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カトリック両王時代におけるスペインの北アフリカ進出

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カトリック両王時代におけるスペインの北アフリカ進出

林     邦   夫 (1984年10月9日 受理)

The Spanish Advance into North Africa in the Age of the Catholic Kings

Kunio Hayashi 1492年1月2日,イベリア半島におけるイスラム勢力の最後の拠点グラナ-ダ王国が最終的に滅 亡し,レコソキスタの長い歴史は漸くその終末に辿り着いた1)。周知の如く, 1492年はコロンブス による新大陸の「発見」によって,スペインがポルトガルに伍して非ヨーロッパ世界-進出してい く端緒の開けた年でもあった。しかしカトリック両王時代(1474-1516年)におけるスペインの非ヨ ーロッパ世界への進出の舞台としては新大陸のみでなくアフリカもあったことが忘却さるべきでは ない。アフリカ-の進出の舞台は,カナリア諸島を含む西アフリカと,北アフリカ(マグリブ)とに 大別出来る。本稿はこの内の後者について,進出の事実経過を明らかにするとともに,それがカト リック両王の対外政策全体の中で如何なる地位を占めていたのかを指摘することを目的としている。 ところで当時の北アフリカは如何なる政治情勢にあったのであろうか。チュニジア以西の北ア フリカとイベリア半島南部に跨るベルベルの王朝ムワッヒド(Muwahhd-アルモアドAlmohad) 朝が1269年にマリーン  arm)朝に滅ぼされて以来,マグリブにはマリーン朝(中心地フェス Fez ,ザイヤーン(Zayihid)戟(中心地トレムセソ Tlemcen), -フス(Hafsid)朝(中心地チュ ニスTunis)が鼎立していた。マリーン朝は1470年にワトアース(Wat'豆S)朝にとって替わられる から,カトリック両王朝時代のマグリブには西からワトアース,ザイヤーン, -フスの三王朝が横 並びに存在していたことになる。これらの王朝は15世紀末になると内部分裂が進行し,ワトアース 朝ではマラケシュ(Marrakech)がフェスから,ザイヤーソ朝ではオラン(Oran)がトレムセソか ら, -フス朝ではトリポリ,べジャイア(Bejaia-ブージーBougie)などがチュニスから,夫々独 立する形勢を示していた2).かかる内部分裂がスペインの北アフリカ進出を助長する一因となった ことは推察に難くない。そこでまずスペインが北アフリカ-の進出以前にこれらの諸勢力と如何な る関係を結んでいたのか,これを把握しておこう。 Ⅰ 以下では,スペインと北アフリカとの関係を,アラゴソ王(フェルナンド)支配下の地域と旧グ ラナ-ダ王国の両地域夫々と北アフリカとの関係に大別して見ていくことにしたい.

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〔1〕アラゴン王支配下の地域と北アフリカ ここで利用する史料は殆どがアラゴソ王フェルナソドの書簡・王令の類であるが,この中で王 (rey)と呼ばれているのはフェス王,トレムセソ王,ベジャイア王,チュニス王の4人であり,以 下ではこれら4人の王の支配地とフェルナソドの支配下の地域との関係を外交,貿易,皐描,捕虜 の4項目に区分して見ていくことにする。同一事件がこれらの項目の復数に関連することもあり, かかる区分はあくまで便宜的なものにすぎない。最初に史料から知られる事実を要約して列挙し, その後でそれらをまとめるという順序で述べていく。 ( )内の年代は事実を伝える史料の年代で あり,事実そのものの年代とは必ずしも一致しない。 図-カトリック両王時代のスペインと北アフリカ

…lⅢ

カステイ-リャとアラゴンとの間の征服権利領域の大雑 把な境界線(15-16世紀) ドルデシーリャス条約(1494年)でカステイ-リャの権利 領域となった地域 シントラ条約(1509年)でカステイ-リャの権利領域とな った地域

〔資料〕 A.C. Hess, The Forgotten Frontier, Chicago and London, 1978, pp.40-41; A. Rumeu de

Armas, Espana en el Africa atldntica,!, Madrid, 1956, pp.208, 483の三つの図から作成。

(1)フェス王国(ワトアース朝) ①外交。 ④フェス王の使者到来。フェルナンド使者を派遣 することを通知(1482年i3) ⑥フェス王国内の都市Azamorから使者到来(1487年14) フェス王国との関係を示す史料は,上記のような使者の到来を伝える少数の史料のみであるが, これは恐らく同王国には既にポルトガルが進出していたためにフェス王国との関係が密接なもので はなかったことによるものであろう。 (2)トレムセソ王国(ザイヤーン朝) ①外交。領事(consul)が地位を悪用してモーロ人の財 産・商品を横領(1502年.5) ②貿易。 ④フィレンツェ人商人がバレンシアでオラン向けの商品を積

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込む(1489年I6) ⑥6年程前に国王会計長官代理がオラン在住の代理商に1,000 dues.相当の毛織 物を送ったが,この代理商が死亡してトレムセソ王がその財産を没収した。これに対する返還 要求(1501年i7) ①からトレムセソ王国には領事が派遣されていたことが判るが,これは王国内にアラゴソ人商人 などが居留していたことを示すものと考えられる。 ②からは王国の海港都市オランとの交易の存在 が知られ,これには国王も参加していたことが判る。また居留民財産の没収という交易を脅かす事 件の起っていること,イタリア商人が交易に介在していること8)が注目される。 (3)べジャイア王国  ①外交。 ④フェルナソドの使者のマリョルカ商人Verardがべジャイア 王によって拘束。これに対し釈放を要求(1491年)9)0 Verardの引渡しを受けるため使者VenGOn を派遣(1492年)1(サ VenGOrL帰国 Venconを再度派遣するのでVerardを引渡すよう要求(1492 午,ll)。 Verard釈放さる(1493年,12) ⑥べジャイア王の使者RaeぢCacym到来(1493年,13) ㊨ べジャイア王の使者Ciricassi到来(1493年")")- ⑥べジャイア王の使者のための通行証可証の送付 (1494年,15) ②貿易。 ④べジャイアに着いたValloriの船が難破,べジャイア王はこれを理由に商 品を没収し Valloriら商人を拘束。この釈放を要求(1487年116)べジャイア王は要求を容れて2人 を除いて残り全員の釈放に同意。 2人はマリョルカにいる3人のモーロ人捕虜と交換すると通知 (1488年117)残り2人の釈放をべジャイア王に懇請し,このために使者を派遣(1491年118) ⑥アル ジェで死亡したマリョルカ商人たちの代理商の遺言執行人(marmessors)から,べジャイア王の総督 (maxari任)が悪意的に金銭・帳簿を奪う   年119) ⑥サルデーニヤ王国からべジャイアに小麦 を輸出(1491年,20) ④べジャイア王は,キリスト教徒商人が商品売却後に王の臣民に略奪などの 悪行を働くので捕えるのだと弁明(1497年,21) ③事描。 ④べジャイア王は別人によるモーロ人事 輪を口実としてトルト-サ商人Clergueの商品を差押える(1493年,22) ⑥チュニス港でキリスト 教徒がべジャイア王の臣民の船を宰描してバレンシアに連行(1494年,23) ④捕虜。 ④べジャイア 王国にいるキリスト教徒捕虜釈放の交渉のために使者VenぢOnを派遣(1494年,24)。 ㊨ Guillen Ferrerの船が連れ帰ったキリスト教徒捕虜の件を理由として,べジャイア王が王国内のキリスト教 徒商人の身柄を拘束し,商品を押収したことに抗議して釈放を要求(1497年,25)ァルジェで起った この事件のために使者Santa Feを派遣(1497年,26)。キリスト教徒捕虜は自ら逃亡してFerrerの 船に逃込んだのであり責任は監督不十分な捕虜所有者(amos)にあること,商人を釈放すべきこと をベジャイア王に伝えるよう Santa Feに指示(1497年,27)。 以上からべジャイアについての史料はかなり多く,密接な関係があったものと推測される。 ①か らは相互に使者の派遣があったことが確認されるが,注目さるべきは使者となっている者が商人で ある場合が多いことである。商人が交易の傍ら,国王の使者の役割をも果たしていたのである。か かる使者の身柄は④の事例からも判るように必ずしも安全ではなかったことが留意さるべきである。 ②からは交易関係の存在が確認されるとともに,それが商人の拘束や商品の没収などの危険を伴な っていたこと,また⑥の事例からはキリスト教徒側が一方的な被害者なのではなく,相互にかかる

