移動する人びとと空間管理をめぐる日常的実践の社
会学的考察 : 可視性に基づく調査から関係性に導
かれるフィールドワークへ
著者
稲津 秀樹
氏 名 学 位 の 専 攻 分 野 の 名 称 学 位 記 番 号 学位授与の要件 学位授与年月日 学 位 論 文 題 目 論 文 審 査 委 員 (主査) (副査)
稲 津 秀 樹
移動する人びとと空間管理をめぐる日常的実践の社会学的考察
―可視性に基づく調査から関係性に導かれるフィールドワークへ―
博 士(社会学)
甲社第49号(文部科学省への報告番号甲第451号)
学位規則第4条第1項該当
2013年2月16日
阿 部 潔
三 浦 耕吉郎
関 根 康 正
教 授 教 授 教 授塩 原 良 和
(慶應義塾大学教授)論 文 内 容 の 要 旨
本論文は「はしがき」、「序章」に続き、第1部「移動する人びとのフィールドをどう捉えるか」(2章、3章、 4章)と第2部「移動する人びとと空間管理をめぐる日常実践の場から」(5章、6章、7章)の二部構成 のもとで議論を展開し、最後に「結論」を置く九本の論考から構成されている。 「はしがき」では、筆者自身の自分史と家族史を踏まえ本論文における「移動する人びと」を捉える視座 が提示される。その要点は、定住/移動、「日本人」/「外国人」という私たちが日常的に自明視している 社会的カテゴリーと、現実社会において生きられるリアリティとのあいだの「ズレ」に目を向ける必要性の 提起である。 続く「序章」では、移動/移民を対象とした近年の関連研究動向をレビューすることを通して、本論文に おける問題の所在が明確化される。それを一言で要約すれば、グローバル化のもとで進行する「移動する人 びと」をめぐる「空間の再想像と再管理」の実態であり、社会学的考察を通してその解明を目指すことが本 論文の目的に据えられる。 第1部「移動する人びとのフィールドをどう捉えるか」では、これまでの関連研究を批判的に検討するこ とを通じて、本稿が採用する認識論的/方法論的な立場が提示される。第2章「移動する人びとのフィール ドにおける〈自己との対峙〉─「可視性に基づく問い」から「関係性に導かれた問い」へ─」では、移動/ 移民を研究対象とする従来の研究において「可視性」を重要な基準として研究対象が設定されてきたことが 批判的に指摘される。それに対して筆者は、自らのフィールドでの体験を踏まえつつ「移動する人びと」と の現場での関わりにおける〈自己との対峙〉が重要であり、フィールド研究を進めるうえで根底的な次元が 「可視性」でなく「関係性」にあることを主張する。なぜなら、これまでのように「可視性」を根拠として フィールド調査をするかぎり、「はしがき」で指摘された「ズレ」を捉えることができないからである。む しろ「可視性」に基づく研究調査は、その「ズレ」を見えなくしてしまう。それと対照的にフィールドでの 出会いを通して築かれる「関係性」に導かれたフィールドワークは、〈自己との対峙〉を経て他者との間に 生み出される「ズレ」を研究者に自覚化させ、それを社会学的考察における重要な対象に据えることを可能にする。このように移動/移民を研究調査する際の「問い立て」の根拠を「可視性」から「関係性」へと視 座転換させることは、本論文全体に通底する「移動する人びと」を考察する際の認識論的/方法論的立場の 表明にほかならない。 第3章「移動する人びとのフィールド調査における「可視性の誤謬」─都市・地域社会学のトランスナ ショナリズム論の再検討から─」では、第2章の議論を踏まえて、これまでの都市社会学や地域社会学にお ける「移動する人びと」の位置づけられ方と分析の内実が批判的に検討される。近年の研究動向では「トラ ンスナショナリズム」という概念・方法に基づき、「移動する人びと」の生きられた世界がナショナルな境 界を越え出ていることが指摘されてきた。その成果を認めたうえで筆者は、トランスナショナリズム論に準 拠した都市・地域社会学では多くの場合において「可視性」を基準とした移民/定住民、外国人/日本人の 境界が暗黙の前提として位置づけられており、その結果「ナショナル」な観点から人びとをカテゴリー化す る権力作用が対象化されない点を批判的に指摘する。