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Commodities-monies Circulation and Towns during the Early Middle Ages of Western Europe : A study based on the Belgian Works after H. Pirenne

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九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

Commodities-monies Circulation and Towns during the Early Middle Ages of Western Europe : A

study based on the Belgian Works after H.

Pirenne

森本, 芳樹

https://doi.org/10.15017/4403539

出版情報:經濟學研究. 40 (4/6), pp.137-199, 1975-12-05. Society of Political Economy, Kyushu University

バージョン:

権利関係:

(2)

廂 品 ・ 貨 幣 流 通 と 都 市 ( 2 )

ー ピ レ ン ヌ 以 降 ベ ル ギ ー 学 界 の 成 果 を 中 心 と し て 一 一

森 本 芳

〔 目 次J

は じ め に

I. 西欧中世初期における商品・貨幣流通 1,  商品流通の主要な諸局面

a)外部諸世界との経済的交渉 b)奴隷商業の性格

c)西欧内部における商品流通 2.  商人の諸形態

3.  流通税と有力領主層による商品流通 4.  中世初期における「貨幣経済」

小 括

〔以上第39巻合併号J II.  べ)レギー諸地方における中世都市の初期的

諸形態

1.  フランドル地方

カントヴィク,ブリュッヘ,ヘント,ヴァラ ンシェンヌ,オウデナールデ, トルホウトー イーペルーメーゼンーリ)レーエー)レーカッセ

) レ

2.  ミューズ河地方

ユイ,ディナン,シント・ト)レイデン 3.  ブラバン地方

ブリュッセル etc.

皿べ)レギー諸地方における中世都市形成過程の 主要な諸問題

1.  中世都市形成の起点ーー中世初期の地位一一 2.  中世都市形成の起動力

3.  有力領主層の役割 結論にかえて

文 献 目 録

[以上本号J

I I .   ベルギー諸地方における中世都市 の初期的諸形態

H.  ピレンヌ以降, ことに第二次大戦以後,

ベルギー学界が生み出した中世都市に関する業 績はきわめて多いが,中世初期についても,資 料上の様々な制約にも拘わらず,興味深い研究 成果があげられている。そして, ここでもま た,ピレンヌに集大成されていた中世都市の成 立に関する所説が実証的に批判され,いくつも

の新しい観点が提出されていることが注目をひ く。本章では,再び戦後ベルギー学界の所産に 依拠しつつ,最近詳細な研究の対象とされた中 世初期ベルギー諸地方の都市をもれなく取り上 げるという形で,叙述を進めることにする。こ の領域は, フランドル地方, ミューズ河地方及 びブラバン地方という,それぞれ特有の仕方で 中世都市を成立させ,発達させた諸地方を含む とされているので, 本 稿 で も こ の 順 序 に 従 っ て,個々の都市に関する具体的な素材を提示す ることにしよう。

1.  フランドル地方 カントヴィク Quentovic 

メロヴィング期からカロリング期にかけて,

英仏海峡に臨んだ海港として繁栄したカントヴ ィクは,同時代の史料にも商業の拠点としてし ばしば登場し, ここからより北方にかけて所在

‑137‑

(3)

経 済 学 研 究 したいくつかの海港集落ー一ことにドゥールス テデ Duurstede一ーとともに注目をひいてき た。ピレンヌも,これらの集落を基地として行 なわれた商業が,全体として衰退したカロリン グ期経済のうちでは,一つの例外をなすと考え ていたほどである1)。 戦 後 の ベ ル ギ ー 学 界 で も,カントヴィクの役割については多くの論稿 でかなり詳しく触れられているが2り とくにこ れを主題とした論文としては,

J .  

ドーント

「カントヴィクの諸問題」 (1962年)3)がある。

ドーントはまず,カントヴィクの立地を確定 することから始める。カントヴィクがカンシュ Canche河に沿っていたことは確実であるとし ても,それがいずれの側の河岸にあったかにつ いては若千の論争があり,全体としては現在 の河口に近く,のちに都市エクープ]レEtaples が成立する地点に比定する見解が有力であっ た。これに対してドーント ~:t. 7‑8世紀にカ ントヴィクで鋳造された多数の貨幣に,当地が 南岸のポンティウ Ponthieu管区に属すること を示す銘があることを有力な根拠として,左岸 説をとり,エクープルより 10kmほど上流のあ たりにあった Wisという地名に着目して,こ こをカントヴィクの立地と考え,その上で,海 港としての機能が右岸にまで及んでいたことも 認めている。こうして,カントヴィクを通説よ りかなり上流に立地させるのは,その消滅に際 して都市的機能がすぐ近辺のモンルーユ・シュ ール・メールMontreuil‑sur‑Merに継受され るとする議論の伏線であるが, カントヴィクが 集落としては左岸にありながら,右岸も商業活 動の舞台を提供していたと考えるのは同じ時 期にライン・ミューズ河口地帯のドゥールステ デが,商人定住地の拡大に伴って集落そのもの を両岸に広げていた,という最近の指摘4) とも

第40巻 第4,5, 6号

対応して,カントヴィクの商業中心地としての 役割をなるだけ大きく評価しようとする意図を 示すものであろう。

カントヴィクが成立する時期をドーントは 7 世紀中葉に求めるが,それは, 7世紀後半には

ここがイングランドと大陸を結ぶ最も重要な港 として史料に登場すること見及び,イングラン

ドにおいて発掘された貨幣によって, 670年こ ろからは確実に造幣所が機能していたことが明 らかになること,などを根拠としている。そし て,カロリング期になると,カントヴィクは史 料にくportus),あるいはくemporium)と表現 される商業中心地として現われ,造幣所の機能 もより規則化されるとともに,流通税の徴収所 が置かれるのである。それは単に商人の会合 地や商品の積替場所なのではなく,住民自身が 能動的に商業に従事しているような集落なので あり,その機能の恒常性が, (dux〉 あ る い は (prefectus〉と呼ばれるカロリング国王の高級 役人一一これは貨幣鋳造や流通税を管轄するば かりでなく,イングランドとの外交交渉をも委 ねられていた一ーの駐在によっても保障されて いた,とドーントは指摘する。そして,カント ヴィクが主として木造建築物から成っていたと しても, 9世紀の後半には何らかの形で城壁を 備えていたことが確実だった, とみるのであ る。このようにしてドーントは,中世初期,こ とにカロリング期のカントヴィクをかなり発達 した商業的集落と考え,これを都市と呼ぶこと をためらってはいないのであるが,その都市的 機能が必要とされた基本的要因は西欧と北海 周辺諸地域一ースカンディナヴィア及びイン グランドーーとの経済的交渉の深化に求めら れ, そこから, バルト海に成立した^イタブ Haithabuとビルカ Birka,さらにライン・ミ

‑138

(4)

ューズ河口地帯のドゥールステデなどとの同時 代性が強調されることになる6)0 

ところで, カントヴィクの歴史において最も 興味深いのは,それが10世紀以降まった<何の 痕跡も残さないまでに消滅してしまった, とい う事実である。しかも,イングランドとの交通 に重要な役割を果している周辺の諸都市に目を 向けてみれば, ローマ期から存在するフ`ーロー ニュ Boulogneと]レーアン Rouenも,さらに カロリング期に生れるフ`リュッヘ Bruggeも 中世を通じて存続するのに,メロヴィング期に 生れたカントヴィクは,同じくドゥールステデ とともに消滅してしまうのであって, これはま ことに奇妙な現象と言わねばならない。そし て, 11世紀から展開するという中世都市の形成 にカントヴィクとドゥールステデが直接の寄与 をしたことを否定するピレンヌの場合には,こ れらがノルマン人進攻によって完全に破壊され てしまったと考えられているが,この点につい てはその後多くの批判が出されており,これら 両都市がノルマン人の攻撃対象とされたことは 確実であったとしても,破壊はけっして徹底的 でなかったと考えられるようになっている7)

