デジタル映画論PART? : クリント・イーストウッド
『運び屋』『リチャード・ジュエル』
著者
柴田 健志
雑誌名
鹿児島大学法文学部紀要人文学科論集
巻
88
ページ
31-41
発行年
2021-02-16
URL
http://hdl.handle.net/10232/00031570
三一
1
『運び屋』
今 日 に お い て は ほ と ん ど す べ て の 映 画 が デ ジ タ ル で 撮 影 さ れ て い る。 フィルムに拘ってフィルムによる撮影を続けている映画監督はごく少数 である。スティーヴン・スピルバーグ、クリストファー・ノーラン、ソ フィア・コッポラ、クウェンティン・タランティーノといった監督たち だ。彼らがフィルムに拘る理由は、フィルム映像でなければ語ることの できない物語があると考えているからだろう。それなら、デジタル映像 でなければ語ることのできない物語もあるはずだ。 イーストウッドが 『運 び屋』で語る物語はまさにそんな物語なのだ。 90歳の老人が麻薬の運び屋をするという『運び屋』の見どころとな るのは、何といってもイーストウッドが久々に俳優業にカムバックした ことだろう。イーストウッドがこの役を演じられるのは、実話の人物で あるレオ・シャープ(映画ではアール・ストーン)と年齢が近いからで ある。映画が完成した時点で、1930年生れのイーストウッドはすで に88歳なのだ。興味深い点は、このアール・ストーンという人物が家 庭を顧みない人生を送ってきた男としてとらえられている点だろう。明 らかに、イーストウッドは自分自身の人生をこの人物に重ね合わせてい るのだ。それがいったいどんな映画になっているのか。見どころはここ にある。結論だけいえば、映画はすごく面白い。イーストウッドの人生 が映画の中に垣間見られるからではない。まったく逆に、それがまった く感じられないからこそ面白いのだ。デジタル撮影という観点からこの 面白さを説明してみることにしよう。 『 運 び 屋 』 は、 「 デ イ リ リ ー」 と い う 百 合 の 品 種 を 専 門 に し て い る 園デジタル映画論
PART
Ⅲ
クリント・イーストウッド
『運び屋』
『リチャード・ジュエル』
柴
田
健
志
はじめに
ク リ ン ト・ イ ー ス ト ウ ッ ド 監 督 作 品 で あ る『 運 び 屋 』( 2 0 1 8) と 『リチャード・ジュエル』 (2019)を論じよう。どちらも実話を映画 化した作品である。つまりこれらの作品は現実の世界で起こった出来事 を再現するという体裁で作られている。ただ、実話の再現であるとして も映画そのものがフィクションであることに変わりはないだろう。現実 の世界で起こることは一度だけしか起こらないことなのだから、本来は 再現など不可能なのだ。従って、実話を映画化するということは、現実 に似ているが現実とは異なる世界をフィクションとして構築するという ことにほかならない。ではその面白さはどこにあるのだろうか。これが 本稿のテーマである。このテーマを展開するにあたって、これらの作品 がデジタルで撮影されているという点に注目しよう。これらの作品の面 白さはデジタルで撮影されているということから説明されるべき側面を 持っていると考えられるからである。柴 田 健 志 三二 いてくるように編集されているのだ。 そんなある日、孫娘の卒業式にアールがやってくる。娘のアイリスの 隣の席に腰を下ろすと、彼女は無言で席を移る。結婚式の件から10年 以上口を訊いてもらえないのだ。自業自得である。ではこういうシーン がもしフィルムで撮影されていたとしたらどうなっただろうか。フィル ム映像の特質は、それが撮影した現実をそのまま複製する点にある。し たがって、フィルムで撮影された場合には、観客が見るのはアールとア イリスではなく、アールとアイリスを演じるクリント・イーストウッド とアリソン ・ イーストウッドである。 フィルムで撮影されたイーストウッ ド自身の生々しいイメージを観客は見るだろう。イーストウッドがアー ル・ストーン以上に自由奔放な生活を送ってきた男であることを観客は みんな承知しているから、映画の物語を見ることよりもむしろイメージ のドキュメンタルな側面に気をとられるはずだ。観客の興味は一種の覗 き見趣味に流れるだろう。 映画の結末は、アール・ストーンのような家庭をまったく顧みなかっ た男が妻の死を契機にしてその人生を悔い改め、家族のために生きるこ とを誓うというものになっている。その誓いを、食堂でたまたま隣にい たベイツ捜査官に向かって語るシーンが映画のクライマックスになって いるのだ。その誓いをクリント・イーストウッドが淡々と語っていく。 「家族が一番、仕事は二番でいい。俺はすべてしくじった」 。 他 の シ ー ン は と も か く、 こ の シ ー ン が フ ィ ル ム で 撮 影 さ れ た と し た ら、 その映像はあまりにも生々しいものになっただろう。しかし、実際には デジタルで撮影されている。