たとえ日常的に生きられた生活世界の中にトランスナ ショナル = 国家を超える契機が見出されるとしても、特定の人びとを可視的に移民・外国人と看做すナショ ナルな権力作用のメカニズムは厳然と作用している。だが、「可視性」を根拠/基準として「外国人」コミュ ニティと「日本人」コミュニティとの軋轢の実態や共存条件を主たるテーマに据えるこれまでの都市・地域 社会学の諸研究では、そうした権力作用を理論的に的確に捉えることができない。筆者はそこに「可視性の 誤謬」を見て取る。 第4章「移動と空間管理をめぐる人びとの日常的実践の場へ」では、ここまでの議論を踏まえて、関連先 行研究が十分に論じてこなかった重要なテーマを的確に捉えるための理論的枠組みが提示される。その際に 筆者は、近年の監視研究の動向を踏まえたうえで「空間の管理」という視座を援用する。具体的には G. ハー ジの「空間の管理者」概念が、本稿が目的とする「移動する人びと」の日常的な生活実践を記述・分析する うえで有効であると論じる。「空間の管理者」とは、ハージが独自のナショナリズム批判としてオーストラ リアにおける「ホワイトネーション」に関する議論で用いた概念である。「空間の管理者」とは「その空間 に誰がどのように住むべきであるかを管理する権利をもつとされる者」だと定義付けされるが、この概念を 応用することで「移動する人びと」が当該社会においてどのような監視の眼差しのもとに置かれ、その結果 どのような監視の体験を強いられているかを記述することが可能になる、と筆者は論じる。つまり、移動/ 移民の社会学的考察に際して「空間の管理者」という視座を援用することによって、これまでの「可視性に 基づく問い」から出発した諸研究では十分に捉えきれなかった「関係性に導かれた問い」を、「移動する人びと」 をめぐる「空間の再想像と再管理」という主題設定のもとで探求する概念枠組みが得られるのである。 以上、第1部「移動する人びとのフィールドをどう捉えるか」では、先行研究の批判的なレビューを通し て本論文における認識論的/方法論的立場の定式化と、それに基づく概念枠組みの提示がなされる。 第2部「移動する人びとと空間管理をめぐる日常的実践の場から」では、第1部で検討した認識論/方法 論/概念枠組みに基づき、筆者がこれまで実施してきたフィールドワークを通して得られた知見に即して「移 動する人びと」を取り巻く空間の再想像と再管理の実態が記述される。その際、移動/移民をめぐる国境管 理や入国審査の法制度に関する先行研究に目を配りながらも「移動する人びと」の日常的実践を主たる考察 対象に据える点が、本論文の特徴である。 第5章「日系ペルー人の「監視の経験」のリアリティ─転移する空間の管理者に着目して─」では、筆者 とインフォーマントとの出会いを契機とした〈自己との対峙〉を問題意識の起点として、日本社会に暮らす 日系南米人 =「移動する人びと」にとっての「監視の体験」の実態が論じられる。移動/移民に関する監視 をめぐっては、これまで国境管理や入国審査との関連で研究が積み重ねられてきた。それら先行研究の知見 を踏まえつつ筆者は、より日常的な生活場面での「監視の経験」に注目する。「空間の管理者」概念を援用
しつつ筆者は、当時メディアで報じられていた「ペルー人による凶悪犯罪事件」などを背景として日系ペルー 人が日常的な監視の眼差しを多元的に経験していた点を描き出す。そこに見出される特徴を筆者は「転移す る空間の管理者」として概念化する。 第6章「意図せざる結果としてのナショナルな規範の言説の構築─ある郊外都市の「多文化共生推進基本 方針」策定過程を事例に─」では、昨今の国家政策である「多文化共生」を背景に地方自治体レベルで制定 される基本方針の策定過程を参与観察することで得られた知見に基づき、外国人との共存を目指す「多文化 共生政策」に潜む「日本人」を中心に据えたナショナルな規範が批判的に論じられる。排外主義的なナショ ナリズムと包摂主義的な多文化主義とは一見すると対極的な立場に思われるが、筆者は基本方針の策定過程 を丁寧に観察することによって、関係者のあいだで交わされる議論を通じてなかば無意識・無自覚のうちに 「日本人」を中心に据えたナショナルな規範が構築される様を記述する。