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デリダの哲学における発生の問題

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Academic year: 2021

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(1)兵庫教育大学研究紀要第22巻2002年3月pp.85-1(刀. デリダの哲学における発生の問題 Le problとme de la genese dans la philosophic de Derrida. 森秀樹* Hideki MORI. Derrida est considere comme representant de la philosophic posトmoderne et est connu comtne penseur qui deconstruit la metaphysique europeenne. Mais il est aussi notoire que les premiとres oeuvres de ce philosophe qui a commence sa pensee par la lecture de la phenomenologie de Husserl sont ecrites avec le style philosophiquement classique. Dans ce contraste apparait la difficulty d'interpreter sa philosophie. On peut la situer dans le cadre de la philosophie classique? Pour etre juste a l'egard de la pensee nouvelle, il faut un autre cadre? Dans cet article, nous nous essayons a la situer dans l'histoire philosophique de la premiとre moitie du vingtiとme siとcle et A interpreter sa premiとre pensee dans la continuite avec la philosophic classique. Avec sa theorie de la "difference'', Derrida a prouve que le fondement onto-theologique de la metaphysique echue. On pense souvent que cette theorie nie la metaphysique traditionnelle. Mais Derrida a developpe cette pensee par la lecture attentive de la phenomenologie de Husserl D'une part, Derrida montre certainement que la reduction phenomenologique tombe dans la contradiction. D'autre part, ce n-est pas pour nier la tentative phenomenologique mais pour enrichir les analyses de la phenomenologie. En effet, il trouve les rapports multiples entre les representations dans le domaine transcendantal. En plus, ll extrait de Husserl lui-meme le point de vue pour interpreter et critiquer Husserl. Dans ce sens, on peut dire qu'il ne me pas la philosophie traditionnelle mais s'engage dans le mouvement philosophique.. キーワード:デリダ差延発生フッサール現象学 Key words : Derrida, difference, genとse, Husserl, phenomenologie. 序章デリダの哲学の位置づけ. である(第三章)。そしてさらに、このフッサールの思 索自体も彼に独自なものというよりも、むしろ、当時の 思想の様々な流れの中で形成されてきたものである。だ. デリダは、構造主義以降の現代哲学の代表者であると 考えられ、西洋の形而上学の脱構築(deconstruction)を. とすれば、デリダの思想は、当時の思想の諸潮流が持っ. 行った思想家として知られている。そのため、彼の思想 は、評価を受けるにしても、批判を受けるにしても、時. ていた「共通感覚」の自己省察として「発生」してきた ということになる。このように考えるならば、デリダは、. 代を画するものとして受け取られてきた1。しかしなが. 哲学の伝統を否定したというよりも、哲学の自己形成に. ら、これまた周知のように、彼は自分の思索をフッサー. 参与していると解釈すべきだということになる(第四. ルの読解から出発させており、その初期著作は哲学の古. 車)0. 典的なスタイルを取っている。このような対比の中に、 デリダの思想の位置づけの困難さが現れている。そこで、 本論では、 20世紀初頭のヨーロッパ哲学の潮流の中にデ. 第一章初期デリダの思想. リダを位置づけることによって、彼の思想が、この流れ. この車においては、デリダの思想の「発生」を考察す るための準備として、初期デリダの思想の理論的到達点 をまとめておくことにする。. の中でその本質を析出するという仕方で、 「発生」して きたということを明らかにし、それを通してこの間題に 取り組むことにしたい。. 初期のデリダの思想は差延(differance)の思想として 集約することができる。それは、第一義的には、記号に ついての理論である。記号は、一般的に、現前するもの を、それが不在であるところにおいて、代理するもので. まず、準備として初期デリダの思想の理論的到達点を まとめておく(第一章)。デリダのこのような理論はフ ッサールの現象学との対決(Auseinandersetzung)におい て形成された(第二章)。ただし、デリダはこの対決の. あると規定されてきた(cf. MG9)Cこのように記号を規 定することによって、現前するものとそれを代理する記 号との区別が明確化されるとともに、前者の現前するも のがまず存在し、それを代理するために記号が派生した. 観点をフ、ソサ-ル自身の思索の中から抽出している。そ のため、デリダによる現象学批判は、フッサールによる 自己省察でもあり、現象学の本質を顕わにするものなの *兵庫教育大学第2部(社会系教育講座). 平成13年10月22日受理. 85.

(2) 秀樹. ォ. という図式が生じることになる。例えば、アリストテレ. 中で、その内実が充実されてくるようなものなのである. スによれば、 「事物」は「霊魂の様態」によって反映さ. (cf. VP98-99) 。. れ、その「霊魂の様態」は「音声」によって象徴され、. このようにして、言語の根源を求めていくと、自明で. その「音声」は「書かれたもの」によって象徴される。. あると思われていたく意味されるもの(signifie))といえ ども、何か別のもののもとにもたらされ、その別のもの. そして、 「書かれたもの」は、 「音声」や「書かれたもの」 あるいは「事物」の様態と比べれば、派生的なものでし. もまたさらに別のもののもとにもたらされるという風. かないと見なされる2。このように、 「自己への現前. に、根源は差異の戯れの内に消滅してしまうことになる. (presenceえsoi)」あるいはそれに対応する「音声」から 出発して、その代理をするものとして記号を考える立場. (cf. GR54-55),デリダはここにおいて二つの事態が生 じていると言う。一方において、記号は差異化によって. を、デリダはロゴス中心主義(logocentrisme)、音声中心. 分類の空間が開かれてくること、間隔化(espacement)に よって可能となる。そして、他方において、一般に根源. 主義(phonocentrisme)と呼んでいる(cf. GR22f.)。同様 の考え方は古代ギリシアのプラトンから、ルソーを経由. 的であるとされ、直接現前すると考えられていたものは、. して、 20世紀のフッサールに至るまで、広範に見られる. 実質的には記号を経由して間接的にのみ規定されうるの. (cf. GR147, PSl l)。. であった。このような意味で、直接的現前は実は後から. これに対して、デリダは、ソシュールにならって、現. 遅れてやってくる。デリダはこのような遅れを待機. 前するものは差異によって可能となると指摘し、上で見 たような記号をめぐる序列関係を批判的に吟味する3。. (temporisation)と呼ぶ。フランス語のdiffererという動 詞には「(と)異なる」という意味と「を延期する」と. まず、デリダは、自明であるとともに、根源的であると. いう意味とが含まれており、この二つの事態を同時に表. されている意義(Bedeutung, vouloir-dire)の現前がどの ようにして可能となるのかを考察する。