三島文学序説 : 「金閣寺」より
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(2) . 第 23 巻 第 2 号. 昭和4 8年2月. 北海道教育大学紀要 (第一部A). 島. 文. 学. 序. -- 「金 閣 寺」 よ り. 桜. 井. 竜. 説. -- 丸. 北海道教育大学函館分校国文学研究室. Tatsumaru sAKURA1 . ‘ ’de Yuki ‘ ’or’ Bssai sur Le pav l l i o MISHIMA on d. 「金閣寺」 という作品は国宝である建物に放火した青年の告白という形をとっている, この犯罪 を行為するに至る心境の変遷とその実行の有様とが当の犯罪者の言葉を以てつづられている. その 言葉の全体が即ち作品であり作者の言葉はどこにも無いという体裁になっている, 以下この作品を 論ずる場合そのモデルとなった事件に係合は附けない, 溝口という時それはそのまま作品の 語り手 で あ る,. この青年は吃り であったが為に言葉は特別なものであった, 彼にとっては 「行動といふ光彩陸離 たるものは, いつも光彩陸離たる言葉を伴ってゐるやうに思はれ」 1 ) た, 現実が与え られ迫ってく る場において言葉がそれを救うただ一つのものと思われるの であ ったが, こう語りなが ら, それは 自分特有の誤解であると彼は付け加えている. 彼の 「口か ら言葉が出にくいので, それに気をと ら れて, 行動を忘れてしまふ」 というの が本当である. それな らば彼においては行動は言葉と関わり なく 現実を打開する筈のものであ った, この現実を打開する光彩陸離たる行動として金閣放火があ ったのだが, その行動を行為する最後まで言葉は彼につきまと ったかに見える. つ きまとった言葉 は認識の言葉であり行為の不要を示唆するものであ った. しかも, 現実の行動を要請しないほどま で行動の効力を先取りする認識の言葉の中で 「激甚の疲労に襲はれた」 ) 青年に, もはや 「一種の 2 剰余物」 にしかみえない行動へのス プリング・ボー ドを与えたものも, 記憶に喚起された言葉であ っ た,. 「身は癖れたやぅになりなが ら, 心はどこかで記憶の中をまさぐってゐた. 何かの言葉がうか ん で消 え た, 心 の 手 に 届 き さ う に して, ま た 隠 れ た. … … そ の 言 葉 が 私 を 呼 ん で ゐ る. お そ ら. く私を鼓舞するために, 私に近 づかうとしてゐる,」 3 ) この言葉に樽たれ行動は為されたが現実は果たして打開出来たのかどうかを作品は語 らない, 行 動を行為した時点で告白は終 ってい る, とすれば最 後の行動に向かって 「自分の内面を, ひた走り に走っ て来たにす ぎな」 4 ) い青年の, その内面の記録, 光彩陸離たる行動に伴っ た光彩陸離たる言 葉の記録, これが 「金閣寺」 全編の内容となっ ている, しかし, ひた走りに走っ た内面の意識か らは剰余としか見えなかっ たものによって投げ出された 場にこの告白者は位置 している筈である. それが為に, 行動に言葉が伴うという行動以前の心境を - 89 -.
(3) . vo 1 .2 ,23 No. iof Hokka i ido Unive i J。urna i t t s r on (Sec on I A) y 。f Educat. February ,1973. 誤解と判断出来る訳なのである, 現実を打開す る筈の行動を模倣し, 常にその効力を代替していた言葉は, たとえその言葉に鼓舞 されたものであるにせょ遂にそれと訣別 した行動によって, 言わばその核を制禦されつつ, もはや 自分の及ぶところ ではない行動というものに ついて, せめてはそ 理論とでも言うべきものを組み 立てている, いわゆる行動の理論ではない. 行動それ自体は理論即ち言葉と一線を画するものだか らである. しかしそれが言葉と全然縁が無かっ た訳ではないという理由で, 特に言葉が或 る時その 代替であっ たという理由で, 言葉は思い出という形 で行動の所在を証明する, これが 「金閣寺」 全 編の形式になる. ところ で作者三島由紀夫においても言葉は特別な有り方をしていた. 「自分の幼時を思ひめ ぐらすと, 私にとっては, 言葉の記憶は肉体の記憶よりもはるかに遠くま で翻る, 世の つ ねの 人にとっては, 肉体が先に訪れ, それか ら言葉が訪れるのであ らぅに, 私にと っては, まず言葉が訪れて, ずっ とあとか ら, 甚だ気の進まぬ様子で, そのときすでに観念的な姿 5 ) を してゐたところの肉体が訪れたが, その肉体は言ふまでもなく, すでに言葉に蝕ま れてゐた.」 自己に ついての作家のこの証言は昭和四十年においてである. 即ち肉体という 「果樹園」 を 「太陽 と鉄」 とによって充分に耕し了りその存在を築き得た時 である. 