デジタル撮影は、フィルムのように現実を 複製するのではなく、現実をピクセルと呼ばれる電子的な単位に分解し 芸 師 の ア ー ル・ ス ト ー ン が ひ と り 娘 の ア イ リ ス の 結 婚 式 を す っ ぽ か す シ ー ン か ら 始 ま る。 ひ と り 娘 の ア イ リ ス は、 実 の 長 女 で あ る ア リ ソ ン・ イ ー ス ト ウ ッ ド が 演 じ て い る。 彼 女 は『 タ イ ト ロ ー プ 』( 1 9 8 4) で も娘の役をやっていた。 結婚式といっても子連れの再婚である。 しかし、 だからこそ、すっぽかされた娘の怒りも複雑なものになるだろう。結婚 式の日に、アールはスーツを着込んで花の品評会に出席していた。結婚 式のことをまるっきり失念していたのだ。一事が万事。アール・ストー ンという男はこれまでずっと家庭を顧みてこなかった男なのだ。 映画はそれから一気に12年後の話になる。その頃から「運び屋」の 仕 事 が 始 ま る か ら だ。 「 運 び 屋 」 の 仕 事 は こ う だ。 1 0 0 キ ロ 以 上 の 大 量 の コ カ イ ン が 入 っ た バ ッ グ を ピ ッ ク ア ッ プ・ ト ラ ッ ク で 目 的 地 ま で 運 ぶ。 こ れ ま で 一 度 も 交 通 違 反 を し た こ と の な い 老 人 だ か ら 警 察 か ら はまったくマークされない。つまり、こういう仕事にはうってつけの人 間なのだ。指定されたモーテルの駐車場にトラックを駐車してキーをグ ロ ー ブ・ ボ ッ ク ス に 入 れ て 車 を 離 れ、 1 時 間 後 に 車 に 戻 る。 グ ロ ー ブ・ ボックスを開けると車のキーとマニラ封筒が入っている。封筒の中身は 1 0 0 ド ル 札 の 束 だ。 「 運 び 屋 」 の 報 酬 は 1 キ ロ に つ き 1 0 0 0 ド ル が 相場であるといわれている。この金で、アールは銀行に差し押さえられ ていた自宅を買い戻すことができた。ところが、アールにこの仕事を与 えたメキシコ系の麻薬組織(カルテル)はDEA(麻薬取締局)による 内偵捜査の対象になっていた。捜査を担当するベイツ捜査官(ブラッド リー・クーパー)は組織の人間をスパイに仕立て、内部情報を提供させ る。アールの「運び屋」の仕事とDEAによる捜査のクロス・カッティ ングで映画は進んでいく。この二つのストーリーラインがだんだん近づ
デジタル映画論 PART Ⅲ 三三 が、司法取引に応じることによって、その引き換えとして服役中にデイ リリーを栽培する権利をえていたのだ( Dolnick 2014 )。 さて、こんなふうにこの映画を見直してみることによって見えてくる の は い っ た い ど ん な こ と だ ろ う か。 役 者 は 様 々 な 役 柄 を 演 じ る こ と に よ っ て い く つ も の 人 生 を 生 き る こ と が で き る と い う こ と が よ く い わ れ る。たしかにそうなのだろう。しかし、様々な役柄を生きるひとつの人 生があるという表現もできる。少なくとも映画の役者にとってはこれが 正解である。なぜなら、いかに様々な役柄を演じても、フィルムが複製 す る の は そ れ ら の 役 柄 を 演 じ る 役 者 本 人 だ か ら で あ る。 こ れ が ス タ ー シ ス テ ム の 存 在 論 的 な 前 提 な の だ。 ど ん な 役 柄 が 演 じ ら れ て い よ う が、 ファンは自分のお気に入りのスターをそこに見る。フィルムで撮影され ているから見ることができるのだ。役者がいくつもの人生を生きること は、少なくとも映画においては実現されてこなかったと考えることがで きる。 デジタル撮影によってこの事情は一変する。デジタル技術とは現実を 複製することではなく、現実を分解することによって映像を現実から切 り離してしまうことを本質としているからである。役者は自分が演じる 様々な役柄を自分自身の存在から切り離すことによって、文字通りにい く つ も の 人 生 を 生 き る こ と が で き る よ う に な っ た の だ。 『 運 び 屋 』 に 関 していえば、デジタル撮影によって、イーストウッドは自分の人生とは まったく別の人生を演じる自由を得たことになる。人間は自分が現実に 生きている人生以外の人生を生きることなどできない。現実の世界にお いてはそういうことは不可能なのだ。 したがって、 現実の複製であるフィ ルム映像においても同じことが成り立つだろう。フィルムの中の役者は で保存・再生する技術である。この意味において、デジタル映像は現実 とはまったく別の存在であると考えられる。 だから、 この映像技術はフィ クションに向いているのだ。デジタルとは現実との関係を切断すること の で き る 技 術 な の で あ る。 だ か ら こ の シ ー ン も そ れ ほ ど 生 々 し く な い。 むしろ、観客はその映像がイーストウッドの映像であると分かっていな がら、それをアール ・ ストーンという人物として見ることができるのだ。 