イ・ア・ゴンチヤローフ傳
エス・ア・ヴエンゲローフ 作
中村俊藏譯
譯 者 よ り
− 私 が 本 坑 鐸 を 思 ひ 立 ち ま し た 動 機 は 大 正 十
茸年三月欝本年軋節六年第二肪上lこ武藤教授に依り︑
﹃ ゴ ン チ ヤ ロ フ 著 フ レ ガ ツ ト
・ パ ル ラ ダ 中 の 一 節
﹄ と 題 し
て紹介され且本年三月十当日正午頃本校国事館階上に於
与よして同教授より﹁鐸して研究緒年報に出しては⁝⁝﹂
と悠放されましたことにあります︒原露文lはエス・ア・ヴ
エンゲローフ氏の執筆でありまして本校図番館備付の一
八九
三年
サン
クト
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グ︵
S旨
已P
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出版
露文有料郎典四十一巻及柿瀞二番︵一巻約九官八十蝕貫
の大肪もの︑出版者はライプチヒに於ては︑エフ・ア・ブ
ラツクガウズ氏︑サンクト・ペテルプルクに於てはイ・
ア・エフローン氏︶中の第九谷中にありまで︒本俸記の執
筆者セミヨーン・アハナーシエビツチユ・ヴエンゲローフ
氏は批評家︑文数史家で一八五五年ポルタフスカヤ癌ス
ーラ河畔のループヌイlこ生れ初め一八七一年より七四年 まで内外前科撃箪校に聾ぶ︑一八七九年法革士ミなり︑一八
八〇
年度
卑官
記章
科の
堕士
寸し
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ペテ
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Sburg︶大塾の昆園文革講庵も捻任︑一八七五年﹃現代々
衷者
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於け
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国文
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グ1
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一計
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ノーサオユー・ゲレと・︑ヤー三景ふ事物を出版︑一八七六年﹃新 時 代﹄紙上り電車
批評欄にこ﹃シチグローフスキー郡の二∵ウスト﹄三耳ふ雅競
鼻ヂィエリ†I ルスキー.1こて執筆︑一八七七年上ごり八C年に亙り﹃周問﹄及問富国
ミ ー ル ス ロ ー ヴ オ ー
世界﹄誌上に批評論文を書く︑一八八〇年より﹃言葉﹄誌
上lこ活動し就中﹃スラグ民族の国民的連動﹄に闊七多くの
ウストーイ大論文を省く︑一八八二年月刊雑誌﹃基礎﹄を主笹し︑一
八八 四年 に﹃ ア・ ビセ ーム スキ ー﹄
︵後 出︶ の評 論的 偉観 ス
ケッチを発行す︒叫八八六年より富国作家及聾者の評論
樽記大群典の編纂に従事す︒
イ・ア・ビンテヤロー7倍
一八
五
商 業 さ 経 済
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アレ キサ
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︒ 三 円
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0吟)は最も有名な露凶文豪中の一人で一入一二年
頃に生れた︒ゴシチヤロ
1
文には彼は一入一三年六月六日に生れたごせ の多︿の侍記論7
られて居るがこれは確買ではない︒
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ロ
1
7の泣き口執行者で彼の古くからの友人で
あったエム・エム・スタジユレIピy
チユ
(一
入二六年生れ卒者︑操飢家︑結局政家︑詳細は後出)にはプY
チヤ
ロ
1
の洗膿詮明書は一7
入一二年モスググア(民
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巧)市火災の時焼g
失したこさが確震に剣明して居る︑ぞれ故に
彼の生れたのは同年の九月以前である︒
四十年代の露図作家の大多数ごは異
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彼はジシピ