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不正行為がなされていること,それが報復として別の不正行為を惹起するという悪循環が見られる ことが理解される。 ③からは②と同様な報復行為の繰返し,不正行為の相互性が知られる。 ④から は描虜釈放が使者の重要な任務の一つであったことが判る。 (4)チュニス王国(-フス朝) ①外交.@使者Pugeusの信任状(1489年,28)捕虜釈放の要求 などのPugeus -の指示(1489年,29) ⑥チュニス王-の使者であったFrances死亡(1493年i30) ⑥フェルナソドのモーロ人の臣下Abrahim Cerquamがチュニスから到来(1493年i31) ⑧チュニ

ス王の使者Sidus Sachに対する通行許可証の授与(1494年)32)。 Sachの到来(1494年,33) ㊥使者 Francisco de Mayogaを派遣したことをチュニス王に通知(1494年,34) ②貿易。 ④サルデーニヤ の国王所有の穀物をチュニスなどに輸出(1490年,35)。 ⑥ジェノヴァ商人がシチリアから国王所有 の小麦をチュニスに輸出(1493年,36) ⑥シチリアからボーナ(Bona) -の小麦の輸出を,モーロ 人の代金不払いを理由に禁止(1494年,37) ⑥パルセロ-ナ商人Arnedoがボーナでモーロ人と契 約を結んだが,モーロ人は代金を支払わず, Arnedoを掃える(1496年i38) ③皐描。 2人のキリス ト教徒によるモーロ人事輪についてチュニス王に謝罪し,取得した身代金の返還を命じたことを通 知(1494年,39) ④描虜。 ④Verard ((3)①④を見よ)をべジャイア王が釈放するようチュニス王に 働きかけを依頼(1491年,40) ⑥チュニス王の保有するキリスト教徒描虜全員を3,250dues, de oro で釈放することで合意が成る(1493年,41) ⑥チュニスには160人のキリスト教徒捕虜がいるが,シ チリアから輸出される小麦の荷降しの前にチュニス王に捕虜の釈放を交渉したらどうかとシチリア 副王に提案(1493年,42) ⑥チュニスで捕虜になっているフランシスコ修道会士Ortegaの身代金の 不足分を喜捨として国庫から支払うよう命令(1504年143) 以上からチュニス王国関係の史料も多くべジャイアと同様に密接な関係にあったものと考えられ る。 ①からは相互の使者の交換が確認される。 ②からは貿易関係の存在が立証されるが,とくにサ ルデーニヤやシチリアからの小麦の輸出が目立つ。 ③からはキリスト教徒によるモーロ人事描が確 認され, ④からは描虜釈放交渉が具体的に知られる。 〔2〕旧ゲラナーダ王国と北アフリカ 従来,征服されたグラナ-ダ王国の各地と北アフリカとの交易は1487年3月27日付の勅書にお いて初めて許されたと考えられてきたがu¥ Lopez de Coca Castaaerによればこの勅書はかかる内 容を含んでいない45)北アフリカとグラナ-ダとの貿易を許可した最初の勅書は1490年7月15日付 のもの46)であり,グラナ-ダ王国が従来アフリカと貿易してきているため征服後にこれが中止され ると大きな損害がもたらされるので「武器,刀剣,局,木材やその他の法によって禁じられたもの を除いて」 (armis, ferro, equis, lignaminibus et aliis a hire prohibitis exceptis),王国のキリスト教 徒とモーロ人にアフリカとの交易を許す,という内容になっている。この勅書を受けてマラガ市が 同年9月に交易許可をカトリック両王に求め,両王は同年11月8日付の王令47)でマラガ市とその属 域の住民(キリスト教徒とモーロ人)に対して,アフリカのモーロ人と交易する許可を与えている. この許可は1491年3月にマルべ-リャ(Marbella)やアルメリーアにも与えられ48)かくして旧グ

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ラナ-ダ王国と北アフリカとの交易がなされるようになった.主な交易品として,北アフリカ-の 輸出品としては乾燥果実,亜麻織物,綿織物,毛織物など,輸入品としては皮革,染料(インド藍), ろう,落葉松材(造船用),金(サ-ラ産)などが挙げられる49) 注目すべきは, 〔1〕と同様にここでも捕虜の買戻しが交易の重要な契機となっていたことである。 かってグラナ-ダ辺境に存在した描虜身請人(alfaqueque)の制度は, 1508年に復活するまでは存 在せず,従って買戻しは北アフリカと接触をもつ商人が請負うことになった。商人が請負ったのは 買戻しが現金の他に商品と交換になされることも多かったためである50) 以上, 〔1〕 〔2〕からアラゴソ王支配下地域と旧グラナ-ダ王国の双方が北アフリカと交易関係を もっていたことが明らかとなったが,留意すべきはかかる交易が双方からの事描・没収などの危険 を絶えず学んだ緊張したものであったことである。捕虜の存在に象徴されるように両者の関係は決 して友好的なものではなかったのであり,かかる事情がスペインの北アフリカ進出の一因となって いると考えられるのである。そこで次に軍事的側面からスペインと北アフリカとの関係を見ていく 必要が生じてくる。 Ⅱ グラナ-ダ王国滅亡後,モーロ人は現地に留まってカスティーリャ王権の支配に服するか,或い はイスラム勢力の支配する北アフリカ-と移住したが,王国滅亡によってイスラムの脅威が消滅し た訳ではなかった.残留したモーロ人(ムデ-ルmudejares)の反乱の危険性が潜在していたし, 北アフリカのモーロ人が旧グラナ-ダ王国の海岸に攻撃を加え,略奪を働く危険性も大きかった. しかもこの地域に侵入者の同宗者が居住していることを考えれば,かかる危険は一層大きかった, といってよい。とくにこれは改宗強制を契機とするムデ-ル皮乱(1500-1501年),ムデ-ルに改宗 か国外退去かの二者択一を迫った1502年2月11日の勅令以後,深刻の度を増したといえる。諸年代 記の記述がこれを窺わせる。 べルナルデスは「モーロ人たちはキリスト教徒が彼らを強制的に改宗させようとしているのを見 ると,すぐに向う(allende-北アフリカ)のモーロ人と通じて,彼らが夜間にフスタ(fusta-軽快 帆船)で到来してモーロ人を運び去り,モーロ人とともに聖職者や見つけた者すべてを連れ去っ た」と述べているが51)ここでは北アフリカのモーロ人が同宗者を運ぶ序でに52)キリスト教徒を も泣致し去ったことが判る。またサンドパルは「ベルベリーアのモーp人海賊はスペインに住むモ ーロ人から黙契と通報を得てグラナ-ダ王国の海岸を略奪・強奪した。スペインのモーロ人もまた 路上で追剥・強盗を働き,キリスト教徒を掃えて海賊に売渡した」 (1507年,53)また「アフリカか ら多くの海賊が現われるため航海も出来ず,スペインの海岸地方では生活も出来ない程であった。 カトリック王はアフリカで戦争を行なうことを熱望し,自らアフリカ-渡ろうと考えさえした」 (1509年^54)と述べており,モーロ人海賊の跳梁の甚しさを伝えている.かかる事態に対してスペ イン側は如何なる対策を講じたのであろうか.端的にいえば,それはグラナ-ダ海岸地方の防備強

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化であった。以下この点を見ていこう。 まず1492年6月のマラガ司教区内の諸市町村宛のフェルナソドの布告55)を見ると「キリスト教徒 が向うのモーロ人から蒙ってきた多大なる損害を避けるために,如何なるムデ-ルも海岸から1レ グワ以内に立入り,居住してはならない」と命じたが,ムデ-ルが出漁のために海岸近くの居住許 可を願い出て,その代わりに防備兵を維持する費用の負担を申出たためにこれを許したとある。こ の史料からほ内応の危険のあるムデ-ルを海岸から遠ざける措置が最初に試みられたが,これが彼 らからの申出によって,彼らからの貢納を財源とする防備の充実に変えられたことが判明する56) 同じ頃キリスト教徒の防備兵の他にムデ-ルの防備兵も配置することが取決められ,後者の過失に I よってキリスト教徒が捕虜となった場合には4ケ月以内に買戻すことが義務づけられた57)しかし 後にはこの義務は一定の金額と引換えに免除されるようになった。例えば1495年11月にはかかる主 旨で,ロンダ(Ronda),マルべ-リャのムデ-ルとの間で9,000 doblasの貢納支払いが取決めら れ,また同じ頃べレス・マラガ(Velez-MAIaga)地方,ア-ルキーア(Axarquia)地方のムデ-ル とも同様な取決めがなされた58) このように各地方単位で防備充実が図られていったが1497年には旧グラナ-ダ王国の各地方に ついて維持さるべき防備兵の数とその費用のムデ-ルへの割当が全王国的規模で統一的に規定され た59)かかる全王国的規模での統一的な規定はその後1501, 1512, 1514年の各年に出されており60) 1501年以後は, 1497年には海岸地方のムデ-ルのみが負担して割当が,内陸部のムデ-ルにまで拡 大されるようになった61) ところで海岸地方の防備はどのようになされていたのであろうか。これについては海岸沿い に見張塔(atalayas)が建設されてこれが防備の拠点となった。この塔には円筒形のものと角柱形の ものとがあるが,前者は征服後にキリスト教徒が建設したもので,後者は征服前にイスラム教徒の 建設したものを接収して利用しているものである62)これらの見張塔に歩兵(peones),偵察騎兵

