【研究ノート】明治20年代仙台の青物市場の再編過 程――「小西家文書」による検討を中心に――
著者 仁昌寺 正一
雑誌名 東北学院大学経済学論集
号 169
ページ 105‑126
発行年 2009‑01‑10
URL http://id.nii.ac.jp/1204/00024469/
【研究ノート】
明治20年代仙台の青物市場の再編過程
一「小西家文書」による検討を中心に−
仁昌寺
正 一<目 次>
はじめに
l 「宮城県街路取締規則」の公布と河原町市場の分裂 一明治20 (1887)年4月〜7月一
2.二つの市場の合同と「宮城県市場取締規則」の公布 一明治20 (1887)年8月〜11月一
3. 「青物市場会社」の内紛激化と市場再編の現実化
一明治21 (1888)年3月〜明治25 (1892)年3月一
4. 「名取青物市場」と「河原町新河原町共同八百屋市場」の設立による新たな競争の開始 一明治25 (1892)年6月〜9月一
おわりに
‑105一 1
東北学院大学経済学誌集第169号
はじめに
仙台において. 明治20年代は. 日本鉄道東北線上野一塩竃間開通(明治20(1887)年)に伴う 市街構造の変化市制施行(明治22 (1889)年)に伴う地方自治の新展開をはじめとして.近代 化の大波が広範な分野に押し寄せた時代であった。無論, 生鮮食料品流通分野も例外ではなく,
野菜・果物の供給機構であるいわゆる青物市場においても画期的な再編成が進行したのである。
その一端を示せば, 明治20年4月の「宮城県街路取締規則」,及び同年11月の「宮城県市場取締 規則」の公布を契機とし.明治25年には,藩政期以来単独で営業していた河原町の青物市場から 分離・独立するかたちで.広瀬川対岸の長町にも青物市場が開業し,他方, それに対抗して河原 町においても「河原町新河原町共同八百屋市場」という新組織が誕生するに至った。 また、 この 新たな2つの市場において, 「所有と経営の分離」 といった企業的特徴がみられ、 青物の受委託 関係において産地との組織的対応がみられるに至った。つまり.明治20年代こそ, 仙台の青物市 場の存立形態や経営手法に近代的特徴が現出した時代であったといえよう。本稿の課題は かか る青物市場の近代的再編過程の検証作業を行いつつ, この過程の歴史的意義を明確にすることで ある' )。
ところで, 先に筆者は, 『市場史研究j第26号(市場史研究会編集, 2000年12月)に「明治 二○年代の仙台における青物市場の再編一新聞記事を主な史料として−」という小論を執筆 した。それはサブ・タイトルに掲げたように, 当該期に仙台で発行きれていた新聞(「奥羽日日 新聞」, I東北毎日新聞」. 『東北新聞」. 「東北日報」)の記事を史料として利用し, この再編成の 過程を再現しようとしたものであった。そのような方法を採らざるを得なかったのは. 当時,文 書類の史料をほとんと'入手できなかったからにほかならない。 ところが. その後の調査で「小西 家文書」 と名付けられた膨大な史料が仙台市博物館に所蔵されていることが判明し、関係者のご 厚意によりそれを利用することが可能になった2)。そこで,この史料に依拠して,先の小論で行っ た作業を再度行うことにしたのである。そのため.本稿の記述が先の小論の記述とかなり重複し
l) ここでの作業は. 近年,筆者が継続的に取り組んでいる地方拠点都市・仙台の生鮮食料品卸光ili場の近代 化過程を明確にするための課題の一環をなすものである。この課題に関するこれまでの主な成果をあげて おくと.仁昌諦lE ‐・ 「『宮城県食品市場規則」公布下の仙台市の青物市場」 (「Iij場史研究」第22号. 市場史 研究会編, 2帥2年11月), 同「昭和初期仙台市の魚市場再縄問題一「宮城県食品市場規則j (昭和3年)の 公布をめぐって−」 (「東北学院大学論集一経済学一」第153号.東北学院大学学術研究会,2003年9月).
同「「地方税規則j公布卜.の青物11i場の紛争」 (『市史せんだい」V01.14@仙台市博物館2004年711),同「昭 和初期仙台市11]央卸売市場開設計IIIIの始動一資料的考察一」 (「わが国における卸売ilj場の形成と展開に 関する研究」.平成14年腱〜16年腱科学研究費補助金研究・基盤(B) ‑・般(‑‑) ・研究成果報告稗, 研究 代表者岩本由抑, 2005年3月) . 同「仙台市と宮城郡七北田村荒巻・北根の合併」 (i市史せんだい』Vol.15, 仙台市博物館. 2帥5年9月), 同「明沽二○年代の仙台における青物市場の再縄一新聞記リIを‑1乞な史料と
して一」 (「市場史研究」第26号. 市場史研究会輻, 2噸年12月)である。
2) 「小西家文醤」は. 仙台市博物館が2噸年に収集したものである。これは,河原町の小両家に保存されてい た明治17 (1884)年から大正4 (1915)年までの間に記きれた膨大な文啓であり,河原町青物市嶋関係だ けでも,定約啓. 巾場の経営方針. 会議案内.伝票領収書.帳簿など数肖点に及んでいる。なお.以下 で引用する同文害の原文は すべて羅普きである。
明治20年代仙台の青物市場一「小西家文書」による検討を中心に−
ていることをお断りしておきたい31.参考までに.小論に掲載した当時の仙台における青物市場 の再編過程の動きを図示したもの(図‑l)を掲げておくことにする。
なお, ここでの課題に関しては. 先行研究と呼べるようなものは存在しない。 「仙台市史」や 郷土史関係の文献で.断片的に言及されているにすぎない。
1 . 「宮城県街路取締規則」の公布と河原町市場の分裂 一明治20 (1887)年4月〜7月一
仙台において青物市場の再編劇が幕を開けたのは.明治20 (1887)年4月に入ってからであっ た。具体的には, 同年4H21日に,街路の交通の円滑化を図るべ< 「街路二商品・薪炭・荷車・
其他ノ物件ヲ出シ置ク可カラス」といった条文を盛り込んだ「宮城県街路取締規則」 (県令第37号)
が公布されたときからである4'。これにより河原町市場は. それまで長期にわたって営業してい た場所(街路)以外の一定の場所に移転を余儀なくきれた。これについて. 明治20年6月28日の
『奥羽日日新聞」は, 「当区の青物市場は従来国道なる河原町の中央に開きたるゆえ,羅売中は 殆んど往来を断つばかI)なるが, 去る四月中県令第三十七号を以て街路取締法を達せられ,来る 七月一日よりは右達により是等路上に於て市を開くことを禁じられしかば, 該市場も他に移転せ ざるを得ざる場合となり」と伝えている。
では, これ以降の展開はどのようなものだったのだろうか。明治20年5月24日には.河原町に おいて移転対策会識が招集されたものの, この会議では移転候補地について町内の人々の意見が 2つに分かれてしまったという。すなわち, 同年7月15日の『奥羽日日新聞」によれば. 「河原 町の組長若生儀兵衛氏は去る五月二十四日を期して組内人民を招集し市場移転の事を協議せしに 議論二派に分れて一は旧と占定せる横町に設<るを可とし.一は河原町に新設するを可とし議論 決せずして遂いに両箇の市場を見るに至りい」ということになってしまった。その結果.河原町 では2つの場所で青物市場が開設きれることになったのである。
1つは「旧と占定せる横町」であった。 「旧と占定せる」というのは.すでに明治18 (1885) 年9月の時点で,青物市場の移転計画が登場していたからである。その計画は,明治18年の1月
3) また.煩雑さをできるだけ避けるため. 本稿における引用注のうち.新聞記聯については本文中に付すこと とした。
4) この規則は全51条から成る。その全文は. 「仙台市史資料編5 近代現代l 交通建設」 (仙台市史輻さ ん委員会編, 1999年3II )の12〜16ページに掲栽されている。ちなみに. この規則は 明治19 (1886)年 6月14日に内務街訓令第7号で出された「街路取締規則標準」に即して作成されたものである。この「街 路取締規Hリ標準」は. 「染合 鴨単取締規則標準」 ・ 「営業人力車取締規則標離」 ・ 「補屋取締規則標準」とワン セットで出きれたものである。その背景には.近代化の進展に伴う輸送・交通の範囲の拡大への対応として.
