欧州通貨統合を考える : フランス経済史研究の現場から
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(2) . 究する道は最初から,しかも(現状がつづくか ぎり)永久に閉ざされているのです 2).. ことによって完了します. 市場統合というのは,一方で共同体域内の関. 私が欧州通貨統合を本日の主題に選んだのに. 税を廃止し,他方で域外にたいして共通関税を. は,いま一つ付随的な理由があります.昨年の. 設定することによって,域内に一個の国民国家. 年末に,「東アジア共同体」の創設問題がマス. の市場と同様の市場―これを「共同市場」と. メディアをにぎわせました.したがって,欧州. 呼びます―を創り出すことです.共同市場と. 通貨統合についてお話するタイミングとしては. 混同されやすい地域市場のタイプに「自由貿易. 悪くないと考えたのです.. 地域」があります.これは,域内関税を引き下. I.問題の所在―通貨統合とは何か―. げるものの,域外にたいしては各国がそれぞれ 独自の関税を維持するというものです.戦後の. まず導入的な話から始めましょう.欧州統合. 欧州では,イギリスが EEC に対抗してデンマ. には経済以外に,政治,安全保障,社会や文化. ーク,スウェーデンなどとともに創設した「欧. などさまざまな領域がありますが,もっとも目. 州自由貿易連合」(EFTA)が,このタイプの地. にみえるかたちで実績をあげているのは経済統. 域市場にあたります.. 合です.経済統合は,その歴史的経過に即して. 以上の市場統合にたいして,通貨統合は為替. みると,大きく言って 2 つの部分からなってい. 相場―つまり,国民通貨間の交換比率―の. ます.一つは「市場統合」です.それは 1952. 変動幅を縮め,最終的には為替変動を廃止しよ. 年に,石炭と鉄鋼という 2 部門の統合を目的に. うとするものです.為替変動の廃止は,今日の. かかげる「欧州石炭鉄鋼共同体」(ECSC)が創. 「欧州連合」( EU )がしたように単一通貨の導. 設されたことに始まります.次いで 1958 年に,. 入によっても実現できますし,国民通貨をその. あの有名な「欧州経済共同体」( EEC )が発足. まま残しながら平価を固定することによっても. することによって統合はすべての産業部門へと. 実現できます.いずれの方式をとるにせよ,通. 広がり,1969 年までにほぼ完了しました.い. 貨統合を実現するには,共同体の域内諸国の物. ま一つは「通貨統合」で,これは 1972 年に欧. 価,賃金,財政,通貨といった諸政策を相互に. 州通貨協力制度「スネイク」―これについて. 近づけていくこと,つまり共同体の各種機関で. はあとでお話します―が創設されたことに始. 使われていた用語でいえば政策の「同調」. まり,1999 年に単一通貨ユーロが導入された. ( c o n c e r t a t i o n ), さ ら に は 「 収 斂 」 (convergence)が必要になります.そうしない と,域内諸国間で通貨投機が発生し,為替関係. 2)このような当局者たちの不正常な行為を止 めさせるために,公文書館法に罰則を設けるべき だといった議論も,歴史研究者たちの間にはあり ます.しかし世界を見渡しても,公文書館法に罰 則を設けている国があるという話を聞かないこと からすると,それは技術的に難しいのであろうと 思われます.そうであるなら,すべては当局者た ちのモラルにかかっていることになります.歴史 文書の保存と公開の制度については,以下の拙論 を参照.権上康男「歴史文書の公開制度確立を」 『日本経済新聞』2000 年 1 月 21 日; 同「歴史研究と 歴史文書館制度」『アーキヴィスト』No.50,2001 年 1 月; 同「歴史文書と歴史文書館制度」 『エコノミ ア』第 52 巻第 2 号,2001 年 11 月; 『AERA』2001 年 5 月 21日,28− 29頁.. が大きく乱れるからです.共同体の公式の用語 では,1969 年 12 月に開催された欧州首脳会議 .. (ハーグ会議)以後,通常私たちが「通貨統合」 .... と呼んでいるものを「経済通貨統合」 (Economic and Monetary Integration)と言います が,それはこのような事情によるものです 3).. 3)権上康男「ヨーロッパ通貨協力制度『スネ イク』の誕生(1968 − 73 年)―戦後国際通貨体 制の危機とフランスの選択」『エコノミア』第 56 巻 第 1 号,2005 年 5 月,参照..
(3) . ところで,域内諸国の経済政策や金融政策. できたということです.その証拠に,古代から. ―ここでは,日本の慣例にしたがい,中央銀. 20 世紀にいたるまで,ほとんど例外なしに,. 行が実施する「通貨政策」(monetary policy). 金属貨幣には権力者の肖像や紋章,あるいは国. を「金融政策」と呼ぶことにします―を収斂. 家を象徴する画像や紋章が刻まれています.ま. させるための確実な方法は,いうまでもなく,. た,権力者や国家は新しい版図を獲得するたび. 共同体の内部に独立した中央機関を創って,各. に,その地に自らの貨幣を流通させようとしま. 国がそこに政策決定の権限を委ねることです.. した.19 世紀に欧米列強が東アジアに進出し. 実際,通貨統合をめぐる論議のなかでは常に,. た際も例外ではありません.英仏米の 3 国のい. 経済政策の決定機関と金融政策の決定機関の創. ずれとも,この地域で使われていたメキシコ・. 設が重要な論点の一つを形成していました.ま. ピアストル貨と品位,量目,そして形状もほと. た,1998 年に「欧州中央銀行」(ECB)が創設. んど同じで,ただ刻印された紋章や画像のみの. され,EU における金融政策はここで一元的に. 異なる銀貨を新たに鋳造し,自国の植民地ない. 決定される仕組みになったことは,皆さんもよ. しは従属地域に導入しています 4).. くご存知のはずです.このことは,通貨統合に. このように,長い歴史をつうじて,通貨は権. は,国家主権の制限や国家主権の委譲という,. 力者や国家と不可分なものとみなされてきたの. 国民国家のあり方にかかわる制度問題が随伴し. です.歴史のなかでみれば,国家が通貨発行権. ていることを意味します.もちろん,前にお話. を自ら手放すという事態は尋常ではなかったの. した市場統合にも共通農業政策があり,主権の. です.. 制限という問題がすでに含まれています.しか. これまでのお話から,次のような結論を導く. し市場統合にとっての制度問題の重みは,マク. ことができると思います.歴史研究―すなわ. ロ政策の収斂を必要条件とする通貨統合と比較. ち,過去の個別で特殊な事象を読み解くことを. するなら,はるかに軽微であったと言えるでし. つうじて一般的な真理に到達しようとする学問. ょう.. ―の側からみるならば,通貨統合をめぐる核. 通貨統合のもつ特別な意味は,通貨というも. 心的な問題は国家をめぐる問題にあるというこ. のを長期の歴史のなかに位置づけてみるとき,. とになる.より具体的に言えば,国家の権限や. いっそうはっきりします.有史以来,洋の東西. その行使のあり方の変化,言いかえれば国家の. を問わず,通貨発行は権力者もしくは国家の. 性格の変化にかかわる問題,これこそが通貨統. 「大権」(souveraineté),すなわち侵すことので. 合史のなかで問われるべき核心的な問題だとい. きない基本権とみなされてきました.フランス では戦後に中央銀行が国有化されますが,その 際に行われた国会審議の場でも,そうした事実 を再確認する議論がなされています.. うことになる. そこで私は,欧州通貨統合について 3 つの問 題を設定することにしました. 第一に,国家主権の委譲,少なくともその部. 通貨発行が国家の大権とみなされてきたこと. 分的委譲をともなうような,歴史上類例のない. には 2 つの理由が考えられます.一つは,金属. 選択を,なぜ欧州諸国が行ったのか.あるいは. 貨幣(本位貨幣)の改鋳―今日の専門用語で. 行わざるを得なくなったのか.. いえば平価の切下げ―が,権力者や国家にと. 第二に,通貨統合の要ともいうべき,域内諸. って,非常時における簡便な財政資金調達の手 段たり得たということです.この点については, とくに説明の必要もないでしょう.いま一つは, 権力者や国家は通貨を介して自らの権威をもっ ともわかりやすいかたちで人々に伝えることが. 4)権上康男『フランス帝国主義とアジア― インドシナ銀行史研究』東京大学出版会,1985 年, 巻頭の口絵写真,を参照..