確かに、自然的. 現できる。そこでデリダはこの二つの事態を表す名詞と してdifference (差延)という語を造語し5、以上におい. 態度において、私たちは自分が思念している意義を自明. てみたような記号の戯れを表現するのに用いる(cf.. なものと見なし、それを表現にもたらしているのだと考 えている。しかしながら、いざその意義の内容を具体的. VP98, MA8, PO17-18)。 「記号作用の運動が可能となる のは、現前性の場面に現れる「現前する」と言われる. に規定しようとすると、その意義を別の意義と関連づけ. 各々の要素が、それとは別の他のものに関係することで、. ざるをえない。そして、その別の意義を規定するために. 過ぎ去ってしまった[別の]要素の印を自分の内に保存. はさらに別の意義に遡及する必要が生じる。このような. するとともに、来るべき[別の]要素との関係の目印が. 意味で、意義の内実は他のものとの関係の内においての. すでに自分に刻み込まれてしまっているようにさせる、. み規定されうるのである(cf.PO37f., MAll)cデリダは この事態を以下のように記述している。 「いかなる概念. そういった場合のみであるが、差延こそこのような事態. も、権利においても本質においても、何らかの連鎖ある. 考えるならば、現前するものは差延の運動によって生み. いはシステムの中に書き込まれている。そしてのそのよ. 出されるということになる(cf.MA12,VP116,PO39)。. を生じさせるもののことである」 (MA13)Cこのように. うな連鎖やシステムの内部において、その概念は、諸差. しかしながら、このように現前性を可能ならしめる差. 異のなすシステムの戯れを介して、他のもの、他の諸概. 延そのものは、もはや現前しない(cf. MA6, MA12)Cそ. 念を参照するように指示する」 (MAll)。 デリダはこのような差異による意義の産出を、代補. のような意味で、デリダは差延は語でも概念でもないと. (supplement)の論理を使って説明している40代補とは、 く欲望の対象となりながらも、末だ獲得されていないよ. 而上学によっては規定しえない。 「[通常用いられる. うなものの代理をなすもの)の.=とであるOこの対象は 欲望されつつも、それ自身としては不在であるため、そ. eという]差異は書かれたり、読まれたりするが、聞か. の具体的な内実は末規定なままである。この対象は、代 補されることによって理念化され、そのことによってさ. pas)。人はこの差異を聞くことができない。この差異が 悟性の秩序を超えているのがどういう点においてなのか. らなる欲望を駆り立て、追求されることになる。そして、. については後に見ることにする」 (MA4)。このように差. 言う(cf. MA3)。そのため、差延は現前性に依拠する形 difference差異)とdiffeance (差延)との間にあるaと れはしない[悟性によって把握されない] (ne s'entend. この追求の過程において、その内実が徐々に具体的に規. 延はかろうじて痕跡として、差延が引き起こす諸効果を. 定されるようになっていく。ここにおいては、代補が先. 通してしか思惟されえない。それゆえ、このような差延. 行しており、具体的な内実の充実は後からやってくると. は、明証的な現前ゆえに特権的であるとされる存在者の. される。この論理は記号においても当てはまる。すなわ. 上に諸存在者を基礎づけようとする、形而上学による存. ち、記号において意味されるものは、本来形式的なもの. 在・神学的な基礎付けを揺るがせることになる。 「超越. でしかなく、記号を介して語られ、具体的に用いられる. 論的なく意味されるもの(signifie))の不在を戯れと呼ぶ 86.

(3) デリダの哲学における発生の問題. 形而上学から脱出しようとしているかのようである。ま た、差延によって基本諸概念の間にアポ1)アを指摘し、. ことができる。この不在は戯れが無際限になることであ り、存在・神学(onto-theologie)や現前性の形而上学を. 相対化するその方法論は、真理を解明するという立場と は対照的であるように思われる。このような意味におい て、デリダの思想は時代を画するものとして理解されて きたのである9。. 動揺させることである」 (GR73)c西洋の形而上学は存 在・神学的な基礎付けに依拠し、これを撹乱させるよう なものを排除してきた6。例えば、音声中心主義はエク リチュールを排除し(cf. GR58-59)、現前性の形而上学 としての現象学は自然的態度における定立を排除してき. 第二章現象学の脱構築. た。しかるに、これらの排除されてきたものは、差延に おいて、現前性の可能性の条件として再び回帰してくる ことになる7。このように、デリダは差延を指摘するこ. 第一章において見たデリダの理論は、フッサールの現 象学との対決において形成されたものである。この章に おいては.デリダの思想がフッサールの現象学の読解と それに対する批判から形成されたことを明らかにする。. とによって、形而上学による排除を批判し、存在・神学 的な基礎付けが遂行矛盾に陥ることを示す。 以上において見てきたように、差延は第一義的には記 号についての理論であったoしかしながら、フッサール. (1)現象学的還元 フッサールにとって、現象学とは、現象学的還元. においてそうであるように、記号は思索の一分野にとど まらない8。むしろ、それは思考の可能性の条件をなす ものとしてとらえられている。思考は記号なくしては不. (ph云nomenologische Reduktion)によって、あらゆる現 象が生起する原領域Ⅳ汀egion) (ID159)としての超越論的 意識の領野に遡及し、そこにおいて諸現象の構成 (Konstitution)がいかに行われているのかを明らかにする 営みである。その意味において、現象学的還元は現象学 にとって本要的な位置を占めている。さて、フッサール によれば、現象学的還元とは、自然的態度において行わ れている定立を括弧入れする(einklammern)ことである (cf. ID60-66)c自然的態度においては、様々な存在定立 が行われ、様々な判断が下されてしまっているが、それ らは必ずしも「原理の原理」 1°に基づく明証性をともな っているとは言えない。そこで、諸現象の現れにおいて 働いている定立を一旦停止させ、それでも残される諸現 象の間の関係のみを抽出しようとするのである。言い換 えれば、現象学的還元とは、自然的態度における定立と いう不純なものを分離することで、超越論的領野という 純粋な領野を抽出する作業であると言うことができる。 フッサールが現象学的還元の構想を明確に記述するよ うになるのは1907年の『現象学の理念』においてである. 可能なのである。だとすれば、差延の思想は思考一般に ついて論じているということになる。 古代ギリシアから現代にまで及ぶ西洋の形而上学の伝 統は、一連の対立項を基本的な枠組みとして、展開され てきた(cf. MAI8, GRI04),このような基本的な対立項 として、デリダは、叡智的なものと感性的なもの、概念 と直観、文化と自然、ノモスとピュシスなどを指摘して いる(cf.MA18)Cそして、その際、形而上学はこの対立 項の内の一方を他方よりも根源的であると見なしてき た。 しかしながら、以上において見てきたように、一連の 対立項もまた差延の働きによって構成されたものであ る。ここにおいて、デリダは二項対立から出発するので はなく、その対立そのものが産出されてきた運動そのも のに遡及する必要性を指摘する。 「哲学は様々な対立項 の組に基づいて構築され、私たちの言説もまたこのよう な組を糧としているのであるが、このような対立項の組 を捉え直してみることができるだろう。すると、そこに おいて見えてくるのは、対立の消去ではなく、対立項の. (cf. IP9)。しかし、デリダは、現象学的還元の萌芽とも 呼べるものは1900年の『論理学研究』第一研究「表現と 意義」の中にすでに兄いだされると主張する。逆の言い. 一方が、他方の差延として現れてくること、すなわち、 く同じもの(le meme))の[固有なものの法則という意味. 方をすれば、第一研究における分析のあり方を理論的に 純化させたものが、厳密な意味での還元となるというの である。 認識(そして、そこにおいて思念されている意味)を 忠実に言語的表現にもたらすことは学問にとって不可欠. での]エコノミーにおいて差延された他方として現れて くる(例えば、叡智的なものは、感性的なものの差延す るものとして・--現れてくる)ことが必然であるという 必然性の告知である」 (MA18)(cf. MA5, P017)cこの ように、デリダは西洋の形而上学が差延に依拠していな がらも、差延を排除し、それについて思惟してこなかっ たと指摘している。. なことである(cf. LUII8)。そこで、 『論理学研究』の第 一研究は、そのような意味で学問の可能性の条件ともい. 以上のようなデリダの思想に基づけば、形而上学は自 己完結しえないということになる。このような意味で、. える「表現(Ausdruck)と意毒(Bedeutung)との諸関係」 (LUII19)を主題としている.. デリダの思想は形而上学批判であるかのごとくであり、. それによれば、表現は記号(Zeichen)の一形態である 87.

