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近世大和国における幕領皆石代納制の論理

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奈良教育大学学術リポジトリNEAR

近世大和国における幕領皆石代納制の論理

著者 本城 正徳

雑誌名 高円史学

巻 22

ページ 1‑27

発行年 2006‑10‑01

その他のタイトル The Rationale for Kaikokudainousei (皆石代納制 ) in the Early‑Modern Yamato Shogunal

Territories

URL http://hdl.handle.net/10105/8839

(2)

近世大和国における幕領皆石代納制の論理

は じ め に

本     城     正     徳

本稿は︑近世大和国幕領において採用された皆石代納制の論理︑当面︑制度の採用者である幕府側の論理を考察すること

を課題としている︒

筆者は別稿において大和国幕領皆石納制の制度的な成立・展開過程を検討し︑十七世紀後半の成立期から幕末期に至る大

くんなか

きな流れとして捉えた場合︑そこでは︑当初存在した吉野郡幕領・凶中幕領︵奈良盆地に位置する幕領︶ における制度上の

相違︵納入形式︑石代値段・仕法︶ の消滅=統一化︑六分米石代納部分に関する増銀の低下=三分一値段への接近・統一化

という二点の大きな変化を見出せること︑そして︑こうした変化の最大の画期︵制度上の画期︶が︑享保改革期の元文五

l I

︵一七四〇︶年の九分米銀納制︵一国幕領規模において統一された皆石代納制度の成立︶ にあることを明らかにした︒この

ような制度的な展開過程が︑制度を裏付ける論理︵採用する側の論理︶とその変化に対応していたことは明らかであろう︒

では︑その論理とはいかなるものであったのか︒本稿では︑以下四節にわたって考察を試みることとしたい︒まず第二即

(3)

では︑十七世紀後半の成立期皆石代納制の論理を考察し︑ついで第二・三節において︑元文五年以降成立をみる九分米銀納

制の論理を検討する︒そして︑第四節で論理の変化に注目し︑その特徴点をおさえた上で︑むすびにおいて︑前述の本稿の

課題に対する総括的な検討を行いたいと考える︒

一成立期の論理

大和国一国規模での幕領皆石代納制が制度的成立をみるのは延宝五︵一六七七︶年であるが︑この成立期︵十七世紀後半︶

における皆石代納制の論理を示す史料として注目されるのが︑貞享五︵一六八八︶年に大和国六郡︵添上・平群・山辺・城

︵ 2

上・宇智・吉野郡︶ の幕領から奈良代官に提出された次のような願書である︒

一去卯︵貞享四年!筆者註︶之御物成銀︑不残︑当五月切皆済可仕之旨︑被為仰付奉畏候︑併当国之儀︑国中之分︑三分

一銀・十分一大豆銀者︑其年之内上納仕候︑六分米之儀︑先年者︑奈良之町人江三分一御直段︒銀弐匁高︒御倍付被成︑

翌年極月切皆済仕候処︒︑十二年以前︵延宝四年〜筆者註︶鈴木三郎九郎様︵奈良代官−筆者註︶御支配之時分︑町人

中より御公儀様江ノ御訴訟申上︑其後百姓共江町人なミニ被為仰付候而︑前年之六分米代銀︑明ル年之十月霜月迄皆済

仕釆申候︑然処︒︑従当年五月切︒被召上候而ハ︑指当申候而上納可仕手立存寄無御座︑百姓難儀仕候間︑前々之通上

納仕候様︑奉願候御車

一書野郡之儀者︑失規より草を伐替申候両︑三分二米上納仕釆申候故︑前年之御物成代︑明ル六・七月迄︒皆済仕候︑依

之︑三分一御直段銀壱匁高︒上納仕候︑然上︑五月切︒被召上候而ハ︑何を以上納可仕存寄一円無御座候間︑如跡々之・

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七月迄二皆済仕候様︑奉願候御事

本史料は︑貞享四年分の年貢銀上納期限の変更令に対する幕領農民側の中止願というべきものだが︑別稿においてすでに

指摘したように︑①延宝四年の国中幕領における奈良町渡米制の廃止=六分米銀納制の成立が︑大和国幕領における一国幕

領皆石代納制成立の制度的画期をなしていることを明示している点︑②十七世紀後半期にあっては︑同じく大和国幕領であっ

ても︑国中幕領と吉野郡幕領とでは皆石代納の納入形式=名称と石代値段の決定方式に相違が存在することを示している点︑

において注目される︒そして︑皆石代納制の論理︑当面︑十七世紀後半の成立期における皆石代納制の論理という本稿の主

題に即してみた場合も︑本史料は注目すべき内容を有しているといってよい︒

まず注目されるのは︑成立期=十七世紀後半にあっては︑国中幕領と吉野郡幕領で︑皆石代納制成立の論理=制度として

の皆石代納制採用・実施の理由づけが異なっているという点である︒すなわち︑国中幕領にあっては︑従来の奈良町渡米制

が延宝四年に奈良町町人側の出願を受け入れる形で廃止され︑かわって六分米銀納制=皆石代納制が採用されること︑この

六分米銀納制下にあっては︑﹁町人なミ﹂という名目のもとに︑従来奈良町町人が負担していた渡米代銀は︑﹁三分一御直

段︒銀弐匁高﹂という水準のまま幕領農民に転嫁されていた事実が判明する︒その際重要なのは︑別稿で明らかにしたよう

に︑奈良町渡米は従来国中幕領の六分米︵米納分︶ の一定部分があてられていたにすぎないのに対して︑六分米銀納制下に

あっては︑六分米部分がまるごと銀納化されているという点であり︑しかもその際の石代値段の水準は三分一直段に二匁高

︵ 3

という渡米代銀の水準のままであるという点である︒すなわち︑国中幕領における六分米銀納制=皆石代納制の成立︵十分

一銀納・三分一銀納制はすでに十七世紀前半期より存在・実施︶とは︑三分一直段に二匁高という高水準のまま︑従来の六

分米︵米約分︶をまるごと銀納化させるものであり︑年貢増徴政策の実施に他ならないのである︒またその際︑これも別稿

(5)

で述べたように︑前述の奈良町町人による延宝四年の渡米廃止の出願の背景には︑渡米代銀値段の上昇=町人負担の増大と

いう都市問題が存在していたこと︑したがって渡米制の廃止すなわち皆石代納制の採用は︑幕府の新たな都市優遇政策︵奈

良町町人の代銀上納免除︶ の実施でもあったこと︑に留意しておきたい︒国中幕領における六分米銀納制の成立すなわち皆

石代納制の成立に際して看取しうる論理=幕府側の理由づけは︑まずは奈良町渡米制の廃止を通じての都市問題の解消であ

り︑より本質的には︑渡米制の制度的な置き換え ︵代替︶を名目とした︑国中幕領に対する年貢増徴=増銀つき石代納部分

拡大にあったということができる︒十七世紀後半の国中幕領にあっては︑米納︵六分米︶ の継続は十分可能であったにもか

かわらず︑主要には年貢増徴の論理に基づいて︑増銀につき石代納部分拡大策としての六分米銀納制=皆石代納制が成立し

た の

で あ

る ︒

一方それに対して︑吉野郡幕領における皆石代納制採用の論理はいかなるものであったのか︒右の引用史料によれば︑国

中幕領におけるほどには採用の論理は明確には述べられていないものの︑﹁吉野郡之儀者︑失規より草を伐替申候而︑三分

二米上納仕釆申候﹂という文言が注目される︒﹁先規より﹂という表現や史料全体の文脈から考えて︑吉野郡幕領での皆石

代納制の採用は︑国中幕領で六分米銀納制が実施された延宝五年以前にさかのぼると判断されるからであり︑また︑﹁草を

伐替申候而﹂という表現は︑こうした皆石代納制下の石代納銀が米販売という方法で調達されていなかったこと︑あるいは︑

米作自体が困難であった状況を示唆しているからである︒

事実︑天和二 ︵一六八二︶年に吉野郡の ﹁新蔵人四拾六ケ村惣代﹂から﹁京御奉行様﹂宛に出された願書によれば︑﹁吉

野郡新御蔵大村々ハ︑山中二而地所悪敷︑畑方多キ所二而御座候へハ︑先年御蔵入之時分︑又ハ御給所之時分も︑米方之納

所と申儀者無御座︑銀納︒被仰付﹂と記されている︒この四六力村は︑近世初期の慶長期〜元和四︵一六一八︶年までは他

(6)