総合的規制の必要性が塒大していることがあった。なお. これら4つの「標準」は 「明治十九年法令全 書下巻」 (内閣官報ルd)の46〜68ページに掲戟されている。この道路政策の展開については,さしあたり,
道路交通問題研究会縞「道路交通政策史概一記述編一」 (2002年12月)の第1網第1章.武部健一「道(み ち) Ⅱ」 (法政大学出版局. 2㈹3年11月)の第6章を参照きれたい。
3
−107−
図−1 明治20年代仙台の青物市喝の再編経總
I I
明治19年以前 明治20年 明治21年 : 明治23年 : 明治24年 明治25年
〈4月21日> <1ljl16H>
・「宮城県街路取締規則」 。 「宮城県市塒取締規則」
Illllll IIIIIII
| (9jl) I < 1月〉
l ・株主間の内紛司→・株主間の内紛激化
↑
! <5月〜6月)
1下市場|
| ・横町
│河原町市場H‑ ・針生与兵衛鞘
| ・6月19H關訓
・街路市
・針生家 | ・入場料無料
1上市場
』 1,歩"エコ I
・横町
・針生与兵衛総
<11月10日〉
−1青物市場会社
・河凧町中央郁
・掛井民太郎錐航株主(#Js I <5月20H>
| ・入場料増額
長)
IIIIllillll lllllllllll 1
凸Ⅱ■■Ⅱp凸Ⅱ■由Ⅱp■Ⅱ甲凸ⅡpLⅡpらⅡ卜嘩11口11口11Ⅱ1口11由Ⅱ甲由Ⅱ甲凸Ⅱ甲由Ⅱ甲
〈3月〉
・岩井長太郎が所有株を売却
・その株を河原町・新河原町の住民が 噸$﹃鰈諜權齢埋蕊朴K醒卦等悪
買収
代
・6月19日開設
・入場料無料
L士4日
〈8月17日)
河原町新河原町共同八百屋市場
・青物市場敬地共有
宮 lllll Illll
・東嬰
・若生儀兵衛総代
・6月26日開設
・入場料無料
・人嶋料徴収 IIIIIIIIIIIIIIll 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 巾
〈5月> 1 (1H〜12月〉
・長町市嶋開 ・開股許可申鋼 設協譲
1 1 1 1 1 1 1 1 l I 1 1 1 1
− 1 I
〈6月9日〉
・市嶋開設許ロI
〈6月25日〉
|
名取青物市期(長町市場)
寺
明治20年代仙台の青物市場一「小西家文啓」による検討を11'心に−
から2月にかけて打ち出された国道整備政策に対応したものであった。この政策をやや具体的に みると, 同年1月6日,太政官布達第1号において. 「今般国道ノ等級ヲ廃シ,其復員ハ 道敷 四間以上 並木敷,渉抜敷ヲ合セテ三間以上.総テセ間ヨリ狭少ナラサルモノトス」5)ことが定 められた。それまでの「国道ノ等級」の区分.すなわち明治9年に定められたl等7間, 2等6 間, 3等5間の3等区分を基本とする政紫が,輸送・交通の近代化の進展に伴って変化した道路 事情と合わなくなってきたからであった。そこで, これまでの政漿に代わって,すべての国道の 幅員を,並木敷.謬抜敷を含めて7間(12.7メートル) より狭くしないことが定められたのであ る61。これに続いて同年2月24日には. 内務省告示第6号として, 東京を起点として全国に張り 巡らきれた44路線の「国道表」が発表された。 「すべての国道は東京へ通ず」というわけであるが,
ここには全国を首都・東京に結び付けつつ.強力な中央集権国家を構築しようとする政策的意図 があったことは疑いようもない。この44路線の中の「第六号」の東京から「函館港二達スル路線」
が河原町を通っていた。ちなみに, その路線は. 藩政期の「奥州街道」が明治4 (1871)年の太 政官布告で「陸羽街道」と改称されたものであった。
(守寸)
それから8か月後の明治18年9月に河原町の青物市場移転計画が登場したのは. 「川原町ハ大 日本国第一等道路ニシテ人馬車ノ従来繁ク毎午前開市中ハ通行人二妨害アリテ官ニモ御調中之 由,且去ル九月十一日警官御出張検覧モアリテ到底永ク此一等道路二市場ヲ開市スルコト難ア ルベシ」7) ときれているように, 同月に入って上述の如き国道整備政策の一環として,街路市場 の規制が俄かになされるようになったからであった。このような勤きに対応して.河原町の実 業家であり市会議員でもあった小西栄蔵が呼びかけ人となって青物市場関係者に諮ったところ.
「是道路え市場ヲ更二今般針生権十郎抱地及ビ同町東横丁え内江青物問屋相設開業仕候方可然卜 右関係之衆中江協議二相及候処壱統賛成承諾相対成候」8 ということになったという (この市 場の移転場所については. 図−2参照)cそして9月13日には.河原町と新河原町の組長などの 有力者各十数名が, 「前顕之条々差支無之候也」として, この件に同意している9)。 9月16日に は,発起人名で, この新設青物問屋会社の株金の払込を承諾してほしい旨の文普が作成きれてい るICI。このようにして, いずれ河原町,新河原町の同盟人によって会社規則新設出願手続等 の作成がなきれ, この計画が軌道に乗るはずであった。
しかし, この移転計画が中止を余儀無くされたため, それらの作成はなきれなかった。明治20 年7月15日の「奥羽日日新聞」によれば, 「明治十八年秋.小西栄巌氏の発議にて河原町字横町
jjj
5 6 7
「明治十八年法令全書下巻」 (内閣官報局), 1ページ。
「明治十八年法令全書下巻」 (内閣宵報局) 34〜65ページ.
「青物問屋新設│則盟調印」 (「明治十八年ノLI1 1−ノ《H青物問屋会社新設1I]合六冊ノ内」). I小西家文瞥」. 目 録番号: 2−12、 明治18 (1885)年9111611,
「青物問屋新設同盟六冊ノ内」 「小西家文割. 目録番号: 2−2 明治18 (1885)年91113日。
「青物市場設侭定約」 (「青物問屋新設同盟六冊ノ内」), 「小関家文普」 n録番号苫 2−2. 1リlitl8 (1885) 年9月131]。
「青物問屋新設同盟調印」 (「明治十八年ノL月十六日青物問屋会社新設申合六冊ノ内」), 「小西家文普」. 目 録番号: 2‑12、 明治18 (1885)年9月16日。
8)
9)
10)
‑109‑ 5
束北学院大学経済学論集第169¥
図−2明治18年9月時点での河原町市場移転計画(「甲地」から 「乙地」へ)
宅地
一 r
■ 1 1 へ
前 山 叩 六 郷 川
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︷ 南材木町
河原町
広瀬川 河原町 宅地
宅地
長町)座瀬撚
餌 町
恋
月宅地︾Z 恋月宅地︾Z 宅地
乙地
通り
1
集治監
資料: 「仙台が物IIj」ル│)Hiltl則係文f!}」 (「小│fV家文普」, II録辨り"6‑1 ' │リlifi20年(1887)年) に掲峨されてい るIXIJg l)作成,
注) この凶の1 ' 1に「lli地ハ│HI道ニシテ人凡坪数I川!'i坪ナリ 則甲地ハ魁迄F4j物'li場也」. 「己地ハ宅地ニシテ'五l道ヨ II川人1 1ヲ役ケ岨路ノ弁トス. 大凡坪数二丁・坪余, 則移転スル市場也」 と 弛述きれている.
