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ジャコモ・マンズー作品における触覚感覚をいかした彫刻表現について(1) 利用統計を見る

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(1)ジャコモ・マンズー作品における触覚感覚をいかした 彫刻表現について(1) The Touch of Sense, about Jacomo Manzu 武 末 裕 子 Hiroko TAKESUE. 山梨大学教育学部紀要 第 29 号 2018 年度抜刷.

(2) 平成30年 (2018年) 度. 山梨大学教育学部紀要. 第 29 号. pp.71-78. ジャコモ・マンズー作品における触覚感覚をいかした 彫刻表現について(1) The Touch of Sense, about Jacomo Manzu 武 末 裕 子* Hiroko TAKESUE 1. はじめに ジャコモ・マンズー(1908 - 91 年・ベルガモ-アルデア) は20世紀イタリアを代表する彫刻家の一人であり、ヴァチカン のサン・ピエトロ寺院の扉の1つ《死の扉》【図1】を制作し たことでも知られている。日本では主に 1960 年代から、マリ. 資料① (ジョン・リウォルド 三木多聞 『ジャコモ・マンズー』,現代彫刻セ ンター,1975) 作品No.279. ノ・マリーニやアルトゥーロ・マルティーニとともにイタリア 現代彫刻家として紹介され、多くの展覧会が開催されてきた。 中世的・キリスト教的造形美に刺激を受けて、スタートしたマ ンズーの彫刻は彼の生涯を通して思考した人間愛や自然愛とい. 画像はCD-ROM版をご利用ください。. う普遍的な思想が具現化した造形として評されている。 そんなマンズーの作品に対し、東京藝術大学教授であり盛岡 の鋳造師 14 代目鈴木盛久を名乗った鈴木貫爾 (1919-82 年 ) は 「薄肉の起上の上を走る線刻を鋭い線刻が柔らかい粘土のメク レを見せて生き物のようにつっぱしっていた。生々しい量感を 見せて、そっと触れたい衝動にかられた。 」と記している(東 京国立近代美術館館報『現代の目 228 号』1973 年 11 月)。 伝統的な盛岡鋳鉄・南部鉄器の家に育ち、日本の鋳造研究を 熟知する鈴木を魅了した『 「触覚欲求」を刺激する蝋型石膏鋳. 【図1】 《死の扉》1963 年ブロンズ 765 × 365cm ヴァチカン サン・ピエトロ寺院. 造の彫刻表現』とはどのようにして生まれたのか。 また、前述したマリーニやマルティーニとともに3M とよば れ、20 世紀に注目を集めたイタリア近代彫刻は、現在の教科書ではマンズーの彫刻作品のみが紹介さ れている状態にある。他の彫刻家よりマンズーが常に日本で支持され続ける理由には、叙情的なテー マや彫刻表現の魅力だけではなく、現代の私たちに訴えかける造形的魅力がマンズー彫刻作品に中に 存在するためなのか。 本稿は日本では未だ紹介の少ない故郷ベルガモ時代の作品、独学で発表を始めた 20 代のミラノ時代 の初期作品、晩年アトリエを構えたローマ郊外アルデア時代での独自の鋳造工房の作品をもとに、触 覚感覚を想起させるマンズーの独自のブロンズ彫刻表現について考察を試みる。 尚、本稿のイタリアでの実見調査は平成 27-30 年度文部科学省科学研究費「日伊の交流を通した蝋 型ブロンズ彫刻の新しい表現の研究」 (研究代表者:筑波大学 中村義孝教授)の一環による報告であ る。ベルガモ・ミラノ・ローマ・ヴァチカン・アルデア・アンコーナで作品実見と関係者への聞き取 り調査を行い、結果的にマンズーの多岐にわたる表現に触れることとなったが、現代日本美術鋳造に *. 山梨大学 - 71 -.