既に言葉を凌ぐ場に位置して, こ の位置を切り開く動機であった言葉を, 異次元か ら扱っ て いるということ である, ここで言葉は行 為とは全く別物であり, しかも行為の形をなぞっているということである, 言い換えれば言葉に領 略 されて いた所の或いは言葉により不能にされていた所の肉体を可能にし, 肉体によって制禦 され た言葉を以て今度は逆に肉体の在り様をここで語っているのである. ここの仕組は今 「金閣寺」 の 形式として述 べたことに 一致する,. この作家の生誕の場において言葉は上述の如く 格別なものであった, 作家というものにとって常 に言葉は格別なものではあろうが, 三島はあくまで自分を特異例として考えている, 「いはゆる健康な過程においては, たとヘ生れなが らの作家であっても (略) 言葉の練磨が現実 のあ らたかな再発見 を生むといふ, 喜ばしい結果に到達する ことが少なくない, が, それはあくま で 『再発見』 であっ て, 彼が人生の当初で, 肉体の現実を, まだ言葉に汚されずに, 所有してゐた ことが条件となってをり, 私の場合とは事情がちがふと言はねばならない, (原文改行) 綴方の教 師は, 私の空想的な綴方に眉をひそめてゐたが, そこには何 ら現実に見合ふべき言 葉が使は れてゐ なかっ た, 何か幼ない私にも無意識のうちに, 言語の微妙で潔癖な法則が予感されてをり (略) 言 葉の純潔性を保持するためには, 言葉によっ て現実に出会ふことをできるだけ避けるに限る (略) と い ふ こ と が 自 覚 さ れ て ゐ た」6 ). 三島における言葉は当初現実を回避する領域に成立していた, それは言葉の微妙で潔癖な法則に 適 っていることだとも思えた. しかし言葉は元来現実の所産である, 現実回避を志向する言葉とは 言葉の内においてそれを支えている現実性を限りなく捨象する運動の中に実現する. その運動の総 体が作品というものであろう, ところで小説は言葉か ら現実性を捨象することか ら出発するの では なく, それとは逆に, 外な らぬ言葉の現実性を手がかりに して成る作品という総体において抽象の 領域に接近するものである. この抽象の領域とは一般的に詩の領域であり, 詩作における運動は直 ちにそこに喰い入ってゆくに反して小説は言葉の現実性に依拠することによっ て迂回 の 経 路 を と る, - 90 一.
(4) . 第 23 巻 第 2 号. 北海道教育汁学紀要 (第一部A). 昭和48年2月. 以上の事情を今一度くりかえすと, 「言葉の微妙で潔癖な法則」 によっ て組織構成された詩作に おける言葉は限りなく現実を回避してゆく精神の運動を表現する, この言葉を離れて精神とは翼々 たる空疎な概念に過ぎない. ところで実は詩 人の制作の出発において言葉は現実を超脱した所にあ るのではなく, 現実の指標として存す るのであり, さればこそこの指標性を除去してゆくことに詩 人の仕事の目的がある訳である, この仕事が完全に 達成された時, 詩作は現実を否認する何ものか である. 仕事が完壁の域に達すれば即ち非現実, 一個の空虚というものがそこにあ らわれる. この 空虚によって現実の人であった存在は詩 人という理想型に再生する, 現実における自分の出目とい うものを離れて洗いおとすことが出来た訳になる. 三島由紀夫が 「現実に見合ふべき言葉」 を持たないことにおいて仕事を始めたということは, そ の言葉は当初か ら抽象的なものであったのであり, 言葉の組織構成の果てに即ち作品において抽 象 の領域に入るという訳ではなかっ た, で, 彼の作品の表現するものは何かと言うと, それは欠落し ていた現実というものなのである, 当面現実獲得の方法として小説は誠にふさわしかっ たと言わな ければな らない, 詩作は現実除去を旨とするか らである. 詩作の結果たる場において成立する言葉 を先に保持し, それを原因とすることによって小説を制作したところに三島由紀夫の文学の特別な ス タイ ル が あ り た,. 「現実に見合ふべき言葉」 を持たない者が生を重ねて尚小説を制作してゆくには 言葉に見合うべ き現実を獲得してゆかなけ ればな らない. ところでそういう現実が獲得されたにしてもそれは語の 本来の意味においてやはり現実とは言い難いのは, 本来の現実とは言葉に先立っ て存する べき筋合 いのものだか らである, 言葉を白蟻と し現実を白木とすれば 「ま づ白木の柱があり, それか ら白蟻 が来てこ れを蝕む,」 蝕まれる以前の白木の追憶において, 作品は言葉を組織構成する・ 「しかるに ) 7 私の場合は, ま づ白蟻がをり, やがて半ば 蝕まれた白木の柱が除々に姿を現はしたのであった.」 この場合の 蝕まれた白木か ら本来の姿は求めようもない, 三島において言葉が表現することになる ものは白木ではなく, 言葉に蝕まれた白木であり, 言葉に蝕まれた白木とはいわゆる現実ではなく 虚構の現実というものであろう. 三島の現実は虚構という形においてしか獲得出来ない性質のもの であった. そういう現実が自覚的に意識された形においてあ らわれたのは 「仮面の告白」 である, この作品以前の例えば 「中世」 などは三島の現実ではあるものの作品としては 虚構性が明か らさ までいわゆる現実感は稀薄である, つまりは架空性が濃厚 であって, 言わば白蟻の跳梁の奥深くに 白木=現実は潜んでしまっている。 しかし 「仮面の告白」 では白木が 蝕まれたままにその特異な形 姿 を み せて い る の で あ る,. 普通告白というものは虚構性を極力排して現実を赤裸に語るべ きものであるが, それであっても 告白はやはり虚構とならざるを得ないのは言葉というものの性格によるのである. 言葉は現実では なくその指標に過ぎないか らである, 仮面 であろうと素面であるうと告白た る性格には大 した相違 はない. しかしいわゆる告白には言葉の本来の虚構性に可能な限り逆っ て現実を表出したい意欲が ある, 「仮面の告白」 という時にはこういう意欲は無く 言葉と現実とを調整する思量のみがある, それというのも表出したい現実は体感できなかっ たからである, 現実は言葉の背後に仮設 された 存在だったか らである, このとき言葉に力点がかかれば, こういう現実は即座に解消 して しまう, 従ってこの作品の努力は現実創造という目的に向っている. 現実再確認 ではない, 言葉は本来三島の言う程抽象物ではなく, 抽象と現実との中間に位置するものである. 彼にとっ - 91 -.
