NII-Electronic Library Service
[
序
亅
1日 本に お け る生 活は
私
を自然
の と り こ に し,
そ れ 以来
ずっ と その状 態
を続
けて い て,
機 械 化され た人 問の 心 をつ か ま えて い る あの 冷 静な抽 象の方へ 訓 練に よっ て傾 くことはし ない で いる」…
この ように書いた の は陶
芸 家・
芸 術 家のバー
ナー
ド・
リー
チ (1887
−
1979
)である。
『バ
ー
ナー
ド・
リー
チ 詩 画 集』は福
出陸 太郎
氏の訳に よ り1975
年
五月 書 房
か ら刊 行
さ れ た。
原著
は(
1973
年 )
.
「
Drawings
,
Verse
andBelief
」が
原題
である。Verse
と記
し てあ
る か ら韻 律
を踏
ん だ詩
であっ たか も しれ ない。
(
本稿
の英 文 タイ トル で は詩
をpoesie
と し た。
poesie
は詩情
ばか りでな く「 詩」の意 味 も あ る。
「信 条」の方 は, 宗 教 的な信念
である のでfaith
を選んだ )こ の 本の 中で は序 文が重 要であり
,
そ れ は「信条
」と タ イ トル さ れ た長 大な も の で あ る。
筆
者は長 年にわ た っ て 柳 宗 悦の仏 教 美学
を中心 と す る著
作に影 響を受け,
柳
の周辺 の陶 芸 家の中で はバー
ナー
ド・
リー
チ を もっ とも重視
す る も の で あ る。
工芸で は とくに陶 芸が1一
他 力 」と呼ぶ力にあ ずかっ て い るこ と は明 らか である が,一
般
に芸 術
とい う もの も 自 意 識 だ けで成 り得てい る のだろうか。
筆 者
は今
日の芸術
に衰
退を.
見る のだが,
芸術
は手 仕事
に立 ち 返 るべ き だ と考 え る。
そ して個 我
の主張
を捨
てた 芸術
はある,
とっ ねつね書
いて来
た筆 者
など はマ イノ リテ ィ であ ろ う。
芸術
家バー
ナー
ド・
リー
チの 1.
信条
」に共 感
す る と こ ろ多
く,
芸
術 観 と宗
教 的 信念
と の関 係 を 読み,
ま た詩の側か ら り一
チ に入 っ てい くとい うア プロー
チ を 試みて,
本 稿 を記 すこと になっ た もの である。
[
リー
チの見 解
1
私
は詩
の分 野で は気
が引
け るし,
素 人である。
し か し,
陶 芸 家 と して も,
そ して素 描 家として も そうなの.
だ
。…
技
は 単に職 業
的 な もの にす ぎ ず,
そ れ自
身に は芸 術で ある とい う保
証は何
も ない一
一
一
魂
が抜け て い ること だっ て あ り得る
。
私は生き た思 想 を 具現化す る の に 足 る だ け の技だ け あ れ ば満 足である。…
私に は自分自 身や
自
分の欠 点よ り も もっ と 重 要 な何か につ い て,
人に伝え るべ きメ ッ セー
ジを もっ て い るか否か で ある。私の意
味
す る の は,
信条
で あ り,
芸術で あ り,
両 半 球の間で の そ れらの順 調な文 化 的 交 流である。 「 詩」と「絵
」に つ い ては 次の ように述べ てい る。
た し かに, 人 生 自 体の意
味 例
え ば, 真 理の証 拠
として の美
, ま た は,
無 限
に直
面 し た自
己の まぼ ろし一.
につ い て,
私 はゆっ く りと確信
を積
み重ね て き た。
そ してそ れ が,
少 な くとも私の 詩の三 分の一
に滲 透 し ている。
私
の絵の大部 分は風 景であ り,
少 数は肖像で ある.
そ れ らの もの に は,
宗 教の影 響が,
ほ と ん ど,
あ るいは まっ た くない
。
しか し私の見
方か らす れ ば そん な影 響
な ど は 必要が ない。
な ぜなら,
真の美 術 品 という もの は
,
真 と美に必 ず 奉 仕 するものだし,従
っ て,
そ の成 功
の度合
に応じ て,
それ は宗
教 的にな ら ざるを得 な い か らで ある。
「信 条 」につ い て, 自 分の立 場を明ら かにして次
の ように書 く。
人 生の
種
子 は ど こ か ら来
るの か ?その核
,
人 牛の意 味につ い て の その信念
,
そ れ は どうい うふ うに胚 胎さ れ るのだ ろうか ?
イ ギ リス か らやっ て来 た 東 洋 生 ま れ の西
洋
人 が,
こ うい う根 本 的 な問
題に直 面
せず
に,
ど う して東 洋 文 化を理 解したいな どと思 えるだろ う か ?
