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梅と菖蒲僚りょうらしからぬ官僚として 坂本龍馬をはじめ多くの人材群を輩はい出しゅつしている その一面だけ見ても役人集団の中では極めて異例の傑けっ出しゅつした人物であったと言ってよい 海軍というものにおいても それは幕府のものではなく 日本の444海軍 を建設すべきだと主張し そのため

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Academic year: 2021

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勝と西郷

  長州藩の実態を遠くから、 強 したた かに 且 か つ冷静に 分 ぶん 析 せき する男がいた。   「 も は や 長 州 に は 人 材 が お ら ぬ で ご わ す。 し か て 言 う な ら 桂 小 五 郎 と 高 杉 晋 作。 そ い ど ん 桂 は 逃 げ 隠 れ、 高 杉 と て 一 人 で は 何 も で け ん。 わ ざ わ ざ 長 州 く ん だ り ま で 兵 を 連 れ て 行 か な く て も、 内部争いを引き起こせば、幕府が手を 汚 よご すまでんなく長州は勝手に滅びもす」   という恐ろしい計算をしている。その男こそ薩摩の西郷 吉 よし 之 の 助 すけ こと西郷隆盛である。   長 州 は 思 想 集 団 で あ り、 薩 摩 は 政 治 集 団 で あ っ た と は、 か の 司 し 馬 ば 遼 りょう 太 た 郎 ろう 氏 の 見 解 で あ る が、 なるほど幕末における両藩の性質は一線を 画 かく す。対して幕府は何かと問えば、それは役人集団で あったと言える。それに 付 ふ 随 ずい する会津などは役人 右 う 翼 よく 集団であり、長州 俗 ぞく 論 ろん 派 は もそれになろうと している。 端 はな からこの三者は 相 あい 容 い れるものではなく、あえていうなら政治的に物事を判断する薩 摩こそ、その中性的な 資 し 質 しつ で情勢を変える可能性があったといえる。しかし薩摩藩という 雄 ゆう 藩 はん で も幕府を相手にしては反抗できるほどの勢力はなく、強大な幕府の中ではいかに有利な立場で政 治の主導を 握 にぎ るかが 目 もっ 下 か の課題であって、長州正義派のようにあからさまに倒幕を示すような行 動は間違ってもしない。幕府が長州征伐と言えば、政治的にそれに従うのは当然であった。   そのころ西郷は征長軍 参 さん 謀 ぼう に任命され、 総 そう 督 とく 徳川 慶 よし 勝 かつ に長州処分を 委 い 任 にん される。そして、   「防長二州は長州征伐に功績のあった諸藩で分割する」   と、 征伐成功後の 褒 ほう 賞 しょう まで考えていた。ところが幕府側の 重 じゅう 臣 しん であった 勝 かつかいしゅう 海舟 と大坂で面会し、 その考えを少しずつ改めていくことになる。   この勝海舟という男、文政六年(一八二三)に江戸で生まれた 古 こ 参 さん の 幕 ばく 臣 しん である。父小吉はう だつのあがらない 旗 はた 本 もと だったが、幼名 麟 りん 太 た 郎 ろう こと勝は剣術修行を経て 蘭 らん 学 がく を学び、猛勉強を積み ながらどんどん実力を 蓄 たくわ えていく。そして 佐 さ 久 く 間 ま 象 ぞう 山 ざん の勧めもあって西洋兵学を 修 おさ め 私 し 塾 じゅく を開く が、この頃ペリー来航という大事件を迎える。このとき勝が応募した 海 かい 防 ぼう に関する意見書が老中 阿 部 正 弘 の 目 に と ま り、 そ こ か ら 彼 の 栄 えい 転 てん が は じ ま っ た。 