(caballeros a叫adores),伝令騎兵(ca. requeridores)などが配置され,一定の給与を支給された63)。 海岸防備はこれらの陸上のもののみでなく防備艦隊によってもなされた64)これにはアンダルシー アやバスクの船舶・船員が利用され,北アフリカへの進出の進展とともに恒常化していったが,莫 大な費用を要するために維持が困難であり,また一時に全海岸を防備することは当然出来ないから 大きな効果はあげられなかったものとされている65) 以上の如き海岸防備は一定の効果はあったであろうが,海賊出撃の拠点たる北アフリカが野放し になっている以上,所詮は根本的な対策とはなり得なかったといえよう。そこで北アフリカそのも のの征服が抜本的対策として打出されてくるのは当然の成行であったと考えられる。だが北アフリ カ征服にはかかる軍事的理由の他に宗教的動機もあった。以下この点を見ていこう。 まずフェルナソドが北アフリカ征服戦争をどう捉えていたかについては在ローマ国王使節 Geronimo de Vich宛の諸書簡から窺うことが出来る.例えば1508年1月22日付書簡66)は「余らは, 我らの主の聖寵によって,今春,聖なるカトリックの信仰の敵たるモーロ人に対して強力な軍隊を

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J i j I 一 月 ■ . ∵ 、               ∴       L t r ト ト り 1       ▲                                         ↑                   -    二 ・ ・ -︰                             ▼ -き し ・ 三 一 ︻ 派遣し,ベルベリーアのすべての海港を占領するよう努めねはならぬということで一致した」と述 べ,かかる戦いを「聖なる征服」とか「聖なる企てと征服」と呼んでいるし, 1509年6月10日付書 簡67)はこれを「異教徒に対する聖なる戦い」と表現し, 1510年2月28日書簡68)は「余が我らの信仰 の敵たる異教徒に対する戦いに取組んだのは決して欲得ずくの考えからではなく,唯,我らの主た る神とキリスト教の発展のためにかかる戦い-と向う余の生来の僚向の故にである」としている。 次にイサベルについてはその遺言状の一節が端的にその意図を物語っている。ここでイサベルは後 継者たる娘フアナとその夫フェリーペに対して「カトリックの君主として神とその聖なる信仰の栄 光に大いに配慮し,その守護と防護と高揚に意を用い,努力するように」求めた後に, 「アフリカ の征服や異教徒に対抗して信仰のために戦うことを止めることがないように」指示しているのであ る69)以上からカトリック両王が北アフリカ征服戦争を聖戦として位置づけていたことは確かであ ろう。 ところで北アフリカ征服が聖戦としての性格をもっている以上,教皇の動向が関係してくるが, その際クルサーダ(crusada-教皇の許可を得て対異教徒戦のために購宥の付与と交換に集められた 喜捨)や十分の-税の付与と戦争-の従軍者に対する購宥の付与とが問題となる。北アフリカ遠征 のためのクルサーダと十分の-税の最初の恵与は1494年11月12日付勅書で与えられたが70)同年12 月17日にはアフリカでのモーロ人に対する「聖なる遠征に加わり自ら戦う者や戦う者に費用を送る 者」 (tarn sancte expeditionis pensonaliter militantibus seu alios militantes suis expensis mittentibus) に対する購宥の付与の延長がなされ71)更にこれは翌年12月17日に再度延長されている72)。 1504年 2月3日の在ローマ国王使節Fernando deRojas宛のカトリック両王の書簡73)は,教皇ユリウス2 世が十分の-税,クルサーダ,聖年の全購宥(jubileo)を恵与したことについて教皇に謝意を表す るよう指示している1506年2月13日付のフェリーペ1世のローマ-の使節宛書簡74)はフェルナソ ドの意を受けて,クルサーダと十分の-税付与を教皇に要請するよう指示している。同年3月24日 にはメルス・ -ル・ケビール(Mers-el-Kebir=マサルキビールMazalquivir)の陥落を慶賀して十 分の-税が恵与されているが75) 月14日付の   宛のフェルナソドの書簡は76)サレルノ枢 機卿へのレオン司教職譲与の承認と引換えに十分の-税とクルサーダの恵与を教皇に求めるよう指 示している1507年2月16日には前年の十分の-税付与が更新されている77)がその後は付与はなか ったようで, 1508年1月22日,同年5月27日, 1509年6月10日, 1510年3月18日付の夫々の国王使 節-の指示書78)は,クルサーダや十分の-税付与の勅書の獲得を命じている1510年3月26日には アフリカでの戦いの従軍者に全購宥が与えられ, 1511年2月2日にはこれが戦死者にも付与された が79)クルサーダや十分の-税の付与はなく,同年3月2日付でまたもや十分の-税付与の勅書獲 得が指示されている80)このように北アフリカ遠征には教皇の後援があったのであり,この点から もその戦いの聖戦的性格を指摘することが許されよう。 以上を要するに,北アフリカ征服はモーロ人の軍事的脅威の除去と,異教徒たるモーロ人の討伐 を目指して遂行されたのであり81)ォラン遠征を前にフェルナソドが枢磯卿シスネロスに語ったと

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サンドパルが伝えている次の言葉はこれを集約的に表現している。 「神に対する奉仕のために,そ して向うのモーp人が日ごとこの王国,とりわけグラナ-ダ王国とアンダルシーアの各所に加える 害悪と被害を避けるために,向うのモーロ人に対する戦争を強力に遂行することに余は同意し た」82) Ⅱ 以上の如き原因・動機を背景としてスペインの北アフリカ-の進出がなされたのであるが,北ア フリカ進出は既にポルトガルが先鞭をつけており,その後塵を拝するスペインとの競合が当然問題 となって釆ざるを得ない。そこで以下ではこの問題について検討していきたい83) 極めて漠然とした形ではあるが,北アフリカ進出は既にレコンキスタの過程においてイベリア諸 王国によって考えられており, 1291年カスティーリヤ王サンチョ(Sancho) 4世とアラゴン王-イ メ(Jaime) 2世との間で結ばれたモンテアグード(Monteagudo)条約では,両王国間の北アフリカ への進出分野がムールーヤ(Meulouya)川を境として東側がカスティーリャ,西側がアラゴンとい う形で画定された。しかし両国とも北アフリカに進出する余裕のない間に,ポルトガルがセウタ(14 15年),アルカサルセゲル(Alcazarseguer 1458年),アルシーラ,タンジール(1471年)といち早 く征服の歩を進めてしまったのである。 1474年のイサベルのカスティーリャ王位継承に異を唱える姪のベルトラネ-- (Beltraneja)及び その夫のポルトガル王アフォンソ5世とカトリック両王の間との王位継承戦争は, 1479年9月4日 のアルカソヴァス(Alcacovas)条約で結着を見たが,この時にアフリカに対する両国の権利につい ても取決めがなされた。そこでは,カトリック両王とその後継者は「フェス王国の征服を決して企 てないこと」,逆に「ポルトガルの国王や王太子及びその後継者は自由にその征服を続行出来るこ と」,が確認され84)これは1481年6月21日付勅書Alteri Regisによって教皇の追認を受けた85) これによってモンテアグード条約で定められたカスティーリャの領分が消失したことになるが,カ スティーリャとアラゴンとの暗黙の合意によってアルジェ(Algier)付近を境として東側をカステ イ-リャの,西側をアラゴンの勢力分野とする慣例が出来上がっていった.例えば1502年2月28日 のフェルナンドの書簡には「べジャイア王国及びチュニス王国の征服がアラゴン王権に帰属してい ることは,ずっと以前からの共通の見解であり,公けに世に知られている」とある86)従ってカス ティーリャほ大雑把にいってトレムセン王国を勢力分野とすることになるO 前述のようにフェス王国はポルトガルの勢力範囲となったが,メリーリャ(Met  という.フェ ∫ ス王国とトレムセン王国の境界に位置する町の帰属が酸味であり,ポルトガルは前者に,カスティ J)ヤは後者に帰属すると主張して争論になってい_た。周知のように1494年6月7日にはスペイン とポルトガルとの間でトルデシーリャス(Tordesillas)条約が結ばれた。この条約は通常, 1493年 の所謂「教皇子午線」を西方に移動したものとしてのみ知られているが,実はトルデシーリャス条 約と称されるものには二つあり,これはその内の第一条約であり,もう一つアフリカにおける両