絵
画であ れ,
壷で あ れ,詩であれ,
東 洋美 術
に よって 影 響 さ れ ない こと があり得ようか ?
も し芸
術
に よっ て影 響 され るの な ら,
その母 体で あ る信 条
に よっ ても然 り で あ る
。
文
字
に害
かれようが,
絵に描かれ よ う が,
あるいは私
の壷の背 後に しまい こま れ よ うが,
私の思考
に固有
の信 条にい っ さい
言
及す るの を避 け るこ とは,
人 を誤 らせ る こ と だ し,
公 明 卒 直 な 態 度で は ない と感 ずるのである。 リ
ー
チ は自 分の芸術
の背後
に は固有
の信条
があり,
そ れを 表明 す る必 要が ある,
と明 言 してい る。
NII-Electronic Library Service
[リ
ー
チ
の詩
1
益子.
の皆 川マス 摩 周 湖そ れ で は この『 詩 画 集』の 中の, 筆
者
が優
れ た詩
と評価
する作 品 を 紹 介 し たい。
訳詩
である こ と は致
し方 ない。
1
詩型 と しては簡 潔で, 情 感に溺れ て はい ない か ら長 所 を受 け 取ることがで き る。「バ
ー
ンクロ フ ト」……
乾
い た泡
が/ 砂
浜づたい に/ 吹 き /ころがっ て/ 無
に帰
する。
(略 )1
海 鳥は
/ 風
の中
に鈞合
い を とり/ そ れか ら私の窓ガ ラ ス に/ 筋をつ ける。
(略 )こ の
訳 詩
に は「連
」とい う もの がない。
この詩
を 六 つの小 さ な連に分 け るこ と もで き る。
こ こ に記
し たの は,
そ の小さ な連で い え ば 第 2連と第5
連で あ る。
「無 に帰 する」「筋 をつ け る」が佳
い。「ボ
ー
ス ミ ア 」……
白
い縞
の あ る海
が/ 私
た ちの浜 辺に侵入
し/ 前進
し後
退 す る。
…
この小
さ な詩
全体
に さわ やか さ が あっ て優れ ている。訳 詩
である に し て も 「 白い縞のある海
が、は佳
い。
詩
の始
まりは かく あ るべ き。
「夕 ぐ れ 」
……
私の絵の窓は/ 太 陽
を見
つめ る/
そ れ が沈ん で ゆ く と き/
夕ぐ れ に。
/ /暗
や みの自い 波が/ひた ひた 寄せた/ 私の家の 壁 に/ 夕 ぐ れに。
/ / i波立 ち
再び波 立つ /
L.
1堺 の復 活 /私
が仕
事か ら も どるとき/
夕 ぐれに。
構 成
に リ ズ ム があ り,
ま た視
覚的対 象
と し てイメー
ジ が リアルに迫っ て くる。
三連
と も優
れ ている。
「日木の汽 車の
旅
」・
・
…・
う す緑
の竹
の葉 /
そ して燃 え る紅 葉/
濃い緑
色の/ 杉
の斜 面
を 背 景に。
/ 山 塊の/た く ま しい
骨 組
み/
こ の火 山の中 心の/ 水 晶 化 した 原 形 質,
/
こ ろ が り三
角
形に されて。
/ 渓 谷の川は/
急流を な し
.
/海
に飢
えて い る。
/ち ょうど ど の鮭も静
か な 上流の/ 水 た ま りに飢え てい る よ う に。
この
一
篇
の詩
に基づいて,
色 彩 を 重 要 視し た一
枚
の抽 象 画を描 くこと が で き る。
そのほか に
,
「夜の燃え る 星 々 」「お前
の強い光」「目の中
の砂」…
。 これ らは訳 出
の た め か,
不 確 か な 点 な し と も いえ ないが, どこか神秘 的
な魅 力がある。
次
の二篇
は リー
チの 「信 条」の中の中 心 的 なテー
マ を追 復
し て強め ている。
思 想の主 要 な ポイ ン トを詩
の形
で詩的
に説
明 してい ることが 明 瞭に見て とれる。「 変 質」
……
罪のため に/私
の主か ら/ 私
が いちばん遠い と き/ 主は私
にい ち ば ん 近 い。
/その み足がす ぐうし ろ に あっ て
。
/
こ う し て,
対 照によっ て/ 主は みずか ら を知り た も う。
/ 影のない ところ に/
光があり得
る だ ろ う か/ この私た ちの世 界に ?/ 主は私た ち を造ら れ た
/
「み ず か ら に似せて 」。/ その こ と は本
に書
かれて い る
。
/だか ら直接
わ か る。/
カ チ ッと し た確
実 性,
/ 「 余 は 余 が 知るこ と を知る」/
そ れ は私
の耳の殻の中で
叫
ぶ。/
そ れは石
の心
の中
で/
だ まっ ている。
/ そ れ はメエ と な く子 羊
で は な く,
/
雌羊
で もな く,
/1私の
存在
」の すべ て だ。
i71年
の この詩
と74年
のLt詩 画 集』の序 文 と し て の「信 条
」に通じ合う もの は大 きい。
「 大き な
樫
」……
それ は証 拠に よっ て で も,
/
ま た 比較に よっ て で もなか っ た / 私が一
.
