成 沢 紀 夫 *
Verisimilitude of the Shakespeare Plays
Norio Narusawa
序 昌
オセ ローを 「辛抱立役」 と福田恒存氏が呼ばれた時,私はこの歌舞伎用語の意外な適切 さに感 心 し,同時に歌舞伎を通 じて染み込んだ 日本人の伝統的な観劇姿勢に気付かせ られた。 歌舞伎では 全体か ら切 り離 して独立に浜ず ることの可能な見せ場 とい うものがあるo濡れ場,縁切 り場,莱 し場,ゆす り場等がそれである。役柄 も捌 き役,辛抱立役,公家悪,実悪,色悪 と色 々あるが, 共通 していえることは,分現法やその呼び方が 「見所」を中心 としていることである。つ まり敬 舞伎では,脚本のプロッ トがそれぞれいかに違 っていても,役者が表現 しようと苦 J b L, 観 客 が共感 しようと期待 しているセソセ〜シ ョソには一定の型がある。 ウォルター ・ロー 1 )‑のい う
「興味の中心
」( 1 )は歌舞伎にあってはどんな決垂れの丁稚でも芝居好 きである限 り過ちようのな い約束事なのである。歌舞伎の観客は何を浜ずるかを見に行 くのではない, どう浜ず るかを見に 行 くのである。批判 しに行 くのではない,編 されに行 くのである。いきおいその観劇姿勢は審美 的,官能的であ り,西洋演劇批評の論理的,主知的な伝統 と際立った対照を示すのである.
話は変わ るが
,∫.D.ウイル ソンや
G.ゴー ドン等の英国のシェイクスピア学者が,本国で喜 劇が よ く理解 されていないと不満を洩 らすのを読む ことがある
。( 2 )また往時の批評家達がシェイ クスピアの時代錯誤や,動植物界の混乱,三一致の法則無視等を本気で問題に してい るのを知 る 時,歌舞伎の荒唐無稽に馴れた 日本人の方が より素直にシ ェイクスピア劇を理解できるのではな いか と思 うことがある。* クイラク〜チは新 シェイクスピア版の序文で 「お気に召す まま」は莱 国の森を知 らぬ外国人には馴染めぬだろ うなどとい う。 しか しドイツ人が 「我 々のシ ェイ クス ピ ア」 といい,マ ダリアガが 「‑ムレット」を良 く理解できる立場はスペイン人のものだ とい う時, 我 々は一体 どちらに味方すべ きなのだろ う。英国人の眼には ドイツシ ェイクス ピア批評が観念的 に映 るらしいが, 日本人には ヴィク トリア朝以後の英国人がサ クソ ・グラマテ ィカス時代のゲル マンの面影 さえ漂 うシェイクスピア劇の登場人物を肌で感 じとるにはあま りに主知的ではないか と危ぶ まれ る。道道がシェイクスピア劇 と歌舞伎 との親近性を主張 したのは両者が観客に要求す る審美的,主情的な姿勢に土台を置いているのではなかろ うか。た とえば 日本人の批評家でシ ェ イクスピアの偉大な悲劇に卑狼な場面があるからといって,戸惑 った り眉をひそめた りす る者は いない。 スペイン人ならば 「タイタス ・アン ドpニカス」の残忍 さに違和感を覚えぬ か も 知 れ
★英国で喜劇批評が今世紀初頭まで貧困であったのは喜劇が西洋批評の論理の網にかか りにくい為 であ ろ う。又現代日本人の中には近代劇に対するような主知的態度でシェイクスピア劇に向う者も多いが,これ は
19世紀にシェイクスピアがブルワ一・リットンやディズレーリー等と同列に紹介された特殊事情がまだ 後を引いている為というべきか。
*英語料
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ぬ。 とにか くある限 られた場合に,英国人 よりも ドイツ人,スペイン人更には 日本人の方がシェ イクスピアに近い位置を占めることがあ り得 るのではないだろ うか0
さて今度は,歌舞伎の型演出を引き合いに出 して,シ ェイクス ピア劇演出の伝統 の断絶を考え てみたい。"近代の西欧演劇の演出が脚本本位のそれであるのに対 して, 歌舞伎の塑演出は俳優の 技芸本位であ り,演出者 とい う第三者を置かず,その芝居の主演俳優が附随的にこれに当ること になっている。すなわち,西欧伝来の近代劇の演出が,最初に脚本を基準 としたアンサ ンブルが 考えられ,演技者が このアンサンブルに,個 々の演技や扮装,装置その他を適合させて行 くのに 対 して,歌舞伎の型演出とは,個 々の演技その他が各 々その面で最初に出来上 り,それを主演俳 優が演出者 として大体のアンサンブルを造 ってい く,つ ま りその浜出形成 の順が逆なのであって,
これは歌舞伎?脚本 とい うものが,本質に於て,文学的な戯 曲とい うよりは,上浜用のテキス ト に過 ぎず,俳優の創作する部分, または即興の部分を残 してあること,つ まり,俳優の演出本位 の演劇だか らである。"
