産大法学 38巻3・4号(2005. 2)
ログローリング・立法府・デモクラシー
二 本 柳 高 信
はじめに一 従来の否定的なログローリング観二 ログローリングに肯定的な見解の登場
1直接デモクラシーに対する批判とログローリング 2直接デモクラシーの支持者による反論 3論争におけるログローリングの民主主義的位置づけ三 直接デモクラシーに対するポピュリズム的批判 1S・J・クラークの所説 2クラークの所説の意義と問題点
おわりに
はじめに
﹁国会は︑国民の間に存する多元的な意見及び諸々の利益を立法過程に公正に反映させ︑議員の自由な討論を通じて これらを調整し︑究極的には多数決原理により統一的な国家意思を形成すべき役割を担うものであ ︵1︶る﹂とされる︒しかログローリング・立法府・デモクラシー
し︑統一的な国家意思の形成に至る前に︑いったいどのようにして︑多元的な意見・利益が調整されるのだろうか︒そ
してそれはまた︑規範的にはどのように評価されるべきなのであろうか︒
この問いを考える際に︑米国議会において法案の支持者を集める多数派工作に用いられる政治的な取引手段として︑
﹁ログローリング
logrollingcompromise︵︶﹂と﹁妥協︵
︶﹂と
﹁立法以外での便宜供与
nonlegislative favors︵
︶﹂の三 つが挙げられていることが参照に値するように思われ ︵2︶る︒ログローリングとは︑議員が︑自分にはほとんど関心のない 法案を支持する代わりに︑自分が強く関心のある法案を相手議員に支持してもらうことであり︑まさに―金銭を媒介 としないが―票の取引である︒ログローリングと妥協との違いは︑前者では︑関係議員はおたがいに関心のある法案
の内容には手をつけないのに対して︑後者では︑一つの法案の内容に手を加えるのであり︑両者がその立場や考え方を
修正することを意味するとされ ︵3︶る︒
ログローリングは政党規律の弱い合衆国の議会に特有のものであると考えられてきたこともあって︑日本で立法府に
おける妥協について語られる際に︑あまり意識されてこなかったように思われる︒しかしながら︑ログローリングに論
理的に類似の事柄は︑多数決による決定を行う際には︵必ずしも常にではないが︶あり得るのであっ ︵4︶て︑一つの典型例
としてのログローリングについての考察は︑立法府における︵広い意味での︶妥協を考える際に︑一定の示唆を与える
ものだと思われる︒
そこで本稿は︑合衆国においてログローリングがどのように評価されてきたのかを︑とりわけ民主主義論の視角か
ら︑概観し︑その論理について検討することを目的とする︒
本稿の構成は次の通りである︒まず一で︑合衆国において従来支配的であった消極的なログローリング観を概観す
る︒次に二では︑二〇世紀後半以降︑特に直接デモクラシーをめぐる論争において現れてきた︑ログローリングの肯定
的評価を取り上げる︒最後に︑三で︑最近の︑ログローリングを民主主義にとって必須のものと評価する議論を紹介
し︑その意義と問題点を検討する︒
註
︵1︶ 最判昭和六〇年一一月二一日民集三九巻七号一五一二頁︒
︵2︶ ウォルター・J・オレセック︵青木榮一訳︶﹃米国議会の実際知識﹄︵日本経済新聞社︑一九八二年︶二一―二三頁︵原著
は一九七八年発行︶︒
︵3︶ 前掲書二二頁︒
︵4︶ 例えば︑長谷部恭男﹃憲法﹄︵新世社︑第三版︑二〇〇四年︶三二一頁は︑﹁いくつかの政策を組み合わせたパッケージ
︵政策綱領︶について総選挙などで有権者にその是非を問うことは︑個別の論点に関するレファレンダムと異なる帰結をもた
らすことがある﹂と指摘しているが︑この﹁異なる帰結﹂の存否は︑以下で見るように︑ログローリングの利用可能性の存否
とも関連している︒
一 従来の否定的なログローリング観
アメリカ議会について最初の学問的研究を行ったW・ウィルソンは︑ログローリングについて次のように記してい
る︒
わが国の政治用スラングのなかで﹁ログローリング︵丸太ころがし︶﹂として知られるようになったことが生ず
るのは︑主として歳出予算をめぐってである︒いうまでもなく︑このスポーツの主舞台は河川港湾委員会の閉じら
れた部屋であ﹇る︒﹈⁝⁝A議員は自分の選挙区の小さな水路の開通のための資金をどうにかして得たいと思って
ログローリング・立法府・デモクラシー
いる︒B議員は選挙区の建築請負業者のふところを暖くする自分の計画に同様に熱心である︒他方C議員は港口の
危険な砂州のためこじんまりした港も荒れっ放しの港町の出身であり︑D議員は故郷の企業精神に富む市民の間で
進められている交通運輸手段改善事業案のために活動していないことを非難されている︒そこでこれらの議員が額
をあつめ︑全院委員会においてそれぞれの項目が検討されるとき︑みなが﹁賛成﹂と叫ぶという約束のもとに︑他
議員の望む資金を支持するという共通の了解に達することは完全に可能である︒⁝⁝ロビーイングとログローリン
グは手をとりあって進 ︵5︶む︒
イギリス議会を模範とするウィルソンにとっては︑このような実践は︑統一性の欠けた無責任な統治を示すものであ
り︑決して積極的に評価されるものでなかった︒そして︑多くの人々もまたログローリングを否定的に捉えていたこと
は︑そもそも︑﹁ログローリングというのは︑非難の意味を含んだ言葉であ ︵6︶る﹂ことからも伺える︒
とはいえ︑ログローリングに対する直接の法的規制はほとんど見られないこともまた事実であ ︵7︶る︒確かに︑ロビイン グを禁止することは合衆国憲法や多くの州憲法で保障されている請願権の侵害に当たりうる ︵8︶が︑ログローリングについ てはそういった事情はない︒また︑票の金銭的売買についてはそれが犯罪であることは疑われたことがほとんどな ︵9︶い︒
では︑なぜ︑ログローリングの直接的な禁止がほとんどなされなかったのだろうか︒
この疑問に対しては︑とりあえず︑次のような点を指摘することができよう︒第一に︑禁止を執行することの費用は 禁止によって得られる利益を上回る︵と考えられた︶可能性があ ︵亜︶る︒第二に︑一つの法律には一つの主題しか含んでは ならないとする﹁単一主題ルール︵Single Subject Rule︶﹂の規定は多くの州憲法に設けられている ︵唖︶が︑﹁法律の制定に おけるログローリングを防止することが︑単一主題ルールの目的の主要で広く認められている目的であ ︵娃︶る﹂︒例えば︑
合衆国における立法学のパイオニアであるE・フロインドは︑単一主題ルールなどの︑州憲法に見られる立法手続に関 する諸規定が︑﹁立法府を詐欺や不意打ちから保護し︑ログローリングの慣行を止めさせるために導入され ︵阿︶た﹂と理解