(5) . Vo l .23 No .2. i lo f Hokka i i Journa ido Uni s t t ver on IA) on (Sect y of Educa. February ,1973. て自分の言葉に見合うべき現実とはいわゆる小説的 レアリテのことである. 詩人は小説的 レアリテ を除去し詩的抽象に彼の レアリテを認めるのであり, その領域において再生す るのである. こうい う類の再生を三島は小説的 レアリテにおいて求めた. 「仮面の告白」 はしアリテの再現・再認では なく 獲得・創造 であり, これは虚構の場においてのみ可能な出来事だっ た, であるか ら 「仮面の 告白」 の私はこの作品自身とは一定の距離を保 っているかのよ う に 思 え て も, この距離を縮めて作者自身を現実の場に つかまえることは出来ないのである, しか し 「中世」 ではそれは恐 らく 可能だ. そして我々か ら可能である作者とい うものは虚構的自我であると確信さ れたが故に 「仮面の告白」 が書かれなければな らなかった. 別 の 言 い 方 を す る な ら例 え ば デ カ ル トや カ ン トの 著 作 に お け る 私 と い う も の と こ れ は 同 一 の 構造. である. 彼 らの自我は いわゆる現実を捨象した場に残る形であって, それが彼らの現実となってい る, 具象世界では形でしかないものを実は内容としている. 「仮面の告白」 の私が何か距離感覚を 以て操作されているように思われるのは言葉の抽象性における組織構成を意図しなが らその言葉の 内容がいわゆる具象世界に開かれている為である. しか しその具象世界で作家はかって生活意識を い さ さ か も 覚 え た こ と は な い の で あ る,. 作家が作品制作の場において書く 主体としての私を何処に置くかは近代ロマン主 義文学8 ) におけ る重要なる問題である。 大雑把に言って古典主義文学において作家の私は作品の背後にすっ かり身 をかく していることは中世の思索において思索する主体としての私が 問題にな らなかっ た事情と軌 を一にしている. 普通の世界の軌範が確立する場において作家の努力は心理であれ行動であれ対象 を確実に表現することにかかっている, 対象を表現する作家の自意識が問題になるのは普遍白り世界 像の瓦解するロマ ン主義文学においてであり, このとき作品世界における作家の自意識は概ね自 ら を神としたい欲望を帯びる. 自分にとってあり得 べき世界が作家の脳裏を占めるからである, 作家 の属する世界と意欲する世界が解離して来るか らである, 三島由紀夫の文学にお ける古典主義志向が強く 出てくるのは 「仮面の告白」 を含めてそれ以後で あることは, 彼の意識を普遍的永 遠的世界の現前が占めるか らである。 この世界は彼のな じむこと の出来ないものであっ た. 彼にとっ てある べき世界は言うまでもなく 終末に向う世界である. そし て後者の場において彼の存在は言葉=白蟻と共にあった, 言葉は終末観に裏打ちされて, 死という 抽象を核として, 構成されていた, 既にその世界は無く なり, か つての言葉に無残に蝕まれていた 所の白木=現実が姿を見せて来た, 言葉の抽象性を制禦し能うる限り白木を現前せしむると同時に それ自体を具象の領域に近付ける事, これが 「仮面の告白」 の根底に潜む動機である, 言い換えれ ばかつて言葉と共にあっ たロマン派的心性の古典主 義的世界への 自己外化の決意がこの作品● を構成 せしめているのであり, 自分のもの であっ た言葉が現実の中で対自化される過程の厳粛さがこの作 品の硬質なる文体を生んでいるのである. 「仮面の告白」 における虚構的自我はロ マ ン派的心性の性格化したものであると同時に, その性 格化の素材として自分を選んだことか ら出来上がったものだ. つまり実はここにおいて作家的自我 というものがいわゆる実生活の場を離れて計量されている.. 「仮面の告白」 の私と 「金閣寺」 の私とは三島由紀夫に対 してそれぞれ等距離であり, 後者もま た作家の仮面の告白であるかの様にみえる (前者の仮面は実生活の私であり後者のそれは溝口であ る) , - 92 -.