ドーントも,主として古銭学からの所見に依拠 しつつ, カントヴィクがむしろ10世紀初頭に漸 次的に消滅したとみて,その要因を別のところ に探ろうとするのである。

この場合, ドーントの議論が整理された形で 提出されているとはけっして言えないが,カン トヴィクを取りまく経済的,社会的,さらに自然 的な諸条件を次々と検討する暫新な仕方がみら れる。まず,いわば「国際経済」的な環境の変 化として指滴されるのは, 9世紀後半に東欧に おける状況が変って, 6世紀に切断されたとい うスカ ノディナヴィアと地中海東部との直接的

経済交渉が復活し,これによって,スカンディ ナヴィアが西欧との貿易を従来ほどは必要とし なくなった, という点である。しかし,西欧と スカンディナヴィアとの商業が依然として行な われていたことは確実であり,また,もしその 収縮があったとしても,西欧とイングランドの 交渉における基地であったカントヴィクに,そ れが決定的な打撃を与えたとは考えられない。

次に,度重なるノルマン人の進攻が醸成した混 乱のうちにあって,集落の立地としては防備施 設を設け安い場所が選ばれるようになるとい

, 9世紀後半西欧の社会的事情によって,河口 に近いカントヴィクが捨てられたのではないだ ろうか。しかし,当時ここに城壁が存在してい たという事実を想起するとき,それだけではカ ントヴィクの消滅を説明しきるものではないこ とも明らかである。このようにして二つの要因 をあげ,しかもそれらがいずれも決定的と言え るだけの作用を及ぼさないと考えるドーント が,結局は最も重要性を認めているように思わ れるのが,海面水準の変化という自然的要因な のである。

中世初期に英仏海峡から北海にかけての海岸 線が大きな変動をみせていたことは, 自然科学 の側から充分に明らかにされているが,カント ヴィクについてもドーントは次のような事情を 指摘する。そもそも,ローマ帝国末期に西欧と イングランドを結ぶ主要な港は北方約20kmに 位置するフニーローニュであったのに,中世初期 にカントヴィクがこれに取って代った原因は,

海進によってプーローニュ港が充分に機能しな くなったからである。数世紀たって,まさに同 様の事態がカントヴィクについて起ってくるの であり,海面の上昇に対する港の適応も当時の 技術的水準によって大きく制約されていて, 9 

(5)

経 済 学 研 究 世紀の後半には海港としてのカントヴィクは著

しく不利な地位に立たされてしまう。そして,

これに代って登場してくるのが,同じカンシュ 河に沿ってさらに約 10km 上流のモンルーユ•

シュール・メールなのであり, 10世紀中葉まで には,カントヴィクの果していた商業的集落と しての機能ほ,完全にここに移動してしまうと いうのである。

た し か に 次 項 で 検 討 す る プ リ ュ ッ ヘ の 場 合 と比べて,カンシュ河口周辺における海面水準 の年代的な変化は詳細に明らかにされているわ けではなく, ド ー ン ト も そ れ を 充 分 に 意 識 し て,以上の指摘をあくまでも一つの仮説として いるのであるが, ともあれ,カントヴィクの消 滅に自然的条件が大きく作用しているという考 え方は,きわめて重要な意味を持ちうるのであ る 。 な ぜ な ら そ れ は カ ン ト ヴ ィ ク の 果 し て い た都市としての機能が, 9世紀から10世 紀 に かけての何らかの社会経済的な必然性によって 失 な わ れ て し ま っ た の で は な い こ と を 示 唆 し ているからである。しかも,カントヴィクのそ うした機能が,すぐ近辺に成立してくるモンル ーユによって継受されているのであれば,中世 初期における西欧経済の展開のうちで,カント

ヴィクの消滅は単なる一挿話としての位置しか 持たないことになるであろう。そして,カント ヴィクと同様に消滅していくドゥールステデの 場合にも,しばしば海面水準の変化が考えられ ているようであり8)' しかも,代ってライン・

ミューズ河口地帯に成立し,やがては本格的な 中世都市に成長するデフェンテルDeventerと ティールTiel

t

こよって,その機能が受け継が れているのをみるとき丸 メロヴィング期に登 場したこれらの海港都市が,短い生命にも拘わ らず,西欧における中世都市の形成に本質的な

第40巻 第4.5.5号

役割を果したことが確信されるのである。

1)  1:::"レンヌ,中村宏,佐々木克己訳『ヨーロッバ 世界の誕生」創文社,昭和35年, 338 45ページ。

ただしビレンヌは,地中海世界から全く切り離さ れていた点にこの商業の限界を指摘し,さらに,

9世紀後半になるとそれがノルマン人進攻によっ て完全に消滅してしまうとして,カロリング期ネ ーデルラント海岸地方の商業的集落を,西欧中世 都市形成過程の本質的要因とは認めていないので

ある。

2)  E. Sabbe, Les relations economiques entre  I'Angleterre et le  continent du Haut Moyen  Age,  Le Moyen Age,  1950,  pp. 17193; J.  Dhondt, L'essor urbain entre Meuse et Mer  du Nord a l'epoque  merovingienne,  Studi  in  onore di A.  Sapori, I,  Milano, 1957, pp.  5578; A. C. F. Koch, Phasen in der  Ent‑ stehung von  Kaufmannsniederlassung  zwi‑ schen Maas und Nordsee in der Karolinger‑ zeit,  Landschaft und Geschichte.  Festschrift  [Ur  F. Petri,  Bonn, 1970,  pp. 31224. 

3)  J. Dhondt,  Les problemes  de Quentovic,  Studi  in  onore  di  A.  Fanfani,  I,  Milano,  1962, pp. 183248. 

4)  Koch, op. cit.,  pp. 3146. なお,コッホは カントヴィクという地名が複数で表現されること があった点を根拠として,カントヴィクの立地に ついても両岸説を強く押し出している。

5)  本稿c1), r経済学研究」第39巻合併号211ペー ジを参照。

6)  本稿 (1), 213ページ注19)を参照。

7)  Sabbe,  op.  cit.,  p.  185; Koch,  op.  cit.,  pp. 3178. 

8)  Dhondt,  Quentovic,  pp.  247 8; なお, F. Petri,  Die  Anfiingen  des  mittelalterlichen  Stiidtewesens  in  Niederlanden. und  dem  angrenzenden  Frankreich,  Studien  zu  den  Anfangen des europaischen Stadtewesens, Vor‑ trage und Forschungen, IV, Lindau‑Konstanz,  1958, p. 265では,河川の移動が想定されている が,Koch, op. cit., p. 323では,これについて の判断は保留されている。

9)  この点を強調するのは, Koch,.ibid., pp. 318,  322である。

(6)

ブリュッヘ Brugge (ブリュージュ Bruges) 中世都市フ`リュッヘの重要性, ことに中枇後 期の西欧における国際的な商業と金融の中心地 たる役割については, 広く知られているが見 中泄都市の形成過程についても,ブリュッヘが ピレンヌ説に有力な材料を与えていた点が注目 されねばならない。ピレンヌ以降のベルギー学 界においても,都市ブリュッヘの成立史はこと にヘント大学の中世史家によって好んで取り上 げられたテーマであったが,戦後の研究として 最も注目されるのは,歴史学の側からの成果だ けでなく, 同じヘント大学の自然科学系の研 究 者 に よ る 業 績 ことに「ダンケルク海進」

Transgressions dunkerquiennesと呼ばれる 数次にわたる海面水準の変化に関する所見2)を 摂取した特異な労作, A.フルヒュルスト「都 市ブリュ、ジヘの形成諸要因と初期の歴史 (9‑