この映画の物語にとっては、この点がたいへん重要な点なのだ。 アール・ストーンは妻に癌が発見された(しかも手遅れ)ことを知ら ずにまたしても「運び屋」の仕事を引き受けてしまう。車を運転中に孫 娘からの電話が入る。家族の中で唯一アールの味方だ。 「お祖父ちゃん、帰ってきて」 。 「いや、無理だ。仕事がある」 。 いったん引き受けた仕事を途中で止めるわけにはいかない。しかも、相 手は麻薬を扱う組織の人間たちだ。しかし、アールは家に戻る。アール に看取られてすでに離婚していた妻(ダイアン・ウィースト)は亡くな る。ここで娘のアイリスもようやくアールを許すことができるようにな る。葬式を終えて、アールは「運び屋」の仕事に戻るが、組織にとらえ ら れ、 暴 行 を 受 け る。 勝 手 な 行 動 を す る 人 間 を 組 織 は 許 さ な い か ら だ。 アールの車を突き止めたベイツ捜査官が逮捕に向かったことで間一髪助 かっただけだ。自分よりも若いこの捜査官に向けて、アールは悔い改め た認識を語るのだ。 映画のラストシーンでは、服役したアールが刑務所内の花壇でデイリ リーを世話している。いかにも映画的なシーンである。ところが、これ は実話にもとづくシーンなのだ。レオ・シャープは3年の刑を食らった
柴 田 健 志 三四 されていくのだ。 1996年のアトランタ五輪の開催中に発生した爆弾事件で爆弾の第 一発見者となったことが災いして容疑者にされてしまった無実の男がリ チャード ・ ジュエルである。 野外コンサートが行われる会場の警備員だっ たリチャード・ジュエルは、警備の手順に従って持ち主のない荷物を警 察に通報する。それがパイプ爆弾であることが判明すると、すぐに観客 やスタッフの避難が始まる。その直後に爆弾が爆発。死者2名、負傷者 100名を出す惨事となった。しかし、もし爆弾が発見されていなかっ たならばもっとひどいことになっただろう。こうしてリチャード・ジュ エルは一躍英雄になるが、警察が彼を容疑者として内偵しているという 情報が捜査官から地元新聞の記者にリークされる。その記事が第一面を 飾ると、リチャード・ジュエルは全米からやって来たTV取材の餌食に なり、プライバシーを失っていくのだ。 問題はアメリカ南部州の肥満した貧乏白人男性という外見が様々なス テ レ オ タ イ プ に 結 び つ い て い る と い う 点 だ。 「 こ う い う 男 は 女 性 か ら 相 手にされない。だからホモ」 。「こういう男は社会的に力がないからこそ 力に憧れる。だから銃や爆弾に興味がある」 。「こういう男は社会的に注 目されない。だから事件を起こして第一発見者になることで注目を集め た い 」。 等 々 で あ る。 た ん な る 想 像 に も と づ く 恣 意 的 な 判 断 で あ る。 そ れ自体としては安易で幼稚な判断だ。しかし、マスコミの扇動に乗るの はこういう判断だろう。自分だけでなくみんながそう判断するだろうと いう状況をマスコミは作り出す。それが扇動の本質である。想像にもと づく判断には堅固な根拠がないからこそ、扇動によって容易に広まって いくのだ。 役を演じるという自分の人生を生きているのだ。ところが、デジタル技 術は現実の世界とは別の存在の次元を生み出した。その存在次元を《可 能性》 の次元と呼ぶことができるだろう。現実に存在するものではなく、 存在しうるものの次元という意味だ。このような存在次元の中で、観客 はアール・ストーンを演じるイーストウッドではなく、アール・ストー ンという虚構の存在を見ることができたのである。 以 上 の 論 述 の 要 点 は、 『 運 び 屋 』 と い う 作 品 が《 可 能 性 》 の 次 元 で 語 られる物語であるという点に集約できるだろう。イーストウッドの演技 に焦点を当てることでこの点が明らかになってきたのである。では、こ のような新しい物語の存在次元はいったいどんな意味を持ちうるのだろ う か。 『 リ チ ャ ー ド・ ジ ュ エ ル 』 と い う 作 品 を 通 し て こ の 点 を 掘 り 下 げ てみることにしよう。
2
『リチャード・ジュエル』
『 運 び 屋 』 で ク リ ン ト・ イ ー ス ト ウ ッ ド が 演 じ た の は 自 分 の 人 生 に よ く似た人生を送った男である。同じことは、リチャード・ジュエルとい う実在の人物を演じたポール・ウォルター・ハウザーについても当ては まる。ただし、彼らの人生がよく似ているという意味ではない。よく似 ているのは外見だけだ。ジャンクフードばかり食べて太りすぎた貧乏白 人の典型的な体格だ。しかし、人間の外見というのはその人間を評価す る基準となる。実際、 『リチャード・ジュエル』という作品の前半では、 人間が外見にもとづくステレオタイプに従ってものを判断することがお ぞましい現実を生み出してしまうという事実が、克明な演出によって示デジタル映画論 PART Ⅲ 三五 ストウッドはすでに起こった出来事を再現しているのではなく、すでに 起こった出来事をもとにして誰にでも起こりうる出来事を語っているの だ。