(4) 秀樹. 義. いとし、伝達が依拠している物理的側面を排除すること によって、初めて純粋な表現が現れてくると考えている。 「意味によって生気づけられた表現の具体的現象は、一 方においては、表現を物理的側面に従って構成する物理. が、すべての記号が表現であるわけではない(cf. LUII30)。 ここにおいてフッサールは表現と指標(Anzeichen)とを 区別している。フッサールは様々な指標の例を提示した 後に、それらに共通する特徴を以下のよ.うに述べている。 「誰かが、何らかの対象あるいは事態の存立について顕 在的な知見をもっているときに、このような存在につい ての確信や推測が別な存在の確信や推測をさせる動機づ け(しかも、洞察的とはいえない動機づけ)として体験. 的現象と、他方においては、表現に意義を与え、場合に よっては直感的な充実を与える-・-作用とに分かれる」 (LUII43-44)cこのようにして、フッサールは、純粋な表 現を意義賦与作用(die bedeutungsverleihenden Akte)と. されるとすれば、最初の対象や事態はその人にとってこ の別の対象や事態の存立を指標しているということにな るが、そのような事情が[指標の場合には]共通なもの. 意義との相関関係として捉えるに至るIIoすると、純粋 な表現は主観の思念する作用によって支えられるという ことになる。この事態をデリダは「意味は、自分を意味. として兄いだされる」 (LUII32)cさて、このような指標 の場合、記号とそれによって指示されたものとの関係は 必然的であるとは言えない。まず、事態Aが事態Bの指 標となっているとされている場合でも、この二つの事態 の間に「客観的な必然性が洞察されるような関係」 (LUII33)が存立しているとは言えない。そしてさらに、. することを意志する(vouloir se signi丘er)。意味が自分を 表現するのは、意味の現前において自分のことを語ろう と意志する(un vouloir-se-dire)ことにはかならない意義 作用(un vouloir-dire)においてのみである」 (VP37)と記述 している120そして、ここに至って、表現と指標との差 異が際だってくると指摘する(VP37)。すなわち、指標を 表現から分かつものは、生ける現在としての自己に直接. 指標は、 「観念連合(Ideenassoziation)」にその起源を持 つ事態の存立同士の連結を介して(cf. LUII35)、それ自体 は現前しない事態の存立を指示するものであり、明証性 を欠いている(cf. VP31-32),このような記号は純粋とは 言えない。そこでフッサールは記号から指標的な要素を 排除することで、 「純粋な表現(bioBe Ausdriicke)」 (LUII17)を抽出しようとする。 ただし、表現と指標との区別は実体的なものではなく、 機能的なものである。そのため、一般に表現と見なされ る場合においても、指標性が見られることがある。例え. は現前しないという点にあるのである(cf.VP40,VP43)c このようにフッサールは、第一研究において、存在定 立に関わるがゆえに不純とされる指標的要素を表現から 排除することによって、自己への現前のみに依拠する純 粋な表現を抽出している。これに関して、デリダは「独 話への還元は、経験的、内世界的現実存在の括弧入れで ある」 (VP47)と指摘している。このような意味で、フッ サールが『論理学研究』において遂行している純粋な表 現の抽出は、後に見られる現象学的還元の先行形態なの. ば、発話の場合がそうである。 「精神的交流をまずもっ て可能にし、 [対話者同士を]結びつける発話(Rede)を まさに発話たらしめているのは、発話の物理的な側面に よる媒介によって可能となる、お互いに交流し合う人格 に共に属している、物理的な体験と心的な体験との間の. である(cf. VPl, VP78)。. 相関関係である」 (LUII39)cこのように発話においては 例えば音声といった物理的なものを媒介として意味の伝 達が遂行されるため、 「あらゆる表現は伝達的な発話に. デリダが『声と現象』において遂行しているフッサール. おいては指標的なものとして機能する」 (LUII40)ことに なる。そこで、フッサールは指標的要素を伴っていない 純粋な表現を抽出するために「孤独な心的生(das einsame Seelenleben)」に注目する。彼の記述によれば、 ある表現は、たとえ孤独な心的生において、発話されず に思念されるだけであっても、対話の場合と同様な意義 を伴っている(cf. LU41)C 「あらゆる発話及びその部分は ・--表現である。その際、発話が現実的に発話されるか どうか、したがって、伝達という目的のもと何らかの人. ことになる。その際、デリダは、フッサールの還元を愚. (2)デリダによる還元批判 (1)において、フッサールによる純粋な表現の抽出 は現象学的還元の先行形態であることを見た。かくして、 の表現概念の検討は、単なる記号の分析にとどまるもの ではなく、むしろ、現象学全体の検討という役割を担う 直に通行することを試み、結局はそれが遂行矛盾を引き 起こすことを証示する。 フッサールは、実在に関与するがゆえに不純であると 見なされる指標を排除することで、純粋な表現を抽出し ようとしていたが、デリダは、このような峻別が遂行矛 盾に陥ってしまうことを示している。 すでに見たように、フッサールは純粋な表現を意義賦 与作用と意義との相関関係として捉えていた。そこにお. に向けられているかどうかは問題ではない」 (LUII37)。 一方において、フッサールは、表現がその使命として. いては、現実に存在するものによってその表現が充実さ. いる機能は伝達であると認めながらも(cf. LUII39)、他方 において、その基本的機能を遂行する表現は純粋ではな. VP200)。それどころか、実在への関与を不純と見なすフ ッサ-ル立場からすれば、直観という現実的存在者との. れていることは必ずしも必要な条件ではない(cf.. 88.