(3) 平成30年 (2018年) 度. 山梨大学教育学部紀要. 第 29 号. 多大な影響を与えた彫刻家マンズーの独自の鋳造表現に迫ることで、 現代における新たなブロンズ彫刻の表現を求めることを目的とした。 2. マンズーの彫刻作品から. 資料② (本間正義・小川正 隆他「ジャコモ・マンズー展 図録」現代彫刻センター, 1984) p.28. (1)故郷ベルガモ時代の作品 マンズーはミラノ近郊の都市ベルガモで 1908 年に教会の雑用と靴職 人をする父のもと、12 番目の子どもとして産まれた。11 歳から木彫師、 メッキ職人、漆喰職人のもとで働き始め、その合間に 13 歳の頃ベルガ モのファントーニ造形装飾夜間学校に通い、兵役に行った先のヴェロ. 画像はCD-ROM版をご利用 ください。. ナで目にした古代彫刻が後の彼に影響を与える。 マンズー自身はアカデミアで幾度も教鞭はとるが、正規の美術教育 を受けた期間はごく短く、後は独学を貫いた。また、晩年に簡素なま でに削ぎ落とされた《枢機卿》などの宗教的モチーフに組んでいたが、 宗教を超えた普遍的テーマがその中に込められている。子どもや家 族・父の残した椅子など、幾度も取り組んだモチーフから、彼の生い 立ちが作品に与える影響は強いことが窺えるⅰ。 マンズーの初期作品中でブロンズ最初期作品の一つに 1927 年のブロ ンズレリーフ《Passo di Danza》【図2】がある。 この作品では生前マンズー自身も監修したジョン・リヴォルド編集 年譜(参考資料[1] )によると初めて立体ブロンスに取り組んだとさ. 【図2】 《Passo di Danza》1927 年 ブロンズ アルデア マンズー 美術館. れる 1934 年《女の首》シリーズより早い時期に鋳造がおこなわれ、作 風も古典への傾倒が感じられる貴重な初期作品である。. 筆者撮影. (2)ミラノカトリック大学所蔵の初期作品 今回の調査では、一般的に紹介される機会の多い蝋初期作品群の前 に、初めて彫刻家として依頼を受け、1929 年から 1934 年にかけて取. 画像はCD-ROM版をご利用 ください。. り組んだミラノカトリック大学の作品群に注目したい。前述年譜には この間の作品は「1934 年に作家自身によって多くが破壊された」旨 が記されているため、現在では貴重な初期資料となっている。これら の作品は教会内部の石柱頭直彫りや壁龕装飾、壁祭壇の扉等、移動不 可能なものが多く、一般公開されていない作品も含まれる。中でも 目を引くのは、学内に移動設置されているセメントによる聖母子像 《Immacorata》【図3】 である。当時セメントは屋外設置にも耐えられ 【図3】 る新しい建材として広まりつつあり、彫刻材への応用は若いマンズー の意欲的な作品であるとも解釈出来るⅱ。. 《Immacorata》1931 年 セメント・銅 45 × 45 × 120cm ミラノカトリック大学. また、当時男子学生寄宿舎の教会扉部分として制作された4つの円 形レリーフ鋳造作品【図4】ⅲも漆喰・鍛金的な初期ブロンズ代表作であると言える。晩年独自のブロ ンズ工房を持つマンズーであるが、若くして培った職人的な素材の扱いや原形素材に対する考えの柔 軟さが、後の豊かなブロンズ表現に繋がっていることをこれらの作品からうかがい知ることができる。 この時期の塑像的作品は一見すると立体感が弱く、表面を指で撫でつけたような塑像表現のため、当 時は評価が分かれていたようであるが、実際に筆者が実見した際は《Immacorata》の母子の豊かな表情 と衣類の襞の表現は、最晩年の塑像表現に類似していた。 - 72 -.