一
つ の/ 諸相
と し て/真 と美 と を / 感 じとっ た の は
。
/
そ れ は ち ょ う ど/ 大き な樫の諸 部 分のよ う だ。/
ま じ り織
り合
わさ れ た/根や幹や
,
/ 大 枝,
小枝
,
樫
の実
,
/ 良い茶 色の葉っ ぱ一
一.
一
/緑
の葉っ ぱ一
一
一
一
新
し く注
入 さ れ た/ 大
地の澄ん だ汁 /
それはあの深い根で 吸い一
h
げ た もの。
/ 変 えら れ, まわ り の大 気
の源泉
に/
更に一
度 復 帰 す る。
71
年
の この詩では,
リー
チ は真 実 と美 とが・
.
一
つ の もの で ある こ とを示 し てい る。
大き な樹
の幹 を中
心に水 (生 命 )が循 環し てい るとい う 《生 命の樹 》のイメー
ジは,
リー
チの半 世 紀 闘
に及ぶ テー
マ の.
.
一
つ である。
こ の 『詩 画 集』の中で特に優れたスケ ッチや イ ラ ス ト を
筆者
の好み で挙
げる と,
以.
ドの通 りである。
「六世 尾 形 乾 山 」「私の息 子
,
ディヴィ ッ ド」「私の妻,
ミュ リエ ル 」「米の収 穫
,
H
本」1.
竹や ぶ と稲田,
口本」「皆 川
,
日 本 の最 後の図 案 画 家」,「横の谷 を.
ヒが っ て,
目本アルプ ス」「宍 道 湖.
」「瓶の 図案
,
魚の模 様
」「.
火冂湖,
北 海 道」,
「松 本 平 に て」柳 宗 悦 は次の ように 言っ て い る
。…
「リー
チの絵 付は , 何か いつ も詩があっ て,自
らを 露わ に出
す とい う よ り,
見る
.
者 をひそか に.
誘 う趣 き が ある。
言 葉 を換 えれば見
る人を詩
の人に す る」リ
ー
チの絵 付の性
格 は, 温 和で自
然。絵
画に比べ る と きわ めて簡 略
に要約
さ れ て お り, い つで も生命感
と存 在
.
感,
親 しみ易 さに欠 けてい ない。
優
しさ と鋭さ,
柔 らか さ と直載
,
情
感と.
意 志 がど ち ら も存 在
し て豊か な もの で ある。
わ け ても遍 在す る詩 情は まぎれ も ない。
026 バー
ナー
ド・
リー
チの詩 と信 条 N工 工一
Electronic LibraryNII-Electronic Library Service
柳 宗 悦は リ
ー
チ の「井 戸 絵 」に,
ブレイ クの い う 「想 像 力 」がいつ も働いている と述べ,
不 思 議 な 構 図,
何かわか ら ない な が ら 心動か さ れ る も の を指 摘
し てい る.
リー
チ はブレ イ ク の「.
想 像 的 な特
質から 出 発 する至 上の悦 び」に ぴっ た りと共 感 してい る。
(柳
にブレ イ ク を知
ら し め た の は リー
チである)
。
筆 者
の意見
で は,
想 像 力
は共 感
の条
件
であ る。
想 像 力に欠 ける者 は他 者へ の慈 愛 心 など持 た ない。
L
芸 術
の道 と宗 教
の道 ]
芸
術
とい う もの は,
私たちが完 全に向か っ て努 力 する と き,
宗 教と合一
する。
完
全は不完
全の単
なる反対
とい う よ り, エ デン の園
からの追 放 以 前の状 態に さ らに よく似てい る。
人 生,
そ の
東 洋 的概 念
は,
根本
に おい て非
二 元的
で ある。 (L
.
