大地の裏切りと「あらゆるもの」の譲渡
──地震の社会学(五)
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原
田
隆
司
地震とは何か。本稿では、いくつかの地震の説明を手がかりに、地震というもの の本質を探ってみたい。第一章
発生した地震への対応
大きな地震が発生して被害が生じる。地震のことが語られる際には、それによる 被害に焦点があてられるが、そこには、さまざまな描き方がある。 一─ 1 常識的な説明 明 治 か ら 大 正 に か け て 編 纂 さ れ た 『 古 事 類 苑 』 と い う 百 科 事 典 が あ る 。 当 該 の 項 目 に 関 す る 歴 史 的 な 文 献 の 記 述 が 並 べ ら れ て お り 、そ の 前 に は 語 義 が 説 明 さ れ て い る 。 「地震」については、次のような説明がある。 ( 前 略 ) 凡 ソ 地 震 ノ 発 ス ル ヤ、 微 動 ニ 止 マ ル ア リ、 一 日 数 回 ニ 及 ブ ア リ、 数日ニ渉ルアリ、 年ヲ越ユルアリ、 其強大ナルモノニ至リテハ、 家屋ヲ倒シ、 人畜ヲ損シ、地ヲ裂キ、山ヲ崩シ、川ヲ塞ギ、海嘯ヲ起コス等ノ事アリ、是 ヲ以テソノ難ヲ避ケントスルヤ、或ハ屋外ニ出デ、或ハ樹下ニ座シ、或ハ竹 林ニ入リ、或ハ舟車ニ乗ル(後略) 。 (『古事類苑』地部三、 一三五五) 建物が壊れて、人は屋外に出て、少しでも安全な場所を探して、倒れずに立って いる大きな木の下や、地表部分を根が固めている竹林に逃げる。あるいは、もっと 遠くに逃げようとする。発生した地震に対して、それが大きなものであれば、その 場の人間はただ逃げ出すということしかできない。そして、 一口に地震といっても、 小さなものは「微動」にとどまり、それを感じたとしても日常生活に影響を与える ことはないのである。 この説明は、現在でも一般的で常識的な説明ということができるであろう。当た り前と思われるかもしれないが、地震が「発した」後のことが説明されている。 一─ 2 体験する、伝える 発した地震は、どのように体験され、また伝えられるのだろうか。 一 九 九 五 年 一 月 一 七 日 の 早 朝「 5時 46分 55秒 」、 A M 神 戸 と い う ラ ジ オ 局 は 放 送 が停止した。 「正確には、 瞬間停波の後、 電波に音声がのらない無変調状態」となっ た。 6時の時報の後、放送が再開された。以下は、株式会社ラジオ関西震災報道記 録 班 編 の『 R A D I O ─ A M 神 戸 69時 間 震 災 報 道 の 記 録 』( 長 征 社、 二 〇 〇 二 年 ) からの引用である。 し ゃ べ り ま し ょ う か。 …… は い。 … … A M 神 戸 の ス タ ジ オ で す。 ス タ ジ オが現在、ただいまの地震で壊れております。音声が途切れております。情 報 が 入 り し だ い お 伝 え し ま す。 ( 中 略 ) 神 戸 市 須 磨 区 の ラ ジ オ 関 西 の 外 に 出 ますと、たくさんの方が外に出てこられています。6時 6分、別の話し手が語る。 え ー、 ぼ く も 外 か ら 帰 っ て き た ん で す け れ ど も、 A M 神 戸 の ま わ り の マ ンションのブロックも崩れてまして、住民の方々か不安げに外に出てきてお られました。まだ真っ暗という状況で、マンションの壊れかけた部屋に閉じ こめられた方もおられるようですが、 脱出の方法がまだ見あたらないようで、 とりあえずは部屋の中におられる……そんな方もおられるようです。とにか く、 A M 神 戸 の 中 は、 壁 も 崩 れ ま し て、 建 物 も ほ と ん ど が 倒 れ、 2階 … 3 階ですか、 3階からの、天井から水も漏れてきましたが、放送はいちおうで きる状態に復旧したようです。 6時 13分、 「 一 回 線 だ け が 生 き て い た 共 同 通 信 の 記 事 フ ァ ッ ク ス で、 よ う や く 地 震情報が入ってくる」 。それが放送される。 いま、地震情報が入ってきましたが、本日の地震発生が午前 5時 47分とい うことで、 姫路で震度 4の中震、 大阪も震度 4の中震、 京都が震度 5の強震、 和歌山が震度 4の中震、それから名古屋で震度 3の弱震、ただいま入ってき ました速報です(繰り返し) 。 こ の 記 録 集 に よ れば 「 6時 13分 、 大 阪 管 区 気 象 台 が 地 震 情 報 3号 で 『 神 戸 が震 度 6( 烈 震 )』 と 発 表 。 し か し 、 そ の 情 報 は 全 く 入 っ て こ な い 。 気 象 台 は じ め 、 各 機 関 へ の 電 話 は 、 す べ て 不 通 だ っ た 」 と い う 。 地 震 の 被 害 を 受 け た そ の 場 所 で は 、 ま さ に そ の 被 害 ゆ え に 、 直 後 に は ど の よ う な 地 震 な の か が つ か め な か っ た の で あ る 。 外 と の 電 話 連 絡 が で き な い の で 、 ラ ジ オ 局の ス タ ジ オ か ら 見 え る 光 景 、 ラ ジ オ 局 そ の も の の 被 害 な ど 、 一 番 身 近 な と こ ろ の 様 子 を そ の ま ま 伝 え る と い う こ と し か で き な い 。 およそ 1時間が経過した 6時 41分になって、詳しい情報が入る。 いま、また地震情報が入りました。午前 6時 18分、気象庁・地震火山部発 表の情報です。今日の午前 5時 46分ごろ、地震がありまして、震源地は淡路 島で、震源の深さは 20キロメートル、地震の規模はマグニチュード 7・ 2と 推 定 さ れ て お り ま す( 繰 り 返 し )。 各 地 の 震 度 は 次 の 通 り で す。 震 度 6の、 これは烈震になりますね。震度 6の烈震が神戸、 震度 5の強震が京都、 豊岡、 彦根(繰り返し) (以下略) 6時 43分。 いまですね、山陽電鉄の月見山駅から歩いて、スタッフがこちらのほうに 向かっていたんですが、リポートありました。現在、屋根も落ちている家も 多いということです。家が崩れているところもあったと、わりと住民の方が 必死になって、 あいだに挟まれている人とかがいるようですので、 必死になっ て男性の方が助け出している状態だということです。どうぞ皆さん、落ちつ いて行動なさってください。 7時 39分。スタッフのひとりが、神戸市内のマンションの 10階から報告をする。 ここから目の真下に火災現場が見えるんですが、 [中略]西側に向かって、 かなり大規模な火災が炎上中です。やっと目の下に、救急車と消防車が来て おりますが、放水はしておりません。どこから手をつけていいのかわからな い状況で、消防隊員は水の、水路の確保に当たっているんですが、まだ放水 と い う 状 況 に は 移 っ て お り ま せ ん。 ひ と つ、 ご 注 意 し て い た だ き た い の は、 ガスの臭いが周辺に立ちこめております。都市ガスの臭いが立ちこめており ま す。 と き お り、 ボ ー ン と い う 大 き な 爆 発 音 も 聞 こ え て お り ま す。 皆 さ ん、 倒壊した家屋からのガス漏れが心配ですので、ご近所、十分ご注意なさって いただきたいと思います。 12時 21分。
警 察 庁 に よ り ま す と 正 午 現 在、 兵 庫 県 南 部 地 震 に よ る 死 者 は 203 人、 行方不明者が 311 人にのぼっています。 可 能 な 範 囲で 移 動 し て 、 五 感 を と おし て 得 ら れ る 状 況 を 説 明 す る 。 そ し て 、 外 部 か ら の情 報 を 伝 え る 。 そ れが 、 地 震 の 被 害 を 受 け た 直 後 に 、 そ の 現 場 に 位 置 す る ラ ジ オ 局 が で き た 報 道 で あ っ た 。 被 害 を 受 け た 場 所 か ら 、 そ の 被 害 を 伝 え た の で あ る 。 約三百年前の一六九四年、現在の秋田県の能代の記録がある。後に触れる『増訂 大日本地震史料』第二巻に所収されている「代邑聞見録」という史料には、次のよ うに記されている。 元 禄 七 年 甲 戌 さ つ き 末 の 七 日 、 明 行 空 は 薄 墨 を た た え 、 出 る 日 は 朱 の 盆 を 浮 べ る が 如 く 、 時 な ら ず 東 風 粛 颯 と 面 を 打 。 何 と な く 物 す さ ま じ く あ や し み な が ら 、 唐 土 人 の 五 月 秋 と 詠 じ け ん も 是 等 の 気 色 に や と 思 い 捨 し 、 辰 の 刻 頃 大 地 俄 に 震 い 出 、 皆 足 を 空 に 逃 出 け り 。 