(3). 代 々の名接の芸の工夫の集積であ る 「型」,その 「型」の伝承が歌舞 伎でいかに大切にされて釆たかを思 う時,シ ェイクスピア劇演出の伝統の断絶を惜 しまずにはい られない。‑ ミソグ, コソデルは脚本を後世に伝えは したが 「 型」を伝えては くれなか った。た とえば西洋音楽史で作家の地位 より抗実家の地位が高い時代があ った ように,エ リザベス朝演劇 史で も主演俳優の地位が劇作家の地位に勝 る場合があったであろ う.劇作家 より主訴俳陵の地位 が高い とい うことは,脚本 より舞台を重んず ることである。‑ム レッ トの年令は‑ムレッ トを浜 ず る役者の年令だとか, ロザ リン ドの背の高 さは pザ リン ド役の少年の背の高 さだ とかい うのは 極端だ としても,シ ェイクスピア自身が脚本などそ っちのけで舞台に関心を注いでいたのである。
「時」はすべてを呑み込んで,シ ェイクスピア演出の詳細 もその作劇の実態 も,今 日知 る術 もな い。シ ェクスピア劇の登場人物は感情が激す ると論理的には辻襟 の合わない科白を発 して, これ が印象的なのであるが同時に良心的な本文批評家を悩 ませ るのである。た とえば 「‑ムレッ ト」
第一幕第五場の亡霊に秘密を打ち明けられた後の‑ムレッ トの科 白 , 「マクベス」第三幕第四場 の
バンクォーの血をみてマクベスの発す る科 白 , 「オセロー」第五慕第二場の有名な "これが為 なんぢゃ, これが為なんぢゃ"の科白等 々。本文批評家の立場はわか るが, こうい う大事な場面 で演出法に,伝統の欠除に よる混沌が生 じているのは重大である。
そ もそ もシェイクスピア劇の登場人物は舞台の上で実像を結んでいるのであろ うか。答えは香
・ である.実像は観客の心の中で結んでいる。 ウォルター ・p‑リーは 「‑ム レッ り 第三慕第三
・ 場祈 りの場の王の独自を
〝Hiswordsflyup,histhoughtsremainbelow.
Wordswithoutthoughtsnevertoheavengo.〟(l)
と第三人称を用いて書 き換えてみせ,観客は これをいわばギ リシ ァ劇のコーラスとして受け とる べ きなのだと説いている。我が国の高校用国語教科書に「‑ムレット」の静三幕第一場を採録 した のがあって,王を恋愛至上主義者であると解説 していたが, こうい う読み方は この独白に王の艮
・ 心の喝責をみるのであ り,志賀直哉の 「クローデ ィアスの 日記」 もそ うい う立場なのだろ う。王
を単純に悪玉 と信 じ込むか,近代的な複雑な解釈をす るかは,こんな二行の受け取 り方で左右 さ
れ る可能性 もあ り,演出側 もさることながら観客側の素養 も重大である。文芸復興期の観客を相
せ りふ
手に秀れた俳駿は "舞台を涙でひた し,怖 ろしい白で中臣 じゅ うの見物の耳をつん裂 き,身に罪 の覚えある者の心を狂わせ,覚えなき者の胆を奪い,無知な奴 らを困惑させ,眼や耳 の働 きまで, めちゃ くち ゃに狂わせて しまうガのであった。シェイクスピアに最 も協力的な観客 とは どんな観 客だろ う。恐 ら く王の独自を聞いてその罪の恐 ろしさに冷汗をか くような素朴な人 々ではあ るま いか
。groundlingsとか
thegeneralと か い うのが彼 らを指すのではよもある ま い. さ ら に
「‑ムレッ H から例を拾 うなら, ローゼソクランツとギルデソスターンの ように二人であ りな が ら本質は一人 のような役 もあ り,ホ レ〜ショーも生 き生 きとした性格を与えられながら劇の進 行係や立会人の役を負わ されていることなどが指摘 され る。つ まりシ ェイクスピア劇 で は 常 に
「興味の中心」に焦点が結ばれていて,その中心を外れた部分はぼやけてい ることがあ り,人物 像に歪みや タイプ化がみられ るのもその為なのである。後期の作品,特に 「あら し」などでは, 中心人物 さえ何や ら象徴化 して くるのである。編 され るのがお得意の歌舞伎の観客なら寒いエル シ ノアの城壁に登が飛んでも目くじらは立てまい.様式化の徹底 した歌舞伎 と異 な り,シ ェイク ス ピア劇はやは り
verisimilitudeを重んず る西洋の演劇であ り, 人物像の歪みや タイプ化,そ の虚像性は一見隠されているため,見付け出された時にはシェイクス ピア劇 の欠陥 として数 えた てられ るのを常 としたのである。西欧の批評家達はシ ェイクスピアにいわば全焦点式の写真を要 求 したのである。
退迄がシ ェイクスピア劇を称 して 「不即不離」 とい う言葉を使 ったのをどこかで読んだ ことが ある
。Natureに不即不離 とい うわけなのだろうが, 迫迄には上に述べて来た意味でのシ ェイク スピア劇 と近代劇の と違いがはっきり理解 されていたに違いない。 「不即性」 「不離性」 とい う.