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国の漁業権とフェス王国の境界とを定めた第二条約が存在する。これによって「カスティーリャ女 王とアラゴン王はメリーリャとカサ-サ(Cazaza)の町をモーロ人から獲得することが出来,自ら とその諸王国のためにそれらを領有出来る」ことが確認され87)フェス王国の境界はカサ-サの外 れまでというスペイン側にとって有利な形で解決された。 ところが1508年スペインがペニョン・デ・べレス・デ・ラ・ゴメ-ラ(Peaon de Velez de la Gomera)を占領するという挙に出たため両国間の対立が再燃した.べレスはトルデシーリャス条約 で設定された境界線のポルトガル側に位置しており,スペインによる占領は明らかに条約に違背す る行為であった。当然ポルトガル側からの引渡し要求があったが,これに対してフェルナンドほ 1 1508年9月のポルトガル王使節-の書簡88)で,占領はべレスからグラナ-ダ王国の海岸-の襲撃を 除くためであり他意はないこと,べレスは王国に属さずそれ自体独自の勢力であるという者も多い こと,ポルトガル王(マヌ-ル1世,フェルナンドの女婿)に代わってフェルナンドが当分ペニョン を領有するが,占領の経費を支払えば将来引渡すこと,などを述べている。ポルトガル王はこれを受 けて1508年11月24日付指示書89)で,フェルナンドはべレスがポルトガルに帰属していることを認め ている以上,当然これを返還すべきであるとの立場をとっているが,同日付の別の指示書90)ではこの 要求が容れられなかった場合には次の代案を提示するよう命じている。それは,ポルトガルはべレ スをメリーリヤ,カサ-サに至るまでフェルナンドに与えるが,その代償としてフェルナンドはフ ェス王国の境界からボ-ド一ル(Bojador)岬,ナム(Nam)岬までのベルベリーアの海岸について カスティーリャがもち得る権利を放棄するというものであった。この後半の部分が具体的にどこを 指すのか必ずしも明らかではないが,何れにせよべレスに対するポルトガルの権利と西アフリカ海 岸におけるカスティーリャの権利とを交換しようとする内容のものであることは確かであろう。一 万12月12日付のフェルナンドの回答91)は,カスティーリャの勢力範囲内のアゲル(Aguer)岬に築い たポルトガルの要塞の件をもち出して,ポルトガル側もトルデシーリャス条約を破っており,双方 に非があるのだから,これらが同時に匡されるべきだと逆襲に出ている。結局,べレス問題は1509 年9月18日のシソトラ    条約92)で最終的に解決した。条約の主な内容は, ①ポルトガル王 はべレスとべレスからメリーリャ,カサ-サまでの海岸地方すべてをカスティーリャ女王フアナに 与えること(但しべレスの属域はセウタ方向には6レグワ以上は広がらない), ②フェルナンドは ①の6レグワの位置の境界線からセウタ方向に向かいフェス王国を含んでボ-ドール岬,ナム岬に 至るまでのすべての地域にカスティーリャが有する権利をポルトガル王とその後継者に差出すこと (但しマール・ペケ-ニャMarPequefiaはカスティーリャに属するからそこのサンタ・クルスの城 砦は攻撃しないこと)であり,先のポルトガル王の代案にほぼ沿った形で結着していることが判る。 こうしてシソトラ条約によって北アフリカにおけるスペインとポルトガルの勢力範囲は完全な画定を 見ることになる。 以上のようなポルトガルとの葺藤を惹起しつつスペインの北アフリカ進出が実行されていったの であるが,これを念頭に置きつつ次に征服の具体的事実経過を辿っていくことにしよう。

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Ⅳ スペインの北アフリカにおける最初の征服は1497年のメリーリャ征服であるが,これ以前に北ア フリカ-の進出の契機となり得る動きがあった。かかる動きとは北アフリカの各地をカトリック両 王に帰服させようとするものであるが,それらの中で史料から知り得る最も早い時期のものは, 1492年10月30日付のカトリック両王が2人のユダヤ人に与えた証書93)から知られるもので,ここで は2人のユダヤ人がトレムセソ王国のメルス・ -ル・ケビールの町と城砦の引渡しを実現すると申 出たことを受けて,両王はもしこれが-年以内に実行されたなら2,000 castellanos de oroを恵与 すると約束している。 類似の動きはこれ以後も見られるが,それらはすべて国王秘書サフラ(Hernando de Zafra)を 中心になされたものであり,フェルナソド宛のサフラの一連の書簡からその内容を把握することが 出来る。サフラほ甥のロレンソ(Lorenzo deZafra)などをアフリカに派遣して偵察的行動をとらせ ており,かかる行動が一連の帰服の申出の契機となっていたようである1493年7月28日付書簡94) はこうしたロレンソらの行動の結果,トレムセソ王国内のタバアリーケ(Tabaharique)のシャイ-(jeque)が到来し,この町とその近傍のティゲソテ(Tiguente,ここのシャイ-はタバアリーケの シャイ-の義兄弟)とを差出す用意があると申出たことを伝えているし1494年1月14日付書簡95) はティゲソテとタバアリーケのシャイ-が使者を送ってきて,彼らが「陛下に仕える非常に堅固な 意志をもっていること」を伝えてきたことを知らせ, 「ティゲソテの城砦は神の御手によって提供 された物以外の何物でもない」として暗にその奪取を促しているのである。またメルス・-ル・ケ ビールに関しても,そこの守備隊が給与不払を理由に撤収してしまい,そこには「防衛能力のない 町の人々しか見当らず,彼らは陛下に臣服する以外の方策については語っていない」という知見を 伝えて,これまたその奪取を勧めているのである。同年2月12日付書簡96)は,メリーリャの住民が 「事実上,陛下に服属しており,フェス王の城代を追放して城砦を占拠した」事実を伝え,また「巨 大な艦隊をもってすれば」オランもメルス・-ル・ケビールもその他の町々も「住民を死に絶えさ せるか,陛下に服属するか以外の方策しかもち得ないから」残らず降伏するでありましょう,と甚 だ楽観的な見通しを述べている。そして最後に前の書簡で伝えたメルス・ -ル・ケビールの件につ いても指示を与えるよう要請している。 同年2月25日付書簡97)は,カサ-サの城砦とそこから内陸-1.5レグワ入った地点の城砦-ベル (EI Geber)の支配者が雨域砦を引渡して陛下に臣従するという交渉が新たにもち上がったことを 知らせた後に「私が今まで陛下に知らせて参りましたすべての事柄について,陛下は回答するよう 私に命じられておりませんので,私には陛下の御意向が奈辺にあるのか存じませんが,それらの事 柄に耳を傾け,良しとして受入れ,それによって私に出来ることを行ない,陛下の御命令を待つこ とに致します」と告げているが,ここからほカトリック両王がそれまでのサフラの再三の働きかけ に応じて来なかったこと,サフラが頻りに正式な交渉に入る許可を両王に求めていることが知られ

