長 谷 山 群 集 墳 分 布 調 査 報 告
一
は じ め に 長 谷 山 群 集 墳 は
︑ 津 市
・安
芸 郡 安 濃 町 o同 郡 美 里 村 の 三 市 町 村 に ま
た が る 長 谷 山
︵ 標
高 三 二 一 π︶ 山 麓 築に 造 さ れ た 古 墳
の集
合 体 を 指 し 二 重 県 下 は言 う に及 ば ず
︑ 全 国
でも
屈 指 の 群 集 墳 で ぁ る
︒ こ の 群 集 墳 は
︑ 昭 和 三
二年
四 月 末
の津
市 大 字 分 部 地 区 内 の 林 道 開 発 工 事 に よ てっ 発 見 さ れ る に 至 たっ
︒ 二 重 大 学 原 始 古 代 史 部 会 で は
︑ 直
に
二重
県 教 育 委 員会 及 び 津 市 教 育 委 員 会 と 連 絡 を と り
︑ 五 月 初 旬 に 発 掘 調 査 を 開 始 し
︑ 約 六 ケ月 間 継 続 さ れ た
︒ ま
た
︑ 群 集 墳 の基 本 調 査 た る 分 布 調 査 も 並 行 し
て行
わ れ た
︒ こ の分 布 調 査 は
︑ 昭 相 三二 年 ま で 引 続
∝ 行 な わ れ
︑ 三 百 数 十 基 の 古 墳 が 築 造 さ れ て い る こと が 判 明 し た
︒ 分 布 調 査 は
︑ 昭 和 三 七 年
︑ 昭 和 四 四 年
︑ 昭 和 五 二 年 に も 行 な わ れ た が
︑ 今 回
︑ 我 々 は
︑ ぃ ま だ 調 査 の 行 な わ れ て い な い 西 側 斜 面 及 び 頂 上 付 近 を も そ の 調 査 地 域 と し
︑ 長 谷 山 の 全 面 調 査 を 行 い
︑ 明 確 な 位 置 図 を 作 製 し た
︒ そ の 結 果 長 谷 山 山 麓 に は
︑ 四 六
〇 基 の 古 墳 が 確
田藤 いはど に卍脚 ″﹄ 詞簿
耐r ﹄″ ∝ 離 呻 ど画 辞雌
︲ こ 群郡蒙 いで ヽ ︑赫 赫︒
尚
︑ 長 谷 山 よ り 東 に の び る 低 丘 陵 上 に も 多 く の 古 墳 が 見 ら れ る が
︑ 今 回 の報 告 で は ゝ そ
れ ら は 除 外 し
て考
え た
ぃと
思 う
︒
原 始 古 代 史 部 会 ま
た
︑ 本 稿 中 の 支 群 名 及 び 各 支 群 内 の 古 墳 番 号 は
︑ 我 々 の 不 手 際 で
︑ 今 回 我
々が
新 た に 設 定 し な お し た も の で ぁ り
︑ 従 来
の遺
跡 番 号 と は
一致
し な い こ と を お わ び し た い︒ 一一 位置と歴史的環境
錫使ガ岳に発する安濃川は︑安芸郡安濃町や津市を貫流し︑左に 見当山丘陵︑右に長谷山︑及び半田丘陵を眺めながら︑やゃ狭随な 沖積平野を形成する︒・ この地域は︑古墳時代以前の遺跡も︑納所遺跡 をはじめ︑数多 く存在するが︑縄文時代のものは︑辻の内遺跡 ④缶ど数例にとどま
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口 一
古墳
は
双︑
方中
方
墳と
いぅ
特 異
墳な
形
を有
し
方︑
形 墳 と 考 え
れば
全 国
九位
と
いぅ
屈指
の規
模 を も
っ︑
特 筆 す
べき
古墳
で
ぁる
︒ 築
造時
期
は五
世