(5) デリダの哲学における発生の問題. ではない。現象学の本質をなす超越論的還元もまた同様 なアポリアをはらむことになる。 現象学は、自然的態度による定立を排除することによ って、超越論的領域の抽出を行う。この抽出が可能とな るためには、排除されるべき不純なものと残されるべき 純粋なものとの峻別が可能でなくてはならない。しかる に、自然的態度が現象学的還元に混入することは不可避 である。さしあたり、三つの次元において混浦を指摘す ることができる。 まず第一に、超越論的領域において確保されるべき純 粋な意味の内実が規定されるのは、現実の体験を通して であり、そこには常に自然的態度が混入してしまってい る(この点については既に上で述べた)0 そして第二に、現象学的還元の遂行において用いられ る諸概念(主観性、領野、現象など)の理解は、自然的 態度の中で修得された諸概念の理解に依拠している。 例えば、現象学的還元という観念は「自己への現前」 を根源的な明証と見なすモデルから発想されているOそ のため、フッサールは、還元によって抽出されるべき超 越論的領域を超越論的意識(das transzendentale BewuBtsein)あるいは超越論的主観性(die transzendentale. 関わりは意味の世界から排除されるべきものですらあ る。ここにおいて、デリダは、フッサールが「意義作用 (vouloirdire)を「充実」させる直観的認識作用を、表現 の「非本質的構成要素」として、働きの外に置いている」 (VPIOO)と指摘するO ただし、このように、現実的存在者への関係を意味の 領域から排除することを徹底させていくと、意味はその 具体的な内容を喪失し、形式化してしまう。というのも、 意味が具体的な規定を受けるのは、それが対象と関係づ けられ、その対象が持つ他の対象との様々な関係を経由 することによってのみであり、このような対象への関係 を排除してしまえば、最後に残るのは形式的な自己同一 性「AはAである」のみだけであるからであるl.iそれ どころか、無内容な形式性にこそ表現の独自性があると 考えることも可能である。対象への関係を排除しうるか らこそ、 「丸い三角」といった表現が意味を持ちうるの である14。 表現の純粋化は意味から存在を排除することを試みる が、それを徹底させるならば、意味は全く形式的なもの となってしまう。そして、意味は何も意味しないことに なってしまう。意味は存在によって支えられているから こそ、何ものかを意味することができるのである。その ような意味で、意味と存在の混清は避けられず、完全な. Subjektivit丘t)として理解していた.しかるに、 「私」は 具体的、個別的存在者であり、自分に先行する世界の中. 純粋化は不可能である。. で生まれ育つことによって、自分を形成するようなもの. このようなアポリアに対して、フッサール自身は必ず. である。また、フッサール自身が指摘しているように. しも自覚的ではない。一方において、意義充実作用を非. 「私」という概念自身が「偶因的(okkasionell)」であり、. 本質的であるとしながらも、同時に他方においては、. 状況依存的である(cf. LUII85-92)Cこのように、純粋な. 「表現とその対象性との関係が現実化されている場合、 意味によって生気づけられた表現は、意義充実作用と一. 領域としての主観性を記述するためには、それが可能と なる状況にも言及しなくてはならない。しかるに、 「私」. 体化している」 (LUII45)とも述べている。意味と直観と. は「自己への現前」の可能性の条件であるため、 「私」. は相互に独立なはずであるにもかかわらず、フッサール においては暗黙の内に融合されてしまっている。意味の. のこのような汚染はあらゆる表象に伝染してしまう(cf.. 形式的同一性が保持されつつも、直観によってその内容. の現前」を明証性と見なす、このモデル自身が自然的態. が保証されるとされる。そして、まさにこのような形式 的な意味と直観による充実との暗黙理の融合こそが、. 度の中で構築されたものである。もちろん、超越論的領 野を主観性と結びつけてしまっていることを問題視し、. 「自己への現前」を可能ならしめる。. これを批判することは可能である。超越論的領野の内部. LUII91)。また、それだけではなく、そもそも、 「自己へ. このように、フッサールにおいて」表現の純粋化が遂. において構成されるべき-存在者に過ぎない「私」が超. 行矛盾に陥らずにすんだのは、彼が「自己への現前」の. 越論的領野を構成するとすれば、それはパラドックスで. 名の下に、暗黙裡に形式と直観とを融合させていたから. あるからである。しかしながら、たとえ、主観性への関. である。しかしながら、このような暗黙裡の結合こそ、. 連を排除するにしても、混清を排除することは不可能で. 自然的態度に他ならない。自然的態度を完全に排除する. ある。還元を構成する、 「領野」、 「現象」、 「明証性」と. ような仕方で、表現の純粋化を遂行するとすれば、それ. いった諸概念もまた自然的態度の中で形成されたもので. は無意味に陥ってしまうであろう。逆に、内実を保持し. あるからである。もしも仮に、超越論的還元において自. うるように純粋化を通行するとすれば、自然的態度の混. 然的態度に由来するものの密輸を厳密に禁止してしまう. 入が不可避となってしまう。このように、意味の世界は. とすれば、そこにおいて必要となる諸概念自体が了解不. 対象の世界と絡み合うがゆえに内容を備えた意味の世界. 可能なものとなってしまうであろう。現象学的還元を遂. として成立しうるのである。. 行するのは、自然的態度において生まれ育った現象学者 なのである。. このような問題は、表現の領域だけに限定されるわけ. Si).

(6) 義. 秀樹. フッサールは、透明な媒体の役割を担いうる純粋な表. はないからである。この差異を導入することによって、. 現を抽出することを目指していた。しかしながら、実際 の所、現象学の諸概念は生活世界において用いられてい る言葉を比喰的に転用したものでしかありえない15。 「超. 完全とは言えないとはいえ、考察を開始することが可能. 越論的言語」は「自然的言語」を密輪してしまっている。 このような事情から、フインクは現象学における言語の 吟味が必要であるとする16。デリダはこのようなフイン クの仕事を受け継ぎ、それを徹底化させる。その結果、 吟味によって、純化が可能になるわけではなく、むしろ、 超越論的な言語と自然的な言語との混清は不可避である と考えるようになる。. (un en-deァえ)」と「あちら(un au-deえ)」を区別すること ができると言う。 「「あちら」が「こちら」へと逆戻りし. となり、それに伴って、考察自身の吟味も可能となる。 このような意味で、デリダは超越論的還元の「こちら. てしまわないようにするためには、ねじれの内に道程 (parcours)の必然性があるということを認めることであ る。この道程は、テクストの中に航跡(sillage)を残して いくはずである。仮にこのような航跡が無いとすれば、 超・超越論的テクストは、それがもたらす諸帰結の単純. さらに第三に、現象学的還元の遂行自体、あるいは、 思惟それ自体が自然的世界の中で通行される一つの実践 である。自然的世界の中で生まれ育った現象学者が現象 学的還元を遂行し、そのことによって、自然的世界に変 容を加える(この点については、第二章(3)を参照)0 ここにおいても、混浦は不可避となる。. な内容に切りつめられてしまい、前批判的なテクストと 敢り違えられてしまうほど、それに似てしまうことであ ろう【しかし、実際にはそうはならない]」 (GR90)cな るほど、還元が行われることによって生じるコンテクス トを考慮に入れず、不純なものの排除という観点だけか ら見るならば、還元の前後を区別をすることは困難であ ろう。しかしながら、前後のコンテクストを考慮に入れ. 現象学的還元とは、自然的態度における定立という不 純なものを排除することによって、超越論的領野という 純粋な領域を確保する試みであった。しかしながら、以. るとき、両者の間には差異が生じてくる。超越論的還元 を目的地とするのではなく、 「現象学的還元を-・-言説. 上において見てきたように、自然的態度こそが現象学の 可能性の条件をなしているため、還元の遂行においては 自然的態度に由来するものが混入してしまう。不純なも のを根絶することは不可能なのである。 以上のことから、二つのことが明らかになった。まず 第一に、デリダはフッサールによる記号の概念を批判的 に検討することで、純粋な意味の現前が不可能であるこ とを示している。すると、現象学的還元は遂行矛盾をは らむことになる。