中国映画の歩みー﹁現代中国映画研究﹂の特集にあたって編集部
﹁新時期電影﹂と呼ばれる中国ニューシネマが登場して四
半世紀を迎えようとしている︒この間に製作された多くの
現代中国映画を研究テーマとして考察する前に︑まず中国
映画(大陸映画)の歴史を振り返ってみる︒
﹁電光影戯﹂(解放以前)ー第一世代
中国映画の形成期には︑伝統演劇︑近代映画手法︑左翼
映画運動が大きな影響を与えている︒
清朝末の中国に近代映画がもたらされたのは︑リュミエー
ル兄弟が映画放映を行なった翌年の一八九六年であり︑当
時は西洋映画が﹁西洋影戯﹂﹁電光影戯﹂などと呼ばれた︒
当時の人々は映画を﹁戯劇﹂(演劇)の一ジャンル(﹁影戯﹂
影絵劇)として受容したことが︑中国映画の方向を定めた
といわれ︑一九〇五年の最初の中国映画﹃定軍山﹄以後︑ 演劇関係者が映画を製作する伝統を生んだ︒映画の呼び名
は略語である﹁電影﹂﹁影戯﹂︑また映画放映施設は﹁電影
院﹂﹁影戯院﹂﹁影劇院﹂等の名で定着していくことなり︑
初期においては西欧人などによる映画館経営も多くみられ
た︒また1九11年には﹁取締影戯場条例﹂が定められ︑
政府による映画館管理︑映画審査の条例化は後の﹁電影管
理条例﹂の制定などに引き継がれることになるのである︒
中華民国の時代には一九一六年頃から上海の租界地区を
中心に本格的にアメリカ映画が輸入されるようになり︑ソ
連ではじまる﹁蒙太奇﹂(モンタージュ)やアメリカで始ま
る﹁有声電影﹂(トーキー映画)あるいは﹁彩色電影﹂(カ
ラー映画)の技術が早々に中国に伝わり︑三一年﹃歌女紅
牡丹﹄(最初のトーキー)や四八年﹃生死恨﹄(最初のオー
ルカラー)等が生まれる︒なお満鉄映画班(二三年設立)
および満映(三七年設立)による日本の国策映画の製作は︑
中国映 画の歩み
.,
ら中国映画に影響を与えたといわれる︒
三年に上海において共産党の指導の下に﹁電(夏街を中心とするメンバー)が成立し︑﹁左
展開され︑映画を文学などの他の芸術部門
つの革命事業としてとらえるようになる︒
製作においては︑中華民国当局の﹁劇本審
ナリオ審査委員会)や﹁電影検査委員会﹂に
ながら︑作品は庶民の現実的な生活をモチー
れるようになり︑娯楽的な要素よりも社会
術的要素を重視する中国映画のスタイルが
の時期に活躍した映画監督は﹁第一代導演﹂
)と呼ばれ︑張石川︑程歩高︑任彰年︑卜万
がいる︒三〇年代〜四〇年代にかけて︑中
創出したのである︒
﹂の方向︑﹁双百﹂の方針
中国成立以後)1第二世代
は︑すべて﹁二為﹂の方向︑﹁双百﹂の方針
十五年戦争(抗日戦争)のなかで毛沢東は
談会上的講話﹄(延安文芸講話)を発表し︑ すべての文芸活動は﹁二為﹂(二つの"ために")の方向の
下に行なわれることを定めた︒中国の文芸活動は︑一つに
は社会主義のために︑一つには人民大衆のために行なわれ
るのである︒また一九五七年︑毛沢東は﹃関於正確処理人
民内部矛盾的問題﹄(人民内部の矛盾を正しく処理する問題
について)のなかで︑﹁双百﹂の方針を定めた(五六年に提
起)︒﹁双百﹂とは﹁百花斉放︑百家争鳴﹂であり︑芸術上
の異なった形式を自由に発展させ︑自由に論争することで
ある︒
一九四九年の新中国成立以来︑中国は﹁中央人民政府文
化部電影局﹂(後の﹁文化部電影事業管理局﹂)を創設し︑
映画事業全体が国家により管理されるようになり︑すべて
の映画製作活動のあり方が上記の二つのテーゼに集約され
た︒
また映画製作所はすべて国営となり︑旧ソ連映画の影響
のもとに中国固有の﹁民族映画﹂の製作がなされ︑五一年
には﹁中国影片経理公司﹂(中影公司︒後の中国電影発行放
映公司︑中国電影公司)を設立し︑内外のすべての映画を
国家機関によって統一的に配給・興行する方式を生み出し
ていく︒都市部においては﹁電影院﹂﹁影劇院﹂﹁工人倶楽
部﹂﹁礼堂﹂等の映画上映施設をすべて国営・集団化し︑一
方︑農村部においては五一年に﹁巡回流動放映隊﹂(農村移
動映写隊)を組織し︑最盛期には全国で一八万隊に膨れ上 2
がり︑八〇年代まで農民がわずか○・二元(当時の約五円)
程度の負担で年間一〇〜二〇本の映画を見ることを可能と
したのである︒
新中国成立以来︑大陸で社会主義建設が進んだ五〇年代
の時期には︑﹁第二代導演﹂(第二世代監督)が活躍する︒
沈浮︑鄭君里︑王為一︑黄佐臨︑張駿祥などの監督は社会
