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真宗研究18号 009里村 保「「浄土真宗」という“ことば”の意味について」

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Academic year: 2021

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寸 浄 土 真 宗 ﹂ と い う 。 こ と ば 。 の 意 味 に つ い て i¥ ~ ノ 、

L

というかことば

4

の意味について

尖 村

思 保

は じ め に ﹁浄土真宗﹂という。ことば。の意味を問うということの中には、問うことを通して、明噺判明な此の語の解釈 を導き出そうとする意図が含まれている。その場合、解釈ということが﹁或る事柄︵あるいは語の意味︶ について 主観的な意見を持つこと﹂であってはならない。それは先輩がすでに﹁解釈﹂という語を解釈して﹁解釈演出﹂で あ る 、 といわれているように、固定佑し、 い は Y 使い古された言葉を文字どおり解きほぐし弁別して、 その解きほ ぐしの作業を通して語の本来の意味を開示することでなければならない。 このような立場で、﹃教行信証﹄に記されてある四つの寸浄土真宗しという語の解釈を通してその一 d 葉の意味を 問うとき、凡そ次のような四つの主題を導き出すことができるであろう。 真 実 之 教 、 し

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師 、 ﹁ J ① 大 無 量 寿 経 浄 土 真 宗 位 置

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序の次、砕石ノの古。主題宗教﹂の文化主義

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概念と仏教における﹁宗・ 教 ﹂ 概 念 の 区 別 、 と 同 時 に 仏 教 に お け る 宗 ・ 教 と い う 一 一 一 一 口 葉 の 意 味 の 開 示 。

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②謹デ浄土真宗ヲ按ズルニ二種ノ廻向有り。 一 二 ハ 往 相 、 ニニハ還相ナリ。往相ノ廻向ニ就テ真実ノ教行信証 有リ。位置、教之巻初。主題、浄土宗と浄土真宗。此の筒所における﹃六要﹄の解釈ははじめに﹁真宗卜一百フハ浄 土宗ナリ﹂と明言しているのであるから、 ﹁浄土宗﹂と﹁浄土真宗しの異同を明らかにすることとそれにともなっ て浄土真宗という一ゴ口葉の本来の意味を明確にすること。||宗名論訴。 ③ 信ニ知ンヌ聖道ノ諸教ハ在世正法ノ為ニシテ、全ク像末法滅ノ時機ニ非ズ。 己ニ時ヲ失シ機二議ケル也。浄 土真宗ハ在世・正法・像・末・法滅・濁悪ノ群萌斉シク悲引シタマフヲヤ。位置、化身土之巻、所謂﹁三願転入し の文の直後。主題、永遠の浄土真宗の発見とその歴史的展開。私の所謂﹁応機する本願﹂。 ④ 癌ニ以ミレパ聖道ノ諸教ハ行証久シク廃レ浄土ノ真宗ハ証道今盛ナリ。位置、化身土之巻、後序のはじめ。 主題、教法の行証と批判精神。 以上四つの主題は互に関連しつつ ﹁浄土真宗﹂という一つの名を成就しているのである。 こ L では一つ一つの主 題を詳しく展開することは不可能である。以下各主題の要点を素描すること﹀する。 ﹁ 宗 ・ 教 ﹂ の意味 今日宗教という語はもっとも暖昧な言葉の一つである。 それは只管打坐から祖先の供養、 はてはおみ畿から交通 安全のお守を貰うことまでを指し示す。それは最も深い人間の成就を意味する場合もあり、﹁ー民衆の阿片しである 場合もある。宗教は単なる民族の習俗としてはたらいている場合もあるし、医者や銀行の機能の代理をつとめよう としていることもある。場合によってはヴァングラディシュやアイルランド或はイスラエルにおいてのように戦争 の要因の一つとなることさえもある。とすれば、百々は先ず宗教という語の意味を、 その本来の語義に順ってでき 寸 浄 土 真 宗 ﹂ と い う 。 こ と ば 。 の 意 味 に つ い て 人 一七

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寸 浄 土 真 宗 ﹂ と い う 。 こ と ば h q の 志 味 に つ い て A 八 うる限り的確に定めなければならないであろう。 川田熊太郎民の研究︵司仏教と哲学﹄サ l ラ叢書 7 、 平 楽 士 寸 書 店 ︶ に拠れば、徳川期までは、つまり日本がヨ l ロ て い た の で あ り 、 ツパ文化の強い影響を受け入れるまでは、印度