そして第二に、基礎付け関係の混乱を 指摘するこのような現象学批判は、第一車において見た 形而上学批判の原型となっている。. の単なる-契機として位置づける」 (GR90)ことで、還元 という営みが及ぼす諸効果を考察することが可能となる. (3)デリダによる現象学の脱構築 (2)において見たように、デリダは、現象学的還元 が遂行矛盾に陥ってしまうことを示している。しかしな がら、デリダは単純に現象学を否定しているわけではな. 証的現前があらゆる認識のモデルとなっている。しかる. い。むしろ、彼に独自な立場から、現象学という営みの 意義を再評価している。. いて時間の構成の問題に取り組んでいるOそれによれば、 知覚のように対象を現にありありと現前させる現在化. 現象学的還元は「自己への現前」という観点から、現 前する純粋なものと直接は現前しないものとを峻別する ことで、自然的世界を吟味しようとする。しかし、この. 過去把持取etention)(-第一次記憶(primえre Erinnerung)) 、 未来予持(Protention)という三契機が含まれている。. というのである。 実際、デリダによる諸考察そのものが、還元の送行の 帰結の一つである。現前と非現前という差異を導入する ことによって、現前と非現前との関係が改めて主題化さ れ、現前性を可能ならしめている様々な層の間の相互関 係を考察することが可能となる。このような着想のもと、 デリダは、現象学の依拠する「自己への現前」が1)時 間性や2)他者といった様々な非現前によって支えられ ているということを示す。 l)フッサールにおいては、知覚にみられるような明 に、このような知覚の現前は瞬間的なものではありえな い.例えば、メロディーの知覚は時間的な構造を学んで いる。フッサールはF内的時間意識の現象学』 ⅣZ)にお. (Gegenw丘rtigung)の働きには、原印象(Urimpression) 、. 峻別は結局のところ遂行矛盾に陥らざるをえなかった。 というのも、この観点そのものが自然的態度に由来する ものであり、その意味では不純なものであるからである。 しかしながら、このような吟味は無意味というわけで. メロディーの知覚が可能となるためには、過去把持によ って過ぎ去りつつある音がとどめ置かれ、瞬間的な現印 象としての今鳴っている音へと関連づけられ、さらに、 未来把持によって来るべき音が待ち受けられていること が必要だというのである。このような現在化は、再想起. はない。たとえ、現象学的還元による超越論的領野の抽 出が不十分なものにとどまるにしても、だからといって、 還元が導入する差異が直ちに無効となってしまうわけで. (wiedererinnerung)や予期(Erwartung)といった準現在化 (Vergegenw云rtigung)とは区別される。メロディ-の知 90.

(7) デリダの哲学における発生の問題. た。しかしながら、現象学は、 「自己への現前」を明噺 化しようとして、 「時間化の運動」や「間主観性の構成」 といったアポリアに直面してしまう。. 覚とメロディーの想起とは別の現象であるからである。 このような準現前化から過去や未来が生じ、時間が構成 される。このようにフッサールは現在化の系列と準現在 化の系列とを峻別している。しかしながら同時に、再想. フッサール自身は、現前性の諸契機を分析することで、 このようなアポリアを解消しようとする。すなわち、彼 は、それ自身は直接現前しないにしても、現在化に伴う. 起を、非主題的に意識されていたに過ぎない過去把持の 系列を主題的に意識し直すこととして説明している。こ のようにして、過去は現在の派生形態として説明される. 「共現在化(Mitgegenw蕗rtigung)」 (あるいは「付帯現 前」)や、もはや現前しないものについての表象として の「準現在化」といった、現前性に準じる概念を導入す ることで、現前性の統一性を維持しようとする。これと は反対に、デリダは、ここに現前性の学む多様性を読み. ことになる。 しかしながら、このような説明は根本的なアポリアを はらんでいる。この説明においては、現在化の契機は、 知覚や再想起よりも根源的なものであるとされ、説明の 原理として利用されている。しかしながら、現在化の契. とる。現象学が依拠する超越論的領域は、現象が現象と して現出する領域であった。その意味で、そこに現れる. 機としての原印象や過去把持はそれとしては現前しえな い。もしも、現前するならば、それは知覚であり、再想. ものは全て単なる表象(repesentation)として取り扱わ れる。しかしながら、これらの表象はすべて、フッサー ルが明証性のモデルと見なした現在化. 起であるからである。上の説明においては、明証的では ないものが明証的なものを基づけている。このようにメ ロディーの知覚といった明証的な現前においてもパラド. (Gegenw云rtigung)という意味での現前化(Pr云sentation) のみに還元されうるわけではない。そこには、もはや現. ックスが肝胎している。デリダはこのような事態を. 前しないものの表象である準現前化 (Vergegenw云rtigung)という意味での再現前化(representation, Repr丘sentation)や、過去把持や未来予持、 他者の意識といった、それ自身は直接現前しないが現在. 「Augenblick (瞬間)という自己同一性の中に他なるも のが受容される。すなわち、瞬間の瞬き[これが Augenblickの原義である]の中に非現前と非明証が受容 される」 (VP73)と記述している。一見したところ明証 的であるとされる現前といえども、いざそれを説明する. 化に伴う共現在化(Mitgegenw云rtigung)としての付帯 現前(Appr丘sentation)などもまた含まれており、表象 相互の間には多様な関係が胆胎されているoこのような 多様な非現前と現前との「絡み合い」こそが「自己への 現前」の可能性の条件となっているのである。 デリダは、このような事態を積極的に捉え直す。すな わち、現象学による現前と非現前という差異の導入によ って、現象学の依拠する現前性が学んでいた亀裂が顕わ になってきたのであり、それまで統一的に理解されてき た現前性の領野が多様な非現前の「絡み合い」として存 在しているということが顕わになってきたと考えるので あるO 「フッサールが特殊的、偶然的、従属的、二次的 な体験として隔離しうると信じていたものを「正常なも の」、前・根源的なものと考えねばならない。すなわち、. となると、このような非現前を導入せざるをえなくなる のである(cf.VP73-74)< ただし、このようなアポリアを生み出すからといって、 フッサールによる考察が無意味となるわけではない。む しろ逆に、この分析によって諸現象の間のパラドックス 的な「絡み合い」が析出されてきたとも言えるのである。 2)同様の問題が他者の場合にも見られる。フッサー ルの現象学において、超越論的意識の領域はそこにおい てあらゆる存在者が構成される特権的な場である。そし て、そこにおいて他者もまた構成される。他者の構成と いう問題は『デカルト的省察』 (CM)において取り扱わ れている。しかしながら、ここで構成される他者もまた 私と同様な超越論的な主観であると考えられる。ここに アポリアが見られる。そもそも、客観性が構成される域. 始めも終わりもなく、紡復(errance)として、あるい は、場面の変遷(changement) (Verwandlung)とし て、際限なく漂流する諸記号の体験を、 [現在化された 表象であると同時に再現前化された表象でもあるre-. としての超越論的領域は、間主観的なものでなくてはな らず、その意味ではそこには最初から他者との関係が刻 み込まれている。しかるに、他者の意識そのものは超越 論的主観性においては現前しえない。そこで、フッサー. presentations (Vergegenw云rtigungen)を相互に結びつ ける記号の際限なき漂流の体験を「正常なもの」、前・ 根源的なものと考えねばならない」 VP116) このように、デリダは、還元の運動を代補の運動とし て逆転させる。差異の導入により差延の運動が生じ、豊. ルは、他者を「付帯現前(Appr云sentation)」 (直接は現 前Lはしないが直接現前するものに付帯している)とい う仕方で現前へ取り込もうとする。ここにおいても、現 前性の領域がそれ自身は現前しないものに依拠している という構造が見られる。. 穣な「絡み合い」が顕わになると解釈し、むしろ現象学 を評価するのである。 「根源的時間性と他者への関係の. 現象学は「自己への現前」に依拠して伝線的な形而上 学を批判し、それを本来の姿に立ち戻らせようとしてい. 運動においては一一非現前化あるいは脱現前化(de91.