の大半の吉野郡村々と同様に幕領であったが︑元和五年に郡山藩領に編入され︑延宝七︵一六七九︶年に至って再び幕領に

・ 1

・ .

なった村々である︒したがって︑右の願書にいう﹁先年御蔵入之時分﹂とは慶長期〜元和四年までの幕領期を︑また﹁御給

所之時分﹂とは元和五年〜延宝七年の郡山藩領期をさしており︑右の願書によれば︑この幕領・郡山藩領期を通じて︑年貢

は米納では納められず銀納︵したがって皆銀納︶ であったことが判明するのである︒吉野郡藩領における皆銀納制が慶長・

元和期にはすでに採用・成立していたことを示す史料として︑まずは注目しておきたい︒そして︑つぎに注目すべきは︑こ

の皆銀納制採用・成立の論理である︒すなわち︑右の願書では︑﹁銀納︒被仰付﹂れた理由が︑﹁山中二而地所悪敷︑畑方多

キ所二而御座候﹂ゆえであると明快に説明されているのである︒山間部で畑勝ちであるという村々の耕地立地条件=自然的

条件が︑皆石代納制採用の主要な条件であったことが判明しよう︒吉野郡幕領では︑近世初頭より皆石代納制が実施されて

いたが︑それは山間部で佃勝ちという自然的条件による米作困難︵産米不足︶・米納困難ゆえの皆石代納制の容認であった

と判断できるのである︒

﹃川上村史﹄や﹃東吉野村史﹄によれば︑十七世紀後半〜十八世紀前半頃までの吉野郡幕領村々では︑主として茶・漆・

椿の販売代銀をもって︑それ以降にあっては主として材木や紙の販売代銀によって︑皆石代納用の年貢銀を調達していたこ

l

とが︑当該期の史料に拠りつつ明らかにされており︑注目に値する︒前掲の貞享五年願書が示唆するように︑十七世紀後半

の吉野郡幕領にあっては︑皆石代納用の年貢銀は︑米以外の各種生産物販売によって獲得されたものとみられるのである︒

また︑その際の石代納値段をみると︑前掲の貞享五年願書が明示するように︑吉野郡幕領の六分米部分の石代値段は三分

一値段に一匁高の設定であり︑国中幕領の六分米部分の石代値段より一匁低い水準におさえられている︒延宝五年以降の国

中幕領にあってはより高い石代値段の設定とそれによる年貢増徴が実施されているにもかかわらず︑当該期の吉野郡幕領に

(7)

対して︑国中幕領の方式が適用されなかったのは︑やはり︑両地域における皆石代納制採用の理由=論理の差異によるもの

とみてよいであろう︒国中幕領より一匁低い三分二値段︵六分米石代値段︶ の設定は︑自然的条件︵山間部・畑勝ち︶とい

うやむをえない条件下での石代納の容認という事情が配慮されたがゆえであったと思われるし︑おそらくは︑延宝五年以前

からの ︵十七世紀初期以来の︶吉野郡幕領の方式であったと考えられるのである︒

ところで十七世紀後半期の大和国幕領皆石代納制の論理=採用の理由づけに関しては︑今一点注目すべき史料が存在する︒

大和国では元禄八︵ハ九五︶年に宇陀郡にあった松山藩織田氏領二万八千石余が上知され︑宇陀郡内ではじめての幕領が

設定されるが︑同年にこの新幕領を預かることになった代官から江戸の勘定所に提出された﹁御窺書﹂には︑次のように記

されているのである︒

和州宇陀領物成︑只今迄︑不残︑米納に仕釆候︑此内奥組拾五ケ村高五千百弐拾五石余所︑山方にて宇陀町への津出し悪

敷御座候故︑先年より百姓銀納願之宇陀町相場の石に付五分より一匁目までの増直段にて︑年々銀納仕︑其節米納の分︑

宇陀町弘に仕候由申候︑右宇陀領︑山中にて津出し遠く︑御蔵詰難成奉存候︑当該御物成より︑三分一銀・十分一大豆銀

納披仰付︑三分二米は︑国中並三分一直段に一匁高の積り︑銀納に可被仰付候哉︑奉窺候

それによれば︑これまで松山藩では部分的に石代納が行われたものの ︵奥組五千石余︶︑年貢は米納が基本であったこと︑

それにもかかわらず︑新任代官は元禄八年分より皆銀納制︵十分一大豆銀納・三分一銀納二二分二銀納︶を旧松山藩領全域

で実施することを伺い出ていること︑そして︑皆石代納制採用の論理を﹁右宇陀領︑山中にて津出し遠く︑御蔵語難成﹂ゆ

えと明示していること︑が判明しよう︒旧松山藩時代の米納年貢米が最終的にどのような形で消費ないし販売されたかは不

明だが︑新任代官たちは︑年貢米の蔵詰地︵具体的には京・大坂あるいは江戸の幕府蔵ということになろう︶までの津出し

(8)

の困難さを理由に︑皆石代納制を採用しようとしているのである︒より丁寧にみれば︑﹁山中にて津出し遠く︑御蔵詰難成﹂

という文言からは︑山中ゆえの年貢米の輸送︵陸上輸送︶自体の困難さと︑蔵語地までの長距離輸送の困難さという二重の

意味での津出し困難さが読みとれるように恩われる︒宇陀郡は︑吉野郡ほど急峻ではないが︑たしかに国中盆地の東部に位

置する山間部ではある︒旧松山藩時代にあっては米納が行われていたにもかかわらず ︵当然︑米作は可能︶︑ここでは山間

部という自然的条件が︑津出し困難=年貢米輸送問題という新たな理由づけを媒介として︑皆石代納制採用の論拠となって

いる点︑しかも︑当の幕府代官の言として明瞭に述べられている点を︑確認しておきたい︒宇陀郡の幕領では︑その成立当

初から自然的条件による津出し困難を論拠に皆石代納制が採用されていたのである︒

なお︑別稿で述べたように︑この代官の﹁御窺﹂はそのまま許可され︑元禄八年分から宇陀郡新幕領では﹁御窺﹂通りの

皆石代納制が実施されていることが確認される︒また︑その際の三分二米値段は国中幕領並に三分一値段に一匁高である︒

国中幕領の六分米部分の石代値段が三分一値段に二匁高の水準を維持しえたのは︑延宝五年〜元禄元︵一六八六︶年までで

あり︑翌元禄二年からは︑三分一値段に一匁高の設定に変化している︒元禄二年以降︑六分米部分の石代値段は国中幕領・

吉野郡幕領ともに事実上統一される訳であり︑同年以降の大和国幕領石代値段は事実上共通化されるのである︒

以上︑本部では︑①十七世紀後半の皆石代納制成立期の大和国幕領においては︑国中幕領と吉野郡・宇陀郡幕領とでは︑

皆石代納制採用の論理が異なること︑②延宝五年以降成立する国中幕領の皆石代納制は︑都市問題の解決策とセットになっ

た形で実施された増銀つき石代納部分の拡大策として登場したものであり︑年貢増徴の論理で裏付けられていること︑③吉

野郡幕領の皆石代納制は︑十七世紀初頭以来採用されているが︑その論理は︑山間部で畑勝ちという耕地立地条件=自然的

条件に起因する米作困難︵産米不足︶・米納困難という点に求められること︑④十七世紀末に成立をみる宇陀郡幕領では︑

(9)

