• 検索結果がありません。

労働法の解釋

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "労働法の解釋"

Copied!
28
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

西 、

一 ㌧  ﹁私の所属する教育大学では昭和二十四年創設以来、二十七年三月に至るまで教授会が設置されていなかったのであります。学校教 育法及び教育公務員特例法によって、大学には必ず教授会を設け、学部教員の任用に関しては学部教授会の選衡に基いて行われると定 められているにもかかわらず、実際はその権隈を持たない評議会がそれを代行して来たのであります。創立のときにおいてはそうい5 措置もいたしかたなかったでありましようが、陰る程度の人数が揃った以後においても.依然として学部教授会ほ平炉されず、人事権 は評議会の手に掌握されていたばかりでなく.更に教育大学は旧制大学である東京文理科大学、東京高等師範掌校、その勉二つの専門 掌校が隻ってできたのでありますが、東京交理科大学には嘱制大学としての教授会があって.そこにも人事権が残っていたのでありま す。新制に関する人事は評議会において、旧制に関する人事は旧制大学教授会において行われるという.いわば一つの学校に別個の人 事権行使の機関があるという状態でございました。そして、旧制大学において入事を一方的に決定し、それを事後承諾的に新制のほう に廻し.評議会に承認ざせるという事態がいくたびも起つたのであります。このよ5なことほ著しく新制学部の自治を阻害するもので あり甚だ不当でありますので、速やかに新盤の教授会を設置すべしという運動が起りまして、私も直接学長に面会いたしましてそうい

    労働法の解釈       三九

(2)

     労働法の解⋮釈       四〇

5意見を開陳いたしました。そのような要求にもかかわらず、学長その他の執行機関はこれは合法的であると申しまし・て要求を斥け、 最高裁判所にでも何でも訴えてみうと放言するようなしまつであったのであります。⋮⋮法律の明文に、教授会を設けなければならな いとい5ことが書いてあるにもかかわらず、どうして召集しなくてもよいというあべこべの解釈が成り立つかということは、誠に不思議 に感ぜられたのであります。・::このように一つの国家機関がある解釈をとって.法律の明文を無視しても、それがその権力を執行す る機関によってそういう解釈がとられている以上、それに対して何ら対抗の手段がないということ、これがまた実に不思議なことに考 えられたのであります。事実この問題は、例えばこの解釈が不当﹁であるとしてある酒量個人が裁判所に提訴してもそういう訴訟は受理 されないということでありますので、結局泣寝入りのままに、当時の執行部が自発的に教授会を召集するに至るまで待たなければなら なかったのであります。しかしながら、学校教育法及び教育公務員特例法の規定によって、単部教授会の議.を経ない人事が法律的に違 法であるとすれば、その聞に行われた人事はすべて無効でなければならないはずであります。しかしそれはそのまま合法的に成立して 今日に至っており、その後一切.の大学の運営は.そうした違法の措置の下になされた基鍵の上に運営されておる。こういうことは一体 法律的にどのよ5に考えたらいいのであろうかという疑問を深くもったのであります。⋮:これと同様な関係で.広く日本全体の問題 として国民の関心を集めております再軍備の問題、これなども私ども素入から見ますと.憲法第九条をいやしく屯国語の文法を知って いるものが読む以上軍隊を設けてよいというふうに読まれるということが、全く不思議で堪らないのであります。⋮⋮世閲でよくいう 合法非合法という区別が、法律学的に一体どこに存在するのかということに、非常な疑問を感ずるのであります。形式的に有効に成立 した法であれば、すべて合法的なものであり、それが実質的に法に反していても合法である。また実質的に法に反していない行動で秀 形式的に有効に成立した法に違反する行動であれば非合法に取扱われるということになると、極端にいうと、実質的に合法の行為が形 式的に非合法となり、形式的に非合法の行為が実質的に合法になるという、あべこべの現象さえ起って来ると思うのであります。かよ うに私は合法非合法ということが一体法律学的に、どのようにはっきり区別されるのであるか非常に疑問を抱いております﹂       ①

右はシンポジウム﹁法の解釈﹂における家永教授の報告の一部であるが、実際、ことがらはちがっても、誰しもこの

(3)

      ② ような疑問  法と事実の背離を経験しないものはないであろう。 この報告ならびに﹁教育の中立と鞄芯法との関連﹂な どに示された家永教授の見解  −法の解釈には一つの客観的な基逡・がある。而もそれは歴史学によって客観的に認識され るとするもので、たとえば憲法の改正について次のように主張される ﹁ロ、註解日本国憲注﹄は﹃何が改悪かは各人の主観的判断 によって異なるから﹄、 ﹃改悪﹄を許さないという学説は﹃一つの独断にすぎない﹄といっているが、 かくのごとき相対主華的判断停止 は法律学の任務を自ら放棄するとのそしりを免れまい。 何が﹃改正﹄であり何が﹃改・悪﹄であるかを一般的に規定することはむつかしい としても、具体的に何が﹃改正﹄で何が﹃改悪﹄かは、おのずから客観的に決定されるはずである。 ⋮⋮法律解釈学が自認として成立す る以上、何が﹃改正﹄であり何が﹃改悪﹄であるかも、科掌的に決定せられるはずである。たとえば、ある憲法変改が﹃改正﹄か﹃改悪﹄ かを判定する一つの客観的な基準として、それが歴史的進歩の方向に向っているか、 逆行の方向に向っているかを見わけることなど、き わめて重要な点となる。そして、歴史進歩の方向がどちらに向いているかは、歴史学によって.客観的に認識されるのである。 何が﹃改 正﹄で何が﹃改悪﹄か定められないなどと思うのは、一見法律学が謙護の美徳を発揮しているように見えて、 実は歴史学その地の人文 科学の普遍妥当性を侮辱するものにほかならない﹂  は法解釈学に対し、みのり多い 石を投ぜられたものなるが、右にあげ

た教授の報告の 部の読後感を述べるとω、教授が例にせられたごとき、多くの新制大学においてもそれに似たようなご

      へ とが必ずしもなきにしも非ずであったろうが︵それともこれはきわめて例外で、仙はき然たる﹁大学の自治能力﹂によって解決せら         ヘ  ヘ      ヘ  へ れたか、または﹁本省﹂の意向が唯一の権威となって平穏無事に運ばれたかはともかく︶ このように無闇と述べられたことへの驚       ヘ  へ

異。②、真理探究の殿堂たるべき大学に、なぜこうしたことがおこるのであろうか1 学者というもの、葦間家というも

      ち  で  へ のについて。的、旧制大学にも新制大学にもおそらく法律専門家がいたであろうがそうした人々はどうこの問題を受取り.