(8) 秀樹. &. ていた有限的なもの(例えば、道具)から出発して、よ り「完全なもの」が追求されていたというのである。デ リダはここに第-の無限化が生じ、前幾何学が実践され. presentation)は、現前化と同じく「根源的」である [等根源的である]。またそれゆえに、痕跡の思索はもは や、超越論的現象学に還元されえないし、また超越論的 現象学と断絶することもできない」 (GR91)。. ていたと解釈する(cf. OG140)cこのような前幾何学自 体は末だ幾何学そのものではないO 「彼は--幾何学的 空間や数学的時間、くこれらの有限的なものを素材とし. 以上において見てきたように、デリダはフッサールの 現象学との対決を通して、自分の思索を形成している。 しかしながら、それは現象学の否定ではない。デリダは、. て用いることで、新たな種類の精神的所産となるべきも の)を未だもってはいなかったOまた、多様な有限的諸. 『声と現象』においてフッサールの音声中心主義を批判 しながらも、だからと言って、現象学を放棄するわけで. 形象[例えば、具体的な道具]をもってはいたものの、 幾何学的な形象や、運動学的な形象は末だもってはいな かった」 KW384L幾何学が可能となるためにはデリダ のいう第二の無限化が生じなくてはならない。第一の無. はなく、むしろ、現象学的な仕方でさらに語り続けるこ とを主張している。 「残されているのは、現前の輝きを 代補するために、語り、 [絵画が展示された画廊が描か れた絵画が飾られた画廊の]廊下中に声を鳴り響かせる. 限化によって切り開かれた領域(前幾何学)や具体物を 基礎にして、更なる数学的無限化が追求されねばならな. ことである」 (VP117)。一見したところ謎めいたこのよ うな言葉は、現象学を過程として把握し直すことによっ. い。 「この新たな種類のものは、理念化する精神的行為、 すなわち、 「純粋」な思考から生い育ってくる所産であ る。この思考は、事実的な人間性と人間的環境の普遍的 な前所与性の内に、その素材を持ち、そこから、 「理念 的対象性」を創造する」 (KW385)<例えば、平らなも のから平面という理念が形成される。このような無限化 の追求の蓄積の中で徐々に幾何学という理念が形成され る。このような理念化は独自の役割を果たす。というの も、このような理念の創設こそが幾何学の同一性を可能 にし、幾何学の歴史を可能にするからである。このよう な幾何学の理念に基づいて、一方においては、幾何学に 先行する、生活世界での実践が前幾何学として捉え直さ れ、後の幾何学と結びつけられるようになる。また、他 方においては、この理念に基づく実践の継続において更 なる知見が蓄積されるとともに、理念のさらなる明確化 が進行する。. て、理解される。語り続け、 「絡み合い」の中に巻き込 まれることにおいて、 「絡み合い」がそのものとして顕 わになってくるというのである。このように、デリダは、 現象学に巻き込まれていくことにおいて、現象学をさら なる生成の喝へと連れ戻す。ここにデリダによる現象学 の「改釈」を見ることができる。. 第三章デリダ思想の「発生」 (1 ) 「『幾何学の起源』序説」におけるフッサール解釈 第二車において、デリダが、フッサールを批判的な視 点から解釈することによって、自己の思索を展開してい ることを見たが、この批判的な視点自体もまた、デリダ に独自なものというよりも、むしろ、フッサール自身に 版胎していたものであるOデリダはこのような視点をフ ッサールの遺稿「起源の起源」 (KW365-386)から受け. ただし、 「幾何学の起源」は幾何学の起源についての み語っているわけではない。むしろ、フッサールは、幾 何学の起源を通して、体系の発生を歴史主義や客観主義 とは異なった仕方で、考察しようとしている(cf.OG4) 18。何らかの体系が可能となるためには、その体系を可 能ならしめる理念が自覚化されることが必要となる。し かるに、このような理念が形成され、自覚化されるのは、 生活世界の中において営まれる諸実践の遂行においてで. 継いでいる。 この断片は幾何学の起源について記述している。ただ し、それは幾何学のいわゆる歴史について語っているわ けではない(KW365-366)<幾何学の歴史について記述 しうるためには、すでに幾何学という理念が成立してい なくてはならない。フッサールが意図しているのは、む しろ、幾何学という理念そのものが、それが存在しない 状況の中でいかに産出されたか、すなわち、幾何学の創. ある。その意味で、理念はカントのいうように「叡智界」 に由来するのではなく、生活世料こその出自を持ってお り、その意味で本質的に歴史的なあり方をしている。生 活世界における実践の中で、何らかの観点が発見される。 そして、その観点を表現にもたらし、それを形態化する ことによって、その観点は、単に個人的な思念から間主 観的なものとなり、客観的なものとなる。そして、その ことによって体系は共有され、経験の蓄積が行われるよ うになる。そのような経験の蓄積の中で理念はさらに明 確化されていくことになる。. 設(Urstiftung)を問うことである(cf. KW368)。その ため、フッサールは、前学問的世界である生活世界から、 出発する。そこにおいては、様々な「技術的実践 (techinische Praxis)」が運行され、道具の加工、建物の 設計、土地の測量などが行われていた。 「このような技 術的実践は、いつもすでにある種の漸進的方向に向けて、 そのつど、より好ましい形態のものを制作し、それを改 良することを目指していた」 (KW384)。すなわち、こ のような実践においては、日常生活の中にすでに存在し. 92.