)
二元 論の克
服 こそ は,
柳
と リー
チ に とっ て大
き な命題
であっ た。鈴木
大拙
は次の よ う に語
っ た。悟
りと は新しい世 界が,
そ れ まで の 二元論 的
な 心で は と ら え ることので き な か っ た世 界
が広
がっ てい くこ とを 意 味す る。
リー
チ は次
の ように仏
教につ い て書 くこ と になる。
仏
教の 目 的は二元論
の彼
岸に存 在
し,
し か も二 元論
に と ら わ れ るこ と な く そ れ を使
い こなせ る ような精 神
状 態 を 作 ることにあ る とい う
。
禅 宗
と真 宗
は個
人の努
力 と自
己忘 却
の謙 虚
な プロ セ ス をそれぞれ代 弁
し ているが
,
彼
(大 拙 )は,
はっ き り と違っ た二つ の道 も 小 山の頂 上では 再 会 す る と語っ た。
『 私の宗
教 的 信念
』(1953
年
)とい う 文章 (
北
郷 鷹 生 訳 )で は次の通 り である。
美の
道
が現 代の平和へ の道で あ る。
世界 の東
と 西 と の橋
渡 し を す る の が美の道で あ る。
これは柳の仏 教 美 学へ の強い共 鳴に発し た言 葉で あ る が,
リー
チの信念
と も結 びつけ ら れ る。
柳の 仏 教 美 学に つ い て,
リー
チは次の ようによ く理 解し ていた。
柳
が提
唱 してい る のは,
自我 中 心 主 義 とお ごり を 捨て去 ることであ る。
非利
己的
な 芸術
が柳
の関
心事
であっ た。
・一
チ脚
・も興 味
を・・ てい た・
禅
a
・話
・触
れ た の ・・
高 概
太郎
とiilP
に よ鮴
・く・鈴 木
大拙
につ よ く1
感 化された。
(大 拙は学 習 院 時 代の柳の師の一
人で もある)。
リー
チ は次の よ うに書 く。
…
・鋤 礎 、と・多 蜘 ・道、・つ ・・て糊 して ほ しい 獺 ん だ。
彼 (対 出)・私の鷲 チラ。 と題 して,
・司
し
,
あな た が そ の二つ を分
け て お考
え な らば, まだ何
も お判
りに なっ ていない の で す。仏 教
に二.
/一
つ はあり ま せ ん。…
白
力道
を歩
む人,
た とえ ば孤独
な芸術 家
は,
大勢
が歩
く道
,
他 力道
の人 を忘
れて はい け ない し,
そ の逆に他 力 道の人 も 自 ガ 道の人の こ とを考 えな くて はい けない」,
と彼 はっ け加
えた。
リー
チは,
1962年
,
大 徳寺
竜 光 院の小 堀 (遠 州の末
孫にあ たる とい う)
院 主の言 葉 を 記 している。
悟り のない芸 術はあり得ません。…一
方,
芸 術 家は普 通,
天 啓の閃め き の みを得てい る のだ。
[
『日本 絵
日記
』亅
魅
畿 灣
叢
鯑
1
螺
讖
望
諄
1
難裁 訟
二
題
論
:
翫蟻
享
垢
澱 鍵
i
である
。
そ の た めこの 日記の中に は 目本
の 現状
へ の批 判
も多
い。
し か し
1909
年,
ハー
ン に よっ て憧
れ を抱
い て渡っ て来
た 日本の現 実には,
少なか らず 幻 滅せざるを 得 なかっ た。
お よそ2
年 後,
「自分は昔の 臼本の芸 術が昔の生 命と 共 に 消 失 し た こ と を 発 見 し た。
し か も今 続い て いるの は新 し い進 路に ある発 達の妨 害になっ てい る」と書い てい る。
志 賀 直 哉に よ る と,
す でに1910
年 代の リー
チ が,
「ハー
ン の書いたの は過 去の 日 本で, 現 在の [本で はない.
1と言
っ てい た とい う。 た し か に リー
チ は自 負して い た よ うに,
新しい 日本に つ い て見る力を もっ て い たの で あっ て,
こ のH
本に とっ て何が必要
か を洞察
し提
言す る こ と が でき.
た。
リ
ー
チ は1953
年か ら54
年にか けて の[]本 滞 在で は, 毎 日 新聞社
の後援
の元に多
くの民窯
を訪 ね,
その 記 録 を目 記に綴っ た
。
そ れが『[ 本 絵 日記』(III
しLstratedDiary
in
Japan
)
である。
木 村雅信 027
− 一一一
NNII-Electronic Library Service
i[
1953
年 当 時
のLl
本
の民 芸
につ い て の批
判
,
及
びそ
の他
の批 判 ]
彼 らには美 術 家 的 陶 芸 家た ち が ほ と ん ど持 ち
合
わ せ ていない謙
譲さ が あ る が,
確 信 と か指 導 力に欠 けて いる
。…
(伝統
を)見 損じ てい る。
(『凵 本絵
目記.
Ill953 年5月 )確 信
が ない とい うの は,
自我
中 心 主 義に対 す る嫌 悪 感 な ど を 表 すに は曖昧
とい うこ となど,思想
が育
っ ていな.
い とい う意
味であ ろ う。
次 は6
月 , 鳥 取で の民 芸 協 会 全国大
会で述べ た批 判
。ま ず 第
.
