現象学的身体運動論考(その1)
~「生きる力」と「身体運動」~
日下 裕弘*
(2013 年 11 月 26 日受理)
Considerations of Phenomenology for Physical Movement(1)
~"Power of Life" and "Physical Movement"~
Yuko KUSAKA *
(Received November 26, 2013)
1.はじめに
遊び,スポーツ,レクリェーション,体育の運動教材などの身体運動に関する従来の科学的研究 は,人体解剖学,運動生理学,キネシオロジー,バイオメカニクスなど,研究の対象としての身体 運動をいわば「外側から」客観的に明らかにしようとしてきた。そのことは,それとして意義がある。
だが,教師や指導者が学習者の身になって技能を向上させようとすれば,どうしても学習者の身 体運動を「内側から」共感し,理解し,発展させる必要が出てくる。特に,「技能(わざ)」は,「身 体知」と呼ばれ,意識下のはたらきが重要であり,目には見えない現象である。したがって,その 内実や本質を,従来の科学的研究の外側からの分析で明らかにすることはできない。
学習者の「技能・わざ・身体知」を,「動感=動きの感じ」として,そのままのかたちで共感しつつ,
いわば「内側から」理解・了解しようとする方法に現象学的方法がある。本研究は,そうした身体 運動の現象学的諸研究の整理とその若干の考察を試みたものである。
対象とした主たる現象学的理論は,市川浩の「現象学的身体論」,瀧澤文雄の「身体の論理」,金 子明友の「スポーツ運動学」および「身体知」に関する諸理論,亀山佳明の「生成論」や「リズム 論」,そして,大澤真幸の「身体の比較社会学」などである。
これからの学校教育,特に,保健体育教育を担う学生諸君のための有意義な論考としたい。
茨城大学教育学部美術科教育研究室(〒 310-8512 水戸市文京 2-1-1; Laboratory of Sociology of Physical Education, Ibaraki University (Bunkyo2-1-1, Mito, Ibaraki, Japan 310-8512).
*
2.「生きる力」と「身体」1), 2), 3), 4)
<生きる力>
文部科学省(中央教育審議会・新しい学習指導要領)は,「生きる力」の概念を「健康・体力」「豊 かな人間性」「確かな学力」の3つの層でとらえている。すなわち,「たくましく生きるための健康 や体力」を基礎に,「自らを律しつつ,他人とともに協調し,他人を思いやる心や感動する心」を 豊かにし,「知識・技能の基本を確実に身につけ,自ら課題を見つけ,自ら学び,主体的に判断し,
行動し,よりよく問題を解決する資質や能力」を身につけた人間の総合的な力(「人間力」)と整理 している。子どもたちは,力強く大地に根を張って生きる樹木のように,すくすくと生き,成長す る。(図1)
<身体>(こころ・からだ)
ここでは,人間の「こころ」と「からだ」を一体のものとしてとらえる市川浩(1977,1984,1990,1992)
の「身体」の概念に準拠し,この「生きる力」の概念を「身体のはたらき」の現象として探って みよう。
人間は「生きる力」=「身体のはたらき」をもっている。それは,まるで「センサーをもつ炎」
のように,主体的な生命の力であり,学習する生命力である。それは,「いま・ここ」に個性とし て存在する純粋で分裂のない「私」の原始感覚(「主体としての身体」)である。それは,個性的主 体である以上,「弓」のようにある方向性をもって世界に向かう「志向」的存在(「志向弓」)である。
すなわち,人間は,その主体的な中心から世界を受動的に捉えるとともに,その状況に適合するよ うわが身を調節し,世界に適応しつつ,能動的に世界にはたらきかけ,自らに有利な世界の意味を 生成して生きている。
<「間」の存在>
「生きる力」とは,人間の生がもつこの「主体的」「関係的」な力のことである。人間は,自然や 人工物といった環境の中でのみ生きられる,<間ー環境的>存在である。また,その人間なくして その世界(文化・社会)はなく,その世界なくしてその人間はない,<間ー世界的>存在である。