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スクの可成有一臓な商家出身であ
ったが天性の菩積に加へて共時代ざして最も
注意深き数育争点λ︿るために防げにはならな
かった︒彼の母は普通の女であったの然し善
良な婦人でその母の手に彼は父の死後三歳に
して残った︒母は子息の養育のためには何物
一八
六
争‑ k
惜まなかった︒グオルグ河の封岸︑ホヲu
ンスカヤ侯偉夫人の所有地にカザンの紳準大
事の殺育ある数化せられた伶侶の皐生が住ん
で居た︑彼状フランス婦人ご結婚してその助
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依り
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宿合
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千枝
子
m聞き営地貴族の問に
功続のある成功を股めて居た︒共庖ヘザ一引きプ
シチ ヤロ
1アも遣られた︑教授及養育の事た
るやその信侶向学生に依って非常に注意深く忽
された︑彼は自分の生徒遠の向学修のみなら子
読書をh注減して居た︑小供遣には啓一き殺訓的の書怨のみや﹄奥へそ︑ホYピジン(一七四五i一七九二︑作家︑巧妙な誠刺家)の﹃プク
ガデ イ
V﹄
(放 問長 の窓
︑喜 劇) の如 きも の
3へも︑政細な事や軽薄に潤する総ての陪示から
少年の霊智を法ぎくるためには︑許可書物目
録中から除外3れて居た︒質際家庭に於ザレプ
シチ ヤロ
1
7はジヤジy
只 女 史 こ 七 四 六
i一入三一︑ブラシス女流作家︑伯偉夫人.営
時彼女の殺訓的小説は露誌に線誇サられ人気
を博 した )の 戚傷 的小 説や
‑フ ドク Y
女史こ7
七六四l一入二三︑英国作家︑ぞの小説は陰
階玄妙な内容にて秀で殆んざ全部の小説露語
に醗誇せらる︒より正確に云へば改作せられ
た)の全部の幽霊小説や︑エクグYトスグク
ゼンの一紳泌な考察のものさへをも読んだ︑然
し兎に角大位に於て読書の性質は寅際的のも
ので真面目なものであった︒
十二歳の時プンチヤロ
1 7は デ
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ン(一七四三l
一入 二ハ )︑ アレ キサ
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一
世(
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仏O
門岡 忠・ )の 時司 法大 臣. 彼の 文率
的名惑は﹃プヱηノツイ﹄が出版3れたに始ま
り︑その後多くの作品世に現はれ皆名患を得
た)︑でフ久コプこ七三三l
一入
O七
)︑
一七
七六年に大苧貴族寄宿合的学校及師範紳皐校の
基を開き殺育の活動的な援護者.作品は似非古典汲的のもので叙事詩﹃一フジア!グ1
﹄ ︑ ﹃ ク
ラジ
IミY
﹂︑ 小説
﹃ヵ ドム さガ
YモI
ニ ア
﹄ ︑
﹃ヌ了ポンピηノ!﹄︑悲劇戯曲等あれども葱術
上の債依なし︑然し大成功ケ得た)︑ォゼロア
(一
七七
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一入 一六 )︑ 戯曲 作家
︑詩 人︑ 作品
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グセ ナト 等 は尚 一四 時成 情の 模倣 の出 来ざ
るこ さ︑ 生気 ある 生ける盤の如き詩に依
b
て大なる成功を得
た︑然しフランスの似非古典波の影響を受け
て書かれたもので現代に於ては官1
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片山
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史的
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有するのみ)等を議破し︑又ロ1
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六六
一l一七四一︑ブラYスの歴史家︑ぞの古代
史及 ロ
Iマ史はトレジヤコアスキーに依りて
露語に織誇せられた)やゴy
コ!プご七三五
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一 入
