃極楽部阿弥陀和 讃﹄を初め、一平安中期以降に少なからず作成されていたようで ある。しかしながら、散文の三和語︶法語﹂は、法然以前で は源信作と伝えられる円横川法一議﹄くらいしかなく、和語の ﹁法当どを多く残した最初の人的という点で、法然の存在はそ の布教史上にあっても見るべきものがあるといえるが、そのゆ で も ﹃ 一 枚 起 論 文 ﹄ は 、 ﹁ 法 一 地 問 ﹂ で あ っ て 、 し か も ﹁ ロ 誠 一 に よる伝承を意識して作成されたことがほぼ証明できる最初の文 獄として、特に重姿であると位置づけられよう。 法 然 円 一 枚 起 詩 文 一 一 の 文 献 的 性 絡 九

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