している︒
単一主題ルールは︑ログローリングを直接禁止するものではなく︑その点で実効性に疑問が寄せられるかもしれな
い︒確かに︑一見したところ︑ある法案を成立させることができる連立は︑別の法案も成立させることができ︑従っ
て︑単一主題ルールはログローリングに対して無力であるようにも思われる︒しかしながら︑少なくともアメリカの州
議会においては︑一つの法案を成立させるためのコストよりも︑複数の法案を成立させるためのコストが大きいのが通
常である︒法案は本会議でいきなり可決されるわけではなく︑委員会審議などのステップを踏まなければならないし︑
多くの州では︑州議会の立法は知事の拒否権に服する︒従って︑ある法案を成立させることのできた連立が︑別の法案
も成立させることができるとは限らないのである︒だとすると︑単一主題ルールが︑間接的にではあれ︑ログローリン
グを減少させるというその目的にとって︑有効な手段の一つであると評価されてい ︵哀︶るのに不思議はない︒
ところでしかし︑ログローリングは︑なぜ︑否定的に評価されてきたのであろうか︒その理由としては︑二つの側面
が考えられる︒第一に︑それが公益を犠牲にして特殊利益を資すると思われたことである︒先の︑ウィルソンの挙げた
ログローリングの事例をみれば︑それは選挙区への利益誘導たる﹁ポーク・バレル﹂にほかならな ︵愛︶い︒論理的にはログ
ローリングの利用がポーク・バレルに限定されなくとも︑﹁主として﹂ポーク・バレルのために用いられているという
現実があるならば︑全体の公益を促進するものではないとカテゴリカルに考えられたのにも不思議はな ︵挨︶い︒これは︑実
体に着目した批判であるといえる︒
第二に︑単独では過半数の賛成を得られない法案が︑ログローリングを通じて成立してしまうことへの問題意識であ
ログローリング・立法府・デモクラシー
る︒それをはっきりと示しているのが︑M・H・ルードの次のような論述である︒
二つの少数派がその立法上の強さを結合するのを助けることによって多数決原理を覆す︵subvert︶ので︑ログロ ーリングはそれ自体︑不快なもの︵offensive︶であ ︵姶︶る︒
これは︑立法の実体ではなく︑プロセスに着目した批判︑いわば反民主主義的であるという批判といえよう︒
ところが︑一九七〇年代以降︑アメリカの公法学において︑ログローリングに肯定的に言及する論考が見られるよう
になった︒そこで︑次にそれらを検討することにしたいが︑それらの多くは︑直接デモクラシーをめぐる論争にかかわ
るものであった︒
註
︵5︶ WOODROW WILSON, CONGRESSIONAL GOVERNMENT: A STUDYIN AMERICAN POLITICS, 168-69︵1885︶︹W・ウィルソン︵小林孝 輔・田中勇訳︶﹃議会と政府﹄︵文眞堂︑一九七八年︶一一一―一一二頁︺.︵6︶ ARTHER F. BENTLEY, THE PROCESSOF GOVERNMENT: A STUDYOF SOCIAL PRESSURE, 370︵1908︶︹A・F・ベントレー︵喜多 靖郎・上林良一訳︶﹃統治過程論﹄︵法律文化社︑一九九四年︶四五〇頁︺. ︵7︶ もっとも︑全くなかったわけではない︒See Clayton P. Gillette, Expropriation and Institutional Design in State and Local Government Law, 80 VA. L. REV.625, 639 n.39︵1994︶. ︵8︶ 合衆国において︑ロビイングと請願権との関係がどのように議論されてきたかについては︑拙稿﹁利益集団と立法︵二︶
―反トラスト州行為法理をめぐる論争を手がかりに―﹂都法四一巻二号︵二〇〇一年︶三九九頁以下を︑また︑合衆国憲
法第一修正制定時の請願権理解については︑拙稿﹁合衆国憲法第一修正の請願権の形成﹂都法四三巻二号︵二〇〇三年︶を︑
それぞれ参照されたい︒
︵9︶ ﹁票の金銭的売買の禁止はいたる所にあり︑議論にならない﹂︵Richard L. Hasen, Vote Buying, 88 CAL. L. REV. 1323, 1323︵2000
︶ ︶︒
︵
︵ 10See Gillette, supra note 7, at 639-42.︶ 11 ︶その一般的な規定が初めて設けられたのは︑一八四八年のニュージャージー州憲法においてであるが︑その後︑ほかの州 にも広まっていった︒See Millard H. Ruud, No Law Shall Embrace More Than One Subject, 42 MINN. L. REV. 389, 390︵1958︶. 二〇〇一年に公表された論文は︑四一の州憲法が単一主題ルールの規定を有していると報告している︒See Martha J. Dragich, State Constitutional Restrictions on Legislative Procedure: Rethinking the Analysis of Original Purpose, Single Subject, and Clear Title Challenges, 38 HARV. J. on LEGIS. 103︵2001︶ Appendix I. ただし︑これまで州裁判所が単一主題ルールに反するとして
法律を無効とした例は︑割合としては少ないものである︒See id. Appendix II.
なお︑連邦憲法と比較したときの州憲法の特徴の一つとして︑立法手続に対する制約が多く設けられていることが挙げられ る︒See, e.g., Robert F. Williams, State Constitutional Limits on Legislative Procedure: Legislative Compliance and Judicial Enforcement, 48 U. PITT. L. REV. 797︵1987︶.︵
12Ruud, supra note 11, at 391. ︶ ルードは︑単一主題ルールのもう一つの目的として︑﹁規律正しい立法手続を促進すること﹂
を挙げている︒Id. See also Gillette, supra note 7, at 658 & n. 78︵﹁単一主題要求の正当化は︑時折︑⁝⁝立法者や立法の標
的に対する詐欺や不公正な不意打ちへの危惧を挙げる﹂︶.