に地所を塒い賎に通路を開いて往来に便して, 以て旧来の市場を移さんとせしも其旧慣に背くの 故にや不平不満の徒頗ぶる多く佳再日Hを経過して此挙を中止するに至れI)」 という結果となっ たのであるll '
さて. この河原町の「横町」に移転したのは, 藩政時代から青物間唾として市場経営を担って いた針生与兵衛.針生椎│一郎らを代表とするグループであった。 この市場は「下巾」あるいは「下 市場」 と呼ばれ, その総代人は針′t与兵術が務めていた‐ このグループは、明治20 (1887)年5 月26日, 1111台区民十文'洲笥介に対して. 6月7日までに当該地に移転して「是迄ノ通り青物市場 開市仕恢」という │ j'r物IIj場移転御1曲」を提出している」 しかし611711当ljは「降雨二而,常 繕等出来兼峡, 就lil脅本jll ‑ /I:Hヨリ過日御届申上置候地所へ移転仕候間、此段日延御届奉申上 候」として. 6111511まで延期することを申し出ている。 とはいえ. その期Hの3I1前の6月12
もっとも. 明論19 ( 18861 年6jl4 1 1に針生椎│‑郎と小関栄蔵の2塙から. 密城県令松平眼直に対して この肖物IIj場越 没〕幸雄地リ)幣附のため. 膜瀬川の瞳瀬橋付近から砂利を採取させてほしいという 「砂fl」被
ド腱噸」がH1されているため(「i''I原町訂物IIj場新設関係・資料綴・砂キリ被ド嘆願」 「小西家文昔』 ll#
蹄号: 3 1 . 1リlifi19 [1886]年611 :1 l i ) . この時までは. この!illmiは続いていたと考えられる、
11)
明治20年代仙台の青物市場一「小西家文書」による検討を中心に−
日には, 「本日ヨリ同市場内二移転仕候二付,此段御届申上候也」とし, 同日開業している12Ic そして6月19日,ついに青物市場移転式を挙行したのである13)o
もう1つは, 河原町の「東裏」の「若生儀兵衛所有地内」に開設された。この市場は「上市」
あるいは「上市場」と呼ばれ、その総代人は若生儀兵衛であった'41。 この市場は6月24日に開業し,
2日後の26日には会主総代を岩井長太郎として,600名の招待客の参加の下に盛大な開業式を行っ ている (「奥羽日日新聞j明治20 [1887)年6月23日. 同年6月27日)。ちなみに. 当日この開業 式に参加できなかった仙台区長十文字信介は28日に祝辞を送っているが, その中で「若生氏ノ方 ニモ市場相開ケ候二付テモ.両市算盤外ノ悪競争無之様有難ク御注意相成度候」'51 と述べている。
つまり,価格破壊を伴うような競争を起こさないようにしてほしいという懸念を伝えているので ある。
しかしながら, 明治20年7月15日の「奥羽日日新聞』が「是より后,新旧市場互いに相反目し 発起人諸氏は資力限りに競争せんと迄で言い出せし程ゆえ,熟れを熟れと定め難き」と伝えてい るように, この2つの市場は.優劣を付け難いほど激しい競争を展開した。同記事は, これらの 市場への入場者に関しては, 「横町の方は旧来選定せし所とて実着保守の鑑は多く同所へ出入し,
河原町の者は改正市場と称うる丈け万事挑戦者の位置を取り.之に出入する者も活発急進の人々 なり」と伝えている。つまり, 「横町」に開設きれた市場には,古くからのつながりを持った人々 が集まり, 「東裏」に開設きれた市場には,新たに進出して来た人々が集まっていたのである。
ところで, このような競争を展開するにあたって,双方の市場の開設者とも, 出品者を確保す べ< 「定約証」を発行している。 まず, 「若生儀兵衛所有地内」に開設された「上市」のグルー プが発行した「定約証」は次の通りである。
今般街路御取締規則御改正. 来ル七月一日ヨリ施行相成候二付,河原町従来ノ青物市場御停 止二相成候所拙者共発起人卜相成.河原町若生儀兵衛宅地及上抱地凡千弐百坪有之候場所江 市場設立仕候ニ付.各村営業者二於イテモ御賛成アツテ御出品相成度,尤市場一切之入費ハ 拙者共二於テ負担仕候間.右場所各様御自由可相成候各村御出荷之御方ニテ小児等ヲ以出 荷ノトキハ発起人御取締ニテ相当ノ賃額ヲ売捌キ申上候。尚.売捌キ手数料不申受候事,右 ノ条々ヲ以テ来ル六月二十四日ノ開業仕候依テ御賛成ノ諸君ハ御捺印可キ被し候也'61。 (太 字は引用者が付したもの)
以上の3つの文鍔は, 「背物問屋会社新設申合」, 「小西家文書」, 目録番号: 2−6 明治20 (1887)年6 丹に収められている。
「仙台青物市場│淵設関係文書・市場移転関係」 「小西家文書」, 目録番号: 6−1, 明治20 (1887)年6月 19日。
資料がなかったため 残念ながら この'li場の場所は特定できなかった。
「青物市場祝辞」. 「小西家文普」、 H録播号: 3‑4,明治20 (1887)年6月28日。
「青物市場方書類・定約証」. 「小西家文書」, 目録番号: 1−34明治20 (1887)年6月。
12)
13) j j j 4 5 6 1 1 1
痔
‑111‑ イ
東北学院大学経済学論集第169号
ここで注意しておきたいのは. 「市場一切之入費ハ拙者共二於テ負担仕候」, 「売捌キ手数料不 申受候」という文言である。これらは. この時点における「上市」の基本的特徴を表していると いえる。
また.これより少し遅れた同年7月に「下市」の針生グループが出品者に提示した「定約証」は.