・ 紀
前 葉
から
中葉
と さ
れる
︒ 廻り
には
八基
の陪
塚 が 蜘 ら れ
す︑
べて
方形 墳
でぁ
る ︒
‑27‑
長谷山群集墳分布調査報告
一はじめに
長谷山群集墳は、津市‑窟安濃町‑郡美里村の三市町村に
またがる長谷山(標高三二=)山麓に築造された古墳の集合体を
指し三重県下は亭っに及ばず・全国でも屈指の群集壇である。この
群集墳は、昭和三二年四月末の津市大字分部地区内の林道開発工事
によって貰されるに至った。三‑学原始古代史部会では'直に
三重県等委曇及び津市‑委員会と連絡をとり、五月初旬に発
掘翌を開始し・約六ケ月間継続された。また、群集墳の慧翌
たる分布翌も並行して行われた。この分布調査は、昭聖三年ま
で引続篭われ、三百数十基の古墳が築造されている。とが判明した。
分布翌は,昭和三七年、昭和四四年・昭和五二年にも行なわれ
たが・今回.我々は‑まだ調査の行‑れていない西側斜面及び
頂
上付近をもその翌地域とし、長谷山の全面翌を行い'明讐位置警作製した。その結果長谷山山麓には、四六〇基の古墳が確
・.I
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尚、良谷山より東にのびる低丘陵1にも多‑の古墳が見られるが、
今回の掌では、それらは除外して考えたいと思う。 瞭始古代史部会
また,本稿中の支群名及び各‑内の古墳番号は,我々の不手際
で、今回我々が新たに設定しなおしたものであり、従来の遺跡番号
とは壷しないことをおわびしたい。
二 位 置 と 歴 史 的 環 境
錫伎ガ岳に掌る安濃川は、安芸郡安濃町や津市を貫流Lt左に
見当山丘陵・右に長谷山,及び半田丘陵を眺めながら'やや狭駈な
沖積平野を形成する。
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る。
安濃川流域には、数多‑の古墳が知られている。このうち、最古
の古墳としては、坂本山古墳群㊥があり,四世紀末葉に比定されて
いる。
明合古墳⑥ほ・双方申方墳という特異な墳形を有し、方形墳と考
えれば全国九位という屈指の規模をもつ,特筆すべき‑である。
築造時期は五世電葉から中葉とされる。廻りには八基の陪塚が知
られ・すべて方形墳である0
27
⑲ロ蓮池古墳などの前方後円墳が築造され'中流域と好対照をなし
ている。
六世紀前半になると、中流域にも前方後円墳が築造されるように
な剛、長谷山周辺にも'岡南釦号墳、御屋敷跡=二号墳'殿村毒壇、そして下御供田言号墳などが存在し'長谷山群集墳に先行
するものと考えられる.。のうち岡南四号墳は、帆重唱削方後円墳に近い墳丘をもつ。また'右岸に存在した君ケロ古墳は、横穴
式木芯室という特異な内部主体を持つ帆立貝式前方後円墳であり、
六世紀前半の築造とされる。
その他、注目すべき古墳として'大型の横穴式石室から豊富な遺⑯物を出土し、六世紀前半に比定される四反田一号墳、羨道部に階
段状施設をもつ横穴式石室を検出し'南鮮との関連が考えられてい⑲る平田A五号墳'横穴式石室に家型石棺をもつ鳥居古墳などがあ
り、半田丘陵には、横穴墓も造営されている。⑲⑲なお、半田丘陵には、久居古窯虻藤谷埴輪古窯比などの生産⑳遺跡が知られ'最近、方ケ広埴輪古窯虻も発見された。 池の谷古墳壕最大とし、鎌切言号壇
.