(4) . 国間における経済政策の収斂とは,現実にどの. ことは,域内諸国通貨間の為替相場が,理論上,. ような政策への収斂を意味したのか.. 倍の 1.5 パーセントまで変動し得ることを意味. 第三に,国家主権の委譲をもとなうような大 事業がどうして可能だったのか.. します. ブレトンウッズ体制が以上のようなものだっ. 欧州通貨統合についてこのような問題設定を. たということは,かりにこの体制がつづいてい. 明示的にこころみた研究文献を,私は知りませ. たとするなら,欧州統合は市場統合のままにと. ん.おそらくそれは,この研究領域が未だ歴史. どまっていた可能性がある,ということになり. 研究の対象になっていないからだと思います.. ます.実際,EEC の基礎を据えた 1957 年のロ. というのも,歴史文書を読み込めば読み込むほ. ーマ条約にはそもそも通貨に関する具体的規定. ど,この 3 つこそが,通貨統合の意味を歴史の. がありませんでした.通貨統合は想定されてい. なかで解き明かすうえで中心的な位置を占めて. なかったのです.また,すぐあとでお話するよ. いる,という考えが強まるからです.. うに,少なくとも 1970 年代の半ばまでは,フ. II.国際通貨危機と欧州通貨統合 ―超大国アメリカ合衆国の巨大な影―. ランスは通貨統合を現実の問題として考えよう としませんでした.あるいはまた,かりにブレ トンウッズ体制がつづいたとするなら,欧州諸. 通貨統合とは為替変動の廃止を意味するもの. 国が単一通貨を導入するようになったとして. ですから,そもそも為替平価が固定されている. も,そのことが特別大きな問題を域内に生じる. 世界では,通貨統合は問題になりません.した. ことはなかったと考えられます.. がって,19 世紀末から 1930 年代初頭まで世界. 以上のような理屈を裏書きするように,欧州. に普及していた金本位制のもとでは,問題にな. 通貨統合が現実の問題として浮上する契機にな. りません.金本位制とは,一国の通貨を金の一. ったのは,ブレトンウッズ体制の動揺,次いで. 定重量で定義し,国際取引を最終的に金で決済. その崩壊です.皆さんもご承知のように,1960. する制度だからです.金本位制の支配した時代. 年代の初頭からドル危機が顕在化し,投機的国. は国民国家の黄金時代に対応していますが,こ. 際資本移動が活発化します.そして,1969 年. れには十分な根拠があったということになりま. から「国際通貨基金」( IMF )を舞台に,通貨. す.. 投機の抑制という課題とのかかわりで,国際通 貨制度の改革論議が始まります.これを主導し. ブレトンウッズ体制の危機. たのはアメリカ合衆国で,議論の内容はブレト. 第二次大戦後の国際通貨制度は 1944 年のブ レトンウッズ協定によって基礎を据えられます. ンウッズ体制の「柔軟化」,すなわち許容為替 .... 変動幅の拡大(もしくは実質的な拡大)でした.. が,この制度のもとでも,実態は金本位制下と. 具体的に議論されたのは次の 3 つの解決法で. そう大きく違ってはいませんでした.いわゆる. す.第一は固定平価制のもとでの為替変動幅の. 「ブレトンウッズ体制」のもとでは,ドルの金. 拡大,第二は 2 種類の固定平価間での自由な為. との交換が保障されており,たとえば 1 ドル=. 替相場の変動,そして第三がクローリング・ペ. 360 円といった具合に,各国の通貨はドルを介. ッグ制と呼ばれる小刻みな為替平価調整制度で. して金に繋がれていたからです.ただし厳密に ...... 言うと,この体制のもとでもわずかながら,為. す.. 替変動は許容されていました.欧州共同体の域. らには変動為替相場への移行)に傾いたのかと. 内諸国通貨については,それぞれドル(いわゆ. いうと,いうまでもまく,それはアメリカにと. る「対ドル中心相場」)から上下 0.75 パーセン. って都合がよかったからです.当時の議論によ. トまで乖離することが許されていました.この. れば,理由は2 つあります.. では,アメリカはなぜ為替変動幅の拡大(さ.
(5) . 一つは,国民経済の対外開放度,すなわち. 貨間の理論上の変動幅はその倍の 6 パーセント. GDP にたいする対外貿易額の比率の違いです.. にまで拡大します.ちなみに,欧州委員会が. 工業国のなかでもフランスのように中規模な国. 1969 年に行った試算によれば,世界の変動幅. とベネルクス 3 国のように小規模な国の経済. が 1 パーセントを超えると共同市場の機能に大. は,一般に対外開放度が高く,為替変動によっ. きな障害が生じることになっています.かくて. て国内経済が撹乱される度合いが大きい.これ. 共同市場を維持しようとするなら,新たに世界. にたいしてアメリカは,国内市場が広く対外開. に適用されるかもしれない拡大変動幅よりも狭. 放度が低いために国内経済が為替変動によって. めに域内変動幅を維持しなければなりません.. 撹乱される度合いは小さい.したがって,為替. このようして欧州統合史上はじめて,欧州に固. 変動幅の拡大は世界の大多数の国に多大の困難. 有で独自な為替制度の創設―いわゆる「安定. をもたらすものの,アメリカにたいする影響は. 通貨圏」の創設,あるいは「通貨統合」―と. それほど大きくない.このような説明は,経済. いう課題が登場してくることになったのです.. 学者のみならず中央銀行家も行っていました. たとえば,1970 年代半ばから 80 年代半ばまで. ウェルナー報告とフランス. フランス中央銀行の副総裁,次いで総裁を務め. 通貨統合に道を開いた歴史的な文書に「ウェ. たルノー・ドゥ=ラ=ジュニエールは,自身の. ルナー報告」があることはよく知られています.. 講演のなかで何度もそのような説明をしていま. ウェルナー報告とは,欧州閣僚理事会のもとに. す.. 設置された特別委員会の報告で,ウェルナーは. アメリカが為替変動幅の拡大に向けて動いた. 特別委員会を主宰したルクセンブルクの首相兼. いま一つの理由は,ドルの果す基軸通貨として. 財務大臣の名前です.また閣僚理事会というの. の役割に関係しています.それは,一方で,為. は,共同体の最高決定機関で,各国の閣僚から. 替変動幅の拡大によってアメリカはドルの安定. 構成されています.なかでも中核的な役割を担. にたいする責任を大幅に軽減されるものの,他. ったのは経済・財務担当大臣から構成される閣. 方で,それにもかかわらずドルは依然として世. 僚理事会です.ウェルナー報告は 1970 年 10 月. 界の決済通貨・準備通貨のままにとどまること. に閣僚理事会に提出されますが,この報告には,. ができる.したがって,アメリカはひきつづき. 通貨領域における統合と経済領域における統合. 世界から「無償で資金を借り入れる」―この. を同時並行的に進め,3つの段階を経て 10 年. 表現はフランスの大統領シャルル・ドゴールが. 後に単一通貨を導入することが謳われていまし. 1965 年 2 月に行った有名な記者会見から借用し. た.. ました―ことができる,というものです.こ. ところで,本日の講義の主題とのかかわりで. うした理由説明は,とくにフランスの政府当局. 問題になるのは,この報告書の作成過程でフラ. 者たちが行っていました.. ンスがとった態度です.通貨統合については日. ところで,ブレトンウッズ体制を「柔軟化」. 本でも海外でもおびただしい数にのぼる研究書. する方向で問題の解決を図れば,EEC にとっ. が出版されていますが,そうした文献は,フラ. て重大な問題が生じます.というのは,「柔軟. ンスの対応を次のように説明しています.この. 化」は域内諸国間における為替変動幅の大幅な. 国は,最初に通貨統合を達成し,そのあとに経. 拡大を意味し,共同市場の機能を大きく損なう. 済政策の収斂を進めればよいとする立場をとっ. からです.たとえば,ドルにたいする各国通貨. た.そして,そのために,経済政策の協調を先. の変動幅を 3 パーセント―この数字は当時,. 行させるべきだとするドイツ連邦共和国―以. IMF の実務者たちが実際に想定していたもので. 下においては,簡略化して「ドイツ」と言うこ. す―まで容認するようになると,域内諸国通. とにします―と対立した,と.これは一般に.