他者 =「外国人」との共生を目指 した政策・実践であるにも拘らず結果的に自己 =「日本人」を担い手とするナショナルな規範が生み出され ていく過程と現象を、筆者は今日的な多文化共生理念・政策の「意図せざる結果」として特徴づける。 第7章「ナショナルなまなざしの反転可能性─「マダン(마당)」の変容にみる「俺ら」という関係性の創造─」 では、伝統的なコリアン文化行事である「マダン」の変遷過程を事例として議論が展開される。その際に分 析の焦点は、「マダン」の企画/運営に際して日本人教師が果たしてきた役割と新たな参加者 = 当事者であ る「ラティーノ」たちの活動に置かれる。元来は在日コリアンを担い手とする伝統行事であった「マダン」 だが、やがてそれはボランティアとして積極的に参加する日本人教師たちが企画において中心的役割を果た す「祭り」へと変化していく。その過程で在日コリアンたちの参画は低下したが、それに取って代わるよう に南米系移民である「ラティーノ」たちが「マダン」に関わるようになった。そうした変遷過程を丁寧にフィー ルドワークすることを通して筆者は、「マダン」という祝祭空間において「日本人」と「外国人」とのあい だでどのような関係が結ばれ、そこにどのような権力関係が成立しているかをエスノグラフィカルに記述す る。そのうえで、実質的に「祭り」を企画/運営する日本人教師たちの意向や思惑に必ずしも応えようとし ない「ラティーノ」の若者たち =「俺ら」の「マダン」への独自な関わり方のなかに、日本社会において「外 国人 = 移動する人びと」に対して差し向けられるナショナルな眼差しを反転させる可能性を筆者は見て取る。 以上、第2部「移動する人びとと空間管理をめぐる日常的実践の場から」では、筆者が取り組んできたフィー ルドワークから得られた知見を踏まえ、現代日本社会に暮らす「移動する人びと」たちの日常において監視 がどのように経験され、そのことが彼ら/彼女らの生活をどのように規定しているかがエスノグラフィカル な手法を用いて描き出される。 結論「移動と空間管理をめぐる場所─その社会学的水準をめぐる課題と可能性─」では、第1部と第2部 の議論を通じて明らかになった知見を概括するとともに、今後に残された課題が指摘される。
論 文 審 査 結 果 の 要 旨
本論文の意義 「移動する人びと」を主題に据えた本論文の最大の特徴は、二部構成のもとで理論的な考察と実証的な記述・ 分析の双方が試みられている点である。「理論か実証か」の二者択一でなく、関連先行研究の成果を踏まえ てグローバル時代における移動/移民に関する理論的考察とフィールドワークに基づく実証的調査を架橋す るという困難な課題に、筆者は取り組んでいる。若い研究者による果敢な学問的試みとして、その点は高く 評価されるべきものである。 第二の特徴として、理論と実証を架橋する試みにおいて、ただ単にこれまでの諸研究を統合するのではな く、筆者が自らのフィールドで関わった「移動する人びと = インフォーマント」との実存的な出会いを契機として、従来の関連研究で自明視されていた二項対立的なカテゴリー(移動/定住、日本人/外国人、ナ ショナル/トランスナショナル、等々)自体を批判的に再検討することを通して、筆者独自の認識論的な問 い立てと方法論(「可視性に基づく調査」ではなく「関係性に導かれたフィールドワーク」)の提示が試みら れていることを、本論文における独自性として指摘しうる。そうした認識論的/方法論的な問いを背景とし てなされる先行研究レビューは、検討される領域と取り上げられる研究の網羅性という点において課題が見 て取れるものの、筆者独自の明確な問題意識に根ざした関連領域の概説と整理、ならびにそれを踏まえた自 身の研究の位置づけという点において、博士論文に求められる学術的水準を満たしていると判断される。 移動/移民を対象とした従来の研究が、筆者が言うところの「可視性」を根拠に研究を進めてきたことには、 当然ながら相応の理由がある。