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中国|日本にわたってほぼ定まった意味を宗教という言葉は持つ その意味は、﹁唯一人の神に我々の譲魂を百円び結びつける﹂︵アウグスティ l ヌス︶ことを意味す る﹂レリジオンとは全く異なるものであった。 宗教という語は本来はた Y 仏教をのみ意味したのであり、﹁宗﹂と ﹁ 教 L とはそれぞれ独立した意味を持ち、それが合成語としてJ一小教しとして用いられる場合はJ一小の教﹂或は﹁教 の 宗 ﹂ を 意 味 し た の で あ る 。 氏 は ﹃ 教 行 信 一 証 ﹄ 、 ﹃ 浄 土 文 類 家 妙 ﹄ 、 ﹃ 愚 禿 紗 ﹄ に於ける﹁宗﹂及び﹁教﹂ の用語例 を摘出しそこから八つの特色を導き出されている。その中三つの要点を示せば、①宗教という熟語が見出せないこ と、⑧宗及び教という文字が一個の独立のものとして用いられていること、③にも拘らず宗と教とは極めて密接な 関係をもっていること、 で あ る 。

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と中国語で言い表わされた印度の言葉は、﹁成就せられたものの極致しという語源的意味を持つ日

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で あ り 、 それはっ終局的に確立せられた真理 L を意味する。それは﹁型なる刊の活動する境域しであり、﹁無漏界 と成れる根本無分別判たる般若﹂である。かくして﹁宗﹂は第一義諦或は第一義悉檀といわれる一事と同一であり、 従ってそれは当然、国仙惟・言説・文字を離れている。そしてその言葉を離れた惟一つの宗がその﹁終局的に確立せ られた真理﹂を証った人即ち仏陀によって言説せられたのが教である。言葉を超えた真理がその真皿に目覚めた人 によって言葉として表現せられたもの、 それが教である。では仏陀は何の為に真盟を言葉として表現するのかとい それは他の人々をしてその同じ具現に目覚めさせんがためである。 ︵ 因 み に ﹁ 教 ﹂ は 亦 ﹁ 教 エ テ ・ : : ・ セ シ メ え ば 、 ル﹂という動調である。例えば﹃観経﹄下下品には﹁教令念仏﹂の語がある。︶以上を要約して吾々は次のように

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一 三 口 う こ と が で き る 。 と 哲 学 ﹄ 六 二 口 ︶ 自己と真理との関係即ち仏法の成熟が宗であり、自己と他の人々との関係即ち衆生の成熟が教である。︵﹃仏教 と。つまり本来的にはた Y 仏教をのみ意味した﹁宗教﹂は、仏法、仏教の二つに分節し、分節しつ h 同時にその二 者が動的統一を確保しているものとして、それは人が真に人聞に成るための一つのオルガノンなのであ旬。 いま、大無量寿経に真実之教と同時に浄土真宗という意味があるということは、﹁如来ノ本願ヲ説テ経ノ宗致ト 為 ス L 大無量寿経が教と宗との二つの意味を同時に保持しており、それ故に此の経に依って仏法の成熟と衆生の成 熟が同時に成り立つことを明らかにせられているものと了解することができる。 つまり此の経こそが真実と自己と 他の人々との、真理を場とした交り︵関係︶を確保することによって人が真人︵仏陀︶と成る乙とのできる道︵万 法︶を明らかにするものであるという宗祖親鷺の宣言を吾々はこ﹄に聞きとることができるのである。 そしてその ことこそ﹁宗・教﹂という言葉の本来の意味に外ならない。 悶 み に 、 J 否 同 ﹂ は 宗 の 旨 で あ っ て 、 不 可 説 な る 無 漏 法 界 で あ る 。 ﹁ 宗 教 L は 宗 の 教 で あ っ て 、 人 々 を し て 此 の 宗 旨 を 限 解 せ し め 以上のような﹁宗・教﹂の意味 此 の 宗 旨 ヘ 入 ら し め よ う と す る も の で あ る 。 ︵ 前 掲 書 六 七 頁 ︶ の 了 解 に 立 っ て 、 ﹁ 宗 教 ﹂ の文化 主義的理解と対照しつ﹀これを図 式化して示すならば次のようにな る で あ ろ う 。 人 間 の 文 化 i百 動 | ! | | | | 等 経 政 宗 芸 学 ﹁ 浄 土 真 宗 ﹂ と い う 。 こ と ば 。 の 意 味 に つ い て 開 教 | | 小 大 乗 | | 聖 浄 土 | ! 浄 浄