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一歴
史家
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匂 1キ1
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のほとの事業﹄等の著ゐ
b)
等の歴史的作物を読み︑又ムシゴバY
ク ご 七 七 一
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一 入
O七.有名穴英図族行家にして中部ア
7
カ研究者.一七九五年第一回遠征を企て7
一 入
O五年に第二回遠征をなせしもニグY河に溺死し中道にて鑓れた)やクラ
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エシ
ニ コブこ七二ニ
l一七五五)︑博物亭者︑カム
チャツカの研究者︑﹃カムチヤヅカ記﹂を容し
一八
七
商 業 さ 経 涜
た) やバ ぞフ
1スこ七四一ーー一入一一︑博物
卒者︑放行家伯林に生る︑一七六入年エカ
ア
7
ナ二世に依bて露闘に招1
m w せられペア
YプYグ亭士院の依頼に依b
一七
七Ol
一七
七三年に至る問大探険隊の長ざして詳細にク
‑ フ
Yから支那の図拐に至る迄の地方及カプカ
ズ
2ち
22
&
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研究した︑探険に依りて蒐集
せられ・た豊富なコレクションは亭士院博物館
に納めらる︑一七人五年彼は皐士院の委員に選ばれた︑一八一O
年 伯 林 に 蹄 り 同 所 で 死
す.露国地方の放行その他の著ゐ
b)
等の旅
行記舎も読破した︒
老たる水夫なる殺父の物語の影響を受けて
青年ゴンチヤロ!プは殊に旅行に心を惹き付
けられた︑印ち早︿より放行記念読みしご同
時にこれ等の物誌は後年ゴンチヤロ
1 7の 世
界族行に出後する決心の・一土なる源'呆を怨し
た︒一入一一二年ゴジチヤロ
Eフはぞれ以前数
年間な立モスクグア寄宿合忠一夜中の或る場所
に滞在してモスクグア大串の文科に入皐し
一入
入
た︒これが伎のためには殺授︑向学生間に於て
新生活が始まった時なのである︒向学生の集固
からゴンチヤロIプは濁b
山
一 地
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かつて居たu
殺授中から特に彼に成化を奥へたのはナデー
ジユ ジン (( 一入 O四l
一入 五六 )︑ 卒者 にし て
操飢家︑一入コ二l一八三六年迄雑誌づプレ
スコ ープ
﹄( 向司 法銭 )を 後行 し主 筆芭 なる .チ
ヤダ
lエプ(一七九三i
一入 五六 )︑ 一入 一二 年陸軍に勤務す︑プクジユキンこ七九九
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一入 主七
︑露 国の 詩型 一一 さ仰 がる )さ 親交 あり
︑
一入三六年雑誌づプレ久コI
プ﹄
に執
筆す
︑)
の
作品﹃哲人の書簡﹄のため廃刊の止ななにき至
b)
主筆者はグオロゴドスカヤ懸に在る郡の
市ク
1スト.スイyyスクに追放せらる︑自
分の評論に於て彼は文事上に於けるロ!?ン
アイジズムご模倣傾向ごに封し闘争やみ刈した︒
露国文卒の作品に於ては民情さ自然に劃して
戦ったとさ勝目時未だ若年でゐったジエグイ
レア
(一
入
O六l一八六四)︑文亭歴史家にし
て雑誌記者﹃グントご彼の世紀﹄﹃詩的学理論﹄
﹃官
ジア
文問
山手
・見
﹄殊
に﹃
古代
﹄そ
の他
の著
ゐり
.
雑誌上の活動に於ては極端なるスラグ族品川負
常一⁝の一人︑時々他人の怠見に濁して偏執を表
はし.同時代の文挙運勤の会︿不可解なるこさを後表した)さであった︒
大卒に於てゴY
チヤ ロ 1
は総ての図及図7
民の古典に遁宇るため多くの時間を甲}れに捧
げたu彼が文泊に初めて現れて以来評論が彼
のために認めた形式の完成立去ふ甲︺さは疑も
なく模範的作家を注意深く研究した直接の賜
物である︒一入三五年ゴシチヤロ
1 7は大撃 の科 程在 終り
︑
vy
ピ
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スクに於て暫時の
間出仕し︑その後ベアYプYグ
( 3 5 ω σ
号問
)
に移住し総評官ごして大成省に・奉職した︒大
戒省に彼は一入五二年世間介一周放行に間後す
るまで継続勤務Lて居た︒ペアYプYグに於て彼は直ちに文義方面の人々ご相識るこさを