それゆえ、ポール・ウォルター・ハウザーが演じている人物は実在 のリチャード・ジュエルからもポール・ウォルター・ハウザーからも切 り離され、この作品の中にのみ存在するリチャード・ジュエルであるこ とになる。この作品のリアリティーは、作品の外にある現実の世界から は独立に成立するリアリティーなのだ。それは物語のリアリティーであ るといってもよいだろう。この点が重要だ。それを理解するために少し 論述を迂回して映画史に言及してみなければならない。 蓮實重彥が論じているように、1930年代から40年代にかけて確 立された古典的アメリカ映画の特徴は物語を語るという点にあったと考 えられる。映画を構成するイメージはそれ自体として見られるためにで はなく、物語を語る媒体として存在したのである。観客はイメージを見 ていたのではなく、イメージの連鎖から生成する物語という見えないも の を 見 て い た わ け で あ る。 「 事 実、 と り わ け ト ー キ ー 以 後 の ア メ リ カ 映 画は、物語に従属することのない過剰な視覚的効果を抑圧しながら、見 る と い う 瞳 の 機 能 を 必 要 最 小 限 に と ど め て お く こ と で 成 立 し た 」( 蓮 實 1993 : 184 )。 と こ ろ が 、 5 0 年 代 を 境 目 に 6 0 年 代 か ら 7 0 年 代 に か け て、イメージと物語の関係は逆転し始める。すなわち、イメージに対す る物語の優位という関係が崩れ、むしろ物語に対するイメージの優位と いう事態が出現する。カットの連鎖から生成する物語ではなくカットそ れ自体の視覚的効果が重視されるのだ。イーストウッドが映画史におい て特異な存在であると見なされるのは、まさにこの時代から映画監督と してのキャリアをスタートさせたにもかかわらず、古典的な物語優位の ポール・ウォルター・ハウザーは実際にリチャード・ジュエルにそっ くりなのだという。リチャード・ジュエルは2007年に44歳ですで に亡 く な っ て い る が 、母 親 の ボ ビ は ま だ 健 在 だ 。 ワ ー ナ ー の 本 社 で ポ ー ル ・ ウ ォ ル タ ー ・ ハ ウ ザ ー に は じ め て 会 っ た ボ ビ は 「 息 子 が 生 き 返 っ た と 思 っ た 」( Brenner 2019 ) と い っ た く ら い で あ る 。 そ れ ゆ え 、『 リ チ ャ ー ド ・ ジ ュ エ ル 』 が も し フ ィ ル ム で 撮 影 さ れ て い た と し た ら 、 外 見 で キ ャ ス テ ィ ン グ さ れ た 俳 優 が 実 物 を 擬 似 的 に 再 現 す る も の ま ね 映 画になってしまったかもしれない。観客の興味はドキュメンタルな点に 向けられ、物語がないがしろにされる恐れがあるのだ。 こ れ ま で フ ィ ル ム 撮 影 さ れ た 夥 し い 数 の 実 話 も の の 映 画 に リ ア リ ティーが欠けている最大の理由もじつはここにある。 『リチャード ・ ジュ エル』がフィルム撮影されたと仮定してみれば、どこに問題があるのか はすぐに分かるはずだ。フィルムで撮影された場合、そこに写っている のはポール・ウォルター・ハウザー以外の誰でもない。観客はいわばそ の向こう側にリチャード・ジュエルを想像しているだけなのだ。これで は観客が映画をリアルに経験をしているとはいえないだろう。実物以上 にリアルなものは存在しないからだ。これとは逆に、デジタル撮影され たこの映画では、観客はリチャード・ジュエルの人生という虚構を見て いるだけだ。しかし、だからこそ、この作品はある種のリアリティーを 感じさせるものになっているのである。それは映画本来のリアリティー とでも呼ぶことができるものだ。 こ の 最 後 の 点 に は イ ー ス ト ウ ッ ド の 演 出 に も か か わ っ て く る だ ろ う。 この作品の持つリアリティーは現実世界のリアリティーとは性質が異な る。 そ れ は《 可 能 性 》 と し て の 世 界 が 持 つ リ ア リ テ ィ ー な の だ。 イ ー
柴 田 健 志 三六 クウェル)は、なぜかジュエルを気にいる。その外見ではなく人物に道 徳的な意味での善さを見てとったからだ。イーストウッドが得意とする 演 出 で あ る。 爆 弾 事 件 の 容 疑 者 と な っ た ジ ュ エ ル か ら 電 話 を 受 け る と、 ブライアントは早速駆けつける。イーストウッドの演出の要点は、ジュ エルの無実をブライアントがはじめから確信しているということを観客 に 示 す こ と に あ る。 T V 番 組 の キ ャ ス タ ー が ブ ラ イ ア ン ト に 質 問 す る シーンがある。 「ジュエルは無実だと思いますか」 。 「無実です」 。 「なぜですか」 。 「私がそう思うからです」 。 あきれた回答かもしれない。