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る. 4月25日付書簡98)でもメリーリャに関して両王の決断を迫っており,メリーリャのモーロ人に 代替地を下賜すれば彼らは町を引渡すであろうという見込みを述べ,またこの町が堅固であり,且 つサ-ラの金やフェス,トレムセン,べジャイアなどに向う多くの物産の積出港の近くにあること などを指摘し,メリーリヤを征服すればこれらすべてが手に入ると説いて,実利をもって両王を遠 征に跨切らせようとしている。同年11月25日にはサフラとオランの或るモーロ人との間で,後者が 4ケ月以内にオランの城砦を引渡すという条件で,後者に5,000 doblasを恵与し,今後充分なる 年金とグラナ-ダ市の2つの属村を下賜するという内容の取決めが結ばれているが99)注意すべき はこれが両王と当該モーロ人との間で結ばれたのではないことで,恐らくはサフラの私的な取決め か,或いは王権の承認を見込んだ仮の取決めではなかったかと推測される0 以上の一連の文書からは1492-1494年の間にメルス・-ル・ケビール,タバアリーケ,ティゲ ソテ,メリーリャ,カサ-サ, -ベル,オランといった北アフリカの各地から帰服の申出があった ことになるが,サフラの伝えるこれらの内容がどれ程信濃性や実現可能性があったのか,またカト リック両王がサフラからの働きかけに具体的にどう対応したのか詳細は不明である。しかしこれら の文書の中には既述のように両王がなかなかサフラの働きかけに応じずサフラが指示を求めている 箇所があり,かかる点から推測するなら,両王はアフリカでの知見の収集はともかく,実際の攻略 に踏切るにはまだこの段階では消極的であったのではなかったかと思われる。両王の意向がどうであ ったにせよ,これら多くの帰服の申出のうち,現実化したものが皆無であったことは確実である。 Ⅴ 以上のように史料から知り得る帰服をめぐる動きは,結局,何の成果ももたらすことなく1494年 をもって終息したが,その後2年半余りの空白期間をおいて北アフリカにおける最初の征服である メリーリャ征服がなされた。以下,これを噂矢とする一連の征服を見ていくことにしよう100) 〔1〕メリーリャ101)カサーサ102) メリーリャ征服の契機についてはバランテスとバディーリャの二つの年代記が詳しいが,その伝 える内容は互いにかなり異なっている。多くの相異点のうちで注目されるのは,前者がメリーリャ 征服をメディナ=シドニア(Medina Sidonia)公の自発的な独自の行動としているのに対して,後者 は両王の許可を得てなされたとしている点であり,この点についてべルナルデスはより直裁に「国王 フェルナソドの命令によって」と表現している。一体どちらの膚己述がより信頼に値するであろうか。 バディーリャは公が自ら遠征に赴いたとしているが,メディナ=シドニア公家(ニ-ブラNiebla 家に仕えた年代記作者バラソテスは公ではなく,公の筆頭勘定役(contador mayor)であるエスト ビニヤン(Pedro de Estopi丘an)が遠征に赴いたとしている。ニ-ブラ家に仕えその事蹟に通暁し ている筈のバランテスがかかる基本的事実を誤まるとは考え難いし,その事実を歪曲せねばならな い理由も想像出来ないから,バディーリャの方が誤まっていると考えられる。かかる基本的事実の 誤まりを含むメリーリャ遠征についてのバディーリャの記事は,信愚性に疑義があるとしなければ

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                        -                リ り M                 -                                -                    1 = = 篭 30      カトリック両王時代におけるスペインの北アフリカ進出 ならない。次にべルナルデスについては1492年に公位を襲った第三代メディナ=シドニア公に対 してイサベルは襲位承認と引換えに公の所領ジブラルタルの譲渡を迫って公がこれを拒否した事実 があり103)これから推すと1497年の時点では王権と公との間に利害対立があったと考えられ(ジブ ラルタルの王領化は1502年),公が王権の命令をうけて遠征を実施するというような関係にはなか ったのではないかと推測される。また王命によるものであれば,後述のカサ-サ征服の場合のよう に事前の証書の授与があって然るべきだと思われるが,かかる証書は現存していない。バランチス については,メリーリャ征服を公の功績に帰せしめようとして王令を隠蔽したという説104)もある が,たとえ征服が王権の命令によったものであるとしても,征服の実際の功労者が公であることに 変わりはないのだから殊更にこの事実を無視せねはならぬ理由は存在しないと思われる。以上から, メリーリャ征服は公の独自の意志によるものであったと判断するのが妥当であろう。 さて,メリーリャはフェス,トレムセン両王国の境界にあったため帰属をめぐる争いが絶えず, 住民がこれを避け移住して人口が減少し,町の防壁も破壊されたことを知ったメディナ=シドニア 公はこれの征服を決意し,エストビニヤンを指揮者として軍隊を派遣した。エストビニヤンはサン ルカール(Sanlucar)を出帆, 1497年9月17-18日の夜にメリーリャに到着して防壁を補修・強化 し,攻囲したモーロ人が翌朝これを見て驚いて退散するという経過で,殆ど抵抗もなく占領され た105)。エストビニヤンは公の家臣のチクラーナ(Chiclana)城代を残して帰国した。カトリック両 王はエストビニヤンの勲功に対して, 10月21日出身地-レスの市参事会員職とサソティヤーゴ騎士 団員職とをもって報いた106) 占領後のメリーリャの統治は如何なる形で行なわれたのであろうか。 1498年4月13日付の両王と 公との間の協定(5月1日発効^07)では,両王は「メリーリャの町の維持と防守とをかの公の責務 とするよう命ずる」とした上で,公がこのために次のような兵力を保持すべLとしている。即ち, 近衛兵(escuderos de nuestras guardas) 200,大弓兵(ballesteros) 300,長銃兵(espingarderos) 100, 砲兵(tiradores) 20であり,このうち近衛兵200,長銃兵60,砲兵19は王権側が提供することにな っている108)。兵士の他に官吏35,水夫40 (4隻の擢船のための人員),聖職者2,などの配置さる べき人員とこれらすべてに支払われる手当も規定されている。これらはすべて公の責任において給 養されるが,そのための費用として王権は公に, 3,810 fanegasの小麦, 30万mrs.の午金,教会・ 家屋・保塁の建造費として100万mrs.を与えることを約束している。 このようにメリーリャの駐屯部隊は,王権と公との共同部隊であったといってよいが,本国から 海を隔て敵地に囲摸されたメリーリャにとって糧食の補給が重要な問題となったことは推測に難く ない 1498年7月18日付のサフラ宛のフェルナンドの書簡は109) メリーリャには質の悪い堅パン の補給しかないという報告があったため,公に対してその原因を調査し善処するよう命じたとあり, 9月6日付の公宛の書簡110)では「メリーリャには通常の必要人員の他に糧食を食する以外に何の役 にも立たない多くの者がいる」ので,番らを追放するよう命じ,またその供給が公の責務となって いる糧食やその他の必需品の不足を知らせ,対処するよう迫っている。以上からメリーリャの維持

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ほ必ずしも円滑にはなされてはいなかったことが判る。 ところで敵地に囲まれたメリーリャは当然攻撃に曝される機会が多かったものと想像されるが, かかる攻撃の拠点としてメリーリャから2レグワに位置するカサ-サがあった。メディナ=シドニ ア公の要請に基づいてであろうが, 1504年10月4日,公が自らの費用でモーロ人からカサ-サを奪 うならば,この町をその城砦・属柑・属域とともに公に恵与し,公にカサ-サ侯の称号を授与する という内容の恩恵(merced)がフェルナンドによって下賜されているIll) 実際の征服は1506年4 月に第二代メリーリャ城代Mariao de Riberaによって実行され,上記の内容通り公はカサ-サ侯 に叙せられている。 〔2〕メルス・エル・ケビール112) メルス・-ル・ケビールは海賊の出撃地であり,ヴェネツィア商人Vianelloがフェルナンドに 進物を差出してここの海賊から蒙る被害について訴え,枢機卿シスネロスもこれを聞き国王に働き かけ資金提供を申出たことが征服の契機となった113)近習頭(alcaide de los donceles)のコルド メ(Diego FernAndez de Cordoba)を司令官とする遠征軍は1505年9月1日にマラガを出帆, 10日 にはメルス・ -ル・ケビール沖に到着,海陸から攻撃を加え,その結果城代との間で城砦引渡しの 合意が成り, 13日にスペイン軍は入城した。こうしてメルス・-ル・ケビールを占領したコルドバ は9月一杯ここに留まり 500人の部隊を残留させて帰国した114) 占領後のメルス・ -ル・ケビールについて詳しい知見は得られないが, 1506年6月12日付のIuan Lasoなる者のフェルナソド宛書簡115)が若干の知見を提供する。ここでLasoは,国王は700人程 度の駐屯兵が必要なのではないかと打診してきたが現在の500人で充分であること,同年1月1日 から兵士-の手当が支給されていないが 3,000 dues.あれば支払えること,パルセロ-ナの2人 の商人と小麦調達の取引を結んだことなどを報告している。この書簡からも窺えるようにメルス・ -ル・ケビールもメリーリャと同じく本国からの補給に頼って存続していたが,内陸部-の略奪行 がなされたこともあった。コルドバは1508年8月にイタリアから軍勢を率いてメルス・-ル・ケビ ールに入り,そこからオランから5レグワの地点まで侵攻,多数の牛・騒舵を略奪するがモーロ人 に攻囲され,苦戦の末メルス・ -ル・ケビールに逃戻るが,多数の死者・描虜を出すという惨敗を 喫している116)この事例は,内陸部-の進出が困難であり,メルス・-ル・ケビールの確保が精 一杯であったことを物語るといえよう。 〔3]ぺニョン・デ・ベレス・デ・ラ・ゴメーラ117) ペニョソ征服は偶発的な事件であったといってよい。フェルナンドは自らの摂政の権限を認めな いカスティーリャの一部の貴族を討つべくマラガに艦隊を集結させ,歩兵部隊総司令官(capitan general de la infanteria)のオリベート(Oliveto)伯ナバーロ(Pedro Navarro)を指揮官に任じて いたが,その折モーロ人によるアンダルシーア海岸襲撃の知らせが入ったため急速ナバーロに出撃 を命じた。ナバーロはモーロ人海賊をべレスまで追尾したが,その前面にある吃立する岩山の小島 (ペニョソ)から砲撃が加えられた。ナバーロはべレスを拒するこの小島の攻略を決意し, 1508年