言葉を容認 して もらえるならば,私の この小論 もシ ェイクス ピア劇の 「不即性」を論 じた ものと いえようか。
(1) WalterRaleigh :Shakes♪ea
y
e,p.153(2)JohnDoverWilson:Shakes♪eare'sHafI♪yComedies,Ch.I. GeorgeCordon:ShakespearianComedy&OtherStudies,Ch.Ill. I
(3)
加賀山直≡氏の演技と浜此 戸板康二編歌舞伎全書第‑巻演劇馬より引用。
(4)WalterRaleigh :Shakeskare,P.154
1.対比の感党とジエイキーズの本質
(対比
‑antithesis,contrast,parallel,oXymoron,ambivalenceetc.)シェイ クスピア劇に現われ る対比 といって も色 々ある。 「マクベス」第二幕第二場 の 有 名 な
"makingthegreenonered"
早,「オセロー」第一幕第一場の
"anoldblackーram istupping yourwhiteewe"のような色の対比 もある。 「あらし」では騒 々しい第一幕第‑場の嵐の場面 に,打 って変 って静寂な第二場が続いて音の対比をな してい る。 「恋の骨折損」「間違いつづ き」
のような喜劇にも 「リア王」のような悲劇に も, プT ,ッ トの
parallelismはシェイクス ピアの常 套手段 として現われ, 「夏の夜の夢」では貴族,妖精,職人の三つの世界が絶妙の対比をみせて いる. また,父親のいいつけに従 った オフィーリアの悲劇 もあれば,父親に背いたデズデモーナ の悲劇 もあるo修辞法 としての言葉の対比 ( たとえば 「ロミオ とジ ュリエ ッ ト」の印象的な
oxy‑moron)
は枚挙にい とまない。
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さて, この対比の感覚がシ ェイクスピアにあっては単に表現の技巧や作劇術の問題に止 らず, ち ょうど英国人の知恵が彼 らのいわゆる 「釣 り合いの感覚」 と密接に結びついているように,彼 の判断力,彼の知恵, 彼の
gentlenessな どと深い閑い合いを持 っているように私には思われる。
シェイクスピアは
Aとい う判断を下す時,それ と相反す る有 とい う判断を忘れ られない人 らしい。
そ うい う精神の持ち主は一人の人間を軽々しく噸笑 した り,憎んだ りできぬ もので あ る。 ふ つ う喜劇の主人公は笑の対象
(buttoflaughter)なのに, シェイクス ピアの喜劇では観客が主人 公 と共に笑 うといわれ るのも,シャイロックやジ ェイキーズのような評価の不安定な人物が登場 す るのもみなそれが為ではなかろ うか。
I 「お気に召す まま」批評史をざっとた どると,十八世紀以来批評家達が ロザ リソ ドの快活 さと, ジ ェイキーズ,タッチス ト‑ソの皮肉,校智を平等にはめて来たのに ,H.B. チ ャール ト‑ /が 後者二人を こき下 ろす とそれが流行のようになって現在に及んでいるのがわか る。首肯 させ られ ることの多い
H.ガー ドナ〜は,シ ェイクスピア喜劇の特散の一つ として, 全体 と調和せぬ不 協和音的要素を混入 した り喜劇的夢想に疑問符を投げつけ るような人物を登場 させ ることを挙げ,
(1)
その例 として
,「 恋 の骨折損」の結末の死の知 らせ
,「ヴェニスの商人
」「 むだ騒ぎ」のシ ャイ ロック, ドン ・ジ ョンをとりあげ,果ては 「 十二夜」のマルヴォI )オーと 「お気に召す まま」の ジ ェイキーズとを比較 して論 じている。論旨に若干のモデ ィフイケーシ ョソが認め られ るに して ち,ジェイキーズをマルグ ォ1 )オーと同列に論 じるとは,チ ャール トン以前の批評家の夢想だに しなかった ことではあるまいか。現代では阿呆のタ ッチス トーソにさえ手厳 しい態度で臨む批評 家が多いのを知 ると,
̀̀Theageissopicked' 'と反省 させ られ る。 しか し,‑ズ リッ トが 「人 生 の七段階についての演説」や 「傷ついた鹿についての教訓」等に与えている手放 しの称賛には やは り共感できず,時代精神の相違のようなものを感 じる。
後に述べるようにチャール トンがシェイクスピア喜劇の本質を創造性即ち "新世界への冒険' ' と結論 した時,私はチャール トソがシェイクス ピア喜劇の 「不即性」を見抜いたのであ り,だか らこそ,その反対の 「 不離性」を代表す るジェイキーズの本質に気付いたのだ と思 う。 しか し, 現代 の批評家達が 口をそろえて この コペルニクス的転回に追従す るのは,ジェイキーズ,タッチ ス トーンの科白がさっぱ り面 白 く感 じられな くなっている為である。私はジェイキーズ‑ジ ョ
