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真宗研究14号 003〓 温麿「真宗に於ける布教と今後の課題についての一考察」

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Academic year: 2021

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真 宗 に 於 け る 布 教 と 今 後 の 課 題 に つ い て の 一 考 察

真宗に於ける布教と

今後の課題についての

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準 麿

私は若くして父を失い自動的に高田涯一末寺の住職となって既に二十年以上の年月を過してしまいました。この間 自 分 自 身 、 一 体 何 を ど の よ う に な す べ き か 。 一体何をしてきたというのであろうか、という疑問をもちつつ、今なお その疑問は解消されないまま持ち続けている問題でもあります。それは真宗の寺院に生活する者の一生活内容が如何に あるべきかという自分自身への問いかけと同時に、 日々の寺務を行いつつ特に過去の寺院生活への疑問であり、今後 のあり方に対する模索の一端を出ないものであります。その点で現今宗教教化学とか真宗教化学といわれる学聞が問 題とされ、研究がその緒につこうとしていることは私にとって大いに注目すべきことだと感じている次第であります。 いつもそうでありますように真宗に於いて一番大きい信仰という問題にかかわって教化活動とか布教という点でよ く云われる言葉に﹁自信教入信﹂ ﹁ 非 僧 非 俗 ﹂ ﹁同行同朋﹂という言葉があり、特にその中の﹁自信教人信﹂という 言葉が中心になろうかと思うのであります。真宗に於ける﹁自信教人信﹂の関係を時間的前後から考えたり、自信と いう確固たる固定した信仰内容であるべきものとして、その後に教人信という立場があるという考え方でなくて自信

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のよろこびが他をして同時に同じき信のよろこびを生み味わうというべき意識、所謂同行同朋としての意識を持たし めることになるのであって、真宗に於ける信仰生活そのものが自信と教人信とを分つものでは決してないように思う のであります。真宗にあっては念仏生活ということがそのものの全体を含んでいると考えるべきであります。 そこに親驚聖人が法然上人に会われて、如来の本願に気づかれたその時から九十才の最後まで同行同朋としての念 仏教化の御生涯であったと思われるのであります。決して自己への深い反省が宗祖をして宗祖をとりまく有縁の人々 への教化を鈍らせる如きことはなかったと云わなければなりません。 然るに宗祖聖人以後の真宗教団が常にかかる宗祖の歓びにかえる純化運動の中にあって、教団自身の持っその時代 時代を正しく把握することにおいて正しい教団であり得たかどうか、 と い う こ と を 思 う と き 、 いろいろの問題点に逢 着せざるをえません。只単に宗祖の時代にいつの時代に於いてもそのまま帰るということは不可能なことであって、 その時代時代に於いて如何に宗祖の祖意を汲みつつ、 より正しい意味でどのように教団自体があるべきかということ への深い留意が必要であるということであります。それは特に江戸時代に組織教団となり、更には明治以後の政治と その宗教政策を見るとき、凡そ宗祖の時代に於ける同朋教団とは次第にほど遠いものになっていったように思うので あ り ま す 。 かかる意味で現実に本山という組織教団があり、その組織の中の末寺寺院がある以上、この組織教団を抜いて宗祖 にかえるということは出来得ないことであろうかと思うのであります。だから現実の問題として真宗教団は教団を持 ちながら宗祖をとりまく同朋教団としての在り方に留意しなければならないと思うのであります。それは一つには真 宗に於ける教団としてその内部にあくまでも各人各人が深い個的な自覚を持ちつつ、第二に普遍的教理の研究という 真宗学的性格を具備し、第三には更にそれが同朋教団という一つの歓びの集りとしての教団であるということ、 の 真 宗 に 於 け る 布 教 と 今 後 の 課 題 に つ い て の 一 考 察