間 も な く 鎮 ま り 家 に 入 ぬ 。 朝 寝 の 人 々 も 是 に 驚 き 起 出 、 聞 も 伝 え ぬ 強 き 地 震 、 梁 な ど 外 れ ざ る や な と い う 内 、 ゆ り 返 し ぬ 、 あ わ や と 又 逃 出 し て 、 予 は 、 妹 の 逃 兼 け る が 手 を 引 て 四 五 歩 台 所 土 間 へ 下 り し に 、 家 を も て あ げ 、 落 す よ う に 壁 の 崩 る る を 見 、 両 手 を 頭 上 へ 組 け れ ば 、 拍 手 や 能 り け ん 。 壁 わ か れ て 難 な く 屋 根 へ 出 、 見 渡 せ ば 皆 潰 て 平 地 に 成 り 、 朝 炊 の 時 な れ ば 、 火 の 手 方 々 に 見 え 、 人 は 一 人 も 見 え ざ り け れ ば 、 我 の み 生 き て 何 か せ ん と 、 十 [ と ほ う ] 方 に 暮 し に 、 妹 が 呼 声 に 気 附 、 我 が 出 し 所 よ り 是 も 難 な く 取 出 し ぬ 。 然 る 所 に 実 兄 其 外 下 人 ど も 遁 れ 出 、 屋 根 へ 来 り 、 か し こ 爰 [ここ] 取 の け 、 家 公 並 に 慈 母 の 梁 に 押 れ 給 い し を 取 出 し 奉 り 、 下 女 も 掘 り お こ し ぬ 。 彼 音 信 に 隣 よ り 来 り し 娘 、 梁 に 髪 を は さ ま れ し も 起 し て 返 し ぬ 。 只 五 才 に な り 、 妹 の 背 負 れ 、 梁 に 打 れ 果 け る の み ぞ 長 き 思 い 草 な り け り 。 然 れ 共 家 公 を 始 、 下 々 ま で 無 恙 、 悦 び あ ま り 有 け り 。 火 は 遠 け れ ば 家 へ 入 り て 調 度 の 様 の 物 取 出 す は 安 か り け れ ど も 、 度 々 震 て 止 ま ざ り け れ ば 、 た ま た ま 生 き た る か ら き 命 失 い て は 、 手 を 空 う す る に 似 た り と 、 上 下 堅 く 禁 じ て 、 手 近 に 最 安 き を 取 か た 付 ぬ 。 後 に 聞 け ば 、 難 な く 出 け る も 、 調 度 に 目 く れ 、 再 應 出 入 し て 梁 に 打 れ 、 或 は 出 所 を ふ さ が れ 焼 死 に け る も 多 か り し と か や 。 其 の 外 さ ま ざ ま 、 一 時 の 内 の 盛 衰 ま こ と に 夢 幻 泡 影 の 金 言 初 め て 思 い し ら さ れ け る ( 後 略 )。 (『増訂 大日本地震史料』第二巻、五─六) 同 じ 第 二 巻 を 四 〇 〇 ペ ー ジ ほ ど 進 ん だ と こ ろ に は、 「 工 藤 家 記 」 と い う 史 料 か ら 次のような記録が掲載されている。前の地震から七〇年ほど後の一七六六年、津軽 藩(現在の青森県)の弘前でのことである。 明和三年正月廿八日酉之刻大地震。 今 日 天 気 和 ら き 元 来 雪 厚 く 時 分 柄 余 寒 に 候 へ と も 折 々 森 林 に 霞 厚 く か か り、 一 入 春 め き た る 事 と 存 候。 然 る 所 六 ツ 時 否 や 乾 の 方 よ り 鳴 動、 其 響 き 百千の雷の如く、大地動揺して暫く不止、蒼天色黒く黄にして雲掩ひかかり 朦々として風なく、殊に甚た火急の殊にて遁れ出候間もなく怪我にて死傷の 者夥敷、戸毎に老少の女童とも悲傷号泣の声喧しく、其外鶏犬猫の類迄東西 にかけ走り、鳴うめく声凄し。其内に潰火より出火にて四方に火の手上り誠 に騒動いわん方なし。去共震動止事なく既に暁迄に拾度余に至、人々肝を冷 し候事なり。御家中は門内園の内、町家は街道の左右へ家々より各戸板畳等 を持出し、老少幼少の者を夜具等にて圍置き、兎角して夜を明かし、火鉢或 は雪の上に火を焚、やうやう朝飯など給候て、それより銘々假屋をしつらい 住居せしこと既に四五日に至り候。尤雪消次第春風の度には假屋をも幾度か 掛直し住居せしなり。 (後略) (同上書、四二三) 今も昔も、私たちは、地震が発生する前から発生後のことまでを人に伝えようと し て き た。 「 聞 も 伝 え ぬ 強 き 地 震 」、 「 大 地 動 揺 ら し て 暫 く 不 止 」 と は、 昔 も 今 も 変 わらぬ同じ感覚である。
一─ 3 対応する 大きな地震が発生した直後には、被害があるのかどうか分からないこともある。 阪 急 電 鉄 の 記 録 に よ れ ば、 「 兵 庫 県 南 部 地 震 」 直 後 の 一 時 間 余 り の 間 に、 次 の よ うな作業が行われ、被害を把握しはじめた。 5時 46分 兵庫県南部地震発生。 5時 47分 地震 2号指令発令、全列車に緊急停止を指示。技術関係各部に地震 指令を発令、施設点検を指示。 5時 52分 運転指令より各列車に旅客の安全な場所への誘導を指示。 5時 53分 伊丹駅より駅崩壊の報告受報。 5時 55分 鉄道施設部施設課、非常呼出。 5時 56分 今 津 線 T ♯ 5 6 4 列 車、 宝 塚 ~ 宝 塚 南 口 間 パ ー ク 裏 付 近 で 列 車 脱線のため負傷者発生、救急車の要請受報。 6時 00分 電気部電路課非常呼出。電路設備の徒歩巡回開始。保安システム宝 塚~西宮北口間巡回開始。車両部車両課、非常呼出。 6時 13分 本線 T ♯ K 5 2 4 列車が三宮駅大阪方で脱線を確認。甲陽園駅が 地割れしているとの報告を受報。 6時 20分 夙川駅地割れ、陥没、隆起のため走行不可との報告受報。西宮車庫 内および車両点検開始。 6時 26分 西宮北口~門戸厄神間国道 171 号線の橋桁落下確認。 6時 39分 今津線 T ♯ 5 6 5 列車より大阪方第 1軸脱線を受報。 6時 40分 保安システム園田から西宮北口、三宮~西宮北口間巡回開始。 6時 43分 門戸厄神~甲東園間、新幹線橋桁落下確認。 6時 47分 夙川~芦屋川間、民家が線路側の鉄柱によりかかり鉄柱が傾斜して いるとの報告受報。 7時 00分 ( 仮 ) 地 震 災 害 対 策 本 部 設 置。 施 設 課、 梅 田 ~ 西 宮 北 口 間、 西 宮 北 口~三宮間、今津線西宮北口~宝塚間徒歩巡回開始。 被害状況 ・武庫川橋梁橋台橋脚傾斜および取付盛土部道床陥没。 ・ 西 宮 高 架 橋 倒 壊 、 夙 川 駅 道 床 陥 没 、 お よ び ホ ー ム 上 家 損 壊 、 下 り 側 沿 マ ン シ ョ ン倒壊。 ・下猪名川橋梁橋台背面盛土沈下。 ・園田高架通り狂い。 ・塚口跨線橋橋台背面盛土沈下陥没。 ・東芦屋付近擁壁倒壊。 7時 01分 指 令 一 斉 電 話 に よ り 現 在 復 旧 見 込 み な し を 連 絡 。 西 宮 車 庫 内 点 検 完 了 。 ( 阪急電鉄「地震発生後 24時間の初動状況概要(神戸線) 」二〇八。引用に際し て元の表形式に手を加えている。 ) 作業は続けられ、 翌 18日の早朝 5時 17分「西宮北口発梅田行き営業列車運転開始」 となった。この区間だけ、翌日の始発から営業運転を再開したのである。全線が開 通したのは 146 日目の 6月 12日である(同上書、四〇) 。 一─ 4 避難する、避難に対応する 地震のあとに生じることとして、避難所というものがある。避難所のはじまりと は、地震の発生直後に、多くの人たちが避難してきたということである。避難所の 終 わ り と は、 事 前 に 期 限 が 決 め ら れ て、 「 最 後 ま で 」 避 難 し て い た 人 の 全 て が 出 た ということである。 〈学校に避難する〉 筆者は、地震発生の三日後に、ある避難所に「ボランティア」として入った。そ こは公立の中学校である。二週間後には、授業が再開された。それから約半年のあ いだ、中学校と避難所が、学校というひとつの空間を分け合った。 〈「十人かける十人で百人」 〉 学校の先生によれば、地震から約二時間後の午前七時半には「運動場には人いっ