(6) . 第 23 巻 第 2 号. 北海道教育大学紀要 (第一部A). 昭和4 8年2月. 「仮面の告白」 において自己を客体化しつつ その仕事が終わった所に客体化され得ないものが残 った, というより新たに生じた. それは自己を客体化する方法の動機である. 「私の内界と外界との間のこの錆びついた鍵」 9 ) をあげ, 「内界と外界は吹き抜けにな」 ることの 為に, 内界即ち実体を欠いた言葉の世界に外界即ち現実をかけ合わせたものの, この操作の根源が 新たな内界として巣をはった, 前にはロマン派的心性というものが内界であっ たとすれば今は古典 主義的方法を支えるものがそれである, 内界はいずれにせよ言葉の原理が支配する所の, 従っ て三 島においては現実と出合わない, 現実を拒絶する所の, 実体を欠いたものであった. 三島における古典主義志向はロ マ ン主義的情念を企投せしむる対象の欠落に由来し, それは人生 と軽薄につき合うという能度に裏打ちされている, ー o ) 一般に古典主義は人間を範型において把握し, 心理としてこれを表現する. かくの如く 把え られ た人間は概ね所謂個性に乏しいけれども, 個性以上の人間的真実を表現する. 例えばラシーヌのフ ェー ドルは時代と状況とに裏付け られた個性的面貌を持ってはいない, 自己の情欲に疎外 される女 の普遍的典型として抽象的に描かれているu) のである. この抽 象が文学として生動するのは舞台 が存ずるか らで, 舞台というものはそれ自体日常的具象の世界とは切断され た場にある. つまりは三島が言葉に沿っ て小説において獲得した現実はこの舞台的な現実である, それは結果 プラン として取り込まれる類の, 散文の運動の果てに出来上がる現実ではなく して予め決定された書割に 沿っ て詩的に論理的に肉附け される類の現実である. 「金閣寺」 に登場する諸人物は我々の現実か らかなり抽象されて現われる. 溝口の告白の中にそ れぞれ相応の観念を付与されて 位置している (例えば老師は通常世間に遍在する凡庸悪, 柏木は絶 対に行動と無縁な認識概念, 鶴川は凡そ悪を知 らない, 悪す らも翻展させて しまう善概念, 等) .溝 口とそれらの人物との距離は三島由紀夫と所謂戦後世相とのそれに等しい, 主体の内的世界に或る 意味をもつ存在としてのみ登場して いる, 存在というよりはほとんど符号である, それ らの符号な く して彼の世界は成立しないけれ ども, 成立する世界は現実への符号としてのみ成立 す る し か な し・.. 古典主義文学は古今東西に不変にして 永遠なると考えられる人間の概念を基にしたュマニスムに 発祥する. このような普遍的世界像の解体したところにロマン主義文学は新たなる現実, 希望すべ き現実を各作家の個我においてそれぞれ確立することになっ たのだが, 三島にとって有り得べき現 実とは滅亡に向う世界に外な らない, このテーゼに従っ てのみ彼は自己の言葉に相応する現実を組 成出来るのである, 「古風な堂々たる重味を備へ, 気品にも欠けてゐたかっ たが. どこまで行って も式典風な壮重な歩行を保ち, 他人の寝室をもその同 じ歩調で通り抜けた」 ー 2 ) 彼の文体は 人間の普 遍にして永遠なる典型を造型する為ではなく, 滅亡を予定しない永遠に現在する世の中に関 しては それを拒絶する為であっ た. 言葉に見合う現実が否定の形において獲得されたことは溝口における金閥と類似し た 関 係 に あ る, 現実とわたりあう言葉を即座に発し得ないが為に富み栄えた溝口の内面を支えるものは金閣で あった, 金閣は現実の代替であり, 現実への符号であっ た, 三島において否定の形で意味を持つこ とになった現実とは取りも直さず当の否定の情念を裏付ける素材であった. 断るまでもなく溝口が三島でないことは 「仮面の告白」 の私が三島でないことと同じであるが, 溝口が, より濃密に作者のモラルを分有することになっているのは, 彼が 「人間な らぬ何か奇妙に いきもの 悲 しい生物」 ー 3 ) ではなく, 確実に死に予定された告白, 即ち滅亡に裏うち された言葉を語っ ている からである。 しかしこの滅亡とは作品における虚構であるのは逆に作者その人は作品によっ て生き るか らである. とは言え, そうして生きてきた作者の方法即ち 「生との軽薄 な交際」 を実行する文 一 93 -.