‑/ソソ説を標梼す る者ではないが,訊刺喜劇的要素やベルグソソ的笑いは,シェイクスピア劇のよ うに何度 も演 じられ読 まれ る作品にあっては, ロザ 1 )ソ ド・オーラン ド〜の愛の対話の ように人 間性に深 く板を下 した要素 とくらべて,新鮮味が失われ易い とい うことはあると思 う。近道は四 十年近 く前に こんな事をいっている。 ̀ ̀ いづれに しても註釈な しには解 らぬや うなテキス トを, 只多少刈込んだ ゞけで,その腿に使用 し,或いは,到底新演出 ( 現代服の演出等を指す) とは折 合はない荒唐千寓な内容を殆 ど其櫨に存 しておいて,極端な新演出を散てする新人達の気が知れ ない。なぜ思い切って手を入れないか?' '( 2 )私 も現代の実証的研究の成果を とり入れた上でのシ
ェイクスピア劇の改作 とい うことはあってよい と思 っている。
さて,"憂哲なジェイキーズ' 'を7‑デソの森の生活の快活 さと対比させ るのは良いとしても,
シ ェイクスピアが後者に重点を置 き,ジ ェイキーズをその引き立て役
(foil
)に使 ったと考えるの
は危険である。シェイクスピアの対比の感覚はそんなものでない。亡命の公爵が第二幕第‑場で
は
りHathnotoldcustom madethislifemoresweet Thanthatofpaintedpomp?''
と森 の生活を誇っていなが ら,第二幕第七場ではオーラソ ドーの話を聞いて,′
̀̀Thouseestwearenotallaloneunhappy:''
といって森の生活の惨めさを認めていること,大団円の場でジ ェイキーズ ・ド・ ・ボイスの報告を 聞いて,̀ ̀ 黄金時代の人のように何の煩いもな く時を過 していた' '筈の公爵が, そそ くさと官延 べ帰 ること, これ らを考え合わせ ると,シ ェイクスピアの対比の感覚 とは,相反す る二つの判断 を どちらが正 しい と必ず しも決めて しまわない態度 とい うことがいえる。結局シェイクスピア劇 は
'0Xymoronの世界であ る。 判断を下す論理 の世界でな く
ambivalenceの可能な心理の世界 なのである。
( 1 )
HelenGardner:AsYouL2'keItfromed.KennethMuirShakespeareTheComediespp‑69‑70. (2)坪内遥遠 沙翁劇の新演出 筑摩版現代日本文学全集第‑巻より
2.
劇的時間とハムレットの年令
ある婦人 と話を していて,談偶 々 「オセ ロー」に及んだ,彼女は映画で見た らしいのだが,デ ズモーナの運命に しき りに同情 し , 「柳 よ柳」の歌がいかに哀切であったかを語 った。 私は学 の ある所をみせ ようと , 「オセロー」 の時の二重性
(doubletime)を得 々と論 じ, オセ ローとデ ズデモーナは一体何 日問結婚 していたのかなどと馬鹿な事をい って話に水を差 して しまった.敬 舞伎では黒子を着た後見は,見て見ぬ振 りをるすのが作法 とされ る。思 うにシェイクスピア劇に ち,気が付いてはいけない事がい くつかあ るのではなかろ うか
。soliloquy,aside等 数 少 な い
conventionの他にも,シ ェイクスピアは,時には露骨に,時には巧 妙 に
verisimilitudeを 無 視 しているのであって,含蓄の深い 「 不即不離」 とい う言葉は多 くの真実を物語 っている。
時間に関 してのシェイクスピアの遣 り口は 「編す」 とい う言葉が最 も適切である 。 「ジ ュリア ス ・シーザー」で彼は二年半の出来事を五 日間に圧縮 していて, ̀ ̀もしわれわれが歴史 と地理の 知識を欠いて,不注意にこの劇を読むならばわれわれは この劇中の出来事が引き続いて五 日間に 起 った と思 うであろ う。
''(1)時の一致に うるさいフランス人にいわせれば,"彼は学者達が主張す る各種の規則に対 して も,同 じ自由な立場を保 っていて , 「オセロー」 では劇を一つの突発的事 件に圧縮 し , 「リヤ王」や 「アン トエイとクレオパ トラ」 では大規模な交響楽 も同様の構成を用 いている。又 「 冬 の夜ばな し」では前半 と後半の間に十六年の月 日がたっているのを強調す る一 方 「マ クベス」では時間の経過を巧妙に ごまか し , 「‑ム レッ ト」ではそれを滅茶苦茶に し, そ れでいて 「嵐」では時間と場所 との古典的統一を守 って〃( 2 )い るのである。