得た︑そして彼は我山術のための葱術に悲哀の
ない崇拝が盛な︑そして唯一の塞術理想に向
って客観的創活力の高上がある範回内にお乱入
イ・
ア・
ゴシ
チヤ
ロ
1フ
偲
った︒ゴシチヤロ
1
7は営時未だ十四歳の青
年アポロγ・マイコプ芭その兄弟で早逝した
天才的批評家ワ
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アン・マイコプの父で惑
術家のニコライ・アポロノ1ピy
チユ
・マ
イコ
プの家で近親者の如くなって居た(因にアポ
ロジ
・ニ コラ エピ
y
チユ
・マ イコ プは 一八 一一 一
i一入九七︑詩人︑持情詩.叙事詩.行情詩
劇を以て有名︑ヲレyアン・ニコラエピyチ
ユ・マイコプは一入二三l
一入 四七 評 論家
︑
議術の正しき理解のために多大の功績あり)︒
ぺly
ンス キ
I(
︿・
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回一
己宮
降下
一入
l四入︑有名なる批評家︑海軍々墜の息子︑ 一o
牧師の孫︑︑ベンゼンスカヤ膝チエシバY市の
郡立の皐校︑ぺYゼン久カザ中間学校.屯只ク
グア大的九千等に於て数育を受け最後にナデ1ジ
ユジン(前出)︑バクロ1
フ等の議義を聴い
た︑嘉重な彼の庭女評論﹃文率的夢想﹄は一入
三四
年﹃
‑プ
Vスコープ﹄誌上に後表せられ大々
的成
功︒
γ博し彼の運命を決定した︑この時よ
彼れは文率的労作に海身の精根を傾注した)
一八
九
商 業 さ 経 済
の仲間にプシチヤロープは一入四六年︑銃に
それ以前草稿の佳の時.熱心な此の批評家に
て遊説せられ読者を非常に喜悦せしめた﹃ァ
ピグナゲエンナヤ1
・ィ スト fy ヤ
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伴者
註︑本書の英叩一時は本枝問書館に備付けてあり
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ロW52・であれノます)ケ仲介ごして接近した︑然
し此の相識は親睦ごまでは至らなかった︒一
入四六年ぺ!?yスキーはプラYスから来た
Yイ・プラシやレドyユ1
・ ロ
Mfレyの思想に
心酵の真最中であった︑総ての極端の敵ゴジ
チヤロープは此等の思想に殆んど心を惹かれ
ヂジ エ
I・ザシドの思想を論駁さへもした
これが郎ちぺ
1 7 Y
スキーがプYチヤロープ
の才能に完全な鷲駁の租税を梯ひ︑営時プジ
チヤ
ロ 1
の自身の物語に依りてゴ7Y
チヤ ロ
ヲイリステル
ープ を﹃ 俗物
t ご呼ぶに至った原因であ名︒﹃ア
ピクナグエシナヤI
・イ
スト
I
ヤYI
﹄に 潤す
一 九 O
る狂喜的批評に於てぺ!?ンスキーはその著
者の作品に於て義術方面は彼を会ぐ満足せし
めなかったが然し基礎的構想は彼を喜悦せし
めた所の﹃誰が諜・﹄の著者さ翠術家でそれ以上でない所のプンチヤロIブごの問の差具合注親した︒﹃ァピクナグエジナヤI
・イ
スト
1 7
ヤ1﹄は格外の成功さ同時に一般的にも成功
子得た︒ゴIプy(一入O九l一八五二︑有
名なる露図文豪)争露図のポリノデコ1
ク(
一七
九四
l一入七一︑フランスの小説家︑その殆
んど全部の作品は露誇され一時大なる人気を
博した)ざ見倣した所謂﹃自然波﹄の明かな情
感者﹁北方の密蜂﹄{(一入二五年から一入六四
年まで後行せられた政治文卒新問︑最初は一
周三回一八コ二年より日刊となる︑主筆後行
人はプY
︑ ガ 1 7
Y︑一入一二一年からはプがY
1 9 Yご グ ν
チユ︑一八六OI
年からはクl
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プ︒
プ
Yがlyyごグ
V
チユの名前は充I
分新聞の一般的容貌ケ定めて居った︑純技
術方面から新間以内容貧弱である︑一肱訟は会
くなかった︑政治上の報道は極めて切り縮め
られたもので時には全く貫際的方面から総て
の評註なしに事買を曲げた形で報道せられ
た園内生活の問題は会く等閑に附せられ政府
の庭置は何等の説明もなく報道せられた︑地方及市の雑報欄は火事さか︑色々の程類の珍らし言こご種々偶後的小事買の報道から成立
し︑批評欄は劇場︑一音楽︑書籍解題の問題︑
種々の俊明や工業上の企業に濁する銭面皮な
庚告等に捧げられた︒これは二部分︑政府の
行動合非難するこさのみならや務揚するこ之さへも禁止された蛍時の印刷物の一般的朕態
で係件付けられて居たのだ︑彼等は熟考以外に立たねばならなかったベ何んに就いて書きましょうか﹂さ或る時プYガ