ぱい」であった。体育館は被害を受けていたので、学校は教室に入れることを決断 した。 一階から四階まで教室は人で埋まった。 人数を把握することもできなかった。 出入りは頻繁にあったし、数える余裕もなかった。ひとりの先生が、ある部屋の扉 をあけて中を覗いて「十人かける十人で百人ですね」と言ったことが、その状況を 物語っている。地震の直後の状況を示すのは、避難所という場所に、およそ何人く らいの人がいるのかということにつきる。避難していた人によれば「隣には知らな い人が寝ている」ような状況であり、年齢も性別も住所も職業も関係なく、家族構 成も、知り合いであるかどうかも、何を持ってきているかも、どんな服装であるの かも、判断することなく、ただ、およその人数を把握するということである。大き な地震が発生した直後の、大都市部における「被害状況」とは、突き詰めれば、避 難している人の数ということになる。正しく概数である。 〈ブロックに分ける〉 や が て 、 一 日 一 日 が 経 過 し 、 学 校 / 避 難 所 と し て の 集 合 的 な 生 活 が 続 い て い く 。 学 校 や 教 育 委 員 会 、 市 の 災 害 対 策 本 部 な ど の 管 轄 の も と で 、 地 震 前 の 居 住 地 の 町 ご と に 「 ブ ロ ッ ク 」 を つ くり 、 体 育 館 な ど の 「 住 む 」 場 所 を 固 定 し 、 名 簿 を つ くり 、 人 数 を 把 握 し 、弁 当 や 飲 み 物 な ど は 、そ の 人 数 を も と に し て 届 く よ う に な る 。こ の 避 難 所 で は 、 ブ ロ ッ ク か ら 代 表 を 出 し て も ら い 、 学 校 側 と 筆 者 な ど の 「 ボ ラ ン テ ィ ア 」 と が 、 定 期 的 に 会 議 を 持 つ よ う に な っ た 。 物 資 を 分 け る 、 炊 き 出 し の 予 定 を 伝 え る 、 簡 易 ト イ レ の 掃 除 の 分 担 を 決 め る 、 な ど な ど 、 ひ と つ の 避 難 所 と し て の 「 運 営 」 で あ る 。 以 上 は 、 誰 も 経 験 の な い こ と に つ い て 、 そ の 都 度 、 相 談 を し な が ら や っ て い っ た こ と で あ る 。 〈断熱材〉 教室や体育館の区割りで分けられた場所それぞれにも、 いろいろな関係が生じる。 体育館の床に敷いて寒さを和らげようと持ち込まれた断熱材は、一夜のうちに各所 帯を分ける壁になっていた。避難していた人の話では、ある時、その上にリンゴが 置かれていた。 そこから付き合いがはじまった所帯がある。 「 551 」の餃子をもらっ たり、 時には、 夫婦喧嘩で靴下が空中を飛んでいたりもする。 そういう空間であった。 〈リボン〉 時間の経過とともに、避難している人たちからすれば、自分たちが日常生活をす る場であり、ある人が会議で発言したように「大きな家族やと思てるねん」という 意識を持つような場になっていった。名簿がつくられ、人数が把握され、役割分担 がなされ、立ち話をするようになってくると、学校のなかとはいえ、そこは自分た ちの生活の場となった。 したがって、 「外の人」が、 「知らない人」が、入ってくることには抵抗を感じる ようになる。ある時、 「外の人」 「知らない人」が中に入って来られないようにとい う こ と で、 「 中 の 人 」 は、 そ の 目 印 と し て リ ボ ン を 付 け よ う と い う こ と に な っ た。 そして人数分のリボンを用意して配布したのであるが、数日のうちに、そのリボン を 付 け た「 知 ら な い 人 」 が 入 っ て き て い る こ と が 判 明 し た。 避 難 所 と い う 空 間 が、 どこまで開放的な場なのか、そうではないのか、明確な基準はなかった。 〈ベンツで弁当をもらいに来る〉 仮設住宅に移る人、親戚などを頼って出て行く人、いつの間にかいなくなってい る人など、人数は確実に減っていった。避難所として使える空間も、徐々に限られ るようになる。それと並行して、 食事や物資の配給、 無料の電話の設置など、 事実上、 避難所にいる人たちを主な対象とする便宜が提供されるようになっていった。食事 (弁当) の配給には、 端的にそれが表れている。 中の人、 つまり避難している人の数と、 外の人、つまり避難していないが食事をとりにくる人数を合計して対策本部に連絡 し、毎回の食事が運び込まれていたのである。ところが、ある時から、配給は中の 人だけになった。同じように地震で被害を受けたにもかかわらず、避難所にいる人 にだけ、食事や飲み物などが提供されるようになっていた。水道やガス、電気など が復旧しつつあるということが主な理由であった。 こうして最初の正確な人数さえ数えられないような状況は、半年後には、避難所 閉鎖と共にゼロということになった。 外から持ち込まれた物資も、足りないものと余るもの、さまざまであった。余っ ている物資については、外の人にも渡すようにしていたが、それを取りに来る外の 人たちには、中の人たちは自分たちよりもずっと大変だろう、と思われていた。大 きな地震が発生し、鉄道が不通となり、ガスや水道がとまり、家に住めないという 状況から「復旧」作業が進むにつれて、家のある場所や家そのものの被害状況によ
り「大変さ」は多様になってくる。頼れる親戚がいるけれど行かないという話を聞 いたこともある。全壊・半壊・一部損壊、電気、ガス、水道などの状況など、いく つか「大変さ」を分類する指標があったとしても、それは避難所にいるかいないか ということとは対応しない。地震直後に怪我で入院し、数日後に避難してきた人も いたが、地震直後に避難してきた人たちのなかで出て行かなかった人が避難所に居 続けたということである。 あ る 時、 ベ ン ツ に 乗 っ て 弁 当 や 日 用 品 を も ら い に 来 る 人 の こ と が 話 題 に な っ た。 違和感を感じる意見もあった。日常の生活水準からすれば、どこでも食事ができる はずなのに、どうして避難所に弁当をもらいに来るのか、と。しかし、生活水準と は関係なく、求める人に渡すものであれば、ベンツに乗っている人も、今それが必 要であるという意味では、他の人と同じだということにもなる。 〈「ボランティア」 〉 筆者を含む数名の 「ボランティア」 が、 実質的にこの避難所の 「運営」 を担っていた。 「本部」という拠点をつくり、 弁当や物資の管理、 来訪者への対応、 炊き出しの調整、 学校との交渉などをしていた。最初の一ヶ月、 二ヶ月は、 毎日数多くの「ボランティ ア 」 が 関 わ っ た の で あ る が、 継 続 的 に 通 う「 ボ ラ ン テ ィ ア 」 は 限 ら れ て い た。 「 ボ ランティア」の定義や仕事の範囲などは、曖昧であって、避難している人も学校関 係者もできないことを手伝うというようなものであった。筆者自身も、最初に入っ た時に丸一日滞在して、ペットボトル入りの水の本数を数えるなどして、その時々 の状況を把握しているのは自分しかいないということが分かったので、入れ替わり やってくる 「ボランティア」 に指示をするなど、 「運営」 をするようになっていった。 終了後に話を聞いてみると、自分たち避難していた人間が運営をするべきであった と 振 り 返 る 人 も い た。 形 式 的 に は 学 校 の 管 轄 下 で 避 難 所 は 運 営 さ れ た の で あ る が、 この避難所では「ボランティア」が、その実務を担っていたということになる。 〈焚出し、御救小屋、御救米〉 日本では、これまで、何度となく、大きな地震が起こり、同じような状況が生じ てきたということもまた明白である。江戸時代には、地震や火災の被害が生じた際 には、焚出しをしたり、御救小屋という避難所をつくったり、御救米として米を配 布したりと、 現在と同じような救援活動が行われた。裕福な町人は、 「施行」として、 金銭のほかに、味噌、茶、そば、沢庵、梅干し、などを配ったという。
第二章
発生した地震と被害を伝えて記録する
二─ 1 報じる 発生した地震は、どのように報じられるのだろうか。 一九九五年の一月、あの地震が発生した日に東京で発行された夕刊では、次のよ うに報じられた。 神戸中心に大震災/震度 6 死者・不明者数百人/高速道路やビル崩壊─ M 7 ・ 2 直下型/淡路島震源 17日午前 5時 46分ごろ、近畿地方を中心に西日本から東日本にかけての広 い地域で地震があった。大阪管区気象台によると、直下型地震で、神戸と洲 本で震度 6(烈震) を記録したほか、 京都、 彦根、 豊岡で震度 5(強震) となった。 震 源 は 淡 路 島 付 近 で、 北 緯 34・ 6度、 東 経 135 ・ 0度 で、 震 源 の 深 さ は 約 20キロ、マグニチュードは 7・ 2と推定されている。この地震で淡路島や 神戸をはじめ近畿の各地で建物が倒壊し、火災が発生。警察庁の正午現在の まとめによると、死者は 203 人、重傷者は 390 人。自治省消防庁によ ると、負傷者は 1万 3千人。生き埋めなど行方不明者は 331 人にのぼる。 J R の 新 幹 線、 在 来 線、 私 鉄 が 損 傷 を 受 け、 高 速 道 路 の 陥 没、 高 架 の 落 下 が 相 次 ぎ、 交 通 網 は マ ヒ 状 態 と な っ た。 気 象 庁 は「 平 成 7年( 1995 年 ) 兵庫県南部地震」と命名した。