しかし、これがあきれた回答だと思う人 間も、マスコミのいうことは無批判に信用しているのだ。それこそあき れた話ではないか。これに対して、ブライアントの姿勢には揺るぎのな いものがある。ジュエルがこの弁護士に対して信頼以上のものを感じ始 めるのもそのためだろう。はじめのうちはマスコミの攻勢と警察の取り 調べに対して防戦一方だったブライアントは反撃を開始する。ジュエル を嘘発見器にかけ、その結果を公表する。ジュエルはこの事件に関して 何 ひ と つ 嘘 を つ い て い な い の だ。 ジ ュ エ ル を 伴 い 新 聞 社 に 乗 り 込 ん で ジュエルの記事を書いた女性記者(オリヴィア・ワイルド)を徹底的に 非難した上に、新聞社に対して公式の謝罪を要求する。さらにプレス会 見を設定し、母親のボビが息子の無実を訴えるスピーチを演出する。 結 局 ジ ュ エ ル は 警 察 の 捜 査 対 象 か ら 外 れ る。 し か し そ の 前 に 重 要 な シーンがある。警察での事情聴取で、ジュエルは事件に関与していると 映画のスタイルを維持していたからである。イーストウッドも当時はも ちろんフィルムで撮影している。しかし、物語を語ることを中心にした 映 画 作 り に は、 む し ろ デ ジ タ ル 撮 影 が 適 し て い る の で は な い だ ろ う か。 繰り返していえば、フィルムは現実に存在する対象を視覚的に複製する 技術である。したがって、フィルム作品において観客は登場人物ではな く登場人物を演じる役者を見ていることになる。しかし、この点を観客 に意識させることは映画のリアリティーを壊してしまう恐れがある。こ れは物語を語るためには厄介な要素だろう。蓮實はこの点を逆手にとっ て、物語を語るという目的からすれば全く無用の視覚的細部が映画的感 性を揺さぶるという論理によってジョン・フォードや小津安二郎、クリ ント・イーストウッドのような映画作家を擁護しようとしたのだ。つま り、蓮實の映画批評はフィルム撮影を前提にして成立していたのである (注1) 。デジタル撮影ではこういうことは基本的に起こりえない。デジ タル撮影は現実に存在する対象を複製する技術ではないからだ。それな ら、 古典的アメリカ映画を継承するイーストウッドのような作家とって、 デジタル撮影は理想的な技術であるといわねばならないだろう。 では『リチャード・ジュエル』で語られる物語とはいったいどんな物 語 な の だ ろ う か。 マ ス コ ミ の 暴 力 に よ っ て も た ら さ れ る 悲 劇 だ ろ う か。 確かにこの点がまず目を引く点だろう。しかし、それは現実の世界で起 こったことであって、映画が語る物語ではないはずだ。この映画でイー ストウッドが語っている物語は別にある。ひとことでいえばそれは友情 の物語だ。リチャード・ジュエルには弁護士の知り合いがいた。かつて 弁護士事務所の備品係として働いていた時に出会ったのだ。映画はこの エピソードから始まる。弁護士のワトソン・ブライアント(サム・ロッ
デジタル映画論 PART Ⅲ 三七 テートの殺害事件である。シャロン・テートは当時『ローズマリーの赤 ち ゃ ん 』( 1 9 6 8 ) を 撮 り 終 え た ロ マ ン ・ ポ ラ ン ス キ ー 監 督 の 夫 人 で あ っ た。犯行はカルト教団のマンソン ・ ファミリーの一員によってなさ れ た も の で あ る。 し か し、 教 団 は ロ マ ン・ ポ ラ ン ス キ ー に も シ ャ ロ ン・ テートにも恨みはなかった。狙われたのはポランスキー夫妻の前にその 家に住んでいた住人だったのだ。 舞 台 は ウ エ ス ト・ ハ リ ウ ッ ド よ り も さ ら に 西 寄 り に 位 置 す る シ エ ロ・ ド ラ イ ブ の 高 級 住 宅 街 で、 そ の 一 角 に 往 年 の T V 西 部 劇 ス タ ー で あ る リック・ダルトン(レオナルド・ディカプリオ)が住んでいるという設 定だ。もちろんフィクションである。しかし、この設定には現実味があ る。例えば、イーストウッドが出演していたCBSのTV西部劇シリー ズ『ローハイド』は1959年から1965年まで放映された。シリー ズ終了の前年に当たる1964年にイーストウッドはイタリアでセルジ オ・レオーネの『荒野の用心棒』に出演しているが、リック・ダルトン も イ タ リ ア で 西 部 劇 に 出 演 す る と い う エ ピ ソ ー ド が 用 意 さ れ て い る の だ。物語はリック・ダルトンとそのスタントマンであるクリフ・ブース ( ブ ラ ッ ド・ ピ ッ ト ) を 中 心 に 語 ら れ る。 ス タ ー と し て は す で に 下 り 坂 のリック ・ ダルトンがクリフ ・ ブースの運転する自家用車で撮影所にやっ てくる。クリフ・ブースは本職のスタントマンだけでなく、リック・ダ ル ト ン の 運 転 手 の よ う な こ と ま で や っ て い る。 彼 も ま た 下 り 坂 な の だ。 