12世紀)」 (1960年)3) であろう。

そもそも,プリュッヘがピレンヌ説の有力な 根拠となっているのは,まずフランドル伯によ る城砦があり,ついで,イングランド貿易も含 む遠隔地商業に従事する商人がその周辺に集落 を発展さ吐て都市を形成するというように,受 動的要素と能動的要素による二元性というピレ

ンヌ的図式に適合的な経過が, ここにも見て取 れると思われたからであった1)。 フルヒュJレス トはおそらくこの点を考慮に入れて, この論文 ではフランドル伯の城砦と住民の定住地をそれ ぞれ検討の対象としている。まず城砦について は, その構造を史料から確認できる 12世紀初 頭から出発し,年代的に瀕行することによって 以下の点を明らかにする。すなわち,最初この 場所に防備i施設が置かれたのは, 9世紀後半,

おそらくノルマン人の進攻に対抗してのことで あったが,その後11世紀中葉,おそらくフラン ドル伯ボードワン Baudouin 5世の時期に,

大きな改造があった。そのとき出来上った城砦 は, 全体として堅固に城壁と堀に囲まれなが ら,東西に貫通する道路によって,教会諸施設 が置かれた部分と伯の新旧二つの屋敷が置かれ た部分に二分されている, 大規模なものであ る。ここで重要なのは, これらの教会諸施設に 伯の行政役人としての聖職者がかなり多数居住 していたことや,伯の屋敷の規模から見ても,

この時点からの城砦は,伯の行政と所領管理の 拠点という機能をますます強めている点であ る。そして, ブリュッヘにおける城砦の改造 が,のちに見るように,フランドル伯による都 市建設,大市の組織,行政機構の整備など一連 の諸政策と平行していたことにも予め注意を向 けておこう。

次に,城砦の西側にあって, 12世紀初頭には すでにかなり発達していた市民の集落につい て,フルヒュルストは,ブリュッヘと海との連 絡のあり方に重点を置いて検討を加える。そし てこの場合にも,ブリュッヘが国際的海港とし ての地位を確立した12世紀末を出発点として,

瀕行的にその起源を探ろうとするのである。そ れによれば, 12世紀末の海港としての好条件は 古くから与えられていたのではなく, 12批紀中 葉に起ったダンケルク海進のIIIB局面によって ブリュッヘ近くまで湾が形成され,しかも,これ との連絡を確保するために, 1180年に外港都市 ダム Dammeが建設され, かつそこまで運河 が開削されるという歴史的事清に負っていた。

それ以前の時期にはブリュッヘの海との連絡は きわめて悪く,ダンケルク海進のIIIA局面によ って集落の北側かなり近くに満潮時にだけ浅瀬

(7)

経 済 学 研 究 が生じていた11世紀前半を除くなら,殆ど海港

とは呼べない状況であった。そして,それ以前 にブリュッヘが港として充分に機能していた時 期を求めるなら, 5世紀から8世紀まで続いた ダンケルグ海進のIl局面によって,のちに城砦 が建てられる場所の真下まで水路が入ってきて いた9世紀前半以前, ということになるのであ る。

以上のような考察から, フ)レヒュルストが再 構成するのはほぼ次のような経過である。すな わち,海から入ってくる水路と内陸部からの道 路が交叉する場所に,ほぼ9世紀初頭に自生的 に生じた集落がプリュッヘの出発点であり,そ れはおそらく, 8世紀から9世紀にかけて北海 沿岸に多数生じていた商業中心地(→Seehan‑

delspla tze)の一つであった。その後9世紀後 半になって, フランドル伯による城砦が設けら れたが,そのころにはすでに砂の堆積によって 水路が閉鎖されつつあり,ブリュッヘは海港と しての意味を失ないつつあった。そして, 10世 紀のプリュッヘは,むしろ降上商業におけるそ の役割と, とくにフランドル伯の行政(所領管 理を含む)機関の所在地という機能によって存 続していったが, 11批紀にフランド]レ伯によっ て城砦が改造されるに至って, この方向での発 展を強めながら, 12恨紀末の国際的海港への転 身を待望することになる, というのである。

以上のようなフルヒュルストの所説は,城砦 と定住地の関連についての従来からの考え方を 否定して, しかも, 9世紀末以降に想定され ていたブリュッヘの起豚をほぼ 1世紀涜らせ るという,大胆な内容を持っているが,なおペ ルギー学界で全面的に受け入れられてはいない ようである。例えば, A.C. F.  コッホ「12世 紀に至るプリュッヘの地誌的発展」 (1962年)5) 

第 40 巻第 4• 5• 6号

では,ブリュッヘの水文的諸条件の検討に教区 制度の展開に関する所見を交えた詳細な議論が 展開され, 9世紀末においてもプリュッヘが海 港として機能しえたことが主張されて,集落の 起源もやはりこの時期に求められている6)。 ま た,ブリュッヘの歴史に関する最近の概説にお いて,

J .

A. ファン・ホウデは,ブリュッヘが 9世紀初頭に成立したとする説にかなりの根拠 があるとしながらも,中世都市として連続的に 発展をとげていくような集落が確実に存在して い た 時 期 は や は り 9世紀末であったと述べて いる7!。 従って, ことにブリュッヘの起点につ いてはなお研究の深化が望まれるのではある が, ともあれ, フルヒュルストのこの論文が,

中批都市の成立に関するピレンヌ的図式を打破 する上で,大きな意味を持っていることは否定 できない。それは,一方ではいわゆる「商業 の復活」 Renaissance du  commerce をは るかに渤る中世初期に, ブリュッヘの起源が あることを示しえたとともに, 他方では, 中 世後期に国際的な商業と金融の中心地となる第 ー級の中世都市ブリュッヘにして,その歴史の きわめて重要な一つの時期において, フランド }レ伯の領邦君主的都市政策の枠の中でのみ発展 しえたという事実の指摘を通じて,中世都市の 展開において有力領主層が単に受動的要素たる に止まらないことをも示しているからである。

1)  ブリュッヘの歴史の概観としては, J.A. van  Houtte,  Bruges.  Essai  d'histoire  urbaine,  Bruxelles, 1967がある。

2)  地質学,土壌学などの成果を歴史地理学的研究 に応用するのは,フルヒュルストの独壇場である が,中世初期の領主制研究にかかる手法が見事に 適用された諸例は, 拙稿「『古典荘園制」に関す る最近の研究について―‑A. フルヒュルストの 所説を中心に_」『経済学研究」第34巻第2号, 昭和43年, 49 63ページに紹介されている。

(8)

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中世初期におけるヘント 3)  A.  Verhulst,  Les  origines  et  l'histoire 

ancienne de la  ville  de Bruges  (IX← 

x n e  

siecle),  Le Mayen Age, 1960,  pp. 37,.̲,53̲  4)  ヒ゜レンヌ,増田四郎,小松芳喬,高橋幸八郎,

高村象平,松田智雄,五島茂訳『中世ヨーロッパ 経済史』,一条書店,昭和31年, 54ページ;同,

佐 々 木 克 己 訳 『 中 世 都 市 ー 一 社 会 経 済 史 的 試 論 一 』 創 文 社 , 昭 和45年, 124,.̲,5ページ。

5)  A.  C.  F.  Koch,  Brugge's  topografische  ontwikkeling  tot in de XIF eeuw,  Hande‑

lingen  van het  Genootschap "Societe d'emu‑ lation" te Brugge, 1962,  pp. 5,.̲,57̲ 

6)  ブリュッヘの成立においてノルマン人の役割を 高く評価しようとするコッホの所論については,

本稿 (1), 211ページを参照。

7)  van Houtte, op.  cit.,  pp. 12,.̲,3̲ 

ヘント Gent(ガン Gand)