'同三号墳'おこし古墳 壇など、中流域に方形壇が集中して築造される。7万、⑲ ㊥から成り、他にも同時期の堂山言号墳'日余言ち墳 ⑦また、六世紀前半の築造とされるメワサ古墳群も九基の方形墳㊨、申相野古下流域は、
三 長 谷 山 群 集 境 に つ い て
長谷山における古墳の分布は、圧倒的に東側斜面に多‑、はとん どが径f〇m前後の小円墳で構成され、古墳の現状から
横穴式石室を持っと推測される㊥。これらの古墳芙き
群に分けることができるが、この三二のグルーピングは
平面的、垂直的な分布の外的観点に立つものであり、そ
支群問の築造時期'あるいは、長谷山群集境を形成した
集団関係を正し‑反映しているかどうかについては、更
らの綿密なる検討が必要であろう。しかし、八割以上の
に盗掘をうけており、その詳細を知ることは困難である
また、三二の支群は'その規模及び立地から更に大き
五地区に分けて考えることができる(付図三参照)。以
区別に若干の考察を加えてみたいと思う。
A区(付図五参府)
安濃川下流域をのぞむ南東斜面の比較的ゆるやかな傾
模な支群を営む地区である。この地区には一〇支群が属
も数基から十数基からなる小規模なものであり、尾根に
に整然と並んでおり'その間に墓道があったことを想定
た、三年作
C
支群の二号墳と三号墳の両墳をもって、前する考え方があったが、測量
(S
五五・70 ‑ S
五六・円墳二基とみる方が妥当であるとの結論に遷した。(付
B区(付図四参頗)
安濃川中流域をのぞむ北東斜面のゆるやかな傾斜地に
群を営む地区であり'長谷山の中でも'古墳分布の最も水
りをもつ地区である。この地区には'八支群が属し'中
A支群'坂本A支群、丸岡A支群'細山田支群は'数十基から百余
基にも及ぶ大支群であり(古墳番号は付図八を参照)'この四支群
で長谷山群集墳全体の六割近‑の古墳数を占める。この四支群の古
墳の分布状況をみるとtA区の支群内での古墳が線的な分布を示す
のに対し、B区では、面的な広がりをもち'更にA区が同規模の古
墳で構成されているのに対し、B区は、その支群内において、他と
比べて明らかに優位に立つとみられる大きな円墳がい‑つか存在す
る。
このような大支群の分布に関して、大橋氏は細山田支群を例にと
り'その石室の開口方向から更にT五の小単位群に分けている
Q
その小単位群は、小規模支群で考えられるのと同様に、同族的色彩の
濃いものであるとし、また、墳丘規模の優劣は、その被葬者の共同
体内における社会的'経済的地位のあらわれではないかと言ってい
る。そして'これと同じようなことが他の大支群にもあてはまるの
ではないかとLt更にA区で述べた墓道の問題に関しても隣接する
丸岡A支群と細山田支群の問に7つの「幹道」の存在が想定され' たく。
C
区(付図四・六参照)安濃川中流域をのぞむ北斜面の急峻な尾根上及び穴倉川をのぞむ
丘陵の先端に小規模な支群を営む地区である。この地区には、七支
群が属し、いずれも数基からなる小規模なものであり'尾根に沿っ
て'ほぼ同規模の小円墳が7列ないしは二列に並んでいる.
D区(付図四・六参鷹)
標高7五〇m以上の山腹や山頂付近のわずかな平地を利用し、小
規模な支群を営む地区である。この地区には五支群が属し'数基か
ら十数基の小規模なものであり'単独墳がいくつか見られるのもこ
の地区の特徴である。
中跡山支群は四基からなり、四基とも横穴式石室を持つことが知
られ'特に言号境は天文石が取り去られているものの、石室の残存
29
状態は良好であり、大橋氏によれば七世紀前半代のものとされる ㊨o支群問同志もなんらかの関係を持っていたことも指摘している。
尚t分布弛査中に破壊された丸岡C支群二号墳から採取した円筒
埴輪の中に底部調整を施されたものが存在することが確認された。
詳細については、遺物の項で述べたい。
また、大山田A支群は、昭和三二年四月から同一〇月にかけて、
林道開発工事になって発掘調査が行われているが'その報告は、﹃
三重の文化﹄1五号でなされているので'ここでは割愛させていた これは、長谷山群集墳の築造年代を知る上で重要な手がかりとなっ
ている。
E
区(付図七参照)県道家所‑阿漕停車場線に面する南西斜面の比較的ゆるやかな尾
根先端に小規模な支群を形成する地区である。この地区には二支群