(9) デリダの哲学における発生の問題. しかしながら、フッサールによれば、このように体系. 可能ならしめる一一ということである」 (KW371)c理念. が確立してしまうと、体系の発生という出来事が隠蔽さ. は、このように文書化されることによって、語る主観性. れてしまうOこれがFヨーロッパの諸学問の危機と超越. から解放され、公共的に追求されるようになり、その過. 論的現象学』 (KW)の主題である。科学が自律的なもの と見なされるようになると、その科学自身を可能ならし. 程において、その内実が具体的に規定されていくという. めた生活世界における諸経験と科学自体との関連性は意 識されなくなってしまう。たしかに、科学の体系を理解. sprachlichenAusdruckこそ、デリダいうエクリチュー ル(ecriture)であり、 「代補的差延」のモデルとなる。. するためには、科学の歴史やそれを可能ならしめた生活. 通常、エクリチュール(書かれたもの)は音声や意味の. 世界における具体的な実践を理解している必要はないの. 代補でしかないと考えられているが、意味の内実が具体. である。しかしながら、その場合でも、科学の言葉や意. 的に規定されるのは、代補が形態化され、そのことによ. 味を理解するためには、生活世界の中で生まれ育ち、科. って諸実践が蓄積されることによってなのである。ここ. 学と生活世界との結びつきを理解しつつ、その中で科学. に見られるように、デリダは、フッサールが徐々に語り. を学ぶのでなくてはならない。そのような関連性が意識. 出したことを、エクリチュールという語を用いて、形象. されなくなってしまうのである。そして、このような隠. 化する。そして、そのことによって、それを主題とする. 蔽とともに、自然科学的説明こそが自律的な真理である. 思考圏が開かれ、彼の思索が始まる。そのような実践を. と見なされるようになり、科学が生活から遊離してしま. 通してデリダの哲学が発生してくることになる。このよ. のである.まさにこのder schriftliche dokumentierende. う。フッサールは、生活世界からの遊離が科学の危機を. うな意味において、デリダに独自な「差延」の思想も、. 招いていると指摘している。フッサールによれば、科学. フッサールの思考圏から生まれてきたものなのである19。. を活性化させるためには、生活世界の中で科学が理念化 されてくる状況へと遡及することが必要である。生活世. し、それがいかにして生み出されてきたのかをもはや問. 界に回帰し、科学と生活との関連性を回復することによ. わない。そのため、その概念は形骸化していくことにな. って、科学を活性化させる可能性が開かれるというので. る。むしろ、それが生み出されてきた現場へと遡及する ことによって、再活性化させねばならないOこのような. 2)沈殿物の中で生活している者はそれを自明と見な. ある。 とは言うものの、起源への遡及は、起源に基づいて構. 考え方に、デリダによる、現前の形而上学批判のモデル. 成された世界から、すなわち、理念を前提とした諸活動 によって生み出された諸々の物事を自明と見なしている. を見ることができる。一方において、それは批判である. 状況(フッサールはこれを起源が沈殿物によって覆い隠 されている状態と呼んでいる)から、出発せざるをえな. て、デリダが、現前を非現前との関係において考え直す. い。そして、そこから、自明と見なされている物事の可. たが、そこで現象学に向けられていた批判的な視点すら、. が、他方においては、再活性化でもある。第二章におい ことによって、現象学を批判的に解釈していることを見. 能性の条件となっているものへと一つ一つ遡及して行か. このようにフッサール自身の思想に内在するものなので. ねばならない。その際、構成された世界における自明性 に依拠するわけにはいかないため、遡及においては、. ある。. 様々な試行錯誤が不可避となり、その道程は粁余曲折を. (2) 『フッサールの哲学における生成の問題』における. 余儀なくされるO 以上のような分析に基づいて、フッサールは次のよう. フッサール解釈. に述べている。 「歴史とは、もとより、根源的な意味形. えられつつ、歴史的に発生するのはいかにしてか」とい. 成と意味沈殿が共存しあい、相属しあう生きた運動には. う問題を取り扱っているが、この間題は、フッサールの. かならない」 (KW380)tすなわち、意味形成は意味沈殿. 思索の中で徐々に意識化されてきた問題である。したが. を引き起こすが、新たな意味形成が行われるのはこの意. って、この作品の持つ意味は、フッサールの思索の発展. 味沈殿からである。このように意味形成と意味沈殿は相. という文脈の中に位置づけられて初めて理解しうるもの. 互的な「絡み合い」の内にあるが、両者の間の往還の運. となる。. 「幾何学の起源」は「ある体系が、体系外のものに支. 動が歴史だというのである。. 「幾何学の起源」というどちらかと言えば目立たない. フッサールによる以上のような考察は、デリダの思索に. 著作へ注目することが可能となった背景には、デリダに. 二つの影響を及ぼしている。. よるフッサールの諸著作の読解がある。 「幾何学の起源」. 1)フッサールによれば「文字に書かれ、文書化され. を適切な文脈の中に位置づけることが可能となるような. た言語表現der schriftliche dokumentierende. フッサール解釈の観点をデリダは『フッサールの哲学に. sprachlichen Ausdruck)の重要な機能は、その表現が、. おける発生の問題』 (PG)において形成しているが、す. 直接的あるいは間接的な個人的話しかけなしに、伝達を. でにそこにおいて、 「体系の発生」の問題への注目が行. 93.

(10) 秀樹. S. 念的なものの発生」という問題がすでに暗示されている。 とはいえ、集めるという作用と一つの総体という理念的 なものとの関係(作用と意味との関係)は十分に解明さ れているとはいえない。そもそも、集められるものであ. われている。例えば、序論の部分で、 「哲学」と「歴史」 は、相互に区別可能な並列的なものではなく、相互に混 じり合い、含みあっていると述べている(cf.PGl)<こ のような歴史観はフッサール自身の思索の歴史から抽出. ると同時に集められたものでもある「何かあるもの」と いう客観的な概念自身どのようにして構成されるのかと. されたものである。デリダは、フッサールの思索の展開 を、ある根本的な発想に基づいて、その後の展開が遂行 されるという風に分析的に見ることも、様々な思索の集. いう問題が残されているoフッサールは「反省」という 作用によってこれを説明しようとするが、この説明は循. 積であるという風に総合的にみることも、どちらも不十. 環論に陥る(cf. PG60Lここにおいて、心理学主義とは 別の仕方での、 「原的な直観」における対象一般の構成 が求められることになるが(cf.PG64)、この間題は『算 術の哲学』においてはもはや考察されていない。以上に おいて見てきたように、フッサールは表面的には心理学 主義であるかのようであるが、だからといって、論理主 義の主張を無視しているわけではない。むしろ、これら の対立の間で引きされることによって、どちらの立場で もない仕方での構成という問題に直面しているのであ るOしかしながら、当時のフッサ-ルは経験的なものと 超越論的なものとの区別を行っていなかったため、自ら を心理学主義と十分に区別することができなかった。こ のようにデリダは解釈しているcf.PG76)c F算術の哲学』出版後、フッサールは、フレーゲから の批判などもあり、 『算術の哲学』に含まれていた心理. 分であると述べている.むしろ、両者の絡み合いとして 把握されなくてはならないというのである。デリダはそ のことをフッサールの思索全体から示そうとする。 フッサールの最初の哲学的著作であるF算術の哲学』 (PA)は、算術の基本概念たる数がどのように構成され るのかを説明しようとする。その際、彼は、何かを集め、 数えるといった作用に基づいて、これを説明する(cf. PA182),そのため、この著作はしばしば心理学主義で あると批判されてきた。確かに、数という理念的なもの を心理的経験に依拠して説明することは不可能である。 しかしながら、デリダは、 F算術の哲学』には、単なる 心理学主義に還元できない側面もまた含まれていると指 摘するcf.OG6)tそもそも、数えるということによっ て数を説明しようとする試みそのものが、数という理念 的なものと数えるという心理的なものとの差異を前提と している。その意味で、この試みは、理念的なものは経. らば、この超越論的なものは、経験の外部で主穎化され. 学主義的要素を反省するようになる。 『論理学研究』の 第一巻「純粋論理学序説」においては、論理学を心理学 によって説明しようとする心理学主義を厳しく批判して いるcf.LUI6)<確かに、経験的なものからアプリオリ なものを導出することはできない。しかしだからといっ て、単なる論理主義の立場に立つわけでもないOカント 主義的形式主義に陥ることになってしまうからである。 実際、デリダによれば、 『論理学研究』の第一巻の後、 フッサールは形式的論理学の不十分さを指摘するように なる。形式的論理学は、具体的な経験から独立している ため、実践的な適用においては無能である。 「『論理学研 究』において、形式的論理学は、その根源において、具 体的な経験やあらゆる実践的「適用」から本質的に独立. たにすぎず、論理的、形式的なままであろう」 (PG46L もしも、超越論的なものが経験からまったく切り離され. していると考えられているのに対して、超越論的論理学 は、原的な経験のまさに核心において、現れるであろう。. てしまうならば、この超越論的なものは、形式的なもの. 『論理学研究』の第-巻以降においては、論理的形式の 客観性が、もしその形式を志向する心理的作用から独立 であるとされるならば、不十分なものに思われるように なる。そして、 (心理学主義的でも、論理主義的でもな. 験的なものに還元しえないと主張する論理主義の主張を 全く無視しているわけではない200むしろ、この主張を 認めた上で、あえて、理念的なものの構成を問うている と解釈できるのである。デリダによれば、その背景には、 カント主義に対する批判がある。すでに、シュトウンプ は『心理学と認識論』においてカントが認識論を心理学 から切り離してしまったことを批判しているがcf. Stumpf).フッサールもまたこのような批判を受け継い でいる。 「もしも、超越論的なものが根源においてその 経験的な内容と混清していないならば、そして、もしも、 経験そのものに類比的なものとして現前するのでないな. となってしまい、経験に適用することすらできなくなっ てしまうというのである。このような背景のもと、フッ サールは、一方では、数の理念性を認め、それが、経験 的なものには還元不可能であることを認めながらも、他. く、超越論的であるような)主観による構成があること を私たちに顕わにする」 (PG82),心理学主義はすべて. 方では、その理念性がいかにして可能となるのかを考察 したのである。それによれば、何ものかを集めつつも、. を経験的なものへと回収しようとし、論理主義はすべて を形式性へと回収しようするが、どちらも失敗する。こ のようにして、フッサールは心理学主義でも論理主義的 でもない仕方での構成の可能性を探求するようになり、. そこにおいて、集められた多ではなく、一つの総体へと 注目するという観点が芽生えることが重要である。ここ において、 「幾何学の起源」において主題化される「理. 94.