近畿地方で震度 6を記録したのは、 1 9 2 7 年 3月 7日、丹後半島を中心に被害が大きかった北丹後地震( M 7 ・ 3)の 豊岡(兵庫)以来 68年ぶり。大阪管区気象台によると、淡路島から六甲にか け て 走 る 断 層 の い ず れ か が 動 い た と み て い る。 ( 1995 年 1月 17日 朝 日 新聞夕刊 東京本社 3版 1面)東京発行の新聞の夕刊で、早朝に関西で発生した地震を報じた記事である。震源 や震度などの地震そのものの説明と被害の概要と、過去の地震との比較が報じられ ている。 2面以降にも多くの記事と写真がある。その後も、連日、その時点で最新 とされる内容が報じられる。その多くは、いうまでもなく、被害についてである。 二─ 2 記録する 大きな地震が発生して被害があれば、それは記録されることも多い。現在に残る さ ま ざ ま な 文 献 資 料 に は、 そ れ が 記 録 さ れ て い る。 最 も 古 い 記 録 は、 『 日 本 書 紀 』 巻第十三(允恭天皇)の「五年秋七月丙子朔己丑、地震」という記述である。允恭 天 皇 の 五 年 の 秋 七 月 に「 地( な ゐ ) 震( ふ る )」 と い う 意 味 で あ る。 西 暦 四 一 六 年 とされる。 同じ『日本書紀』の巻第二十九、天武天皇十三年(西暦六八四年)十月のところ には、次のように記されている。 壬 辰 、 逮 二于 人 定 一、 大 地 震 。 擧 レ 國 男 女 叫 唱 、 不 知 東 西 。 則 山 崩 河 涌 。 諸 國 郡 官 舍 、 及 百 姓 倉 屋 、 寺 塔 神 社 破 壤 之 類 、 不 レ 可 二 勝 數 一 。 由 レ 是 、 人 民 及 六 畜 、 多 死 傷 之 。 時 伊 豫 湯 泉 、 没 而 不 レ 出 。 土 左 國 田 菀 五 十 餘 萬 頃 没 為 レ 海 。 古 老 曰 、 若 レ 是 地 動 、 未 二 曾 有 一 也 。( 坂 本 太 郎 ほ か 校 注 『 日 本 書 紀 下 』 四 六 四 ─ 四 六 五 ) 壬 みずのえ 辰 た つ ( 十 四 日 ) に 、人 い の と き 定 ( 午 後 十 時 ご ろ ) に な っ て 大 き な 地 震 が お こ り 、 国 中 の 男 女 が 叫 び あ い 、 逃 げ ま ど っ た 。 山 は 崩 れ 、 川 は わ き か え り 、 諸 国 の 国 郡 の 庁 舎 、 百 おおみたから 姓 の 家 屋 や 倉 庫 、 寺 院 ・ 神 社 の 破 壊 さ れ た も の は 数 知 れ ず 、 人 おおみたから 民 や 家 畜 も 多 く 死 傷 し た 。 こ の と き 、 伊 い よ の 予 温 ゆ 泉 ( 道 後 温 泉 ) が 埋 も れ て 出 な く な り 、 土 と さ の く に 左 国 で は 田 五 十 余 万 頃 し ろ ( 約 一 二 〇 〇 ヘ ク タ ー ル ) が 海 に 没 し た 。 古 老 は 、「 こ の よ う な 地 震 は 、 か つ て な か っ た こ と だ 」 と 言 っ た 。 ( 井 上 光 貞 監 訳 『 日 本 書 紀 Ⅲ 』 二 八 八 ) どの時代の記録にも、 それが公式の歴史文書であっても私的な書簡類であっても、 大きな地震は、その当事者にとって「未曾有也」の出来事として記されている。そ れ故に記録をしたのである。 観 測 が 開 始 さ れ る 以 前 の 地 震、 つ ま り 文 献 に 記 さ れ た だ け の 地 震 は「 歴 史 地 震 」 と 呼 ば れ て い る。 「 一 八 七 二 年 あ る い は 一 八 八 五 年 以 前 の 地 震 」 で あ る( 宇 津 徳 治 『地震活動総説』一八〇) 。明治になって最も大きな被害の出た濃尾地震(明治二四 年、 一 八 九 一 年 ) を 受 け て、 翌 年 に 震 災 予 防 調 査 会( 後 に 震 災 予 防 評 議 会 と 改 称 ) という組織が発足した。その仕事のひとつが、歴史地震の記録の収集であった。そ の 成 果 は、 『 増 訂 大 日 本 地 震 史 料 』 と し て 第 一 巻 か ら 第 三 巻 が 一 九 四 一 年 か ら 一九四三年に刊行された。最後の第四巻は『日本地震史料─並びに隣接地域』とい う表題で収集開始からほぼ半世紀後の昭和二六年 (一九五一年) に刊行された。 「日 記・随筆・郷土誌の類」や「口碑」 「伝承」 、外国人が記した資料、台湾や朝鮮の地 震記録、 地震と噴火に関係する現象の記録などを加えて六千四百余が集められた (今 村明恒「増訂大日本地震史料序」 )。夥しい数の地震と噴火に関する記録が日本には 伝えられてきたのである。 現 在 で は 、 わ ず か 一 〇 年 後 で も 、 過 去 の 地 震 と し て 簡 潔 に ま と め ら れ る 。 一 九 九 五 年の地震は、二〇〇五年の百科事典では、次のように説明される。 阪神・淡路大震災 1995 年( 平 成 7) 1月 17日 5時 46分 に 発 生 し た マ グ ニ チ ュ ー ド 7・ 2の、明石海峡の淡路島寄りを震源とする地震(兵庫県南部地震)に伴う地 震被害。死者 6425 名、 不明 2名、 負傷 4万名以上。住宅全半壊 20万以上、 住宅全半焼 7000 以上にのぼる。道路、 鉄道など交通網、 ガス、 水道、 電気、 電話などライフライン施設が寸断されたほか、護岸、港湾施設などが破壊さ れた。山麓部では地滑りが、臨海部では大規模な地盤の液状化現象が観測さ れた。地震により被害を受けた構造物の多くは木造住宅であるが、中・高層 ビルの倒壊や破壊、高架橋の破壊なども起こった。消火栓が使用不能、交通 障害による消火活動の遅れ、家屋が倒壊していたことによる急速な延焼拡大 な ど の 条 件 下 で、 火 災 が 多 発 し( 285 件 と 推 定 さ れ る )、 災 害 を さ ら に 大
きなものとした。 地震は、東西方向の圧縮力を受け、淡路島から神戸までの延長約 40㎞にわ た る 南 西 か ら 北 東 に 走 る 断 層 群 が 約 2 m 横 ず れ を 起 こ し た も の と さ れ る。 断層面の破壊は、東経 135 ・ 0度、北緯 34・ 6度の明石海峡の淡路島寄り、 深さ 18㎞の地点から始まり、南西・北東方向へ伝播した。淡路島側では野島 断層が破壊を起こし、若干の縦ずれを伴い、淡路島北西部海岸沿いの地表に 約 10㎞の断層が出現した。北東方向では破壊は地下深部にとどまり、地表に は大きな破壊が及んでいない。神戸、洲本でも震度 6を記録した。その後の 調査により、神戸市、西宮市の一部などでは初めて震度 7が適用された。 (『世界大百科事典 アルマナック』第二版、二〇〇五年) あの地震は「阪神・淡路大震災」と呼ばれるものとなった。ここでも被害が簡潔 に述べられ、それに続いて、発生した地震そのものについて説明されている。
第三章
回顧する、比較する
時間がさらに経過すれば、回顧されると共に、ひとつの地震の説明は他の地震と も関連づけられるようになる。 三─ 1 回顧する 「政府の特別の機関」として地震調査研究推進本部という組織がある。 「平成 7年 1月 17日に発生した阪神・淡路大震災の経験を活かし、地震に関する調査研究の成 果を社会に伝え、政府として一元的に推進するために作られた組織」である。この 組織が発表している資料には、次のような解説がある。 平成 7年 1月に発生した阪神・淡路大震災は、マグニチュード 7・ 3とい う内陸直下の大地震で、地震調査委員会では六甲・淡路島断層帯の一部が活 動したことによるものとの評価を行っています。 淡路島にある野島断層では、 断 層 の 南 東 側 は 北 西 側 に 比 べ 最 大 1・ 4 m 隆 起 し、 南 西 の 方 向 へ 最 大 2・ 1 m ずれました。 地震が発生する直前における六甲 ・ 淡路島断層帯主部の淡路島西岸区間 (野 島断層を含む区間)での発生確率を後から計算したところ、 30年以内に地震 が起こる確率は 0・ 02~ 8%であったことがわかりました。 そして、現在「地震発生可能性の長期評価」を進める中で、兵庫県南部地 震と同程度か、それ以上の確率で地震が発生する可能性のある活断層が数多 くあることがわかってきています。 ( 地 震 調 査 研 究 推 進 本 部 の ホ ー ム ペ ー ジ http://www.jishin.go.jp/ 、 二 〇 一 四 年 一 〇 月 ) 日 本に は 「 地 震 が 発 生 す る 可 能 性 の あ る 活 断 層 」 は 「 数 多 く 」 あ り 、 ど こ でも 大 き な 地 震 が 発 生 す る 。「 阪 神 ・ 淡 路 大 震 災 」 も 、 そ の 数 多 く の 地 震 の ひ と つ で あ っ た と い う こ と に な る 。 