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は第三部y
長ドクペソト大終二七九二
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一入 六二
︑一
入三五年から憲兵軍国司令部長官ざなり一入
三九年第三部長さなり検閲総局の委員やみ胤
任)に尋ねた︑劇場︑展覧台︑勧工場︑古着
市︑ 居酒 屋︑ 菓子 屋を :: :ぞ ら
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続分だそれ以外に一歩たbごも出でではな
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﹂宅 一勝 寧は 答へ た︑ 此の 新聞 の主 な均 一期
・ 人はプ
ydMlyy自身で彼は数十年間﹃総て
カ ン デ モ
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標題
の下じ批評欄&捺任した︑プY
︑ ガ
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るど同時に新聞の特質は全く滋化した︑一入
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六二年の問グyyエンの友人アY
トク
y・ぺンの機関紙芝なったが兎に角成功しな
かった︑そして購読珠約者の不足のため廃刊の止むなきに至ったこさへ小説が一七入九年に生れ一入五九年に死せし前記の雑誌記者︑
美文卒者︑歴史家である所のプYガ1リ
'y
に
は嫌忌すぺき率一政の総ての規則に従って書かれたけれども初舞憂の人に非常に好意ぞ以て
サプレlJンニツク接した︒一八四入年﹃現代人﹄((文亭政治雑誌︑詩浩一一プクジユキンさプレトネプ(一七九
一 一
l一八六五二入一入年より文培に現はる}
さの考によりて創始︑一入三六年四月十一日﹃現代人︑ア・エス・プタジユキンにて後行せ
られ たる 文皐 雑誌
﹄さ 一式 ふ標 題の 下に
﹃ピ
Iタ
九
商 業 さ 経 涛
ー大 帝の 宴﹄ さ一 式ふ 詩を 一公 表し て初 版が 泌氏 了
せられた︑一入三八年迄は年四回後行︑プク
ジユキシの死後一入三入l四六の問雑誌の幹
部にはぺ!・アI・プレトネフ在り︑此時は無
花の時季でみのった︑一入四三年から日刊雑誌
ぜな
る)
}誌
上に
﹃イ
ヲ 1
・Y
サピ
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・ポ ドジ ヤ
プyy
﹄ご 一疋 ふ題 材を 官・ 一民 生活 から 取っ たゴ シチ ヤロ
1
の7
一短 篇小 説が 泌氏 表さ れた
︑ぞ れ
は銃に一入四二年に書かれて居ったものだ︒
丁皮それが印刷に附せらる﹀や否や彼の名控
は突然揚った︒一入五二年にプシチヤロ
1 7
は営時未だ外国人には入園出来なかった日本
さ通商争開始するために日本に赴きし海軍大
将エプイム・
7 V 1
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ザイ チュ
・プ クチ ヤチ
シ(HO忌
自
g宅
口町
岳会
EEE
一入
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入入三二入六一
ll
六この間文部大臣さなる)
の遠征に会加した︑彼は大将プクチヤチYの
秘書役さして遠征隊に附隠せしめられたの
だ︒東方戦争(誇者註︑露士山桃役ならん)のた
め中念にで中断せられたる旅行から締り
f y
一九
ニ
チヤロープは諸雑誌に﹃プレグト・メ
Y‑
フー
グ﹄ (叩 持者 註︑ 武膝 殺授 に依
b本校研究館年報
第六年第二冊上に引用さる)の個々の雫を部
分的に掲載した︒其後一入五九年に出版せら
れた
﹃オ プロ
!モ プ﹄ (諮 者註
︑本 帝一 日の 英詩
︑ 本校図書館に備付ゐり︑
oz oE
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守 山 口
︒ ︒ ロ の
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︿ 円 円 山
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︒ s po 河 口