中世都市ヘントは,羊毛工業の繁栄によって 獲得したその重要な地位によって,多くの研究 者によって注目されてきただけでなく,中世初

期におけるその歴史もしばしば検討の対象とな ってきたが,そこにはやはり,中世都市形成に ついてのピレンヌ説が有力な材料をここから得 ているという事情があった。ところでピレンヌ は,ヘントについても, 10世紀ごろからフラン ドル伯の城砦の真下に発生してくる商人集落の 展開のうちに,中世都市成立の基本線を見出し ていたのであるが叫その後の諸研究によって,

第二次大戦ごろまでには, {portus〉 と呼ばれ る商業的集落がここでは2度にわたって形成さ れたと考えられるようになっていた。すなわ ち,まず9世紀初頭の第1次のくportus〉は,

レイェ Leie(リス Lys)河とスヘルデSchelde

(エスコー Escaut)河の合流点に所在していた シント・バーフ St. Baaf (サン・バボン St. Bavon)修道院の直下に成立したが, 9世紀後 半にノルマン人によって完全に破壊される。そ の後, 9世紀末か10世紀初頭に, 両河の合流 点より 1kmほど濶ったレイエ左岸にフランド ル伯による城砦が建設され,第 2次の商業的集

(9)

経 済 学 研 究 落は,その直後に城砦の出口にある橋を中心に して成立してくる。そしてこの第2次のくpor‑ tus〉こそ, レイエ河とスヘルデ河に挟まれた 地域を中心に,中世都市ヘントを作り上げてい ったというのである2)。 しかし,二つの商業的 集落の継起的展開というこのような見方も,そ の間にノルマン人進攻による完全な断絶を想定 している点で,中世都市の起源をカロリング期 に求めようとしないピレンヌ説を踏襲してい る,と言えるであろう。

第二次大戦後の研究は, 1950年代までに,一 方では史料の網羅的再検討を進めるとともに,

他方では地名学と考古学による所見を次第に蓄 積し, 1960年以降,中世初期のヘントについて 全く新しい歴史が描かれるようになってきた。

ここでも最高の業績はA.フルヒュルストによ るものであるが, ことにH. ファン・ヴェルフ ェケと連名で出された「ヘントの castrumと Oudburg.  フランドル諸都市初期史への寄与」

(1960年)3)  と,「都市へ ノトの初期史」 (1972  年)4) とが, 前者は主として城砦を,後者は主

として商業的集落を対象とした,きわめて興味 深い論文である。

まず第1の論文は,ヘントの城砦が 5haに 近いほどの広大な而積を占めるばかりか,南西 から北東に極めて細長い,特殊な形をしている という事実から出発する。そして, 10批紀の史 料のうちでは,城砦の全体が『新しいcastrum』 {novum castrum〉と呼ばれながら, このうち で南西部と北東部とが区別して扱われること が多く,しかも後者に対してほ,のちに『古い burg』{Oudburg)という地名が用いられるよ うになるという,一見奇妙な現象を指摘し,こ れら二つの部分を別々に検討の対象とするので ある。城砦の南西部については全体として一

第40巻 第4・5・6号

つの島をなして水流によっても防衛されている 城砦のうちで,この部分こそ本来の軍事的拠点 であり,かつフランドル伯による行政と所領管 理の中心という機能を持っていたことを確認す る。これに対して東北部は全く違った性格を示 すのであって,この点の解明こそこの論文の最 大の功績をなすものであろう。すなわち,フル ヒュルストがここで用いる方法は,一方では「記 述史料」 sources narratives,  erzii.hlende  Quellenの 網 羅 的 検 索 で あ り , 他 方 で は Oudburgという地名の分析なのであって, そ れによって,城砦の東北部には当初から都市的 な機能を持った集落が存在したことが証明され ることになる。

まず第1の仕方においては, 10世紀前半の

『聖バボ奇蹟伝』 {MiraculaSancti Bavonis〉 のうちの1節に注意を向けることから始まる。

すなわち,そこでは『新しい城で現われた奇蹟 を記憶にとどめよう』というように,城砦を舞 台として次のように語られている。 『この城の 領域のうちにはその薇能によって皮革エと呼 ばれていた世俗人達が居住していた。そのうち の1人が貪欲に動かされ,キリスト教の慣習か ら外れて,安息日に他の者より長く働こうとし ていた。 しかし, 仲間は彼を責めて,くなぜ,

すぐに休んで神と聖バボを敬おうとしないの か〉と訊ねた。『こうして, 10世紀前半の城砦 のうちに,少なくとも複数の皮革エが居住して いることが確実であり,しかも彼らの間には一 定の労働慣行に従う何らかの組織があったよう に思われるのであるが,これを出発点として時 代を下っていくと,この地区における皮革工の 居住を示す史料が中世後期まで多数存在してお り,かつ,ヘントのうちでほ皮革エだけがここ に同職組合会館を持っていたことが明らかにな

‑144‑

(10)

る。

さらにフJレヒュルストは,城砦の北東部に居 住していたのが皮革工に限らなかったことを,

第 2の地名学的な仕方で確認しようとする。そ のために, Oudburg という地名がなお完全に 定着していない13世紀末について,城砦北東 部の呼称を蒐集することをまず試みている。そ の結果, 城砦のこの部分は, {castrum,  cas‑ tellum〉,{burgus, borce〉,さらにくurbs〉と いう, 三つの系統の語によって指示されてお り,そして,しばしばこれらに『古い』 {vetus〉, {oud〉という形容詞が冠せられていることが明

らかになり,問題は三つの呼び方に共通の意味 を探った上で,この形容詞が何に比べてより「古 い」ことを意味しているか,を確定することに しぼられてくる。そして, {castrum). 

{bur- gus〉一くurbs}に共通なのは,まさに定住地と いう意味なのであり,従って城砦の北東部には その周辺と比べてより早くから,何らかの形で 集落が存在していたということになるのであ る6)。 さらに, こ の 点 で 注 目 さ れ る の は , {portus〉 と呼ばれるヘントの商業的集落が,

時には{burgus〉とも呼ばれていたという事実 なのであって, Oudburgという地名は,この {portus〉を核として発達して来る部分よりも 古 い 集 落 という意味で用いられていたに相違 ないとされる。とするならば,ヘントにおける

フランド)レ伯の城砦は軍事的行政的拠点だ けではなく,皮革工を中心とした人口によって 都市的な機能を持つ集落一ーフ)レヒュルストは これを「伯都市」 grafelijke stadと呼んでい る一ーをも含んでいたこと,従って,これを中 世都市ヘントの形成における単なる受動的要素 とはみなし難いことになるのである。なお,城 砦の成立年代については第1の論文では保留さ

れているが,第 2の論文において,ノルマン人 進攻(ヘントではシント・バーフ修道院を主た る目標に, 851年と 879‑80年の2度にわたっ て行なわれている)前後とされることになっ た。

次に, 第2の論文が主として問題とするの は, 2度にわたって成立したとされる{portus〉 である。その中で, 9批紀にシント・バーフ修 道院の直下に形成されたという第1次のくpor‑ tus〉については, 当然この修道院の歴史が密 接に関連してくることになる。ところで,シン ト・バーフ修道院は, ローマ帝国末期に建てら れた城砦一ーこれもやはり {castrum〉と呼ば れている一̲ 8 )の跡を利用して, 7世紀に創建 されたのであるが,そのころの事清を伝える史 料には,周辺住民の敵意を避けるため,従来か らの定住地と離れた場所が修道院のために択ば れた,との記事が見える。そして, 7世紀から 9世紀にかけてこの周辺で最も重要な集落は,

けっして修道院と隣接していなかったことが,

この場合にも地名学的考察と記述史料の鋼羅的 検索から明らかにされるのである。

すなわち,ヘントという地名の起源となった Ganda~ 河口を意味するケルト系の語で,

そもそも二つの河の合流点にあるシント・バー フ修道院所在地を指していたが,これと区別さ れて Gandavumという地名も用いられてお り,しかも,明らかに修道院外部で鋳造された 貨幣にこれが刻み込まれている例がある。この ように 2系列の地名が存在するのは,修道院所 在地とはやや離れてかなり重要な集落があると いう,地誌的現実を反映している可能性が大き ぃ。そして,そのことを念頭において史料を調 査したフルヒュ)レストは, 9世紀前半の『聖バ ボ伝』 {VitaSancti Bavonis〉から,従来注