一
に, あ ま りにも大 勢の個 人作
家 ない しは芸術 家
がい る。
第
二 に,
民芸 家
で も ないの に民 芸 家の よう な 調子 で仕 事を し てい る 人 々 が
,
これ ま た大 勢い る とい う こ と。
…
すな わ ち,
現状
に おいて は,
芸 術家
は.・
方では 職 人 と,
他 方では工業と手 を た ずさ え て働 くことがで きる よ う
謙
虚さ を も た な け れ ば な ら ない。
り
一
チ は松 江で の講 演で, もはや その祖 先のよ う な宗 教
心を持
っ てい ない,
教 育
を受 け た 現 代 口本 人が作 り出 した,
も はや 民 衆の芸 術で はな く「民 芸調
」である も の につ い て,
民芸
とい う 言 葉を使 うべ きで は ない,
と攻 撃 し た。
「彼
らの作 品
には,
たい て い伝 統
と真
の芸 術性
の ど ちら も ない 」日
本
の伝 統
文化
に対
す る批
判。
まず
桂離 宮
の庭
園に関す る感 想……
「すべて はあま り に考
え抜
か れ,
あ ま りに も型に は まっ て い るの で
,
思 考や気まぐれな 空 想が自 由に 羽根をの ばす余
地 が ない 」庭 師の仕 事につ いて
。
(53
年
8
月,
金 沢 )……
大き な木に こ の よ う な技 術 と労 働と が かけ られて い るのを 思 う とき, 息がっ ま り そ うに な る
。
そ の効
果の本 質
は形 式 的 な ものであ る。
線 と かた ま りは,
生命
力 を 喪 失 した 伝統
に従
っ て作
ら れ る。
偶
発的
な や り方
は排
斥され,
創 造 的 な 概 念 は, お茶 や と りわ け生け花
に.
見 られ る ように
弱
まっ て し まっ てい る、
(53
年
8
月 )・
・
・
…
わ た し はH
本か ら は な れ ていた こ の19
年 問
に この 国で起こった こ とに つ い て,
た えず 考 えつづ けている
。
善であり, 真であり,
美であっ た あ ま り に も多
くの ものが消え去っ て しまい,
あまワにも多 くの 反対
物
が 生 ま れ てい る。…
東 京でいちばん大き な紙 屋の榛 原へ いっ て, 以 前い つ で もこの店
で買
っ ていた「
鳥
の子」や「ほ ど む ら」を 注 文し た ら,パ ル プ入 りのを渡
さ れ た。/ 料
埋屋
で は ラジオがひっ き り な し に鳴
っ ている
。
口
本
やア メ リカ の くだ ら ない感傷 的
な歌
。…
時
々 わ た し は 口本
の敗 北
の原 因の い くつ かをR
にす るこ とが ある。
不 信
と頼
りな さ と不 安 定 感
と混
り合
っ た,
国 民全 般
の.
西欧
へ の礼賛
,
そ し て地 方で の不 消 化,
(
略 ) (長 野で )……
そ して 実に ひ んぱんに 「ば か ものヤ ンキー
」の ジャズ 編 曲 を歌い ま くる の だ これ は米 国の宣 伝 では ない。
リ
ー
チは各
地の官 営
の工業 指 導 所
の内実
につ い て も批判
を浴 びせ る。……
これ ら の機 関
は,
凵本の工芸の遺 風を
育 成
する代
り に,
い わ ば外 国
の植 物
を輸
人 して,
し か も外来
の基 準に従
っ て,
成
長 させ るこ とば
か り心が け ている の である。
(現
在
の 九 谷 焼につ い て)
一・
偏 狹 な もの の 見方
が,
新 鮮 な 活 気 を 失 な わせ てい る,
と述べた。
民 芸 店 と称し て,民 芸 晶 など ない
。
(L
.
)……
柳の思 想は広まっ てい た のだ が,
柳の考え に あっ た 「民 芸 」は 早 く に衰
え を み せ ていた。
50
年 前
で さ え す で に そ う で あっ た が,
今
日 も変わ ら ない。
金子 賢 治 氏は「 選ば れ た民 芸 品がい い も の で あ る限りの こと だ が
,
そ れ を参考
に職
人 た ち が繰 り 返 し作
り続け て.
行 けば よい の で ある。
その 指 導 者 と し て具 眼の個 人 作 家が起 用さ れ るの も よい だ ろ う」と述べ てい る。 これ は リー
チの提
言に添っ た もの で ある。
(
良
い工芸 家の指 導
する 工房に は)
概 念
や技 術
の ゆっ く り し た受け渡
しが,修業
と実践 という状
況の下で行わ れ得
る。
自
分の説
く と こ ろ を実践
し てい る人
の指
示には重みが ある。 (L
.