(4) ジャコモ・マンズー作品における触覚感覚をいかした彫刻表現について(1) (武末裕子). (3)蝋による初期作品 マンズーの初期作品にはメダルド・ロッソ(1858 年-1918 年)の影響 がうかがえる作品群がある。最も影響が見てとれる作品は石膏と蝋を素 材に用いたローマ国立近代美術館所蔵の《Susanna》ⅳ【図5】 、ヴァチカ ン美術館の《Maschera bianca(Maschera femminile)》1937 年制作作品ⅴ が あげられる。 前述年譜[資料1]の 1934 年には、蝋を使った女性頭部の発表や初め てのブロンズ鋳造作品制作についての記述、自身での作品の破壊が続け. 資料③ (Lorenzo Omaghi/Luciano Caramel/Cristina Casero/ Marco Vianello/Luiza Arrigoni Cinzia Pamigioni/Marco Bona Castellotti" Manzu in Universita Cattolica", Vit ePensiero , 2004) 画像はCD-ROM版をご利用 ください。. て記されているため、これらは転機の末の蝋作品群であり、また蝋の扱 【図4】 いをこの時期に身につけていたために、晩年は粘土ばかりではなく蝋を 《Evangelisti Il leone di san 原型とした作品群の制作に繋がっていると考えられる。 ロッソの作品は日本では蝋作品が多く紹介されており、その微妙な陰. Marco》1933-4 年 ブロンズ ミラノカトリック大学内設置. 影から光と影や視覚の固定的表現に取り組み、晩年は写真作品を残した ことでも知られる。 前述したマルティーニを始め、当時多くの彫刻家がロッソの作品に多. 資料① 作品No.47. ⅵ 大な影響をうけていた。. けれども、ロッソの作品は光を閉じ込め、視点を固定していることに 気持が注がれているが、酷似するマンズーの蝋作品の中で注目すべき点 は光ではなく、蝋の素材感やテクスチャーから作家の意識が蝋を一つの. 画像はCD-ROM版をご利 用ください。. 素材として意識が注がれていたことがうかがえる。そして、次の鋳造作 品として、蝋の質感がいきている作品の一つに、 《ピロッッリ夫人の肖像》 【図6】がある。溶けた蝋の柔らかさと原形の粘土の柔らかい質感が完成 素材の銀にまでうつし取られている作品である。マンズーはこの蝋原型 作品の触覚的な素材表現と蝋技法の習熟を次の作品へと結実していった のである。 (4)《枢機卿》シリーズと《死の扉》前後の塑像薄肉作品. 【図5】 《Susanna》1937 年 蝋・石膏 高さ 35cm ローマ国立近代美 術館. 生涯にわたり取り組んだ《枢機卿》作品は 1934 年の最初のローマ訪問 時の感動から始まり、36 年に試作、その破壊を経て、38 年に石とブロン. 資料② 作品p.35. ズ両方の素材で取り組んでおり、【図7】では未だ蝋の作品に取り組んで いた作風が色濃い。後年に作られる枢機卿【図8】は次第に単純化を見 せ、その間には石の小品や銅での試作【図9】があり、最終形態がブロ ンズの作品もマンズーは他の素材での試作を幾度も試みて、それが新し. 画像はCD-ROM版をご利 用ください。. い表現へと繋がっていることが明らかになっている。 《枢機卿》を初めて完成させた頃に《我らの人類の中のキリスト》(1938 -42 年 ) をテーマとしたブロンズ浅彫り8点の完成、それは約 25 年後に 《ある主題によるヴァリエーション》と名付けられるシリーズに続き、 《死の扉》 【図1】前後に近似するテーマとして取り組まれることとなる。 鈴木貫爾のいう「粘土のメクレを見せて生き物のように突っ走る線刻」 はこの一連の薄肉レリーフのシリーズの中で、 《死の扉》【図1】で最も 極まる。生々しい粘土の柔らかさと線刻のスピード感が、先ず蝋にその まま移し取られ、次にブロンズのバリや金属が流れ込み冷え固まる痕も - 73 -. 【図6】 《ピロッッリ夫人の肖像》 1937 年 銀 13.5 × 12cm Museo Manzu Ardea 蔵.