(6) . 「マネタリスト」と「エコノミスト」の対立と. です.1970 年の夏に財務省の国庫局長が財務. 呼ばれています.マネタリストとは,あのミル. 大臣ヴァレリー・ジスカールデスタンのために. トン・フリードマンたちのマネタリズムとは関. 作成した覚書には,こうはっきりと書かれてい. 係ありません.通貨統合を優先させようとした. ます―「欧州通貨の差別化〔=為替変動幅の. という理由で,そう呼ばれてきているのです.. 縮小〕はそれ自体が目的なのではない.その主. しかし,フランス財務省内で作成された文書. 要な意義は…国際決済制度のなかに,その機能. 類を系統的に読んでいくと,実はそうでないこ. の改善を可能にする多元主義を持ち込むことに. とがわかります.フランスは通貨統合,まして. ある」5).. や単一通貨の導入などといったことは,現実の 問題として考えていなかったのです.. フランスの現代史を研究していて興味深いの は,この国は常に理念を説きなが国際社会で行. では,フランスはどのような姿勢でウェルナ. 動するということです.しかし,こうしたフラ. ー委員会に臨んでいたのかというと,それはこ. ンスの伝統的行動は,20 世紀の歴史のなかで. うです.まず,欧州に独自な為替制度を立ち上. は保守的であると評されることが多かったよう. げることによって欧州諸国の結束を図る.次い. です.というのは,現実によって乗り越えられ. で,この結束した欧州をつうじてアメリカ合衆. てしまう場合が多かったからです.すぐあとで. 国の行動に掣肘を加える.いま少し現実の問題. お話しますが,この 1970 年代初頭の行動も同. に即して言うとこうなります.第一に,アメリ. じ結果に終ります.しかし,このように理念を. カに自国通貨ドルの信認回復の責任を負わせ. 掲げて超大国とわたりあってくれる国が存在す. る.そのために,欧州諸国が結束してアメリカ. るおかげで,私たちは世界史をバランスよく,. に圧力を加え,この国に財政均衡に向けた努力. 客観的にみることができるのです.私が長年に. をさせるとともに資本輸出の規制を行わせる.. わたってフランスを中心に研究をつづけている. そうすることによって,固定相場制を世界次元. 理由の一つも,実はここにあります.. であくまでも維持する.第二に,その一方で, 欧州に独自の縮小為替変動幅制度を構築し,国. ところで,皆さんもご承知のように当時の日 本も固定相場に固執していました.ただし,日. プ リ ェ ラ リ ス ム. 際通貨の領域に「多元主義」を実現する.そう. 本はフランスのようには立ち回りません.一昨. することによって,ドルが享受している決済通. 年の 1 月に―ちょうど 2 年前の今ごろですが. 貨・準備通貨としての特権をこのアメリカの国. ―パリで歴史研究者たちの研究集会があり,. 民通貨から剥奪する.. これに出席した私は,あるショッキングな経験. フランスは 1960 年代から,アメリカという. をしました.. 一国民国家の通貨にすぎないドルが決済通貨・. この研究集会には元フランス大統領ヴァレリ. 準備通貨としての特権を享受している現実を問. ー・ジスカールデスタンと元ドイツ首相ヘルム. 題視し,こうした「変則的な状態」を正すべき. ート・シュミットも出席していました.フラン. だとする主張を,機会あるごとにしていました. フランスはブレトンウッズ体制の危機を,この 「変則的な状態」を正すための好機とみたので す. やや混み入っていますが,要するに,フラン スはドル支配に楔を打ち込むためにウェルナー 報告に与したのであって,通貨統合それ自体に 意義を認めていたわけではなかった,というこ とです.狙いはもっぱら政治的なものだったの. 5)Archives de la Banque de France, 1489200205/ 255. Propositions du Groupe Werner en matie`re d’union monétaire (note pour le Ministre, 8 septembre 1970, signée par René Larre). 権上康男 「ウェルナー委員会とフランスの通貨戦略(1968 − 70 年)―フランスは『マネタリスト派』であっ たか」関東学院大学『経済系』第 227 集,2006 年 4 月,17 − 18 頁,参照..