その他に︑州知事の立法拒否権を保護することも単一主題ルールの目的であると考えられている︒See e.g., Dragich, supra note 11, at 115. この問題は︑連邦レベルでは︑憲法に単一主題ルールが存在しないことから︑大統領の側の項目別拒否権
︵Line-Item Veto︶という形で問題となる︒これについては︑間宮庄平教授の一連の研究がある︒間宮庄平﹁アメリカ大統領 の拒否権制に関する一考察―項目別拒否権︵Line-Item Veto︶を巡って︵管見︶﹂産法二九巻二号︵一九九五年︶︑同﹁アメ リカ大統領の拒否権―項目別拒否権︵Line-Item Veto︶の機能と効用について﹂産法三一巻二号︵一九九七年︶︑同﹁アメ リカ大統領権限としてのLine-Item Vetoの合憲性―アメリカ植民地時代の認識﹂産法三二巻二・三号︵一九九八年︶︑同
﹁Line-Item Veto︵項目別拒否権︶の認識―憲法制定者の意図﹂産法三二巻四号︵一九九九年︶︒
︵
13 ERNST FREUND, STANDARDSOFAMERICAN LEGISLATION561917. ︶︵︶ただし︑フロインド自身は︑このような規定を憲法典に
ログローリング・立法府・デモクラシー
設けることに懐疑的であったように思われる︒﹁その諸規定を採用しなかった州の経験は︑恐らく︑それらが今は七〇年前ほ
どには必要でないものであること︑よりよい慣行が世論によって強いられてきていること︑改善の便益は付随するリスクや害
悪なしに享受されうることを示すであろう﹂︵id.
See also Gillette, supra note 7, at 658 n. 79︶ ︒︵立法府でのログローリング
を防止するためのものとして擁護する州裁判所の判決を列挙︶.︵
2000︵︶︵別々の法案に関する票取引を通じてもログローリングは起こりうるが︑単一の法案の場合よりも成功する確率は低 14Ruud, supra note 11, at 449-50. See also WILLIAM N. ESKRIDGE, Jr. et al., LEGISLATIONANDSTATUTORY INTERPRETATION170︶
いと主張︶.︵
15︶ 合衆国における利益誘導政治の原因については︑参照︑河野武司・岩崎正洋編﹃利益誘導政治﹄︵芦書房︑二〇〇四年︶
三〇―三七頁︵前田耕執筆︶︵議員の再選意欲とログローリングなどの制度的要因を挙げる︶︒
︵
16︶ ただし︑何が公益なのか︵あるいは︑公益の損失なのか︶という問いへの答えなしでは﹁公益を犠牲にして﹂とはいえな
いはずである︒この点についての︵有力な︶回答の一つは経済的効率性であろう︒﹁一九六〇年代はじめまで︑議会における
票の交換は︑軽蔑をもって見られ︑厚生を減少させるものと考えられていた﹂︵Thomas Stratmann, Logrolling, in PERSPECTIVE ONPUBLIC CHOICE: A HANDBOOK322︵Dennis C. Mueller ed., 1997︶︹トーマス・ストラットマン﹁ログ・ローリング﹂デニ ス
・C
・ミューラー編
︵関谷登
・大岩雄次郎訳︶
﹃ハンドブック公共選択の展望第Ⅱ巻﹄
︵多賀出版
︑二〇〇一年︶三九三
頁︺︶という指摘がある︒もっとも︑公益を経済的効率性と同一視するのは︑異論の余地のない見解では︑勿論ない︒
︵
17Ruud, note 11, at 448.supra︶
二 ログローリングに肯定的な見解の登場
1 直接デモクラシーに対する批判とログローリング ﹁一九七八年のカリフォルニアでの成功が大きな刺激となって︑﹃保守的な利益集団がいくつかの目的を達成するため
に︑イニシアティブやレファレンダムを使用することを助長する﹄効果を持っ ︵逢︶た﹂状況で︑直接デモクラシーが有する 少数者差別の問題をいち早く指摘したものとして︑一九七八年のD・ベルの論 ︵葵︶文を挙げることができる︒ベルは︑直接
立法においては︑投票所のブースで投票者個人の差別意識が制約されることなしに表明されうるのに対して︑議会での
立法は︑議員が差別意識をあからさまに表明することへの制約があることを指摘しているが︑それと同時に︑﹁特定の
争点に関する特定のレファレンダムにおいては︑少数者の利益にとってはきわめて有害だが非少数者の利益にはわずか
しか便益的でない事項が成立しうる︒投票用紙は︑立法府のプロセスのように利益の強度︵intensity︶をたやすく登録 することができな ︵茜︶い﹂ことも指摘している︒
ベル自身は︑後者の点についてそれ以上深く説明していないが︑これはログローリングのことを指しているものと考
えられる︒そもそも︑利益︵選好︶の﹁強度﹂という考え方が合衆国の政治学に初めて登場したのは︑一九五六年の
R・ダールの著 ︵穐︶作においてであったと言われているが︑そこでは︑﹁憲法上の︑あるいは︑手続き上のルールによって 関心の強度という問題にたいする解決手段には到達しえな ︵悪︶い﹂とされていた︒ところがこれに対して︑一九六二年に公
表された公共選択論のパイオニア的な著作において︑J・M・ブキャナンとG・タロックは︑ログローリングを通じて
人々が自らの利益の強度を表明できることを指摘したのであ ︵握︶る︒そして︑この議論は︑合衆国の憲法学にも一九七〇年 代後半にはすでに知られてい ︵渥︶た︒
同様の議論をJ・N・ユールも展開している︒ユールは︑少数者に対して差別的な多数者の選好を緩和するための
フィルターが議会での立法プロセスには埋め込まれているのに対して︑直接立法のプロセスについてはそうではないが
故に︑後者の産物に対しては通常の立法に対してよりも厳格な司法審査がなされるべきだと主張し ︵旭︶た︒そして︑議会で
の立法プロセスには埋め込まれているそのようなフィルターの一つとして︑ログローリングを挙げている︒すなわち︑
ログローリング・立法府・デモクラシー
幅広いアジェンダに関する立法府のログローリングは︑少数者をそのプロセスに引き入れ︑彼らの利益を調整する
ことを︑結果として生じる妥協に可能にする︒
置換的プレビシットは︑他方︑単発的であり︑勝者が全てをぶんどる︒連立プロセスは︑市民による法形成の散
発的で扱いにくい世界では働かない︒フランク・マイクルマンが記しているように︑後の何かの支持と引き替えに