どのようなものであれ研究に取りかかるうえで何かしらのキッカケ = 契機 が必要不可欠である。「移動する人びと」を対象とした多くの研究において、その契機は「自分たち = 日本 人」とは異なる「あの人たち = 外国人」の可視化された見た目の違いとして、なかば無前提に位置づけら れてきた。それは理由のあることだが、従来からの認識論的/方法論的前提に依拠することで「問えなくなる」 次元が生じることを、筆者は的確に指摘している。それを問うための概念枠組みとして筆者は近年の監視研 究の動向と知見を踏まえ、ナショナルな監視の眼差しとそれが引き起こす管理のメカニズムに注意を向ける 必要性を提起する。もちろん、移民研究と監視研究はこれまでにもしばしば関連づけて論じられてきた。だが、 その多くが国境管理や入国審査に照準したマクロな制度次元での研究であったのに対して、筆者は「移動す る人びと」の日々の生活において体感される「監視の経験」に焦点を絞って考察を進める。「空間の管理者」 という G. ハージによる理論・概念の援用にもとづき、グローバル時代における「移動する人びと」のフィー ルドワークで得られた諸知見を「空間の再想像と再管理」という観点から再構成する議論は、当該領域にお ける独自な研究成果として評価できる。 第三の特徴は、関連研究の批判的な継承と吸収に基づく筆者独自の認識論/方法論に依拠した考察が、長 期間にわたるフィールド調査によって得られた経験と知識によって裏打ちされ、しかも常に理論と調査との 緊張関係のもとで社会学的考察が進められている点である。その意味で「はしがき」で言及される原理的な 問題関心(問題以前の一体験)を表す言葉でもある「ズレ」は、本論文での考察を通して明快に解消される 性格のものではなく、むしろ現実社会における権力作用のもとで「移動する人びと」を取り巻くリアリティ として、どこまでも残り続ける(その意味で問われ続けるべき)「問い」として位置づけられている。そこには、 安易で分かりやすい解答へと向かうことなく、どこまでも粘り強く自らの主題に取り組もうとする稲津氏の 学問への真摯な態度が窺える。 第四の特徴は、本論文全体を通して提示される「ナショナルな監視に基づく空間の再管理」をめぐる両義 性が、思弁的・観念的にではなくフィールドワークに根ざしたエスノグラフィカルな記述を通して提示され ている点である。特に第7章での議論は、現在の日本社会において発揮されるナショナルな監視の眼差しに 対抗する潜在力が「監視の体験」を権力的に被る当事者たちの日常的な実践 = 戦略のうちに見て取れるこ とを生き生きと描き出している。たしかに、当事者 =「俺ら」による戦略の記述はいまだ萌芽的な段階に留 まっているが、今後、そうした権力作用をめぐる両義性の解明が理論と調査の架橋を通して為され得ること を十分に予感させる内容となっている。 以上指摘したように、本論文は独自の観点から「移動する人びと」を主題に据えたうえで、そこにおける 空間の再想像と再管理のせめぎ合いを理論的かつ実証的に考察した社会学的研究として、博士学位申請論文 に求められる学術的水準を満たしていると判断される。 本論文の課題 上記で述べたように本論文はその独自な問い立てと方法論のもとで「移動する人びと」に関する社会学的
考察を試みた論文として高く評価するに値するが、そこには幾つかの問題点も指摘される。 第一に、二部構成のもと理論的考察と実証的研究を架橋しようとする本論文の試みには、大きな課題が見 て取れる。各章での議論はそれぞれに完結しているが、ひとつの論文としてそれらを相互に結びつける論理 が、必ずしも十分説得的に提示されているとは言い難い。そのため、筋は通っているが、一見したところ全 体としてのまとまりに欠けるとの印象を持たれても仕方のない点を問題点として指摘できる。「はしがき」 において稲津氏自身の自分史・家族史に引きつけたエピソードを出発点として議論が始められるが、そこで 提起された「移動」をめぐる実存的な問いは論文全体を貫く筆者の強い問題提起のプロローグなのであるが、 惜しむらくは、それと、本論の第1部での理論的考察、第2部での実証的記述とが有機的に結びついている ことを示唆する伏線の張り方が行き届いていないうらみがある。