(7) . スでは大統領や閣僚の経験者たち,それに元官. ように推移したかについては,多くの方々がご. 僚たちが歴史研究者たちの会合に「歴史の証人」. 存知のはずです.アメリカは 1971年 8 月に突然,. として出席することは,そうめずらしいことで. ドルの金との交換性を停止し,ドルは変動相場. はありません.このとき,ジスカールデスタン. に移ります.これは,アメリカ以外の国々とく. は原稿なしで 40 分にもわたって熱弁をふるい. に欧州諸国からみますと,アメリカのいわゆる ユ ニ ラ テ ラ リ ズ ム. ましたが,そのなかで当時の日本にも触れてい ます.彼はこう言いました.「われわれは日本. 「単独行動主義」ということになります. 1971 年 8 月の事件は「ニクソン・ショック」. に呼びかけて,固定相場制維持のための話合い. と呼ばれますが,そのとき,私は夏のヴァカン. をしようとした.ところが,Il ( Le japon ) ne. スを利用してベルギーを旅行中で,ブリュッセ. rien dit.」.‹‹Il ne rien dit.›› は,直訳すると「日. ル駅の新聞スタンドでこれを知りました.ただ. 本は何も言わない」ですが,「日本からは何の. し,正直に告白しますが,当時の私には通貨問. 反応もない」くらいの意味にとったらよいでし. 題はよく理解できませんでした.ましてや,通. ょう.ジスカールデスタンがこう言うと,会場. 貨を歴史研究の対象にできるなどとは思っても. からどっと笑いが起こりました.元大統領はそ. みませんでした.これは私個人の不勉強もさる. のあと何もフォローしませんでしたが,私には. ことながら,当時の学問状況の反映でもあると,. 会場の雰囲気からそれなりに笑いの意味がわか. 私は考えています.しばらく前から,私は通貨. りました.おかげで,ものの数十秒だったとは. に大変興味をもち,意識的にこの領域の歴史研. 思いますが,身の凍りつくようなるような,恐. 究に取り組んでいます.これは時代が進化した. ろしい時間を経験しました.学部生,院生の皆. ためなのか,私自身が進化したためなのか―. さんは,この笑いをどう解釈したらよいか,考. 多分その両方だと思います.このようなことを. えてみてください.. お話するのは,若い皆さんに,時代も人間も学. 日本のことはさておき,先ほどお話したよう. 問も,比較的短い期間にどのくらい大きく変わ. な国際通貨戦略を裏づけるように,フランスは. れるものなのかということを知って欲しいから. 欧州通貨統合に賛成し,為替関係の安定を目的. です.. とする欧州通貨基金の創設を強く主張します. 話を戻しましょう.このアメリカによる金/. が,共同体の域内における経済政策の協調には. ドル交換停止,したがってまた変動相場の採用. ほとんど関心を示しませんでした.そして,マ. にたいして,フランスは欧州諸国(なかでも変. クロ政策の決定機関を創設することには徹底し. 動相場に傾きかけていたドイツとイタリア)を. て反対しました.つまり,国家主権の共同体へ. 自身の側に取り込み,アメリカを説得して一度. の委譲に通じる制度改革には根本的に反対だっ. は固定相場制の再建に成功します.これが,固. たのです.フランスは,ジャン・モネが戦後ま. 定相場制の復活と為替変動幅の拡大を決めたこ. もなく欧州統合の基礎を築き,さらに統合促進. とで知られる,1971 年 12 月のスミソニアン協. の旗振り役として欧州全土をまたにかけて活躍. 定です.EEC 諸国はこの協定締結を踏まえて,. したことなどもあって,統合推進に熱心な国と. 翌 1972 年 4 月に,共同体に独自の縮小為替変動. みられがちですが,政府レヴェルでは必ずしも. 幅制度を発足させます.すなわち,対ドル中心. そうではありません.歴史における真実という. 相場の上下 2.25 パーセントという新しい世界変. ものは,いつもそうですが,大変屈折している. 動幅(トンネル)のなかを 2.25 パーセントの域. のです.. 内変動幅(通貨バンド)が蛇行する,有名な 「トンネルのなかのスネイク」と呼ばれる制度. アメリカの「単独行動主義」. です.しかし 1973 年春には,ドル不安を背景. そのあと国際通貨問題と欧州通貨問題がどの. にして激しい通貨投機が再燃し,世界の国々は.
(8) . 変動相場に事実上移行することを余儀なくされ. 的に踏み出されたわけではなかったのです.ア. ます.この結果,EEC 諸国の中核部分も「ト. メリカを主役とする国際通貨混乱劇―その根. ンネルを出たスネイク」と呼ばれる共同変動相. 本にあるのは戦後資本主義というシステムの矛. 場制に移行します.あとでお話しますが,この. 盾ですが―の産物,つまり歴史の産物だった. 制度は当時のドイツ以外の国々,とくにフラン. ということです.これが冒頭にあげた第一の問. スにとっては実施に大きな困難がともなう制度. 題にたいする回答ということになります.. です. 以後,1973 年から 76 年にかけて,IMF,. III.欧州通貨統合と新自由主義. OECD,G10,G20,欧州閣僚理事会,欧州通. 通貨統合を進めれば遅かれ早かれ経済政策の. 貨委員会など,世界および欧州のさまざまな国. 収斂が必要になるわけですが,いったいどのよ. 際会議の場で,国際通貨の将来に関する協議が. うな政策に収斂するのか,あるいはしたのか.. 継続して行われます.そうした各種会議の部外. この問題を解く鍵は,共同体の支柱をなすフラ. 秘の記録を読みますと,協議とは事実上,「ビ. ンスとドイツがそれぞれ採用していた経済政策. ナイン・ネグレクト」 (いんぎんな無視)―当. 路線と,1973 年から定着することになった変. 時のニクソン政権の内部で使われていたこの用. 動相場にあると考えられます.. 語は,わかりやすく言えば,国際通貨秩序維持 にたいするアメリカの責任放棄を意味します. 新自由主義と仏独対立. ―を決め込むアメリカと,旧来の国際通貨秩. まずドイツですが,この国は戦後にいち早く. 序の再建を主張するフランスとのせめぎあいで. 「社会的市場経済」(Soziale Marktwirtschaft)の. あったことがわかります.しかし変動相場が長. 名のもとに新自由主義的政策を実施していま. 期化するなかで,新しい現実を受け入れる国が. す.新自由主義というのは,1930 年代から戦. 増えるようになり,フランスはしだいに孤立を. 後の 40 年代末にかけて,ドイツのワルター・. 深めて行きます.そして,ついに 1976 年 1 月の. オイケン,フランスのジャック・リュエフ,そ. ジャマイカ(キングストン)会議でフランスが. れにウィーン生まれで当時ロンドンのスクー. 変動相場を事実上受け入れることになり,問題. ル・オブ・エコノミックス(LSE)にいたフリ. は最終的に決着します.. ードリヒ・ハイエクらによって基礎を据えられ. 要するに,フランスは結局アメリカを押さえ. た自由主義の流れです.その理論内容を簡単に. 込むことができず,その努力は徒労に終ったこ. 説明することは難しいのですが,さしあたり,. とになります.理念は現実に勝てなかったので. 最小限承知しておいていただきたいのは次の 3. す.. つの命題です.. 以上のような歴史過程を追跡するなかで確認. 第一に,個人の自由は価格メカニズムが機能. できたと思われるのは,欧州通貨統合に向けた. する自由な市場なしには保障され得ない.第二. 第一歩は,国際通貨混乱=危機のなかから緊急. に,市場経済は国家がしっかりした制度的枠組. 避難的に踏み出されたものである,という事実. みをつくり,その枠組みの維持に責任を負わな. です.国際通貨混乱の中心に位置していたのは. いかぎり,円滑には機能し得ない.そうした意. アメリカですから,フランスの側からみると,. 味において,自由主義国家は「積極的」でなけ. 超大国アメリカのご都合主義のせいで,共同変. ればならず,状況によっては「強く」さえなけ. 動相場制という自国に厳しい,もっともやりた. ればならない.容易におわかりのように,第二. くない選択を余儀なくされたということになり. 命題は,「夜警国家観」で知られる 19 世紀マン. ます.通貨統合への道は決して共同体諸国の共. チェスター派の自由主義にたいする批判を含ん . でいます.問題の自由主義の流れが新自由主義. 同意思にもとづいて,計画的ないしは予定調和.