そ の 後、 長 崎 の 海 軍 伝 でん 習 しゅう 所 じょ に 入 門 し 更なる学問を積み、ついには日本を代表してアメリカへ渡るのである。ここに吉田松陰との決定 的な違いがある。片や革新運動家、片や幕府役人。そして勝がアメリカへ行っている間に安政の 大 たい 獄 ごく が起こる。そして、片や処刑、片や出世。松陰は天皇を頂点とした万民平等の新しい国家の あり方を指向し、勝は幕府旧体制を 危 き 惧 ぐ しながらも世界の列強諸国に対抗し 得 う る国家体制を指向 した。松陰の 一 いっくんばんみんろん 君万民論 は日本が世界に対抗し得るための社会を構成する個々人内部からの革命 論だったことに対し、勝は時勢を見つめた上で幕府、諸藩の 枠 わく を取り払った組織的な総合力で世 界に対抗しようとした。 皮 ひ 肉 にく にも考え方こそ違え、その目指すところは非常に似ていた。   西 郷 と の 一 回 目 の 会 見 当 時、 勝 は 幕 府 軍 ぐん 艦 かん 奉 ぶ 行 ぎょう を 罷 ひ 免 めん さ れ、 蟄 ちっ 居 きょ 生 活 を 送 る 最 中 で あ っ た が、 それまでに神戸に海軍 操 そう 練 れん 所 じょ を設立し、薩摩や土佐のはみ出し者や脱藩者を受け入れるような 官 かん

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僚 りょう らしからぬ官僚として、坂本龍馬をはじめ多くの人材群を 輩 はい 出 しゅつ している。その一面だけ見ても 役人集団の中では極めて異例の 傑 けっ 出 しゅつ した人物であったと言ってよい。 海軍というものにおいても、 それは幕府のものではなく『 日本の 4 4 4 海軍』を建設すべきだと主張し、そのため幕府内の保守派か らも 睨 にら まれていたのである。   会談は、神戸港開港延期による列強諸国の反発に対して、どう対処すべきかを西郷が勝に意見 を求めたことに加え、話は日本国の未来像にまで及んだ。   「幕府はもうダメだ───」   そう語る勝に西郷は驚いた。少なくともその頃の薩摩は幕府に従うしかないとの方針だったか ら、幕臣である勝の口からそんな 科 せ り ふ 白 を聞くとは思いもよらなかったのだ。 生 せい 来 らい 口数の少ない西 郷は勝をみつめた。その 威 い 厳 げん だけで会話を成立させてしまう 凄 すご 味 み がある。   「 ま っ た く 幕 府 が 打 つ 手 と い っ た ら 時 代 錯 さく 誤 ご も 甚 はなは だ し い。 一 昨 年 前 も 幕 府 復 ふっ 権 けん の 策 に 何 を す る かと思って見ておれば参勤交代の妻子の江戸在住制度の 復 ふっ 旧 きゅう だ。政局の中心はすでに京にあるの に、江戸でそんな政策を行って何になる?諸藩は今どこも財政難だ。反発を買うばかり。この度 の長州征伐令においても、将軍自らが進発と言っているにもかかわらず、恐れ入る者もなければ 奮 ふる い立つ者もない。みな責任は上司まかせの役人根性の集団に成り下がり、それを立て直そうと する 逸 いつ 材 ざい が出るどころか、そのことに気付いてすらおらん。これじゃあ戦など起こしても、わず か長州一藩相手に負ける可能性だってある」   勝はまるで他人事のように言う。   「そいどん幕府は幕府でごわす。 腐 くさ っても 鯛 たい と言うではあいもはんか」   「 腐 っ た 物 は 喰 く え ん ぞ。 俺 は 腐 っ た 魚 を 食 っ て 腹 を こ わ し た こ と が あ る。 西 郷 さ ん は 丈 じょう 夫 ぶ そ う だがね」   と、勝は気さくに笑った。人の心を手玉に取る才は天下 逸 いっ 品 ぴん なのだ。   「 そ れ に 長 州 藩 に 同 情 す る 藩 も 多 い と 聞 く。 幕 府 が い く ら 何 十 万 と い う 人 を 集 め た と し て も、 戦争だ 参 さん 勤 きん だと言われて集まった一人ひとりは 忠 ちゅう 誠 せい を立てるどころか腹を立てておる。