‑145‑

(11)

経 済 学 研 究 目されることのなかった次の1節を決定的な論 拠として引用するのである。それは,修道士た ちが聖パボのための小聖堂を建てようとした日 に起った,次のような事件を伝えている。

『修道院長フロルベルトゥスの頷民たちが,車で セメントを運んで来ようとしたが,そのうちの1人 でAttinusという名前の者が, 1台の車の上に坐 っていたところ, {vicus〉から出て来た犬が車を取 り囲んでひどく吠え始めた。……犬はこの男の上に 車をひっくり返し,男は重さに圧されて息を引き取 ってしまった。彼が死んだのを見て,仲閤たちは泣 きながら追体を舟にのせて,前記の castrum Gandavum C→シント・バーフ修道浣)に,死者を 葬る習慣どおりそこに埋葬するように運んだ。』9)

フルヒュJレストはこの史料から, {vicus〉と いう一般に商業的集落を表滉する語で指示され るばかりでなく,修道士たちが実際にそこで建 築材料を人手しているような定住地が存在して いること101, そして, それは修遺院とは舟で 連絡されているのであるから河の対岸にある が,とくに地名が記されていないところからみ て, Gandaないし Gandavumとされている 筍囲にあったこと,が読み取れると考える。そ の上で,ヘント大学における地名学の権威M.

ヘイ七リンクの見解11)を援用しながら, その 場合考えられる場所としては, Vイエ河とスへ ルデ河の中間にあるやや高い地帯しかなく,そ もそもここにシント・バーフ修道院創建の時期 から農業的な定住地があって,これが9批紀前 半までにくvicus〉ないしくportus〉とされる 商業的集落に発展したとする。そして, もとも と自生的に発達してきたこのくportus〉はシン ト・バーフ修道院への従属性が弱く,またその 成立期に城砦はまだ存在していないのであるか ら,フランド)レ伯に対しても自立的な性格を示 していたことを強調している。

ところで, 9世紀後半のノルマン人進攻は,

第40巻 第4・5・6号

この第1次の {portus〉にかなりの打撃を与え たようである。フルヒュルストによれば, この 集落は完全に破壊されたわけではなかったが,

少なくとも住民の上層部,従って裔人層はおそ らく退去して,その商業的性格は一時的にせよ 衰退した。これに代るように,都市的な機能を 含むような城砦が建設されるのがまさにこの時 期なのであるが, 10世紀になると, この城砦に より近い場所に再び {portus〉と呼ばれる集落 が滋場してくる。この場合, フルヒュ}レストが 考察の主たる材料とするのは, この地域の土地 所有と支配をめぐって対立するジント・バーフ 修道院とシソト・ピーテルSt.Pieter修道院 による文書史料なのであるが, それらから,

{mansioniles〉という都市的集落に特有な敷地 が, 城砦の直下から始ってレイエ右岸に広が り,次第にスヘルデ河の方向に延びていく過程 を読み取ることができる。そして,この第2次 の くportus〉 は 再び発展し始めた第1次の {portus〉と 10世紀中葉には合体することにな るが,そのことを象徴的に示すのが, この時点 で第1次のくportus〉の場所に建てられたヘン

トで最初の教区教会だったとするのである。

以上の考察からフルヒュルストが再構成した 中世初期におけるヘントの歴史は,ほぼ次のよ うな複雑な過程なのであった。まず7世紀に,

ローマ期の定住地で城砦だった部分にシント・

バーフ修道院が創建されたが,当時すでに,対 岸でそこからやや離れた場所に股業的な定住 地が存在していた。 これは, 9世紀までには くvicus〉あるいは {portus〉と呼ばれる商業 的集落に発展するが, 9世紀後半ノルマン人が 修道院を破壊した際に一時的な衰退期に入る。

それとほぼ同時に城砦が建設されたが,その内 部にほ都市的な集落が含まれていた。その後,

(12)

この城砦に隣り合って新しい商業的集落(第2 次のくportus〉)が形成され, 10世紀中葉にそ れが復興してぎた第1次の {portus〉と合体し たころにほ,住民の教区組織も成立して, 11世 紀以降中世都市ヘントの急速な発展が見通され ることになる。以上の諸点を念頭に置くとぎ,

ピレンヌ説に有力な論拠を提供しているしまずで あったヘントの場合が,在地の農業的定住地か ら自生的に商業的集落が展開した例として,ま た,城砦が中世都市形成においてそれ自体能動 的な要素である例として,さらには,一定の限 られた領域内部で社会的,経済的重心の移動を 様々に行ないながらも,中世初期から都市的な 諸機能が継受されて11世紀以降に連続してい った例として,かえってピレンヌ批判に有力な 材料を提供しうることが了解されるのである。

1)  ヒ°レンヌ, 佐々木訳『中世都市』 121,....̲,3ペー

ノ。

2)  戦前までの研究成果の要約としては, H.  van  Werveke,  Gand.  Esquisse  d'histoire sociale,  Bruxelles, 1946,  pp, 13,....̲,21を見よ。

3)  A. Verhulst,  H.  van  Werveke,  Castrum  en Oud burg te Gent.  Bijdragen tot de oudste  geschiedenis van de Vlaamse steden,  Han‑

delingen  der  Maatschappij  van  geschiedenis  en oudheidkunde te  Gent, 1960,  pp. 3,...̲,52,  4)  A. Verhulst, Die Frtihgeschichte der Stadt 

Gent, Die Stadt in der europaischen Geschichte.  Festschrift fur  E.  Ennen,  Bonn, 1972,  pp,  108,..̲,37. 

5)  939.  Miracula  Sancti  Bavonis:  (, .. 

in  novo castello manifesta tum memoriae com‑

mendemus miraculum. In territorio memora‑

ti  castri  erant  commorantes laici,  qui ex  officio agnominabantur coriarii. Horum unus  cupiditate  questus  sabbato  ultra  morem  christianae religionis illectus,  operi  ceteris  insta bat  diutius.  Sed  hunc  collega redar‑ guens:  "Cur",  inquit,  "non  das  honorem  Deo Sanctoque  Bavoni  in  proximo  quies‑

centi?"〉[M.G. H., SS.,  XV, p. 594J.  6)  この第1の論文をフルヒュルストと連名で出し

ているH.ファン・ヴェルフェケには, {burgus〉 という語の用例をネーデルラントー帯について網 羅的に追跡した小著『"Burgus."防備施設か,定 住地か』 (H. van  Werveke,  "Burgus",  ver‑ sterking  of nederzetting?  Bruxelles,  1965,  Resume frani;ais,  pp. 91,...̲,8)がある。 そこで は, {burgus〉の用法が時期と場所によってかな り異なり, 集落という意味に重点が置かれる場 合と,むしろ軍事的施設を含意する場合があるこ とが示されているが,ヘント,ブリュッセルなど のOudburgという地名も検討されており,本文 で要約されたと同じ理解が打ち出されている。

7)  Verhulst, Friihgeschichte, pp. 130,...̲,2.  8)  最近の考古学的研究は,ローマ期にはレイエ,

スヘルデ両河合流点から下流にかけてかなりの規 模の集落があって,手工業や商業も営まれていた こと,城砦はこの定住地の衰退期に建設されたこ と,などを明らかにしている。シント・バーフ修 道院の創建は,この城砦の廃墟に行なわれたので あるから,中世都市ヘントの形成をローマ期から の連続において考えることができないのは言うま でもないー一この点についは, Verhulst, Friih‑ geschichte, p. 137を参照ーーが,かといって,

ここにはローマ期の遺産が全くないとすることも 不可能であろう。一般に,ベルギー諸地方におけ る中世都市の成立にローマ的要素をどの程度まで 評価しうるかは,微妙な問題であって,この点は 次章で検討されるはずである。

9)  819‑40.  Vita  San℃ ti  Ba vonis : {Predicti  vero abbatis Floberti homines cum vehiculo  cymentum  ministrarent,  ex  ipsis  quidam  nomine Attinus super plaustrum unum sedit,  quern egressi de vico canes circumdederunt  et  ceperunt insistere  fortiter

… …

Animalia  itaque  cum vehiculo super hominem prae‑ dictum proiecit; qui oppressus hoc pondere  exalavit spiritum vitae.  Videns eum turba  iam mortuum, cum fletu corpus eius in navi  deduxerunt ad memoratum castrum  Ganda‑

vum,  ut  tumularetur  illic,  sicut  mos est  mortuos sepelire. 〉[M.G. H., SS. rer. Mer.,  VI,  p. 540J. 