またどんな役割を果したであろうか。ω、教授の報告からはいかにも法を無視してことが運ばれ、したがって法の無力が

      ヘ  ヘ  へ 思われるのであるが、 一方学長その他の執行機関がこれは合法的であるとして要求を付けているのであるから、その主張

      労働⋮法の解釈       四一

(4)

     労働法の解釈      

龍脳        へ

の根拠はやはり法にこれを求めていることとなる。だとすれば法はある場合にはきわめて強力な力を発琿するが、ある揚

      ヘ  ヘ  ヘ  へ 合は全く無力である︵而も同じ法文が︶。では強力にしたり無力にしたりするのはなにか。法とはこんなにも融通無碍なも

のなのか。㈱、あるときは強く厳然とその存在を主張し、あるときは弊履のごとくすててかえりみら九ない法律というも

       も  さ      も  も

の、じっさい学界、政界、実業界そのぽかいずれの社会においても、ある問題を姐上にのせて虚心に論争のおこなわれる

ことは殆どなくて、問題の解決は、それぞれの地域社界の﹁権威﹂の一言で可となり不可となり、 ︵日本の社会は﹁封建

性﹂を拡大することによって﹁近代性﹂を拡大するという相矛指した二重撰造をもっている︶右となり左となるのだけれ

       ヘ へ ど、しかも﹁権威﹂が自らのうしろタテとする法律というもの一.一−それはキルヒマン ︵﹂巳冨嘱同。ぎユ畠ぐ9嗣二戸・・︸旨壁♪一。。8 一δ。。心︶ が﹁法学の学としての無価値﹂︵︺︶一〇薯〇二﹂Oo⊃一σq犀O詳︵周①胃底=﹁.5竃,酬難︹§芦︸灘名ご至OJaOゴ州ら6.︼一cO\一国︶ の講演で指摘したように ﹁立法者の三ツの”訂正の語演あれば、ム∵文集が忍ち反古と化﹂し︵ミっ=、。、.一・.暮一鵯コ牙・!ぎ哩気.・﹁︹5︵ξ互・鳶つ号目狙二﹄受業ごN。切一三葦7 ①ぎご芝。平芝着嵩葬戸↑↑箕弓︶、﹁蛸虫ども︵法律家︶が健全な木を見捨てて“果くいうごめく病める木にぽかならない﹂のであろ

 岬

   あるいはまた﹁法律はこうなっているから破産し、ても税金を払うべきだとか、公、安条例の届がでていないのに再軍 う力

備賛成集会は黙認するが、再軍備反対集会は届出のあることを知らない顔をして解散させるなどというような、任意の選

  ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ も      も へ        も も 択をどうして求めるかということに、力点をおく﹂諦弁の学としてその−宿命をになうものであろうか、または﹁相手のい

      

い分があるいは正しいかも知れないなどという疑問におそれることのないように﹂訓練して、役入として、大会社の社員

として出世したいと思うときに学ぶべき学︵事実、。天学の法学部は﹁出世﹄する人の孕りつどうところであった︶ーシロをクロと   ち  め   へ  な いいくるめる学であろうか。あるいはまた﹁ヒットラーの命令によってユダヤ人屠殺所の所長となったドイツ入将校が、数         ヘ ヘ ヘ ヘ へ

万入のユダヤ人を秩序正しく殺害し、衣服は消毒して配給にまわし、金冠は抜きとって中央銀行の金庫に送り、屍体は焼

      ヘ へ      を も        も ち も

いて肥料にしておきながら、ニュールンベルク法廷で昂然として﹃それは義務でした﹄と断言した﹂責任のがれの合法主

(5)

義の学なのであろうか。㈲、ではそんなものをこしよう大事にべんきょうしている法律家というもの、それは﹁腐敗した

木ばかり喰って生きている蛆虫ども﹂なのか、来栖教授が訴うごとく、憤るごとく、悲しむごとく、美しい交章で切汝と

        ⑦ 綴られた﹁法律家﹂とはなにものか。︵﹁世聞の人汝は、法律家は何だか人世にとって非本質的なものを有難がって、本質

的なものを軽んじているようにみている。そればかりか法律家は論理の厳正なような、勿体ぶった議論をするがそれでい

      も   セ   も   セ   セ   ヘ   ヘ       ヘ   ヘ       ヘ   ヘ   へ

て何となくうさんくさく恣意的で、相手によっては規則の運用に当ってずいぶん融通をきかせもするくせに、また相手に

ヘ  ヘ  ヘ  へ

よっては意志悪るく冷淡に規則を楯にとるとさえ感じているがそれは聞違っているといい切れる﹂か、だから﹁法律家は

余りに容易に、諦弁と非実際的なせんさくの邪道におちいるばかりであって、とめどもない小理窟やあらゆるたぐいのぜ

ね        い肉  その法律的文献は実におびただしい  が現われる﹂のである︶

 ラードブルフは、戦争につき﹁法律家にとっては、われわれ人間に委ねられた地球上には偶然が支溶すべきか理性が支

配すべきかの問題が提出される、地球の運命が決せられるまさにその勘合において、法がその絶対的支配を行うことなく

その支配を無政府に力なくあけ渡すべぎかどうかの問題である﹂ ﹁戦争を避けえられない醐としてこれと妥協するのは最

も法律家にふさわしくないことである﹂といった。にもかかわらず法律家は﹁却ってこの問題を回避しているのではない

  

か﹂とし、来栖教授はフレッド・ローデルが﹁汝法律家に呪いあれ﹂という著書で引用しているといわれるシエクスピア

ーの﹁先ず第﹁に法律家をみんな殺してしまえ﹂という暴言に﹁しきりと共鳴を覚え﹂ておられるのである。⑩

      ヤ   む    も   も   も    も   ち   も    も    も

 このように法律家はそのときどきの﹁権威﹂に都合のよいようにへりくつをでっちあげ、而も厚顔にも確信にみちた﹁

    ヅラ     も も       ライアイス 権威者﹂面をして堂々と虚言を吐く﹁嘘つき﹂で、ご都合主義者なのであろうか。 ﹁何とまた法律家は虚偽で無責任なご

     ⑪、、、、、、、、為、、 

、も、 とだろう。﹂あるいはまた自分の職責は果さずとも他人の僅かな過失をあれこれと非難し、自分はあぐらをかいて、入には ヘ  ヘ       ヘ  ヘ  へ  あ      ヒ       ヘ  ヘ  へ  な       ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ 正坐を要求し、 ︵論告するときにはあらゆる自由が許されながら、相手からはその;言句に対して最も形式ぼった注律上効果ある証

     労働法の解釈       四三

(6)

      労働法の解釈       四四

   コ   ののの       ヘ ヘ ヘ ヘ      ヘ へ 拠を要求する︶自分の眼のなかにあるうつばりは払わずに、他入の眼のなかにあるごみをとやかくいう勝手気儘なエゴイな        ヘ  ヘ  ヘ  ヘ ストのだろうか。こうした利己的専門家︵専門的利己主義者?・︶はなにも法律家だけではなさそうである。だが法律家も

また右のような非難を受けるに充分に値しているごとくである。こうした﹁煉瓦の価値より低い﹂法律家も多いけれど、

’しかしまた、 ﹁ダイヤモンドの価値より高い﹂法律専門家も少なくないのを否定しえないようである﹁およそ法学の専門 家となることを決意した入が、↓般に世.間では最悪質・最下等だと考えられている人の権利を無視したら、どうして人聞 の権利がまもられるのだろうか。⋮⋮この早咲.では、社会におけるどんな下等な人にせよ、まず人として生存する権利の        、 、 、 、 、 、 、 、 、      ⑫

あることを、明白かつ無条件的にみとめる義務を自分自身に対して﹂課している専門家は、社会的正義の実現のために﹁

      ヘ   ヘ   ヘ   ヘ  ヘ   ヘ   ヘ  ヘ   ヘ   ヘ  ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ  ヘ   へ