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・印もこれなり)の著作に熱心に着手し)
た︒
﹃ォ プロ
Iモフ﹄の成功は﹃アピクナゲエ
ンナ ヤ・ イス ト
1y
ヤI﹄の如︿世界的のもの
であった︒一入五入年に
d y チヤ ロ
lプは検
開局に特勤した︑初めは検閲官ぎなったが
後には印刷事務総局の委員さなった︒一入六
二年後は暫︿政府機関紙﹃北方の郵便﹄{(内務
省の新聞︑日刊︑一入六二年から一入六入年まですyp
ト・
ぺ‑
ア
YプYグで後行きる︑主
なる︑記者はァ・グエI
・ニ
キ I‑ アジ コ︑ エ
ヌ・
グエ
1
・ヲ アデ イノ ア︑ イ・ ア・ ゴン チヤ ロ
ープ二八六二年二一五鋭から)︑デ1
・イ
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ーメジスキ1(一入六三年一四四強から)等で ある
︑一 入六 九年 に﹁ 政府 報知
﹄に 組織 的援 克
3
ゲエストニツク・?{フロI
る) }の 主位 一ヤ ケ勤 めた
︒一 入六 九年
﹃欧 洲遜
プィ
信﹄(一入六六年創設︑歴史政治雑誌.主筆後
行人はべ
‑7
YYプ
グ大
卒一
克殺
授た
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エム
・ エム
・ス タジ ユレ
Iピッチユ兵)上に彼の第三
の大 小説
﹁オ プ
Yイ
フ﹄
(誇
者註
︑・
断山
庄の
意︑
原本本校図書館にあり)が掲載された︑これは一般的の成功を得るこさが出来なかった︒
七十年代の初頭に彼は僻職した︑此時から彼は大なら5
るス ケ
Yチの類を若干書いた︑印z
リオ
ン・
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l q J T
ラトウ山Y
ヌイ
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Aチエ山
も﹃ 苦難 の無 数﹄
﹃文 町内 予の 夕﹂
﹃ぺ
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キーの個性に就きての摘要﹄﹃
Y Iチ
ジエ
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チエ ム・ ニカ グダ
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( ﹃
巳 ぽ
吋
FS
F s
z q
・q
著者 の俄 悔)
﹃回 想録 一﹁ 下僕
﹄﹁ 自
由の破壊﹄等でゐる︑然し此等のものは﹃苦難
の無数﹄以外彼の名盤に何物をも加へなかっ
ア﹂︒みjf
ンチ
ヤロ
・ 1
7はモホバャ街に在った三室
から成り立って居た小さな住宅に塾居して徐
イ・
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ゴン
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ロ
1フ偉 生を送って居た︑英庭で彼は一入九一年九月十五日永眠した︒そしてアν
キサ
yドロ・ネ
アスキー大寺院(大侯アレキサyドY
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キーが端典人に劃して勝利を得た記念のため
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O年サジクト・ぺ
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グの ネ
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河さ 剛一 戸河 の岸 に創 建せ しも の) に葬 られ た︒
彼は妻帯しなかった︑自分の文率的財産を自分の老僕の家族に遺言して譲った︒﹃アピグナ
グエンナヤ・イスト!?ヤ1
﹄及 び﹃ オプ ロ
I
モフ﹄の著者の何等強き援飢を知らない︑複雑なら玄る長き生活の枠は斯︿の如きもので
あったっそして有名な文豪の外部にまでも貫道して居た此の煩はきれなかった卒穏な一様
なこさが世人に彼にて創造せられた総ての型
の中 でゴ
Yチヤロープ自身が最も近︿オグロ
I毛プ争想起せしむる芯云ふ確信をなきしな
るに至った︑此の憶測の源因は一部分プシチ
ヤロ
1
アの結文を思ひ出さんにずイポYスカヤ側の 7自身がなしたのだ︑例へばオプロモ
木造の歩道を二人の紳士が歩いて居た︑一人