今の支持を選挙民と取り引きすることはできない︒多数者の選好が︑政治的な妥協によって柔らかくされたり︑薄
められたりすることはな ︵葦︶い︒
このように︑直接デモクラシーをめぐる議論において︑立法府においてはログローリングが存在するが︑プレビシッ トにおいてはそうではない点 ︵芦︶が︑後者に対して前者を規範的に高く評価する論拠の一つとして挙げられているのであ る︒ 2 直接デモクラシーの支持者による反論
以上のような議論に対する︑直接デモクラシーの支持者の反論として︑次の二つが見られ ︵鯵︶る︒
第一に︑レファレンダムやイニシアティブにおいてもログローリング︵に相当するもの︶が可能であるという応答が
ある︒例えば︑C・P・ジレットは︑﹁選好の相対的強度を反映する類似のメカニズム﹂をプレビシットは有している
としてい ︵梓︶る︒すなわち︑議員は︑ほとんど選好を有しない法案についても︑投票を欠席したり棄権したりすることはそ
れ自体有権者の非難を受けるおそれがあるので︑投票を強いられるかもしれない︒他方︑プレビシットにおいては︑
﹁結果にほとんど利害を有さない者たちは︑全く投票しないだろう︒他の争点と同時にレファレンダムの投票が行われ
る﹇=投票のためのコストがきわめて小さい―引用者注﹈場合でさえ︑投票所に赴いた投票者は︑個人的により重要 な事柄に関して別の誰かと票を取引することができないので︑プレビシットの提案を無視することができ ︵圧︶る﹂︒ このような反論に対しては︑しかし︑たとえ直接デモクラシーにおいてログローリング︵に相当するもの︶が可能で
あっても︑その実効性は代表デモクラシーにおけるよりも小さいのであり︑そうであれば︑両者を比較して︑代表デモ
クラシーが優れているといえるはずであると再批判できよう︒
第二に︑ログローリングは︑やはり︑問題のあるものであるという応答である︒すなわち︑﹁ログローリングは︑必 然的に︑社会的に最適な方向で生じるわけではな ︵斡︶い﹂︒L・A・べーカーは︑ログローリングが行われることによって 少数者に不利に働く結果が可能となってしまう事例を示して︑このように主張してい ︵扱︶る︒
この主張が正しいなら ︵宛︶ば︑立法の実体が︑それが議会によるものなのか︑それともプレビシットによるものなのかに
よってカテゴリカルに異なるとはいえず︑従って︑議会による立法と直接立法とを区別して︑後者についてはより厳し
い審査を行うべきだとする主張は︑説得力を失ってしまうようにも思われ ︵姐︶る︒そして︑立法の起源は︑むしろ︑直接立 法に対しては―その民主主義的正統性の故に―緩やかな審査をすべきであるという主張を支えるものとしてのみ働 くようにも見え ︵虻︶る︒
3 論争におけるログローリングの民主主義的位置づけ ところで︑以上で見てきたような論争においては︑直接デモクラシーに賛成するにせよ︑それに懐疑的な態度をとる
にせよ︑少なくともある認識が共有されているように思われる︒すなわち︑ログローリングが民主主義にとってあくま
でも外在的なものであるという認識である︒
ログローリング・立法府・デモクラシー いは実際上きわめて困難であることを前提とすれば︑﹁プレビシットによる立法が立法府による立法よりも民主的に正 このことは︑直接デモクラシーの支持者においては︑明らかである︒ログローリングが原理的に不可能である︑ある
統である﹂といったような主張は︑ログローリングが民主主義にとって本質的ではないという判断を含意している︒
他方で︑直接デモクラシーに警戒的なスタンスをとる論者にあっても︑その主張の力点は︑直接デモクラシーが代表
デモクラシーよりも民主的ではないという点にあるのではないように思われる︒このことは︑ベルの論文のタイトルに
おいてレファレンダムが﹁人種的平等に対するデモクラシーの障壁﹂と呼ばれていることに︑端的に現れている︒ま
た︑ユールも︑﹁プレビシットが多数者意思のメッセージをねじ曲げる︵garble︶多くの仕方にもかかわらず︑立法府 がそれをより明瞭に伝えると説得力をもって論じることは困難であろ ︵飴︶う﹂と認めている︒ログローリングの役割は︑あ くまでも︑少数者に対して差別的な﹁多数者の選好が︑政治的な妥協によって柔らかくされたり︑薄めら ︵絢︶れ﹂るように
することなのである︒
さらに︑民主主義を多数決主義としてではなく︑熟議民主主義︵deliberative democracy︶と理解して ︵綾︶も︑ログロー リングを民主主義のなかに位置づけるのは―むしろそれ故に―困難であるかもしれない︒というのは︑﹁ログロー リングは︑立法者がしばしば自らの個人的な信念に反して投票していることを含意してい ︵鮎︶る﹂からである︒
ところが︑近年になって︑民主主義に内在的な観点からログローリングを肯定的に評価する見解が登場した︒﹁直接 デモクラシーに対するポピュリズム的批 ︵或︶判﹂というその論文名が示すように︑それは︑きわめて論争誘発的な見解であ
るが︑次にそれを検討することにしたい︒
註
︵
18︶ 毛利透﹃民主政の規範理論﹄︵勁草書房︑二〇〇二年︶二四五頁︒
︵ 19Derrick A. Bell, Jr., The Referendum: The Democracy’s Barrier to Racial Equality, 54 WASH. L. REV. 11978. ︶ ︵︶ベルや次に
挙げるユールの議論を含む︑合衆国における直接民主制をめぐる論争の紹介・検討として︑毛利・前掲書二三七頁以下のほか
に︑木下智史﹁アメリカにおける住民投票制の現況と民主主義論﹂憲法理論研究会編﹃法の支配の現代的課題﹄︵敬文堂︑二
〇〇二年︶︑山本龍彦﹁アメリカ共和主義的憲法理論と人民投票制﹂法学政治学論究五五号︵二〇〇二年︶などがある︒
︵
20Bell, supra note 19, at 25. ︶ なお︑ベルにおいて︑直接デモクラシーを求める運動が︑投票権法の成立の意義を無化するも のとして捉えられていることは︑興味深い︒See id. ︵ 21ROBERT A. DAHL, A PREFACETO DEMOCRATIC THEORY1956︶ ︵︶︹ロバート・A・ダール︵内山秀夫訳︶﹃民主主義理論の基礎﹄
︵未来社︑一九七〇年︶︺. 民主主義論における﹁強度﹂の問題については︑内野正幸﹁民主主義と質的多数決・