そんな人 間で構成された軍など、見かけは 豪 ごう 勢 せい に見えても内実は 砂 さ 城 じょう と同じだよ」   「勝さんは長州征伐に反対でごわすか?」   「 日 本 国 内 で つ ま ら ぬ 内 部 争 い を し て お る 場 合 じ ゃ な い と 言 っ て い る。 幕 府 じ ゃ 藩 じ ゃ と ド ン グリの 背 せい 比 くら べをしている間に列強諸国に 喰 く われてしまうぞ」   その点勝も晋作と同じ危機感を持っていた。勝は万延元年(一八六〇)日米修好通商条約の 批 ひ 准 じゅん 書 しょ 交 換 の た め、 遣 けん 米 べい 使 し 節 せつ と し て 咸 かん 臨 りん 丸 まる に 乗 っ て 米 国 へ 渡 っ た。 そ の 帰 り ア メ リ カ の 植 民 地 と なっていたハワイに立ち寄り、そこで 奴 ど 隷 れい の 如 ごと くアメリカ人に扱われるハワイ原住民の姿を見て いる。 日本もそうなってしまえば、 もはや幕府だ薩摩だ長州だなどと言い争える状況ではなくなっ てしまうと主張した。ついには、   「 幕 府 は 西 郷 さ ん が 言 っ た と お り 腐 っ て い る。 俺 の 口 か ら こ ん な こ と を 言 っ た ら お か し い か?

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だが、俺は幕府の 民 たみ ではなく日本国民なのだ。いま日本に必要なのは、 雄 ゆう 藩 はん 連 れん 合 ごう による共和政治 をおこなうべき事なのだよ」   と討幕を 示 し 唆 さ しながら、幕府の最高 機 き 密 みつ をあからさまに 洩 もら らすのだった。   後に明治維新の 三 さん 傑 けつ に名を連ねる西郷隆盛にして 驚 きょう 愕 がく した。世界の中の日本国民という視野で 物事を考えている勝のスケールの大きさに「幕府にもこげんすごか人間がいたか」と言葉を失っ た。この会談を終えて西郷は、   「勝氏へ初めて面会し 候 そうろう ところ実に驚き入り 候 そうろう 人物にて、どれだけ 知 ち 略 りゃく これあるやら知れぬ 塩 あん 梅 ばい に見受け申し 候 そうろう 」   と、 同 どう 胞 ほう の 大 おお 久 く 保 ぼ 利 とし 通 みち に 宛 あ てた書簡に書いている。一方、勝にしてみれば、西郷ほどの人材を 薩摩という小さな 枠 わく の中で働かせておくのは 惜 お しいと考えたに相違ない。後に、この二人の会談 に よ っ て、 江 戸 城 無 む 血 けつ 開 かい 城 じょう と い う 歴 史 的 大 偉 業 が な さ れ る こ と に な る。 と も あ れ 勝 の 知 ち 略 りゃく と 度 ど 量 りょう にすっかり 啓 けい 発 はつ を受けた西郷は、倒幕への意識を 芽 め 生 ば えさせつつ、戦わずして長州征伐を終結 させる方法を 模 も 索 さく するのであった。それがこの項の冒頭で述べた 策 さく 略 りゃく である。彼の耳には、既に 長州が俗論派と正義派で分裂していると情報が入っている。それを利用しない手はない。   晋作は 萩 はぎ にいた。   と こ ろ が そ の こ ろ 萩 は 椋 むく 梨 なし 藤 とう 太 た ら 俗 論 党 の 手 しゅ 中 ちゅう に あ っ た。 幕 府 に 対 し 恭 順 の 姿 勢 を 示 す た め、 藩主親子を萩城に引き込ませ、それに伴い政庁も山口から萩に移動していた。そもそも近年、内 陸部にある山口へ政庁を移動したのは、幕府や夷敵等外部からの侵入を防ぎ、戦意を示して 威 い 嚇 かく するためであったから、 藩主を山口から萩に移すことは恭順の意思を示すことになるわけである。 