(7) . Vo l .23 No .2. lof Hokka i ido Uni i i journa t 「 s on (Sec on I A) ver y of Bducat. Febrnary ,1973. 体上の古典主義志向の目的とす るものが, 溝口の金閤と同位置にあるとすれば, それに火を放ち焼 き払う行動を書くということは, この作品の末尾の言葉のアイロニカルな位置に作者自身をも立た せて いる訳になる. その末尾, 「一ト仕事を終へて一服してゐる人がよく さう 思ふやうに, 生きよ うと私は思っ た.」 文体上の古典主義志 向の目的となっ ていたもの或いはそれを支えていたものは美である. 古典主 義における美は奇異なる所の無い, 整合的な均衡を持つ論理的数理的な美である. この美の構造が 溝口に理解 されるのは犯行直前のこととして描かれている (十章参照) .金関の美は除々に決定的に 姿を明きらかにするようにこの作品は構成され, 美と一体になる意識の頂点に犯 行が成り立ってい る.. 溝口は虚構的現実における三島の作家的自我であるというのも, この自我の肉体である文体がそ の根拠としての美意識を 「仮面の告白」 のように背後に潜めることなく 自己目的としているか らで あり, 溝口の告白という形をとっている 「金閣寺」 の独得な特質はここにある. いささか唐突であ るようだけれども, 小林秀雄が 「ランポオ」 論に述 べている所の詩人の生存理由である美神と刺し 違える詩人ランボオの事情ー ) にこれは匹敵する, 三島がランポオのよう な文学的訣別をしないの 4 は三島の現実感覚というものが前述のように逆転しているか らであり, 或 いは同 じことなが ら, 溝 口にあって認識の剰余として意識された行為を, 三島が自己の言葉に見合うべき現実の舞台で演ず ることが正 しく 剰余の問題になったか らである, これは 「豊銃の海」 と 「楯の会」 に分岐 した 彼の 仕事の意味のことである,. 古典主義的文体によっ て虚構的現実を領略してきた構拠は美 であり, そしてこの美を背後に潜め ておく 限り言葉の帝国の版図は拡張されつづけるという永遠に持続する均衡, 作家が言葉の帝国の 司祭であり美はその中枢に君臨するとい う或る意味では幸運な関係が確立 していた訳だが, それに してもこの関係はやはり現実には出会わない所に成立していた, 現実に見合うべきものを持たない言葉に沿って獲得された現実は, そういう現実の主体と して作 家的虚構的自我を要請 し, その限りでは肉体というものは徐々に姿を見せてきたわけであるが, そ れは言葉に蝕まれた肉体であっ たのであり, 本来の白木のままの肉体を三島由紀夫は既に言葉とは 全然没交渉の領域に築き始めていた, この肉体感覚は彼にあっ ては記憶に全く 無いものであるか ら あ る べ き 肉 体 で あ っ て, か つ て あ っ た 肉 体 と い う も の で は な い.. この言わば定言的命法によって築かれた関係は言葉とそれによって蝕まれた 肉体の関係を相対化 する, しかもこの相対化の素因としての新 しい関係は言葉に全く関与することが無いか ら自分自身 は相対的関係に置かれることは絶対に無い. 古典主義的文体を背後で支えた美のように作品世界を 制禦していなが ら, 永遠的現在としての圧迫を与えることがないのは運動体においてのみ成立する 筋肉の原理そのものだか らである. 「金閣寺」 が古典主義的文体を以て成り立っているに しても, それを支えているものはかつての 如く 拒絶の偶像としての美ではなく, また鎧う べき必要の・ あっ た, 永遠に外界と灘酷する内心とい うものではなく, ただひたす ら無目的であるにせよ動きつ づける所の運動の原理にある. 溝口の行 為後の心境を提供しているのは作者が別次元の場に維持している所の この運動の感覚に 外 な ら な い. この運動は文字通り筋肉の行使であり筋肉は肉体を構成する. この肉体は言葉とは無縁のもの であり三島が造成仕来った所の現実感覚の異名に外な らない, ラ ンポオが文学=言葉を放榔し逃げ ていった, 社会的文化的に意味を構成 しない純乎たろ自然, 単なる肉体行使の場所である, 溝口も - 94 -.