14完﹂法時
六九巻一二号︵一九九九年︶が詳細に検討している︒
︵
︵ 22DAHLnote 21,at 119―., supra ︶ ︵邦訳二二三二二四頁︶
23JAMES M. BUCHANAN & GORDON TULLOCK, THE CALCULUSOFCONSENT: LOGICAL FOUNDATIONSOFCONSTITUTIONAL DEMOCRACY ︶ 111-45︵1962︶︹J・M・ブキャナン=G・タロック︵宇田川璋仁監訳︶﹃公共選択の理論―合意の経済論理﹄︵東洋経済新 報社︑一九七九年︶一五二―一七一頁︺. ︵
︵ Legitimacy, 53 IND. L. J. 1451977-78.︵︶︵ログローリングを扱いブキャナン=タロックの著作を引用︶ 24 Frank I. Michelman, SeePolitical Markets and Community Self-Determination: Competing Judicial Models of Local Goverment ︶
︵ 25Julian N. Eule, , 99 YALE L. J. 15031991. Judicial Review of Direct Democracy︶ ︵︶ 26Id. at 1556footnotes omitted. BUCHANAN & TULLOCK, supra note 23︶ ︵︶ユールはここで︑を引用している︒また︑ここで引
用されているマイクルマンの論文は︑前掲註︵
24︶のものである︒
︵
27︶ 直接立法においては︑確かに︑投票者同士が連立を形成するための取引費用は極めて高い︒加えて︑情報技術の発達によ
りこの費用が劇的に低下したとしても︑ログローリングの約束を履行していない場合にサンクションを課すこと以前に︑そも
そも履行したかどうかを確認することが―投票の秘密が守られる限り―不可能であろう︒
︵
28︶ そもそも立法者は︑有権者の選好強度を反映するログローリングを行っていない︑という反論も考えられる︒確かに︑直
接デモクラシーに対する批判は︑往々にしてそれが現実の直接デモクラシーと理想的な代表デモクラシーとを比較して前者を
ログローリング・立法府・デモクラシー
非難しているという指摘がある︒しかしながら︑ログローリングが規範的に望ましいものであることを前提とするならば︑原
理的にログローリングが可能な制度と不可能な︵少なくとも著しく困難な︶制度とを比較して︑前者が優れていると評価する
ことは許されるのではないだろうか︒
もっとも︑いくつかの事項については︑原理的にも︑有権者の選好と議員の選好との間にギャップが生じることがありえ︑
こういった事項についてはイニシアティブやレファレンダムを認めることが正当化されるかもしれない︒この問題について
は︑後註︵
49︶で触れる︒
︵
︵ 29Clayton P. Gillette, Plebischites, Participation, and Collective Action in Local Goverment Law, 86 MICH. L. REV. 930, 9681988.︶ ︵︶ 30Id. at 969. ︶ ジレットは︑また︑イニシアティブにおいては︑法案修正ということがないので一見したところ妥協が存在し
ないように見えるが︑それだからこそ︑法案作成者は法案作成の段階で︑採択されるために必要だと見込まれる妥協をしてい
るのだとも主張している
ONTEMPSeealso Lynn A. Baker, Direct Democracy: Preferences, Priorities, and Plebiscites, 13 J. C. ︒ LEGAL ISSUES317, 323-34︵2004︶.︵
︵ 31Lynn A. Baker, Direct Democracy and Discrimination: A Public Choice Perspective, 67 CHI.-KENT. L. REV. 707, 7231991. ︶ ︵︶ 32id at 723︶ べーカーは次のような事例を挙げている︵︶︒法案1︐2が成立した場合に議員A︑B︑Cがそれぞれ得る効用
が表のようなものだったとする︵成立しない場合に得る効用は︑ゼロだとしておく︶︒ログローリングがなされなければ︑ど
ちらも成立せず︑総効用︵=各議員の効用の総和︶はゼロである︒ところが︑AとBがログローリングによってどちらも成立
させると︑総効用はマイナス8となり︑ログローリングがなされない場合よりも低下する︒また︑両方の法案に強度の利害を
有する議員Cは︑相対的に利害の薄い議員AとBのログローリングによって大きなダメージを受ける︒
法案2 1− 3+ 8− 6−
法案1 3+ 1− 4− 2−
議員A 議員B 議員C 総効用
︵ 33︶ 実際︑経済的効率性についていえば︑﹁今日︑規範的公共選択文献において︑ログ・ローリングが厚生促進的であるかある
いは厚生削減的であるか︑すなわちログ・ローリングが正・和ゲームであるか負・和ゲームであるか︑に関して合意は存在し
ない﹂︵Strattmann, supra note 16, at 322︵邦訳三九三頁︶とされる︒
︵
34︶ さらに︑ログローリングを通じて﹁保護﹂される︑強度の利害を有する少数者は︑人種的少数者などの保護に値する少数 者であるとは限らないという批判もあり得よう
︒このような批判は
, 101 YALE L. J. 311991More Intrusive Judicial Review?︵︶におけるものの︑まさに裏返しである︒同論文は︑特殊利益立法 Einer R. Elhauge, Does Interest Group Theory Justify ︑
に対してその﹁出自﹂を理由としてより厳格な司法審査を行うべきだとする主張に対して︑どれが少数者の﹁不釣り合いな
︵disproportional︶﹂影響であるのかを判断する際には実体的な規範的基線が必要であると主張する︒同論文について詳しく は︑拙稿﹁利益集団と立法︵二︶―反トラスト州行為法理をめぐる論争を手がかりに―﹂都法四一巻二号︵二〇〇一年︶