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7月23日に占領に成功,ここからベレスに砲撃を加えこれを破壊した。ナバーロは5門の投石砲と 30人の兵とを残して帰国した118)。かくして占領されたペニョソは, 14年後にモーロ人に奪還され るまでスペインの手中に留まることになる。         ・ 〔4〕オラン119) オラン遠征が正式に決定したのは1508年12月29日にフェルナソドと枢機卿シスネロスとの間でオ ラン遠征についての取決めがなされた時であったとしてよい。これはシスネロスが資金を調達して 自らアフリカに赴き,フェルナソドほ必要な権限をシスネロスに譲与し,資金はクルサーダや上納 金をもって返済する,またオランをトレード大司教領に編入するよう教皇に働きかける,という内 容であった120)。翌30日付でフアナの名において王国の各都市参事会宛にシスネロスの「聖なる特 筆すべき熱意に起因する戦争」が告知され,このために船舶や糧食などの供用に便宜を図るよう命 じられている121)。 1509年1月19日付でやはりフアナの名において遠征に兵士として参加する者の 徴募が布告されている122)。 2月にはナバーロとシスネロスとの間でも取決めがなされ,糧食・船 舶・兵力などの実際面においてはすべてナバーロが責任をもつことになった123) ナバーロを指揮者とする遠征軍は1509年5月16日にカルタ--ナを出帆,翌日にメルス・ -ル・ ケビールに到着,翌朝上陸してオランに向うが,途中の山中で待機していたモーロ人軍と戦闘が行 なわれてモーロ人側が敗退してオランに逃戻り,これを追撃したスペイン軍がそのままオランを征 圧するという経緯でオラン征服が実現した。シスネロスは占領3日後に入市し,メスキータを聖別 して教会に変えるなどの事業を行なったが, 23日には早々と帰国してしまう124)いかにも唐突な この帰国の原因は何であったのであろうか。 これについては6月12日付のシスネロスの書簡125)が手懸りを与える。シスネロスはこの書簡で 「伯ナバーロと余とはカルタ--ナで合流して以来今日まで,命令事項で一致することは決して出 来なかった」としてその原因を挙げていく。第一に,ナバーロの集めた部隊長たちは「略奪兵」 (almogarves)のようであり「略奪・強奪するためにやって来た」輩であるが, 「余は他の事〔オラ ン征服という聖戦〕を行なう決意でいる」から一致はあり得ない。第二に,ナバーロは不正を防ぐ ために給与を部隊長ではなく直接兵士に支給することに合意したのに,部隊長たちがやって来ると 態度を更めた。第三に,オランに到着したら兵士全員を上陸させることで合意が成っていたのにナ バーロは歩兵しか上陸させなかった.このような事例を列挙してナバーロを非難した後, 「伯がやっ て来て,余が彼にとって邪魔者であり,もし余が彼の為すがままにして彼地より去れば,彼はそこか ら全アフリカを征服するであろうと言った」ことを述べている。ここにはシスネロスの屈辱感が瞭 然としているが,かかる両者の不和こそシスネロスの突然の帰国の原因であったと考えられるので ある。聖職者としてひたすら異教徒討伐という観点から遠征を捉えるシスネロスと,実利的関心を もった現実的戦術家としてのナバーロとの間の落差は,やはり大きかったと言わねばならない. 占領後のオランの統治について,フェルナソドは自らが会長を務めるサソティヤーゴ騎士修道会 を利用しようと考えていたことが在ローマ国王使節宛の一連の書簡から知られる1509年10月11日

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付書簡では,同騎士修道会の二つの修道院をオランに移して新しい修道院を建設する許可を教皇か ら得るよう指示しており,同年12月15日付では騎士修道会総会でこれが承認された旨を伝えて許可 の発給を促すよう指示しており, 1510年3月18日付でも催促の指示がなされている126)。 1514年4 月14日付では「騎士修道会の僧衣を受取ることを望む者には,オランに設立を命じた修道院でしか 与えてはならない」ことを総会で定めたことを伝えており127)赴く者が少なかったであろう遠隔 の地オランへ修道会加入希望者を送込もうとする企図が窺われる。これに関連してオランにどれ程 の人員が配置されていたかについては, 16世紀初頭のものと比定されている一文書128)が知見を与 えてくれる。これはオランの防備に必要な人員として,騎兵50,砲兵50,歩兵200,一般住民200の 計500という数字をあげ,彼らの維持に必要な糧食や給与のための費用を17,096 doblasと計上し, オランからの収入が27,000 doblasあるので国王の収入は差引き9,900 doblasあると報告してい るが,注目すべきは収入の中にトレムセソ王の支払う関税6,000 doblasが含まれていることであ り,オラン奪取が経済的利益をももたらしたことが判る。 〔5〕ベジャイ7,アルジェなど129) オラン征服を果たしたナバーロは, 1509年11月30日にオランを発ちイピサ湾のFormentera島で 越冬, 1510年1月2日にべジャイアに向けて出帆して5日に到着,翌日これを占領した。ナバーロ は6日付書簡でフェルナソドにべジャイア陥落を報じ130) フェルナソドはこれを教皇ユリウス2 世に伝えている。教皇は2月15日付教皇令書で131) 「汝の高貴なる勲功と,勝利を続行してキリスト 教を弘布せんとする汝の聖なる意図とを称揚する演説会」を22日に開催する旨を告げてフェルナソ ドを鼓舞している。かくして占領されたべジャイアはアルバ    公の息子ガルシーア・デ・ト レード(Garcia deToledo)に下賜された.敗れたべジャイア王Abderramenは妻(チュニス王の 娘)や家臣とともに脱出して近傍の山中に野営した。 Abderramenは甥のAbdallaから王位を纂奪 していたが, Abdallaはべジャイア陥落を知り4月3日にナバーロの許に現われ協力を申出たため, ナバーロは彼の協力を得て4月13日にAbderramenを野営地に襲って撃破した。べジャイア降伏は 他の地域にも波及効果を及ぼした。アルジェはナバーロからの降伏勧告を受諾してキリスト教徒捕 虜を解放し, 1510年1月31日には,フェルナソドはモーロ人の信仰・特権・貢納の従来通りの維持, モーp人側はフェルナソドへの臣従と貢納義務の負担を夫々約束するという内容の降伏協定が結ば た。この他にTedelis, Gu軸rも同様に降伏を申出た132) ナバーロはスペイン側に加担したAbdallaと協定を結ぶべきだと考えて5月3日付でフェルナソ ドに書簡を送ったが,これに対する5月付の回答133)の中でフェルナソドは,協定を結ぶとすれば, ①べジャイアの町とその属域及びその収入・裁判権とその他の海岸沿いの諸市町村は全面的にフェ ルナソドに帰属する, ② Abdallaはべジャイア王の称号を有すべきではない, ③上記の地域を除 くその他のべジャイア王国の地域についてはその収入・裁判権とともにAbdallaに帰属するが,宗 主権はフェルナソドが留保する,などを内容とすべきであると指示している。恐らくこの協定は結 局,結ばれなかったのではないかと推定される。何故ならナバーロへの使者Antonio de Ravanera