シェイクス ピアが 「‑ムレッ ト」で時を どう滅茶苦茶に したのか,詳 しく聞 きたい ものであ る
。実は私 も‑ムレッ トの年令についてかな り大胆な考えを持 っているか らである。蓋然的ないい方
をすれば,論理的思考に強 く頼 る人は‑ム レッ トの年令を三十才 と断ずるが,全体の印象を重ん
ず る人はもっとず っと若い‑ムレッ トを想定 しているようであ る。最初の独自や レアテ ィーズの
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長野工業高等専門学校紀要 ・第
2号訓戒か ら出発す ると青春期 の‑ム レッ トを確信 し,王妃の寝室の場や墓掘 りの場に思い至 ると分 別盛 りの‑ムレッ トを主張 した くなるともいえる。私は劇の始 まりに二十才そ こそ この青年‑ム レッ トが劇の終 る頃三十代の壮年‑ムレッ トに成長す るのだと考える。
A.∫.A.ウォル ドック が い う通 り , 「‑ムレッ ト」における年月の経過は
〟puttwoandtwotogether"式手段で数 え るべ きではない
。 (8
)論理的思考を排斥 したならば,印象が頼 りになる案内人である。 J
.D.ウ ィル ソンは第三幕第二場劇中劇の場を
turningpointと呼び, それ以後の劇のスピー ドを重視 している。( 4 )それはそれで納得のい く考えであるが,それ と矛盾せず次の印象は成立すると思 うQ ど うも私にはイギ リス行きを中止 して帰って来てからの‑ムレッ トの言辞にいかにも成人 らしい 諦観や,運命を潔 ぎよ く受け入れ ようとす る
readinessが感 じられ, 出発前後に数年の年令差 を出 して演 出す るのが,む しろ相応 しく思われ るのである。 ( 第四幕第四場の終 りにウィル ソソ は
Someweekspass.と ト書 きを入れているのは何故か不明だが暗示的である。)勿論年令差は イギ リス行 き前後に限 るのではない。第一幕第一場で
"YoungHamelt抄 とホ レーシ ョーが紹介 してか ら,王や王妃 と静 う‑ムレッ ト,節‑独自をす る‑ムレッ ト,ホ レ‑シ ョーらと挨拶を交 わ し亡霊について問い質す‑ムレッ ト, レヤテ ィーズとオフィー リアに噂され る‑ムレッ ト,城 壁 で亡霊に出会 う‑ム レッ ト等 々‑ ‑ム レッ りこついての知識が蓄積 されて行 くうちに我 々は 彼 を 「十年の知己」の如 く感 じ出す。その過程で‑ムレッ トは年を とるのである。 ブランクグァ ースを どんなに素早 くしゃべ っても二時間半,飽 きこそ しないがち ょっと疲労 しかける観客。そ こで悠然 と‑ム レッ トがア レキサンダーや シーザーの昔に想いを馳せ る。父王の死の悲嘆,亡霊 の与えた衝撃,劇中劇後の興奮等はまるでイギ リス海峡に洗い流 して釆たかのように。その時, 二 時間半が十年 の長 さに変 って来ないだろ うか。そ うでな くて人は何故
procrastinationを問題 にす るのだろ う。洋の東西を問わず,復讐物語は何年 もかかるのが常道である。就中 「ニーべル ンゲソの歌」を頂点 とす るゲルマン民族のそれは十年単位が普通であ り,シェイクスピアがその 影 響樫にないとはいえ まい。
「‑ ムレット」の 「興味の中心」は時代を追 って
, 1亡霊の性格
‑ 2‑ムレッ トの 高 貴 さ‑
ウイ
ル
30edipusComplex
と変遷 して現代に及んでい̲ る。 これはシ ェイクスピアの意志に無関係に変 遷 して来たわけであるが, 1
. 2. 3.のいずれにも
procrastinationが関係 しているのである.
浪漫主義批評や心理分析家の解釈を批判 し,シェイクスピアへ帰れを合い言葉にす る現代の実証
′・イフイヂ yテ
イ
的 研究家達,その学究 の成果を とり入れた,いわば,シ ェイクスピアへの高忠実度を誇る演出の
「‑ム レッ ト」の中に時 として 「興味の中心」を失 った生彩のない 「‑ムレット」があることは 忘 れてはなるまい。現代, 草た釆たるべき宇宙時代の人 々は 「‑ムレッ ト」の 「興味の中心」を 何 に求めるのであろ うか。
市河三善 :JuliusCaesar(
研究社シェイクスピア) .
ルネ ・ラルー著,青田健一訳 :英文学史 (クセジュ文庫)
,p.36A・J・A・Waldock:Hamlet:A StudyinCriticalMethod
,(
i)Hamlet'sDelay. J.D.Wilson:WhatHaPZIenSinHamlet,Ⅵ3.
新世界の創造とイ7ゴーの卑小性
∫.D.