加えて 遂 つい に俗論党は、晋作はじめ正義派の政務座役や目付役、また禁門の変の際 参 さん 謀 ぼう を務めた 宍 しし 戸 ど 左 さ 馬 まの 介 すけ 、中村九郎、竹内正兵衛らの逮捕に乗り切ったのである。更に奇兵隊結成以来、各地で 盛んに作られていた諸隊に対して、解散命令を下す。晋作の身の危機はすぐそこに 迫 せま っていた。   ところが逮捕令が出たことは当然晋作の耳には入らない。しかし 不 ふ 穏 おん な空気が日に日に深まっ ていくのを肌で感じていた。   そして十月二十五日、宍戸左馬介が 捕 つか まり 野 の 山 やま 獄 ごく に投獄される。   その 噂 うわさ を聞いた晋作は、   「逃げねば───」   と 咄 とっ 嗟 さ に判断した。実は数日前の夜、同じ政務座役を務めていた 楢 なら 崎 さき 弥 や 八 はち 郎 ろう を訪ね、一緒に脱 走しようと 勧 すす めたばかりであった。ところが彼は、   「 わ し は 逃 げ ぬ。 逃 げ れ ば 我 ら 正 義 派 が 間 違 っ て い る と 認 め る よ う な も の。 俗 論 党 め! お 縄 なわ に するならしてみよ!」   と聞かない。 「捕まれば殺される」と必至に 説 と いたが、結局彼は動こうとはしなかった。   やむなく晋作は一人で逃げることにした。脱走前、 酔 よ っぱらい町人を 装 よそお うため古びた 単 ひとえ 物 もの を着、

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手 て 拭 ぬぐ いで 頬 ほお 被 かぶ りをして 瓢 ひょう 箪 たん の 徳 とっ 利 くり を雅に用意させた。 雅は言われるままに 身 み 支 じ 度 たく を手伝いながら、 「どこに行くのだろう?」と思いながらも言葉には出さなかった。   「雅、 暫 しばら く戻らぬからそのつもりでいよ」   「はい───。家のことはご心配なさらないでくださいませ」   晋作のそういう行動にはもう慣れてしまっているのか、雅は別に悲しい顔もしなかった。小忠 太も藩の情勢をよく知っていたから何も言わない。 「無事に逃げよ」という目だけでうなずいた。   晋作は生まれたばかりの 梅 うめ 之 の 進 しん の顔を見た。赤子の静かな寝息は、世の 諍 あらそ い事を 悠 ゆう 々 ゆう と見下ろ しているようでもあった。   「雅、梅之進を頼んだぞ」   晋作はそう言い残すと、家の裏口から外を警戒するように飛び出して行った。   それから間もなく菊屋横町の屋敷に、数人の奉行所の役人が「高杉晋作はおるか?」とやって 来た。野生の感とでも言おうか、天に 導 みちび かれたとでも言おうか、晋作、まさに 間 かん 一 いっ 髪 ぱつ だった。   彼はそのまま山口へ向かう。脱走したにも関わらず、俗論党の 本 ほん 拠 きょ 地 ち と化した政事堂のある山 口に向かったのは、どうしても会っておかなければならない者がいたからである。そう、井上聞 多である。正義派のために命を 狙 ねら われ、なんとか命は取り 留 と めたものの、今は動くこともできず に自宅で寝込んだままのはずである。晋作自身いつ死ぬか分からぬ身、 今 こん 生 じょう の別れを告げるとと もに、彼の 一 いち 途 ず な勇気を 讃 たた え、 見 み 舞 ま ってやりたかったのだ。   井上五郎三郎宅のひとつの部屋に、身体中に 晒 さらし を巻かれた聞多が、 寂 せき 然 ぜん と 布 ふ 団 とん の上に横たわっ ていた。晋作は部屋に案内されると、 そのまま布団の 脇 わき に 胡 あ ぐ ら 座 をかいて聞多の右手を握りしめた。   「聞多、ボクじゃ。しっかりせい」   「高杉さん……」   聞多は声にならない声をあげると、身体を起こそうと身じろぎをした。   「動くな。そのままでよい」   聞多の両目から耳の方に向かって涙が流れ落ちた。   「分かっているよ。