(11) デリダの哲学における発生の問題. 論理主義と心埋学主義との二律背反を越えて、遡及する ことを試みるようになる。 「フッサールは、すでに根源. との間のパラドックスが見られる(cf.PG150) 21。. 的な「諸前提」への「遡及」 (Riickfrage)の必要性を規 定していた。発生の問題は--・論理学と心理学との二律 背反を逃れる。 --意味の発生は、形式的なアプリオリ と質料的アポステリオリとの二律背反を越えねばならな. あるとされる。しかし、他方において、そのような作用. い。志向性は、さらにこのような超越のための「媒介」 として役立つ」 (PG86)<ここで主観的な認識作用と客 観的な認識との関係が主題化される。このようにして、 第一巻においては論理主義を主張していたフッサール が、第五研究においては「作用」とその志向的本質の問 題を考察し、第六研究においては意味充実された「原的 な直観」における認識の成立を考察するようになる。こ のように、 『論理学的研究』の中にも、亀裂が存在して. のをヒュレ-、モルフェ-として語っている。しかしな. 2)さしあたり構成は超越論的主観の能動的な作用で はその作用を被るものが無くては不可能である。このよ うなものはそれ自体としては対象化されえない。さもな いと循環論になってしまう。フッサールはこのようなも がら、もはや対象化されえないものについて語ることは 明証性に依拠する現象学にはもはや不可能である (PG52f.)<ここにもパラドックスが見られる。 3)一方において、超越論的領域は諸現象が構成され る場である。しかしながら他方において、この領域が析 出されるのは自然的態度から出発して、自然的な世界の 中で営まれる行為としての現象学的還元を遂行すること. おり、単純な論理主義に還元することはできない。とは 言うものの、志向的関係そのものは、経験的なものでも、 形式的なものでもないとされつつも、結局、明確にされ ていないとデリダは考える。末だ、 「超越論的な領野」 とそこにおけるアプリオリなものの発生(構成)の問題 が十分に考察されていないのである。 超越論的な構成の問題が主題化され、詳細に論じられ るようになるのは『イデーンI』 (ID)においてである。 ここに至って、経駿的なものと超越論的なものとの区別. によってである。そのような意味で、超越論的領域は自 然的世界に依存していると考えることができる(第二章 (2)参照)。また、そもそも、現象学的還元という行為 が考え出され、遂行されうるようになるためには、それ に先行する様々な思想史的歴史が存しているのではなく てはならない(cf.PG139)C このようにして、超越論的構成が主題化されるととも に、その可能性の条件もまた主題化されることになり、 それ自身もはや還元されえないものに直面させられるこ とになる。このような問題意識をはらんでいるという点. が明確化される。すなわち、 「根源」となる発生から、 心理学的な発生や歴史的な発生が排除されるようになる (cf. IDIO)Cこのような発想を定式化したのが、現象学 的還元の方法である。自然的態度における定立が排除さ れることによって、超越論的な領域が切り開かれる。そ して、そのことによって、超越論的意識の志向的作用が 「意味」や「対象」を構成するということが主題化され るようになった。ここにおいて、フッサールの超越論的 現象学の概念が完成することになる。 しかしながら、超越論的領野の主題化は同時にそのよ うな領野の可能性の条件への問いを生み出すことにな る。デリダはこのような問いをいくつも指摘している。 主要なものを数え上げるだけでも、 1)超越論的主観性 はどのようにして構成されるのか、 2) ・諸対象の構成は いかにして遂行されるのか、 3)そもそも、現象学的還 元はいかにして可能となるのか、といった問いがある。 1)超越論的主観性の構成という問題は「時間」の構 成の問題と結びついて、フッサールを悩ませることにな る。超越論的主観性が、あらゆる構成の可能性の条件で. で、 『イデーンI』とても単なる形式的観念論にはとど まりえないものであった。 このようにして、フッサールにおいて初期からしばし ば問題となってきた「発生」の問題が次第に中心的な課 題として彼の思索の中でクローズアップされてくる。 「判断の発生学」を記述しようとした『経験と判断』 (EU)は、前述語的経験の問題を考察している。これま で、論理学者は判断の内容とは独立に成立する論理形式 に関心を寄せてきた。また、形式だけではなく、判断を 下す主観の作用もまた考察の対象となってきた。しかし ながら、判断を導く存在者は、判断に先行して、すでに 与えられているのでなくてはならないが(cf.EUll)、こ のような存在者の明証性がどのようにして発生するのか については考察されてこなかった(cf. EU7f.サー'*フッサ ールによれば、そこには二つの段階があるO前述語的な 自己所与性とその述語化である. 「すると明証性の問題 に対して、二つの問いの層が生まれる。第一の層は、前 もって与えられた対象自身の明証性に関するものであ. あるならば、それは形式的なものでしかなく、 「原的な 直観」の源泉たることはできない。逆に、超越論的主観. づいて遂行される明証的な述語判断に関するものであ. 性が、 「原的な直観」の源泉として現実的なものである. る」 (EU13),このような二分法は、明証性の発生がは. ならば、それ自身はいかにして構成されるのかという問 題が生じることになる。ここには「純粋に体験される超 越論的なもの」と「もはや体験されない超越論的源泉」. らむパラドックスを示すものである。すなわち、一方に. る。一一そして、第二の層は、対象の明証性の根拠に基. おいて、明証性はそれに先行する実在的なものによって 構成されるものでありながらも、他方においては、実在. 95.

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