この問題が生じる最大の要因は、二部構成 のもと「理論」と「実証」を架橋しようとする本論文の野心的な試みが、両者を相互媒介する首尾一貫した 論旨展開を意図するも、その試みが十分には果たされていないからであると判断される。「空間の管理者」 概念を梃子に第一部と第二部を結びつけようとする筆者の意図と試みは意義深いものであるが、それを徹底 するためには単に先行諸研究の批判的検討から得られた認識論/方法論を用いた実態の記述と分析に終わる のでなく、実証を通じて得られた知見を踏まえ、当該研究領域におけるどのような理論的・方法論的な革新 が得られるかを再帰的に示唆することが期待される。そうすることで、各章個別にではなく論文全体を通し て「なにが明らかにされたか」が、「結論」においてより明確により十分な形で提示できたであろう。 第二に、先行研究のレビューに関して言えば、「可視性」でなく「関係性」の水準において「移動する人びと」 を捉える認識論/方法論のもとで「空間の再管理」の実態の解明を目指す本論文では、「移動」、 「移民」、 「空 間」に関連する先行研究が多岐にわたり取り上げられ検討される。だが、その取捨選択において抽象的・理 論的な研究が重視されるのと比して、具体的な事例に即した実証的研究が十分に検討されていないことが指 摘できる。さらに、先行研究レビューの中の議論の仕方において些か「我田引水」的な側面が散見される場 合がある。特に第3章での「都市・地域社会学のトランスナショナリズム論」の再検討では、既存の研究動 向の問題点を「可視性の誤謬」として論難するが、批判対象とされた研究領域の文献資料の選択の仕方なら びに筆者の論旨展開には、少しばかり強引であるとの印象を禁じ得ない。「移動する人びと」を研究対象に 据える関連研究領域のこれまでの知見と成果を内在的に正当に評価し、先行研究との全体的な「知的対話」 を経たうえで、そこに見て取れる問題点と課題を指摘することが求められる。筆者独自の方法論に基づく研 究の意義をより説得的に提示するうえで、より丁寧な研究レビューを積み重ねることが必要である。 第三に、「可視性に基づく調査から関係性に導かれるフィールドワークへ」との論文全体を貫く方法論上 の問題設定にも課題が見て取れる。筆者は「可視性」でなく「関係性」を契機とした研究こそが「移動する 人びと」を取り巻くリアリティを捉えるうえで有効だと看做す。だが、研究者にとって対象との関わりにお ける「可視性」と「関係性」の違いは、調査を進める時間的経過の中で変化していくものであると考えられ る。その点を踏まえるならば「可視性」と「関係性」を二項対立的に捉えるのでなく、多元的かつ複雑に関 連した形態において両者を概念化することが、本論文が目指す「移動する人びと」の生きられたリアリティ に迫りうる研究には求められる。 第四に、監視の眼差しが引き起こす管理に対抗する潜在力の議論・考察に関する課題が指摘できる。第7 章でのエスノグラフィカルな記述は、ナショナルな眼差しのもとに発揮される「日本人」による空間管理に 抗う「移動する人びと」の姿を捉えている。だが、「俺ら」に具現化される「抵抗の所在」を説得的かつ具 体的に論じるためには、さらなる事例の収集とより「厚い記述」が不可欠である。 以上の問題点の指摘は、本論文が関連研究領域において大きな貢献を果たし、今後の発展に向けて多大な 可能性を持つ研究であるとの高い評価を前提とした上で為されるものである。もとより審査を通じて上記の 課題が浮かび上がるのは、本論文における稲津氏の学問的試みが野心的であり、そこに大きな可能性が見て
取れることの当然の帰結でもある。ここで述べた問題点が今後の稲津氏の研究を通じて慎重に解決されるこ とによって、本論文が目指した当該領域における独自性に満ちた有益な研究としての意義が一層明確に提示 されることがおおいに期待される。 以上、本論文は明確な問題意識に根ざした独自な研究成果として有益なものであるとの評価にもとづき、 本審査委員会は、稲津秀樹氏が博士(社会学)の学位を受けるのに相応しいとの結論を得た。そのことをこ こに報告する。