単に事実を事実として述べるだけでなく、事実を事実と信じない入に薄して、また事実を事実として信ずることが誤りで

 、、、、、、、、⑬

あると信ずる人を前にして論証し、説得する﹂のを止めないであろう。だがおそらく権力の下僕に甘んじない法律家は、

自信がない故に、自己の地位や裁判所の権威を、事実より重んずる人々によって、幾干入の労働者の劣悪な労働条件の上

       ヘ  ヘ  ヘ  へ

にきずかれた莫大な会社の利益も、それは資本家の経営が上手だからとうそぶく入々によって﹁極悪人﹂と推定されるで

       ヘ  ヘ  ヘ  へ

あろう。だがこうした法律家は小心よくよく気の弱い﹁極悪人﹂なのではないだろうか。そしてある種の法律家はこうい

う宿命をになっているものなのだろうか。

  ①﹁日本法学の課題と展望﹂四六∼八頁       

・   ②  法葎[時報”笛叩二六巻脾弟四暑マ一渦ハ頁      ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ       ヘ   ヘ      エ   も   ヘ   へ   ③﹁議論で勝つことは、協同体関係を破壊し.長く反目怨恨をのこす結果となる。自分の見解が優れていることを示ししかも﹃打た       ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ       ヘ   モ   へ    れ﹄ないようにするには、勝ってはならぬ。 ﹃相手に逃げみちを与え﹄はじめから落手の意見は正しかったのだといえるように用意    し.自分は馬覧てよく分らないので.相手のご教示にめずかるために.材料を提供するにすぎないのだというふうに、とほけなければな        ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ       ヘ   ヘ   ヘ   へ    らない。 ﹃負けるは勝ち﹄アメリカ人のようにスポ・iツの精神で議論することは維対冷物である﹄ ︵川島教授﹁豆身出世﹂展望九号

(7)

 一二頁︶拙稿﹁建封道徳﹂彦根論叢人文科.学特輯第三号参照。田中豊喜教授﹁労働運動の日本的特質と.その基盤﹂明大商学論叢五十  周年記念論文集所牧参照。 ④﹁右の非難に対して幾多の反駁や是正が企てられているか、解繹法学と歴史学とを比較し、歴史学が繕えず変化しつつある事柄を  対象としているに拘わらず、その対象の変動の故を以てしては歴史学の科学としての無価値が叫ばれないのに、解繹法学に於てのみ  何故に対象の変動の故を以てその科学性を疑わなければならないかといっている。併し右の場合に見逃されている一事は、歴史学の  対象が常に過去11現在的なものであり、また事実としてのみ存し、なんら現代人、とくにその研究者を拘束するものでないに反し、  解繹学の対象とするところのものは、ただに過去月現在的規範法則であるのみならず、未来μ現在的規範法則として社会蛇体の成員  とくに研究者を拘束するものなる点を省みる必要がある、この点、すなわち公営法学が規範法学なることを考慮の中に入れる以上は  その対象はしばしば変動し、とくに無軌道的に変動するようなことでもあれば、理論解物学にとって致命的なるものなることを認め  ざるをえない。しかしこれか解繹法学にとってもって生れた淫命なのである。キルヒマンが、かかる性格を有.する三聖法学を科学と  して無価値であるといったのは、彼の後年の著述﹁法と道徳の蕪本概念﹂︵∪げOコ深き○鳴罵詩型。。・罰Φ昌富g螂自案。量r一cOひO︶の説明  によってあきらかであるように、自然科学的方法に基かざる学問から科学としての価値を奪うべしと宣言したにほかならぬから、自  然科学以外にも科学があり、その科学が自然科学とは異る対象と方法を以て成立しうることが論談されることによリキルヒマンの非  難におちかつし ︵広浜教授﹁法理学﹂昭和=一年度京大法学.部講義︶ ⑤戒能教授﹁法律誰話﹂六七一八頁。 ⑥同書六九頁。勝部元氏﹁現代のファシズム﹂参照。 ⑦来栖教授﹁法律家﹂未川先生還暦記念論丈集﹁民事法の諸問題﹂駈牧昭和二八年。 ⑧ 同書二三九頁。        め  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ     ヘ  ヘ  ヘ  ァ  ヘ  ヘ     ヘ  ヘ      ヘ  ヘ  へ   ﹁ブルジョア的な学者や詳論家たちは、⋮⋮深い根底を隠敬し、その代りに個々の事実や附随的な細目に重きをおいて⋮⋮注意を  ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ      ヘ   ヘ   ヘ   へ  本質的なものから、逸らせる﹂﹁帝国主義﹂岩波版 五七頁。﹁法学者社会主義﹂マル・エン選集第一七巻︵下︶三=一頁。 ⑨ 同書二五〇頁。 ⑩来栖敢授﹁法の解繹と法律家﹂私法第=号一七頁。 ⑪同書二三頁。        ゆ

    労働⋮法の.解釈〃       四五

(8)

    労働法 の 解釈

⑳の2  ﹁家族、私有財産及び国家の起源﹂岩波版二一f二頁。 ⑫成能教授前掲書七三頁。 ⑬ 同書七五頁。 四六 二

 ﹁犬と日本人入るべからず﹂の立札が、かつてどこかのくにの公園にあったとかなかったとか、それはともかく、法律

      、 、       ⑭

教科書の教えるところによれば法の解釈には、たとえば、拡張解釈︵権利の抑制に用いられた”じ縮小解釈︵権利容認の

ときに用いられた口門︶勿論解釈、反対解釈、沿革解釈などなどいろいろあるとする。では右の立札はどう解釈すべきか。

﹁犬と日本人入るべからず﹂だから﹁犬﹂と﹁日本入﹂は入ってはいけないと解するのが一応普通だろう。尤も、犬は字

が読めないから、こxに犬というのは、 ﹁日本人﹂以外の者が犬をつれて入ったり、または犬を放してはいけないという

ことであろう。 ︵﹁犬﹂と﹁日本人﹂と並べてあるのだから[−日本人﹂は﹁犬コP﹂同然と考えられているとすれば﹁B本人﹂をつれて入る       ヘ へ       はい ことも許されないことをも意期する。どちらに解しても︵日本人を入間とみるか、犬コロと同じにみるか︶入れないことには変りないが、 人間とみるときは﹁日本人﹂が立札を読みうることを前官とし、従って﹁日本人﹂が独りで入ったときにも責任を問われる点に違いがあ る。﹁犬コ戸﹂同然だとすれば﹁日本人﹂は凡ての責任から解放される一字が読めないとい5ことは人間の場合免責の理由にならない。 世間には字の読めない八があって竜法律はピシピン適用されるし、また裁判規範か社会規範かの問題はともかく、難渋な法律などほとん どの人は読みもしないし、読んでもわからないようにできている。生活に最も関係ふかく、一蕎の関心事である税法は専門家でも一度や        へ 二度読んでわかる人はなかろう。憲法は国の基本法だといっても、多くのべほ憲法を読んだりみたりしていない。 地方公務員で地方自治          へ あ       ヘ へ 法や地方公務立法を通読した考は少ないだろ5し国家公務員で国家公務員法を通読した者も少ないだろう。 また読んでも理解に苦しむ条       ヘ  へ 文︵九八条など︶が多い。 かつてわがくにが大陸侵暑にのりだしていたとき、かのくにの入、は日本人は戸〆だとおそれた。法三章のく 〆

(9)