同じく自然的条件に起因する皆石代納制の容認ではあるか︑津出し困難=年貢米輸送の困難︵山間部ゆえの輸送困難・蔵詰

地までの長距離輸送の困難︶という︑耕地立地条件ゆえの米作・米納困難とは別個の要因が︑皆石代納制の論理=理由づけ

として登場していること︑等を明らかにした︒

なお︑本節では︑国中幕領における領主=幕府側の皆石代納制採用の論理は指摘しているが︑こうした増徴政策の実施を

可能とする在地側の条件︑当面︑経済的条件・状況については︑述べていない︒十七世紀後半期の当該期史料で︑この点を

明示する史料を︑今のところ見出せないからである︒しかしながら︑後年の史料からは︑一定度の考察が可能であり︑この

点については︑次節でふれることとしたい︒

二 九分米銀納制の論理 ︵その

大和国幕領皆石代納制は︑前述のように元禄二 ︵一六八九︶年以降︑事実上石代値段と同決定方式の共通化・統一化が行

われる︒しかし石代納形式=名称︑とりわけ六分米部分の名称の吉野郡と国中幕領の使い分け=不統一はなお持続しており︑

一国幕領レベルでの制度的な統一化は︑元文五︵一七四〇︶年の改革によってなされている︒同年以降︑大和国幕領では十

− 9

分一大豆銀納・九分米銀納制という統一された皆石代納形式=名称と石代値段が適用されるのである︒

ではこの九分米銀納制を基軸とする皆石代納制は︑いかなる論理のもとに採用されたのか︒この点に関して︑まず注目し

たいのが︑天保九︵一八三八︶年の四月から七月にかけて大和国各地の幕領から支配代官に提出された江戸廻米令撤回願書

である︒この江戸廻米一件は︑同年四月に皆石代納制がとられていた大和国幕領に対して︑﹁皆石代納之場所たり共︑従来

(10)

之仕来りこ不抱︑当成年古都而米納之積り取斗︑一際御地米高相増候﹂ようにと︑皆米納化と江戸廻米の励行を幕府が命じ

︵ 1

0 ︶

たことからはじまる︒以降同年七月にかけて大和幕領村々から各支配代官宛に数次にわたって江戸廻米令の撤回が出願され

るのだが︑注目されるのは︑その願書の中で︑従来から行われている皆石代納制︑したがって元文五年以降成立し︑この天

保期にあっても存続している十分一大豆銀納・九分米銀納制に対する農民側の認識・理解が示されている点である︒この点

に関しては類似する表現でもって︑現在知られているいくつかの願書の中に登場する訳だが︑ここでは︑皆石代納制の論理

が比較的よく示されているという意味で︑以下の二点の史料を検討することとしたい︒まず一点目の史料は天保九年四月二

十五日付で﹁和州葛上郡御支配所村々惣代﹂から﹁大津御役所﹂に提出された願書であり︑当該する箇所を記号を付しっつ

.‖

整理して示すと次の通りである︒記述の順番は原史料の通りであり︑省略部分がある場合は︑︵略︶と記している︒

㈲当国之儀者︑一鉢用水不足之国︒而︑前キ古木綿作多分︒相仕付︑石綿代銀を以︑御年貢皆石代御上納仕︑米之儀者︑豊

熟之年柄︒而も︑出来立米︒而国中飯料米︒不足仕候故︑例年他国米買入︑飯料米取続仕候国柄︼御座候︑依之︑往古御吟

味之上︑御年貢本途・小物成・高掛り物共︑都而皆石代納之場所︒御座候

㈲別而当国︒者︑海者無御座︑川船之通路も稀成国二而︑諸荷物人足牛馬を以運送仕︑大坂・堺其外海辺江者︑違法近き場

所︒而十里︑夫△十五里弐拾里余も有之村キ多候而︑例年肥類諸荷物運送之駄賃多分︒相懸り︑夫故︑国中困窮仕候儀︑

是 迄

度 キ

御 歎

奉 申

上 候

御 儀

︒ 御

座 候

︑ 右

鉢 之

国 柄

︒ 御

座 候

放 ︑

沖 も

新 規

米 納

之 儀

者 ︑

御 請

難 中

上  

︵ 略

㈲当国御料所之内︑吉野・宇陀両郡者︑四方道法り弐拾里余も有之︑御料所御高七万石余御座候︑右両郡者︑極山中多分欄

勝︒両︑米作り立候場所無数︑平日材木伐出し山峠等︒而渡世仕候︵略︶飯料米多分入用之場所故︑平場村キ飯料余米之

分者︑右両郡へ売渡︑一国融通合を以相続仕来り候︵略︶

(11)

刷何分︑当御支配所村キ者︑飯料米之外余米無御座︑尚︑米津出し等難出来場所︒御座候間︵略︶往古有釆之通︑皆石代

納︒被為成下候様︑御取斗之程幾重︒も御歎車上候

ついで︑第二点目の史料は︑天保九年六月付で︑﹁和州卸支配所七郡村々﹂︵七郡とは葛上・葛下・平群・十市・式下・山

辺・添上郡︶ から﹁大津 石原清右衛門様﹂あてに出された願書でもあり︑同じく当該すると思われる箇所を記号を付しっ

1

つ 整 理 す る と 次 の 通 り で あ る ︒

廟当国之儀者︑一体用水不足之土地︒而早損強く︑年々歩通り相定︑木綿作多分︒相仕付︑右綿代銀ヲ以︑御年貢米皆石代

納︒仕釆候義︒付︑豊熟之年柄︒而も一ヶ国押平均候而者︑飯米不足致し候故︑最寄他国米買入取続罷在︑

的勿論大和国之義者︑四方こ高山を帯︑地高之国柄而︑渡海之運送無之︑挽︒紀州・河州江之川船有之候得共︑谷間之浅瀬

急流︒付︑少々宛之荷物者積下し候得共︑登り方ハ多分空船︒両︑米穀ヲ始︑肥類諸荷物共陸路運送いたし︑大坂・堺其 10

外海辺手近之場所江十里より十四・五里も有之︑牛馬歩行持之運送賃銭多分二栂懸り迫々困窮仕︑右之通り之国柄こ付︑−

往古より御取調之上︑御年貢を始︑都而皆石代銀納被仰付候場所︒而︵略︶

それらによれば︑皆石代納制の論理に関連して以下の三点が注目される︒すなわち︑その第一点とは︑右の㈲佃に明らか

なように︑皆石代納制採用の第一の理由として︑大和国一国規模での産米不足=飯米不足とそれゆえの米納困難︵この場合︑

江戸廻米の困難︶をあげている点である︒しかもその際注目されるのは︑こうした一国規模での産米不足・米納困難が︑自

然的条件を前提としつつも︑綿作=商品生産展開を一方の重要な条件とした形で説明されている点である︒すなわち回によ

れば︑大和国では︑﹁前さこβ木綿作多分︒相仕付﹂ ており︑その結果︑米作については︑豊年でも国内の産米のみでは一国

の飯米に不足し︑例年他国米を買入れている状況であり︑それゆえ﹁往古御吟味之上﹂年貢米はすべて﹁皆石代納之場所﹂

(12)