そ れ は 、 直 前 の 発 生 確 率 が 低 く て も 発 生 す る も の と 説 明 さ れ る 。 三─ 2 比較する、分析する これまでに発生したとされる地震のひとつひとつは集約されて、比較され、そこ に規則性を見いだそうということにもなる。 国立天文台が編纂して毎年発行される 『理科年表』 という資料集がある。暦、 天文、 気象、 物理 ・ 化学、 地学、 生物、 環境という七つの部に分かれており、 地学部は、 地理、 火山、地震、地磁気および重力、電離圏の五つに分かれている。二〇一三年一一月 発行の「第八七冊」には、 「日本付近のおもな被害地震年代表」という一覧がある。 西暦四一六年の「地震」というだけの『日本書記』の記述から二〇一三年三月まで に発生した四三〇の地震が記載されている。 それぞれについて、 西暦 (日本暦) 、北緯、 東 経、 M = マ グ ニ チ ュ ー ド、 地 域、 名 称、 被 害 摘 要 が 記 さ れ て い る。 「 阪 神・ 淡 路 大震災」は、 404 という番号が付けられて、次のように記されている。 1995 1 17( 平 成 7) 34・ 6 135 ・ 0 M 7 ・ 3M w 6 ・ 9 [ 被 害 等 級 ] 6 淡 路 島 付 近 『 兵 庫 県 南 部 地 震 』( K o b e E a r t h q u a k e ) 『 阪 神・ 淡 路 大 震 災 』 活 断 層 の 活 動 に よ る い わ ゆ る 直 下 型 地 震。神戸、 洲本で震度 6だったが、 現地調査により淡路島の一部から神戸市、 芦屋市、 西宮市、 宝塚市にかけて震度 7の地域があることが明らかになった。 多くの木造家屋、 鉄筋コンクリート造、 鉄骨造などの建物のほか、 高速道路、 新 幹 線 を 含 む 鉄 道 線 路 な ど も 崩 壊 し た。 被 害 は、 死 6434 、 不 明 3、 傷 43792 、 住 家 全 壊 104906 、 半 壊 144274 、 全 半 焼 7 1 3 2 など。早朝であったため、死者の多くは家屋の倒壊と火災による。 ちなみに「東北地方太平洋沖地震」は、 423 番である。 2011 3 11( 平 成 23) 38・ 1 142 ・ 9 M 9 ・ 0 M w 9 ・ 1 [ 被 害 等 級 ] 7 三 陸 沖 『 東 北 地 方 太 平 洋 沖 地 震 』( T o h o k u E a r t h q u a k e ) 『 東 日 本 大 震 災 』 日 本 海 溝 沿 い の 沈 み 込 み 帯 の 大 部 分、 三 陸 沖 中 部 か ら 茨 城 県 沖 ま で の プ レ ー ト 境 界 を 震 源 域 と す る 逆 断 層 型 超 巨 大 地 震( 深 さ 24㎞) 。 3月 9日 に M 7 ・ 3( M w 7 ・ 4) の 前 震、 震 源 域 内 や 付 近 の 余 震・ 誘 発 地 震 は M 7 ・ 0以 上 が 6回、 M 6 ・ 0以 上 が 97回、 死 18493 、 不 明 2683 、 傷 6217 、 住 家 全 壊 128801 、 半 壊 269675 、( 余 震・ 誘 発 地 震 を 一 部 含 む 2013 年 3月 現 在 )。 死 者 の 90%以上が水死で、原発事故を含む被害の多くは巨大津波(現地調査によ れ ば 最 大 約 40m ) に よ る も の。 最 大 震 度 7( 宮 城 県 栗 原 市 )、 6強 が 宮 城 県 13市町村、福島県 11市町、茨城県 8市、栃木県 5市町だが、揺れによる被害 は 比 較 的 大 き く な か っ た。 こ の 領 域 で は 未 知 の 規 模 で、 869 年 貞 観 の 三 陸 沖 地 震 と 1896 年 三 陸 沖 地 震 級 の 津 波 地 震 が 合 わ せ て 襲 来 と の 見 方 が ある。 地 震 と そ れ に よ る 被 害 の 概 要 が、 簡 潔 に ま と め ら れ て い る。 『 理 科 年 表 』 で は、 約一六〇〇年間の四三〇の地震が比較できるのである。 二 〇 一 二 年 末 ま で の 「 被 害 地 震 」 を 集 め た 『 日 本 被 害 地 震 総 覧 5 9 9 ─ 2 0 1 2 』 には、次のような説明がある。 [ 西 暦 ] 599 年 か ら 2012 年 ま で の 1414 年 間 の 被 害 地 震 数 は、 965 、 明 治 以 後 の み で は 145 年 間 に 623 の 被 害 地 震 と な り、 年 平 均 は 約 4・ 3回 で あ る。 最 近 63年 間 で は 総 数 364 で 年 平 均 は 5・ 8回 と な る。 近 年 に な る ほ ど 記 録 が 整 っ て、 微 小 被 害 地 震 も 漏 れ な く 記 録 さ れ る よ う に な っ た か ら で あ る( 宇 佐 美 龍 夫 ほ か 著『 日 本 被 害 地 震 総 覧 5 9 9 ─ 2012 』一七) 。 同書では、被害地震を「家屋・人工構築物・地盤(面)になんらかの損傷・変化 のあった地震」と定義している。そして、次のような総括がある。 日本付近では、平均して、規模[マグニチュード] 6以上の地震が年間 16 ~ 17回、 7以上が 1~ 2回、 8以上の地震は 10年に約 1回の割で起きている。 規模 6以上の地震が内陸浅所に起これば必ず多少の被害を伴う。条件が悪け れば 5程度のときにも小被害を伴う。わが国の地震は洋上にあることが多い ので、被害の点では助かっている(同上書、四) 。 興味深いのは「日本付近」という範囲である。被害を及ぼした地震は、震源が陸 地(の下)のものばかりでなく、海(の下)のものも含まれている。ここでの指摘 は、被害を及ぼさなかったものも含めての数と頻度である。日本列島は、世界でも 特に地震の発生が多い場所であることが明らかになってきたが、私たちの暮らす地 面の真下で起こるものよりも、 「洋上」で発生するものが多いので、 「被害の点では 助かっている」 というのである。二〇一四年の 「東北地方太平洋沖地震」 は 「洋上」 で発生したものであり、近い将来に発生するといわれている「南海トラフ地震」も 「洋上」で発生する。そして、 「内陸浅所」で発生すれば、兵庫県南部地震のように 「必ず多少の被害を伴う」のである。
地震をとらえる方法として、手に入る史料を総合して、規模と被害との関連性を 探る。ひとつひとつの地震は、そうした分析にとって有用な素材となる。千年前で も、百年前でも、十年前でも、規模や被害を推測できる史料があるものは、すべて 同等に扱われる。 ここでは、ひとつひとつの地震は数多くの地震のなかのひとつとして扱われ、番 号が付され、計算に用いられる。
第四章
地震が起きることの説明
これまでみてきたように、第一には、ひとつの地震に注目すれば、その発生直後 から生じたことがらが記され、 被害について述べられる。地震を語るということは、 多くの場合、その地震によって生じた事態について語るということになる。 そ し て 、 第 二 に は 、 数 多 く の 地 震 が 発 生 し て き た 日 本 で は 、 記 録 や デ ー タ が あ る 限 り 、 集 約 さ れ 、 比 較 さ れ 、 全 体 の 傾 向 が 論 じ ら れ る 。 そ こ で は 、 ひ と つ ひ と つ の 地 震 に よ る 被 害 は 、 何 百 と い う 数 の 地 震 に よ る 被 害 と い う 集 合 を 構 成 す る 要 素 と な る 。 地震について論じるという三つ目の要素として、地震が発生する理由を説明した ものがある。これは、近代科学としての地質学や地震学などの研究成果として述べ られることが多い。この章では、そうした説明を取り上げてみたい。 四─ 1 百万年に千回 どうして、あるいは、どのようにして、ひとつの地震が発生したのか。 一 九 九 五 年 の あ の 地 震 に つ い て、 専 門 家 に よ る 詳 細 な 考 察 が 加 え ら れ て い る。 一九九六年に発表された論文には、次のような指摘がある。 兵庫県南部地震は、活断層が引きおこした「直下型地震」といわれ、淡路 島では野島断層沿いに明瞭な地震断層が出現した。一方、六甲側では明瞭な 地 震 断 層 が 出 現 し な か っ た に も か か わ ら ず、 「 震 災 の 帯 」 と 称 さ れ る 激 震 地 帯が、神戸・阪神地域の市街地に生じた。調査が進むにつれ「震災の帯」は 主として、六甲山地と大阪盆地との間の埋没大地形によってもたらされたも の で あ る こ と が 明 ら か に な っ て き た。 ( 藤 田 和 夫・ 佐 野 正 人「 阪 神・ 淡 路 大 震災と六甲変動─〝震災の帯〟をもたらした埋没地形」七九三) この考察によると、約四六億年の地球の歴史において「現代」として区分される 約 二 〇 〇 万 年 前 か ら 現 在 ま で の「 第 四 紀 」 に、 「 六 甲 変 動 」 と い う も の が 生 じ た。 そ れ ま で ほ ぼ 平 地 で あ っ た 場 所 が 一 〇 〇 〇 メ ー ト ル 沈 み 込 ん で 現 在 の 大 阪 湾 に な り、 そ こ か ら 約 二 キ ロ 北 の と こ ろ が 約 一 〇 〇 〇 メ ー ト ル 隆 起 し て 六 甲 山 に な っ た。 現在、 山頂から海底の堆積層の下にある基盤の花崗岩の層まで、 標高差二〇〇〇メー ト ル の 断 崖 が 形 成 さ れ て い る。 こ の 六 甲 変 動 に よ っ て で き た「 埋 没 大 地 形 」 に は、 地表には現れないいくつもの「伏在活断層」があり、それらの海側に沿ったところ が「震災の帯」であるというのである。 「 震 災 の 帯 」 で 揺 れ が 強 く な る 要 因 も い く つ か 推 測 さ れ て い る。 ま ず、 硬 い 地 盤 では、まだ堆積したままで固まっていない地層よりも、震源域から地震波が伝わる 速 度 は「 ず っ と 速 い 」。 し た が っ て、 硬 く て 浅 い 地 盤 で は 地 震 波 は 先 に 地 表 に 達 し て周囲に広がる。ここに深くて固まっていない堆積層からの地震波が重なり、波が 増幅される。それが 「伏在活断層」 のところである。これよりも海岸寄りの所では、 地盤は軟弱なので液状化が発生し、それが「免震効果」を発揮したのでそれほど揺 れなかった。それよりも少し山側にある「震災の帯」の大部分は「山麓扇状地」に 入っているので、 液状化しなかったので激しく揺れたというのである。こうして 「震 災の帯」は、 「伏在活断層」という最も大きな要因のうえに、 「表層の地形や地盤特 性などの要素も加わった複合的な災害」と考えられる。さらに、ひとつ地震が生じ ると「ただちにつぎの歪エネルギーを蓄積しはじめる」 。つまり「兵庫県南部地震」 は、大きな変動過程の一環として位置づけることができる(八〇五) 。 この論文の筆者の一人である藤田和夫は、一九八五年の著書において、この「六 甲変動」を含む近畿の地殻変動プロセスについて次のように指摘している。よ う や く こ の 百 万 年 間 の 近 畿 の 地 殻 変 動 プ ロ セ ス が は っ き り と し て き た。 そ れ は 平 均 す る と 年 1ミ リ メ ー ト ル 程 度 で あ る と は い っ て も、 毎 年 1ミ リ メートルずつ徐々に進行してきたものではなさそうである。ふだんは動かざ る大地としてひずみエネルギーを蓄積しておいて、千年単位ぐらいで、地震 をともないながら一挙にジャンプするように進行してきたとみられる。千年 では一メートルの変位が断層に沿っておこり得る計算である。 (藤田和夫 『変 動する日本列島』一一九) 以 上 の 考 察 は 、 一 九 九 五 年 の 「 兵 庫 県 南 部 地 震 」 に お い て 、「 明 瞭 な 地 震 断 層 が 出 現 し な か っ た 」 と こ ろ で 激 震 が 生 じ た 理 由 を 説 明 す る も の で あ る 。 し か し 、 そ れ は 同 時 に 「 兵 庫 県 南 部 地 震 」と 同 じ よ う な 地 震 が 幾 度 も 発 生する こ と で 、 大 阪 湾 と 六 甲 山 と い う 地 形 が 形 成 され た と い う こ と であ り 、 こ の 六 甲 変 動 は 今 後 も 続 く と い う こ と を 意 味 し て い る 。 つ ま り 、千 年 に 一 度の 間 隔 で 大 き な 地 震 が 発 生 し 、 そ の た び ご と に 、 一 メ ー ト ル の 変 位 が あ り 、 こ の 一 メ ー ト ル の 変 位 が 千 回 積 み 重 な っ て 、 現 在 の 六 甲 山 頂 は 約 一 〇 〇 〇 メー トル に 達 し て い る の で あ る 。 要 す る に 、 こ れ ま で の 百 万 年 間 に 千 年 間 隔 で 千 回 発 生 し てき た 「 兵 庫 県 南 部 地 震 」と 同 様 の 地 震 が 、 こ れ か ら も 発 生 す る と い う 推 測 で あ る 。 逆 の 言 い 方 を す れ ば 、「 兵 庫 県 南 部 地 震 」 は 、 こ れ ま で 約 千 年 間 隔で 千 回 発 生し て き た 地 震 の ひ と つ で あ っ て 、 何 も 特 別 な 地 震で は な い と い う こ と に な る 。 この説明は、発生以前のこと、発生に至るまでのことがらについて言及している だ け で な く、 こ れ か ら も 同 じ よ う に 地 震 が 発 生 す る こ と を 告 げ て い る。 「 ふ だ ん は 動かざる大地としてひずみエネルギーを蓄積しておいて、千年単位ぐらいで、地震 をともないながら一挙にジャンプするように進行してきた」ということは、ひとつ の地震が発生した理由を説明するのではなく、ほぼ一定の間隔でずっと地震が発生 するものだと説明している。ひとつひとつの地震の発生には個別の理由というもの はないのである。 四─ 2 日本列島という場所 こうした地震の発生は、 より根本的に、 日本列島の成り立ちから説明されている。 地質学の小島圭二は、次のように述べている。 日本は災害の国です。なぜ日本は災害の国なのか、日本には、どんな猛威 があって、世界のほかの地域とどう違うのかを、まず考えてみましょう。 これには日本列島の位置が大きく関わってきます。日本列島の略図を書く と、日本列島の東には、日本海溝という急峻な深い海があります。その日本 海 溝 か ら 北 西 に 伊 豆 半 島 に 向 か っ て 相 模 ト ラ フ が 入 り 込 ん で い ま す。 「 ト ラ フ」というのは、底が比較的平らな深い海で、舟状海盆ということもありま す。一方、日本列島の南にも南海トラフと琉球トラフという、やはり深い海 があります。南海トラフは、相模トラフとは反対側から伊豆半島に向かって 入り込んでいます。このような、海溝やトラフはプレートとプレートの境界 に当たります。 プレートは「厚さ一〇〇キロメートル程度の岩板」であり、地球全体が十数枚の プレートが離れたり、ほかのプレートの下に沈み込んだり、衝突したりするという 「 大 規 模 な 地 学 現 象 」 が 起 こ っ て い る。 こ の よ う な 考 え 方 は プ レ ー ト テ ク ト ニ ク ス と呼ばれている。 日本列島に地震や火山があって、災害の国であるということは、このよう なモデルで簡単に理解することができます。日本列島のように、プレートの 境界に位置して、 地面が動いたり噴火がおこったりするような所を「変動帯」 と呼んでいます。 変動帯であることは、地震や火山ばかりでなく、他の災害も引き起こすという。 プ レ ー ト が 押 す と、 地 震 や 火 山 ば か り で な く、 地 殻 も 激 し く 変 動 し ま す。
海溝付近には、日本列島から削り出された土砂が海底に厚くたまっていきま す。川によって陸から流れ出た土砂が、海底の土砂崩れなどによって、海底 深部へと運ばれてたまっていくのです。そこを、海の方からプレートが押し ますから、堆積物は整然とつもっていられなくて、しわくちゃになってしま い ま す。 さ ら に 押 さ れ る と、 こ の よ う な し わ く ち ゃ が 隆 起 し て 陸 に「 付 加 」 されます。つまり、海溝付近にたまった新しい堆積物が、比較的早い時期に 地 面 に 顔 を 出 す こ と に な り ま す。 ( 中 略 ) 日 本 列 島 に は、 こ の よ う な、 ま だ 固 結 し て い な い 半 固 結 の 地 層 が 地 表 に 露 出 し て い る 訳 で す。 そ ん な も の が、 風雨にさらされると、もとの土砂に戻ろうとします。崖崩れがおこる、地す べりがおこるということです。 ま た 日 本 列 島 には 火 山 か ら の 噴 出 物 が 大 量 に 積 も っ て い ま す が 、 そ れ は 軟 ら か く 積 み 上 が っ て い る だ け で す の で 、 や は り 崖 崩 れ ・ 地 す べ り を お こ し ま す 。 東日本は、 このような「軟岩」と呼ばれる地質からなっている。西日本では、 「大 陸 地 殻 の 代 表 的 な 地 質 で あ る 花 崗 岩 が 広 く 地 表 に 顔 を 出 し て い る 」。 