四一三頁以下の参照を乞う︒﹁裏返し﹂というのは︑同論文では︑M・オルソンの﹁集合行為論﹂的優位を享受するいわゆる
特殊利益を念頭に置いた議論に対して︑人種的少数者など平等保護条項の保護対象である少数者集団もまた﹁集合行為論﹂的
優位を享受できることが指摘されているのに対して︑ここでは︑人種的少数者を念頭に置いた議論に対して︑ログローリング
から利益を得ることのできる少数者としては特殊利益もまたそうであることを指摘しうるからである︒
︵
35︶ ちなみに︑連邦最高裁は︑これまで︑問題となった州憲法・州法が︑議会によるものなのか︑それともイニシアティブや
レファレンダムによるものなのかによって︑審査の態度を変えるということをしてこなかった︒このことは︑議員定数不均衡
違憲判決のはしりであるLucas v. The Forty-Fourth General Assembly of the State of Colorado, 377 U. S. 713︵1964︶にお いて問題となった議席配分は―あまり指摘されることがないように思われるが―選挙民による承認を受けたものであった
が︑最高裁はそれを理由として謙譲の姿勢を示すということはなかったことに︑端的に現れている︒
しかしながら︑連邦最高裁が直接立法の︵より高い︶民主的正統性を全く認めていないかといえば︑そうではないように思 われる︒例えば︑City of Eastlake v. Forest City Enterprises, Inc., 426 U. S. 668︵1976︶においては︑﹁レファレンダムは︑
権力の委任として特徴づけられ得ない︒われわれの憲法上の仮定のもとで︑全ての権力は人民から引き出されるが︑人民はそ
れを自らが創造した代表制度に委任することができる﹂︵id. at 672︶と述べられていた︒最近では︑Romer v. Evans, 517 U. S. 620︵1996︶におけるスカリア裁判官の反対意見が︑もっとも明瞭な例を提供している︒スカリア裁判官は︑州規模のレ
ログローリング・立法府・デモクラシー
ファレンダムで採択された州憲法修正を違憲無効とした多数意見を︑﹁最高裁は今日︑このもっとも民主的な手続が違憲であ
ると断言した﹂︵id. at 647︶と︑強い調子で非難している︒
︵
︵ 36Eule, supra note 25, at 1521.︶
︵ 37. at 1556.Id︶ 38︶ ユール自身︑このような民主主義観に親和的である︒
︵
︵ 39RICHARD POSNER, THE FEDERAL COURTS: CRISISANDREFORM2691985.︶ ︵︶ 40Sherman J. Clark, The Populist Critique of Direct Democracy, 112 HARV. L. REV. 4341998.︶ ︵︶
三 直接デモクラシーに対するポピュリズム的批判
1 S・J・クラークの所説 先に見たように︑直接デモクラシーをめぐる論争において︑直接デモクラシーが代表デモクラシーよりもより民主的
である︑少なくともポピュリズムの立場からは望ましいものであることは︑自明の事柄としてほとんど議論されてこな
かった︒まさにこの点に疑問を投げかけたのが︑一九九八年のS・J・クラークの論文である︒
まず︑そもそもポピュリズムとは何であるのか︒クラークは︑その目標を︑﹁人民の声を可能な限りよくかつ十分に 聴くこ ︵粟︶と﹂と定義する︒このことは︑通常︑代表を通じた立法よりも直接立法によってよりよく達成されると︑ほとん
ど反省なしに︑想定されている︒
しかし︑社会的決定が多くの争点についてなされ︑そして︑その全ての争点について投票者の望むとおりになるわけ
ではないという事実を指摘して︑クラークは︑目標を次のように定義し直す︒
目標は︑自らの完全な世界が採択されないであろう―獲得するものもあれば失うものもある―ことを知ってい
る各人に︑獲得することをもっとも望み・失うことをもっとも望むものを我々に述べることによって︑全体として
の世界に関してもっとも明瞭に話すのを可能にすることであるべきであろ ︵袷︶う︒
このような理解からすると︑単一争点レファレンダムにおいて提案Aに投じられた賛成票︵もしくは反対票︶が過半
数を占めたとき︑提案Aに対する賛成︵もしくは反対︶を﹁人民の声﹂と同視することには︑問題があるといえよう︒
言い換えると︑﹁市民が最も選好する世界は提案Aが採択された世界であると仮定することは︑間違いのないものでは
ない ︵安︶﹂︒なぜならば︑現実の世界では︑他の提案B︑C︑Dもまた決定されなければならないが︑多様で不均質な社会
にあっては︑それらの提案すべてについて自らの好む結果を得られる投票者は多くないだろう︒そして︑それらの提案
がどの市民にとっても等しく重要であるのでなければ︑﹁市民の多数派は︑抽象的には提案Aを選好していても︑その
結果を犠牲にすることでより強く利害のある他の争点に関して自らが好む結果が保証されるならば︑実際には提案Aが
敗北する世界を選好するかもしれな ︵庵︶い﹂からである︒
言い換えると︑各人が有する選好の﹁強度︵intensity︶についての情報を︑我々は︑考慮に入れるべきなのである︒
⁝⁝なぜならば︑強度についての情報は︑議論の余地なく︑人民が表明することを欲しているもののひとつだからであ
る ︵按︶
﹂ ︒ ただし︑ここで注意すべきなのは︑社会的決定に反映されるべきなのは︑正確に言えば︑各人の諸争点についての
﹁選好の強度﹂ではなく︑各人における諸争点の間の﹁優先順位︵priority︶﹂である︒なぜならば︑第一に︑﹁選好の
強度﹂を考慮するためには︑﹁効用の個人間比較﹂を行わなければならないが︑これは︑そもそも理論的には不可能で
ログローリング・立法府・デモクラシー
あると一般に考えられてい ︵暗︶る︒第二に︑そしてより重要なことに︑﹁絶対的な強度を考慮に入れることは⁝⁝人民主権 へのコミットメントの核心に存する平等な入力というまさにその原理を侵害するであろう﹂からであ ︵案︶る︒
ところで︑しかし︑直接デモクラシーにおいては︑このような﹁優先順位﹂を考慮に入れることができない︒すなわ ち︑直接デモクラシーは︑通常想定されているのとは反対に︑﹁人民の声﹂を聴くのに―原理上―適したものでは