(8) . 第 23 巻 第 2 号. ・. 北海道教育大学紀要 (第一部A). 8年2月 昭和4. そういう所に投げ出され, さて生きようという所 で作品は終わって いる. 告白の言 葉は途絶えるの である. ここまでつづ られてきた言葉はそうした領域には背反するものだからであり, 或いは金閣 を神とすることにおいてのみ意味を構成出来るのであり, それを焼却 してしまえば自 らも失効する トないのである. しかし金閣を焼き払っ た時にこそ晴れて言葉の外に出て言葉の主になること よりタ が出来るわけである. 言い換えれば自分を支配していた金関の位置に自分 が位置す ること が出来る のである. この位置は金閣の本質であるもの, 即ち虚無に外な らない. 金閣の 「細部の美を点検すれば, 美は細部で終わり細部で完結することは決してなく (略) , 完全 を夢みなが ら完結を知 らず, 次の美, 未知の美へとそそのか されてゐた。 そして予兆は予兆に つな がり, 一つ 一つのここには存在しない (傍点原文) 美の予兆が, いはば金閣の主 題をなした, さう した予兆は, 虚無の兆だっ たのである, 虚無がこの美の構造だったのだ.」 ー 5 ) 美を支えるものが虚無に外な らないことの発見は行為への決断による. 或いは既にその行為の過 程乃至は準備段階においてである. この発見はもし行為が果たされなければせいぜい認識という相 対的世界における一解釈であるにと どまる, それは柏木の世界であっ て, 彼による と 「美 的 な も の, それは人間精神の中で認識に委託された残りの部分, 剰余の部分の幻影」 1 6 ) のことであ る. し かし溝口にとっ て柏木の美とは 「体内をとほりす ぎて跡形もなく」 「それが絶対に何ものをも変へ ぬ」 ー 7 ) 音楽の無定形にす ぎないものとみえた. それは 「構造の美しさも欠け てをり」 従っ て柏木の 認識至上の世界とは 「いはば痛ましい癌掌の一種に他な らなかっ た。 それに私が大いに惹か れ, そ こに自分の方向を見定めたことも事実であっ たが, ま づ練だ らけな生の破片 で手を血みどろにせね ば な らぬ こ と は 怖 ろ しか っ た.」1 8 ). 三島の当初の古典主義志向は柏木的痩撃の世界においてであるが, それは三島にとっ ては 「怖ろ しかった」 為ではない, 怖ろしかっ たとすることは 「仮面の告白」 的告白にすぎなく, 三島にとっ ては認識の言葉の決して及を ない領分を現実とし, 手を血みどろにす る感覚はそこにおい て初めて 斎 らされるか らである. しかしこのことが 「剰余の部分」 を次第に明断にする方向を選択させ, そ れが美を虚無にするという結論に至る, 「剰余の部分」 とは行為であり, その行為もこれまで世界を成立たせていた根元をく つがえすこ と, 即ち金閣を焼き払うことでしか無いのであるから, 金閣の美の本 質が虚無であることは既に行 為の決断の外物への反映による事実に外な らない, 柏木にはそれが単なる幻影であ るのは行為とい う意志は彼において絶えず風のように吹き抜けに されているか らである, 一方 溝口はこの風のよう に突如生まれる意志の帰趨を求めている, その行く先に概ね金閣が 出現し, 彼は決まっ たように脱 力状態に陥る, そういう 金閣の色々な姿が思い出の形で, 最後に凝結・して完全に 出現するのは, 内 界より発する行為意志とそれを認識の領分に還元したい 金閣という外物とが 均衡を得る場である. 「私は行為のただ 一歩手前にゐた. 行為を導きだす永 い準備を悉く終へ, その準備の突端に立 ぼめいてをり, その輪郭 っ て, あとはただ身を躍らせばよかっ た. (略) 金閣は雨夜の闇にお0 は定かでなかっ た. それは黒々と. まるで夜がそこに結晶してゐるかのやうに立っ てゐた. (略) しかし嘗てあのやうに私を感動させた細部は, ひと色の闇の中に融け去っ てゐた.」 ー 9 ) これは単なる外物の金閣であっ て, 生涯において初めて金閣を見た時, それまで心象と して内に 描いていた金閣の方が却っ て美しいと思っ た内界の金閣ではな い, その時が過ぎてやがて内外 の金 閣は一致していよいよ力を増 し時に溝口を安堵させ時に憎悪 させ愛惜させた, 為に外物の金閣と共 に生きた時間の実質が今ここに遊離して思い出という形で溝口の脳裏に構成 きれてゆく, それは金 閣寺 の構造を追跡しなが ら, 金閣以外に凡そ他者というものが無かっ た溝口の生の構造を眼前に再 認することでもある, - 95 -.