となったと記されているのである︒㈱に﹁用水不足之国こ而﹂とあるように用水不足あるいは早損勝ちといった自然的条件

が︑大和国において綿作が展開するひとつの前提条件であったことはまちがいないが︑綿作の展開はこうした自然的条件に

よってのみ決定されるものではないこと︑言い換えれば︑綿作の発展とは︑本質的には農業における商品生産の発展と把握

︵ 1

3 ︶

されるべきことは︑先行研究が指摘する通りである︒それら先行研究が明らかにしているように︑近世大和国では奈良盆地

︵国中地方︶中心に早くから綿作︑とりわけ田方綿作が発展しており︑延宝〜天和期にはすでに田方綿作率三〇〜四〇%を

示す村々が登場し︑元禄〜享保期を中心とするピーク時の盆地中南部では田方綿作率五〇〜七〇%の村々すら出現している︒

H

以降︑大和国の綿作率は後退局面に入るが︑幕末期に至るまで田方綿作を含む高い田方率は維持されているのである︒

㈲回の記述にみえる﹁木綿作多分︒相仕付﹂ の内容には︑明らかに相当規模の田方綿作が含まれているのであり︑それゆ

え﹁豊熟之年柄︒而も︑出来立米︒而国中飯料米︒不足仕﹂回という事態が発生していたのである︒用水不足という自然的条

件を前提としつつも︑田方=稲作生産にくいこむレベルでの綿作の展開によって一国規模での飯米が不足し︑恒常的に他国

︵ 1

5 ︶

米の購入に依存する状況になった訳である︒こうした状況下での綿作展開と皆石代納制との関係については︑﹁前さこβ木綿

作多分︒相仕付︑右綿代銀を以︑御年貢皆石代御上納仕﹂㈲︑﹁木綿作多分こ相仕付︑右綿代銀ヲ以︑御年貢米皆石代納二仕

来候﹂回という記述に明快であろう︒皆石代納用の銀は︑主要に綿販売代金によって調達されたと述べているのである︒

九分米銀納制下にあっては︑田方綿作を含む綿作=商品生産展開は明確に容認されており︑皆石代納制はこうした商品生

産展開に対する領主的対応としての亘粗制度と位置づけられ︑理解されている点に注目しておきたい︒

なお︑前提としての自然的条件という点にかかわって︑吉野・宇陀郡の記述に留意しておきたい︒すなわち︑回によれば︑

この吉野・宇陀郡について﹁右両郡者︑極山中多分畑勝︒両︑米作り立候場所無数﹂と両郡の自然的条件=耕地立地条件が

11

(13)

明記されているからである︒山間部で畑勝ちという自然的条件に起因する米作困難という説明は︑前節で明らかにしたよう

に︑すでに十七世紀段階における吉野郡幕領皆石代納制容認の論理として登場しているものである︒しかしながら︑この天

保期の願書においては︑こうした自然的条件ゆえの米作・米納困難は吉野郡独自の皆石代納制理由としては述べられておら

ず︑論旨としては︑両郡はこうした自然的条件ゆえに大量の飯米不足が発生しており︑それは﹁平場村キ飯料余米﹂ の販売

︵さらに他国米の購入︶ によって補填されるという展開になっている︒両郡の自然的条件が︑ここでは︑国中盆地における

綿作展開ゆえの産米不足と連動した形で︑一国規模での米穀流通・需給の枠組で捉え直され︑一国規模での産米=飯米不足

と米納困難︑それゆえの皆石代納制という皆石代納制採用の第一の理由づけ=論理の内に組み込まれている訳である︒

さて︑この天保期の願書から注目される第二点目は︑右の論理とは別の︑皆石代納制採用の第二の論理が登場している点

である︒すなわち︑天保九年六月付の七郡幕領からの願書によれば︑皆石代納制採用は㈱佃の二つの理由づけ=論理によっ

て説明されているのである︒㈱は前述の第一の理由づけであり︑それに続けて脚が併記される︒それによれば︑大和国は内

陸国であり︑河川交通にも恵まれず︑大坂・堺等の海岸部までは遠く﹁牛馬歩行持之運送賃銭多分︒相懸﹂る状況にあるこ

と︑﹁右之通り之国柄﹂ であるので︑﹁往古より御取調之上﹂︑﹁都而皆石代銀納﹂となったというのである︒ここでは︑前述

の第一の理由づけと併記する形で︑大和国一国規模での自然的条件に起因する輸送の困難さ︑すなわち年貢米の津出し困難

という問題が皆石代納制採用の論理として登場している訳である︒この自然的条件による津出し困難という論理は︑前節で

みたようにすでに十七世紀段階で登場している論理である︒そして十七世紀段階との対比でいえば︑十七世紀末には宇陀郡

幕領の皆石代納制の理由づけであったものが︑ここでは大和国一国規模での幕領皆石代納制の理由づけとなっていることに

注目しておきたい︒また︑この天保期の願書にあっては︑自然的条件ゆえの津出し困難は絶対的な困難としてではなく︑輸

12

(14)

送経費の問題︵より正しくは陸上輸送経費の問題︶として把握されている点についても︑留意しておきたい︒

この第二の理由づけ=論理は︑天保九年六月付の七郡幕領願書において︑より明快な形で登場するが︑天保九年四月付の

願書にあっても︑ある程度跡づけることができる︒すなわち天保九年四月付の願書にあっても︑大和国一国規模での自然的

条件に起因する年貢米輸送の困難さば︑㈲の記述に登場する︒ただし︑この㈲の記述では︑こうした困難さゆえに新規の米

納−=江戸廻米は無理という論旨が展開されている︒この天保九年四月付の原書では︑廟で︑前述の綿作展開を一方の条件と

する一国規模での産米=飯米不足と米納困難が皆石代納制の理由づけとして登場し︑㈲では︑自然的条件に起因する津出し

困難が江戸廻米困難の理由づけとして登場している訳である︒しかし︑この願書にあっても︑刷では︑﹁飯料米之外余米無

御座︑尚︑米津出し等難出来場所︒御座候間︵略︶往古有来之通︑皆石代納︒披為成下候様﹂とあ︒︑﹁当御支配所村モ﹂を一

主語とする形ではあるが︑産米=飯米不足問題と津出し困難という二つの問題が︑皆石代納制と関連づけて理解されている 13

ことが知られるのである︒なお︑㈲に登場する自然的条件による年貢米輸送の困難さについても︑絶対的な困難さではなく︑

﹁運送之駄賃多分︒相懸り﹂という輸送経費の問題として把握されている点に︑注目しておきたい︒

さて︑天保期願書について第三に注目すべき点は︑以上述べた二つの皆石代納制の理由づけ=論理が︑単に幕領農民側の

理解・認識としてのみであるのではなく︑幕府側の了解すなわち皆石代納制の採用理由であると明瞭に説明されている点で

ある︒すなわち︑回では︑第一の論理=理由づけ ︵自然的条件を前提としつつも︑綿作=商品生産展開を一方の重要な条件

とする一国規模での産米=飯米不足とそれゆえの米納困難︶をあげて︑﹁依之︑往古御吟味之上︑御年貢本途・小物成・高

掛り物共︑都而皆石代納之場所︒御座候﹂と記すのである︒また︑㈱価では︑この第一の論理を回で述べ︑ついで刷で第二

の論理=理由づけ︵一国規模での自然的条件に起因する津出し困難=年貢米輸送の困難︶をあげて︑﹁右之通り之国柄l一付︑

(15)