一丸
三
商 業 さ 経 済
はγユト
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ヅ︑他の者は彼の友人文卒者
で肥満して不精な面相ケして物思に洗んで睦 む相な眠ヤして居た﹂さ倫読み進んで行く 時は
﹁不 精に 欠伸 しな がら .﹂ ジユ
1 y y
ツさ共
に談話しっ︑ある無頓着の文卒者は小説の作
者自身以外には設も居ない甲﹄ごが剣明する︑
﹃ プ
νが
ト・
バ
Y一フ[ゲ﹄に於てプンチヤロー
プは﹁自身不精で自分さ接鰯する総てのもの
を不精に成染せしなるのが芯の︑運命である﹂
ざ叫んで居る︒疑もな︿プy
チヤ ロ
Iアは中
年の美文卒者スグデ
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一コブの姿に於て﹃文亭の夕﹄から誠刺的に自分自身伝導き出した︑
スグ♂アサノニコアは﹁着坐するぜ安楽椅子の中
でまるで固着したか又は眠ったかの裁に身動 きもしなかった︑時々冷淡な限を上げ
τ講演 者争瞥見し再び限を溶した︑見た所彼は此の 講演にも文卒にも又一般に自身の周回の総て
の人々に濁しても無関心であった﹂︑最後に﹃若者の俄悔﹄に於てプシチヤロIフはオプロモ1アの形態を得たのは周囲の仲間を観察し
一九
四 た結果たるのみなら十自己省察の結果である
さ率直じ閲臥して居るJぞしてプジチヤロ1
7は初舎の時から他人にオプロ1モフ然たる
印象台輿へて居った︒アンドジエロデ・グク
ペYナ‑プイ久は斯くの如くにして小説家の外
貌を描出した︑印ち﹁中式で頑丈で歩行や総
ての勤作が緩慢で無頓着の節︑をした恰も疲れ
きった面相をした人の様だ彼は彼の周回に 馳せ廻る哀れな人間の怪しい活勤に謝して会
︿無成脱却の様であった﹂さ︑然し兎に角プン
チヤ ロ
1アはオプ官I毛アではない
M O
四十年
前(一八九三年起算)帆般に乗って世界周航を
企委するためじはオプ甘1モプを聯想すべく
依りに大なる決心を要した︒我々はプY
チヤ
ロ
1
が自分の小説7
‑ T 書きし所の共の注怠深
きニご子知る時には吾人の限にはオプロ1毛
プはゴンチヤロIアでないこさが了解出来る
のでゐる︒その注意深いこさのために却も緩
慢ごなり世人が彼をオプロ1モアなりさ疑っ
たのである︑彼の怠惰は質際に於て恐ろしく
緊張し︑た智的労作のゐる所にこれを後見する
こどが出来るのだ︒勿論彼の著作の総計は左
程大ではない︑彼の同窓トYグ1
ニ エ ア ご
七入四l一入四五)やピセ!ムデキI(
一入
ニ O
l一入入で有名な作家︑文率上の活動は
肢に中
m学校時代より始ま
hJ
︑著名なる庭女作
ハヤ
lシルチIナI
は小説﹃
A民族の領地﹄で蛍時有力なる一雑誌
﹃旭国の日記﹄赴にて採用されしも結婚に謝し
格外の白白思想ありしに依り検問を道︑過せ
子︑その他成功したる多くの小説︑戯曲等あ
り)
︑ド スト エグ スキ
1(
一入 二二
l
一入 入一 )
等は彼よりも生存期間短かhしも遂に彼よb
も多作した︒然しその代りゴシチヤロI
プの
抱擁の如何に民大であるか︑彼の三忽の小説
中に包合さる﹀美文的材料の分量が如何に大
なるかよ︒玩にぺ
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只キ
1(
品川
出)
は彼
に
就いて臼く﹁他人に十の小設さなる所のものはゴシチヤロ
1
に於ては一つの枠中に荷治y
されてしまふ﹂さ︒プンチヤロIプには大きに於て第二流の作
イ・
ア・
ゴシ
チヤ
ロ
1フ偲 口聞は少ない︑只︑最初に於て及び自己五十年の文同学的活動の絡に於て︑郎も彼が全幅員に於て手な振h上ぐる前まで︑及び創作カの干
上った後にのみ彼は少数の短篇小説及久ケツ
チの類ぞ書いたのである︒主家の問にも炭い
カンバス以外じは宣言待ない所の金一家がゐる設にゴシチヤロ
1
も正に其等の類中の一人7
であ る
o彼の小説中の如何なるものも非常に
大なる庶民査に於て企てられぬものはない︒'如
何な るも のも 露間 同生 活の み一 時代 及会 一川 削減
?蒋
潟せんご努力しないものはない︒再説︑反復
に陥らなければ又は質際の小説の範国外に
出なければ書き待ないものが津山ある︒印も
著者自身が目撃し.観察した所のそのこごの
みを描寓するのでなければ書き得ないものが津山あるo雨アドクエプに於て︑オプロIモフに於て︑ジユトク
yy
ヅに於て︑組母に於て︑ゲエラーさマYヵ︑グオYホヲに於てプ
ンチ ヤロ
lプは普迩なら︑さる緊張せる綜合の
方法に依って︑伎が基礎的のものぎ思った所
一九
五