10)  フルヒュルストは, 10‑11世紀の史料から渕っ

(13)

経 済 学 研 究 て考察することによって, この場所ではすでに9 世紀から聖バボの祭日 (10月1日)に年市が開か れていた, と考えている。 Verhulst,  Friihge‑ schichte, p,  129. 

11)  M. Gijsseling,  Gent's vroegste geschiedenis  in  de spiegel van  zijn plaatsnamen,  Antwer‑

pen, 1954. (筆者末見)

ヴァランシェンヌ Valenciennes

中世におけるヴァランシェンヌはエノー伯領 Comte de Hainautに属していたから,厳密 にはフランドル地方の都市に数えることはで含 ないが,スヘルデ河沿岸というその位置を考慮 して, F.  デセ・ナジェル「カロリング期にお ける都市ヴァランシェンヌ」 (1962年)1)に依拠 しつつ, ここで簡単に扱っておきたい。ヴァラ ンシェンヌは, 9世紀の史料にくportus,〉 な いしくvicus〉として登場するだけでなく, 造 幣所が所在し,かつ流通税も徴収されているの であって,商業的集落であったことは確実であ るが,その都市としての諸側面を詳細に再構成 できるだけの史料は伝えられていない。そこ でここでは, 中世都市形成過程の研究にヴァ ランシェンヌの例が提供しうる主要な問題点 を,以下の二つにしぼって検討することにしよ

う。

第1は,ヴァランシェンヌが中世都市として 成立しえた主要な根拠が, ここがカロリング王 権の有力な拠点をなしていた事実だという点で ある。そもそも,この地域におけるローマ期の 中心地は南方約 5kmのファマール Fa1nars であったが, メロヴィング期を通じて経済的重 心がヴァランシェンヌに移動してくる。その理 由としてしばしばあげられるのは,中世におけ る水路の重要性からして,スヘルデ河からやや 離れたファマールが充分に都市的機能を果さな

第40巻 第4・5,6号

くなったということであるが,それならば,ヴ ァランシェンヌの北約8kmで,スヘルデ河と 重要なローマ道路の交点であるエスコーポン Escautpontが,新しい立地としてなぜ択ばれ なかったのであろうか。その場合,ヴァランシ ニンヌを当時スヘ;レデ河で航行が可能となる地 点だったとする見方もあり,デセ・ナジェルは それにもかなりの根拠があると考えてはいる が,むしろ,次のように言いながら,フランク 王権の影響力を璽視しているのが注目される。

すなわち, 「事実はほぼ確実に, 政治的要因と 地理的要因がともに,かつ同じ方向に働いたと いうことであり,注目すべきは, カロリング期 において,ヴァランシェンヌの経済的重要性と その国王居住地としての重要性が平行していた ことである」2J というのである。 具体的にみる ならば,カロリング期の史料でヴァランシェン ヌは『王領地』 {fiscus〉 とされるばかりでな

<.『宮廷』 {palatium〉の所在地とされてお り,事実,カール大帝以降国王の滞在や居住の 記録がかなり多い。そして, ここにはくpro‑

curator fisci〉という国王の高級役人が駐在し ており,流通税の徴収に当っていた。王領地と 宮廷をカロリング王権の直接な物質的基礎とし て重視すべきことは最近ますます強く主張さ れているが凡 デセ・ナジェルもヴァランシェ ンヌの成立にこうした要因が不可欠だったと考 えるのである。

第 2に重要な点は,ヴァランシェンヌの内部 で商品流通の中心となった場所が,有力な修道 院に属していたという事実である。それについ ての史料は860年ロデールLothaire 2世によ るサン・ドニ St.Denis修道院への寄進状で あるが, そこでは,『王領地ヴァランジェンヌ からの1マンス』 {unum mansum ex fisco 

(14)

nostro Valentianas〉を寄進するとしながら,

『このマンスからの流通税を,着岸税をも含め て譲渡する』 {teloneuminsuper ex jamdicto  manso cum rivatico suo, concedimus〉4) と 付け加えられている。デセ・ナジェルは,流通 税のうちに河岸の利用に対する賦課が含められ ていることからも,また,ヴァランシェンヌの スヘルデ河近くに残った CourSt. Denisとい う地名からも, この土地がスヘルデ河に臨んで いたことは確実であるとし,この重要な交通路 上にあって流通税の徴収されるような取引の中 心地が,国王からサン・ドニ修道院に寄進され たと考えている。中世初期の商品・貨幣流通の 結節点に,有力領主層がしばしば土地所有を行 なっていたことはすでに指摘したが凡 ここに

もその好例がみられるのである。

1)  F.  Deisser‑Nagels,  Valenciennes,  ville  carolingienne,  Le Moyen Age, 1962, pp. 51  ,..̲,,go. 

2)  Ibid.,  p. 79. 

3)  こうした研究動向は,何よりもドイツ学界で見 られるようであるが,最近ではこの問題について 仏独学界による研究集会も開かれている。 M.

Sot,  Les palais imperiaux,  royaux et  prin‑ ciers du Ille  au XIJe siecle.  XIe Colloque  franco‑allemand organise par l'Institut his‑ torique  allemand  de  Paris 

Compiegne‑

Paris en a vril 1973, Revue historique, 1973,  PP.  555,..̲,s. 

4)  Deisser‑Nagels, op.  cit.,  p. 57,..̲,.,9̲  5)  本稿 (1), 229ページを参照。

オ ウ テ ナ ー ル テ'Oudenaarde

都市オウデナールデの成立は11世紀後半で あるから,本稿で取り扱う年代的範囲をやや外 れるが,ピレンヌ説の批判的補正を目標に掲げ た

J .

ドーントによる論文「オウデナールデの

成立」 (1952‑3年)1)があって,国王や領邦君 主など,世俗有力領主層の政治的動向に主とし て規定されながら中世都市が形成され,あるい は解体される様相を興味深く叙述しているの で,ここで取り上げておきたい。

オウデナールデもスヘルデ河に臨んでいる が,その成立史において,スヘルデ河は幹線交 通路としてよりも,むしろ,当時におけるドイ

ツとフランスとの境界であるという性格によっ て重要な役割を果している。すなわち, 974年 ごろ,フランスとの対立関係にあった神聖ロー マ皇帝は,オウデナールデの北約3kmで,ス ヘルデ河とローマ道路の交点に当る右岸のエナ ーメ Enameに城砦を築き,その隣りに定住地 を設定したが, 後者は約40年間で三つの教会 を含む都市に発展し, 11枇紀前半には明らかに 商業中心地として機能していた2)。 これに対し てオウデナールデの出発点は, 紀元1000年ご ろ政治的勢力を伸張し始めたフランドル伯が,