(5) 平成30年 (2018年) 度. 山梨大学教育学部紀要. 第 29 号. そのままであることから、静かなテーマに向かう作家の息づかいがブロ ンズの中に綴じ込められているかのように表現されている。. 資料② 作品p.40. 3. 試作による単純化とイメージの構築 (1)《死の扉》への主題と造形の経緯 サン・ピエトロ寺院の《死の扉》にみられる造形的特徴は柔硬・緩急 のバランスだけではなく、様々な試行がおこなわれていたことが資料か. 画像はCD-ROM版をご利 用ください。. ら明らかになっている。多くの試作を経て始めのコンペティション応募 から 17 年後に完成を迎える。. ヴァチカン サン・ピエトロ寺院《死の扉》(1963 年完成) 年譜 1947 年 国際公募・第1審査 テーマ: 「教会の聖人と殉教者達の勝利」 1948 年 第2審査 テーマ:「教会の聖人と殉教者達の勝利」【図 12】. 【図7】 《枢機卿》1938 年 ローマ国 立近代美術館ブロンズ高さ 52cm. 1950 年 ビアジーニ、クロチェッティ、マンズーの3人に決定 1958 年 教皇ヨハネス 23 世の配慮でマンズーのテーマを「死」に、. 資料① 作品No.117. 変更許可がおりる 1963 年 《死の扉》完成、同年教皇ヨハネス 23 世死去 【表1】 2017 年に開催されたサンタ・アンジェロ城でのマンズー展ⅶでは、初期. 画像はCD-ROM版をご 利用ください。. からの代表作とともに《死の扉》のコンペティションの経緯【表1】 や その審査段階でのひな形の展示がなされ、マンズーの扉を主題とした展 示室だけで大きく分けると以下のような5部で構成されていた。 ① 1948 年サン・ピエトロ寺院扉コンクールのための初回マケットレリー 【図8】 ② 1949 年サン・ピエトロ寺院扉コンクールの2番目のプロジェクトレ 《坐る枢機卿》1955 年 ブロ フ作品. ンズ高さ 220cm N・カミング ス蔵 , シカゴ. リーフ作品 ③構想を練る段階でのスケッチ ④最終版《死の扉》のための習作 ⑤ザルツブルグ伽藍堂の《愛の扉》のためのマケット(1955 年) 、ロッテ. 資料① 作品No.122. ルダム サント・ローレンス聖堂《平和と戦争の扉》のためのマケット (1965 年) 実際のコンペティションはテーマの変更や表現の変更の経緯があり、 最終選考に残ったマンズーによる《死の扉》は 1963 年に完成し、その年. 画像はCD-ROM版をご 利用ください。. にローマ教皇ヨハネ 23 世は亡くなった。扉の完成は結果的に、マンズー と同郷ベルガモの農村出身であり、異教徒との対話に積極的であった教 皇の死を悼むものとなった。 先に述べた幾つかの試作の中でもヴァチカンにある《死の扉》の外正 【図9】 面から見て左上《マリアの死》【図 10】には数点のひな形があり、第一ひ 《銅板によるひな形》1952 年 な形とされるもの【図 11】は石膏に布を含ませて作られていることが見 - 74 -. 制作 (1973 年の時点で既に 破壊されている).