1 9 6 0 年 代 後 半 の イ ー ス ト ウ ッ ド は と い え ば、 決 し て 下 り 坂 で は な かった。制作会社「マルパソ」を設立し、その第一回作品として『奴ら を 高 く 吊 る せ 』( 1 9 6 8) を 製 作 し て い る。 下 り 坂 だ っ た の は『 ロ ー ハイド』 の主演級だったエリック ・ フレミングの方だろう。イーストウッ いう前提で次々に質問を受ける。どの質問もほとんど言い掛りだ。ブラ イアントが誘導尋問を牽制する。延々と続きそうな不毛なやりとりが交 わされているかに見える。ところが、それまで受け身だったジュエルが ブライアントの制止にもかかわらず捜査官に問い質すのだ。 「僕を容疑者にする根拠は何ですか」 。 捜査官はこのシンプルな問いかけに答えることができない。もともと根 拠のない捜査なのだから当然だろう。これをいってのけたジュエルに対 し て 向 け ら れ る ブ ラ イ ア ン ト の 眼 差 し に は 真 正 の 友 情 が 表 現 さ れ て い る。これはやはり反権力の物語ではなく友情の物語なのだ。 まとめてみよう。デジタル撮影は《可能性》の次元で語られる物語を 成立させた。これはおそらく映画史上はじめての出来事だろう。その結 果、 1 9 3 0 年 代 か ら 4 0 年 代 に 確 立 し た 古 典 的 な 物 語 優 位 の 映 画 が、 『リチャード ・ ジュエル』 において理想的な形態で回帰してきたのである。
3
『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』
デジタル映画についての認識をさらに深化させるには、上記の映画史 的な見方をさらに敷衍してみるべきだろう。そこで、少々遠回りにはな る が、 デ ジ タ ル 撮 影 さ れ た こ れ ら の 作 品 と は 対 照 的 に フ ィ ル ム 撮 影 さ れた作品を見てみよう。すでに触れたように、クウェンティン・タラン ティーノは今日においてもフィルム撮影に拘る監督のひとりである。そ の最新作が『ワンス ・ アポン ・ ア ・ タイム ・ イン ・ ハリウッド』 (2019) である。 こ の 映 画 の 題 材 と な っ て い る の は 1 9 6 9 年 8 月 に 起 き た シ ャ ロ ン・柴 田 健 志 三八 と重要なことがあるのだ。 リック・ダルトンというTVスターの物語はシャロン・テート殺害事 件が起きなかった世界の物語である。 この映画の面白さはこの点にある。 では、リック・ダルトンとシャロン・テートにはどんな関係があるのだ ろう。物語の設定では、リック ・ ダルトンはロマン ・ ポランスキーとシャ ロン・テート夫妻の隣人であることになっているのだ。マンソン・ファ ミリーのメンバー3人はロマン ・ ポランスキー宅ではなく、 その隣のリッ ク ・ ダルトンの家に侵入し、家にいたクリフ ・ ブースと鉢合わせになる。 ブ ー ス の 愛 犬 は 人 を 襲 え る よ う に 調 教 さ れ た ボ ク サ ー 種 だ。 マ ン ソ ン・ ファミリーのメンバーはこの犬とクリフ・ブースから3人とも返り討ち にあって死んでしまう。 隣の家のシャロン ・ テートとその友人たちはまっ たく無事だったという結末である。こういう物語がフィルムで撮影され たことの意味を考えてみることが重要である。 現実の世界では1969年8月にシャロン・テート殺害事件が起こっ た。この事実は動かない。この時点で、シャロン・テート殺害事件が起 こらないということは、現実の世界では不可能なことになっている。も ちろん、シャロン・テート殺害事件が起こらなかった世界を可能性とし て考えることはできるはずだ。しかし、その物語を現実性の次元で語る ことはできない。可能性とは現実の世界を作り上げている事実の反対と して考えられるものだからだ。とすれば、この物語をフィルムで撮影す るということは、 かなり無理なことをしているように見えないだろうか。 というのも、 これをデジタルではなくフィルムで撮影するということは、 現実の世界の中ではすでに不可能である物語を現実性の次元で語ってい る こ と に な っ て し ま う か ら だ。 確 か に、 一 見 す る と 無 理 な 企 画 で あ る。 ドは助演級だったがシリーズ終盤には人気が逆転していた(エリオット 2010: 123-125 )。 リック・ダルトンはプロデューサー(アル・パチーノ)から悪役を提 案される。生き残るにはそれを請けるしかない。ところが、前日の夜に 酒を飲み過ぎたために、 何度もセリフをとちる。 楽屋になっているトレー ラーに戻って、 不甲斐ない自分自身に怒鳴り散らす。この演技が面白い。 この映画はフィルムで撮影されているからである。観客は映画の約束に したがってレオナルド・ディカプリオではなく、レオナルド・ディカプ リオによって演じられるリック・ダルトンを見ているつもりになってい るが、そこに映っているのがそういう役を演じているレオナルド・ディ カプリオであるという事実を否定することはできないからだ。