さらに,人間は,母親,父親,家族,友人,先生,理想的人物・・・といった重要なる他者の影響 を受け,他者との関係においてのみ自分を形成しうる,<間ー主観的><間ー主体的>存在である。
机をさわってみよう。私は机のなめらかさを感じる,と同時に,机が「私の手」(「客体としての 身体」)を感じさせてくれる。人の「一生」とは,この広い世界において,様々な関係(出合い)
の束としての生涯を通じて新しい断片をつくり出し,加えつづける「完成型のないジグソーパズル」
のようである。
<心身一体>
しかも,人間の行為は,精神と肉体,こころとからだが統合し,一体となってなされる。科学的 な極限概念としての精神や肉体が,そのどちらか一方のみの論理ではたらくことはあり得ない。「こ ころ」と「からだ」は,複雑に絡み合いながら有意味に「ひとつのはたらき」として現象する。心 身合一的にはたらく人間の身体を,日本人は「身」(み)と表現してきた。「身をもってわかる」とは,
からだを通してこころの底からわかることである。そのはたらきは,解剖学的な肉体の境界をはる かに超える。使い慣れた「杖」は,杖の先まで私の感覚が伸びているし,「車」の運転に慣れると 私の感覚は車の先端や車幅まで拡張し,狭い車庫入れも簡単にできる。「身体が覚えている」。
<中心化> <脱中心化> <非中心化> <再中心化>
人間は,間にありながら,すべてを自分の中心に引き寄せ,統一した人格(アイデンティティ)
を形成していく。これを<中心化>という。
同時に,人間は動物と違って,他者の身になって考えることができる。自分を超え,自分ならど んな気持ちになるか,どう考えるか,他者の立場に立って行動することができる。これを<脱中心 化>という。
また,人間は,チームワークや音楽の合唱のように,お互い同士が協働して,自分たちを超えた 新しい共同の世界を形成することができる。これを<非中心化>という。
人間は,こうした様々な体験を自分の中に練り込み,成長していく。様々な新しい体験を自分の ものにしていくことを<再中心化>という。
<錯綜体>
人間の身体=身(み)は,2つのはたらきとしての局面をもっている。ひとつは,「目に見える」
意識的な顕在的統合である。これを「図」という。もうひとつは,「目に見えない」意識下の潜在 的統合である。これを「地」という。「図」は,現実の行為として最終的にひとつに統合された行 動現象(「私は歩いている」)である。一方「地」は,ふだんは意識の下に隠れているが,様々な形 の「行動可能性」(「私は歩いた・歩くだろう・立ち止まる」)として,あるいは,様々な「行動能力」(「私 は大股で歩くことができる・急いで歩くことができる」)として,「図」を潜在的に支え,方向づけ るはたらき,すなわち,行動を生成させる前意識的な「地平」「地盤」「能動的な構え」「準備態勢」
である。
それは,潜在する様々な可能性と能力を多様に「錯綜」させ,「図」を浮かび上がらせるための 基本的条件を準備する。市川は,これを「錯綜体」と呼ぶ。そこでは,自らを主体として了解する 身体と同時に,様々な身体が存在する。すなわち,環境内の物質と同等なもの(「即自」存在)と しての身体,机をさわる客体(「対自」存在)としての身体,さらに,世界における私の意味=他 者にとっての私の意味(「実存」)として了解する身体などである。それらの諸身体が複雑に絡み合 い,一つに融合して身体運動が現象する。意識下にあるこの錯綜体は,生きる力の土台であり,地 盤である。
目には見えない,はっきりと数字には表せないこの錯綜体を豊かにすることこそが教育や体育の 重要な課題であろう。
3.瀧澤文雄(1995)の現象学的身体論(「身体の論理」)6)
<「こころ・からだ」と「身体運動」>
「こころ」を「精神」と「情緒」に分ける。
「からだ」を「身体」と「肉体」に分ける。
「身体運動」は,それらのすべての構成要素によって成立する。
それらすべては,繋がっている。結びついている。(図2)
<身体運動~動作と下位動作~>
「這えば立て,立てば歩めの母心」。人間は,生まれてから様々な運動を身につける。
スポーツなどの特殊な,非日常的な運動も,実は,こうした日常の身体運動を土台にして形成され たものなのである。
以下,瀧澤 (1995) の現象学的身体論(「身体の論理」)を整理する。
(1)運動・動き・動作・【動作】・下位【動作】