(6) ジャコモ・マンズー作品における触覚感覚をいかした彫刻表現について(1) (武末裕子). てわかる。 また、粘土の状態の写真が多く残されているが、写真からはマンズー. 資料① 作品No.281. の用いた粘土はごく柔らかく、作家の指跡すら残る水分の多い状態の粘 土が原形に使用されていたことが見てとれる。他にも紙自体を最終形態 とした作品はアルデアのマンズー美術館で数点確認することができる。 晩年のオペラをきっかけとした作品群や静物シリーズ作品では蝋板材で の使用や紙の原形使用頻度が増している様子がうかがえる。 (2)イメージ構築段階での素材選択の柔軟さ 前項の《マリアの死》同様、依頼を受けて取り組んだ作品には多くの. 画像はCD-ROM版をご利 用ください。. 作品にはひな形試作があるが、試作の枠を超え、晩年には自らその柔軟 さを楽しみ、そのまま作品に反映させている。イメージを構築する中で、 逆に新たなテーマを見いだしていく。 中でも触れる彫刻展示で知られる美術館であるマルケ州アンコーナー の国立オメロ美術館(Museo Omero)ⅷで 2005 年に開かれたマンズーの展 覧会では触れることを前提とした作品選定がおこなわれており、その選 定は大変興味深い。 本稿は当初からマンズー作品の中の視覚を頼りとして感じられる触覚 性についてブロンズ作品の中から迫るために、現地調査を始めたが、触. 【図10】 覚的感覚を引き出す作家として、オメロ美術館で企画展がすでになされ 「マリアの死」《死の扉》部分 ていることはマンズーの触覚性への裏付けともなった。 1962 年ブロンズ, Museo 中でもブロンズ作品《Gur》【図 13】ⅸ では鳥の羽や植物をそのまま原. Manzu Ardea 蔵. 形に組み合わせて用いたアッサンブラージュ的ブロンズ作品として原形 にはワックスを用いず、自宅庭に生息する植物が原型に用いられ、蝋湯. 資料① 作品No.280. 道を付けて石膏型の埋没材に込め、鋳型焼成後に灰を取り出す手順で制 作されたことが今回の調査訪問に応じた娘ジュリア氏の話から明らかに なった【図14】。イタリアの美術鋳造所では葦類のストロー状の植物を鋳 型制作の過程の湯道材に用いることがある。職人仕事が身近であったマ ンズーにとって、鋳造の行程を理解し、その作業の随所で工夫をし、新 しい表現を導きだすことはとても自然なことであったことが窺える。ま. 画像はCD-ROM版をご利 用ください。. た、その頃マンズーはピカソやブランクーシに対する記述も残している ため、同年代の他の彫刻家の影響も垣間見える。 逆に、素朴なひな形自身からイメージの着想を得ている作品もある。 《Idea per un monumento》【図 15】1968 年制作ブロンズ作品は後の 1975 年 に期間的に5m に及ぶ巨大作品として制作され、ローマ市街地に設置さ れた。このひな形作品の題名は和訳すると《モニュメントのためのアイ ディア》となり、自由な制作のアイディアについて手を動かしながら練 り進めていく柔軟な作家の様子がうかがえる。 【図11】 (3)彫刻家自ら手を加える段階的表現 ローマ郊外のアルデアにあるマンズー美術館には、アトリエ写真を含 め多くのマンズーの制作の痕跡が紹介されている。また、2018 年9月訪 - 75 -. 「マリアの死」 《死の扉》部分 のひな形試作1 1962 年 ブ ロンズ Museo Manzu Ardea 蔵.

(7) 平成30年 (2018年) 度. 山梨大学教育学部紀要. 問時にはイタリア国営放送 Rai により撮影されたマンズーのアル デアでのインタヴューが再編集されて展示され、翌月の筆者訪 問時に迎えてくれた娘のジュリア氏により、近々アトリエを含. 第 29 号. 資料④ ("Manzu Dialoghi sull spiritualita,Con Lucio Fontana", Ba rbara Cinelli,Electa,2016). めた資料公開【図 16】 ・【図 17】が進む予定である旨が明らかに なった。 ジョン・リヴォルドが 1975 年に取りまとめた書籍[資料1]. 