(9) . と呼ばれる最大の理由はここにあます.この命. と計画化を指導原理とし,投資と成長を優先す. 題のもつ重みは,このところマスメディアをに. る,インフレ基調の政策を実施しました.この. ぎわせている耐震強度偽装事件やライブドア事. 結果,国際収支はかろうじて均衡するか,もし. 件のことを考えればよく理解できると思いま. くは赤字を記録し,1960 年代の一時期を除い. す.第三に,個人の自由を保障するためにも,. て,フランは弱い通貨の代名詞となっていまし. また市場経済の運行を保障するためにも,物価. た.. の安定が,つまりインフレの排除が必要である . 6). いうまでもなく,仏独両国が対照的な政策路. 新自由主義については,誤解を避けるために. 線をとったことにはさまざまな歴史的背景があ. さらに 2 つの点を補足的に指摘しておきます.. ります.この点には立ち入れませんが,一つだ. 一つは,今日人口に膾炙しているような新自由. け言っておきましょう.それは労働組合運動の. 主義,つまり,国家の機能をかぎりなく市場経. もつ力の違い―強力なフランスと相対的に脆. 済に溶解可能とみるような,それこそ「市場原. 弱なドイツ―です.そうした両国の違いは,. 理主義」とでも呼びたくなるような新自由主義. 1970 年代に行われた仏独協議の場で,経済大. は,新自由主義の一つの流れであって,新自由. 臣アーベルなどドイツ政府の高官たちによって. 主義のすべてではないということです.いま一. も確認されています.. つは,市場経済を原理そのままに現実の社会に. さて,問題は通貨統合です.このように強い. 持ち込んだ場合には社会との間に軋轢を生じ. マルクと弱いフランという 2 つの対照的な通貨. る,それゆえ市場経済と社会の関係には細心の. 間の為替変動幅を縮小しようとすれば,弱い通. 注意を払う必要があり,場合によっては価格メ. 貨国フランスにとってきわめて厳しい状況が生. カニズムを修正することも許される―このこ. れます.というのは,為替変動幅を縮小すれば. とを,大陸ヨーロッパの新自由主義者たちは強. 仏独の通貨は両国以外の国の通貨にたいして一. く意識していたということです.戦後のドイツ. 体となって変動することになり,フランスの通. では,先ほどお話したように,新自由主義の理. 貨は過大評価されることになるからです.かり. 念にもとづく市場経済,ないしはそれを実現す ... るための政策を「社会的市場経済」と呼びまし. にそうなれば,フランスは緊縮政策を実施し,. たが,それはこうした考え方にもとづくもので. うにしなければなりません.. す.. 自国の物価と賃金をドイツの水準にあわせるよ この点については,ウェルナー委員会の報告. ドイツは戦争直後から,以上のような新自由. が提出されて間もない 1970 年 12 月に,フラン. 主義の理念にもとづいて,物価と通貨の安定を. スの大統領ジョルジュ・ポンピドゥーが,閣議. 最優先する政策を実施します.その結果,国際. で驚くほど率直に,問題の核心を突く発言をし. 収支は大幅な黒字を記録し,マルクは世界最強. ています.ポンピドゥーは,最初に,単一通貨. の通貨の名をほしいままにします.これが「ド. の導入や,経済政策および金融政策の決定機関. イツの奇跡」と呼ばれたもので,ドイツが日本. の創設を提案するのはウェルナー委員会の越権. に先んじて経済成功神話を残した最大の要因で. 行為であるとし,この委員会を厳しく批判しま. す.これにたいして戦後のフランスは,国有化. す.そのあとで,お手元に配布した資料(本稿 末尾の参考資料を参照)にあるような言葉をつ づけます.長い文章ですので,後で目をとおし ておいてくださればよいのですが,ポンピドゥ. 6)新自由主義の概念とその歴史的起源につい ては,権上康男編『新自由主義と戦後資本主義── 欧米における歴史的経験』(日本経済評論社,2006 年 12 月刊行予定)を参照.. ーは次のようなことを言っています.ウェルナ ー報告にもとづいて通貨統合を進めれば超均衡 財政の実施が必要になるが,それをやるとイタ.
(10) . リアやフランスのような国では暴動が起こり,. 経済政策の収斂には消極的で,共同体の内部に. 共産主義者が政権の座に就くことになる,と.. 独立の政策決定機関を創設することには強く反. 若い皆さんはすぐには理解できないと思いま. 対しました.そして,ウェルナー報告について. すが,当時は冷戦の真っ只中で,どの国におい. は,「経済通貨同盟」の第一段階,つまり入り. ても社会は多かれ少なかれ流動的で,労働運動. 口だけ,しかも通貨支援のための信用機構の創. や学生運動が盛んでした.フランスでは 1968. 設だけにしか事実上コミットしない,という姿. 年の 5 月から 6 月にかけて学生と労働者が蜂起. 勢をかたくななまでにとりつづけます.これに. し,一時,国土全体が騒乱状態に陥っています.. たいしてドイツは,経済政策の収斂を強く主張. この事件は当時,「5 月事件」ないしは「5 月革. し,各国にたいしてインフレの終息に努めるこ. 命」と呼ばれました.私が留学先のパリに着い. とを求めます.さらにドイツは,そうした方向. たのは 1968 年の 10 月 1 日ですので,私自身,. での政策収斂を確実にするための「制度改革」,. 「5 月事件」後のこの都市を自分の目でみてい. つまり超国家的な政策決定機関の設立を主張し. ます.あの美しい建物群はどの界隈のものであ. ます.こうして仏独両国は「経済通貨同盟」の. れスプレーでいたるところ落書きされており,. 行程表をめぐってことごとく対立することにな. ソルボンヌ(パリ第1大学)の周辺には自動小. ります.. 銃を手にした兵士が歩哨に立っていました.私 が寄宿していた大学都市―パリの南部に位置. フランスの政策転換. する,横浜国大常盤台キャンパスよりも広い緑. しかし 1976 年から,このような対立の構図. 地で,そこには世界各国の学生寮が集まってい. に大きな変化が生れます.フランスがそれまで. ます―では,きまって週末の深夜,午前零時. の政策を大きく転換したからです.変動相場が. を過ぎるころ,シュプレッヒコールが聞こえて. 一般化した 1973 年ころから,フランスでは,. きました.学生たちが官憲の目を盗んで大学都. 各省庁(なかでも計画庁,財務省経済予測局). 市内でデモをくり広げていたのです.こうした. および中央銀行のエコノミストたちによって,. 状況は 1969 年いっぱい,つづいていたように. 変動相場のもとでの国内経済運営に関する研究. 記憶します.要するに,当時のフランスでは. がさかんに行われています.そして,そこから. 「体制の選択」が,なにがしかのリアリティを. 注目すべき方向性が示されます.それは次のよ. もっていたのです.. うなものです.. ところでポンピドゥーの閣議発言ですが,そ. 固定相場制とはちがって変動相場のもとで. の言わんとするところを,経済学の専門用語を. は,国内市場を国家の力で海外市場から遮断す. 使って敷衍して言うと,こうなります.社会の. ることができなくなる.というのは,為替相場. 安定には経済成長が必要であり,それには潤沢. が変動することによって不断に内外価格差,つ. な通貨供給が必要である.かりにそうした成長. まり国内価格と国際価格の差が調整されてしま. 政策をとることによって物価が上昇し国際収支. うからである.インフレ基調の成長優先政策を. 赤字が累積するなら,通貨を切り下げればよい.. 継続することは,もはや難しい.変動相場のも. 当時のイギリス政府の姿勢も同じようなもので. とで経済社会を安定させようとすれば,物価と. したから,ポンピドゥーの考えは決して特別な. 通貨を安定させるしかない.つまり,国家に許. ものではなかったといえるでしょう.. される政策は新自由主義的政策しかない,とい. ともあれこのように,フランスは先ほどお話 した国際通貨戦略だけでなく国内問題からも,. うのが官庁エコノミストたちの下した結論だっ たのです.. 通貨統合には消極的というよりむしろ否定的に. こうしてフランスも,1976 年の秋からジス. ならざるを得なかったのです.実際,とりわけ. カールデスタン大統領のもとで,物価と通貨の.