次の通りである。
本年県令第三十七号街路取締御規則ヲ遵法シ従来河原町国道市街二開設アル青物市場ヲ右関 係人ニオ井テ同所東裏宅地内二移転シ是迄ノ通り青物市場開設致候二付, 出品人諸氏卜市場 開設人卜双方熟議ノ上取結定約左ニ
ー, 当市場関係人ニオ井テ当市場二係ル地租,及地方税諸入費二至ル迄悉皆負担シ出品人 江者一切出費為致間敷事,
一, 出品人ニオ井テ従来ノ厚情.且前顯ノ定約確定候上ハ他ノ市場江一切出品セズ,該市場 江出品致可候事,
右ケ条之通り定約致候二付,此証二葉ヲ制定シ双方自記調印之上,為取換置定約確証如 件'7)。 (太字は引用者が付したもの)
この中でも, 「当市場関係人ニオ井テ当市場二係ル地租及地方税諸入費二至ル迄悉皆負担シ 出品人江者一切出費為致間敷事」という箇所に注意する必要がある。いうまでもなく,ここでは,
出品人から市場の利用料,卸売人の手数料(口銭).上納せねばならない税金などの経費を一切 徴収しないと主張しているのである。
では, この2つの青物市場はド市場を維持するために必要な諸経費をどこから, どのようにし て調達していたのであろうか。それはⅢ端的にいえば,青物を売買する際の価格の操作によって 出品人と小売人から調達していたということになる。 したがってⅢ この時点の市場の経営陣は,
未だ前近代的色彩を濃厚にしている「差益商人」−価格操作などによって譲渡利潤を獲得しよ うとする者一であり,近代化を遂げた「手数料商人」−集配機能に対して適正な報酬を得る 者一ではなかったということになる。
2.二つの市場の合同と「宮城県市場取締規則」の公布 一明治20 (1887)年8月〜11月一
(1)2つの市場の合同機運
明治20年8月に入ると.激しい競争の結果, 共倒れとなる恐れが出てきたことから, 2つの市 場の合同の機運が出てきた。
1一門JI
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「定約証」、 「小西家文普」, 目録番号: 2‑6 IJI治20 (1887)年7月
明治20年代仙台の青物市場一「小西家文書」による検討を1I1心に−
8月7日には,河原町の有力な実業家である岩井長太郎による2市場合同の提案を受け入れる かたちで. 「上市」の若生グループの会合が開催きれている。そして若生儀兵術を筆頭とする9 人の「上市場定約人」の定約証が作成きれた。それによれば,
一,今般仙台区河原町青物市場二付キ殿御仲立ヲ以,上下ノ両市場閉場シ更二河原町中央ノ 場所へ市場会社新設致シ候事二御仲立相成候二付テハ其費額凡二千円卜見倣. 十分ノ四ヲ上 市場ニテ出金ノ約又十分ノ六ヲ下市場ニテ負描スル事之御仲裁承諾仕候,猶新設ノ件二付テ ハ両市場二而協議之上執行致シ候事依テ定約証如件18)o
とされており,両市場合同の際の分担金の提示には異議はないが,市場合同については両市場関 係者の協議の上で決定したいという意思表明がなされている。
8月17日には.仙台区役所が両市場の発起人に対して市場合同の提案を行っている。このこと について明治20(1887)年8月19日の「奥羽日日新聞」は. 「一昨十七日河原町青物市場の発起 人を仙台区役所へ召喚し、両所を合して町内中央に一大市場を改設し親睦共和して協同の利益を 計るべき旨を懇篤説諭されしに依り目下総会を開き協議中の由なるが不日其好結果を見るに至る べしと」と報じている。行政の介入により,事態は大きく前進したようである。
そして8月21日には,河原町中央部へ設置される新市場の株主になると目されていた河原町・
新河原町の有力者24名が, 次のような定約書を作成している。
仙台区河原町青物市場従来上下両所之設立有之候処,今般岩井長太郎ノ仲裁ヲ以.上下両市 場閉場シ更二同町中央之部へ青物市場会社壱ケ所新設之事二上下市場当局者一統協議相整上 候.然ル上ハ新市場落成ノ上ハ直チニ上下市場閉場シ新市場ノ移転可致侯依テ後日異議無 之ダメ双方連署ヲ以, 定約普如件'9}。
これをみるように,両グループは「岩井長太郎ノ裁定」を受け入れ.それぞれの市場を閉場し,
河原町の中央部に1箇所の市場を開場することに同意したのであった。こうして,4月21日の「宮 城県道路取締規則」に端を発した河原町青物市場の分裂問題は一応の決着をみたのである。
(2)新たな提案一入場料の徴収一
明治20年9月に入ると,翌10月に予定されていた河原町中央部の新市場の開業までの過渡的措 置として,上下両市場関係巷から「上下ノ両市場ヲ隔日二開業之事. 則チ上市開場ノHハ下市閉
18) 「上下青物市場を閉期し新市場会社設立に│則する文沓」. 「小西家文醤」. 11録稀号: 4‑15, 明治20(1887) 年8月7日。
19) 「定約菩」. 「小西家文瞥」. 「}録詩号: 2−9, 明治20 (1887)年8H21U。
9
‑113‑
東北学院大学経済学論集第169号
場,下市開場ノ日ハ上市閉場」 という提案がなされたが鋤!, このことが後に大きな波紋を投げ かけることになった。 というのも. この提案のために発行された定約証には,
上下ノ市場二出品セル各町村人ヨリ市入場料トシテ騨零燃淵毎日収入スル事、此収入金 ヨリ該日ノ日税(鰹騨N観) ヲ上納ス21)o
という一文が盛り込まれていたからである。すなわち,荷車で市場に来た出品者からは8厘,策 で市場に来た出品者からは3厘の入場料を徴収し,その中から市場税を上納するとしていたので ある。そして, この方針は,河原町中央部に建設する予定の新市場にも採用きれることになった。
そのことは, その設立のための規定の条文の中に.
第十一条市場ニテ営業スル売買人ヲ予テ取締調べ置キ其売買人一名二付市場料ヲ差出サシ ムヘシ.一日金三厘ツ、理)。
と記述されていることでも明らかであった。
その市場の設立が目前に近づいた10月には,上下両市場の有力者27人が,仙台区長十文字信介 に宛てて,売買人より市場料を徴収する次の文書を提出している。
御届
青物市場内二於而出品賢人ヨリ,左ノ金額ヲ市場料トシテ領収ス。
一,売人共其物品前担スル者一人二付壱日金三厘,
一,車馬ニテ載荷売人者一人二付壱日金八厘,
右之通り市場料トシ領収スル事二協議相整候二付本月二十日ヨリ領収致候ニ依り此段御届申 上候也羽!。
こうして,新市場において上述の方針を採用することが鮮明になったのである。
(3)入場料徴収への反発
ところが.事態がこのように進展している中,入場料徴収に強固に反対する人々がいることが 判明した。奇妙なことに,その人々は仙台区長仙台区長十文字信介に対して.上の入場料徴収の
「定約証と邪」 ・ 「刈原町市場隔日開業定約証」, 「小西家文普』, 目録番3・ : 2‑10、 IJI治20 (1887)年,
同'1。
「上下青物市場を閉場し新市場会社設立に関する文書j. 「小I呵家文排」, 卜│録番号: 4‑15, 明治20 (1887) 年9凡
「上下青物市場を閉場し新市場会社設立に関する文普」. 「小西家文諜」, 目録番号: 4‑15, 明治20 (1887) 年10月。
20) 21) 22)
23)
明治20年代仙台の青物市場一「小西家文書」による検討を中心に−
「御届」を提出した27人の中に含まれていたのである。その人々とは, 「下市」の中の「針生グルー プ」と呼んできた人々.すなわち藩政期以来の青物問屋の経営者達である。
彼らの主張をみてみると, 「私共ノ定約シタル主意ハ単二上下両所二在ル市場ヲ合併シテ中央 部へ一ケ所置ク事二定約仕候通ニテ.其新設市場二係ル創立ノ費額或ハ役立ノ方法等二至リテハ 私共二毫モ関与スル処二非ラス」24) という。つまり, 中央部への市場設立については賛成したも のの,新会社設立に要する経費や新会社の運営方法などについては, 自分たちの知らないところ で決められていたというのである。では.上下両市場の隔日開業案登場の頃から入場料徴収に賛 成し,仙台区長仙台区長十文字信介に対して「御届」まで出したのは誰なのか。これについて.