(9) . Vo l .23 No ,2. i i ido Uni i l of Hokka t t on I A) on (Sec Journa s ver y of Bducat. February ,1973. 「私の美の思ひ出が強まるにつれ, この暗黒は窓まに幻を描くことのできる下 地 に な っ た, (略) 思ひ出の力で, 美の細部はひとつひと つ闇の中か らき らめき出し, きらめきは伝播して (略) ふしぎな時の光りの下に, 金閣は徐々にはっ きりと目に見えるものになっ た, これほど 完全に細撤な姿で, 金閣が (略) 私の眼前に立ち現はれたことはない.」 0 ) 2 以下この建築物が言わば思い出の視力によって 時間と空間とを一如にす る描写によって表現きれ て い る.. プルース ト著 「失なわれた時を求めて」 の最終巻末尾にはやはり空間的に巨大な場所を占める実 在としての時間のことが言及され, それが取りも直さず, それまで稜々語 られた小説の内容の重味 を受けとめている, そして実はそうい う時間の発見を以てその小説は始まっているのだか ら, 世界 は円満具足して 一冊の本に帰結している, 即ち作家の具体的現実の体験 が言葉の総量 と 過 不 足 な く, 自我の世界を構築 しているのである. しか し 「金閣寺」 ではそういう具体的現実は無く, む しろこの具体的現実を却下してきたいろい ろの素因を集合させることによっ て美という理念を (しかし単なる美の理念では プルーストの単な る時間概 念と同 じく抽象概念であるので プルース トが自己の実生活の体験をその表現に素材とした ように) 金閣寺という建築物に重ね合わせている, その金閣寺を焼き払うということは プルース トと正反対であり, 自己の現実体験, 時間の否認で あるが, この行為によっ て, 言葉の出口のない世界を脱出して, 思い出という形で金閣が対自化さ れ現実化された, 即ち自己の現実体験を自己に対して確証できたのである, 思い出とは言いなが らプルーストにおいては 言葉は失なわれた現実を新たに発見する所の行為で ある. 外界を遮断したコルク張りの部屋に罷ることはそれだけ溌刺とした確かな現実を確認 してゆ く ための手段にす ぎない, 溝口の思い出の言葉は既に行為によって到達 した心境から操作されてい る. この言葉は現実を打開 したり獲得したりする言葉ではない. 行為は言葉とは別の所で, 正に言 葉を凌駕する為に 成 し遂げられている. だか ら本来それは言葉にはな らないものだ. 行為を疎外す るものと しての言葉は遂に行為からも疎外されている, だか ら行為のことを剰余と しか名附けよう が な い,. 「柏木の言っ たことはおそ らく 本当だ. 世界を変へるのは行為ではなくて認識だ と 彼 は 言 っ た. そ してぎりぎりまで行為を模倣しようとする認識もあるのだ, 私の認識はこの種のものだ っ た. そ して行為を本当に無効にするのもこの種の認識なのだ. してみると私の永い周到な 準 備は, ひとヘに, 行為をしなくてもよい (傍点原文) といふ最後の認識のためで は な か っ た か, (原文改行) 見るがいい. 今や行為は私にとっ ては一種の剰余物にすぎぬ, それは人生か らはみ出し, 私の意志か らはみ出 し (略) 私とは, まるで縁もゆかりもないかのやうだ, ここ ま で (傍 点 原 文) が 私 で あ っ て, そ れ か ら先 は 私 で は な い の だ.」2 1 ). 「金閣寺」 の告白の言葉は溝口の私を語るが, それは私ではない領分を通過 した上 で の 事 で あ り, 行為とは私を否定する所のものである, 否定の行為の成った以上, 昨日の私は語るに値しない 筈だが, それを語ることで, 私が私ではない, 私の意志か らはみ出 した領域に居ることを確認した いのである. この領域が三 島のいわゆる肉体, 言葉の介入しない現実というものであることは言う ま で も な い.. 6 「い づれに しろ私は, 早晩 (略) ニヒリスティ クな耽美主義の根拠を, 自分の手で徹底的に分 析する必要に迫 られてゐた.」 ) 2 2 - 96 「.
(10) . 第 23 ,巻 第 2 号. 北海道教育大学紀要 (第一部A). 昭和48年2月. この分析の当面の所産は 「仮面の告白」 のような,「内心の怪物を何とか征服したやうな小説」 ) 2 3 であった訳だが, この分析の徹底は, 「金閣寺」 においてである. 「面仮の告白」 は耽美主義とい う心性の傾 向の性格化であり, その作業に要 した 「認識こそ詩の実体」 ) とする古典主 義志向の核 2 4 としての美意識は却って留保され, それこそが耽美主義の根拠 であっ たか らだ, 「金閣寺」 は詩の 実体としての認識が行為という剰余物を生み 出し, それによって否定される形において構成されて い る.. この剰余感は三島が言葉に蝕まれた肉体とは別個の肉体を鍛錬する感覚に通ずるもので, こうい う肉体は実生活にも作家生活にも直接関係しない彼の中間地帯であった, しかしこの私ではない領 分は集団という 「二度と戻っ て来ることのできな い彼方へ」 5 ) の 「橋1になっ た, 肉体は私に帰属 2 しないものでありなが ら虚無とは言えず, 言葉の介入しない領域の象徴としての美即ち金閣が虚無 の象徴と見えたのは言葉の世界においてであって, そこを抜け出て未だ虚無に至 らない, しかし自 意識としての私は消え去る 「微 妙なあいまいな領域」 2 6 ) があった, これが, 言葉に沿って獲得され た現実ではなく, 言葉をして語らしむる本来の (しかし彼においては言葉とは別に意志によって要 請され造 りあげられた) 現実の領域である, これを確認出来て三島の女体が変容するのも言葉本来 の機能からすれば当然と言えよう. 