ウ ィル ソンは
WhatHappensinHamletで, 従来 の幽霊がセネカ流の繰 り人形 で, わめいた りどな った りす るび っ くり箱
(Jack・in・the‑tx)Ⅹ)式 のお化け
(spook)に過 ぎなか った のを,シェイ クス ピアが人間化 しキ リス ト教化
(Christianise)して, 美 しくも厳 め しい 甲胃姿・
(fairandwarlikeform)
で優雅 な素振
(courteousaction)を見せ る王者の姿を備 えた亡霊 と して 「‑ ム レッ ト」に登場 させた と述べ, これを戯 曲文学史上 の革命的新機軸
(revolutionary innovation)とい ってい る
。 (1)(ウイル ソンは この人 間化 をシェイ クスi・ ァの . )ア . )ズム とみて い るら しいのだが, ど うも納得で きない。私は次 の事柄 と共通 してい るよ うに思 う。) また
,「夏
の夜 の夢 」の妖精につ いて
,E.K
.チ ェンバースは民間伝東 の小人 ( 丘 に住み夜輪 にな って蹄 る緑 色の小人や椅贋好 きな娘には家事 を手伝 ってや るが,だ ら. しのない娘 には悪 戯 を す る
RobirL Goodfellow‑いずれ も小柄 な大人位 の大 きさであ る)をシ ェイ クス ピアがず っ と小 さ く
(i!lfin・itesimalsize)
して,今 日我 々が想像す る ような妖精
(elementalspir享ts)即 ち ̀ ̀ 花蜂 の巣か ら蜜 の袋をそ っととり,寝室への手燭には ,ろ うが一杯ついている蜂 の脚 を とって蛍 の 日で火 を ともす "可愛いい妖精 に作 り. 変えた と述べ ている。( 2 )
これ らの ことか ら私 は,シ ェイ クス ピアには 自然 を善意的に美化 して受け とめ る性癖 とか能 力 とかい った ものがある と考 え るo これ はテ ィ1 )ヤ ー ド・ スべ l /サ ー: rダソ ビ‑等が教 を る "ェ リ ザべ ス朝の世界像' 'と関係す る所 もあ るのだろ うが
,「夏 の夜 の夢」や 「あ. ら し」 の世界 にみ ら れ る明澄 さ,精妙 さは詩人 シ ェイ クス ピア独 自の ものであ り,陰険 で低級 なお化けを高貴 で王者 の風格を備 えた亡霊に,人に害をなす小人 を人間の幸福 を願 う妖精にfl l ・ り変え る発想 もそ の現わ れ と思 うのであ るo̲ 彼 の創造 した様 々な悪 が, 自然 の調和 の破綻の結果 と考 え られてい . a ことも (た とえば・ 一 リチ ャー ド三世が
abortiveであ ることな ど), この考 えを弁護す る と思 わ れ るo こ う考 えて来 ると
,H・B・チ、 ヤー! レトンがシ ェイ クス ピア喜劇 につ七、 てい ' 1た言葉 は
,. ‑ 、 層
劇に のみ限定 されぬ重要 さを持つ
. ,J ‑
̀ ̀ 古典喜劇は保守的である。 その世界は.それ自体で十分な安定に既に達 している世界である。・ ‑その主
、 な興味は, .一般の風習や. 既成の物事の順序に従う妥当性などを犯 した老どもを摘発する事にある。 従 っ て,その方法は訊刺であり/亭ゐ観ノ 割ま公東の常識であるoLかし,' シェイクスピア喜劇はも1 Iと冒険的で あり,もっと想像的な企てなのだOそれは人間の福祉に必要な諸条件が既に確立さされたもので,従って単 に守護さるべき神聖なものであるとは考えない。それは,一 既に到達された善を維持する仕方をではな く,あ れやこれやの善の可能性を増大させる仕方を想像的に思索するのである。ジェイ‑ クスビア喜劇のと‑。‑千
‑pイソたちは,まだ達成されてゐない幸福, 人間の生活がもっと充実 し卜. . 人間の感覚がもっと精妙にな り,人間の歓びがもっと拡まり,もっと長続きし,従ってもっと人情味のあるものとなるような,そ うい う すぼらしい新世界を追い求める航海者なのである。‑この航海者は,前から在った善を保持しただけではな い,それをより洗煉させ,それに変化をつけ,それを広 く押 し拡げた。従って,シェイクスピア喜劇は最終 的に訊刺的ではない。詩的なのである。そして保守的でなく創造的なのである。その流儀は想像力のそれで あり,純粋理性のそれではない。これはあくまで芸術家のヴィジュンであ?て. 1批評家の解明では な い の だ ' 。( 3 )
つ ま りシ ェイ クス ピア劇は, 自然を写す鏡 であ る面 ( 不離性), と新世界の創造 の面 ( 不即性)
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草野工業高等専門学校紀零 ・第
2号
とが微妙に交錯 して組みたてられている。そ して誤解は しば しばその二つ の面を取 り違える所に 生ず る。た とえばイア ゴー論を とりあげてみる。実はシェイクスピアを少 し聞きか じった人 々の 問ではイアゴーの "近代性"が広 く常識化 していて,イアゴーが文学的に魅力ある人物であるか の如 く取 り沙汰 され ること,シ ェイクス ピア批評がそのためつ まらぬ道草を食わ されていること な どが,腹立た しく思われ るか らなのであ る。