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に対する1511年10月23日付のフェルナソドの指示書134)は,少なくともフェルナソドにはまだ協定締 結交渉の結果が知らされていないことを明らかにしているからである。なおこの指示書はその他に, べジャイアにこっの城砦を建設し300人の兵士を配備するという報告があったが,この現状を調査 すること, AbdallaとAbderramenの動勢を報告すること,などを指示している。結局この使者 Ravaneraがフェルナソドの名代として1511年末にAbdallaとAbderramen両者との間で次のよう な内容の条約135)を結ぶことになるのである。即ち, ①AbdallaとAbderramenは和解する, ② AbdallaはAmizaya, Atuja, Amezalaを, Abderramenは山地地方の残りの地域を,フェルナソド はべジャイア,アルジェ, Tedelis, Tenとs, Gigarの海岸地方を領有する, ③AbdallaとAbderramen はフェルナンドの臣下となる, ④両者の所領からフェルナンドの所領内の住民に対して攻撃や危害 を加えない, ⑤両者はべジャイアの城砦に対して,薪は無料で,糧食は適正な価格で供給する, ⑥ 人質を差出す,である。 〔6〕トリポリ136)ジェルヴァ(Djerba)島137)ケルケナ島138) べジャイア陥落後1510年6月7日にナバーロはそこを出帆してシチリア島近くのFavignana島 に赴き補給を待った。ナポリから補給物資を積んできた船隊に7月16日に合流してトリポリに向か い, 25日にその沖合に到着,上陸後僅か2時間程の戦闘で占領に成功した。この勝利は8月13日付 書簡139)でフェルナソドからシスネロスに伝えられている。 7月29日,ナバーロはジェルヴァ島に向 かい,そこのシャイ-に降伏を勧告するが拒否され8月9日に一旦トリポリに帰還した。その後ガ ルシーア・デ・トレードが艦隊を率いて到着,ナバーロはこの援軍とともに8月27日に再び出帆し, 29日払暁にジェルヴァ島に到着した。同日,上陸を開始し島の城砦に向かうが,暑熱と渇きに苦し められ,途中でモーロ人の伏兵に遭って潰走,この戦いでガルシーアが死没する。ジェルヴァ島の戦 いでは多数の戦死者・渇死者・描虜を出し,北アフリカ遠征において曾てない大敗を蒙った。ナバ / ーロは兵をまとめて9月3日に出帆するが,艦隊は嵐のために四散し各地に漂着した。ジェルヴァ 島攻略に失敗したナバーロは,モーロ人が放牧に利用していたケルケナ島の攻略を企て, 1511年2 月20日に同島に到着,偵察部隊を上陸させるがモーロ人に襲撃されて全滅,これを知ったナバーロ は攻略を断念して帰途についた。このケルケナ島攻略の失敗をもってカトリック両王時代における 北アフリカ征服のための実際の軍事行動は最後となる。しかし1511年にはトレムセソ王国で若干の 動きが見られた。最後にこれを瞥見しておこう。 具体的経緯は不明だが,1511年5月26日付で,トレムセソ王国における総司令官コルドバ及びカス ティーリャ王家付騎士GomezdeSantillanとトレムセソ王国内の二つの都市モスクガネム(Mosta-ganem)とマサダラン(Mazagran)のシャイ-との間で協定140)が結ばれている。その主な内容は, ①両市のシャイ-と住民はカスティーリャ王・女王の誠実なる臣民として仕え,曾てトレムセソ王 に負っていたすべての貢納を今後は彼らに支払う, ②描虜をすべて引渡す, ③築城などの場合には, 人力・駄獣・物資を適正な支払いと引換えに差出す, ④両市において女王・国王の許可なくして如 何なる商品の積み降しもしてはならない, ⑤カスティーリャ王・女王は彼らを臣民としてその保護

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と庇護の下に受入れる, ⑥従軍義務は課さず,改宗強制をせず,彼らの法律や裁判権を尊重する, などとなっている。同年6月20日付でトレムセソ王との間で, ①この両市がカスティーリャ王・女 王に臣服することをトレムセソ王が承認する, ②トレムセン王は自らに属する関税の徴収のために 両市に関税徴収人を配置出来る, ③トレムセソ王は既に征服されていたオランとメルス・エル・ケ ビールをカスティーリャ王・女王に与える,といった内容の協定141)が結ばれ,トレムセソ王国の 四つの海岸都市が王の許可を得ていわば公式にスペインに帰属することになったのである。 Ⅵ 以上の如き北アフリカ征服は,全体として眺めた場合,如何なる特徴があったというべきであろ うか。以下ではこの問題を三つの側面から検討していくが,その際Doussinagueの所説を素材とし て利用していくことにする。 I 第-は,北アフリカ征服が何らかの一貫性をもった計画に基づいてなされたのかどうかである。 Doussinagueはフェルナソドの地中海政策の目的を, ①西地中海の北アフリカ海岸のすべてを獲得 すること, ②アレクサンドリアを攻撃し,カイロのスルタンを放り,イェルサレムまでの巡礼路を 確保すること(つまり東地中海の北アフリカ海岸を征服していき聖地まで至ること), ③ギリシャ 半島を獲得すること,としてまとめ,メリーリヤからトリポリに及んだ一連の征服をかかる壮図の 一環として位置づけている142) このうち③についてのDoussinagueの論証は間接的材料からの 臆断という印象を拭い難いが, ②については確かにフェルナソド自身の言明がある。それは1510午 8月13日モソソソ(Monzon)でのアラゴソ王国の全国コルテスにおいて,北アフリカ征服のため の上納金の協賛を求めた際の発言である(これは年代記作者スリータ Zuritaが伝えている)。フェ ルナソドはべジャイア,チュニス両王国がアラゴソ王国の征服権利地域であることを指摘した後に, くだん 「これらの王国と,イェルサレムの王国と教会にまで続いている件の王国のすべての州と地方」と くだん を征服する決意を表明している143)のだが, 「件の王国」はマムルク朝を指すと見倣し得るから,結 局,チュニスからイェルサレムまでの全地域を征服する意図を按摩したものと理解されよう。しか しこれとても上納金の協賛をかち取るために殊更,雄壮な遠征計画を広げて見せたと解釈出来ない ことはない。後述のように1511年の遠征計画からフェルナソドが征服を企てていたと確実に判断出 来るのは,差当りはチュニス地方のみなのである。ともかくも②③はその征服計画の有無は別とし て現実化しなかったことは事実なのであるから一応,考慮の外に置くとして問題は①である。 この地域については既述のように各地で征服事業が一応の成功を収めた。しかしそれが王権側の 首尾一貫した計画に基づくものとは考えにくい。メ1)-リャやカサ-サの征服はメディナ=シドニ ア公のイニシアチヴによるものであったし,ナバーロによるペニョン征服は偶発的な出来事であっ ・た。メルス・-ル・ケビールやオランへの遠征はフェルナソドのイニシアチヴよりはむしろシスネ T,スの熱烈な異教徒討伐志向による所が大きい。またオラン以降の遠征に活躍したナバーロがどれ 程フェルナンドの指示に従って動いていたのかも疑問であり,ナバーロ自身の意志に基づく所も相