(11) . 安定を最優先するドイツ流の新自由主義に,政. 回答になります.. 策路線の基本を切り替えます.この年の 8 月, 前欧州委員会副委員長で経済学者(パリ大学教. IV.政治と国家官僚の果たした役割. 授),また新自由主義者としても知られるレイ モン・バールが首相に任命され,彼の手で,物. 最後に第三の問題―国家の権限委譲をとも. 価と通貨の安定を優先する新しい経済政策―. なうような大事業がなぜ可能だったのか,また. いわゆる「バール・プラン」(このプランは,. 可能にした要因は何か,に移ります.いま述べ. 欧州委員会によって作成された同名の,欧州通. たばかりの新自由主義の普及は,すでにこの問. 貨統合史上有名なプランとは違いますので注意. にたいする答えの一部となっています.しかし,. してください)―が策定されます.バール・. ここでは視点を変えて,問題の非経済的側面に. プランのなかには,ミルトン・フリードマンた. ついてお話したいと思います.. ちのマネタリズムの影響をうけた,「通貨目標. 共同体の域内諸国の間には,経済の構造や仕. 値」の設定と公表も含まれていました.以後,. 組み,それに経済政策路線に大きな違いがあっ. フランスとドイツの間には,フランソワ・ミッ. ただけに,通貨統合はきわめて困難な過程でし. テラン大統領時代の初期を除いて,基本政策に. た.実際,1970 年代の共同体の各種機関にお. 違いがなくなります.ちなみに,ジスカールデ. ける協議はこの問題をめぐって紛糾し,たびた. スタンは後年,自分の大統領時代に導入された. び暗礁に乗り上げます.しかし,統合のいわゆ. 経済政策路線を,それがドイツと同種のもので. る「深化」(経済政策および金融政策の収斂). あるという意味で「社会的市場経済」. と「拡大」(共同体加盟諸国の増加)の歩みは,. (économie sociale de marché)と呼んでいます.. 停滞や曲折はあったものの後退することはあり. 新自由主義というとマーガレット・サッチャ. ませんでした.これはなぜなのか.歴史文書を. ーやロナルド・レーガンの改革を連想し,それ. 読んでいくと,2 つの要因が重要な役割を果し. が英米起源であるかのように思いがちですが,. ていたことがわかります.. 私たちが現在進めている共同の歴史研究 によ 7). れば,そうではありません.新自由主義はまず. 政治の果たした役割. 戦後のドイツで採用され,次いで 1970 年代後. 一つは政治です.実務者たち,つまり各国を. 半からフランス,そのあと 1980 年代に入って. 代表する官僚たちの間の協議が膠着状態に陥る. 英米がつづきます.ただし,この遅れて登場し. と,最後に必ず政治が前面に出てきます.まず. た英米流の新自由主義には,先行する大陸ヨー. 欧州閣僚理事会が対応します.それによっても. ロッパのそれに比べて「市場原理主義」的性格. 事態を収拾できない場合には首脳会議で解決が. が強いという特徴があります.. 図られます.そして「妥協」 (compromis)―こ. それはともかくとして,新自由主義的政策の. れは共同体関連の内部文書にもっとも頻繁に登. 欧州共同体諸国への普及,このことが共同体の. 場する術語の一つです―のうえに統合を前進. 域内における経済政策および金融政策の収斂を. させることが確認されます.ひとたび政治によ. 可能にすることになります.要するに,共同体. ってこのような方向づけが与えられると,実務. 内における政策の収斂は新自由主義の普及と表. 者たちはかならず具体的な解決策をみつけま. 裏の関係にあったということ,これが私の話の. す.. 第二のポイント,つまり第二の問題にたいする. ところで,問題はその場合の政治とは何かで す.各国に共通しているのは,欧州が結束して 国際交渉の場で主導権を握るという政治目標で. 7)権上編,前掲書,参照.. す.通貨の領域でいえば,IMF に関係する重要.
(12) . 案件にたいして拒否権を握ることです.ちなみ. 因は,強力な官僚機構の存在ないしは国際交渉. に,EEC 加盟 6 カ国は当時,この拒否権を手に. に長けた有能でタフな官僚の成長です.フラン. 入れるべく,IMF の規約改正に必要な議決権を. スの中央官庁では,1970 年前後という時期は. 85 パーセントに増やそうと画策していました.. 大きな世代交代期にあたります.このころ,戦. 内部に大きな亀裂や矛盾があっても,多くの場. 後にキャリアを積んだ官僚が経済・財務省庁の. 合,最終的に共同体諸国が結束して行動できた. トップに座るようになります.. のは,こうした共通の目標のためです. 個別の国については,当然のことながら,そ. 戦後世代の官僚に特徴的なことは,彼らのキ ャリアのなかに国際機関が入っていることで. の国固有の政治的事情があります.たとえばド. す.たとえばニューヨークの IMF,ブリュッセ. イツについてみれば,当時の社会民主党のウィ. ルの EEC 本部などで,一定期間勤務経験を積. リー・ブラント政権が進めていた「東方政策」. んでいることです.財務省の高官や中央銀行の. ―すなわち,東側諸国との関係改善政策―. 総裁・副総裁たちはいずれも,こういった経歴. にたいして近隣諸国の理解を得なければならな. の人たちによって占められるようになります.. いという事情です.それゆえ,ドイツは欧州,. 彼らの一部は,そのあと,さらに IMF の専務. とくに隣国フランスとの協調路線をとらざるを. 理事,国際決済銀行の事務局長,最近では欧州. 得ない,ドイツがフランスとの妥協をくり返し. 中央銀行総裁といった,国際機関のトップに就. たのはそのためである―フランスの当局者の. くことになります.共同体の複雑で錯綜した機. 分析によればそうなります.また,すぐあとで. 構を動かしていたのはこういう人たちなので. 触れるフランスと違い,ドイツは分断国家とし. す.戦後世代の官僚の上層部に共通しているの. ての安全保障上の理由からアメリカとは常に良. は,国内のキャリアと国外のキャリアが一体化. 好な関係を維持する必要があった,という政治. しているという点です.. 的事情にも注意しておかなければなりません.. では,新世代と旧世代とではどこが違うので. 一方のフランスにも,ほぼ一貫した戦略があ. しょうか.元フランス銀行副総裁のアンドレ・. ります.その一つはアメリカの世界支配に楔を. ドゥ・ラットルが,回想録のなかで,自分の上. 打ち込むことです.この戦略はシャルル・ドゴ. 司だった総裁ジャック・ブリュネについて面白. ールが政権に復帰した 1958 年以降に鮮明にな. い人物評をしています.ラットルは戦後にキャ. りました.国際通貨の領域でそれがどのような. リアを積んだ戦後派の元財務官僚です.一方,. かたちをとって現れたかについては,すでにお. 総裁のブリュネという人物は,戦前から戦中・. 話しています.いま一つは,ドイツの圧倒的な. 戦後にかけて財務省でキャリアを積み,1960. 経済力を封じ込めることです.シャルル・ドゴ. 年から 69 年まで中央銀行の総裁を務めました.. ールの時代からフランソワ・ミッテランの時代. ラットルはこのブリュネを「偉大なる旧型人間」. まで,1966 年,1983 年,1990 年と,フランス. と評しています.理由はこうです―外国語を. は何度も統合をめぐって重大な岐路に立たされ. いっさい話さない,国際問題に関心がない,狩. ますが,その都度,この国が最終的に統合の前. 猟と車が大好きで,ウィークデーでも狩猟にし. 進を選択することになったのは,ドイツの経済. ばしば出かけた・・・8).ウィークデーに公務を離. 力を共同体の内部に封じ込めるという動機から. れるというのですから,彼のライフスタイルは. でした.このことは,すでに各種の歴史文書に. ブルジョワ的というよりは貴族的だったことが. よっても確認されています. 国家官僚の果した役割. 通貨統合に向けた前進を可能にした第二の要. 8)André de Lattre, Servir aux Finances, Paris, 1999, p.195 et 227.