針生グループが河原町市場を利用している町村に向けて送付した文書では,
拝啓陳者本年県令三拾七号ヲ遵法シ市場移転之際貴村卜市場二関スル定約取結ビ開市罷有 候処,右市場都合有之協議之末小西栄蔵へ譲渡シ仕候二付. 自今右市場ハ小西栄蔵一個人ノ 関渉スル者ナレバ貴村ニオイテモ御出品ノ諸君更二市場二関スル定約改テ御取相成ルベシ。
私共貴村卜取換仕候定約証ハ自今無効二属シ候二付,此段御断リニ及候也251c
となっている。
ここには, 針生グループの一員と目きれていた河原町の有力者小西栄蔵が, 「下市」の入場料 の徴収に関しては, ある時点から青物問屋経営者達と意見が合わなかったことが窺われる。それ にもかかわらず,小西が「下市」の代表として振る舞い,新設市場の入場料を独断で無料にして しまったと言わんばかI)である。つまり, このような展開となったすべての責任は小西個人にあ り,針生グループとしては責任はとれないというのである。無論, 明治20年7月に「下市」が各 町村と結んだ出品者の入場料無料の定約証も,新設市場では無効になるというわけである。
このような経緯から, 明治20年11月10日の新設市場の開業を目前にして, 『奥羽日日新聞」に は2つの広告が掲載されることとなった。
1つは. 同年11月6日. 8日. 9日の3回にわたって掲載きれている次のような広告である。
上総代人若生儀兵衛 下総代人針生与兵衛
仙台区河原町上下二青物市場有之候処今般両所ヲ廃場シ更二同町中央部ニーケ所開設致候事 二決定シ本月十日ヲ以テ上下両所ヲ閉場シ同日ヨリ中央部へ開業致候間以来同場二於テ売買 有之度此段総代人連名ヲ以テ底告候也
明治二十年十一月
市場総代人岩井長太郎
24) 「特別定約証」. 「小西家文瞥」, 目録番号: 2−6,明治20 (1887)年9月。
25) 「仙台青物市場開設関係文瞥」, 「小両家文書」, 目録番号: 6−1 . 明治20 (1887)年10月。
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東北学院大学経済学強集第169号
これは, 「上市」 と「下市」を廃止し、 11月10日から中央部へ開業するので, 出品者と購買者 は新設の中央市場へ来るようにと,上市場総代人若生儀兵衛.下市場総代人針生与兵術中央市 場総代人岩井長太郎が連名で呼びかけたものである。上述の経緯に鑑みれば. 「下市場総代人 針生与兵術」という名前は,小西栄蔵の行動の結果として出さざるを得なくなったと考えられる。
もう1つは, 11月8日. 9日, 11日, 13日, 15日の5回にわたって掲載きれた以下のような広 告である。
今般仙台区河原町青物市場ヲ変場シ更二同町中央へ開設致候事二相成.就而者本月十日ヨリ 旧市場閉場致候処然ル上者是迄之定約者都而無功二付取消致侯且中央市場之義者私共二於 井テ関係無之.依而此段右出品之諸君へ御報道致候也
明治二十年十一月
針生権十郎 針生与兵衛 西村安吉 針生椎六 針生椎五郎
これは.針生グループが「下市」への出品町村と結んだ入場料無料の定約が,新設市場では無 効となることを知らせるためのものである。 「中央市場之義者私共二於井テ関係無之」というの は,新設市場での入場料徴収という措置は自分達の本意ではなかったと主張していると考えられ る26)。
ところで.針生グループが入場料徴収にこうも頑なに反対したのはなぜだろうか。その主な理 由の1つは.やはり,同グループが藩政期以来.青物問屋として市場経営を担ったことによって,
「差益商人」として青物価格の操作に長けていたことにあるのではなかろうか。
ともあれ, 同年11月10日に開業した河原町市場では入場料が徴収きれた。それは, 後述のよう に, やはり 「一荷金三厘, 一車馬金八厘」であった。
(4) 「宮城県市墹取締規則」の公布一明治20 (1887)年11月16日一
2つの青物市場の合同による新設市場の開業という結果を待っていたかのように, 同年11月16 日には, 「宮城県市場取締規則」 (県令81号)が公布された。この規則は,昭和3 (1928)年6月
26)藤原勉氏は. 「「中央市場の義は関係無」 しというのは, 上 ド市嶋が合│ 1して河原町中央部に出来た市場の 外に, 中央市鞘というものがI由i策きれていたのかもしれない。それとは関係ないというのであろう」 (「河 北新報」昭和11年6jj311) と述べている。 しかし, そのような理解は'ビし<ない。 「中央市場の義」 とい うのは. 人蝿料徴収のことを指していることは間述いない。
明治20年代仙台の青物市場一「小西家文書」による検討を中心に−
22日の「宮城県食品市場規則」 (県令32号)の公布まで,実に40年以上もの間宮城県内の市場 に関する唯一の取締規則として君臨することになり, その意味で歴史的な文書である。
この規則の全文は次の通りである。
市場設立願二関スル件
県令第八十一号明治二十年十一月十六日
凡ソ市場ヲ常設シ営業ヲ為サントスル者ハ,其願書二設置ノ方法及上地所ノ図面ヲ 添へ, 区戸長ノ奥書ヲ受ケ,所轄警察署又ハ分署ヲ経テ県庁二願出ツ可シカ!
このように,常設の市場の開設にあたっては,設置の方法や地所の図面を添付して所轄蕃察署 を経て宮城県庁に願書を届け出ることを定めていた。
そして翌12月には, 同規則を補足するかたちで.以下のような「市場取扱心得」 (訓令第32号)
が公布された。
市場取扱心得(訓令第三十二号明治二十年十二月)
今般市場取締ノ儀二付, 県令第八十二号発布ノ処,取扱方左ノ通心得ラルヘシ
ー.凡ソ市場ト称スルハ,営業者申合セ或ハ場所二区画ヲ限り市場ヲ常設シ,魚又ハ青物等 ヲ競売シ, 又ハ旧慣ニヨリ種々ノ営業者例月日限ヲ定メ (五ノ日又ハ十ノ日ヲ以テ開市 スル類)集合開市スルヲ云う,其単独卜唱へ一二ノ産業者ト取引スルカ如キ此限ニアラ サルモ,若シ其問屋ニシテ産業者多人数相集メ競売ヲ為スニ至リテハ.齊シク市場卜見 倣シ処置スヘシ
ニ, 旧慣二依り例月日限リヲ定メ.各郡市街ノ傍側二開市スル者アリ,右ハ甚シク道路往来 二妨ケナキ限リハ,所轄警察署又ハ分署ノ認可ヲ受ケシムルハ勿論ナリト錐トモ.猶ホ 市場二準シテ取扱フヘシ
罰則 県警察犯処罰令抜粋
左ノ各号ノーニ該当スル者ハ.三十日未満ノ拘留又ハニ十円未満ノ科料二処ス 九項許可ヲ得スシテ市場ヲ開設シタル者鰡'。
この文書の「罰則」の項をみるように,市場を許可なく開設した場合には「三十日未満ノ拘留 又ハニ十円未満ノ科料二処ス」ときれており.非常に厳しい措置がとられていたことがわかる。
そのようにした主な目的は, 1つは,やはり交通対策の実効を上げるためであった。そしても う1つは 衛生対策の実効を上げるためであった。周知のように.明治10年代には.宮城県内で