      ヘ  へ にで精緻な法律の過多は実際目に見えない暴力であったろうしまた適時暴力を発揮した。 ﹁正義の法﹂はいよいよ完備して事実はいよい よ法から離れていったようである。 ﹁累進税、扶養家族の控除、最低生活費の免除.保険料の控除、奢修重壁などなど。 併しこの頭上で        一      ⑭の2 租税の構造、配分そのものはいよいよ精緻且つ公平で,それを麦える所得の分配はますます不公平であるとい5奇怪なる事実﹂そのまま、       ヘ   コ 税法はいよいよ完記して、課税は税務署の温かい慈悲により、いよいよますます不公平のようである。 ﹁立法家は、ただその包容する規 定の精神によってのみなちず、其の規定が現わされる形式によっても亦、法典をして通俗的な民衆的立法たらしめようと努めたのであっ       ⑮ て、平易なる通用語を以て一むずかしい術語をさけて一作ろ5とした﹂のとことなり、ヴインドシヤイドのいえるごとく﹁俗物ども﹂       ヘ   へ にはわからないものとなっているのである。立札だけでなく人間は案外犬コpあつかいされているのかもしれない︶。  ﹁犬と日本人﹂は入ってはいけないが、それでは﹁猿﹂はどうだろう、 ﹁馬﹂はどうだろう。 ﹁黒入﹂はどうか、 ﹁蒙       ヘ  ヘ  へ 古人﹂はどうか。 ﹁犬と日本入﹂に限定すれば入ってよいことになる。 ﹁犬と日本入﹂のごときものに拡張すれば入って は悪いことになろう。それはその目的によるといったところでその目的は唯 のものではない。 ﹁法解釈学は一般に殆ん        ヘ  ヘ  へ

ど類推だとか反対解釈だとかいって、形の上だけは如何にも理窟の通ったようなことをいいながら、結局目分量でやって

  ⑯ いる﹂の感はまぬがれない。労組法は﹁刑法第三十五条の規定は、労働組合の団体交渉その他の行為であって前項に掲げる目的を達        ヘ  へ 成するためにした正当なものについて適用があるものとする﹂︵第一条二項︶と規定するが﹁正当なもの﹂はあるいは広く、ある      ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ いは狭く﹁なんとでも﹂解釈である。労調法第三五の二の﹁争議行為により当該業務が停止されるときは、国民経済の運行を著しく        ⑰ 阻害し.叉は国民の日常生活を著しく危くする虞があると認める事件﹂の解釈もそれぞれの立場からいろいろに解釈される。借家        ⑱

法の正当事由、信義田圃、公序良俗、労災保険の﹁業務上﹂、民法第四三条の﹁法入の目的の範團﹂ピクツテイングや余後

      ⑲

効の問題などなど数えきれない。数えぎれないのは当然で法の規定は一つとして確定的な解釈をもたぬといってよい。田

中博士は﹁司法官は⋮⋮法の解釈及び適用に当っては自己を空うして白紙的に法に盲従するものである。彼は自己の世界

観に従ってすらも行動することができない。司法宮としての地位に在って行動する揚合において彼は政治的権力より独立

     労働法の解釈       四七

(10)

     労働法の解釈       四八

       

していると共に、又本来の自己よりもi一自己の政見、学識、世界観−一独立していなければならぬ﹂と主張されている

が白心的に、盲目的に法に従えといっても、法の規定そのものが本来抽象的なとき、いかにしてそれが可能か。空虚な言

葉でしかない。

 ﹁従来の法律学のやり方は、でき上った法律を解説して、それにもっともだという理窟をつけて、法律の権威を擁護す

る。⋮⋮あるドイツの学者がいったように、これまでの法律学は実定法のすべての規定に、もっともな﹁立法理由﹂をつ

       ⑳      、 、、 けてジヤステイフアイする学問﹂であり科学ではない、説教学であった。法律家は﹁与えよ、さらば解釈せん﹂︵ひげ鶉罎。。。︶       ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ で実定法の下⋮僕でしがなかったのである︵論理的包播機械︶。 法律はなんのためにあるのかということは、ここでは全く 無視されていたのである﹁法はわれ’われによって単に解釈さるべき概念や思想なのではなくして、われわれが社会にはた

      ⑳

らきかけ、われわれの意図するような社会関係を創造してゆくための手段にぽかならないという認識や自覚﹂は全くなか

ったのである。この与えられた実定法を一つの完結体︵ω。蒙茜。。,。冨。。。訟の魯Φεとみ、成文.法規を絶対視し、型にはまった形 式論理により三段論法的に結論をみちびくことを、これこととした概念法学︵bご罐内属.甘鴨一月H︶三口。嵩︶は﹁法の民衆の乗離﹂ ︵国暮守Φ巳毎槻・葦。・9霧國。。三碧測く鼻︶を結果し﹁法律家の世間知らず﹂︵慈。寵胃§爵舞滑茸む目算8︶をつくりあげたのであ       ヘ へ る。自由法学は法をこのように傲慢な孤立から解放し、それはやがて﹁生きた法﹂︵︸①びO昌山①oワ 濁①O]]叶︶を発見しようとする法 律社会学的研究方法︵局ΦO︸Pけ加州QO凶一〇回O㎎一〇慶∩.げ① 寓Oけ財O馳O︶をみちびくのであるが、しかし法律理論的研究方法︵q。σq筥簿訪昌甘ユ軍器げΦ

       ⑳

寓。茜。魁。︶は依然として少なからぬ信奉者をもっている。また市民法には法社会学的方法をとりながら案外労働法において        へ ゆ へ 概念法学的立場に陥る法律家のあるように、しらずに引.き込まれる安易性をもっている﹁法解釈釈は、実是法を対象とする。実 定法は、現実に行われているか否か、現実の法感情とか法意識に合しているか否かを問わない。ともかく、国家権力によって認証せられ ている強制規範である⋮:したがって、その構造がいかなるものであろうとも、それを直接分析しようとはしないこというまでもない・

(11)

のみならず.法解釈は、実定法がいかなる社会的諸要因にもとずいて成立し.国家権力の認証をうるに至ったかの過程を分析するを任務    ゆ      の としないしというごとぎは概念法学の最.たるものであろう。そしてこのような立話は常に﹁社会的関心に応ぜんとするが

ごときは、法的判断の領域を越える﹂とするのである。しかし、もしこのような立揚で憲法改正規定の無制限性をみとめ

るとしたら、日本国憲法の根幹をなす国民主権も基本的入権も戦争放棄の規定も浮浮に改正しうることを意越する。そう

       も ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ

とすれば、概念法学的な解釈者の意図はともかく、現段階では、まさに﹁社会的関心に応ぜんとする﹂こととならざるを

えない。旧大日本帝国憲法時代に第一条﹁大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス﹂や第四条﹁天皇ハ国ノ元首ニシテ統

治権ヲ総擬シ此ノ憲法ノ条項昌依り之ヲ行フ﹂なる規定も亦改正しうる.との﹁法的判断﹂を絶対にきかなかった。当時に

おいて改正すべきというがごとぎは夢想だにされなかったであろう。だがしかし、概念法学者は政治の問題と法律の問題

        ヘ  ヘ      ヘ  ヘ  ヘ  ヘ      ヘ  へ

を峻別することを主張するのであるから、その主張の﹁法的判断﹂からなぜ改正規定の無制限性が堂々と述べられなかっ

たのであろうか。.それが述べられなかったということは、当時においては、まさに﹁社会的関心に.応ぜんとしたこと﹂と

ならざるをえないであろう。概念法学といえども、与えられた実定法を不動とすることに、それを動かしめざらんとする

ところに価値判断をもつのであり、それ故にこそ法.律家は解釈に対して政治的責任をもつべきだといわれる所以である。

 法を解釈するに絶対に正しい客観的な法則はないものかどうか、法律家はどうあるべきかについて昨秋来活濃な論争が

おこなわれた。つぎにその主たるものを要約してみよう。  ⑭ ﹁法律を潜腕し、法律を優す.ための手段ではなく、法律を正しく、正確に適用する手配﹂であるはずなのに。﹁国家と法の理論﹂   下巻三四六頁。  ⑭の2 島教授﹁財政学概論﹂九三頁。  ⑯ 未川教授﹁ソヴイエTト、ロシヤの民法と労働法﹂一五頁。  ⑯  ﹁法律学はいかにあるべきか﹂法律時報第二一巻第四号=二頁。      労 働 法 の 解 釈       四九