出世作の 『タイタニック』 (1997)から22年、1973年生れのディカプリ オもすでに45歳だ。二重あごになって腹の出たディカプリオの演技を 見る観客は、そこにディカプリオ本人を認めても不思議ではない。この 演技の面白さは、そういうふうに見えることを否定しようとする強い意 志を持ってディカプリオがこの役を演じていることが伝わってくるから なのだ。 タ ラ ン テ ィ ー ノ が フ ィ ル ム に 拘 る ひ と つ の 理 由 は こ こ に あ る だ ろ う。 こ う い う 面 白 さ は デ ジ タ ル 撮 影 で は 決 し て 出 な い も の な の だ。 し か し、 それが分からない観客には分からない種類の面白さでもある。その意味 で、いわばシネフィル向けの面白さだ。こういう面白さを狙うのが、無 類のシネフィルとして知られるタランティーノの持ち味というべきもの だ ろ う。 し か し、 こ の 映 画 が フ ィ ル ム で 撮 影 さ れ て い る こ と の 意 味 は、 このようなマニアックな点にのみ認められるものではない。じつはもっ
デジタル映画論 PART Ⅲ 三九 ある。しかも、 そのことが映画にとって何らマイナスにはならないのだ。 まとめてみよう。フィルム撮影は現実性の次元で物語を語るのに適し ている。しかし、かつて存在した現実を語るのに適しているという意味 で は な い。 そ れ は か つ て 存 在 し た 現 実 を 語 る に は む し ろ 不 向 き で あ り、 また弱点であるとさえいえるだろう。なぜならフィルムはかつて存在し た現実とは別の現実(撮影されている存在そのもの)を複製してしまう からである。歴史的な事件を題材にしてフィルムで撮影された映画がど こか白けた印象を与えるのは、このような決定的な弱点が技術的に克服 さ れ ず、 「 こ の 映 画 で 語 ら れ る の は 事 実 で あ る 」 と い う 約 束 事 に よ っ て 中 途 半 端 に 処 理 さ れ て い た か ら で あ る。 タ ラ ン テ ィ ー ノ が 試 み た の は、 この弱点を徹底的に逆手にとることによってそれを克服し、まったく新 し い 映 像 の ス タ イ ル を 作 り 上 げ る こ と な の だ。 『 ワ ン ス・ ア ポ ン・ ア・ タイム・イン・ハリウッド』という作品の狂ったような迫力はこの点に 起因していると思われる。 現代の映画はすでにデジタル映画の時代を迎えている。と同時に、タ ランティーノのようにフィルム映画を制作し続けている作家が存在して いる。デジタル映画が持つ意味は、これら二種類の映画がどんな関係に あるのかという視点から理解されるべきだろう。 『ワンス ・ アポン ・ ア ・ タイム・イン・ハリウッド』という作品を踏まえ、この点について最後 に考えておこう。
おわりに
イメージと物語は映画史的な叙述の中では対立構造の中に置かれてき しかし、 見方を少し変えれば、 この上なく魅力的な企画であるといえる。 つまり、タランティーノはシャロン・テート殺害事件が起こらなかった 世界をフィルムで撮影することによって、映画の中にもうひとつの現実 を作り出してしまったのだと考えればいいのだ。実際、こう考えればこ の作品の魅力がどこにあるのかが明瞭に見えてくる。 この作品に出てくる車やファッションなどは60年代風に考証されて いる。にもかかわらず、それは現実の60年代とはまったく別の、映画 が 作 り 出 す 新 し い 6 0 年 代 風 の 現 実 な の で あ る。 こ の 映 画 は ノ ス タ ル ジックな外見を持ってはいるが、過去ではなく新しい現在へと向かって いるのだ。このような分裂した趣向がこの映画の魅力となっている。こ ういう趣向はタランティーノの映画でなければ経験することができない ものだろう。 このように、この映画で展開されているのがもうひとつの現実の世界 だとすると、その世界に存在するシャロン・テートを1969年8月に 殺害されたシャロン・テートとして見ることが難しくなってくる。そう することが本当は映画の約束なのに・・・。実際、フィルムで撮影され たこの映画の中に観客が見るのはマーゴット ・ ロビー以外の誰でもない。 従来はこの点が観客に意識されないように映画が作られていた。観客も それを意識しないように映画を見ていた。心の中では嘘っぽいと思いな がら。しかし、この作品にはそういう欺瞞は存在しない。なぜならこれ は現実の世界の再現ではないからなのだ (現実の世界ではシャロン ・ テー ト は 殺 害 さ れ て い る )。 ほ か に も、 こ の 映 画 に は 1 9 6 9 年 を 象 徴 す る 人物が登場している。ブルース・リーとスティーヴ・マックイーンであ る。二人ともいちおう本人に似ているが、別人であることは一目瞭然で柴 田 健 志 四〇 確かだ。