)民 芸の退 潮は
,
民 芸 品の美
し さ と質 を 見 届け続
け る芸術
的 な 眼 力の入と の連 繋 が なかなか得 ら れ なか っ たか ら.
で あ る,
と筆 者は考え る。
「リー
チの喜 び]
リ
ー
チの批 判 す る 内 容 を先に並べ た て たけ れ ど も,
この ]953
〜
54
年
の旅
に おい て リー
チ は,
日本
文 化の賞讃
す べ き とこ ろ に巡 り合 うこ とにも恵 まれ,
深 く心 を揺 り動か さ れ てい る の である。 028 バー
ナー
ド・
リー
チの詩と信 条 N工 工一
Electronic LibraryNII-Electronic Library Service
1953 年 LO月
,
リー
チ は富「「「の城 端 (じょうは な)別院
にある地元の 民 芸 協 会の 会 合に出 席 した。
この大 別 院の
僧 侶
た ち は昔
か ら の熱
心 な(民 芸a))支 持 者であっ た。…
男 ばか りの見 事 な 民 俗舞
踊 を 見せ て1
貰っ た
。
この 踊 は男ら しい力
と活 気に あ ふ れ,
しか も的 確で あっ た。
こ の舞 踊 と は「
.
麦
や節 」(む ぎ やぶ し)の ことに違いない 。城 端
に隣 接
す る 五箇 山
の民 謡で,
明 治40
年 代の始 めに振
付され た。
筆 者の知る限 り,
日本
の民 俗舞 踊
の うち で最
も品 位
の高
い曲 調であ り,
振 り も溌 刺 と して心 踊 ら さ.
れ ずに は お かない。
城端 別 院
とい えば,
1946
年
5
月,
柳 宗 悦
は そこで初
めて「 色 紙 和 讃.
1を目
に し た。
そ れ は親鸞
聖人の和 讃を赤と.
黄の雁 皮 紙に交 互に刷っ た,
400 年ほ ど昔の版 本である。
1948
年
2
月,
柳
は城 端 別 院の客 と な る こと70 日に及 ん だ。
そ の間に大 啓が訪れた。
『大 無 量 寿経
』の中
の 四十
八 の大 願の う ち第
四 願に至 っ て, ほど けゆ く想
いが 心に溢
れ た。
そ う して ま と めあ げた一
文
は.一
日に し て生 ま れ た とい う。
そ れ が「美の法 門 」である。1953
年
の城 端別 院
に は柳
も同 行
し てい る。H
記に は記 述がないが,
リー
チ は果 して「色 紙和 讃
」を.
見る こ と が で き たの だろ うか。
11954 年 10月の こと
,
島 根 県 出 西 (しゅっ さい )の窯で,
リー
チ が まのあた りに し,
見 学 者 全 員が認め た奇 蹟 的な 事 象につ いて,
リー
チ は記 録 し てい る。…
もう.一
つ の く力〉が作
用 し てい た。
私の力で は な く,
(船 木 )研 志の腕
で も な く,
陶
土や良
い轆 轤
の せい でさ え な く
,
そ れ自
身の た めに造 ら れたまとま りの良
い優
れ た陶器
の誕生
を阻害
する自
己主
張の自 我 が な かっ たことに よ るの であ る。
1くも う
一
つ の力〉, こ れ こ そ 「.
創 作
にお け る他
力」とい うべき ものを,
リー
チ は強 く意識
し た、
。二
1
二
賢
驚
皺
惣
驚
議
で
憲
臨 鴛
勢
ミ雛 聯
齢漿
鋭 霧 蕊 惣
1
れ
,
職 人との完 全 な 協 力 関 係に加わ れ る時,
そ し て 工 人達
が真
と美とい う 目的のた めにその芸術 家
と一
緒
になれ る時, そ の
時
こそ. ある種
の九
阿 弥 陀,
生 命 その もの,
芸 術 家 と工 人の どち らよ り も大
き な力
が,
自
1
働 的
に解
き放
た れ る の です。
(
L.
)
こ の 『口
本 絵
冂 記』のハ イラ イ ト は 小鹿田(お ん だ,
大分 県日 出市皿LLI
)滞 在である こ とが判る。
まっ た く
,
この [,
わ た し を ふ た たび東
洋に来さ せ るに至 っ た真の動 機 とい っ た ものをはっ き り と わ た し1
は知っ た
。
そ れ は,
小屋に住む未 知の工人たちと ともに生活
し,働
い て,
産業 革
.
命
以来 失
わ れてし まっ た 綜合
性と謙
譲さ を学び と る こ と なの で ある。(
54
年
4月 〉
リ
ー
チ は小 鹿 田で,
日本 全 土の うち で こ こだけ に し か ない「把
手のつ いた 水 差」を 見 出 した。
ま た リー
チは,
宋
代か らの手 法である, 工 人 たちが 「飛金
」(
とびか ね)
と呼ぶ技
巧 を 学んだ。
(今 日で は「.