何も心配するな。あとはボクに任せろ……」   二人の間に言葉はいらなかった。聞多は右手から伝わる晋作の両手の熱と力から、これから俗 論 党 に 対 し て 反 はん 転 てん 攻 こう 勢 せい を か け る 決 死 の 決 意 を 感 じ 取 っ た。 「 自 分 も 連 れ て 行 っ て く だ さ い!」 と 聞多の右手が言った。   「何を申すか。気持ちは分かるが、その 身 か ら だ 体 では足手まといじゃ」   聞多は晋作の手を握り返したが、 筋肉が弱化して、 晋作にはどれほどの感触にもならなかった。 だがその思いは 弾 だん 丸 がん のように晋作の胸を突いた。   「 も う 世 が 明 け る 頃 で す。 昼 間 は 危 険 で す か ら、 う ち で ゆ っ く り お 休 み い た だ き、 夜 発 た た れ た 方が良いでしょう」   五郎三郎は晋作の身を案じてそう言った。晋作は五郎三郎の好意に甘えることにした。そして

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聞多の母房が作った 飯 めし を食べ終えると、そのまま聞多の横にごろりと寝ころんで、深い眠りにつ いた。そしてその夜、   「聞多よ、生きておったらまた会おう」   と、晋作は 恍 こう 惚 こつ とした表情で聞多のもとを去ったのだった。   さて、どうするか……。   晋作は身の危険を感じながらも山口に宿をとって 前 ぜん 後 ご 策 さく を考えることにした。この頃の晋作の 変 名 は 谷 たに 梅 うめ 之 の 助 しん と 言 う。 藩 内 の 状 況 を 把 は 握 あく す る た め、 従 い と こ 兄 弟 の 南 み な み か め ご ろ う 亀 五 郎 を 呼 ん で 話 を 聞 こ う と、 その名を使って彼がいるはずの政事堂に 遣 つか いを出したのだ。   その間いろいろ考えてみた。政事堂に 談 だん 判 ぱん に行き、俗論党になった役人達の前で腹をかっ 斬 き ろ うかとも考えてみたが、そんな事で命を落としてみても後が続かない。もはや松陰の流れを継ぐ 正義派の 火 ひ 種 だね は自分にしかないのだ。残されたこの自分一人から、 略 りゃく 奪 だつ された政権をひっくり返 すしかないのだ。   「奇兵隊───」   ふと、頭の中にその名称が浮かんだ。 紛 まぎ れもなく彼はその 開 かい 闢 びゃく 総 そう 督 とく なのだ。   奇兵隊はいま、三田尻の 徳 とく 地 ち にその 屯 とん 所 しょ を構え、松下村塾生の 山 やま 県 がた 有 あり 朋 とも が 軍 ぐん 監 かん を務め、禁門の 変で死んだ入江九一の弟である 野 の 村 むら 靖 やすし もいるはずだった。第三代 総 そう 管 かん の 赤 あか 根 ね 武 たけ 人 と はこのころ正義 派と俗論党のいざこざに耐えられなかったのか、帰郷して姿を消している。既に俗論党は諸隊に 解散命令を出していたが、このとき奇兵隊は、藩の命令のままに解散するか、逆に藩に反抗して 武装を強化し、独自に倒幕の道を進むかの厳しい選択を 迫 せま られていた。晋作の望みは、 草 そう 莽 もう 崛 くっ 起 き の 思 想 か ら 生 ま れ た 四 民 平 等 武 装 集 団 と い う、 幕 府 開 始 以 来 下 層 階 級 で 苦 し め ら れ て き た 農 民、 庶民達の幕府に対する怒りに期待することだった。   奇兵隊をもって俗論党の 撰 せん 鋒 ぽう 隊 たい と一戦 交 まじ え、それに勝利すればあるいは正義派に流れがなびく かも知れない───。   ただ、この頃の奇兵隊の人数は二〇〇名程度である。   やはり、無理か……。   そんなことを考えているうちに亀五郎がやってきた。   「こんなところにおりましたか」   と開口一番、藩が晋作を 捕 ほ ばく 縛 しようとしていることを告げた。   「やはりそうであったな……」   亀五郎の話によると、宍戸左馬介のあと楢崎弥八郎、中村九郎、佐久間佐兵衛らも野山獄に入 れられ、他の正義派元幹部が捕まるのも時間の問題だろうとのことである。そして諸隊の長が藩 庁に 召 しょう 喚 かん され、俗論党は給与その他の援助を打切り、解散命令を出したと言い、かろうじて奇兵 隊や八幡隊などの一部がその召喚に応じなかったことを伝えた。