「法令類纂宮城県」 (宮城県公文書館所蔵)に収録されている。
「明治四'一四年八月魚市鴫二関スル庁府県令」 (農商務省水産局)に収録きれている。
27)この史料は 28) この史料は
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東北学院大学経済学論集第169号
もコレラをはじめとする伝染痛の流行によって多くの死者を出したことから鋤Ⅲ腐敗しやすい 生鮮食料品に対しては,行政による厳しい監視の目が向けられていたのである。ちなみに, 「奥 羽日日新聞」明治10年7月24日の記事は, 「青物検査」という見出しで「河原町なる青物市へ日々 巡査を出張せしめて一々一青物を検査し,万一不熟の果物等を鷲ぐものあれば悉皆売買を禁止せ
らるると言う」と述べているが, ここからも, 当時の衛生対策が厳しくなっていた様子が窺え
ヲ・釦)
⑨ c
ともあれ, ここに至って,市場取締に関する体系的政策が登場したのであった31」。
3. 「青物市場会社」の内紛激化と青物市場再編の現実化 一明治21 (1888)年3月〜明治25 (1892)年3月一
(1 ) 「青物市場会社」の設立と市場入場料の増額一明治21 (1888)年3月〜5月一
明治21年3月8日,河原町中央部に新設の青物市場の会社である「青物市場会社」の規約が作 成された。それには. 当社の青物市場を「公衆ノ売買所」とすること (第3条). 当社は資本金 を2千円の株式会社とし,株券を当社の社員より募集すること (第4条). その資本金を青物市 場の地所.建物の購入をはじめ創立の一切の費用に充てること (第5条). 当初の事務の一切を 掌握する社長1名.社長の事務を補助する幹事を1名置くこと (第9条. 第10条. 第11条).株 主総会は毎年2月と8月に開くが.株主の利害損失に関する問題が起きた場合などについては臨 時総会を開くことを社長に請求することができること (第17条).会議は出席者の過半数をもっ て議決すること (第18条)などを定めていた蛇'。ちなみに, 当社の初代社長には岩井長太郎,
同じく初代幹事には小西利三郎が選出された。
当社の最初の大きな課題は,市場入場料を大幅に増額することであった。次の史料には, その ような判断をせざるを得ない当時の事情が記述きれている。やや長文であるが,全文を引用しよう。
回章
当青物市場開業以来市場料トシテ(三厘二八厘ツツ)各村出品者領収セシコト蕊二殆卜六ケ
29) このことについては, きしあたり,伊藤滴次郎口述「仙台昔話電狸翁夜話(復刻版)1 (1990年11月)の426
〜427ページを参照されたい。
30) また. 「明治40年の名取郡役所の記録」 (「仙台市の発展とともに」. 仙台市中央卸売市場30周年記念誌、
1991年3月、 170〜171ページ)の中の「府県取締.街路取締に依り市場取締必要の有無及び取締事項」に 関して, 「売人に於いて腐敗の物品等を搬入の時は. 県の取締規則に依り市場内に出入りを禁止する必要を 認む」ときれており, ここからも 「宮城県市場取締規則」が衛生対策も瞳視していたことが窺える。
31) なお, この時期の全国の市場取締規則の検討を行った中村勝は. 「明治二○年(一八八七)宮城県市場取扱 心得第一項では, 「市場」に対してより詳細な定義を与えて,規制の対象市場は,営業背が申し合わせた「│j 場であること.常設であること, 魚または青物の競売ilj場であること. などを要件として 初めて生鮮食 料品卸売市場たることを明文化した」とし.大きな膝史的意義を有していたとしている。
32) 「青物市場会社規約」. 「小西家文害」. 目録番号: 11−5, 明治21 (1888)年3月。
明治20年代仙台の青物市場一「小西家文書」による検討を中心に−
月二至り, 而テ其得処ハ日々市場税上納スルニ不少之不足ヲ生シ収支相償ハサルヲ以テ既二 多額ノ負債ヲ為セリ,然二是迄市場税金一円二十五銭ノ処本年三月ヨリ金一円三十銭二相 成 殊更ニ会計上困難二立至リ候,鴫呼口諸流シテ川ヲナシ塵積シテ山ヲ為スト宜哉,此言 ヤ今ヤ株主ノ支フヘキニアラザルヤ必セリ,是二於テ嘆ノ余リー同商議ノ上,将来ノ維持法 ヲ二点二分チ該関係ノ諸君二商議セント欲ス,請う之レヲ賛成セヨ
本年五月二十日ヨリ
ー,壱荷二付一日金六厘 一, 馬壱二付一日金壱銭二厘 一,壱車二付一日金壱銭五厘
右之市場料申受維持致度,将又地租金其他市場取締等二係ル経費一ケ月金十円余ヲ要スルナ レドモ.是レハ株主二於テ負担可致仕候間差斎記ノ日限迄二点ノ中熟レカ御回答被下成度,
若シ同日迄御聞定御申越無之候ハハ先以斎條執行仕候間左様御承諾有之度,実ハ開業以前 ノ予算ニハ日々ノ出品員数凡(三百荷程内車馬二分位)予算候処, 図ラサルキ如何ナル思召 ニヤ市場近傍,或ハ入口二来リテニ,三車ヲ−車二合スルアリ. 又二,三荷ヲ一荷車二荷二合 スルモアリテ為メニ前予算トハ案外二相違セリ,故二最初一荷金三厘, 一車馬金八厘ヲ領収 シ, 日々ノ市場税二充テタルモ開業当Hヨリ今日二至ル迄.収入金平均一日七十銭○四厘二 過キズ.如斯ナレハ仮令其分ノ収入市場税ヨリ超過スルモ(虫喰二,三字アリ)均スレハ収 支相償コト能ハサル目的ナリ,故二御照会致候間御推盧アランコトヲ謹テ敬告仕候,但シ 定日経過執行致居候トモ市場税各村出品者ニテ負担相成候ハハ何時ニテモ相談二応スヘキ事
明治二十一年月
青物市場事務所 各村出品人郵!
これをみるように,新市場は,明治20年11月10日の開業以来.入場料として「一荷金三厘.一 車馬金八厘」を徴収していたことがわかる。しかしこのような金額では, 「日々市場税上納スル ニ不少之不足ヲ生シ収支相償ハサル」にもかかわらず, 明治21年3月からは,納税額が「是迄市 場税金一円二十五銭ノ処本年三月ヨリ金一円三十銭二相成.殊更ニ会計上困難二立至リ候」と いうことになってしまったという。そこで. 「五月二十日ヨリ」, 「一 壱荷二付一日金六厘」, 「一,
馬壱二付一日金壱銭二厘」. 「一,壱車二付一日金壱銭五厘」としたいというのである。つまり,
入場料の大幅な値上げの提案をしているのである。
そして. この提案はそのまま実行に移されることになった淵'。
33) この史料は. I大竹家文書」 (仙台市民図書館所蔵)に収録されている。明治21年という発行年だけしか記 されていないが, 内容から判断すれば, 同年4月頃に出きれたものと考えられる。
34) このことは, 「奥羽日日新聞」明治24年10月17Hの記事の中に, 「是迄の口銭,即ち荷車一台より一銭五輪.