とびが ん な 1 と呼ん でい る) そ して自 分の焼 物は,
あまりに飾
りに念
を 入 れす ぎた と反 省 するので あ る。……
わ た し の焼物
は,
もっ と 工夫 を1少な く し て
,
新 鮮
な,
裸
の本 能に従い,
過 去へ の依 存 を やめ て そ の時の直
観に頼
る必 要がある。
/ 柳の審 美哲
鯤
糊 禦濃 蠶
灘
猛
鑑
第
疆
蜜
簾 繼
:
卜鵯
躍 隔強毳
1
隸 二
讐
1
のは
,
僑 念 と謙 譲さで ある。(
L
.
)
1
「
[リ
ー
チ
の宗 教 観
の成 熟
」
垉 元では 拮んた.
1という。
リ
ー
チ が画 家にして親 友マー
ク・
トー
ビー
か らバハ イ教の話を聞いたのは 1932 年の こと である。
そ し てバ ハ イ.
の信 仰を 受 け 入 れ た のは1940
年,
リー
チ が 53歳の時で あ る。
/
バ ハ イ教の 創 設 者バ ハー
ウッ ラー
(
一
神
の栄 光 ) は、
/8
・7
年・ぺ・レシ ア で 生 ま れ、
・。年 黼中
。あ。 た の ち7 、892
年
.,レ ス チ ナで死 ん だ.
1
バ ハ イで は
,
世 界の宗 教の本 質は た だ一
っ に帰 すると認め, 地 上の平 利 と統一
が究 極の 目標 と さ れ てい る。 あ ら ゆ る偏 見の 除 去, 正義
・
教育
の普 及,
男 女の平 等,
科学
と宗教
の調
和な どに教 理の基 盤 をおい てい る。
バ ハ イ教 徒 と して の信
仰
を確
か な もの と して い く際,私
がそ れ まで にゆっ く りと集め たい くつ かの確
信のう ちで唯
一
rF
放
した もの は,
自我
を環の中 心 とする考
えであっ た。
その代 りに,
「.
他 力」す な わ ち神
一
を輪の中 心に
置
き換
え て み た ところ,
その結 果は奇 妙な もので,
ばらば らだっ た ジ グソー
パズルの ピー
スが そ1
木 村 雅 信 02gNII-Electronic Library Service
れ そ れの場 所に お さま りは じ め た
。
(
略)
鈴 木
禎
宏 氏 は書
いてい る。……
リー
チに とっ て「他 力」と は こ の世 界に偏 在 す る「神 」と同 義であり,
こ の神
は この世の 生 き と し生 ける もの を 生か す「生
命
そ の もの」であっ た。
自 分 を生かす力
,
あるい は,
自
分があ る種の力に よっ て生か さ れ ている とい う
事 実
を実 感と して リー
チが受
け止め,
他 者
の存 在 と働 き が 自 分 という存 在
を形づ くるこ とを
感 得
し た と き,
リー
チには「自力 」と「他 力
」と いう一
見 対 立 す る ものが もはやそ の対
立の体
を
成
さぬ も の に観
じ ら れ たの で は なか ろうか。/
リー
チ は 1’
他 力」を「天か ら の力」と呼 び,
ま た「天 国」,
す な わち「 天
.
ヒの美の円 卓 が あ る 場 所」を「物 差
しの ない ところ」と述べ てい る。
(
略)
70
歳
を 越 えて到 達 した境 地で あ る。
し か し彼は芸 術 家であっ た か ら,
他 力
に一
切身を任せ ること はなか っ た と 思 わ れる。
バ ハ イ の教え か ら は,
さ らに リー
チの平 和 を希 求す る思想
が広
がっ てい く。
(
53
年9
月 )……
「も し 人 類の団 結が成 就で き,そ れに合
わ せ て平 和が得 ら れ る な ら,わ れ われ は物 質
よ り精神
を重 し と み る か
,
精 神よ り物 質 を 重 し と み る かい ず れか一
つ を 選 ば な け れ ば な らぬ。米
国はわれわ れの運 命 を手
中に握っ て お り, しか も世界
「自
で最
も機 械 化
さ れ た 国 だか ら,
ま ず最 初
に こ れ を選 ば ね ばなら ない.
」一
・
・
…
50
年 以、
ヒ前の言 葉
であるが,
今
日の状
況 を 思 は ずに はい ら れ ない。
り
一
チは『口本 絵
日記
』の中
に トイン ビー
の「原子力 時
代にあっ て は,
臼滅に代 わるべ き唯一
の代 案
は団結
以 外に ない 」とい う 言 葉を記 して い る。
も し人 が
,
自 己 破 壊の力を初
め て手
に握っ た現代
にお い て,生命
そ の もの と一
体 化 す るこ と を 選ぶな ら ば,彼は, バ ハ
ー
ウ ッラー
が彼の成 熟 と称 す る もの を達成
す る こ と に な る。
(L.