このように考えてみると、タランティーノの作品から重要な点 を学ぶことができる。フィルム撮影がもともとイメージ優位の映画に適 しているという点である。 そ こ で 次 の よ う に 考 え て み る こ と が で き る。 映 画 は そ の 誕 生 か ら 100年ほどの間フィルムで撮影されるものだった。フィルム撮影とい う 技 術 の 内 部 で 物 語 と イ メ ー ジ が 共 存 あ る い は 拮 抗 し て き た の で あ る。 どちらが優位になるかは技術的な問題ではないだろう。それは作家の資 質や観客の好み等の条件に依存すると考えられるからだ。しかし、デジ タル撮影があれば物語とイメージという二つの傾向はもはや一本の映画 の中で共存する必要はないだろう。フィルム撮影しか存在しなかった時 代 に は イ メ ー ジ の 映 画 を 徹 底 さ せ る こ と は で き た。 1 9 8 0 年 代 か ら 90年代にかけてのゴダールが進んだ方向である。ゴダールの関心はイ メージと物語の関係にはもはやなく、もっぱら視覚イメージ(これまで の 論 述 で 使 用 し た「 イ メ ー ジ 」 は 厳 密 に い う と「 視 覚 イ メ ー ジ 」) と 音 声イメージとの関係に向けられていたのだ。ところが、それと平行して 物語の映画が徹底されることはなかった。それを実現する媒体が存在し なかったからである。それなら、デジタル撮影によって与えられたもの が何であるかは明らかである。それは映画が物語を語ることを古典的ア メリカ映画以上に徹底させる可能性なのである。 注 ( 1) 蓮 實 重 彥 の 映 画 批 評 を メ デ ィ ア 論 的 視 点 か ら 読 み 直 し た 中 路 武 士 の 論 考( 中 路 2016 )を参照。 た。ジョルジュ・サドゥールによれば、初期映画においてリュミエール が現実のイメージをただ複製することに終始したのに対し、フィクショ ン と い う 形 式 で 物 語 を 語 る こ と を 発 明 し た の が メ リ エ ス で あ る。 「 リ ュ ミエールによって、 動く写真は再現の手段になった。 そして、 ジョルジュ ・ メ リ エ ス が、 そ れ を 表 現 の 手 段 に し た 」( サ ド ゥ ー ル 1993: 219 )。 し か し、 ゴ ダ ー ル が『 中 国 女 』( 1 9 6 7) で 指 摘 し た よ う に、 リ ュ ミ エ ー ルとメリエスの関係を逆転させることもできる。状況の変化という目に 見えないものをカットの連鎖によって見えるようにしたリュミエールに 対し、トリック撮影によってイメージそのものを見世物にしたメリエス という構図が成り立つからだ。しかしいずれにせよ、前述した蓮實重彥 の 映 画 批 評 が こ の 対 立 構 造 に 依 拠 し て い る と い う こ と は 明 ら か だ ろ う。 1930年代から40年代の物語優位の時代と60年代から70年代に かけてのイメージ優位の時代という時代区分はこの対立構造を歴史的に 変換したものなのだ。では、デジタル映画時代においてこの対立構造は いったいどのような意味を持ちうるのだろうか。 デジタル撮影によってイーストウッドは物語優位の映画を理想的な形 態で回帰させた。この点はすでに述べたとおりである。これに対し、タ ランティーノは強烈なイメージ優位の映画をフィルム撮影によって作り 上げた。 『ワンス ・ アポン ・ ア ・ タイム ・ イン ・ ハリウッド』においては、 イメージが強烈になっているその分だけ物語的な要素は希薄になってい る。映画が持続するためにとりあえず何かが起こっていればいいわけな のだ。カットの連鎖は物語を生成させない。何かもっと違ったものを生 み出しているのだ。それがいったい何であるかはよく分からない。しか し、それが現実を複製するというフィルム撮影の性質に起因することは
デジタル映画論 PART Ⅲ 四一 文献 Brenner, Marie 2019, Richard Jewell and Other Tales of Heroes, Scoundrels, and
Renegades, Simon & Schuster Paperbacks
Dolnick, Sam 2014, “The Sinaloa Cartel ’s 90-Year-Old Drug Mule,” New York
Times Magazine ; June 11.
エ リ オ ッ ト、 マ ー ク 2010 『 ク リ ン ト・ イ ー ス ト ウ ッ ド: ハ リ ウ ッ ド 最 後 の 伝 説 』 笹森・早川 訳、早川書房 中路武士 2016 「メディア化する映画 : 一九二○/一九三○年代から二○○○/二 ○一○年代へ」工藤庸子編『論集 蓮實重彥』鳥羽書店 蓮實重彥 1993 『ハリウッド映画史講義:翳りの歴史のために』筑摩書房 サドゥール、ジョルジュ 1993 『世界映画全史2 映画の発明:初期の見世物 1895-1897 』村山・出口・小松 訳、国書刊行会