「三島由紀夫の文体の特徴は, その絢欄さの底にある一種の平凡さである, (略) 内部から生 まれる新しい言葉の結合を創り出すのでなく, 既成の表現をかき集めた, いわゆ る 美 女 と な る, (略) 深いところで人間を捉えることができない, (略) が, この二年間 (略) 彼の言葉と 論理に異様な迫力が出ていた, (略) 死を急 ぐ人の 『行動化』 された末期の眼から見た, 苛立 た しい, しか し冴 え た 世 界像 が 現 わ れ て い た」 7 ) 2. 作家はこの 「冴えた世界像」 を文によって実現するものであるが, 三島は女以外のものの導入に よっ てそれを獲得したことは, 溝口の言葉と行為の関係に等しい。 溝口の言葉と行為の関係を 作者の言葉と行為の関係に照応させて考えると, 溝口の 言 葉 の 全 体 は, 作者の夢, 溝口の心象の金閣に等 しい. 「私はま づ硝子のケースに納め られた巧級な金閤の模型を見た. この模型は私の気に入った. このはうがむ しろ, 私の夢みてゐた金関に近かっ た, そして大きな金閣の内部にこんなそっく りそのままの小さな金閤が納まっ てゐるさまは, 大宇宙の中に小宇宙が存在するやうな, 無限 の 照応 を 思 は せ た,」 ) 2 8. この小さな金閣, 心象の金閣が徐々に現実の金閣に 一致す るように, 「金閣寺」 の溝口の論理が 徐々に三島の現実に 一致してゆく. その時, 三島にとっ ての金閣とは彼の 「外界と既存の文学を摂 取し変形 した受容的才能」 ) の所産である作品群であり, それを焼き払うことは, 「豊銃の海」 の 2 9 内容にそうした作品群の内にある重要なテーマやイメー ジを採択しつつ, それ らを 「転生」 の構想 で筋を固め, 最後にそれを否認することに通じている, そしてそのことが 「ぎりぎりまで行為を模 倣しようとする認識」 であって, やはり行動は言葉=文学とは別の所からやってく ることは三島と 溝口との間に或いは三島文学と 「金閣寺」 との間に成立する所の, 言わば 「大宇宙の中に小 宇宙が 存在するやうな, 無 限の照応を思はせ」 ているのである. この「無限の照応」が彼の文学の結局根強い性格であると同じく その魅力の一つであり, それは「豊 銃の海」 を読み進めつつ随処にそれまでの彼の作品の論理やイメージや 人物や背景が思い起こ され るという事にも 通ずる, そういう作家の女学の印象が溝口の内省の言葉の中にも捉えられている, 「総じて私の体験には一 種の暗合がはた らき, 鏡の廊下のやうに一つの影像は無限の奥までつ づいて, 新たに会ふ事物にも過去に見た事物の影がはっ きりと射し, かうした相似にみちびか - 97 一.
(11) . vol ,23 No .2. d。 Uni i l d( i i lof 日o i s Journa t t t on I A) a ver on (Sec y of Bduca. February ,1973. れて しらずしらず廊下の奥, 底知ォ ぬ奥の間へ, 踏み込んで行く やうな心地がしてゐた.」 3 0 ) 従って三島由紀夫の個々の文学作品ではなく, 正しく それ らを素材にして成り立っ ている三島文 学という総体を考える時には, 「金閣寺」 -編に告白された溝口の 言葉の内容と形式とは, 三島文 学の内容と形式とに過不足なく釣合っ ていると言える. 拙論はそういう見地で 「金閣寺」 を考え同 時にそれを三島文学序説として述 べて みた試論に過ぎない. 註 1) 三島由紀夫著 「金閣寺」 (昭和3 1年刊) -章 p ,14 (以下この書よりの引用は単に草の指示に止める. 頁数 は昭和3 5年刊行の新潮文庫版による) 2) 十章, p .264 3) 同, P ,266. 4) 一章, p .13 5年講談社版 「三島由紀夫女学論集」 に 5) 三島由紀夫著 「太陽と鉄」(昭和43年刊) ,11(以下頁数は昭和4 .p よる) 6) 同, P .12. 7) 同上 8) ここではロマン主義を単に十九世紀前半の一文学流派とはは見ずに, む しろ今世紀中頃までを覆う意味での i i i i l eraturef ) 参 照. ec t t ran a 文芸思潮と考える. Sauni er 著 La l se dus eromant que (P . U. F. 9) 十章,P .256 10) 野口武彦著 「仮面の双面神」(「文学界」 昭和43年4月号) 参照, 6ry 11) PauI Va1 ,(oeuvre l,p ,499). ,Sur phedrefemme 12) 前記 「太陽と鉄コ. p .32 13) 三島由紀夫著 「仮面の告白」 , 四章 1 1 ‘ ) 小林秀雄全集第二巻 (昭和43年新潮社刊)p .135「ラ ンポオ1」 参照. 15) 十章, p .263 16) 八章, p .224 17) 六 章, p .145 18) 五 章, p .116. 19) 十章, p ,261 20) 同上 2 1) 十章, p .265 23(前記 「三島由紀夫文学論集」 による) 22) 三島由紀夫著 「私の遍歴時代」(昭和3 9年刊) .3 ,p 23) 同, P .325. 24) 同上 4 25) 前記 「太陽と彩U, p .5 26) 同, P .11. 27) 大岡昇平著 「私自身への証言」(昭和47年中央公諭社刊) 1G .3 .p 28) 一章, p .28 29) 註27に同じ 3 2 0) 七章, p .19. 一 98 一.
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