誤れ るイアゴー観の種をまいたのは,‑ズ リッや ト
A.C.ブラッドレーか と思 っていたが, 実 は ライマ‑なのであ る。 コール リッジ流のシ ェイ クス ピア崇拝は, ライマ二批評に絶好の攻撃 目標を見出 したわけだが, "イアゴーのごとき性格をもった兵士は,悲劇に も喜劇にも,また こ の世に も,けっして存在 しないガ とい うライマ〜評に対するアンチテーゼとして "イアゴーのご とき性格ははどこにで も転 っている"と反 駁すれば よか ったのだ。 ところがそれでは冒清になる と考えた扱評家達は,逆の暗示を受けてイアゴーゐ "動枚 さが し"を始め,ついにイアゴーに関 す る訳のわからぬ人間像が生 まれて来たのであ る。
そ もそ も悲劇には悲劇を生む母胎が必要 なのであ るが,シェイクスピア劇ではそれは悪 と呼ぶ よ り動機
(motive)と呼ぶ方が相応 しい ものが多い 。 「‑ムレット」の亡霊 , 「マクベス」の魔 女 , 「1 )ア王」の領土分配がそれであ り , 「オセ p
‑」の場合は人間イアゴーである。盗人に も三 分 の理 とか,シ ェイクスピアは悪人を創造する時,その悪へ走 る動機を割合気を使 って説明する。
だが イアゴーの場合,シェイクス ピアは,世間にごろごろいる陰険で想像力に欠けその癖怒 りっ ぽい粘液質の人間を,不要な説明抜 きで舞台に連れ出 したのである。なるほど舞台ではオセ ロー 役 とイアゴー役はそれぞれ優れた俳優が扮するのが伝統である.だか らといってイアゴーの人間 像 を大 きくみ るのは誤 りである。興味の中心はあ くまでオセローの愛にあ り,イアゴーは引立役 に過 ぎないのである。オセ ローがイアゴーの引立役であるような演出は論外であろ う。
ブラッドレーはイアゴーを詳細に論 じた後,彼を何の理由もな く友達や蛙をい じめる子供にた とえているし,‑ズ 1 )ットもはえを殺す子供 とい ういい方を しているOイアゴーは,巨大なェネ ル ギーを持つ機械のスイ ッチを知 ったかぶ りでいじっている子供に似ている。彼にはオセローの 悲劇の大 きさが少 しも理解できていないのである。つ まりシェイクス ピアはオセ ローの愛 とい う 詩 的世界に,その真実性に無理解なイアゴーを現実世界からつ まみ入れ,卑小なイアゴーに よっ
て "高貴なムーア人Dの愛の世界が破壊されるとい うその対比に悲劇をみたのであるo
"イアゴーの如 き性格は どこにで もいる。ガ この命題は文学評論の問題 より常識 の問題 と思わ れ るが如何。
( 1 )
J.D.Wilson'.WhatHa♪♪ensinHamlet.pp.55一発.(2)E.K.Chambers:ShakespeareA Survey,p.68.‑
( 3
) H.B.Charlton:Shakes♪ean'an叫 ,pp.277‑278.( 引用文は中村保男氏の訳を借用した. )
結 び
迫迄の 「不即不離」, ウォルター ・ロー リーの 「 興味の中心」 などとい う微でも生えていそ う‑
な言葉を手掛 りとして,私はタイ トルの "実像 ・虚像 ?"の問題を側面か ら論 じて来たつ もりで
あ る。 こゝではもう少 し具体的な取 り上げ方を して全体の補足 とも結び ともしてみたい。
もう一度アーデソの森に帰ろ う
.E.E.ス ト‑ルは "T 'ザ l )ソ ドの変装はオーラン ド一 に 見 破 られぬだけでな く,父親にも見破れない 。 しか し見破れぬか らといって彼 らが間抜けであると 非難す るのは当を得ない
カ( 叶といっている。化粧効果の強い歌舞伎の舞台でなら
impenetrable・ness
の達成はむ しろ容易である. これは私の臆測だが,女性の役に少年を使 った シェイ クス ピア の時代ではその化粧効果は歌舞伎の女形のそれに近 く
,impenetrablenessの達成が容易であ り, その故にこそ,あの時代の喜劇には
disguise・sceneが多いのではなかろ うか. 現代的浜出法で は,ス トールのような発言は当然すぎるにせ よ, このような配慮は,演劇の世界に現実のおきて を持ち込 まねば東知 しない誤 った習慣の産物である. (この場合
impenetrablenessとは登場人 物に対す るものでな く,観客に対するものであることを思 うべ きである。)
さて,仮面舞踏会にでも現出 しそ うなオーラン ドーとロザ リソ ドの対話の場で,二人は観客に 対 してどうい う心理的地位 を占めるのだろ うか。結論だけい うと,図
1のような同格 の 存 在 で はな く,図
2のようにオーラン ドーは観客か らは ロザ リン ドを仲介 とす る第三人称的存在である。
ロザ リ ン ド オーラン ドー
\ /
観 客
オーラン ド〜
ロ ザ リ ン ド
‑ ∴ ‑ 一
丁図
2観客は ロザ リン ドと自分を同化 し, ロザ リン ドの求愛 され る喜び,機智を発揮す る楽 しさ,悲 人の遅刻に よる苛立ちなどを, 自分の喜び,楽 しさ,或いは苛立ち として感 じている。そ して観 客にはオ‑ラソ ド〜の立場にたつ余地などほ少 しも残 されていないのである。
Orlando. Fairyouth,IwouldIcouldmaketheebelieveIrove.