「運動」という用語は , 動きの連続を客体の動きとして観察する場合に用いる。「動き」とは,動 作を構成する単純な運動である。この用語も,客体として見た場合に総称として用いる。「動作」とは,
ある意図のもとに,まとまりを持った比較的単純な動きである。また,それは他の動きから区別で きるような一つのパターンを持った動きでもある。たとえば,引っ張る,蹴る,支えるなどの動き は動作である。これを動作主体から見た場合には【動作】という表記を用いる。運動主体にとって,【動 作】とは知覚内容(感じ)としてあり,運動主体はみずからの知覚内容によって動作を生じさせる ことができる。その【動作】を構成しているのが,「下位【動作】」である。
(2)身体運動の構造化の順序性
身体運動は,以下のような順序性で構造化される。
① 下位【動作】の生成 ② 【動作】の生成・構造化 ③ 【動作】の洗練化・先鋭化
④ 枠組みとしての身体的時空間の生成 ⑤ 身体的思考
⑥ 意識化と言語化
① 【下位】動作の生成
下位【動作】とは,上位の【動作】を構成しているより簡潔な知覚のゲシュタルト(全体として 統一された構造をもつ形態)である。その下位【動作】を統合することによって上位の【動作】を 作り出すことができるが,その【動作】もまた一つのゲシュタルトとしてある。人間は,上位の【動 作】を融通の利く動作にしたり,新たな【動作】を習得したりするために,一つの【動作】をいく つかの下位【動作】に細分化することによって,それらの下位【動作】を統合し,より無駄の無い 簡潔な知覚内容にしている。
この下位【動作】の洗練化によって,身体は運動可能性を持った有効な構造になり,様々な動作 を区別して行うことが可能になる。しかも,この下位【動作】が身体的思考を可能にしている。要 するに,動作を習得するには下位【動作】が不可欠であり,その下位【動作】によって身体の構造 化に順序性が生ずる。通常の生活においては,われわれは「[からだ]である」という状態にあり,
下位【動作】は自動化していて意識下の地平に退いている。(図3)
② 動作】の生成・構造化
身体は下位【動作】の統合体としての構造を保持している。身体の構造は下位【動作】を修正す ることによって再構造化される。原初的な下位【動作】を始まりとして,日常生活に必要な下位【動 作】が身体を構造化し,さらに,用具や仲間やルールが構造化を進展させる。下位【動作】に影響 する肉体の成長と衰退もこの構造化を左右する要因となる。
③ 動作】の洗練化・先鋭化
身体の構造化には,洗練化と先鋭化の二つの方向がある。洗練化へ向けての構造化は,融通のき く身体を目指すことである。それに対して先鋭化を目指せば,特殊な動きを可能にする身体になる。
④ 「枠組みとしての身体的時空間」の生成
【動作】によって構造化されている身体は,やがて「かたち」をもつに至る。自分自身の個性的 な身体的な時空性を生じさせ,秩序づける。すなわち,【動作】には,外界とのやりとりに必要な
時間性と空間性が存在している。それを「身体的な時空性」と呼ぼう。卓越したスポーツマンは,
数多くの絶え間ない練習を積むことによって,この身体的時空性を磨き,より普遍的な自分の「か たち」に「抽象化」していく。抽象化することによって,新たな下位【動作】の錯綜に必要な「枠 組みとしての身体的時空間」を生成するのである。スポーツマンはその枠組みを意識下の地平とし て保持しつつ,下位【動作】を同定することによって【動作】を生み出している。この枠組みは,
自分の「いい感じ」の基準である。それは,運動主体が自ら「適切に」動くために,そしてより適 切な【動作】に「修正」するために必要な枠組みである。この枠組みは多様な運動経験よって安定 したものになる。その安定によって融通の利く身体ができ,この巾の中でこそ,とっさの,瞬間的 な習慣身体が無意識に表れてくる。すなわち,<動作を,いつ・どこで・どの方向に・どれだけの 力で,作り出さなければならないか>を即興的に解決する最も基本的な枠組みが,みずからの身体 に独自の「枠組みとしての身体的時空間」なのである。
⑤ 身体的思考
身体運動を習得したり,実践したりするには,言語的思考とは異なった論理をもつ「身体的思考」
が必要である。身体的思考においては「下位【動作】」が言語的思考の「ことば」の役割を担っている。