(13) . うかがえます.これがフランスの旧型官僚の一. たのは専門委員会です.専門委員会は 1970 年. 典型というのですから,新型の官僚はその反対. 代前半には 5 つありましたが 9),なかでも重要. ということになります.私自身は官僚との付合. なのは通貨委員会です.通貨委員会は加盟諸国. いはありませんでしたが,大学教授については. の経済・財務担当省の次官・局長級の代表各 1. 彼らのライフスタイルを観察する機会がありま. 名および中央銀行副総裁級の代表各 1 名から構. した.ラットルの評はおおむね当たっていると. 成されています.この委員会には,これら各国. 思います.. 2 名の委員のほかに,彼らの代理者として,経. 共同体を運営している官僚たちについて,マ. 済・財務担当省の課長級代表 1 名および中央銀. スメディアはよく「ブリュッセルの官僚たち」. 行の局長級代表 1 名が,各国ごとに決められて. という言い方をします.あたかも彼らが,共同. いました.代理者たちは毎月開かれる通貨委員. 体を構成する諸国から独立して自由に共同体を. 会に陪席するとともに,この委員会の議題に技. 動かしているかのように言います.しかしこれ. 術的な検討を加えるための会合を少なくとも月. は,共同体の各種実務機関がブラック・ボック. 1 回開いています.この代理者会議とは別に,. ス状態にあることから生じた,多分に誤解だと. 通貨委員会には,特定の事項について継続して. 思います.つまり,いずれの機関の会合も完全. 調査・研究を行うための各国代表 1 名からなる. な秘密会で行われ,討議内容が明かされなかっ. 常設の作業委員会が 2 つ付置されていました.. たことによるものだと思います.. 通貨委員会以外の他の 4 つの専門委員会も,通. 私は 1970 年代についてだけですが,こうし. 貨委員会ほど強力ではないにしても,類似した. た実務機関の部外秘の会議記録をあらかたチェ. 構成をとっており,組織運営の仕方も似たよう. ックしました.共通しているのは,どの会議も. なものでした.. 具体的な国益を背景にした厳しい自己主張の場. EEC の実務中枢ともいうべき通貨委員会の. になっているということです.共同体の内部で. 委員がどのようなスケジュールをこなしていた. どれほど密度の濃い意見交換,いわゆる日本の. のか,フランス財務省の国庫局長を例にみてお. 官僚用語でいう「調整」が日常的に行われてい. きましょう.国庫局とは日本の旧大蔵省の銀行. るかは,意思決定の具体的な仕組みを紹介すれ. 局,国際金融局,理財局,証券局,造幣局のす. ばある程度おわかりいただけるでしょう.. べてを統合した部門で,その長である国庫局長. 共同体の意思決定機関はすでにお話したよう. は次官制度のないフランスでは官僚の事実上最. に欧州閣僚理事会です.閣僚理事会の会合は年. 高ポストとして知られています.したがってま. に 4 − 5 回開かれますが,それ以外にも必要に. た,このポストには官僚のなかでもエリート中. 応じて臨時の会合が開かれています.閣僚理事. のエリートが就任するのが慣例になっていま. 会の直接の事務を担当するのは欧州委員会とブ. す.. リュッセルに常駐する各国代表ですが,この機. 国庫局長は毎月ブリュッセルで開かれる定例. 関の諮問機関で,いわばその手足となって具体. の通貨委員会に出席しなければなりません.通. 的な案件の検討と各国間の調整を引き受けてい. 貨委員会の開始時刻は午前 10 時半です.国庫 局長はこれに間にあうよう当日の朝,パリ北駅 午前 8 時発の列車でブリュッセルに向かいま す.そしてブリュッセル駅に到着すると,駅か. 9)通貨委員会,中央銀行総裁委員会,短期経 済政策委員会,中期経済政策委員会,財政政策委 員会の 5 つです.ただし,1974 年に最後の 3 つの委 員会は統合され,新たに経済政策委員会が誕生し ます.. ら会議場のある EEC 本部に直行します.会議 が午後の時間帯の枠内で終れば,その日の夜に パリに戻りますが,会議が夜,さらには翌日の 午前にまでずれこむ場合にはブリュッセルに宿.
(14) . 結 び. 泊することになります.年に 4 − 5 回,開催都 市を変えて開かれる欧州閣僚理事会にも,国庫 局長は必ず陪席します.彼はまた IMF,OECD, G7,G10,G20 会議にも財務大臣とともに出席 しますが,それらの公式会議の前に開催される 実務者会議―この会議は公式会議に先立って 数回開催されることもあります―では,いわ ば主役として公式会議のための事前の準備や調 整にあたります. 通貨委員会を構成する他国の委員たちも,フ ランスの国庫局長とほぼ同じような国際的な職 務に従事していました.したがって通貨委員会 では,狭義の欧州通貨問題とともに,広く世界 全体の通貨問題が議題としてとりあげられてい ました.そして,通貨委員会はそうしたさまざ まな問題にたいする欧州諸国の共通の立場を確 認するか,あるいは共通の立場を模索したり形 成したりする場として機能していたのです. いうまでもないことですが,フランスの国庫 局長のように職務が国内と国外の両方にまたが り,しかも過密な会議日程をこなすことが求め られる役職は,「旧型人間」では務まりません. 共同体の諸機関を舞台にくり広げられる調整 がどれほど濃密なものかは,残されている歴史 文書の量をみてもわかります.私自身の経験に もとづいて大雑把な印象をいえば,フランスの 側から通貨統合に関する博士論文―ただし, 旧論文博士論文で,出版された形態で 350 頁程 度の論文―を書こうとするなら,少なく見積 もっても 200 − 300 箱分の歴史文書をチェック する必要があります.各箱には 700 − 800 枚の 文書が入っていると考えてください.もちろん, 必ずしもすべてを丁寧に読む必要はありません が. 要するに,政治の優位,実務官僚が果す決定 的な役割,これが国家主権の委譲をともなうよ うな大事業を可能にした要因である,というの が最後の問題にたいする回答になります.. 私はつねづね,学部生や院生の論文指導にあ たって,必ず結論を書きなさい,結論のない論 文や学術書を読むときは眉につばをつけて読む ように,と言ってきました.そうした手前,最 後に結論めいたことを話さなければなりませ ん.そこで 3 点ほど指摘し,この講義を締め括 ることにします. 第一は,通貨統合は経済問題である以上に, あるいはそれ以前に政治問題だったということ です.実は,このことは欧州経済共同体の閣僚 理事会でも専門委員会でも,当事者たち自身が 会議の場でくり返し確認しあっていたことなの ですが,私自身も歴史文書を読むことによって 確認することができました.それは,通貨統合 が何よりも国家主権の制限や委譲をともなう問 題である,というところに淵源があると私は考 えています.誤解を避けるために言っておきま すが,政治が重要な役割を果たすということは, 国家間の関係が良好でなければ統合が前進しな いという意味ではありません.逆に,特定の国 との関係が良好でないがゆえに他の諸国と語ら って統合に肩入れせざるを得ないことも,政治 の世界にはあるのだということを,欧州通貨統 合史は教えています. 第二は,通貨統合の進展にともなって,国民 国家はどう変わったと考えるべきなのか,とい う問題に関係します.これはとてもやっかいな 問題です. 統合の進め方については,「連邦主義」と 「連合主義」という 2 つの対立する考え方があ った,ということが言われます.連邦主義とは, 統合への参加国が一つの強固な共同体を形成 し,この共同体に国家主権を委譲するという考 え方です.これにたいして連合主義は,参加国 の主権を尊重した緩やかな統合をめざそうとす る考え方です.しかし歴史家にとってあくまで も重要なのは,制度や形式よりも実態です.こ の実態いかんという観点からしますと,逆説的 に聞こえるかもしれませんが,私は人が考える.