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当大きかったのではないかとも想像される。このように見てくると,北アフリカ征服が王権のイニ シアチヴの下に首尾一貫した計画に基づいてなされたとは考え難いのではなかろうか。 第二は'征服の性格である Doussinagueは,フェルナンドほチュニス,トレムセン,べジャイア の諸王国の内陸部にまで侵攻し,海岸諸都市の占領をより確実なものにしようと企図していたとい う144)。フェルナソドがかかる意図をどれ程真剣に抱いていたのかは別として,征服が結局,内陸部 までは及ばなかったことは否定出来ない事実である。北アフリカにおけるスペインの占領地は結局, 駐屯地(presidios)であり,その後背地には実効的支配は及んでおらず,かかる意味で限定的な占 領にすぎなかったのである145)かかる駐屯地は内陸部-の侵攻の拠点ではなく,モーロ人の攻撃を 防過するために敵側の辺境に構築された防禦のための橋頭墜なのであった Hessはこれらを「ス ペイソ人がマグリブの海岸に突入れた城砦線」と表現しているが146) まさにそれは内陸部をも含 む面の確保ではなく,線の確保,いや極言すれば点の確保にすぎなかったともいえよう。 かかる征服の性格から駐屯地の存立ははば全面的に海を隔てた本国からの補給に依存していた。 べジャイアのように協定による現地調達の体制が出来ているのは例外的であり,しかもそれがどの 程実際に機能していたのか不明である。従って本国からの補給は駐屯地にとっては死活問題であっ たといってよく,先に引用したいくつかの補給要請の史料がこれを例証している。しかし当時の船 舶の性能などの海運事情の低位,モーロ人海賊の験底を考えれば,かかる補給が確実に定期的にな ・されるという保証は必ずしもなかったといわねばならない。以上か.ら征服は極めて限定された地域 にしか及んでおらず,そのために征服地の存立は本国からの不確実な補給に蘇らざるを得ないとい う甚だ不安定なものであったと結論できよう。 第三は'カトリック両王の対外政策全体に占める北アフリカ政策の地位についてである Dous-smagueは「異教徒に対する戦争はイサベルとフェルナンドの国際政治の中心的理念であり,それ を響導する基本線であった」として,北アフリカ政策の地位を大きく評価するが147) これは正当 であろうか。 1510年のジェルヴァ島での敗退,とりわけガルシーア死去の知らせを聞きフェルナンドは自らア フリカに渡る決意を固めた1510年12月24日付のナバーロ宛書簡は148) 「ジェルヴァ島で出来した 事態は,聖なる企てに従事せねはならぬという余の意志と意図を挫かぬばかりか,それを燃え立た せ増大せしめたために,余は我らの主たる神の聖寵と御導きとによって自ら今年の夏にこの聖なる 企てに従事することを決意した」と決然たる親征の意志を表明している。この書簡や同日付のシチ リア副王宛書簡149)では,アンダルシーアとナポリにおいて夫々艦隊を編成し,これにナバーロの艦 隊が加わってチュニス攻略に向かうという遠征計画を記すとともに,そのための兵力や糧食の準備 について,フェルナソド自らが直接に指示を与えており,彼の並々ならぬ意気込みが窺われる。それ はまた女婿にあたるイギリス王の-ンリー8世に援軍を依頼していることにも表われており,これ を受けて1,500人のイギリス兵がカディスに到着している。フェルナソドは1511年2月初めにセピ ー1)ヤに入り,モーロ人との戦争を布告した150)だが1511年のナポリ副王宛の国王秘書の書簡151)

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は, 「二つの目的,主には異教徒に対抗するため,今一つにはもしフランス王がこの王国〔ナポリ〕 で陛下に対抗して何かを企てようとした場合にはそちらに派遣出来るために,ここで艦隊を編成す べく」国王がセピーリャに到着したことを伝えており,艦隊編成がイタリア情勢をも悦んだもの であったことがことが判る。そしてこの艦隊は結局,第二の目的のために使われたのである。フラ ンス王の後押しで反教皇派の枢機卿やフェラーラ公が反乱を起こした(所謂「ピサのシスマ」 Sisma de Pisa)という知らせが入り,教皇からの来援要請を受けてフェルナンドほ北アフリカ遠征を断念 し, 6月21日セピーリャを退去してしまうのである。セピーリャ聖堂参事会宛のフェルナアドの書 簡152)は,シスマのために「異教徒に対する企てを放棄することを余儀なくされた」と述べた後に, 「すべてのキリスト教君主の最大の義務は,我らが母なる聖なるローマ教会の守護である」ことを 指摘して自己の行動を正当化している。大略以上の如き1511年の遠征計画とその挫折153)は,フェ ルナソドの外交政策においては北アフリカ政策はイタリア政策よりも重要でなく,所詮は二次的 な地位しか与えられていなかったことを示していると考えられよう。 以上の三つの側面からの検討からカトリック両王時代のスペインの北アフリカ征服は,対外政策 全体の中で二次的な地位しか占めておらず,従って王権側の取組みも充分ではなく,その結果征服 地も極めて限定的なものであり,その維持も甚だ不安定なものであった,と結論することが出 来よう。 〔略語表〕 CODOIN Torre Terrateig Bernaldez Santa Cruz Padilla Sandoval

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1)拙稿「グラナ-ダ王国の征服」 『鹿児島大学教育学部研究紀要 人文・社会科学編』第35巻, 1983年を 参照。

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Manheim, Princeton, 1977, p. 238. 3) Torre, I, 211. 4) Torre, II, 419-420. 5) Torre, VI, 316. 6) Torre, III, 260. 7) Torre, VI, 257-258. 8)スペインと北アフリカとの貿易におけるイタリア商人とくにジェノヴァ商人介在の問題は興味深いテー マであるが,ここでは立入る余裕がない。差当り J. Heers, "Le royaume de Grenade et la politique

ノヽ

marchande de Genes en Occident (XVe si占cle)", he Moyen Age, 1957; Id., Genes au XVe siecle,

Paris, 1961, pp.473-497 ; F. Melis, Mercaderes italianos en Espana. Siglos XIV-XVI, Sevilla, 1976 ;

Lopez de Coca Castaner,以Mercaderes geneveses en Malaga (1487-1516). Los hermanos Centurion e Ytalien", Historia. Instituci∂n. Docurnentos, 7, 1980 ; Id..以Los genoveses en Malaga durante el reinado

de los Reyes Catolicos", en Adas del I Congreso Internacional de Historia Mediterrdnea. La penin-sula iberica y el Mediterrdneo centr0-occidental (siglosXII-XV), Barcelona-Roma, 1980などを参照.

9) Torre, III, 455. 12) Torre, IV, 228-229. 15) Torre, IV, 489-490. 18) Torre, III, 429. 21) Torre, V. 475. 24) Torre, IV, 525-526. 27) Torre,V, 312-314. 30) Torre, IV, 124-125. 33) Torre, IV, 536. 36) Torre, IV, 357-358. 39) Torre, IV, 528-529. 42) Torre, V, 550. 10) Torre, 13) Torre, 16) Torre, 19) Torre, 22) Torre, 25) Torre, 28) Torre, 31) Torre, 34) Torre, 37) Torre, IV, 62-63. IV, 226, 228. II, 438-439. Ill, 120-121. IV, 213 V, 473-474. Ill, 178. IV, 232-233. IV, 515. V, 104, 108. 40) Torre, III, 455-456. 43) Torre, VI, 377. ll) Torre, IV, 63-64. 14) Torre, IV, 293. 17) Torre, III, 60-61. 20) Torre, III, 407-408. 23) Torre, IV, 526-527. 26) Torre, V, 311-312. 29) Torre, III, 179. 32) Torre, IV, 531-532. 35) Torre, III, 353-354. 38) Torre, V, 222-223. 41) Torre, IV, 83.

44)例えばF. Bejarano, Documentos del Reinado de los Reyes Cat∂licos. Catdlogo de los documentos exis-tentes en el Archivo Municipal de Malaga, Madrid, 1961, p.1 ; M.A. Ladero Quesada, "La repoblacion

del reino de Granada anterior al a丘0 1500", Hispania, 28, 1968, p.494; J. Szmolka Clares, "La

reactivacion de la economia granadina a raiz de la reconquista", Anuario de Historia Moderna y Conternpordnea, 4-5, 1977-78, p.143など。

45) J.-E. Lopez de Coca Costa丘er, "Relaciones mercantiles entre Granada y Berberia en epoca de los Reyes Catolicos", Baetica, 1, 1978, p.294.

46) Suarez, III, doc. 40 ; Ladero Quesada, Los mudejares de Castillo, en tiempo de Isabel I, Valladolid, 1969, doc. 41.

47) Suarez III, doc. 54.

Lopez de Coca "Relaciones", p.295 ; Ladero Quesada, "La repoblacion", p.494.

49) Lopez de Coca "Relaciones" p.300 ; Id., "Mercaderes genoveses", pp.97-98 ; Szmolka Clares, ``La

reac-tivacion", p.143.

50) Lopez de Coca Casta五erぴEsclavos, alfaqueques y mercaderes en la frontera del Mar de Alboran

(1490-1516)", Hispania, 38, 1978. 51) Bernaldez, cap. CLXVI, p.395.

52)グラナ-ダ王国陥落後,北アフリカ移住を望むモーロ人には3年間無料で船舶が供与されたが,以後は 渡航料金を徴収されることが降伏協定で定められていた。前掲拙稿, 43貢。しかし料金が高額であるこ

参照

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