ないのである︒
各市民の選好強度が考慮に入れられるべきであり︑そして︑単一争点レファレンダムではそれができないことは明ら
かだとして︑では︑議会による立法ではどうであろうか︒選挙民と︑採択された立法との間には︑二つのステップが存
在する︒第一に︑候補者選挙であり︑第二に︑立法府での立法作業である︒
立法府でのログローリングは︑各争点に対する優先順位が立法者によって異なっていることから生じており︑従っ
て︑立法者の優先順位を反映したものであることは確かだとして︑では︑人民の優先順位はどのようにして立法に反映
されるのだろうか︒この点については︑クラークは︑次のように説明している︒
選挙は︑究極的な多争点レファレンダムである︒諸々の争点は︑候補者という形で︑枠づけられ︑衡量され︑トレ
ード・オフされるが︑候補者は︑別の束ね合わせよりも多くの票を引きつけることのできる立場とコミットメント
の束ね合わせをまとめ上げようと試みる︒諸争点のこの束ね合わせが︑投票者にその関心事の相対的な強度を重み
づけることを可能にする︵それどころか要求する︶決定的な道具なのであ ︵闇︶る︒
すなわち︑候補者選挙に際して投票者は︑ログローリングに際しての立法者同様︑優先順位を明確化することを必然的
に求められるのである︒
勿論︑﹁不適切な影響︑不完全な情報︑議員定数配分不均 ︵鞍︶衡﹂等々のために︑実際には︑代表はこの衡量を完璧に遂
行してはいない︒しかしながら︑原理的には︑代表デモクラシーではこの衡量が可能であるのに対して︑直接デモクラ
シーでは原理的にも不可能なのである︒さらに︑プレビシットで問題なのは︑それが︑﹁特定の争点に関する数的多数
を有すると信じる者たちによる︑立法府から獲得できないものを獲得しようとする試 ︵杏︶み﹂であって︑それを認めること
は平等な入力という原理に反する点である︒
2 クラークの所説の意義と問題点 従来︑立法府におけるログローリングに対しては︑多数決原理を侵害するものであるとして否定的に評価される ︵以︶か︑
肯定的に評価されるとしても︑民主主義における多数者の専制から少数者を保護する防壁としての評価であっ ︵伊︶て︑民主
主義にとっての価値という面からのものではなかった︒
これに対して︑クラークの議論は︑ログローリングが︵多数決主義として理解される︶民主主義の実現にとって必要
不可欠であるという︑全く新しい視角を提示して見せたものとして評価しうる︒特に︑候補者選挙からログローリング
による立法までを一貫した論理で把握している点は︑理論的な長所といえよう︒
とはいえ︑クラークの主張に対して︑現実の代表デモクラシーの問題点は別として ︵位︶も︑いくつかの理論的な問題点が
考えられる︒
第一に︑クラークの描く立法プロセスにおいても︑少数者に対する差別立法がなされないという保証はないという批
判である︒例えば︑少数者に不利益を課す立法に対する多数者の選好強度とそのような立法の阻止に対する少数者の選
ログローリング・立法府・デモクラシー
好強度とが相対的に大きな差を有しないなど︑少数者が取引できる票を有さない場合には︑議会による立法にあって
も︑差別立法は成立しう ︵依︶る︒
この問題に対しては︑しかし︑それは民主主義の限界であり︑それ故に憲法典に権利章典が設けられているのではな
いかと答えることができよう︒
第二に︑議員をいわば選好伝達装置として―ただし︑単に伝達しているだけではなく︑ログローリングを通じて調 整していることが︑クラークの議論においては決定的であるが―捉えることは︑従来議論されてきた代表の意義と︑
果たして矛盾しないのかという疑問があろう︒
この問題に関する︑クラーク自身の応答は次のようなものである︒
私が考えるに︑⁝⁝﹇立法者の﹈独立な判断・理念・原理は︑人民が欲するかもしれないもののなかに含まれて
いる⁝⁝︒熟慮は︑代理人が熟慮するために雇われているのならば︑代理人費用ではない︒投票者は︑ほとんどの
争点に関して特に強度の実質的な選好を有しないかもしれない︒加えて︑投票者はある争点を理解せず︑また︑あ
る争点に気づいていないかもしれない︒しかしながら︑このことは︑投票者がどのようにそれらの争点は決定され
るべきかを気にしていないということを意味しない︒事実︑論点がどのようにして決定されるかこそが投票者がも
っとも気にしたものである場合もあり得る︒党派関係や候補者の性格に基づいて投票することによって︑投票者は︑
論点Aや論点Bに関する所与の結果を得るためにではなく︑どのようにしてかつ誰によって論点CがZを通じて決
定されるかに影響を与えるために︑自らの政治権力の一部を配分する︒この種のプロセス基底的な関心事と同じく
らい重要な特定の争点はほとんど存在しないと判断することは︑投票者にとって全く合理的であろう︒ジョン・ス
チュアート・ミルに従い︑二人の経済学者がその点を述べているように︑﹁合理的な市民は自らの選好ではなく意 見︵opinions︶が代表されることを欲するだろう﹂︒この定式における﹁意見﹂という語は︑論点が決定される仕 方に関する︑意思決定プロセスにおいて採用された優先順位に関する︑諸々の意見の広いセットを指してい ︵偉︶る︒
﹁熟慮への選好﹂というこの考え方には曖昧なところがあるのは否めないが︑なお︑有権者の選好に基づくものであ
り入力基底的であって︑優先順位の平等な反映が民主主義であるというクラークの主張と明白に矛盾するわけではな
い︒また︑代表についての従来の正当化論とも接続しうる点で︑興味深いものといえよ ︵囲︶う︒
第三に︑そしてもっとも根底的な問題として︑べーカーの次のような批判を挙げることができる︒
クラークは︑彼の説明の下で︑優先順位を表明する機会が法形成プロセスの正統性にとって本質的である理由を説
得的に説明していない︒もし核心にある関心事が︑被治者の同意を得ることであるならば︑単一争点に関するその
選好を表明する平等な機会を投票者に与えることは︑二つ以上の争点間の間のその優先順位を表明する平等な機会
を投票者に与えることよりも問題があることは明白ではな ︵夷︶い︒
確かに︑この問いに対して︑クラークは必ずしも万人を納得させる解答を与えているわけではないように思われる︒
しかしながら︑クラークの議論は︑逆に︑﹁単一争点に関するその選好を表明する平等な機会を投票者に与えること