地 表 か ら 数 十 メ ー ト ル は「 深 層 風 化 」 が 激 し い の で、 「 崖 崩 れ や 土 石 流 の メ ッ カ 」 と な っ て い る という。 以上のような地面の様子の上に気候の条件が重なる。梅雨明けの集中豪雨、 台風、 そして冬には日本海側の豪雪がある。 日本列島というのは、大陸の東側の中緯度にあることが、気候の面から見 ても災害の国になる要因となっているわけです。 以上の説明で、 日本がなぜ災害の国なのか理解いただけたことと思います。 つ ま り、 変 動 帯 で あ る こ と と、 台 風 で 代 表 さ れ る 気 象 条 件 と か 織 り な す 綾、 言い替えると、 「火山と地震の国」 、そして「豪雨と豪雪の国」が日本である といえるでしょう。 (小島圭二『自然災害を読む』一─一一) こ う し て、 「 自 然 災 害 」 が 発 生 す る 必 然 的 な 理 由 が 説 明 さ れ る と、 地 震 も そ の な かのひとつの項目となる。日本列島は常に地震が発生する場所なのである。 四─ 3 揺れる理由 地震の考察に際して次に取り上げるのは、地面の揺れが建物の揺れとなっていく 部分である。 現 在 の よ う に 地 球 の 表 面 が 海 と 陸 に 分 かれ た の が 四〇 億 年 前 と い わ れ て い る 。 日 本 列 島 の 地 面 の 下 は 、古 い も の で も 六 億 年 前 の も の で あ っ て 、大 部 分 は 二 億 年 よ り も 新 し い 時 期 に で き て い る 。 そ し て 、沖 積 世 と い う 、二 万 年 前 の 最 後 の 氷 河 期 以 降 に 、 海 面 の 上 昇 で 水 中 に 堆 積 し た 地 層 は 、「 つ く り た て の 地 面 」 で あ り 、「 充 分 に は 固 ま っ て い な い 」 と い う 。 そ う し た 地 面 の 上 に 建 物 を つ く っ て き た の で あ る 。 海 に 囲 ま れ 斜 面 の 多 い 日 本 で は 、 石 を 並 べ て 暮 ら し て き た 。石 垣 と い う も の が 随 所 で 使 われ て き た と い う 。 棚 田 や 城 郭 は 、 石 垣 で 囲 ん で つ く ら れ て い る 。 建 物 の ほ う は 、 木 を 使 っ て き た 。 木 材 を 割 る 方 法 や 、 木 材 同 士 を つ な ぎ 合 わ せ る 方 法 が 開 発 され て き た 。 柱 の 下 に 土 台 と な る 石 を 置 い た ほ う が 地 震 に 強 い こ と も 江 戸 時 代 に は 指 摘 さ れ て い た 。 江 戸 初 期 ま で は 二 階 建て の 建 物 は ほ と ん ど な か っ た 。 都 市 部 の 庶 民 の 住 宅 に 二 階 建 て が 広 ま る の は 明 治 後 期 か ら 大 正 時 代 にか け て である と い う 。 し か し 、 明 治 末 期 に な っ て 、鉄 筋 コ ン クリ ート と 鉄 骨 が 建 物 に 使 われる よ う に な る 。 木 材 が 火 災 に 弱 い と い う こ と も あ っ た 。 石 は 割 れ る が 、 金 属 は 割 れ ず に 撓 む の で あ る 。 一 九 八 〇 年 代 か ら 「 超 高 層 鉄 筋 コ ン ク リ ー ト 建 築 物 」 が さ か ん に つ く ら れ る よ う に な っ た と い う 。 とはいえ、今でも、地下で生じた地震動が地面に伝わり地面の上のものを揺り動 か す。 こ れ が 地 震 で あ る。 私 た ち の 足 下 の 地 面 が 揺 れ る と い う こ と が 地 震 で あ る。 その地面の上に、建物が、揺れるものが、つくられてきたのである。
第五章
伝統に忠実な自然─地震と人間の「隔たり」
地震の発生と人間とは、 どのような関係としてとらえることができるのだろうか。 物理学者の寺田寅彦は、大正一二年(一九二三年)に発生した「関東大地震」の 報告書も書いているが、文筆家としても著名である。昭和八年(一九三三年)に発表した「津浪と人間」では、この年に発生した東北の大津波と同様の津波が三七年 前にも発生したことを例にして、地震 ・ 津波発生の間隔と人間の時間との「隔たり」 を、端的に指摘している。 津波が発生した直後には、政府の人間も、メディアも、研究者もやってきて次の 被害を予防する策がつくられ推奨もされる。しかし、三七年後には、前の津波を経 験した大人は世を去り、世の中は世代交代をしてしまっている。 三 十 七 年 と 云 え ば 大 し て 長 く も 聞 こ え な い が 、 日 数 に す れ ば 一 万 三 千 五 百 五 日である。その間に朝日夕日は一万三千五百五回ずつ平和な浜辺の平均水準 線に近い波打際を照らすのである。津浪に懲りて、はじめは高い処だけに住 居を移していても、五年たち、十年たち、十五年二十年とたつ間には、やは りいつともなく低い処を求めて人口は移っていくであろう。そうして運命の 一 万 数 千 日 の 終 わ り の 日 が 忍 び や か に 近 づ く の で あ る。 ( 寺 田 寅 彦「 津 浪 と 人間」一三八) ここから、寺田独特の展開がはじまる。 こ れ が 、 二 年 、 三 年 、 あ る い は 五 年 に 一 回 は き っ と 十 数 メ ー ト ル の 高 波 が 襲 っ て 来 る の で あ っ た ら 、 津 浪 は も う 天 変 で も 地 異 で も な く な る で あ ろ う 。( 中 略 ) 夜 と い う も の が 二 十 四 時 間 ご と に 繰 返 さ れ る か ら よ い が 、 約 五 十 年 に 一 度 、 し か も 不 定 期 に 突 然 に 夜 が 廻 り 合 せ て く る の で あ っ た ら 、 そ の 時 に 如 何 な る 事 柄 が 起 る で あ ろ う か 。 お そ ら く 名 状 の 出 来 な い 混 乱 が 生 じ る で あ ろ う 。 そ う し て や は り 人 命 財 産 の 著 し い 損 失 が 起 ら な い と は 限 ら な い 。( 同 上 書 、 一 三 九 ) 人の記憶に頼ることができないとすれば、法律などで対策をたてることはできる だろうか。 国 は 永 続 し て も 政 府 の 役 人 は 百 年 の 後 には 必 ず 入 れ 代 わ っ て い る 。 役 人 が 代 わ る 間 に は 法 令 も 時 々 は 代 わ る 恐 れ が あ る 。 そ の 法 令 が 、 無 事 な 一 万 何 千 日 間 の 生 活 に 甚 だ 不 便 な も の で あ る 場 合 は 猶 更 そ う で あ る 。( 同 上 書 、 一 四 〇 ) 記念碑を建てて「永久的警告」として残す方法はどうだろうか。 はじめは人目に付きやすい処に立ててあるのが、道路改修、市区改正等の 行われる度にあちらこちらと移されて、おしまいにはどこの山蔭の竹藪の中 に埋もれないとも限らない。そういう時に若干の老人が昔の例を引いてやか ましく云っても、例えば「市会議員」などというようなものは、そんなこと は相手にしないであろう。そうしてその碑石が 八 や え 重 葎 むぐら に埋もれた頃に、時分 はよしと次の津浪がそろそろ準備されるであろう。 (同上書、一四〇) 前の世代の「言い置き」などを気に留める人も今の時代ではいない、と寺田は述 べる。 しかし困ったことには「自然」は過去の習慣に忠実である。地震や津浪は 新思想の流行などには委細かまわず、頑迷に、保守的に執念深くやって来る のである。紀元前二十世紀にあったことが紀元二千年にも全く同じように行 われるのである。科学の法則とは畢竟「自然の記憶の覚え書き」である。自 然ほど伝統に忠実なものはないのである。 (同上書、一四一) では、どうすればいいのだろうか。 こ う い う 災 害 を 防 ぐ に は 、 人 間 の寿 命 を 十 倍 か 百 倍に 延 ばす か 、 ただ し は 地 震 津 浪 の 週 期 を 十 分 の 一 か 百 分 の 一 に 縮 め る か す れ ば よ い 。 そ う す れ ば 災 害 は も は や 災 害 で は な く 五 風 十 雨 の 亜 類 と な っ て し ま う で あ ろ う 。 し か し そ れ が 出 来 な い 相 談 で あ る と す れ ば 、 残 る 唯 一 の 方 法 は 人 間 が も う 少 し 過 去 の 記 録 を 忘 れ な い よ う に 努 力 す る よ り 他 は な い で あ ろ う 。( 同 上 書 、 一 四 一 ─ 一 四 二 )