このエナーメに対抗する拠点として建設した城 砦なのである。これは,スヘルデ河左岸の湾曲 点を択んで『塔』 {turris〉と呼ばれる比較的小 面積の建築を置き,さらに運河を開削して全体 を島状にすることによって作られた,純粋に軍 事的な性格のものだったが, 11世紀前半には,

ここから運河を渡る橋と,橋のたもとに城砦付 属の教会堂があるだけで,なお集落は存在して いなかった。

ところで, 11世紀前半を通じてフランドル伯 はスヘルデ河の東方へ進出し,デンデルDender 河までの領域は,神聖ローマ帝国に属したまま でフランドル伯領の版図に入ることになった3)0 

しかし,フランドル伯の勢力の中心は依然とし てスヘルデ河西方にあったから,新たに獲得し た東岸の城砦エナーメを有効に利用することが

(15)

経 済 学 研 究 できず, 結局はこれを破壊してしまう。そし て,エナーメの都市としての機能はこれによっ て急速に後退し,まさにそれを直接の契機とし て都市オウデナールデが展開してくるのであ る。ドーントはオウデナールデが都市として 成立する年代を1060年ごろとしているが,城 砦から出た橋の近辺に,市場を始めとする諸施 設が作られていき,これらを中心として集落が 形成されたと述べ,さらに,スヘルデ河対岸に ほ,この集落を目指した重要な道路が新たに到 達して,第2の橋が今回はスヘルデ河をまたい でかけられることになったと指摘する。そし て,フランドル伯領内部での政治的斗争に介入 しうるような都市共同体が12世紀初頭にはす でに形成されていたほど,急速な発展があった ことが,強調されるのである。

以上のように,中世都市オウデナールデの成 立史は,有力領主層の政治的動向,とくにその 拠点たる城砦のあり方が,都市の形成に決定的 な影響を与え,しかも,その地域内における主 要道路を移動させるだけの能動的な役割を果し うることを示す例として,貴重であると考えら れる%

1)  J. Dhondt; Het ontstaan van Oudenaarde,  Handelingen van de geschied‑en oudheidkundige  kring van Oudenaarde, 1962‑3, pp.  5080.  2)  ドーントは,工ナーメにおける都市人口の最初

の核をなしていたのは在地の住民であったとし て,ピレンヌ説を批判しているが,具体的な史料 をあげてはいない。 Ibid.,p.  53. 

3)  この間の政治的諸事情については, F.  L.  Ganshof, La Flandre sous les premiers comtes,  3e edition, Bruxelles,  1949, p.  28 seq. を見 ょ。

4)  なお,オウデナールデの対岸には,その後都市 パメレ Pameleが形成され, やがて両者が合体 して単一の中世都市となっていくが,この過程に も,やはりきわめて政治的な要因が働いている。

第40巻 第4・5,6号

すなわち,フランドル伯がスヘルデ河東岸に入手 した領域が,オウデナールデ城代たるパメレ家に 封与された結果,パメレ家にとっては,その主た る所領の西端に, しかもスヘルデ河を隔てて居城 があるという事態となった。そこで,スヘルデ河 東岸での勢力を確立するためにパメレ家はただち に対岸での都市建設を開始し, 1100年には<bur‑ gus)と呼ばれる都市的集落バメレが形成される。

そして,スヘルデ河をはさみながら同一の都市領 主に属するこれら二つの集落は, 13世紀には同一 の都市法を享受することになるのである。

トルホウト Torhoutーイーペル leper(イー プルYpres)ーメーゼン MesenーリルLille ーエール Aireーカッセル Cassel

これらの諸都市はいずれもフランドル伯の 主導によって11世紀中葉に成立しており, 基 本的には前項のオウデナールデと同様の問題点 を示してくれるのであるが,ここでは国境地 帯における政治的動向ではなく,むしろ,フラ ンドル伯領の中間地帯に対して行なわれた伯の 政策が,都市形成の主たる要因になっているこ とが注目される。われわれが依拠しうるのは,

この場合も

J .

ドーントの論文「11世紀フラン ドルにおける都市の展開と伯の主導」(1948年)1) 

であるが, ここでは,フランド]レ伯の事績に関 する史料と個々の都市についての史料とをつき 合わせながら,フランドル地方における中世都 市の形成と展開を全体として見通す広い視野の

もとで,議論が展開されている。

ドーントはまず, ローマ帝国期から中泄初期 を通じて,水路の重要性が確立し,かつローマ 道路による伯領南部の東西方向での連絡が衰 退したことによって,フランド]レ伯領の主要都 市が海岸地方とスヘルデ河流域の 2方向に集中 してしまい,それらの中間地帯が空白となって

(16)

いたことを指摘する。この事情は,フランドル 伯領の分裂にも導びきうる危険性をはらんでい て, 紀元1000年前後の政治史にもそれが明白 に現れていたのであったが,フランドル伯にと っては,「この政治的分裂の潜在的脅威に対処 するには,ただ一つの手段しかなかった。それ は,フランドル内陸部を横切って相互滲透の流 れを,すなわち,海岸地方とスヘルデ河流域と を強く結合するような人間の流れを作り出すこ とである。主要な当事者たるフランドル伯はこ の課題に取り組んで,成功したのであって,こ れこそわれわれがこれから示そうとする点であ る」2) と述べ,伯による都市建設政策にとくに 注目するのである。

ドーントによれば, 11世紀前半まで殆ど史料 を残していなかったこの中間地帯において,フ ランドル伯ボードワン Baudouin 5世の治世 (1037‑67年)にイーベル, メーゼン, リルの 3都市が, さらに, ロベー)レ・ル・フリゾン Robert le Frisonの治世(1071‑91年)にトル ホウト,エール,カッセルの3都市が始めて史 料に登場してくる。これらは,河川と道路によ って網の目のように結びつけられており,こと に,海岸から水路で到達しうる最終点イーペル と,スヘ}レデ河からやはり水路で到達しうる最 終点メーゼンとが,約 10kmしか離れていな ぃ。そして, これら6都市に関する史料を個別 的に検討した結果,次のようないくつかの共通 点が発見されるという。第1に,これらがすべ て伯の直轄領に所在していること。第2に,こ れらが,同じ時期にやはり網の目をなすように 建設された伯の城砦,及び城砦を中心とする行 政管区(→cha tellenies)と重なり合っている

こと。そして第 3に, これら諸都市の形成が,

主として城砦内部への伯による教会の設定と,

行政役人として機能すべき聖職者の定着に平行 していることである。従って, これら諸都市 は,フランドル伯による中間地帯での行政機構 の確立と一体となって成立したのであり,その 点からも,これらが伯による建設都市であるこ

とが確実だとドーントは考えるのである心 ところで,伯によって建設された教会とそこ に定着させられた聖職者は,旅行者への宿泊設 備を提供することを義務づけられていたが,そ れと関連して,フランドル内陸部における大市 の制度がほぼこの時期に形を整えた点が重視さ れる。すなわち,中世を通じてこの地方で最も 重要なのは, いわゆる『フランドルの自由大 市』 {frankes fi.estes  de Flandre〉たるブリ

ュッヘ, 卜]レホウト,イーペル, メーゼン及び リルの大市4)であるが, このうちブリュッヘの それがやや遅れて登場する以外は, すべて11 世紀後半から12世紀初頭に始まると考えられ

るのであり,しかも, トルホウトとメーゼンで は,大市が伯の聖職者によって組織されたこと を示す史料がある。こうして,大市の制度も都 市建設と重なり合いながらフランドル伯の主 導下に作り出されたこと,あるいはむしろ,諸 都市の建設自体が, この制度によって商品流通 を拡充していく狙いを持っていたことがほぼ確 実だ, とドーントは主張する5)。 その上でこの 論文は,「目標は達成された。 新しい軸に沿っ て活発な都市生活が生れ, これ以降は,諸都市 の網が海岸地方の都市体系とスヘルデ河沿岸の 都市体系を密接に結合することになり,それに よって,以後数世紀にわたるフランドルの生命 力と凝集力を保障したのである」6) と結ばれて いる。

以上の諸都市は,中世都市の成立が有力領主 層に全面的に依存している典型的な例である

(17)

経 済 学 研 究 が,とくに以下の問題点を記憶にとどめておき たい。第1は,有力領主層によって設定された 城砦や教会が,行政や所領管理の中心としてい わば間接に都市の展開を促進するだけでなく,

例えば大市の組織というような,直接に都市的 な機能を持つ場合のあったこと 。第2は,従 来は主として中世後期に,しかも中世都市の未 発達な地域一一例えば, 12世紀以降の東エルベ 一を舞台として展開すると考えられてきた建 設都市が,より早い時期から,しかも,フラン ドルのような中世都市の先進地帯においても重 要な役割を果していたこと凡 以上の2点であ

る。

1)  J. Dhondt,  Developpement  urbain et ini‑ tiative  comtale  en Flandre au XI• siecle,  Revue du Nord, 1948, pp. 13356. 