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青 空 − r 引 に 於 け る 布 教 と 今 後 の 課 遁 己 つ い て の 一 考 察 三つの性格を忘れない教団づくりというものに真剣な努力が払われなけれぽならないと思うのであります。そこで今 回は教団の性格の第一の点では仏教カウンセラーの問題につな、かるものがあると存じますが、これは演題からはぶい て、この中で第二、第三の性格についてふれてみたいと思います。 特に第二の教団における真宗学的性格という点で、従来の方向に一つの問題点を発見することが出来るのではない か、それは真宗門子が本山の組織教団としての学問の性格を持ち、真宗教団が宗祖の同朋教団の性格を失えば失うほど 宗祇根生に捕われた組織のための教団となり下っていったことも間違いがないように思うのであります。所謂、真宗 学というものによってフルイ分け、選別するという形で真宗学そのものの性格がより厳しいもの、 より冷たいものと なっていった一面はありや否やという反省がなされるのであります。 ﹂ の 点 で 現 代 社 会 に あ っ て は 、 より正しいも の、より現代的なるものを選びとってゆくべき学問の方向としての学、あらゆるものを受け入れ、あらゆる試みを包 合して温かく指導助言すべき真宗学となってゆくべき時代に来ているのではないか。真宗学があくまでも自信に厳し く、自己内省をくりかえしつつ教入信的な動きの中にあっては、あらゆる試みをなし、現代社会の中に解け入ってゆ くべき積極的な構えを忘れない学問であると同時に、教化布教という実践活動に直結した学問でなければならないよ う に 思 う の で あ り ま す 。 かかる点で今日発足された宗教教化学とか真宗教化学といわれる学問の研究の一部を拝見するとき、何か新らしい 分野、忘れられていた研究であり乍ら一沫の不安を抱くことも又事実であります。それは実践教化学と云われていな がら現実の問題として現にある教団又は教団を構成する末寺自体の動きと一体どこで具体的な行動としてそれが噛み 合っていこうとしているのかという疑問であります。 やはり学問のみの分野で語られる高い次点の研究でしかあり得 ないのではないかというきらいを持つものであります。

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そこで私は真宗教団と第三の同朋教団づくりとしての教化布教活動の実践面についての問題に入ってみたいと思う の で あ り ま す 。 私は高田涯に於ける極く少数の説教といわれるものしか聞いておりませんのでそれが総てではありませんが、折角 現在生かされている布教活動の場をもう一度再確認し生かしてゆくべき必要はなきゃということであります。その布 教活動の現在の場とは色々な機会がありますが、その中特に今、教団を問題にし組織を中心として見る時、各末寺の 年中の諸法要の場が上げられると思うのであります。 たとえば末寺では、報思議なり、永代経、修正会、彼岸会、降 誕会とか追弔会等々、少くとも年に数回の法要が定例の如く持たれ、読経儀式の後には必ず説教といわれるものが行 われるのが通例となっています。 しかしこれらの会座には習慣的な行事のみが行われ、百年一率の如き高座による節 つ き の 美 声 の 説 教 、 しかもそれは対話形式はどこにも見られない一方交通のごときもので凡そ現代とはかけはなれた こ と が 平 然 と 行 わ れ 、 しかもその語り手は自己の話し易い内容に流れ、その場、その時の雰囲気を作って終わること が間々あるように思うのであります。特に昔の方々が聞法に心がけ、昼夜の別なく会座に会われてゆく中から一つの 真宗の御安心を体得された時代と異って、開法の機会はあったとしても、事実上その法を聞くということが非常にむ っかしくなり、法を求める人々の少くなっている現代人にあって、どのような教化実践をなすべきか、ということを 考える必要はないものでしょうか。叉、同時にこれらを依頼する寺院側住職にあっても先づ話しの内容に取捨を加え、 年間の計画を立てた上で教師を選択依頼するということが行われているかどうかということであります。凡そ年間カ リキュラム的なことに配慮されている寺院がどれだけあるでしょうか。若しかかる住職があったとしても、それに答 え得る教団自体の教化活動の側にその構えありや否やということであります。只それは末寺の諸法要のみをお話しし た だ け で 、 かかる目で上は教団の中心である本山から下は各住職一人々々の諸活動に注目する時深い現況に対する一 真 宗 に 於 け る 布 教 と 今 後 の 課 題 に つ い て の 一 考 察