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﹁ 浄 土 真 宗 L と い う 。 こ と ば 。 の 意 味 に つ い て 才L 0 宗 教 I I ︵ 往 ︶ 一 そ れ を 覚 る と と に よ っ て 吾 一 −

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− 二 | 真 理 と 自 己 と の 関 係 | ﹁一吾々を仏たらしめる真理て 一 仏 に よ っ て 説 か れ た 真 理 の 一

| 仏 教 | 一 \ / 丁 自 己 ︵ 仏 ﹀ と 他 の 人 々 と の 関 係 | ︵教︶一﹁引劃動配劃川引劃刻到一 一 に 成 る こ と が で き る 教 え 一 ︵ 還 ︶ リ 仏 道 日 浄 土 宗 ・ 真 宗 ・ 浄 土 真 宗 ﹁謹按浄土真宗﹂以下所謂﹁一宗の大綱を挙げる文しに就て特に﹁真宗﹂の語義に就て﹃六要抄﹄には詳しい解 釈が施されている。その初めには 真宗ト一首フハ即チ浄土宗也 と記されている。今日﹁宗﹂の本来の意味が見失われて、真宗も浄土宗も一つの宗派︵セクト︶ としてのみ考えら れている状況の中にある吾々にとって、 この﹁六要﹄の解釈はいさ h か奇異な感じさえ与えるのである。しかし ﹁化身土之巻﹂に、﹁真宗興隆ノ太祖源空法師井ビニ門徒数章罪科ヲ考ヘズ狼シク死罪ニ坐ス、或ハ僧儀ヲ改メテ、

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姓名ヲ賜テ遠流ニ処ス。予︵われ︶ ハ其ノ一リ也 L と宗祖親驚えでの人が述べられているように、法然上人によって 興隆せられた真宗︵ H 浄 土 宗 ︶ の門徒として自らの位置を定められていたのが親驚型人であった。そしてその場合 浄土宗と真宗とは全く同義であったのである。 次にコハ要﹄は真宗という語が仏道の腫史に於てどのように用いられてきたかを記している。そこには﹁真宗ハ 即チ仏教ナリ﹂、﹁般若ヲ以テ真宗ト名クルカ﹂、﹁法華ヲ以テ名ケテ真宗ト日フ L 等の用語例が見られる。 このこと 乗が真宗と呼ばれてきたということであり、 から明らかになる乙とは、外道に対して仏道が真宗と呼ばれ、小乗に対して大乗が真宗と呼ばれ、大乗の中でも一 。 。 それは決して一つの宗派を意味するものではなく文字通り﹁真実ノ宗 回目しという意味で用いられていたということである。即ち真宗は全仏教の歴史を一筋に貫く赤い糸であり、 い わ ば 仏教の精髄であって、様々な宗派として現象した仏教をその根底に於て支え、 それを仏教たらしめているもの、 わば﹁仏教そのもの﹂こそが﹁真宗﹂と呼ばれてきたのである。その意味で 浄土宗こそ真宗である という宣言こそが宗祖親驚による浄土真宗の名告りでありそこにこそ浄土真宗の立教開宗があるのである。そして 此の名告りを当時の歴史的状況に照してみるならば、此の﹁浄土宗こそ真宗である L という浄土真宗の名告りは明 け が ① らかに、﹁念仏ノ真宗ヲ嶺セリ L と﹃選択集﹄を弾効した﹃擢邪輪 L に応えているのであり、そして亦その終りを ④ ﹁永ク破法ノ邪執ヲ止メテ、還ツテ念仏ノ真道ヲ知一フン﹂と結んでいる﹃興福寺奏状﹄に応えているのである。つ まり﹁浄土宗乙そ真宗であるしというこのマニフェストには生命を賭した真偽の決判があるのである。先輩の所謂 ﹁真仮明断﹂である。何故ならば仮が真であると主張されるとき、 その仮は偽となってしまうからである。 では、宗祖親驚は何に依って﹁浄土宗こそが真宗である L と言い切ることができたのであろうか。法然上人によ ﹁ 浄 土 真 宗 ﹂ と い う 。 こ と ば h q の 意 味 に つ い て 九