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  「まだ 脈 みゃく はあるな───」   そう思った晋作は、亀五郎に礼を述べると奇兵隊に 一 いち 縷 る の望みを 託 たく し、そのまま徳地の屯所に 向かって走り出した。   ところが出迎えた山県有朋の顔は、いかにも 苦 く 渋 じゅう に満ちていて、とても俗論党と一戦交えて政 権を 奪 だっ 還 かん しようという 気 き 概 がい の 微 み 塵 じん もない。彼が悩んでいることといえば、藩庁の召喚を 蹴 け ったも のの、これからどのように隊を 維 い 持 じ していこうかという消極的なもので、その問題を晋作に問い かけるほどだったのだ。 山県有朋は松下村塾生ではあったが、 入塾して数カ月後に松陰は獄に下っ たため、 直接 薫 くん 陶 とう を受けた期間は極めて短かい。加えて、 もともと足軽以下の身分であったため、 士分としての 誇 ほこ りも非常に薄く、晋作は期待した自分が 愚 おろ かであったことを知る。山県の志気に よっては「これより俗論党を討ちにゆくぞ!」と言うところであったが、   「ボクは九州に行く」   と、突然方針を変えて伝えたのみだった。なぜ九州なのか首をひねるところであるが、晋作に はきちんとした裏付けがある。   「九州へ……?いったい何をしに?」   「同志を 募 つの り、 義 ぎ 軍 ぐん を編成する。そしてそいつを率いて俗論党を 潰 つぶ す……」   山県は何も言わなかった。深い闇の中で 燈 とう か 火 が 沈 ちん 々 ちん と揺れていた。    ともし火の 影 かげ 細く 見 みゆ る 今 こ 宵 よい かな   晋作は一首の詩を詠んで紙にしたためた。すると山県は、   「高杉さん、奇兵隊に 留 とど まっていたほうが安全ですよ……。私達が守りますから」   と、 晋作を引き留めようとした。 晋作は 「志気の 失 う せた今の奇兵隊に世話になった方が危険じゃ」 と言おうとしたが、言うのもバカらしくなって、   「もうよい。時間がない。ボクは行く───」   と、そのまま奇兵隊屯所を 発 た ち、三田尻の 招 しょう 賢 けん 閣 かく に向かった。   招賢閣に陣所する 忠 ちゅう 勇 ゆう 隊 たい には、福岡藩を脱藩した中村円太という男がいた。そのころ忠勇隊総 督には土佐脱藩浪士の中岡慎太郎が就任している。中村円太といえば禁門の変で戦死した真木和 泉と並んで尊攘派浪士を代表する人物だったが、禁門の変に間に合わず死に場所を 逸 いっ した意味に おいては悲劇の浪士だった。当時、彼は 野 のの 唯 ただ 人 ひと という変名を名乗って三田尻にいたが、晋作が彼 に興味を示したのは、彼が唱える『九州連合策』なる戦略論においてだった。   「 長 藩 に お け る 正 義 派 の 勢 力 を 得 せ し め る が た め に は、 外 か ら 九 州 連 れん 衡 こう の 勢 力 を 以 もっ て こ れ を 助 けるのが一番である」   と───。晋作が九州に行くと言ったのは、福岡藩出身の彼の人脈を利用しようとしたことに 他ならない。京都で出会った中岡慎太郎に要件だけ話すと、円太への書状を託し、そのまま 富 との 海 み

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