が属するのみであり、四〜六基からなる小規模なものである。
この地区は'他の地区と異なり、安濃川流域をのぞむことが全く
できず'東斜面花立地する支群とは、その性格を異にするのではな
いかと考えられる。
四遺
物
今 回 の 分 布 調 査 に お い て 、 採 集 し た 遺 物 と し て 、 埴 輪 片 ' 須 恵 器
片 、 石 器 な ど が あ る 。 こ れ ら の う ち 、 埴 輪 片 は 、 丸 岡 C 支 群 二 号 壇
の も の で あ る 。 こ の 古 墳 は ' 土 取 り の た め 破 壊 さ れ て い る の が 踏 査
中 に 発 見 さ れ た 。 止 む を え ず 、 散 乱 し て い た 埴 輪 片 を 数 十 点 、 須 恵
器 片 数 点 を 採 集 す る に と ど ま っ た 。
。 埴 輪 片
す べ て 丸 岡 C 支 群 二 号 壇 か ら 採 集 し た も の で あ る 。
円 筒 埴 輪 片 二 七
‑二 二
二 七 ) 須 恵 質 で 灰 褐 色 を し て い る 。 タ ガ は 台 形 で 七 m ほ ど 突 出 し
て い る 。 タ ガ の 上 下 一 α ず つ は 、 タ ガ 取 り 付 け の 際 に ナ デ て い る 。
外 面 調 整 と し て は Z 次 諏 整 で ナ ナ メ ハ ケ が 施 さ れ 、 二 次 調 整 で 川 西 ㊨ 宏 幸 氏 が 言 わ れ る と こ ろ の
B種 ヨ コ ハ ケ が 施 さ れ て い る 。 内 面 は
未 調 整 で あ る 。 二 八 ) 黄 褐 色 を し て い る 。 タ ガ は 二 七 ) よ り も
突 出 し て お り 丁 寧 で 、 し っ か り と し て い る 。 タ ガ の 上 下 f 珊 ず つ 余
り は タ ガ 取 り 付 け の 際 に ナ デ て い る 。 外 面 調 整 は ' 1 次 調 整 で タ テ
ハ ケ が 施 さ れ た あ と ' 二 次 調 整 で
B種 ヨ コ ハ ケ が 施 さ れ て い る 。 内
面 は 調 整 さ れ て い な い 。 二 九 ) 赤 褐 色 で 脆 い 。 タ ガ は ' 二 七 ・
f 八 ) に 比 べ る と 突 出 度 が 低 い 。 タ ガ の 上 下 は 7 8 ぐ ら い ず つ タ ガ
取 り 付 け の 際 に ナ デ ら れ て い る 。 外 面 調 整 で 一 次 調 整 は 不 明 で あ る
が 、 二 次 拍 車 は 、
B種 ヨ コ ハ ケ が 施 さ れ て お り 、 内 面 は 未 調 整 で あ
る 。 ( 二
〇)須 恵 質 の 口 縁 部 で あ る 。 断 面 を 見 る 限 り 、 二 七 ) と は 別 も の で あ る 。 外 面 も 内 面 も 同 じ よ う に '
B種 ヨ コ ハ
て い る 。 口 綾 部 は ナ デ で 丁 寧 に 仕 上 げ で あ る 。 ( 二 こ
常 に 脆 い 。 悪 調 整 ⑳ が 行 な わ れ て い る . 外 面 翌 は お
調 整 で タ テ ハ ケ が 施 さ れ 、 二 次 調 整 は 施 さ れ て い な い 。
整 で あ る 。
形 象 埴 輪 片 ( 二 二
〜ハ )
お そ ら ‑ 馬 形 埴 輪 の 部 分 で あ ろ う と 思 わ れ る 。
。 須 恵 器 片 二
‑一 こ
蓋 杯 ' 杯 ' ' 碧 の 賢 を 採 集 し た 。 て
軌は ' 細
山付近 に 五
恥× 1 0
肌にわ
たって
散布して
おり'7
0は
群 、 は 丸 岡 C 支 群 二 号 墳 よ り 採 集 し た も の で あ る 。
蓋 杯 ( 1 ・ 二 ) は い ず れ も 項 部 が 破 損 し て お り ' ロ 綾
し て い る . ロ 縁 は ナ デ 調 整 が 行 な わ れ て い る 。 胎 土 は 密
( 三 卜 六 ) も ' い ず れ も 底 部 が 破 損 し て お り 、 立 ち 上 が
部 が 残 存 し て い る に す ぎ な い 。 口 縁 部 に は ナ デ 調 整 が 行
る 。 胎 土 は 密 で あ る 。 嚢 (七 ・ 九
‑) も 口 縁 部 し か
な