(12)

労働法の解釈

五〇   ﹁実際、何か解釈.上の偉いがおこると、互に自分たちと思想傾向を同じうする法学者のと二うにいって結構自好達の希望する解釈        ヘ  へ  をしてもらってそれを宣伝しているのである﹂ ︵来栖教授﹁法の解釈と法の門守﹂法学協会雑誌 第六八巻 第五号 三三頁、 ﹁法  解釈.学の科学性﹂法律、時報 第二六巻 第四号 五一頁︶ ⑰ ﹁改正労働法と労働権﹂法律時報 第二四巻 第九号参照。 ⑱ 拙稿﹁労災保瞼.の﹁業務上﹂について﹂彦根論叢 第一九号。 ⑲最高裁判所は﹁期聞の心ある建物の賃貸借が、更新拒繕の通知か効力なく、借家法第二条によって前と同一条件をもつて更新され  た場合でも、賃貸入は、その後正当の事由があるかぎり、解約の申入をすることかできる﹂と判示した︵最高裁判例集 第六巻 第  一号一頁以下︶が、通説は更新された賃貸借の期間は更新前のそれと同一とし、同一事件のなかには当然期閲もふくまれるとする。  解釈の複数たる一例である。 ⑳ 田中耕太郎博士﹁司法官論﹂教養と丈化の墓礎 三五二頁。 ⑳ ﹁法律学はいかにあるべきか﹂法律時毅 四五頁。 ⑳  同圭日  一六頁。        さ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   セ   へ   ﹁法はある目的から生れていなから.その瞬間より。何等その目的の実現を顧慮することなく、単なる自己のゴ生存のために安当し  ようと慾し、自己固有の法則に従い、自己目的として生きようと慾する﹂ ︵ラードブルフ︶ ⑳  ﹁日本か明治になって西ヨーロッパの法律学を受入れた際に、こういう法律を支えている現実的な経済的、社会的乃至政治的な構       さ  へ  造や、それと結びついた一般的な社会思想から遊離して、いわはその形骸だけを輸入した。これを逆に裏返しにしてみると、貰本の  国内の民主的要素というものが殆んど成長しないで来たために、西洋の近代的法律学がその現実の地盤および思想的地盤から切り離  れて輪入されなければならなかった。元釆フランスやドイツの技術的法律学というものは、近代的な思想の地盤によって酬えられて  いたはずなのです。ところが、そういう事情の下に、それらの法律学が韓土されたから、法律学は単なる概念法学になり、社会生活       ヘ  ヘ  へ  の現実の地盤や社会思想の地盤から切りはなされた単なる技術法学になった﹂のである︵同書 四頁︶また﹁市民社会の発達してお け       ヘ  ヘ       ヘ  ヘ  へ  るところで一応でき上った立法というものは、大体市民の権利義務を尊重してできてカるから、そんなに喧しく解釈をしなくても﹂   ︵同書 五頁︶よかったのである。   ﹁現在では殆んどゴベての法律家は概念法学、概念法学といって好んで相手の議論を罵倒する。しかも未だ殆んどどの法律家もー

(13)

 自分もその一人だつたけれど一概念法学の欠点から免れていないのである。そして概念法学のそういう観念の仕方は一の形而上学で        ぬ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ       ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ  あり、また自分の主観を客観の名にかいて主張しようとする。つまり、権威を借りて主張しようとする一の権、威主義ではないだろう  か。従来概念法学に姦判官の恣意の誹除乃至法的安定性の機能を安易に結びつけていた。しかし概念法学における権威主義を看過す  べきではない﹂ ︵来姻教授﹁法の解釈と法律家﹂私法 第一一号 二〇頁。︶   ﹁民法の領域に治いて法社会学的な態度をとりながら、労働法の領域においては逆に概念法学的な解釈によって労働者権を守ろう  とするなちば、善き意図の統一はみとめうるにしても、法理の矛盾をいかともしかたいと思う﹂ ︵沼田教授﹁組合自主法と団結権﹂  石田交次郎先生還屡記念﹁私法学の諸聞題︵二︶﹂所牧 二三五頁︶ ⑳ 金由[教授﹁法解釈学の前提﹂佐々木惣︸博士編﹁人間生活と法及び政治﹂所牧 三九f四〇頁。 ⑳  ﹁国家は、ひとたび、社会に対立して、自立越権方となるや、さらにより以上のイデオロギーをうみだす。職業政治家や国家法の  理論家、私.法の法律家にあっては.法.律と経済的事実との関係は、まず、わけもなくすっかり消え失せてしまう。あらゆる個々の場  合において、経済的事実か、成文法の形式で允可されるがためには、まず立法的動因の形式をとらねばならぬのだから、そして、こ        ヘ   ヘ   へ   あ   も   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   へ   る   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ      ヤロ  ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ギ   ヘ   ヘ   ヘ      ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   へ  の場合には、すてに、効力をもつている全法律体系に対する顧慮が必要なのだから、今度は法律上の形式か︸切で、経済上の内容な  ヘ   ヘ      ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ       ヘ   へ  んか、どうでもよくなる。かくて国家法と私法とは、それぞれ独自の史的発達をともなった独立の領域として、それ自身で、系統的  叙述ができるものとして取扱われる。そしてそれには、めらゆる内部的矛盾の一掃をもつてすることが必要となるのである﹂︵エン  ゲルス﹁ルドイッヒ、フォイエルバッハとドイツ古典哲学の終末﹂岩波丈庫版 九二頁。      ’   ﹁法律は、より以上の社会的発展とともに、多少広汎なる立法となる。この立法が、複雑となればなるほど、法律の表現方法は、  読会の、普通の経済的な条件が表現せらるる表現とはますます離れたものとなるのである。法典は、経済的関係からではなく、それ  自らの内的根標、から、すなわち、わたしをしていわしむれば、 ﹁意志概念﹂からその存在の是認と、発展の晶晶・とをえ来る独立の要  素として表われる。ひとは、かれ等が、動物界からの起源を忘れてしまったように、経済的生活条件から、法律の発生することも忘  れた。法典の複雑にして、広汎なる全体への展開と共に、 一の新らしい社会的分業か.必然的におこってくる。すなわち職業的法律  家の階級層が形成せられ、それとともに法律学か成立するL ︵エンゲルス﹁住宅問題について﹂マル、エン集 第=一巻 八二頁。︶ 三

労働法 の 解釈

五一

(14)

     労働法の鯉⋮釈ハ      

五二

 来栖教授の見解。       、

  ﹁法の解釈というものは、客観的にただ一つというものちやなくて、やつばり複数の解釈の可能性を認めること、そ5して自分が正  しいとする解釈も、その可能な複数の解釈の中の一つの選択にすぎないということ、そしてその選択がど5してなされるかというのに  自分の個人的な価値判断によって影響されるんだということ、したがってまた自分の正しいと思う解釈、自分がこうありたいと思う解  釈を実現するというか、現実的に法たらしめるためには、主張しなければならないこと、そして法の解釈の争いは政治上の争いであり        、 、 b 、 も 、 、 、 塾 も     ⑯  解釈の結栗を法のせいにしてしまうわけにはゆかないんで、それに対して政治的責任を負うべきである﹂﹁科学としての法律学が法の  解釈を制約すべきものを確定すべきだとしても、法の解釈を制約するとされる﹁わく﹂そのものが既に解釈するものの価値判断によつ  て左右されるんじゃないか、法の解釈は主観的なものと客観的なものとの限界のあいまいさに苦しまねばなら諏という宿命を負ってい  るのじやないか。法の解釈を制約するものがあることは当然だが、その制約ほ解釈する個々人によって異って感ぜられるんじゃないか  しら。そこでぼくは法の解釈に対する制約は法の解釈に二通りのものがあるのに対応して、二様に考えることができないかしらんとい  う気がしている﹂