往古より御取調之上︑御年貢を始︑都両皆石代銀納被仰付候場所︒而﹂と説明しているのである︒それらによれば︑そもそ

も大和国幕領の皆石代納制は︑﹁往古﹂に幕府側の ﹁御吟味﹂﹁御取調﹂ の結果︑採用されたものであり︑その際の理由づけ

が︑上述の二点にあったということになろう︒﹁往古﹂がいつの時点を意味するか議論の余地があるが︑とりあえずはこの

天保期に実施されていた九分米銀納制・十分一大豆銀納制の採用時期︑すなわち享保改革末期の元文五年を意味している点

は︑まずまちがいないであろう︒元文五年以降採用された九分米銀納制を軸とする大和国幕領の統一化された皆石代納制の

採用理由は︑右に述べた二つの論理に基づくものであったと︑一応理解しておくことができるのである︒この点は︑この天

保期の米納=江戸廻米令が︑ここで述べているような幕領農民側の反対運動をうけて︑結局は一度も実施にうつされず︑撤

︵ 1

6 ︶

回されているという事実によっても︑かなりの程度裏付けることができるように思われる︒本節で指摘したような大和国幕

領の皆石代納制の採用理由をふくむ農民側の主張の正当性を︑基本的には幕府側も受け入れざるをえず︑皆石代納制の存続 14

を認める以上︑新規の米納や江戸廻米令は撤回せざるをえなかったと判断されるからである︒この天保期の願書には︑確か−

に誇張した表現もみられるのだが︑江戸廻米反対の主張の軸にすえられた現行︵天保期︶ の皆石代納制の維持および採用理

由の主張の基本線に関しては︑幕府側も納得せざるをえない︑つまりはかつて幕府当局自身が幕領農民側に提示した事柄を︑

今度はそのまま幕府側に提示し返した可能性が高いと考えられるのである︒

以上︑三点の指摘を行ったわけだが︑ここで改めて考えてみたいのが綿作展開と皆石代納制の関連についてである︒とい

うのも︑本節でもすでにふれた通り︑先行研究によれば︑大和国の綿作︑とりわけ田方綿作は十七世紀後半にはすでにかな

りの水準で展開しており︑その最盛期は元禄〜享保期頃にあったからである︒この事実は︑皆石代納制と綿作展開の関連が

九分米銀納制実施期である元文五年︵ないしそれ以降︶ に固有の問題としてあるのではなく︑むしろそれ以前の時期︑本稿

(16)

の問題関心に即していえば︑国中幕領における六分米銀納制の成立期︵十七世紀後半︶ の問題としてもあったことを示唆し

ているからである︒前節でふれた通り延宝五︵一六七七︶年の六分米銀納制は増銀つき石代納拡大という幕領年貢増徴策と

して実施されたが︑こうした増徴政策の実施と︑それを可能としたあるいは対応した在地側の条件=経済的条件との関連を︑

直接的に明示する当該期史料は︑今のところ明らかではない︒この点︑本節で検討した天保期願書の記述と︑そこで示され

た皆石代納採用の論理は注目に値するように患われる︒先行研究が明らかにしている諸事実から判断して︑この時期におけ

る国中幕領の綿作とりわけ田方綿作発展が︑石代納拡大という形での増徴政策実施を可能ならしめた重要な在地側の条件で

あった可能性が高いと思われるからである︒そしてこのように理解することができるとすれば︑国中幕領における十七世紀

後半の六分米銀納制=皆石代納制の制度的成立とは︑綿作=商品生産発展の明確な容認を前提とした︑領主的対応としての

︵ 1

7 ︶

貢租制度という側面を有するものであったと考えられる点を指摘しておきたい︒

なお︑十七世紀後半よりは少し下るものではあるが︑幕領皆石代納制と綿作発展の関連を示唆ないし傍証する史料を一言州

示しておきたい︒その第一の史料は︑宝永六︵一七〇九︶年に石原新左衛門・万年長十郎・平岡彦兵衛・桜井孫兵衛・能勢

︵マ7こ

又太郎の六代官所支配下の五郡︵式下・高市・十市・芋多・葛上郡︶幕領村々から﹁和川村々惣百姓共﹂として提出された

願書にみえる﹁和州百姓之儀︑古来木綿作始候節︑肥シ少︒而木綿宜出来仕候︒付︑御成ケも御高免︒御座候所︑木綿作年久

1 8

敷仕候︒付︑段々弥地.一罷成︑肥シ大分入増候而︑年々之様︒不熱︑迷惑仕候﹂という記述である︒それによれば︑少なくと

も十七世紀後半にさかのぼる国中幕領村々の綿作発展状況と︑それゆえの﹁御高免﹂政策の存在が判明しよう︒ここでは綿

作発展に対応した年貢率の引上政策が指摘されるのみであるが︑十七世紀後半幕領貢租政策が明らかに在地における綿作

発展とその高収益性に着目した形で構想されていることを示しており︑この点注目される︒

15

(17)

紹介しておきたい第二の史料は︑享保十五 ︵一七三〇︶年分の幕領平群郡南畑村の年貢皆済目録の記述である︒それによ

れば︑同村では享保十五年の米方銀納︵六分米銀納︶ の八九・八%を占める︑二三石九斗が本来の六分米銀納値段一石当り

三九匁より格段に安い一石当り十九匁五分で銀納されているが︑この理由が︑﹁是ハ︑去戌年風早栂雨腐こ而︑綿不熟︑直

︵ 1

9 ︶

段も前より下直二有之及難儀候︑右直段を以︑御救披仰候︑如此﹂というものであった︒それによれば︑同年の南柏村の具

体的な綿作状況は不明なものの︑当時実施されていた国中幕領の六分米銀納制と綿作の生育状況を領主側が明快に認識︑か

つ配慮しており︑この点注目に値する︒また︑この年の南畑村の事例では﹁綿不熱﹂を理由する六分米銀納部分の安石代実

施の量的な割合が︑六分米部分の九割という圧倒的な比率を示しており︑この点でも注目される︒

以上︑本節では︑天保期の幕領農民願書を分析し︑その結果︑①元文五年以降成立する皆石代納制=十分一大豆銀納・九

分米銀納制採用の論理=理由づけとして︑第一に自然的条件を前提としつつも︑綿作=商品生産展開を一方の重要な条件と 16

する一国規模での産米=飯米不足とそれゆえの米納困難が︑第二に︑一国規模での自然的条件に起因する年貢米輸送=津出−

し困難を指摘しうること︑②これら二つの論理は︑単に農民制の理解・認識としてあるのではなく︑幕府側の採用理由︑当

面︑元文五年の九分米銀納制採用の際の論理=理由づけであったと判断されること︑③国中幕領における綿作とりわけ田方

綿作の発展はすでに十七世紀後半に認められ︑こうした状況が︑延宝五年に国中幕領に対して六分米銀納制=増銀つき石代

納拡大策の実施を可能ならしめた在地側の重要な経済的条件であったとみられること︑等を指摘した︒

(18)