(15) . ほど国民国家のレベルで特段大きな変化が生じ. 実は,19 世紀以来の制度化された職業団体,. ているとは考えません.理由は 3 つあります.. 具体的には労働組合と使用者組合―日本では. 通貨統合によって,たしかに個別の国家の経. 後者を一般に経済団体とか業界団体と呼んでい. 済政策には制約がかかり,政策の「自律性」は. ます―の衰弱です.これは新自由主義の創始. 大きく損なわれているようにみえます.しかし. 者たちがすでに 1940 年代に予見していたこと. 共同体の経済政策の目標は各国間の調整によっ. でもあります.というのは,今年の学部の講義. て決められるわけですし,そもそも調整が可能. で詳しく説明したことですが,世界史的にみれ. なのは各国が新自由主義的政策を選択するよう. ば,職業団体というのは,独占を容認するタイ. になっているからにほかなりません.したがっ. プの自由主義が台頭するようになって法律で認. て,必ずしも経済政策の自律性が損なわれてい. められたものであり,それ自体が多かれ少なか. るとみる必要はないと考えるのです.これが一. れ独占的な要素であるからです.たとえば,使. つの理由です。. 用者組合の歴史は,欧州においては一般にカル. 次に,共同体を支配しているのは新自由主義. テルの歴史と重なっていました.使用者組合は. 的なルールですから,個別の国家は自身の領土. 同時にカルテル組織だったのです.したがって,. 内では「積極的な国家」としての役回りを演じ. 市場機能の強化が叫ばれ,独禁法が厳格に適用. ることを求められている,と考えられます.つ. されるようになれば,使用者組合の求心力は弱. まり,統合によって国家機能が弱体化している. まることになります.. とはいえない.これが二つめの理由です.. 問題は,職業団体という,自生的でかつ制度. 三つめの理由は,共同体の枠組みのなかにお. 化された社会的結合組織を欠く社会が,はたし. いても,国家の行動様式は基本的に変わってい. て安定するかどうかです.というのも,これら. ないであろうということです.1970 年代にお. の団体は,社会が存立するための基本的な要素. いては,各国は自らの意思をまず共同体に反映. である「ソリダリテ」(社会的連帯)―フラ. させ,次いで共同体を通じて国際社会に反映さ. ンス人はこの言葉をとても好んで使います.日. せようとして,各国の官僚たちがブリッュッセ. 本の伝統的な言葉で言い換えれば「思いやり」,. ルを主要な舞台に,しのぎを削っていました.. 「助けあい」,「支えあい」です―の重要な部. こうした実態はその後も変わっていないであろ うということです.このことは,理念や理想を. 分を,これまで体現してきたからです.そして ... また,職業を基礎とする自主的な社会的結合組. もたない国にとって共同体はあまり居心地のよ. 織を欠いた近代社会としては,私たちはファシ. い場所ではない,ということを意味します.. ズム下の社会しか知らないからです.したがっ. さて,社会科学というものは,根本において. て問題は,職業団体抜きで,あるいは弱体化し. 人間と社会を問う学問だと私は考えます.した. た職業団体のもとで,社会的連帯をどのように. がって,通貨統合について問うべき最後の問題. して再構築するか,そこにおいて公権力はどの. は,統合によって欧州の社会は,そしてまたそ. ような役割を果たすべきか,ということになり. れを構成する個々の人間の運命は,どう変わっ. ます.欧州では「社会的欧州」を創る取組みが. たのか,あるいは変わりつつあるのか,という. 盛んですが,これはまさにこの問題に回答を出. ことになります.これが指摘しておきたい最後. そうとするこころみだと私は考えています.し. の点です.. かし,これまでのところ,順調に進んでいると. この問題を考えるヒントの一つは,通貨統合. は言えないようです.. の進展は欧州諸国への新自由主義の浸透と表裏. 最後に,1960 年代および 70 年代の歴史文書. の関係にあったという事実にあります.新自由. を読むことによって,私は当時の自分が認識し. 主義の普及と定着から生じるもっとも顕著な事. ていた世界と異なる歴史像を得ることができた.
(16) . であろうか,という冒頭で触れた問題に答えて. んで前進する〔ヨーロッパ〕以外のヨーロッ. おきます.時間がありませんので,結論だけし. パはあり得ません.…他の加盟国の代表たち. かえ言えませんが,両者は大きく違っていまし. にはこう言ってやるべきです.皆さんは自分. た.おかげで,歴史的アプローチという私の専. たちの事業を転覆させようとしているので. 攻領域の素晴らしさ,あるいは偉大さをあらた. す.もしも南仏で騒乱が起これば,ブドウ栽. めて確認することができ,大いに満足している. 培農民と対峙することになるのは〔ヨーロッ. ところです.落ちもついたことですし,これで. パ委員会委員長の〕マルファッティ氏ではあ. 私の話を終えることにいたします.. りません.共和国保安機動隊(CRS)を送る のは〔フランス〕政府になるでしょう.悪く. 参考資料. 大統領ジョルジュ・ポンピドゥーの. 閣議発言(1970 年 12 月 9 日). するとフランス政府が倒壊するかもしれませ ん,と.彼らにはこう言ってやるべきです.. …本当に,段階を踏んで前進する同盟. お静かに.ヨーロッパについておしゃべりす. (union progressive)が必要なのだということ. るよりもヨーロッパをつくろうではないです. です.不均衡は日々にあり,個々の国家がそ. か,と.…ヨーロッパには,国家が政治的責. れを是正しているのです.というのは,こう. 任―すなわち物事の進化を人々が受け入れ. した不均衡から政治面で打撃をうけるのは国. られるようにする責任― を負う連合形態. 家だからです.共同体をここ〔ウェルナー報. ( une forme confédérale )しかあり得ません.. 告〕に示されているような超均衡状態にある. 他の加盟国の代表たちは国内に問題を抱えて. 厳格な予算をもったものにしようとすれば,. いないのかもしれませんが,政府の役割は悲. フランスやイタリアでは共産主義者たちが権. 劇を回避することです.… 1968年 5 月〔危機〕. 力の座に就くことになるでしょう.それを変. がまた起これば,そのときの〔労働総同盟書. えられるのは共同体ではありません.野蛮で. 記長〕セギュイと交渉することになるのはマ. 統制のきかない資本主義は受け入れられませ. ルファッティ氏ではありません.われわれは. ん.さもなければ,まずイタリア,次いでフ. 機械を統治しているのではないのです,われ. ランスの国内で政治的反乱が起こるでしょ. われは人間を統治しているのです.… 10). う.おめでたい人たちに言っておかねばなら. (〔. 〕内は筆者による補足). ないのは以上のようなことです.…段階を踏. (横浜商科大学商学部教授・横浜国立大学名誉教授). 10)Compte rendu du Conseil restreint sur les affaires économiques du 9 décembre 1970. Cit. par Robert Frank, ‹‹Pompidou, le franc et l’Europe, 19691974››, in Georges Pompidou et l’Europe, colloque des 25 et 6 novembre 1993, Paris, 1995, p.352-353..
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