 として、各市民の行う法の解釈と、裁判官が裁判をするに当ってその基礎とすべぎ法の解釈があるとされ、前者こそ法

の解釈の基礎であるとしてつぎのように述べられる。   ﹁ぼくの解釈理論の要点は市民が法の担い手たることを強調したいところにあるんで、むしろ各市民は自己の解釈をもつて争うべき        ⑱  なんで、裁判官は社会における法の解釈の争いの判定者として裁断を下すんじゃないか﹂﹁このように、法の解釈の複数の可能性があ  り、そのうちの一の選択ほ解釈するものの主観的価値判断によって左右される。しかもその一つが裁判所の判決の基礎となる。そこで        も   め   も   も   む   も   も   セ  法の解釈の争いは、何が法であるかの争ではなく、何を法たらしめんとするかの争い、裁判官をして如何なる判決を為さしめんとする

劣争い裁判寡・し嘉何なる馨創造芒めんとするかの争である皇有凄ければならない﹂。

 法律家が従うべき正しい法の解釈の方法は

(15)

 ﹁一言でいえぼ、法規範を実定法の規定からの論理的演繹によってでなく.現実の社会関係の観察・分析によってその申から汲みと るべきである。こうした解釈の方法を社会学的方法と呼んでよければ・:法の解釈に当っては祉会学的方法を一貫することを努めなけ       ⑩ ればならない﹂しかし祉会学的方法を一貫すべきだといってもそこにほ自分の価値判断によって望ましいと考える法規範を具体的につ くりだそうとする意慾が加わっている。だから﹁ある事件の法的判断については、ω =疋のわく・:・の範囲内における解釈の複数の 可能性、② 自分の解釈はそのうちの一つの選択にすぎないこと、③ 選択可能な解釈の問の争いは、形式的な埋由に基く争いでなく て、実質的な理由に基く争いであり、それは解釈するものの主観的価値判断によって影響されること、ゆ 従って法の解釈の争いは、 政治上の問題に関係するときは、一種の政治的争いであり、解釈の結果を単に法のせいにしてしまうことは許されず、それに対して政 治的責任をもつべきことを率直にみとめなければならない﹂﹁そうい5ところがら、単に、法の解釈というものは、論理的な過程だけ      、 も      ⑪        , でなくて、決断の面がある﹂

教授は今日までの概念法学は、つぎのような法律家をつくりあげたとして、適確に以下のように痛論される。

 ﹁㈲ 法律家はいっとはなしに、法律と正義とを混同し、法律に対する批判精神に乏しい傾がある。回 その半面、法律を超越する かに見える問題、例えば戦争か否かの問題については、却って諦観するかに感ぜられる。困 そればかりではない。法の尊重を標榜し          も “  馳適      ’⑩ ながら、却って法の歪曲を敢てする。そのゆえに法律家はしばしば読弁家乃至三百代言に陥る危険がある﹂ 川島教授の見解。  ﹁いったい.法律の解釈というものはケルゼンがいう遍り一つの実践行為ですから、それは歴史の発展を促進することもありうるし また、逆に歴史を後戻りさせるような解釈も可能であって、とくに現在のような時代には実際上非常に大きな意味をもつてくる。そう して.法律解釈学が、このいずれの歴史的役割を御すかということは、まさに法律解釈学のよってたつところの思想的地盤というもの によって決定される。こういう意味で、法律解釈学には、すべての入子が関心をもつべきであり、また民衆は法律解釈学に対して一定       ︸ ・ b      、し        ⑱ の範囲では、発言権を亀っているし、法律解釈学は民衆に対し責任を負っている﹂

    労働法の解釈      

五三

(16)

     労働法の解釈      

五四  ところが今までは法律解釈学は﹁秘伝奥伝﹂的な技術の性格をもっており、多くの人汝に法律.学をこのような職人的技

術の体系だと思わせてきた。法律学の講義でもいろいろな理論が教えられる。しかしその理論は物理学や数学や化学など

の理論とはちがっている。自然科学や他の社会科学においては、ある理論が正しいかどうかは実験とか観察によって決せ

られるのであって、ある人中がそれを欲するかどうかによっては影響されないはずのものである。 そしてこれが科学の

         ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ

特性である。教会が欲しなくても、やはり地球は太陽のまわりをまわるのである。ところが、法律学における理論では、

たとえば宮城前芸揚をメーデーに使うことを禁止することが合法的であるかどうかについては合法説と非合法説が対立す

る。ところがこの両者のいずれが正しいかを決定する客観的な基準はあるのだろうか。法律学者の夫々が主張する解釈洋

上の争は多くの場合﹁水かけ論﹂であり、結局はカー⋮−多くの場合政府の権力が  それに解決を与える。したがって法

律学は弁解、諦弁、弁論の技術ではないかと疑われるが、この問題に対する鍵をつぎのように解かれる。

   ﹁立法および裁判の形で表われる法的価値判断は,単に個人の主観的な意欲や感情に依.存するものではなくて、原則として当該の祉       ヘ   ヘ       ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   へ  会の中の一定の範囲の人々の利益の基礎の上に立つところの社会的な価値体系を反映するものであり、そのかぎりでの客観性をもつも        ヘ  ヘ  ヘ  へ  のである。しかし、このことは同時に、対立しあう諸ζの価値体系が、それらを交える利益や人々の存在するかぎりでそれぞれ客観的に  存在することを意味する。だから、諸ζの価値体系の中のいずれが﹁正しい﹂かは、結局はどの価値体系の立場から判断するかというこ       ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ  とにかかってくるのであり、この意味ではその﹁正しさ﹂は相対的な意味しかもち得ない︵もちろんそれぞれの入にとって一例えば  私にとっては  ある一つの価値体系、価値判断のみが正しい︶たとえば、封建地代の牧取を基礎づけている土地関係を穫上すべしと  する価値判断︵農地改革︶は、地主や地主政権の利益の擁護を最高の価値とする立場からは絶対に﹁正しくない﹂し、これに反し、小  作人の利益の擁護を最高の価値とする立場からは﹁正しい﹂のであり、この二つの対立は.それぞれの価値体系の基礎となっていると   ころの利益の対立が社会の中にあるかぎり存在する。そうして、この二つの対立する主張の争は、結局水かけ論である。・:・農地改革  を﹁正しい﹂とし或は﹁正しくない﹂とすること、すなわち右の二つのうちの何れかの立場をとるということは、優先選択コ.。﹃︹屯2μ8

(17)

      ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   へ という実践行動であって、現実の生活の・甲で何れが勝つかは、実践行動が決定する。しぼしぼこの対立は、価値判断の名においてでな        ヘ  へ く.科学の名において戦われる。しかし、ある一つの価値体系の権威を絶対的のものとして、それに基く﹁解釈﹂を主張すろ法律学は ただ神学と同じ意味においてのみ﹁学問﹂ ︵教義学︶であるにすぎず、 ﹁科学﹂ではない。科学が発言しうるのは、どの価値体系を選 択するかではなくて、つぎのことについてである。すなわち、農地改革はどのような社会的価値に奉仕し、またその社会的価値はどの 価値体系にとってどのような馳位にあるか︵価値判断と価値との関係、価値と価値体系との踏肥︶またどの衝楚体系はどのような利益 関係を反映するか︵価値体系の祉会的”経洛的貯政治的基礎︶社会の発展法則に基いてどの価値体系が将来麦配的の竜のとなるであろ うか等々がそれである。::このことを法律学について考えてみると、次のとおりである。すなわち、既存の価値体系の構造やまたそ れに基く諸の価値判断の相互関係を明らかにすることによって、人は、将来裁判所によって与えらるべき価値判断を発見することがで きる。また、どのよ5な価値判断はどのような価値体系と矛盾し或は調和するかを明らかにすることによって、入は.ある価値体系の 方向へ立法や裁判を指導することができる。また.社会発展の法則や社会における利益の相互関係を明らかにすることによって、どの        ヘ  ヘ       ヘ  へ ような意昧・作用をもつか、また将来怒罵的となるか、を予見し、またそのような分析に怪いて社会を変身することができる︵ただし 裁判による﹁革A叩﹂などがありえないことはいうまでもない︶このような意味において、尊信[判断を対象とする法律学は、他の科掌と      簿 、    、 、 、      ⑳ 同じ唇 絡で科学の名に但するのであり、仕会に対し重要な役目を演ずるL﹁法律解釈は一つの価値判断である。だから、法律解釈の﹁       ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ 客観性﹂は、結局その価値判断の基準となる価値体系の﹁客観性﹂の問題に帰着する。⋮⋮それら種々の価値体系は、それを麦持する ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ       ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ それぞれの人々にとっては、唯一最高のものであるということです。そうい5意昧では、価値体系は﹁主観的﹂なものです。しかし、 ある価値判断がある一人にしか﹁漣用﹂しないか、それともある価値判断者を超えた多数の人々に﹁通用﹂するかということは、また 別個の問題で、それは、その価値判断の基準となった価値体系が多数の人々によって麦持されているかど5かによって決まります。で すから、曇る価値判断が判断者個人を超えた多数に﹁遍用﹂する、という意味での﹁客観性﹂は、その価値判断の基灘・となっている価 値体系を支持する人々の数に比例する、という﹁量の問題﹂に還元することができることになります。或る価値体系が多数の人々に支

    労鯉働法の解釈       

五五

(18)

     労働法の解⋮釈       五六

 持されているなら.漏る個人がそれに基いてなした価値判はその多数の人々に﹁通用﹂する。・:・しかし、その価値体系を支持しない        ヘ  エ  ミ  へ  緊々には、﹁通用﹂しない。それらの人々にとっては、その価値判断ぽ﹁主観的﹂なものとして現われる。こ5いう意昧では.﹁客観       ヘ  へ     あ  へ  性﹂は相対的なものでしかないわけです。人々が価値判断の﹁客観性﹂と呼んでいる現象、そう観念している現象は。経験科学の立場        ⑳       ・、 、 、  からみれば、こういうものしである。﹁無情科学が発言できることは、Aの価値体系とBの実学体系のどちらが好ましいか、どちらを    へ     ヘ      へ  も  モ  支持すべきか、というプレフアンスではなくて、AとBとの価値体系はどのような人々によって麦えられているか、歴史ほどのような  方.向に向って動いているか、将来にはどのような価値体系が弱くなり或いは死滅し、それに代ってどのような価値体系がより多くの人       ㊨       も ㍉ ち ≧ ︸ ち も b 唱   為 ﹄ ︸ 、 、 ち  々によって麦持されるようになるかということについての予見が﹂経験科学の仕事でおる。ただし科学がど5いおうと、歴史の歯車を  セ   ら   も   ち   も   も   ヒ       も   も   も   も      セ  逆にまわそうという人はでてくるし、現にいる。その人達の価値判断、価値体系の支持を否髭することは科学ではできない。 ﹁法律学  では、価値判断が現実の具体的問題についてなされるその易面において、価値および価値判断が問題になる。ある具体的な値価判断か  ら出発して、それを審査し整理し秩序づけるために、価値とその体采が問疑になるのであって、どこまでもエンジニアリングが問題の        、 ・ ・      ⑭  中心となる。・:・第二にほ、コミユニケイシヨンの鼠殺としての法律のことば的心術の研空﹂

 法の解釈には客観的な基準がある筈だという家永教授の見解については︸にふれた。

 尾高教授の見解は、法解釈学の本質は、常に、法を生ぎた社会現象の上に活用する実践的機能をいとなむ点にありとし

科学の概念を純粋の理論科学のみに限定する立場からは、法は厳密科学でぱなく、法適用のための技術論にすぎないとさ

 ⑳

れ、法の解釈を方向づける価値判断は、複数であり、多元的である。対立する議論の上に立って、その一方だけが絶対に

正しいと判定しうる・神格隻そなえた審判者はいないとしげ﹃薬馨の見解とするどく二身。れる・⑩

 田中教授は以上四教授の見解を要約されたあと﹁、私見﹂として、来晒教授の見解に対し﹁教授は、政治上の聞題に関す

る場合には、解釈の結果について政治的責任を負うべきであるとせられるのではあるが、﹁正しい法の解釈﹂は、政治的

にも正しい結果をもたらすものと考えられるのであろうか。そうだとするならば、政治的に正しい結果をもたらすような

(19)

選択をなさしめる価値判断は、いかなるものと考えられるのであろうかしと問われ、長谷川助教授は﹁解釈者の主観的価

値判断にとどまり、各人の主観的価値判断が客観的には、いかなる論理構造をもつて、社会的に存在するのかまでのべら

       

れてはいない﹂と批判される。舟橋助教授は︵実は長谷川助教授も方法論的には来栖教授と同じマックス・ウェーバー的

方法論であると批判されるのであるが︶、実用法学とよばれることによって示される法学の実用性は、法学発展の落丁的

性格にねざすものであり、たとえ進歩的立場のものであったにせよ、法の解釈にあたって価値判於を重視する立場は、方

       ノ

法的にいって﹁伝統的な実用法学の泥沼から一歩も抜けだしていない﹂といわれている。

 川島教授の見解について田中教授は、川島教授が価値判断の客観性の度を﹁量﹂にもとめられたことに対し﹁判断がな

された時には、価値体系を支持する人々の数が少く、そしてのちに支持者が支配的となったとしたら、a、価値判断の客

観性は、判断がなされた時においては小さく、のちに大きくなるのであるか。b、判断がなされた時においてすでに大き

いとすべきであるか。﹂と問われ長谷川助教授は、多元的に存在する価値体系のうち、いかなるものが決定的に重要なも

      ヘ  ヘ  ヘ  へ  ゆ  ゆ      ヘ  ヘ  へ

のであり、いかなるものが附随的なものであるかがのべられていないし、原則として法をおしつけられ、裁判をうける立

      

揚がら論理構成されていないのを疑問とされる。舟橋助教授は、ウエーバー的な形式的区別から脱却しきれていないとし

       も  ヘ  ヘ  へ

て﹁法の技術は、このように単に形式的な性格をもつものではなく、実質的な社会的機能︵階級支配の機能︶を媒介する

       ノ ものにすぎない﹂と批判されている。

 田中教授は、法の解釈における相対性と科学性との関係につき家永教授と同じ立揚に立ちつxつぎのようにいっておら

れる﹁解釈が、法の廊廟的発展の方向と一儲する細面には、その価値選択が正しく、逆の方向をとる場合には、その選択

が誤っている﹂ ﹁正しい価値選択の上に立ち、且つ﹁わく﹂的客観性をそなえた、法の解釈は、 ﹁科学的に正しい﹂解釈       ヘ  ヘ  へ

である﹂﹁複数に存在する解釈の聞に方向のちがいが存在しない揚合には、価値的選択につき相対主義が妥当する。問題

     労働法の解⋮釈       

五七

(20)