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真 宗 に 於 け る 布 教 と 今 後 の 課 題 に つ い て の 一 考 察 四 考をせざるを得ないのであります。 私はそこで先づ、真宗教団が今日組織されている以上、教団自体の持つ使命感というものに今一度、すなおに目を 見開くということが大切であると思うのであります。その意味で新らしい立場の真宗教団のあり方として宗汲宗門を 越えて、同朋教団としての共同の目的と活動を持った教団守つくりを再検討すべき時に来ていると思うのであります。 この点教団自体の中心である各祇本山が教理的な真宗教学の研究に力を注がれるのは勿論非常に大切なことといわな ければなりませんが、各末寺の実態を踏まえた実際の教化活動の研究のみでなく、具体的方法としての布教活動の交 換交流を行い、実践計画に就いての年間のカリキュラム化ということに着手されてはどうかということであります。 かかる役割をになっているものが組織教団としての本山ではなく、 組織を生かした同朋教団としての本山当局のな すべき当面の仕事ではなかろうかと思うのであります。この本山当局の示した、真の真宗教団としての指向する所た 充分汲み取り各末寺が従来の布教活動の場を生かしてこれに答えて行くべき姿勢が大切なように思われるのでありま す。更にその目的のための真宗学というものの在り方にも一考を加えてみたいのであります。所謂それは同時に真宗 学と布教活動との関係にも云えるのであって、従来の真宗学の在り方がややもすると学的方向に走って布教活動、叉 は実践的教化ときり離れて、学はゆゆしきことであるというようなことから特に教化活動家にとっては非常に手のと ど か な い 学 問 と な り 、 一方真宗学者にとっては学的研究に没頭するのあまり、布教そのものへの疑問と同時に軽視的 観念を生みつつそれが相互にその一意志の疎通を欠くというが如き傾きはなかったかどうかということであります。 カ ミ かる点で私は本山教団が真宗学そのものを含めて各末寺へのよりよき指導と、又各末寺住職一人々々の本山への真の 理解と協力態勢とを整え真宗学と布教活動の一体化を計り、本山が単に組織のための教団でなく真に組織をもった同 朋教団となるべきことに努める可き時ではないかということを痛感するものであります。

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そこで私は各末寺の一住職としてどのようなことをなすべきでありましょうか。 ささやかな一つの提案を行なってこの発表を結び度いと思います。それは﹁開法﹂ということが聞法という言葉に 捕われて常に動きつつある現代社会への注目を怠り迫力を欠いた静かに法要のム l ドに浸るというのではなくて、若 い青年壮年の人々への布教活動の積極的な意欲を持つべき使命が住職にあって然るべきではないかという点でありま す。それは特に現代の若い人々がうけている教育というものを理解すべきであって布教教化活動にあっては視聴覚的 な面に於ける理論体系を一市すということ、布教そのもののカリキュラムをもっということだと思うのであります。更 にその為にはカリキュラムの図式化という方法がよいのではないかと思うのであります。 ︵既に過去の先徳が七高祖 の配列図式を行ない宗祖伝絵の如き具体的なことを行なっておられることを思いあわせるとき︶。 それでは一体それ がどのように、どんな形で行われるのであるかを申しあげてみたいと思います。私は一つのこころみとして小さなサ ークルを持っています。そのサークルの一人々々がその研究分野を分担し釈尊伝ならば釈尊伝を話すにふさわしい一 つ の 掲 示 的 な も の を 作 る 、 叉仏教伝来ならば仏教伝来を地図の上に図式化して具体的に示すとか、親驚聖人の信仰の 内容の上で三願転入というものが真宗の教えを頂くものの側からどのような理論体系の上にあるかということを押え てお話しを聞いて頂けるということが出来るのではないでしょうか。このようにサークルに属する一人一人が真宗の 御安心の問題であるとか、宗祖の伝記であるとか、更には現代の社会学と真宗、経済学と真宗、青年心理学と親驚教 学というもののかかわりあいに於いて研究を積み重ね専門の方々がその分野を分担されるということによって、その サークルの一人一人を各末寺住職が自分の寺の年間カリキュラムの上で順次依頼し、批判し、取捨を加えつつ育てな がら一般の方々と共に法を聞くということが大切なことのように思えるのであります。そしてお話を聞く方々も一つ の体系の中で理解を深め、味わいを深めて頂くという方法、静かに高座から流れる説教師のム l ド作りの中に酔うと 真 宗 に 於 け る 布 教 と 今 後 の 課 題 に つ い て の 一 考 察 五

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真 宗 に 於 け る 布 教 と 今 後 の 課 題 に つ い て の 一 考 察 一 六 いうことではなくて、なるほどと現代の人々が先づ頭で理解し体験全体に結びつけて味わうべきことだなあ! と う掲示布教の提案を行ないたいのであります。所調同朋教団の在り方として、その中には常に真宗学的自己への深い 反省と申しますか、深まりと申しますか、それが単なる学的方向のみに終わることなく教人信としてのよろこびを互 に深めあうという教化実践、布教活動とのつながりにおいて他の異った学問でない真宗学の真の力というものが生ま れてくるのではないでしょうか、 しかもそれを現在組織をもっ教団が真に組織を生かし過去の習慣儀式を真に生かし める形に於いて同朋教団の動きとなってあらわれるのではないか、その組織を同朋教団たらしめる中心的使命をもっ ものが本山であり、本山の使命が各末寺の使命であり各末寺住職の使命であろうかと思うのであります。

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