2)  Ibid., p. 143. 

3)  この点で想起されなければならないのは,ボー ドワン5世の時期に城砦が拡大され,フランドル 伯の行政と所領管理の中心という性格を強めるこ とによって, 新たな発展をしたプリュッヘの例 である。前掲141ページを参照。ドーントによれ ば,プリュッヘにおける城砦の改造は,本項で扱 っている諸都市の建設と一体をなしているとい う。

4)  ベルギー諸地方,ことにフランドルの大市に関 しては, J.A. van Houtte, Les foires dans la  Belgique  ancienne,  La foire,  Recueil de la  Societe Jean Bodin, V, Bruxelles, 1953, pp,  176207. 

5)  ファン・ホウテは,フランドルにおける大市の 展開を年代的に検討したのち, 五つの

r

自由大 市」が一つの体系として確立されるのは13世紀 であろうと指摘して, ドーントとは若干異った判 断をしているようである。 Ibid.,pp. 1803. 

6)  Dhondt, op.  cit.,  p. 156. 

7)  この点で,やはりフランドル伯の城砦を中心と して11世紀中葉に成立したランス・アン・アル トワ Lens‑en‑Artoisについての, フランスの歴 史家P.フォーシェールFeuchereの指摘が注意 される。すなわち, フォーシェールは,「前都市

第40巻・第4,5, 6号

的核(→城砦)と本来の都市の間に本当に区別を つけるべきだろうか。これらの間には程度の差し かない」と述べて,城砦自体の都市的機能を強調 しているのである。 P.Feuchere, Les origines  urbaines  de Lens‑en‑Artois, Revue beige de  philologie et d'histoire, 1952, p. 106.  8)  ドーントは別稿で,建設都市という類型が取り

入れられていないことを,ビレンヌの中世都市論 における一つの大きな欠陥に数えている。 J. Dhondt,  Henri  Pirenne: historien  des  ins‑ titutions  urbaines,  Annali de/la  Fondazione  italiana  per la  storia  amministrativa, 1966,  pp. 1178. 

2 .  

ミューズ河地方

ュィ

Huy

ミューズ河に臨む商業中心として,また早く から発達した金属工業の立地として,さらに,

神聖ローマ帝国の領域では最も早く 1066年に

「慣習法特許状」 charte de franchiseを獲 得するという,その先駆的役割によって著名な 中世都市ユイには, I:::.゜レンヌもしばしば言及し ているが見 戦後においては,中世都市の個別 研究としては模範的な例とされるA.ジョリス

『中世における都市ユイ。形成期から14世紀 末まで』 (1959年)2)が刊行され,その形成過程 もかなり詳細に明らかにされることになった。

ジョリスは,その師F.ヴェルコートランを通 じていわばI:::.゜レンヌの孫弟子に当り, この書物 においてもl:::."vンヌヘの批判が正面から意図さ れているわけではない。しかし,少なくとも都 市ユイの初期史については, l:::."vンヌ的構想を 訂正するようないくつかの見解が示されてい

る。

まず注目されるのは,序論3)で展開されるユ イの立地についての検討である。従来,この地 点に中世都市が発展した地理的条件としては,

遠隔地商業の交通路としてのミューズ河の役割

(18)

だけが重視され,ュイを専ら「舟運の宿営地」

etape de batellerieという性格から理解しよ うとしていた4)。 これに対してジョリスは, ミ ューズ河の巨大な意義を否定するのではもち ろんないが, その他に次の 2点を強調してい る。第1は, ュイが南方に広がる森林地帯コ ンドロ Condrozと北方の平野地帯エスベイ Hesbayeの接点_ーこの点では, ミューズ河 がこの場所で渡河し安かったことが重視され る一一ーをなしており, つねに「地域的市場」

marche regionalたる機能を果すような位置 にあったこと。第

2 v

, ここは小河川オワイユま

‑ Hoyouxがミューズ河に注ぐ場所であり,

「ユイは, ミューズ河の都市である以上にオワ イユー河の都市である」5) ことである。 この点 についてのジョリスの説明は具体的ではない が,いずれにせよここに見られるのは,遠隔地 との連絡に役立つ大河川より,在地との関連を 強める小河川を重視しようという姿勢なのであ る。 こうして, ジョリスの強調するところで は,その立地からして,そもそもユイは在地に おける生産と流通の拠点という性格を与えられ ていたのである。

さて,すでにローマ期からユイには舟運業や 金属工業を営む集落が所在していたようである が,メロヴィング期の史料によると,ここは王 領地として造幣所が置かれ,流通税が徴収され ている。そして,ここで鋳造された貨幣は,し ばしばライン・ミューズ河口地帯から北海周辺 諸地域において発掘されており,メロヴィング 期に始まる西欧商業の北方世界への指向に,ュ イが参加していたことは確実とされる。 そし て,カロリング期となると,ュイしまくportus〉 ないしくvicus〉と呼ばれ, 造幣所の活動も継 続して商業中心地としての機能をますます押し

出してくる。集落はローマ期以来防備の中心と されていた『城砦』 {castrum〉一ーこれはミュ ーズ河を振するように, ミューズ河右岸の岩壁 上にある一ーの真下に形成され,すぐにオワイ ユー河両岸にまたがり,さらに,かなり早くか らミューズ河左岸にまで広がっていく。

ところで,ジョリスの研究のうちでこの時期 についてことに注目をひくのは,むしろ, こう した展開が同時に教会諸組織による土地所有の 拡大過程であり,ことに,のちにユイにおける 都市領主となるリエージュ Liege司教の勢力 確立過程だったことを示している点であろう。

まずその出発点は, 9世紀を通じてユイの王領 地が解体され,土地所有がリエージュ司教,サ ン・テュベー]レ St.Hubert修道院,スタヴ ロ・マルメディ Stavelot‑Malmedy修道院な どに移行することであり,のちにはこれにカン ブレ Cambrai司教が加わってくる。そしてミ ューズ河沿いの商品流通の中心に,スタヴロ修 道院が{sedilia〉と呼ばれる土地6) を所有して いることが史料的に確認できるばかりでなく,

そもそも商業的集落が展開する中心となった場 所が,城砦の直下に所在していたノートル・

ダム Notre‑Dame教会なのであった。しかも この教会については, 874年の文書に,『同じ名 前の河に臨む {vicus〉たるユイにおいて,聖 母マリアに捧げられた教会。いくつかの建物が つき,耕地4ボニエ,森林200ボニエが所属す る領主直領マンスを持つ。 ここに水車 2があ る』7) とあって, 明白に所領組織の中心とされ ているのである。ところでこの教会は, 9世紀 末からカンブレ司教に属していたが, 10世紀後 半にリエージュ司教のもとに回復され, こと に, リエージュ司教として数々の事績を残した ノトゲ}レス Notgerusのもとで, ますます重

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