     労働法 の 解釈

が小さいときは、多くこの揚合に属する。 五八

この場合には、法の解釈の科学的な正しさを、一義的に主張することはできな

 ⑰ いし。 ⑳  ﹁法解解学の科学性﹂法律時報 第二六巻 第四号 五一頁。 ⑳同右 五八頁。 ⑳ 同右 五九頁。 ⑳  ﹁法の解釈と法律家﹂私.法 第一一号 二〇頁。 ⑳ 同右 二三頁。   ﹁従来よくイデオロギヅシユな解釈は排斥さるべきもののようにいわれてきた。しかし.法の解釈は、意識するとせざるとに拘ら  ず、める限度でイデオロギッシユであらざるをえないのである、そして事件によっては、政治的立場なしには、却って結論を下すこ  とができないで途方にくれることてあろう。⋮:法の解釈は社会の現無に拘東される。社会の現状に即して妥当と考える結論を求め  る。しかし、同を妥当と考えるかに巻っては、解釈するものの社会観という主観が影響するであろう。でも単なる恣意ではない。客         ヘ  ヘ  ヘ  モ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ  観と不可分離にむすびつけられた主観である。そして正にそれゆえに解釈しているものは、自分の解釈か客観的に妥当な唯一の解釈  でもあるかのように意識しがちなのである。しかし、そのことは法の解釈が主観的価値判断によって左右される、イデオロギツシユ  なものであることを否定するものではない﹂ ︵法学協会雑誌、第六八巻 第五号 三三i四頁︶ ⑳ 法律時報 第二六巻 第四号 五二頁。 ⑫ 私法 第一一号 ニニ頁。 ⑳  ﹁法律学はいかにあるべきか﹂法律時報 第二一巻 第四号 一三頁。 ⑭ 川島教授﹁科学としての法律学﹂   ﹁新しく学ぶために﹂ 八二頁。 ⑮  同右  一四三f六︸貝。 ⑳  ﹁法の解釈﹂八○一一頁。 ⑳同右 八三頁。 O

(21)

⑳ 法律時報 第二六巻 第四号 五三頁。      ・   今までは法の言葉的技術の研究に重点がおかれたG ⑳ 尾高教授﹁法哲学概論﹂三五〇一一頁。   碧海助教授ほ科学をもつてコ定の対象の純直な体系的認識しと定義づけ、解釈法学は﹁科学に墓礎づけられた技術﹂とされる。  ﹁解釈法学の科学性﹂神戸経済大学創立五十周年記念論文集 第工章、二〇五頁。 ⑳﹁法の解釈﹂二六頁以下。 ⑳ 田中吉備彦教授﹁法の解釈における相対性と科学性﹂法学志林 第五二巻。第 ﹃四合併暑 四三頁。 ⑫ 長谷川正安助数授﹁新蜜法と裁判﹂ジユリスト 第六八号 二一頁。 ⑬ 舟橋荷道助教授﹁蛍働法学の解釈についての再論﹂法学志林 第五二巻 第三、四合併号 五七−八頁。 ⑭ 前掲 法学志林 四四−五頁。

⑯前掲ジユリスト一=頁。

⑯  岨閾掲  法学士心林  六一頁O @ 前掲 同右 四九一五〇頁。 四

 かつて科学としての法学について杉之原・山中両教授の間で活澄な論争がおこなわれた。山中教授が、客観的法秩序は

人の意識すると否とにかかわらず、固有の運動法則をもってそれ自身の歴史的発展をとげてゆく、客観的存在であり、法

   −      ⑱

の解釈は裁判官や学者のなす客観的法秩序にたいする主観的法認識である。とされるに対し、杉之原教授は、法現象とし

ての個汝の、したがってまた総体的な社会関係自身、その社会の経済的構造を土台としているのだから、それ自身固有の

悪罵をもちえない。規範法則とか法的概念が自己固有の歴史をもち、自己固有の弁証法的な相互発.展的移行の関係なども

ちうるはずがなく、それは二会の経済的構造の弁証法的発展移行の反映にすぎないとされ﹁たとえ、それが資本主義的法

     労働法の解⋮釈       五九

(22)

     労働法の解釈       六〇

であろうとも、できるだけ労働者階級にとって有利に、その階級斗争のために解釈し利用しなければならない。しかし資

本主義的法の解釈は無限ではありえない。そこには、資本主義原理にもとつくブルジョア法自身の論理という、﹂つのわ

くがあるはずである。そのわくをこえての解釈論は、それがいかに労.働者階級にとって有利にみえようとも、階級斗争の

      へ

場においてなんらの実効がないばなりか、かえって、資本主義法のもつ本質としての階級性をおいかくし、法の超階級性

をうえつけ、合法主義という社会民主主義のわくに労働運動をとじこめるおそれがある。資本主義古法の中にいかに社会

主義法理論を、解釈論としてもちこもうとも、それを社会主義法に変質しうるものではなく、ただ法の超階級性をまきち

らすのみである﹂と反論された⑱長谷川助教授もまた﹁プロレタリアートは・ブルジョア的法解釈・実情を︸応無視した

形式論的法解釈の枠内で、できるだけ自己に有利な判決をうるようにせなければならない﹂ ﹁マルクシズム法学の解釈論

のもっとも特色とするところは、法廷斗争において有利な判決をうるということが当然の目的だとしても、それをうる方

法が、すなわち、資本主義法の虚偽性のばくろにつうずるような方法でなければならない﹂、しかし、その解釈にも限度

がある。法の解釈は政策論であり、それゆえ複数の解釈が存在する。したがってそれは厳密な意味での科学ではないとい

   ゆ

われる。これに対し舟僑助教授は、法の階級性の公式的主張、法の強制的契機の強謂によって、労働法は階級的であるな

どと大乗殺にふりかぶったところで、それは何ら法学の固有領域を確保するものでないとして﹁労働法秩序の論理的構造

は、相異る二つの階級の法意識を二つの契機として対自的に含 みながら、共両性の幻想をとった即自且対自的な全体秩序

として﹂打成される。このように労働法を二重性をもった規範構造としてとらえ、その各汝の抽象的な規範的側面の論理

を究明する必要と判例分析を強調される。      ・

 沼田教授は労働法は市民法を止揚するものでなく、ブルジョア的階級性を自己の陵界としてもっているから、出隅法と

       も  ヘ へ  も ヘ へ も 現実との本質的な相剋は、ただ労働法そのものの廃棄以外.には解決の途がない。けれども法を否定し、止揚することを志 5

参照

関連したドキュメント

高裁判決評釈として、毛塚勝利「偽装請負 ・ 違法派遣と受け入れ企業の雇用責任」

[r]

Council Directive (( /((( /EEC of (( July (((( on the approximation of the laws, regulations and administrative provisions of the Member States relating

この問題をふまえ、インド政府は、以下に定める表に記載のように、29 の連邦労働法をまとめて四つ の連邦法、具体的には、①2020 年労使関係法(Industrial

(実 績) ・協力企業との情報共有 8/10安全推進協議会開催:災害事例等の再発防止対策の周知等

4 アパレル 中国 NGO及び 労働組合 労働時間の長さ、賃金、作業場の環境に関して指摘あり 是正措置に合意. 5 鉄鋼 カナダ 労働組合

第2条第1項第3号の2に掲げる物(第3条の規定による改正前の特定化学物質予防規

【サンプル】厚⽣労働省 労働条件通知書 様式