三   九 分 米 銀 納 制 の 論 理  

︵ そ の 二

元文五年に成立する九分米銀納制を軸にする皆石代納制に関しては︑幕府の財政経済史料として著名な﹃吹塵録﹄の第二

十六冊﹁徳川氏之部二﹂所収﹁石盛其外地方諸規則﹂の﹁十一関東弐石五斗代︑上方三分一・三分二銀納・九分米値段十

︵ 皿 ︶

分大豆之事﹂に︑次のような注目すべき記述のあることが知られる︒﹃吹塵録﹄は明治二十︵一八八七︶年の成立であるが︑

幕府の財政経済史料集として貴重な内容を含み︑以下の記述も︑大和国の皆石代納制に関する幕府側の認識ないし見解を明

示するものとして注目される︒

︵略︶三分一直段ハ︑上方ハ総而田畑共に米取り之定方也︑夫故︑総取米を十ヲト見︑一分ハ大豆を為納︑此分石代︒而

取立る︵略︶残り九分を三ツこして︑三分二を御廻米として︑三分一を石代銀納︒する也︑三分二直段二者︑此分正米可 17

納処︑国二寄是をも石代にて納︑依之︑三分一直段よりハ高く︑九分米ハ大和国二限る︑是者︑元来米少く︑其上︑津出−

し不自由なる所放︑正米無之︑十分一大豆金納いたし︑残九分米之分︑不残石代︒而納る直段也︵略︶

それによれば︑大和国の皆石代納制=九分米銀納制の論理に関連して以下の三点が指摘できる︒その第一点は︑﹁九分米﹂

銀納制採用は﹁大和国二限る﹂と明記した上で︑その論理=理由づけを︑﹁是者︑元来米少く︑其上︑津出し不自由なる所

故﹂と明快に述べている点である︒﹁正米無之﹂ともあり︑大和国の九分米銀納制は︑一国規模での産米不足︵とそれゆえ

の米納困難︶︑および津出し困難ゆえに採用されたというのである︒この二つの要因︵問題︶ の指摘そのものは︑前節でみ

た天保期願書での記述と見事に一致し︑その点に注目に値する︒

しかしながら︑第二に︑右の﹃吹塵録﹄の記述では︑こうした一国規模での産米不足︵米納困難︶や津出し困難という要

(19)

困︵問題︶ が︑どのような条件によって生じているのかという点についてはあまり明確ではないという点を指摘しておく必

要がある︒一国規模での産米不足と津出し困難を一括的に説明している点︑また﹁是者︑元来米少く﹂ともとからある︵あっ

た︶状況ないし条件を示唆している点から判断して︑一応︑大和国一国にかかわる自然的条件︵内陸国であり︑全体として

︵ 2

1 ︑

みれば平野部の少ない山国︶をより重視した理解=論理であることは︑まずまちがいないように思われる︒しかし︑綿作=

商品生産展開とそれゆえの一国規模での米不足状況を否定しているかといえば︑そうとも断言Lがたい︒前節で行った天保

期願書の考察をふまえた場合︑一国規模での米不足状況発生が︑商品生産展開を一方の重要な条件とする形で生じていた事

実を幕府が認識していた可能性は十分にあると患われるからである︒ここでは︑﹃吹塵録﹄ の記述にあっても︑一国規模で

の産米不足=米納困難と津出し困難という︑九分米銀納制のいわば表面的な要因=理由づけでは天保期の願書と共通した指一

楠が認められること︑その条件については︑不明確さを残すが︑大和国一国にかかわる自然的条件がより重視されていると 18

判断できること︑を確認しておきたい︒

さて︑第三に指摘しうるのは︑大和国九分米銀納制=皆石代納制の特異性︑当面︑上方︵畿内︶幕領レベルでの特異性

︵特別扱い︶という点である︒すなわち︑右の引用文によれば︑﹁九分米ハ大和国二限る﹂とある中味の記述として︑他の上

方︵畿内︶幕領では︑十分一大豆銀納・三分一銀納・三分二米納︵六分方米納︶が一般的であること︑三分二米納部分を石

代納にすることも国によってはあるが︑これは本来は﹁正米可納処﹂を石代納にするのであるから︑その石代値段は﹁三分

一直段よりハ高く﹂設定されるとある︒これらの諸点は︑従来の畿内幕領石代納研究によっても確認されているところであ

り︑三分二米納︵六分方米納︶部分の石代納化=原石代は享保改革期に制度的に整備され︑願石代の一石当りの石代値段は

︵ 2

三分一値段に五匁高に設定されていたことが明らかにされている︒それに対して︑大和国幕領にあっては︑第一に三分二米

(20)

︵六分米︶部分が三分一銀納と合体する形で︑九分米銀納制として制度化され︑恒常的に石代納化されている点において︑

また第二にその際の三分二米︵六分米︶値段が︑他の畿内幕領の願石代納値段=三分二米値段︵一石当り三分一値段に五匁

高︶ よりは安く設定されている点において︑畿内幕領石代納制度のなかでは特異な位置をしめているのである︒右の引用文

からも明らかに読みとれるように︑大和国の ﹁九分米﹂値段は﹁三分一直段よりハ高く﹂設定されてはいない︒別稿ですで

に明らかにした通り︑元文五年に成立する九分米銀納制にあっては︑九分米値段は三分一値段と同一に設定されており︑大

和国幕領で元文四年以前に存在した二系統の石代値段仕法︵三分一銀納部分は三分一値段︑三分二銀納部分は三分一値段に

︵ 器

一匁高という仕法︶ のうち︑明らかに安値段仕法の方が継承されているのである︒

以上︑①﹃吹塵録﹄ の記述においても︑表面的な理由づけにとどまるとはいえ︑前節で検討した天保期願書と同様に︑大

和国一国規模での産米不足=米納困難と津出し困難が︑九分米銀納制=皆石代納制の採用理由としてあげられていること︑

②﹃吹塵録﹄では︑これら二つの理由が︑皆石代納制の採用だけではなく︑九分米銀納値段が︑そのほかの上方︵畿内︶幕

領の三分二値段よりも安値に設定されている理由としても説明されていることを指摘した︒また︑﹃吹塵録﹄の記述では︑

①で述べた二つの理由が生じる条件については不明確さを残すが︑内陸国であり山国であるという大和国一国にかかわる自

然的条件がより重視されていると判断されることを述べた︒

19

四 論理の変化とその特徴

以上︑三節にわたって成立期と九分米銀納制以降の二つの時期に関する皆石代納制の論理を考察してきた︒その結果をよ

(21)