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﹁ 浄 土 真 宗 ﹂ と い う 9 こ と ば 。 の 怠 味 に つ い て 九 って独立した浄土宗こそが真宗であると言い切ることのできる根拠の探究、 そこに法然上人が﹁偏依善導一師﹂と 言われたその善導大師の更に本源を尋ねて所謂上三祖を見出された宗祖親鷺の歩みがあったということができない で あ ろ う か 。 そして﹁二廻向 L ﹁一心﹂﹁現生住正定取県﹂等の真宗教学の基本的立場を明らかにせらると共に、

し3 に﹃大無量寿経﹄を真実之教・浄土真宗として見出し、同時に﹃華厳経﹄と﹃浬繋経﹄︵釈尊一代の全教説︶を﹁木 願を説きたまえる経しである﹁大無量寿経﹄の内容として見開かれたのではないであろうか。そしてそのことによ って、﹁誓願一仏乗﹂に帰入する専修念仏こそ、 龍樹菩薩以来の課題であった大乗菩薩道の成就を凡夫にもなお可 能にする道であることを明示し、専修念仏がそのような内容を持つ故にこそ浄土宗は真宗であると言い切られたの で は な か ろ う か 。 そのことを﹃六要﹄は先の解釈の最後で次のように結んでいる。 但 シ 真 宗 ノ 名 、 念 仏 門 ニ 於 テ 殊 ニ 其 ノ 理 有 リ 。 大 経 一 一 ハ 説 テ 真 実 ノ 利 ト 為 シ 、 小 経 一 一 ハ 亦 説 誠 実 一 言 ト 一 一 首 フ 。 代教ノ中ニ実一一凡夫出離ノ要道タリ、真実ノ宗旨其ノ義マサニ知ルベシ。︵十一丁左︶ 私はこの﹃六要﹄の解釈に依りながら、凡夫という語の原意︼

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︵ 異 生 ︶ に着目しつ﹄、次のように言 うことができると思う。 疎外されてある人聞が、 その疎外を克服して、様々な矛盾対立 ︵生死︶を超え離れて、菩薩と同じ存在構造を 持つ人聞の在り万を成就して、限りなく無上仏道を成就してゆく歩みとしての人生を可能にする根拠、 それが浄 土 真 宗 で あ る 、 と 念仏往生ノ願ニヨリ 等 正 覚 一 一 イ タ ル ヒ ト

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スナワチ弥勤ニオナジクテ 大般浬繋ヲサトルベシ 真実信心ウル故 スナワチ定緊一一イリヌレパ 補処ノ弥勅ニオナジクテ 無上覚ヲサトルナリ か く し て 吾 々 は 一 一 一 口 う こ と が 出 来 る 。 ﹁ 凡 夫 を 機 と し て そ こ に 大 乗 菩 薩 道 を 成 就 す る も の 、 それ乙そが浄土真宗で あ る 、 と ところで徳川期に入ると、 この浄土真宗という宗名について論争が起り、老中、公卿、 はては大奥まで動かす大 事件となる。所謂﹁宗名論訴﹂である。その時期に於ては徳川幕府を初めとして、寺詰証文其の他の公文に於ては 多く一向宗の名を用いることになっていた。そのため両本願寺並びに専修寺・仏光寺等合議の上、安永一二年︵一七 七 四 ︶ 八月、幕府に向って浄土真宗という称号に改められるように要求した。寺社奉行松平伊賀守忠順はこれを寛 永寺︵天台宗︶及び増上寺︵浄土宗︶ に諮問してその可否を質した。寛永寺はとれを可としたが、増上寺はこれを 拒み、翌安永四年には四箇条からなる﹁故障害﹂を呈出した。その趣旨は浄土宗を浄土真宗と称するのであり、若 し強いて他門にて浄土真宗と称する時は ①真偽の詩論となり::::::︵宗教︶ ⑨ 自 讃 捜 他 の 基 と な り : : ・ : : ︵ 倫 理 ︶ ﹁ 浄 土 真 宗 ﹂ と い う 。 こ と ば h q の 意 味 に つ い て jL

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﹁ 浄 土 真 宗 ﹂ と い う 。 こ と ば h q の 意 味 に つ い て 九 四 ① 公 儀 の 制 禁 に も 障 る : ・ : : : ︵ 政 治 ︶ と い う の で あ る 。 その後事件は粁余曲折するのであるが、幕府は寛政元年︵一七八九︶両者に宗名は旧慣によるべ きことを達し、同三年には両本願寺へ、追て沙汰あるまでは訴願中と心得るよう申渡す。結局幕府は﹁封建的秩序 の維持の目的から両者の抗争を避け、あくまで現状維持の方針でおしきった。﹂︵圭室諦成監修、﹃日本仏教史﹄園、