画像はCD-ROM版をご利用くださ い。. にもマンズーが粘土で制作をする姿、石膏を直づけする様子、 鉄の芯材を軸として原形石膏を分割して手を加えている様子、 鋳型材に蝋作品を立て埋没作業前の状態で修正を加える様子、 石膏の芯材に薄く蝋を張り込んでいる様子、蝋を自ら熱した鉄 【図12】 篦で造形・修正する様子、鋳込み終わったブロンズの状態に手 を加えるマンズーの様子が紹介されている。 日本では美術鋳造は職人に任せるものとして考えられること. ヴ ァ チ カ ン サ ン・ ピ エ ト ロ 寺 院《 扉 テ ー マ:「 教 会 の 聖 人 と 殉 教 者 達 の 勝 利」》第2審査マケット作品(部分)1948 -53年 128×160cm パドヴァ大学所蔵. が多いが、イタリアの美術鋳造工房では多くの作家が直に足を 運び、原形の最終調整・蝋の修正・ブロンズのバリの取り加減や仕上げ. 資料③ p.87. 着色に至るまでを作家が手を加え、職人と相談しながら進める。 筆者も本稿調査と並行し研究代表者とともにフィレンツェ郊外のレオ ナルド・ジュディチ工房ⅹに鋳造依頼の機会を得たが、著名な作家も工房 内で蝋の仕上げ作業や着色作業の立ち会いをおこなっていた。また、鋳. 画像はCD-ROM版をご 利用ください。. 造職人は頼りになる相談役として仕事の協力者的立場を保っていた。そ うしたイタリアの職人と作家との距離感がマンズー独自の工房立ち上げ につながり、多くの柔軟な発想の作品が生まれたことが容易に想像出来 た。 【図13】. 3.現時点の考察. ジャコモ・マンズーの鋳造彫刻表現の独自性は 10 代の頃からの木工・ 《Gru》1961 年 漆喰装飾・鍛金などの職人仕事を通して学んで来た経験、蝋作品に取り. ブロンズMuseo Manzu Ardea蔵 ブロンズ 37×20×21cm. 込んで来た経験から、どの段階でも自ら手を加え続けていることから生 まれていたことが今回の調査で改めて明らかになった。それに加え、初 期作品から様々な素材に取り組み、主題と形への絶え間ない働きかけこ そが手触りさえも憶わせるようなブロンズ表現へと導いていることは決 定づけられた。 今回 2018 年 10 月の訪問では遺族インタヴュー協力の機会を得て、未公 開資料調査の機会も得たが、イタリアでの調査期間は短く、一部作品と 展覧会資料から推測・考察するにとどまる点も多く、詳細な鋳造法につ いては鋳造所の公開深く及ばなかったため、今後もマンズーの鋳造法と 彫刻表現について両国での調査を継続し蝋型ブロンズ彫刻の新しい表現 研究へと繋げたい。 最後に、ご遺族のインゲ・マンズー氏、ミレート・マンズー氏、マン ズー美術館職員のスザンナ氏、今回の研究の機会をいただいた中村義孝 【図14】マンズー自宅前 教授を始め共同研究者の先生方、日伊での協力者の皆様に心より感謝を 申しあげます。 - 76 -.

(8) ジャコモ・マンズー作品における触覚感覚をいかした彫刻表現について(1) (武末裕子). 資料① (ジョン・リウォル ド 三木多聞 『ジャコモ・ マンズー』,現代彫刻セ ンター,1975) 作品 No.259. 画像はCD-ROM版をご 利用ください。. 筆者撮影. 画像はCD-ROM版をご利用ください。. 画像はCD-ROM版をご利用く ださい。. 【図16】. 【図17】. マンズーのアトリエ作品の原型、制作道具、 今後公開予定の鋳造施設の当時の写 マン ーの作品のモチーフ 点在する。 真 が. 《Idea per un monumento》 1968 年 (連作の一部)Museo Manzu Ardea 所蔵ブロンズ 37 × 20 × 21cm. ズ. 【図15】. 筆者撮影. 【註】. ⅰ. 若きマンズーの芸術への情熱的独学心は 1929 年に単身パリへ赴き、倒れたところを送還されることから始まり、. 36 年にはパリに2ヶ月滞在、どちらも作風が変わる転機となっている。また、19 歳の頃 (1927 年 ) に母を、24 歳の 頃 (1932 年 ) には父を亡くす。兄の一人も教会の司教として務めるが、早くに亡くなる(1931 年)。. ⅱ. 2004 年の2~6月にこの聖母子像の修復作業がなされ、その記録は『Manzu Universita Catorica』に詳しく記さ. れ、漆喰による修復痕も確認されている。光背と月は銅鍛金、鉄の十字架をイエスが持つ混合素材による作品。. ⅲ. 4つの円形作品で構成され、現在も新規にフレームを組み同じ配置で学内に移設されている。