り大きな視野から捉え直した場合︑成立期から九分米銀納制段階に至る皆石代納制の論理には明確な変化が認められる︒そ

の変化を整理すれば︑当面︑以下の三点となるように思われる︒

まずその第一点は︑特定地域に対する地域的な論理の一国規模論理への拡大︵格上げ︶という点である︒この点は︑自然

的条件に起因する津出し困難という論理=理由づけに最も典型的であろう︒この論理は︑成立期には宇陀郡幕領における皆

石代納採用理由として登場しているが︑それが九分米銀納制下にあっては︑一国規模における論理として︑いわば格上げさ

れた形で再登場してくる訳である︒その条件の理解の仕方には相違が認められるものの︑もう一方の理由づけである産米不

足=米納困難についても︑状況は同様であり︑成立期には吉野郡皆石代納制の理由として登場していたものが︑九分米銀納

制下にあっては︑大和国一国規模での産米不足=米納困難という説明に拡大ないし︑格上げされているのである︒

ついで変化の第二点は︑以上のような理由づけの地域的な拡大=格上げが︑全体としていえば︑明らかに自然的条件重視

の論理︑この場合︑一国規模にかかわる自然的条件重視の論理へと︑よりシフトしているしているという点である︒すなわ

ち︑まず津出し困難という理由づけについては︑成立期は宇陀郡の自然的条件に起因する問題であったものが︑九分米銀納

制段階にあっては︑内陸国であり山国であるという大和国一国にかかわる自然的条件に起因する問題になっている︒九分米

銀納制下にあっては︑絶対的困難ではなく輸送経費の問題であると明記している点は注目に値するものの︑この輸送経費問

題としての津出し困難も︑結局は︑大和国の立地条件=自然的条件の特異性を認めている点には変わりがないといえよう︒

一方︑産米不足=米納困難については︑九分米銀納制段階では︑成立期の吉野郡のような単純な自然的条件起因論にはなっ

ていない︒しかし︑確かに一方における商品生産展開ゆえの産米不足を指摘してはいるものの︑一国全体としていえば︑用

水不足や吉野・宇陀郡等の広域の山間部の存在といった自然的条件がもう一方の重要な条件となっている点を確認しておか

20

(22)

ねばならない︒すなわち︑九分米銀納制の二つの理由づけ ︵津出し困難︑産米不足=米納困難︶ は︑全体としてみた場合︑

主要には大和国一国規模に関する自然的条件︑さらにいえばその特異性に起因するものとして理解されているのである︒幕

府は︑おそらくはこうした理解=論理にもとづいて︑元文五︵一五四〇︶年に大和国幕領全体に九分米銀納制を実施=採用

したものと思われる︒

さて︑論理の変化の第三点として指摘しうるのが︑成立期にみられた年貢増徴の論理の後退ないし縮小という点であり︑

この点とすでに指摘した第一・二点との関連についてである︒まず増徴の論理の後退・縮小については︑国中幕領の石代値

段にもっとも典型的に表われているといってよい︒すなわち︑既述のように︑国中幕領にあっては︑延宝五︵一六七七︶年

の六分米銀納制成立当初にあっては︑三分一値段に二匁高に設定されていた六分米銀納値段が︑元禄二 ︵一六八九︶年には

三分一値段に一匁高に引下げられ︑元文五年の九分米銀納制下にあっては︑六分米銀納が九分米銀納に統合・吸収されるな

かで︑九分米銀納値段は三分一銀納値段と同一となり︑増銀そのものが廃止されているのである︒吉野郡幕領にあっても︑

六分米部分の石代直段︵吉野郡では三分二銀納値段︶ は︑十七世紀後半以来︑三分一銀納値段に一匁高であったものが︑元

文五年の九分米銀納制以降は国中幕領と同じく三分一値段と同一︵増銀なし︶となっているのである︒

そして︑注目したいのは︑こうした成立期には皆石代納制採用の一方おける主要な柱=論理であった年責増徴の後退・縮

小状況と︑前述の第一・第二の指摘点は︑おそらくは密接に関連していると考えられる点である︒すなわち︑国中幕領に典

型的にみられるように年貢増徴の論理入れ替わる形で︑主要に一国規模での自然的条件をより重視した論理が登場してくる

事実に注目しておきたいのである︒成立期から享保改革期にかけての皆石代納制の論理には︑大きくいって︑年貢増徴の重

視︵あるいは一方の柱として重視︶から︑一国規模での自然的条件重視へという転換が認められるように恩われる︒享保改

21

(23)

革期に成立する九分米銀納制には︑主要に一国規模での自然的条件に起因する︑いわばやむをえない皆石代納制であり︑そ

︵ 飢

れゆえ︵あるいはその分︶増銀=年貢増徴はさしひかえるという考え方が︑看取できるように思われるのである︒

む   す   ぴ

以上︑四節にわたる考察を近世大和国幕領における皆石代納制の論理という本稿の主題に即して︑改めて総括すれば︑以

下の三点に整理することができる︒

まずその第一点は︑十七世紀後半の大和国幕領皆石代納制成立期にあっては︑一国規模の統一的な皆石代納制採用の論理

は存在せず︑国中幕領︑吉野郡幕領︑宇陀郡幕領において︑それぞれに異なった論理がとられていたという点である ︵もっ

とも︑吉野二千陀両郡については自然的条件に起因するという点では共通している点に留意︶︒すなわち︑吉野郡幕領にあっ

ては︑皆石代納制はすでに十七世紀初頭以来採用されており︑その論理は︑山間部で畑勝ちという耕地立地条件=自然的条

件に起因する米作困難=産米不足・米納困難という点に求められた︒また十七世紀末に幕領が成立する宇陀郡にあっては︑

自然的条件に起因する津出し観難︵山間部ゆえの輸送困難・蔵語地までの長距離輸送の困難︶が︑当初よりの皆石代納制採

用の理由づけ=論理であった︒それらに対して︑延宝五︵一六七七︶年の六分米銀納制の採用をもって成立する国中幕領に

おける皆石代納制は︑都市問題の解決策とセットになった形で実施された増銀つき石代納部分の拡大策として登場しており︑

明らかに年貢増徴の論理で裏付られていた︒そして︑この時期の国中幕領に対して︑六分米銀納=増銀つき石代納拡大策の

実施を可能ならしめた在地側の重要な経済的条件として︑国中幕領における綿作とりわけ田方綿作の発展が指摘しうること︑

22

(24)

この意味において︑国中幕領における皆石代納制の成立は︑商品生産発展に対する領主的対応としての側面を有するもので

あったことを指摘した︒

ついで第二点として︑元文五︵一七四〇︶年に成立し︑幕末期まで持続される九分米銀納制にについては︑まずその採用

の表面的な理由づけとして︑大和国一国規模での二つの理由づけ︵産米不足=米納困難と津出し困難︶ が登場することを指

摘した︒そして︑このうち一国規模での産米不足=米納困難については︑一方の重要な条件として商品生産展開が組み込ま

れている点︵商品生産発展に対する明確な容認とその領主的対応としての貢租制度という側面の持続︶を指摘した︒しかし︑

二つの表面的理由づけの条件を全体としてみた場合︑内陸国であり山国であるといった大和国一国規模での自然的条件のあ

り方が︑より重視されていることを指摘した︒そして︑以上のような一国規模での自然的条件をより重視した論理は︑享保

改革期元文五年の九分米銀納制採用時の論理であると考えられる点を述べた︒

ついで第三点として︑成立期から九分米銀納制段階に至るまでの皆石代納制の論理の変化に着目し︑特徴的な変化として︑

①地域的な論理=理由づけの︑一国規模論理への拡大=格上げ︵産米不足=米納困難︑津出し困難の二つの理由づけに共通︶︑

②このような理由づけの地域的拡大=格上げが︑全体としてみた場合︑主要には大和国一国規模にかかわる自然的条件︑お

よびその特異性に起因するものとして理解されるようになっている点︑③成立期皆石代納制の重要な柱をなした年貢増徴の

論理は︑これらの①②の変化と対応する形で相対的に後退・縮小している点︑言いかえれば︑成立期から享保改革期にかけ

ての皆石代納制の論理には︑年貢増徴重視から一国規模での自然的条件重視へという転換が認められること︑を指摘した︒

大和国幕領皆石代納制の制度的な展開過程を裏付ける幕府側の論理とはいかなるものかという本稿の課題は︑以上の三点

に総括しうる考察によって︑一応明らかにしえたと考える︒十七世紀後半に成立をみる大和国幕領皆石代納制は︑成立期に

23

(25)