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頁 ︶ の で あ る 。 そして明治五年︵一八七二︶問題が起って約百年の後、﹁一向宗名ノ義、 自今真宗ト称ス可 キ旨、今般御沙汰相成候ニ付、比ノ段心得ノ為、相ヒ達シ候也﹂という太政官からの達しをもって解決をみること と な る 。 この宗名論訴については二つの異った評価がある。井上鋭夫氏は﹃本願寺﹄に於て ﹁一向宗﹂号が宗門の自称ではなく、外部の庇称であって、支配するものの立場から、真宗に冠せられたにす ぎないものであるからには、 それの廃棄が強く主張せられたことは、真宗の政治に対する自主性の確立の一つの 表現であるということができよう。︵二二二頁︶ と 述 べ ら れ て い る 。 これに対して辻善之助著﹃日本仏教史﹄第九巻︵一四

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頁 ︶ は次のように記している。 江戸時代仏教の形式化の原因の一は、徳川幕府の政策にある。幕府は諸宗法度に於て、総べて新義異義を禁じ た。即ち研究の自由を束縛した。これは幕府の事勿れ主義より出でて、国 E M 小の治安社会の平穏を保たんが為めの 方 策 で あ っ た 。 この万策は檀家制度と相侯って、仏教をして能の中の烏の如くならしめた。為めに仏教各派は、 その発展を抑えられ、他に競争者のないが為めに、 そ の 発 達 が 停 頓 し た 。 そこで仏教の巾に内紅が起り、同士山討 ちが始って、形式仏教の腐敗を暴露するようになった。 乙の二つの評価は共に確かに事態の一面を照している。だが決定的なことは政治的倫理的問由によって真・偽の決

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判が行われなくなってしまったということである。別の言い方をすれば真・偽を決判することが﹁詩論﹂という姿 でしか考えられなくなってしまったということである。そこには宗教的生命にとって決定的な何ものかの喪失があ る。つまりその宗教の真理性が|人聞が生きることにとって真理であるか否かが|関われなくなったとき、真宗は ﹁ 十 万 衆 生 L の真宗であることを喪って一宗派︵セクト︶ の名を意味するものへと転落したのである。 このことを明らかに知ることによって吾々はそのセクト性を破って本来の﹁浄土真宗﹂の意味を如何にして開示 することができるかという歴史的課題を荷う者となるのである。 そしてそのような歴史的課題を果し遂げようとす る者にとって導きの糸となるものが﹁化身土之巻﹂に於て宗祖親驚が浄土真宗という語を用いられるときに撮って いるあの真実へのひたむきな志向と仮偽なるものへの深い悲歎と傷嵯であり、 そしてその悲傷から生まれる﹁両頭 共ニ切断スル﹂底の徹底した批判精神である。

永遠なる浄土真宗 浄土真宗ハ在世・正法・像・末・法減・濁悪ノ群萌斉シク悲引シタマフヲヤ こ L には永遠なる浄土真宗の発見がある。法滅の群蔚をも悲引したもう浄土真宗とは何であろうか。それは仏教 の一宗派としての浄土真宗ではなく、仏教を歴史の中に生み出した超越的根拠としての浄土真宗である。 それは ﹃末灯紗﹄に﹁選択本願ハ浄土真宗ナリ﹂と記されている通りである。そしてその選択本願は﹁応機する本願﹂な のである。永遠なる浄土真宗が﹁己ニ時ヲ失シ、機ニ一邪ケル﹂聖道諸教の批判を通して、 つまり時・機の問題を否 定契機として見出されているのである。したがって﹁永遠﹂といっても、 それは単なる時間の中における同一物の 持続を意味するものではない。それは宗教哲学者の所謂﹁非連続の連続 L である。それは永遠なるものの時間の中 ﹁ 浄 土 真 宗 L と い う ク こ と ば h q の 意 味 に つ い て fL 五