すなわち,人間は,自己の身体的時空間を基準として形成した下位【動作】を使って思考するので ある。身体的思考には,「即興的」な「身体的」「認知・対話・価値・判断・操作・・・記憶・・・等」
が必要である。それは,市川が「錯綜」と表現したメカニズムである。有効な身体的時空間という 価値基準に基づいて練習を繰り返し,「わざ」を身につける。わざとは,習慣化された身体の自動 的,即興的な状況への対応であり,他者や状況の認知・判断と,その状況に適合した【動作】の実 現,すなわち,下位【動作】のバランスの良い組み合わせなのである。それは,身体のすべての部 分をまとまりのある全体として統合したものである。
また,身体的思考は身体運動の「自動化」を目指すと同時に,意識の「簡約化」を目指す。その 目的のためには,下位【動作】の持つ不安定性を克服する「安定化」が必要になる。
⑥ 意識化と言語化
身体運動を習得するには,下位【動作】をどのように意識するのか,が重要になる。学習者は,
保持している下位【動作】を変容することによって,新たな【動作】を習得する。その際に,学習 者が下位【動作】を同定し,「意識化」するためには,下位【動作】の「言語化」も必要になる。
学習者は提示された言葉によって,知覚内容を下位【動作】として取りまとめ,意識することが可 能になる。言語によるアドバイスを理解し,意識的に【動作】を修正しようと努力する。
意識化と言語化は,【動作】・下位【動作】をその意味において了解し,一般化し,そのより客観 的な認識を通して,自らの「感じのかたまり」をより豊富な深い認識の土俵へと導くのである。
指導者は,こうした身体の論理を理解し,学習者がどう【動作】を変容すれば技能を改善できる かを,ひとり一人の【動作】・【下位動作】の構造を見抜き,適切な動作・下位動作の助言をしなけ ればならない。
4.金子明友 (2002) の現象学的身体運動学5) <身体運動と「動感」>
(1) 人間の身体運動
スポーツをはじめとする人間の身体運動は,運動することそれ自体が目的(自己目的的)であり,
運動そのものの本質を無限に追求し,充実させようとする身体経験である。自らの身体に向き合い,
他者の身体に語りかける。本気でのめり込み,真剣に「わざ」を磨く。それは,美と聖のはるか高 みにかけのぼっていく。だからこそ,そこに人間形成に不可欠な陶冶内容がある。
人間の身体運動は3つの特性を持つ。
①「自己運動」(自発性):それは生身の運動であり,生身に即した自己の自発的な運動 である。「自 分で動いている」「自ら自発的に動いている」から生きていると言える。
②「主体性」:炎のような生きる力を持つ主体がまずあって,その主体が運動を開始する。③「身体性」: 私の身体に生き生きと,ありありと感じられる身体性=「動感」。すなわ ち,「動いている感じ」,
「動きつつ感じ,感じつつ動く」身体性である。
(2) 「動感」(キネステーゼ)
それは,「運動」(キネーシス)と「感覚」(アイステーシス)を融合した概念であり,「私の身体 だけがわかる」「動きの感じ」「動ける感じ」のことである。「私の身体でわかっている」「身体にとっ ては自明なこと,何も難しいことはない,あたりまえの現象」である。
「私が『こう』動くことが『できる』」というふうに身についた能力を「身体知」「動感身体知」
と呼ぼう。それは,活き活きと生きる人間の「運動感覚知」であり,人間ならではの,人間化され た運動感覚の知恵である。運動と感覚は一元的(同時・発生=即・興)的な現象であり,人間は,
動きつつ感じ,感じつつ動く。スポーツの魅力は,この「いい感じ」「これ!」が中核にある。
(3) 「動感メロディー」「流れつつある<今>・<ここ>」
身体が了解(体験を伴った理解)しているこの「動感」は,一回性のものであり,分割できない「流 れ」として感じられる。骨・筋・神経・五感・雰囲気感(第六感)を通してつくられる「動感の流 れ」を「動感メロディー」と呼ぼう。それは,時間(過去と未来を含んだ<今>)と空間(そこか らあそこへという<ここ>)とを,自ら進んで「引き受ける」,「自分の実際問題として動き,感じ る」ことである。
(4) 「志向性」と「形態」
後に詳術するように,炎のように現象する動感は「志向性」をもつ。それは,中核と原則(秩序・