写真は聖人サンマ. ルコを表すライオンの部分。. ⅳ. 1937 年制作、1938 年の第 21 回ヴェネツィア・ヴィエンナーレ出品作品、石膏と蝋による女性の全身座像の小品. であり、近作の《Busto di donna》(1938 年制作 ) 等に類似の特徴がみられる。. ⅴ. 1997 年にヴァチカン美術館に Aldo Rondo 氏より寄贈、他のマンズー蝋作品と比べ、より蝋が薄く、石膏に薄く. ひろげた 1mm に満たない程度の蝋を纏った作品。蝋がごく薄いため、皮膚の質感を鑑賞者に連想させる。. ⅵ. マルティーニへのロッソの影響については 森佳三著『アルトゥーロ・マルティーニ論 「不壊の影」を中心に. して』『日伊文化研究 XLII』2004 年日伊協会発行に詳しい。. ⅶ. アルデアのマンズー美術館と共同開催で同じく扉を主題としたルーチョ・フォンタナの作品と比較して展示され. た。. ⅷ. 正式名称 Museo Tattile Statale Omero は Mole Vanvitelliana, Banchina Giovanni da Chio, 28, 60121 Ancona AN, イタリ. アにある、全ての展示物に触れることができる国立美術館。. ⅸ. 1961 年、題名は運ぶと記してコウノトリの意味、初めて晩年アトリエを構えたアルデアを訪れたマンズーは土地. のシンボルであるコウノトリを目にし、好んで描いた。. ⅹ. FONDERIA di DEL GIUDICE GIACOMO & SARAH Via Di Di Meleto, 2 - 50022 Greve In Chianti (FI) - Italia. 【参考文献】 ・Mario de Micheli, “MANZU”, Edizioni di Corrente Milano, 1942 . ・Nino Bertocchi, “MANZU”, Editoriale Domus, 1943. ・“Raccolta Amici di Manzu”, Roma Arudea, 1969. - 77 -. ゑ No.735,1966. . ーの彫刻と鋳造技術」み. ず. ー鈴木貫爾「マン. . ズ. ・鈴木貫爾「マン. ズ. ・Eduard Huttinger, ”GIACOMO MANZU”, BODENSEE-VERLAG AMRISWIL, 1956. . . ・Anna Pacchioni, ”GIACOMO MANZU Prefazione di lionello venturi”,Edizioni del Milione Milana, 1948.

(9) ジ. . ョン・リウォルト. ー』現代彫刻センター, 1975[資料1] . ャコモ・マン. ー芸術との出合い」. ズ. リ世界彫刻集』, 平凡社 , 1973 ・村上政之「マン . ブ. ズ. ー」『ファ. 第 29 号. ーの彫刻と鋳造技術」現代の眼 No.228, 東京国立近代美術館 , 1973 ・ ズ. ジ. 『. 山梨大学教育学部紀要. ャコモ・マン. ・鈴木貫爾「マン. ズ. ・辻 茂 ,「19. ジ. 平成30年 (2018年) 度. ・Lorenzo Ornaghi/Luciano Caramel/Cristina Casero/Marco Vianello/Luiza Arrigoni Cinzia Parnigioni/Marco Bona Castellotti “Manzu in Universita Cattolica”, Vita ePensiero, 2004[資料2] ・“MANZU: L’ AVVENTURA DI ULISSE”, Museo tattile Statale Omero/Studio Copernico, Bandecchi &Vivaldi,Pontedera, . . 2005・“Manzu Dialoghi sull spiritualita, Con Lucio Fontana”, Barbara Cinelli, Electa, 2016[資料3]. - 78 -.

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