馬一疋一銭二厘.担人六厘」という記述が出てくることでも確認できる。
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(2) 「青物市場会社」の内紛激化と青物市場再編の現実化 一明治21 (1888)年11月〜明治25 (1892)年1月一
明治21年11月21日, 「青物市場会社」社長岩井長太郎に対して,小西栄蔵ら5名の株主が, 「株 主私共.青物市場会社エ建議之筋有之候二付,社則二因り十一月二十二日臨時会開会相成度此段 申込候也」 という 「臨時会議開催申込書」を提出している3引・これ以降の経緯を示す史料は見 当たらないが,株主間の関係が険悪なものになっていたことは想像に難くない。
それから約3年後の明治24 (1891)年9月24日,小西栄蔵は,岩井長太郎らを相手取って起こ した裁判について, 「九月十五日ヲ以テ勝利之判決二相成申シ,就テハロ公判言渡書御覧二入申 度且市場将来之事等,御協議仕度候」駒)と,河原町の有力者18人に対して呼びかけている。こ の裁判の原因や経緯についての詳細は定かではないが, 明治24年10月17日の「東北毎日新聞』に よれば, 「当市場は元来五名の株主より成立し一切の支配は岩井長太郎が引き受け来りしが, 同 人は他の株主へは曽て一度半ケ年程度の利益配当をなせしまでにて,其後は利益の配当は勿論営 業の報告すら致さざりゆえ,他の四名の株主は先頃.利益の配当,帳簿検閲の訴訟を起し.結局 勝訴に帰せし」ときれている。いずれにせよ, この時, すでに岩井長太郎らと小西栄蔵らの対立 は決定的なものになっていたのである。
このような中,岩井長太郎に批判的な小西栄蔵らの株主達は,河原町に新たな青物市場を開設 し,入場料を半減する計画を立てている。このことについて,明治24年10月17日の『奥羽日日新聞」
は, 「他の株主は河原町一町の有志を募て新たに青物市場を設け,是迄の口銭,即ち荷車一台よ り一銭五厘,馬一疋一銭二厘,担人六厘を悉く半減するの相談を為し」と報じている。こうする ことによって〃 「市場料の高価なるが為めに青物を市場に出きずして直に市内へ売り捌きに出掛 くるもの」を河原町市場に呼び戻そうと考えていたようである。そして, 同記事によると, この 計画は「此程に至り多数の同意者もあることにより,愈新設することと決し,不日警察署を経由 して知事へ出願すべしとのこととなり」という展開となった。開設願提出前夜というところまで 進んでいたのである。
ちなみに, このような展開から推測しうることは,かつて明治21年4月頃に「青物市場事務所」
から「各村出品人」に伝えられた市場入場料の大幅増額という方針は,岩井長太郎の独断で出き れた可能性が高いということである。
ところで, この河原町に新設予定の青物市場に関して, 「青物市場仮規則」と「青物市場方法」
という文書が作成されているが, これらの中で注目きれることは.市場入場料の徴収に関して新 たな提案がなきれていることである。例えば. 「青物市場仮規則」の市場入場料に言及した箇所 をみると. 第1条で「無料ニテ出品,売買共自由タルベシ」としつつ, 第2条では「市場二要シ タル地所ノ租税,及日々市場税等ハ出品村落卜協議シ,毎月幾何卜確定徴収ノ上.市場二於,之
35) 「臨時会議開髄申込誓」. 「小西家文許」. 目録番号: 4−7,明治21 (1888)年11月21日。
36) 「青物市場事件公判言渡普開示につき回状」. 「小西家文書」. 目録番号:2‑11,明治21 (1888)年9月24日。
明治20年代仙台の青物市場一「小西家文書」による検討を中心に−
ヲ上納スベキモノトス」諒} としている。また. 「青物市場方法」の市場入場料を規定した箇所を みると,
入場料
第四条青物売込出品人ヨリ入場料ヲ左ノ規定二従上徴収スヘキコト。
荷車積一輔 金八厘 馬 〃一頭 金六厘 摺策一筒 金三厘
第五条入場料ハ前条二定ト雛時宜ニヨリ村々ノ申入二付テハ出品人数ニヨリ月,或ハ年幾 何卜確定,徴収スル事アルヘシ詔}。
とぎれている。つまり.新たに開設きれる青物市場では.市場そのものでは入場料を徴収せず,
その意味で入場料無料であるが, 出品村落から出品者数に応じて一定の期間ごとに徴収するとい う方針が打ち出されているのである。
他方,長町(当時は名取郡茂ケ崎村)においても,青物市場の開設が構想的段階から現実的段 階へと進もうとしていた鋤)。このことについて, 明治24年11月22日の『東北毎日新聞」は, 「朝 市場を移さんとす」という見出しで, 「名取郡域一部の有志者は発企となり.河原町に設けある 青物の朝市場を名取郡茂ケ崎村に移ざんとて, 夫々協議を遂げられたる由なり,猶聞く処によれ ば,六,七日以前も右有志者は同村明法館に於て右に関する大演説会を催きれたる由」 と報道し ている。市場開設に向けて大いに盛り上がっていたようである。そして, ついにこの頃,宮城県 に対して「市場開設許可願」が提出きれたのである柵)。
(3)河原町・新河原町の住民による「青物市場会社」の株の買収一明治25 (1892)年3月一 明治25年1月15日に開催きれた「青物市場会社」の臨時株主総会で当社の役員を辞任した岩井
37) 「青物市場仮規則」. 「小西家文替」 目録番号? 10−1 .明治24 (1891)年10月。
38) 「青物市場方法」, 「小西家文啓」, 目録番号: 10‑2.明治24 (1891)年10月。
39)長町市場の開設構想は、明治23年頃からみられたようである。例えば, 「名取郡誌」 (名取教育会謁,大正14年)
の「長町青物市場」の項には. 「明治二十三年郡長守屋孝章氏, 同町今野栄治氏奔走尽力し,仙台市より独 立したる市場を設けんとする識あり」 (244ページ) という記述がある。 また, 「昭和三年以降市嶋に関す る替類第七号」 (仙台市商工課発行. {l11台市民図普館所職)にも. 「仙台市民二蔬菜果物ヲ供給スル青果 物市場ハ,其ノ當初河原町二開設セラレタリシガ曲折錯綜シタル事憎□ロシ, 明治二一│ ・三年五月二‑1‑一日.
仙墨市東南部並二名取郡内生産者協議ノ結果,河原町市嶋ヨリ分離シ,畏町,墹田. 中田. 六郷.西多賀 二町三ケ村ノ代表者ニ拠り蔬菜果物ノ生産者共同販費所トシテ市噛設髄ノ件ヲ出願シ」という記述がある。
このような動きが, 明治24年の河原町市場の上逮のような分裂騒ぎの中で現実化してきたといえる。
40)そのことは, 明治25年6月28日の「奥羽日日新聞」が. 「阿部氏は……旧村二十四の肛立し出品人と協議を 遂げ.昨年中に其筋へ出願せし」と記述していることから窺える。 「昨年中」 (明治24年中)だとすれば, 「市 場開設許可願」が提出答れたのは市場開設の機運が現実化したこの頃と考えるのが妥当だと思われる。
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東北学院大学経済学論集第169号
長太郎は41), 自分が所有する株を河原町・新河原町の住民に対して売却しようとした。次の史 料をみるように.岩井長太郎は3月19日に,河原町区長小西栄蔵の元を訪れている。
回章
拝啓青物市場株主岩井長太郎氏所有株百六拾三株(一株払込金拾円) ヲ今般河原町,及新河 原町ノ両町へ売却致候由本日同人直二申入有之二付,右買受,並二直販ノ件,折入而御協 議申上度,且右ハ重要ナル事件二付,諸君御揃ノ上ニテ御協議仕度候間,万障御差繰, 明 二十日午後正一時私方へ御来集上被下度候也。
明治二十五年三月十九日
区長小西栄蔵 菅野養治様
(以下,略)42)
これを受けて, 3月20日には.河原町・新河原町両町の有志17名が小西栄蔵宅に集まり,今後
の対応を協議している43)。その後の具体的展開についての史料は見当たらないが,軒余曲折を
経ながら, 「河原町・新河原町共同八百屋市場」の開業広告が新聞に登場した明治25年7月末ま でには,岩井長太郎所有の全株が河原町・新河原町の広範な住民によって買い取られたことは間 違いない44)。4. 「名取青物市場」と「河原町新河原町共同八百屋市場」の設立による新たな競 争の開始一明治25 (1892)年6月〜9月一