あっては制度的には一国幕領規模では不統一であり︑それは︑皆石代納制を裏付ける=採用する論理が国中︑吉野郡といっ

た地域ごとに異なっていた事実に拠ること︑それが最終的には享保改革末期の元文五年に至って九分米銀納制という形で制

度的に統一されるのだが︑それは︑大和国一国規模にかかわる統一された新たな論理の登場に拠っていることを確認してお

き た

い ︒

しかしながら︑なお残された課題は多い︒たとえば︑大和国の九分米銀納制は︑第三節で述べたように︑幕府当局者側に

よって︑畿内︵上方︶幕領皆石代納制のなかにあっても特異な ︵特別な︶制度として位置づけられていたことが判明してい

る︒この制度としての特異性は︑一応は︑本稿で明らかにした九分米銀納制の論理︑とりわけこの場合︑一国規模にかかわ

る自然的条件とその特異性の重視という点から説明は可能である︒しかし︑では何故︑享保改革末期の時点で︑こうした一一

国規模での自然的条件重視の論理がもち出されたのか︑幕府当局者側の認めるところとなったのかについては︑なお不明と 24

いわざるをえない︒大和国一国にかかわる自然的条件は︑客観的にいえば︑近世初期あるいは十七世紀後半期も︑享保改革

末期も大差はなかったと考えられるからである︒おそらく︑こうした問題を明らかにするには︑享保改革︑当面︑享保改革

期における貢租政策展開の全般的な再検討作業と︑そのなかでの大和国皆石代納制=九分米銀納制の位置づけ作業が必要で

あると思われる︒今後に残された具体的な課題として︑これらを指摘し︑本稿のむすびとしたい︒

(26)

﹇ 註 ﹈

︵1︶﹁近世大和国における一国幕領皆石代納制の成立と奈良町渡米制﹂︵﹃高円史学﹄第十八号︑二〇〇二年︶︑﹁近世大和国幕領における

皆石代納制の展開過程﹂︵﹃高円史学﹄第二一号︑二〇〇五年︶︒

︵2︶﹃新訂大宇陀町史﹄史料編第二巻近世下︑四四四〜四四五頁︒

︵3︶註︵1︶前掲﹃高円史学﹄第十八号掲載拙稿︒

︵4︶﹃新訂大宇陀町史﹄史料編第二巻近世下︑四四二貢︒

︵5︶﹃日本歴史地名大系30 奈良県の地名﹄︑八一二〜八一三貢︵平凡社︑一九八一年︶︑﹃新訂大宇陀町史﹄︑三〇四〜三一〇貢︒

︵6︶﹃川上村史﹄通史編︑九三〜九五頁︑﹃東吉野村史﹄通史編︑二〇〜二二頁︵ともに谷山正道氏稿︶︒

︵7︶﹃奈良県宇陀郡史料﹄︑一二〇頁︒なお︑註︵5︶前掲﹃奈良県の地名﹄︑七五〇貢参照︒

︵8︶註︵1︶前掲﹃高円史学﹄第二一号掲載拙稿︒

︵9︶註︵1︶前掲﹃高円史学﹄第二一号掲載拙稿︒

︵1

0︶

﹃香

芝町

史﹄

史料

編︑

五八

一頁

︵11︶森村家所蔵文書﹁米納御歎訴﹂︑橿原市立図書館架蔵写真版︵写真本︶ に拠る︒

︵12︶﹃新訂王寺町史﹄資料編︑二九〇貢︒なお︑大和国渚幕領から天保四年に提出された江戸廻米令撤回願書は︑﹃斑鳩町史﹄史料編

五六一〜五七二貢︑﹃改訂大和高田市史﹄史料編︑八一三〜八一七貢︑﹃続今井町近世文書﹄︑二〇九〜二一二貢等にも収録されている︒

︵13︶大和国綿作に関する先行研究は多いが︑ここでは︑現在の研究水準を示す代表的研究として︑谷山正道﹁近世大和における綿作・

綿加工業の展開﹂︵﹃広島大学文学部紀要﹄第四三号︑一九八三年︶をあげておく︒

25

(27)

︵u︶註︵13︶前掲谷山論文に拠る︒

︵15︶近世中期以降の大和国における一国規模での飯米不足や他国米の飯米購入の問題を考える場合︑綿作農民による飯米購入という類

型のほかに綿業を軸とした在方商工業の発展を背景とした非農業者的下層民による飯米購入という今ひとつ類型を考慮しておく必

要がある ︵この点︑拙著﹃幕藩制社会の展開と米穀市場﹄︵大阪大学出版会︑一九九四年︶を参照されたい︶︒こうした新たな農村

部飯米消費市場の展開は国中地域において顕著であったとみられるが︑大和国の場合︑本文でも述べるように︑吉野郡に代表され

る山間部地域ゆえの飯米需要展開という︑その他の畿内諸国とは異なった条件が加わる点に留意しておきたい︒

︵16︶ ﹃斑鳩町史﹄本文編︑五〇〇〜五〇二頁︒﹃新訂王寺町史﹄資料編︑二九三頁に収録された天保九年十月十日付の ﹁和州七郡村々惣

代共﹂から﹁大津卸役所様﹂あて提出の請証文によれば︑﹁当年之儀者︵略︶米納之儀者︑御差止之積︒相成候間︑其旨可相心得旨︑

被仰渡候趣︑難有承知仕候﹂と明記されていることが知られる︒

︵17︶谷山正道氏は︑自治体史の叙述においてではあるが︑十七世紀後半の国中幕領における皆石代納制への移行は︑綿作に代表される

商業的農業発展に対する領主側の対応=石代納を通じての収奪強化であるとの明快な理解を示されており︑この点︑注目される

︵﹃田原本町史﹄本文編三一六五︑﹃斑鳩町史﹄四二四・四二九頁︶︒もっとも︑すでに別稿で明らかにした通り︑大和国を含む畿内

幕領にあっては︑十七世紀後半には綿作とりわけ田方綿作は︑幕府によってすでに容認される存在となっていた ︵﹁近世幕府農政と

﹃勝手作﹄﹂︑﹃日本史研究﹄四八二号︑二〇〇二年︶︒ただし︑その容認は︑近世貢税体系=石高制のもとに組み込まれた形での容認

であり︑十七世紀後半における国中幕領したがって大和国幕領における皆石代納制の成立とは︑こうした石高制のもとへの組み込

まれ方の︑大和国バージョンであったと理解することができるように思われる︒

︵18︶﹃新訂大宇陀町史﹄史料編第二巻︑四四六〜四四八亘︒

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参照

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