)リ
ー
チはこの1953
年
,
あ る 日 本 人に宛てた手紙
の巾
で次
の ように書いている。
美術
工芸の分 野に お け る東 西の融 合とい うこ と も,
バ ハー
ウッラー
の説い た 人 類 の融 合と成 熟 とい うさらに いっ そ う偉 大 なヴィ ジョ ン の ほ んの断 片にす ぎ ない
。
(『私の宗 教的
信念
』)(53年 11 月 )
……
1.
…
全世
界を 照 らすそうし た光 な くし て, は た し て わ れわ れは平 和 を, そ して人類
の威熟
を見
出す こと が で き る だ ろうか ?」
最 晩 年
の セ ン ト・
アイ ヴスの リー
チ は次
の戦 争
を思っ て 次のよ うに発 言
し た。(
棚 橋 隆
『魂
の壷
』よ り)
「も し も そ れ を
抑
止で き な かっ た ら世
界 は破 滅 だ。
私は ア ミダについ て考
え る。
永 遠 無 限の精 神 的 存 在を」以 上の よ うに, リ
ー
チの信 条
が展 開
して い っ た過 程が う か が え る と思 う。
1
リー
チの美
の基 準
と その影 響 ]
… 『APotter
’
sBook
陶
工 の本』の第
一
.
・
章でリー
チは, 時代
と地 域を超
え て通 用 する よう な 基 準の必 要 性 を説 き,
現 代
の作 品
は人 類が これ まで に到 達 した 最高 峰
を基準
と し て測
ら れ るべきだと記 し た。
その最高 峰
とい うの は中
1
国 宋代
の陶 磁 器であ っ た。
宋の陶 磁 器 が 欧 米で見
ら れ るのは 1920年
頃か らである。
1935
年の英国 で最大 の芸 術 的1
な宋 陶 磁の展 示 が あ っ て,
リー
チ ら を震憾
さ せ た。
…し か し そ の 影
響
の 深さ を証 明 する もの は,
その結 果の中にある。
す な わ ち
,
わ れ わ れ が深 く感 動さ せ られ た結 果 と して行 う 実 際の行 爲の
中
にある。(
L
.
)
L
の リー
チ噬 勦 教 方は反 軅 も招いた。
とく。米 即 ,駄 家には・ア .リ。 には脯 が ない のだか ら、と 1言っ て リー
チの考.
え 方 を 受 け入 れ ない.
者が少
な く な かっ た。
アル フ レ ッ ド大 学の設 備 は す ば ら しかっ た。
し か し生きて い る陶 器の
方
はお留 守 だっ た。
伝 統が ない とい うこ とは根 が ない とい うこと である
。
米 国
の陶 芸家
は個
性 化に走
り,
新し く見 えるこ とだけを追
っ て いた。
リー
チがつ ねに考 えていた焼 物の生命
力す な わ ち「 伝統
的な考え方の価 値 と力」が,
米 国にはない こ とにな る。
リー
チはフ ラ ン ス と ス カ ンジ ナビ ア の陶芸 につ い て も,
「
生命
感 が 欠如
して い る」と 述べ て い る。
リー
チは 1950年,
米 国か ら 口 本に向か う太平 洋上 で記し てい るb新 しい 認 識は
,
私が.
占い文 化の中に生ま れ たこ と を感 謝す る気 持で あ る。
こ の ような「基 準 」を 指 標と し て
胃
く リー
チ に とっ て,
ピ カ ソのよう な 仕 事 は 陶 芸とは み な され ない。
「陶 芸 家で は ない。…
ピカ ソ は偉 大 なア クロ バ ッ ト,
発 見者
。 た えず
ス タ イル を 変 えて別 人にな る」。
リー
チ はピカソ の歌 を.
作っ て, ピ カ ソを ジンジャー・
ブレ ッ ド と言
っ てい る。
脆 くて砕 け や すい,
把 ま え る な ら把 ま えて ご ら ん,
とい っ …た 内 容であ る.
しかし, 変 化 してやまない というこ と は生命 感
はある とい うこ とだか ら,
筆 者は ピ カ ソ に と く に 030 パー
ナー
ド・
リー
チの詩 と 信 条 N工 工一
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注 目 する者で は ない が
,
彼が一
人の 際立 っ た創 造 者で あっ た と考え る。
[リ
ー
チ
の芸 術 思 想 亅
自伝 的 論稿
『東
と西 を 超え て』(
Beyond
East
andWest
1978)
は リー
チの最 後
の著 作
である。
こ の回想
の書
は,
様ざ ま な文 章の中に