(1 ) 「名取青物市塙」と「河原町新河原町共同八百屋市場」の設立
その後,長町青物市場の開設計画は着々と進み, 明治25年6月9日には宮城県から開設許可が
41)岩井長太郎が「青物市場会社」の役員の辞職を申し出. 明治25年1月15日の臨時株主総会で認められたこ とは.明治25年1月19日と21日の「東北新開」に掲載された広告によって確認できる。
42) 「青物市場株主岩井長太郎所有株に関する文書」. 「小西家文普」,目録番号;11‑6,明治25(1892)年3月19日。
43) 「青物市場株主岩井長太郎所有株に関する文普」, 「小西家文誉」, 目録番号: 11−6,明治25 (1892)年3月 20日。なお,岩井長太郎自身も,河原町・新河原町の住民に対して, 明治25年3月23日, 24日, 25日の「東 北日報」で「私所有の仙台市河原町青物市場会社株券悉皆売却仕候間御希望の御人は下名迄御来談あらんと」
と呼びかけている。
44) この様子は. 「昭和三年以降市場二関スル書類第七号」 (仙台市商工課発行,仙台市民図書館所蔵)に 収録されている文普中の次の一文からも窺えよう。
「当時岩井氏ヨリ買受ケタル土地ハ僅力二四百三十坪ノ価額八百円ナリシモ,河原町新河原町表通居住者 ノ大半ヲ挙ゲテ九十五名ノ義務出資二係り,而モ其ノ割当ハ各分限割トナシ,多キハ金百円,少ナキハ僅 二金三十銭ヲ拠出シ,県ノ誕可ヲ得ル迄,市場存置ノ為メニ利己ヲ離レテ尽シタル必死ノ努力察スルニ余 アリ」。
明治20年代仙台の青物市場一「小西家文瞥」による検討を中心に−
下りた45)。そして6月25日には, 1000人もの客を招待して始業式が行われた。したがって. こ
の日が「名取農産物市場」すなわち長町青物市場の開設日となる。この市場の維持方法についていえば,市場そのものにおける「売買手数料」は無料であったものの櫛), それに当たる分を出
品町村から一定の期間後に徴収するかたちをとっていた47)。河原町市場にとって長町青物市場(「名取農灌物市場」)の出現は, 隣接地に「強敵」が現れた こと意味した。そこで,早速あらゆる対抗措置を取らざるを得なかった。その1つが「河原町新 河原町共同八百屋市場」という新会社の設立であった。明治25年7月末から度々新聞に掲載され た「河原町新河原町共同八百屋市場」の広告は次の通りである(『奥羽日日新聞」明治25年7月 30日)。
広告
河原町青物市場ノ儀是迄岩井長太郎取行罷候処.今般河原町新河原町両町二於テ買受共有 地トシ.左ノ通改正仕候。
一河原町新河原町共同八百屋市場卜改称ス。
一当市場ハ出品人ヨリ入場料ヲ受ズ適宜八百屋物ヲ売買スル所トス。
一当市場ハ是迄ノ弊習ヲ改メ出品人取扱向ハ旧村宿人名ヲ以テ鄭重御取扱可為致候。
一出品人諸君ニシテ出品上二関スル御用向之方ハ事務所エ御紹介可被下候。
明治二十五年七月三十日 仙台市河原町七十五番地
河原町新河原町共同八百屋市場事務所 創立委員 (略)
この組織の特徴は.河原町・新河原町の広範な住民が.青物市場の土地を岩井長太郎から買い 受けて「共有地」としたこと, また「当市場ハ出品人ヨリ入場料ヲ受ズ」とし.市場内では入場 料を徴収しなかったものの, 出品者数に応じて市場利用町村から一定期間ごとに徴収していたこ とである。市場の維持方法という点では, 長町市場と同じであった。なお, この「河原町新河原 町共同八百屋市場」の設立が宮城県から許可されたのは,この年の8月17日のことであった(「東 北新聞』明治25 〔1892〕年8月18日)。
45) ちなみに, この市場の開設に尽力した阿部太平は. 大竹左右助宛の手紙で「曽テ出願中ナル青物市場ノ件 ハ最早御許可相成候事二結局仕候間御安神可被下候」 (「大竹家文普」,仙台市民図書館所蔵)と報告している。
46) このことに直接言及した史料はないが 「仙台市の発展とともに」 (仙台市中央卸売市場30周年記念誌,
1991年3月)に収録きれている「明治40年名取郡役所の記録」の中で,長町市場に関して「売買者手数料 及び徴収法」−「なし」としていることでも明らかであろう。
47) このことに関しても直接言及した史料はないが. 長町市場の維持賀の負担をめく.り, 名取郡内の出品町村 間で産々トラブルが起きていたことを想起するだけで十分であろう。ちなみに,そのトラブルに関する「河 北新報」の記事は. 明治32 (1899)年3月30H, 明治36 (1903)年7月26日にも掲載されている。
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東北学院大学経済学識集第169号
(2)両市場による新たな競争の開始
開設場所が近接していることもあって, 開設早々この2つの市場が実際に激しい競争を展開せ ざるを得ないことは. ある意味では当然のことであった。 ここでは. 2つの出来事に注目してお きたい。
1つは, 明治14 (1881)年10月25日に「内田雅次郎以下十八名」が「針生与兵衛以下十二名」
に宛てて発行した「定約証」をもとに 「違約金」を徴収しようとする動きである。その証書には「今 後各村ヨリ何様有之候共,長町村二於テ,此末青物市場相設ケ申間敷候,若万々一右市場相設候
節ハ,無論金四千円違約金トシテ相償上可申候」と書かれていたからである481。このことにつ
いて, 明治25年7月3日の『奥羽日日新聞」は. 「今回長町駅に名取市場の名称を以て開設せし かば,河原町市場にては大に激昂し,名称こそ異なれ長町駅に開設せしものに相違なれば此上は 規約(定約証のこと……引用者)に基き違約金請求の訴訟を提出せんとて過日来より研究中なりしが,既に準備も整いたれば不日大紛擾を見るに至るべしとの事なり」と報道している。
その後然るべき準備がなきれ,明治26年6月末になって「彌々訴訟を提起することに決定し た」 (『奥羽日日新聞』明治26〔1893〕年6月27日) という。この裁判の詳細は明らかではないが,
「東北日報」明治26年11月10日の記事によれば, 「当市河原町青物市場と名取郡長町市場の紛擾 は終に訴訟にまで及び長町市場の敗訴に帰した」と報じられているから,やはり違約金4千円は 支払われたのであろう。それにもかかわらず. 同記事によると,長町市場は「猶も競争を試みん とて.依然市場を開市しつつあり」とされているから,敗訴にもかかわらず.河原町市場との競 争に敢然と挑んでいったようである。
もう1つは.河原町市場の市場税の軽減を求める動きである。これは.長町市場が開設した直 後の明治25年6月末に, 「仙台商業会議所議員小林八郎右エ門外十三名より河原町市場の衰微を 救済せんが為め,同会議所に対し,同会議所の名を以て河原町市場税の引下を其筋へ懇願するか.
若しくは河原町市場同様に引上られんことを請願せんとする建議書を提出したり」 (『東北日報」
明治25年6月30日) というかたちでスタートした。それは「河原町市場は日税六十銭なれども,
長町は市外なるを以て日税三十銭」 (同上) という状態では,河原町市場が長町市場に対して不 利になるのは目に見えていたからである。
その後. この建議は仙台商法会議所の決議を経て, 7月13日に宮城県に提出きれ(『東北日報』
明治25年7月14日) , 8月30日には早川智寛商法会議所会頭より遠藤庸治仙台市長に提出きれた。
それが以下の史料である。長文であるが,それまでの経緯にも言及している興味深いものなので,
あえて全文を紹介することにする。
仙台商業会議所会頭早川智寛本所ノ決議二遵上謹テ建議ス,市内河原町ノ儀ハ古来青物市場 ヲ開設シ市内ノ需要ヲ充シ来候処.過ル十二年初テ市場税ヲ賦課セラレタル時,右費用ニ充
48) このことについては.仁昌寺正一〃地方税規則」公布下の青物市場の紛争」 (「市史せんだい」V01.14,仙 台市博物館, 20()4年7月)を参照きれたい。