構造)をもつ「形態」に至る。外形を変えながらも,変わらぬ中核的本質と秩序ある構造をもつ「か たち」を形成する。一般に,それを「コツ」や「カン」という。
<現象学的「地平」分析>
現象学は,この動感を,先入観を捨てて,ありのままに了解し,分析しようとする。動感の発生 と構造にせまる。動感形態としての「コツ」と情況投射としての「カン」は,お互いに表裏一体の 存在であり,一方がはたらいているときには一方は意識下の「地平」に隠れている。そして次の瞬間,
それらが「反転する」。スポーツの練習もゲーム現象も,そういう「反転」の「繰り返し」である。
現象学的「地平」分析は,このように一回ごとにまったく異なる「体験流」としての現実の現象
(実存現象)を,意識下の「地平」にまで掘り下げて,これらの異なった諸形態に「本質として似 ている構造」「潜在している類似の性格」「隠れている内在法則性」「繰り返される秩序性」「中心的 な意味核」「共通する本質・形成原理・原則」「規範性」すなわち「類似の同一性」を分析しようと する。似ているものに同一性を見いだそうとする。生き生きと体験しつつある動感メロディーを支 える意識下の錯綜体を分析しようとする。「コツ」や「カン」といった目には見えない心身の現象を,
その「地平」においてはたらいている身体知(動きに内在した合理性・知性)として捉え,その構 造を明らかにしようとする。(これを「超越論」的「類化」「抽象化」という。)目に見える現象を 超越し,その地平に潜在するはたらきを「類化」「抽象化」することによってむしろ「普遍性」(多 数に共通する内的構造・本質的属性)を追求しようとする。
こうした現象学的な分析(現象を表現する言語による分析=言語化)を通じて「ああそうだった んだ」と気づかされる身体の論理がある。動感は決して言語によって完璧に表現されることはあり えない。言語の論理と身体の論理は異なっている。しかし,例えば,対人競技には「さぐり」とい う現象がある。「さぐり」という言語がなければ,それは漠然とした多様な動感がおのずと出現す る不思議な身体のはたらきにすぎない。その動感に「さぐり」という言語を与えることによって,
そのはたらきが,「相手の出方を読み,瞬時に対処するために,『こうしたらどうくる?』『こうし たら?』・・・と,相手の潜在能力を探索する」という意味があったことが初めてわかる。そのは たらきの構造や意味が明らかになる。その論理性(原則)にはっきりと気づかされる。感覚的にあ たりまえのこととして漠然と体認していた事柄の意識下の地平にまで踏み入って,その錯綜するパ ターンに特定の規則性・原則・秩序性を見つけだす。潜在するその構造と意味を如実に暴き出す。
「なじみ」の地平に新しい<わざ>を反復練習し,様々な「探り」を入れながら,時には「まぐれ」
あたりも手伝って,自分の「形態」を発展させ,「それ」(自在の地平・究極の理想)を追い求める。
運動にのめり込む(<わざ>の習得に夢中になる)スポーツマンの身体の地平の最も深い層(根底)
には,こうした,常に「充実」を求めて努力する(ガンバル)中心的な意味核・本質原則がある。
それは無限の目的論的構図をもつ「ガンバリズム」といっていい。
この身体知とは,したがって,目に見える現象そのものではない。そうではなく,その現象を地 平において支え,方向づけ,生化させる「可能性」「潜在する能力」「背景」「土台」となる「はたらき」
のことである。それは「多襞的な無限の広がりと深み」を持つ。絶えることなく流れ,意識下で複 雑に「錯綜する」(絡み合う)志向性(それは「炎」のかたちにイメージできるかもしれない。)は,
やがてはっきりとした「形態」をもつに至り,習慣的な行為パターンとして「図式」化する。日本 の伝統文化としての武芸道は,この「地平」をまるごと感じ取らせることによって「わざ」を「伝 承」してきた。
文献
1) 市川 浩(1977),身体の現象学,河出書房新社,Pp.263 2) 市川 浩(1984),<身>の構造,青土社,Pp.218 3) 市川 浩(1990),<中間者>の哲学,岩波書店,Pp.300 4) 市川 浩(1992),精神としての身体,講談社,Pp.338 5) 金子明友(2002),わざの伝承,明和出版,Pp.561 6) 瀧澤文雄(1995),身体の論理,不昧堂出版,pp.1-229