Rosalind. Mebelieveit!・ ・ ・ ・
・ ・
第三幕第二場のこの対話で,盲パーセン トの共感を ロザ リン ドに注がない観客がいるだろ うか。
そんな人 とは,
"Iam gladofyourdeparture:adieu.' ' である。問題は しか しこの場面で p ザ リン ドが実像でオーラソ ドーが虚像だ とか,その反対だ とかい うのではない。実像はあ くまで 観客の心の中に結ばれ る。 pザ リン ドと自分を同化 し,彼女 と共に楽 しみ,お しゃべ りを し,た め息をつ く観客の心の中に結ばれ るのである。
近代劇は舞台の上で実像を結び,観客がそれを覗 き見 している仕組を原則 とす る。近代劇 とシ ェイクスピア劇 とを比較す るならば,前者がアクシ ョンに重 きを置 くのと対照的に後者はイ メー ジ ( ‑劇詩性)に重点を置いている。又前者が観客の視覚 と聴覚に平等に頼 っているのに,後者 では,いわゆ る ̀ ̀ 劇を聞 く
(hearaplay)' 'とい う言葉が示す ように聴覚に比重がかけ られてい ることが,大 きな相異点である。近代劇 と比較 してシ ェイクスピア劇が より力強 く豊かな生命感
プヲンクヴアー
ス
を観客に印象づけ得 る原因の一つは,シェイクスピア劇が,韻文を媒介 として,実像を直接観客 の心に結ぶ とい う心理的に より高度な手法をとっているためであろ う0
以上で私の論旨は尽 きたわけだが,蛇足ながらこのの観点か ら気付いた ことをい ってみたい。
T.S.
ェ 1 )オ ッ トがオセローの最後の言葉を "ポヴァ1 )ズム' 'と呼び, しか もシ ェクス ピアの意
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長野工業高等専門学校紀要 ・第
2号
図 もそ こにあるのだ といった有名な批評があるが,私には誤解のように思われてならない。主要 人物の死後他の登場人物が死者を讃える演説をす るのは 「ジュリアス ・シーザー」や 「‑ム レッ
ト」などにみ られ る如 く,シェイクスピアが クライマ ックスの締め くくりによ く用いる手段だが,
「オセ ロ‑」の場合他に適切な登場人物がいないためか, オ七 . ]‑がムーア人 とい う異民族であ るとい う特殊性のためか, とにか く自己弁明を行 って自決するとい う型 を と っ て い る。 (ブ ルータスの場合は敵方のアン トニーが使われている。) さてエ リオ ッ ト以前の批評家が殆ん ど皆 このオセ ローの最後の言葉を額面 どうりに とり,エ リオ ッ トのように ̀ ̀自己劇化の欲望の現れ"
と考えなかったのは何故であろ うか。例の 「‑ム レット」第三幕第三場の王の独自をコーラスと して第三人称的に受け とった ように,このオセ ローの最後の言葉 も本人が しゃべろ うが第三者が しゃべろ うが,オセローの性格判断に関係のない客観化された言葉 として受け収 られて来たため ではないだろ うか。だか らこのオセローの最後の言葉か らオセローが謙譲の美徳を欠いていると判
・ 断す るエ リオ ッ ト批評は論理的に正 しいのに,奇想 と感 じられ るのである。 コール リッジの "お よそ崇拝の念を抱かずにシェイクスピアの名を ロに し得 る者は批評家の資格な し" とい う言 葉 と,た とえば 「‑ムレッ ト」を ̀ ̀ 失敗作" と呼んだエ リオ ット批評を並べ る時,私はむ しろ前著 の言葉に冷静 さを,後者の方には感情的な奇を解 った態度を感 じて しま う。
( 虚像 とい う言柔をやは り使 っておられ る福田恒存氏の‑ムレッ ト観についてもち ょっと触れ たい気 もするが,シェイクÅ ビア翻訳 とい う大 きな問題がからむので割愛 した.)
(1) E.E.Stoll;ArtandATtift'ceinShakespeare,P.153