主義の理想をめざす映画作りを行なったが︑呉回︑岳楓︑
屠光啓などの監督は新中国成立とともに香港へ移住し︑香
港映画の土台を築いた︒ 朝﹂(米国への反撃︑北朝鮮への支援)をテーマとする映画
や毛沢東によるいわゆる﹁コミューン主義﹂的な理念を称
える映画の製作だけが許され︑文革期の劇映画製作数は一
〇年間のトータルで七〇本程度に落ち込んだ︒多くの映画
関係者が下放され︑映画事業は停滞を余儀なくされた︒
この時期に登場した監督は﹁第三代導演﹂(第三世代監
督)と呼ばれ︑いずれも文革前にデビューを果たしている︒
謝晋︑水華︑干彦夫︑凌子風︑謝鉄驕などの監督を輩出し
たのである︒
三﹁様板戯﹂(文革期)1第三世代四﹁新時期電影﹂(文革終了以後)1第四世代
一九五七〜五八年の反右派闘争および五八〜六〇年の大
躍進︑六一〜六五年の調整期︑六六〜七六年の文化大革命
は︑中国に政治的混乱と経済的な貧困をもたらした︒人民
公社に象徴される極端な社会主義政策は︑文芸活動にも影
を落としていく︒映画事業は七〇年に﹁国務院文化組﹂の
管轄となり︑江青ら四人組による奪権が行なわれ︑文化的
統制が強まった︒文革期には演劇において﹃白毛女﹄等に
代表される﹁様板戯﹂(模範劇)のみが繰り返し上演され︑
映画においても六二年﹃地雷戦﹄︑六五年﹃地道戦﹄などの
模範映画のみが上映された︒対外的にもソ連およびアメリ
カ・日本などと対立関係にあったため︑﹁抗日﹂や﹁抗美援 一九七六年の毛沢東の死去と四人組の逮捕︑七八年の十
一期三中全会における郡小平による改革開放のスタートは︑
映画製作の再開となった︒映画事業の政府所管は七五年以
降﹁文化部電影局﹂となっていく︒
こうしたなかで︑七九年雑誌﹃電影芸術﹄のなかで張暖
析と李陀が発表した﹁論電影語言的現代化﹂(映画言語の現
代化論)は︑第四世代監督による新しい映画づくりを象徴
する宣言となり︑同時に第三世代監督も制作活動を再開し
た︒映画ジャンルにおいては初期の﹁傷痕電影﹂(文革期の
傷跡を描いた映画)に始まり︑様々なヒューマンドラマが
製作されるに至り︑中国映画は﹁芸術電影﹂の道を大きく
中国映画の歩み
M
年代前半に第三世代・第四世代監督による(中国ニューシネマ)が起こったのである︒
は七二年の米中上海コミュニケ︑日中共同
映画事業においても門戸開放が行なわれた︒
において第一回中国映画祭が開催され︑日
が締結された七八年には中国において第一
開催され︑﹃追捕﹄(君よ憤怒の河を渉れ)
ットを記録する︒テレビ事業においても︑
視台(上海テレビ局)による初のコマーシャ
八〇年には日中共同による﹃締綱之路﹄(シ
テレビ制作等が行なわれたのである︒
おいても七九〜八〇年に徐克などによる﹁香(香港ニューウェーブ)が起こり︑台湾にお
初頭からシナリオ作家の朱天文とコンビを
よる﹁台湾新電影﹂(台湾ニューシネマ・台
ブ)が起こり︑中国圏には新しい映画運動
である︒
八〇年代前半までに映画界にデビユーした(第四世代監督)には︑呉胎弓︑呉天明︑謝
相持などがいる︒ 五﹁西北風﹂(八〇年代後半)1第五世代
一九八四年十二期三中全会が開催され︑改革開放の重点
は都市部にシフトした︒また人民公社は急速な解体が進み︑
同時に農村移動映写隊による映画放映は八五年﹁関於制止
向農民乱派款︑乱収費的通知﹂によって批判を受けること
となり︑農村映画隊は解体していく︒一方で経済的な発展
は都市部における消費の拡大となり︑観衆の足を映画館へ
と向かわせた︒映画製作数は八六年に年間五四五本とピー
クとなり︑劇映画だけでも年間一五〇本が製作された︒ま
た主要な映画製作所による一六社映画製作所体制が確立し︑
中影公司による経済的に安定的な配給・興行体制が︑映画
業界を潤わせた︒また映画事業の政府所管は八二年以降﹁文
化部電影管理局﹂となっていたが︑八六年に﹁広播電視部﹂
と合併し︑新たに﹁広播電影電視部﹂(ラジオ映画テレビ
省)が生まれ︑映画業界は政治的にも安定した状況となった︒
映画増産体制のなかで︑各映画製作所は若手スタッフを
製作に起用することとなり︑例えば﹁広西電影製片廠﹂(広
西映画製作)は張軍釧︑張藝謀︑陳凱歌などの若手スタッ
フから構成される﹁青年撮影組﹂を組織した︒こうして八
四年に﹃一個和八個﹄(一人と八人)︑﹃黄土地﹄(黄色い大
地)などの新たな映像作品が生み出された︒監督・カメラ