は︑二つ以上の争点間の間のその優先順位を表明する平等な機会を投票者に与えることよりも﹂問題がないことは明白
ではない︑ことを示しているのではないだろうか︒少なくとも︑プレビシットによる立法が立法府による立法よりも民
ログローリング・立法府・デモクラシー
主的であると︑無反省に前提とすることはできなくなったと思われる︒
註
︵
︵ 41Id. at 448.︶
︵ 42Id.︶
︵ 43Id. at 451.︶
︵ 44. Id︶
︵ 45Id. at 453. ︶ 46︶ 経済学の歴史においては︑A・C・ピグーの創始した︵旧︶厚生経済学は効用の個人間比較が可能であることを前提とし
ていたが︑それが不可能であるという批判が︑新厚生経済学を産みだした︒関連して︑参照︑佐伯胖﹁﹃きめ方﹄の論理﹂︵東
京大学出版会︑一九八〇年︶六〇―六二頁︵厚生経済学が抱えているこのような問題が︑民主的な投票制度をさぐる研究と結
びつくことを指摘︶︒なお︑厚生経済学におけるこの移行に対する倫理学的見地からの評価として︑参照︑川本隆史﹃現代倫
理学の冒険﹄︵創文社︑一九九五年︶一五―一七頁︒
︵
︵ 47Clark, supra note 40, at 453-54.︶
︵ 48 at 463-64.Id.︶ 49︶ なお︑イニシアティブが望ましい場合があることを︑クラークは認めており︑例として︑次の三つの場合を挙げている
︵id. at 471-73︶︒第一に︑任期制限のように︑代表が有権者の優先順位を無視することが見込まれる場合である︒この場合︑
﹁代表は︑そのような立法を支持するのを拒むことによって失うものは︑文字通り何もない﹂からである︵id. at 472
︶ ︒ 第 二 に︑優先順位の測定が本質的ではない―少数者の強度の利益が問題となっていない―場合である︒第三に︑クラークに
とっては認めがたいが︑人民の直接的な参加それ自体に価値があると考えられる場合である︒
︵
︵ 50Id. at 479.︶
︵ 51 text accompanying note 17.Seesupra︶ 52Seesupra text accompanying note 38.︶
︵ 53Hasen, supra note 9︶ は︑クラークの主張に基本的に賛成しつつ︑委員会の委員長の存在など︑立法府内で立法者間に政治
的不平等があることを指摘している︵id. at 1345-46
︶ ︒
︵
54Id. at 1345︶ では︑偏見が︑立法府内の特定の利益集団代表に利用可能なログローリングの機会を厳しく︵かつ不合理に︶
制約できることが指摘されている︒このような懸念は︑JOHN H. ELY, DEMOCRACYANDDISTRUST︵1980︶︹J・H・イリィ︵佐
藤幸治・松井茂記訳︶﹃司法審査と民主主義﹄︵成文堂︑一九九〇年︶︺がその第六章で取り組んだ問題とも関連するように思
われる︒
︵
︵ , 40 PUBLIC FINANCE1, 5.Electral Rule?︶ 55Clark, supra note 40, at 476-77quoting Albert Breton & Gianluigi Galeotti, Is Proportional Representation Always the Best ︶ ︵ 56︶ クラークは︑この議論に続けて︑自らの所説が﹁多元主義者の代表についての説明と︑共和主義者のそれとの間の︑部分 的ではあるが潜在的な友好関係の樹立を提案している﹂︵id. at 477︶という表現をしている︒
ここで︑もう一つの―民主主義にとって外在的なものであるかもしれないが―論点の存在を指摘しておきたい︒すなわ
ち︑立法者の責任という問題である︒P・ブレストの次のような議論と︑クラークの主張との関係を検討することは︑憲法学
にとって意義のあることのように思われる︒
裁判所に憲法的意思決定の排他的権限を与えるが︑連邦議会には﹁政策﹂決定の︑あるいは︑憲法上の含意を顧慮
することなしに有権者の選好を反映するという役割を割り当てる﹇という﹈⁝⁝見解では︑立法者は︑選挙民がそれ
に関して強く感じているからという理由で︑あるいは︑同僚とのログローリング取引の一部としてという理由で︑合
憲性が疑わしい法案に賛成票を投じることが適切でありうる︒
⁝⁝﹇しかしながら﹈実際には︑憲法典のいくつかの規定は︑明示的に︑立法者に向けられている︒
Paul Brest, Congress’ Role and Responsibility in the Federal Balance of Power: Congress as Constitutional Decisionmaker and Its Power to Counter Judicial Doctrine, 21 GA. L. REV. 57, 62-63︵1986︶.︵
57Baker, supra note 30, at 322.︶
ログローリング・立法府・デモクラシー
おわりに
本稿では︑立法府内での妥協の規範的意味を考察するための手がかりをえるために︑ログローリングについての合衆国での議論を︑特に民主主義との関連という視角から︑検討してきた︒
従来︑ログローリングは︑多数決原理との関連において否定的に評価される傾向があった︒しかしながら︑代表デモ
クラシーと直接デモクラシーとの比較が意識されるようになってから︑少数者の保護という観点からの肯定的な評価が
現れ始め︑さらに近年になって︑ログローリングの利用可能性こそが社会的決定の民主性にとって不可欠のものである
という見解が主張されるようになった︒この見解は︑各争点について各人が有する選好の強度︵より正確には︑優先順
位︶を社会的決定に反映させることが︑︵ポピュリズムとして理解された︶民主主義の要請であるとするものである︒
その民主主義観にはなお議論の余地があるが︑このような見解は︑立法府の意義について新たな光を当てるものとし て︑評価することができよう︒また︑日本の憲法学において︑決定手続への関心が高まりつつある ︵委︶が︑ログローリング
をめぐる以上のような議論は︑そのような研究の有する意義を示す一例のように思われる︒
註
︵
58︶ 例えば︑阪本昌成﹃リベラリズム/デモクラシー﹄︵有信堂高文社︑一九九八年︶二〇八頁以下︒