こうして寺田は、地震・津波と人間との間の最大の問題である時間の「ずれ」と いうことを見事に指摘している。ひとりひとりの人生のなかでは収斂できない現象 としての地震。 同じような説明は、最近の研究のなかにもある。 地震の場合、その発生準備には数十年~数千年という長い時間がかかる一 方で、ひとたび発生すれば長くても数分ですべてが終わってしまう(日本地 震学会地震予知検討委員会編『地震予知の科学』三一) 。 先にも触れたように、明治以降の観測だけでは日本における地震を分析するには 不充分であり、それまでに記され残されている古文書などで描かれた地震の被害を 収集するという作業が長く続けられている。観測がはじまる以前に起きたとされる 地震は「歴史地震」と呼ばれているのであるが、その研究者は、次のように指摘し ている。 わが国の被害地震の分布図をみると、日本中いたる所に地震が発生し、逃 げ場がないようにみえる。しかし、注意してみると、同じ地点で同じくらい の規模の地震が発生することは、そう多くはない。いいかえれば、日本人が 自分の生まれた土地で一生を終えるとして、同じような地震で二回も被害を 受けることは、まずあり得ないのである。詳しくしらべると、太平洋沖には 規模八クラスの巨大地震が次々に発生しているようであるが、同一地点につ いてみれば、約百年以上の間をおいて発生している(場所によって百年より も 短 い 所 も あ る。 例 北 海 道 南 東 沖 )。 ま た 内 陸 の 地 震 に つ い て み る と、 こ の地震発生の間隔は約千年といわれている。 したがって、 大地震は日本人にとっては、 ほとんど常に新しい経験であり、 自己の経験を次に生かすということは少ない。こういうことはない方が望ま しいのであるが、災害を軽減するという立場からみると、先祖の経験の伝承 よりは、自己の経験の方が有効であることはいうまでもない。しかし、地震 の場合は、その発生間隔の問題もあって、先祖の経験を生かさなければ有効 な 災 害 対 策 を 立 て に く い の で あ る。 ( 宇 佐 美 龍 夫『 大 地 震 ─ 古 記 録 に 学 ぶ 』 八─九) また、地震は、極めて短い時間で終わるだけでなく、空間的にも局地的である。 江戸時代、飢饉は避け難い厄災であったから、これに対する予測・対策は 経験的に蓄積されるところ大なるものがあった。また五ヶ月ほどの稲の実り に至るまでの期間に凶作か否かの判断は前もって可能であった。しかし、火 災や地震は、これと違って発生は突発的であり、予測不可能である。とくに 地震の場合は、 突発的に起こり、 瞬時にその結果を定めてしまう場合が多い。 余震が長く人々の恐怖をかき立てるものとなったにしても、二次災害を除け ば、最初に受けた被害を大幅に増大させることはなかった。被害は、たとえ それが大規模地震と呼ばれるようなものであっても、死亡者・負傷者、地上 の構造物の瓦解など可視的範囲に留まる(北原糸子『地震の社会史─安政大 地震と民衆』三三三) 。 「突発的に起こり、瞬時にその結果を定めてしまう」という地震。 「可視的範囲に 留 ま る 」 と い う 地 震。 「 大 地 震 は、 日 本 人 に と っ て は、 ほ と ん ど 常 に 新 し い 経 験 」 であるということ。あらゆる意味において、大地震とは、私たちの日常とは相容れ ないような性質のものということなのだろうか。いつも 「未曾有也」 と言い続ける、 それが大地震というものであろうか。
第六章
大地の裏切りと
「あらゆるもの」の譲渡─地震の本質
ここまで考察してきたことを、簡単にまとめておきたい。 私たちは、日常的に地震の揺れを感じている。軽微な地震の場合には、その揺れを感じるだけで、 被害は何も生じない。それは本稿の最初に取り上げた『古事類苑』 の説明のとおりである。 それに対して、同じ地震といっても、大地震は大きな被害が生じた地震のことで ある。しかも、地震による被害は、地震の発生直後のわずかの間に生じることが多 い。地震を受け止めるということは、その被害を受け止めるということである。被 害を受けた場所にあるラジオ局では、その建物の被害を伝えつつ、目にしたものを そのまま言葉にして電波にのせることができた、あるいはそれしかできなかった。 大地震について語られる時には、その被害がいかに大きなものであったのかが語 られる。地面が割れる、電車が脱線する、高速道路が倒れる、などなど、地震その ものではなく、被害について論じられる。江戸時代の被害について記されたものを み れ ば、 今 の 私 た ち の 暮 ら し て い る 地 面 の 上 の 建 物 な ど と の 違 い が 分 か る。 突 然、 大きく地面が揺れるというところまでは同じでも、 その後の地面の上の様子は違う。 それらは、記され記録として残されることも多い。 どうして、あの大きな地震が起こったのかと、特定の地震についてその理由を探 すこともなされてきた。しかし、地震学などの研究によれば、地震そのものは日本 列島においては頻繁に発生するものであり、過去にも数多く発生してきたし、未来 にも数多く発生するものだという。ということは、ひとつひとつの地震が発生した 場所にも日付けにも時間にも深い意味はなく、他の夥しい地震と同じように、まさ に日常的に発生しているものであるとしか理解することはできなくなる。 地震の被害のほうに目を転じてみれば、ひとつひとつの地震は、ある時にある場 所で発生し、特有の被害のかたちをとるものであり、固有のものであるということ ができる。人々が、地震が発生する直前まで居た場所に居続けることができず、ど こかに避難をする。多くの人が特定の場所に集まり、避難所というようなかたちと なる。避難所は、毎日、毎時間、試行錯誤を繰り返しながら運営される。人数は絶 えず減少し、期間を区切られて閉鎖される。その過程は、固有のものであり、時代 と場所により、ひとつひとつ異なるものであろう。 地 震 の 発 生 に 焦 点 を あ て れ ば 、 遠 い 昔 か ら 頻 繁 に 起 こ っ て き た と い う こ と が で き る 。 し か し 、 ひ と り ひ と り に と っ て は 「 未 曾 有 也 」、 つ ま り 「 ほ と ん ど 常 に 新 し い 経 験 」 で あ る 。 こ こ に は 決 定 的 な 「 隔 た り 」 が あ る 。 寺 田 寅 彦 が 指 摘 し た よ う に 、 人 生 が も っ と 長 い か 、 地 震 の 発 生 間 隔 が も っ と 短 け れ ば 、 両 者 の 間 に 「 隔 た り 」 は な く 、 私 た ち は 日 常 の こ と と し て 地 震 に 対 す る こ と が で き る 。 こ う し た こ と を 前 章 ま で で 考 え て き た 。 この「隔たり」を埋めるために、しばしば論じられるのは、地震そのものは「自 然現象」であるが、被害のほうは「社会的」なもの、あるいはもっと直截的に地震 の被害は「人為的」なものであるという考え方である。建物も、道路も、部屋のな かのものも、人間が設計してつくったものであるから、地震による揺れが、それら の人工物に作用し、 それらよって人の命を奪ったり、 人を傷つけたというのである。 「兵庫県南部地震」は「早朝であったため、死者の多くは家屋の倒壊と火災による」 と『理科年表』でも説明されている。救援活動が迅速でない、後々の手当が満足な ものではないといったことがしばしば指摘される。もっとこうしていればと自分自 身を含む人間を責めることになる。何の前触れもなく、突然大きく地面が揺れると しても、 それに備えていない「人間」や「社会」に責任があるというのである。今、 この場所で起こったからこそ、こんな被害が生じたのだという受け止め方である。 しかし、こうした考え方は、地震だけでなく、さまざまな「自然災害」にも当て はめることができる。地震の本質を探すためには、 別の観点から考える必要がある。 避 難 所 で 出 会 っ た 女 性 の 言 葉 が 思 い 出 さ れ る 。 当 時 、 五 十 代 の 彼 女 は 一 人 暮 ら し を し て い て 地 震 に 遭 遇 し た 。 後 に 仮 設 住 宅 に 移 り 、 次 い で 公 営 住 宅 で 住 む こ と に な っ た 。 仮 設 住 宅 に 住 ん で い た 時 に 、 そ の 住 宅 の 集 会 で 、 彼 女 は 次 の よ う に 発 言 し た と い う 。 壊れるような家に住んでいたほうが悪いのよ。 その後、しばらく、だれも発言する人はいなかったという。筆者も、地震の直後 に、いろんな人から体験や発言を聞いたのであるが、この話を聞いたあとは、しば らく言葉が出なかった。避難所でも仮設住宅でも、行政に対して、より適切な対応