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﹁ 浄 土 真 宗 L と い う 9 こ と ば 。 の 意 味 に つ い て L Z + ノ ﹂ / に於ける表現として、むしろ創始であり、創造である。永遠なるものが単に﹁、水遠なるもの﹂として語られる限 り、それは一つの観念にすぎない。 つまり永遠なるものは時・機に相応することにおいて自らの永遠性を証しする のである。そして永遠なるものの時・機への応答の相こそ吾等凡夫の上に実現する、 の只中に在る者の上になお実現する教法の行証に外ならない。 つまり歴史的社会的被拘束性 町 浄 土 真 宗 の サ ン ガ 後序境頭の﹁矯カニ以ミレパ、型道ノ諸教ハ、行証久シク廃レ、浄土ノ真宗ハ証道今崎ナリ﹂ の 文 に 於 て 、 そ の ﹁証道﹂の語句に就ては異説がある。 開華院の﹃金剛録﹄ は﹁これ証道の一つを挙げて、 教行の二法をかげに顕は す影略なり﹂と一五い、円乗院の﹃間誌﹄は﹁教道、証道という名目あり、︵中略︶依って証道というは地上の菩薩 の上に立つこと、地前の聞はみな教道というものなり﹂と述べている。二説必ずしも矛盾するものではないが、私 は願成就の﹁信心歓喜﹂を菩薩初地の歓喜である、とされた宗祖親驚の立場から円乗院の説を取る。とすれば﹁証 道 今 盛 な り ﹂ と は 、 そこに大乗菩薩道の実践があるということに外ならない。それは蓮師の﹁仏心と凡心と一つに な る と こ ろ ﹂ ︵

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の成就であり、﹁衆生責膿煩悩中能生清浄願柱生心しとして如来の欲 ① 生心の成就としての吾等の願生道の実践である。そしてその願生道の実践は念仏として﹁大悲を行ずること﹂に外 ならない。そして﹁大悲を行ずること﹂を﹁無条件の述恨を産み出す実践﹂と現代語訳することが許されるとすれ ば、行証︵証道︶ある故にこそ浄土真宗と呼ばれるその浄土真宗は、非僧非俗といわれる実子的在り方と御同朋御 同行と呼び交わすことのできる共同体とを此の歴史的杜会的現実の只中に限りなく産み出してゆく根源の力なので あ る 。

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註 ①六要と寛文版のみが教之巻の中に在り、肖山本、同本願 寺本、寛永版等は襟列の前に在る。坂東本に依れば教之淫 の 中 に 無 い こ と だ け は 明 ら か で あ る 。 ②オルガノンはもとっ機関﹂を意味する語であるが、特に アリストテレスの諭児学上の諸著を総指してオルガノンと 名ずけられた、それは学問研究の方法を怠味した。近代に 至 っ て F ・ベーコンは﹁学問の大いなる明新﹂のために ﹁ ノ ヴ ム ・ オ ル ガ ヌ ム ﹂ ︵ 新 機 関 ︶ を 著 し た 。 ③﹁名を聞きしの始めには、上人の妙釈を礼せんことを喜 ぷ 。 巻 を 披 く の 今 は 、 念 仏 の 兵 宗 を 穎 せ り と 恨 む 。 ﹂ ︵ 岩 波 ﹁ 浄 土 真 宗 ﹂ と い う 。 こ と ば h q の 意 味 に つ い て 日本思想大系一五鎌台川仏教月二民、三一七

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④寸一則へ進む奏状一通︵中略︶望み治ふらくは、恩慈、早 く奏聞を経て、七道諸国に仰せて、一向専修条の過失を停 止せられ、兼ねてまた罪科を源空ならびに治子等に行はれ ん こ と を 、 ︵ し か れ ば ︶ 、 水 く 似 法 の 邪 執 を 止 め 、 送 っ て 念 仏 の 真 道 を 知 ら ん 、 仮 っ て 一 dk 件 の ご と し 。 L ︵ 前 掲 書 四 二 民 二 一 二 ハ 頁 ︶ ⑤ ﹃ 大 悲 経 ﹄ に 一 五 は く ﹁ 一 五 何 が 名 け て 寸 大 悲 ﹂ と 為 る 。 若 し 専 ら 念 仏 相 続 し て 絶 へ ざ れ ば 、 其 の ︿ 山 終 に 随 っ て 定 ん で 安楽に生ぜん、若し能く展転して相ひ勧めて念仏を行ぜし むる者は此等を悉く大悲を行ずる人と名く L と 。 ︵ 信 之 巻 ︶ JL 七

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