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『諏方大明神画詞』の「唐子」をめぐる試論

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『諏方大明神画詞』の「唐子」をめぐる試論

著者 中村 和之

出版者 法政大学国際日本学研究所

雑誌名 国際日本学

巻 18

ページ 186(1)‑168(19)

発行年 2021‑02‑26

URL http://doi.org/10.15002/00023759

(2)

一  はじめに

その理由を北海道とサハリン島(樺太)との関係から検討してみたい。 ての記載がある。本稿では、なぜ唐子と呼ばれたのか、北海道の北部にいたと考えられている「唐子」蝦夷という集団が、   『大・諏料でり、日ノ本・唐子渡的党の三類の蝦夷につい方なあ本イ明神画詞』は、中世基アのヌ語でえうる史を史 わたりとうじんからみょうもとことばだい

二  『諏方大明神画詞』に見える三類の蝦夷

モ、多力中正亨・元中末事云ルナ代焉也掲神ト比ヨリ東州奥テシ起威蜂夷テ、嘉マ當至社中年暦ヘ ケツホウエン 。る資料編から該当部分を引用す い本・岩瀬文庫本を用県て校合した『青森史』庫文宮神めあげられた。本稿では権祝本を定本として、梵舜本・大祝本・   『諏諏っあで眼法行執社訪は、諏者作の』詞画神明大方た訪(と一まに巻十に)六五三年(小元文延り、あで忠円)坂

『諏方大明神画詞』の「唐子」をめぐる試論

中   村   和   之

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サフ 乱スル事アリキ、蝦 千嶋云ヘルハ、我國東北大海中央アリ、日モト・唐子・渡黨、此三類各三百三十三群居セリト、一嶋ハ渡黨ニコスス、其内宇曽利鶴子別本マヽ 堂宇満伊犬云小嶋トモアリ、此種類

奥州津 カル・外 ソト徃来交易ス、夷 エヒス一把 六千人也、相聚ル時ハ百千把及ヘリ、日本・唐子二類其地外國

連テ、形躰夜叉ノ如變化無窮ナリ、人倫・禽獣・魚肉等シテ、五穀農耕知ス、九澤 (譯)重ヌトモ語話ヲ通(難)

シ、渡黨和國相類セリ、但鬢髪多シテ、遍身生セリ、言語俚野也云トモ大半相通、此中公超霧ナス術傅ヘ、公遠隠形得タル類アリ、戦場丈夫ハ甲冑・弓矢帯シテ前陣、婦人後塵

弊帛ノ如クニシテ、天向テ誦呪ノ躰 テイアリ、男女共ヤマタニ經過スト云トモ乗馬、其身ノ輕事、飛鳥・走獣、彼等遺骨シテ毒薬ヌリ、纔皮膚ハタエ フル レハ其人斃 ヘイセスト云事ナシ、根本ナカリシ、武家其

濫吹鎮護センタメニ、安藤太云物管領トス、此上古ニ安倍氏悪事高丸云ケル勇士ノ後胤ナリ、この部分は、「元亨・正中ノ比ヨリ嘉暦年中ニ至ル」までの「東夷蜂起」に係わる諏訪大明神の活躍を記すという立場で書かれている。東夷とはアイヌのことである。以下に引用文の概要をのべる。蝦夷カ千嶋には、日ノ本・唐子・渡党の三つの類がおのおの三三三島に群居しており、残りの一島は渡党に混じっている。日ノ本と唐子の二つの類はその地が外国に連なり、姿形が夜叉のようで変化して果てがない。人倫は禽獣のようで魚肉などを食べ、五穀の農耕を知らず、訳を九回重ねても話を通じることができない。渡党は和国(日本)の人に類似している。ただし鬢と髪が多く、体中に毛を生やしており、言葉は野鄙ではあるが大半は通じると記されている。

  これまでの説では、日ノ本は北海道の東部に居住するアイヌの集団、唐子は北海道の北部に居住するアイヌの集団とされてきた。北部でも西海岸とする考えが一般的である 。また渡党は、流刑者などを含む本州から移住した人たちと考えられてきた。では、北海道の北部に居住するアイヌの集団が、なぜ唐子と呼ばれたのであろうか。

  まず唐子の意味について確認しておこう。『時代別国語大辞典』室町時代編、では、からこ【唐子】は以下のようにある

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①中国風の髪形や装いをした子供。多く絵の素材とされた。「Caraco(カラコ)。シナの子供」(日葡)「Caraconoye(カラコノエ)。頭のまん中で髪を結ったシナの子供を描いてある絵」(日葡)「是に春秋の花づくしをかいたり、又一方にはからこ、いづれもざれた絵などをかくを、ざれ絵ざつと書たと云」(狂言六義=末広がり)②童子の髪形の一。髻 もとどりから上を二つに分け、頭の頂の所に二つの輪を作る結髪法。唐子髷 まげ。「カラコニ二ツユイタルヲ双鬟卜云ゾ。カラコニ角髪ユイタル童女ガ出テ誰 タソト答ル也」(長恨歌聞書)このように、唐子は中国の子供の姿ないし中国の子供の髪型という意味である。ただここでいう唐子は、蝦夷の三類の一つとしての唐子である。本当に中国風の姿をしていたのか、あるいは中国となにがしかの関係があったのかなどにつ 図 1. 関連地図(▲は智東 8 遺跡以外の南貝塚

式土器の出土位置)

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いて検討の必要がある。そもそもこの時期、北海道の北部地域の集団が中国と係わりを持つことがあり得たのであろうか。そのことについて、以下に検討しよう。

三  モンゴル帝国・元朝のサハリン島への進出とニヴフ・アイヌ

  一  モンゴル帝国・元朝のサハリン島への進出と白主土城

  中国の王朝がアムール河の下流域とサハリン島に勢力を伸ばしたのは、モンゴル帝国・元朝の時代が初めである。元朝は、アムール河の河口から遡った位置にある現在のティル村に東 とうせいげんすいを置いて、アムール河下流域・サハリン島の支配の拠点とした。ティル村には、遅くとも金代には奴 ゲン城が置かれ、明代にはヌルゲン都 が置かれた 。ただし発掘によって位置が確認されているのは、明初に女真人の宦官イシハによってヌルゲン都司に併設されたヌルゲン永寧寺の址のみであり 、ヌルゲン都司の実態はわからない。都司という名称が連想させるような、官衙を構えていたかどうかは不明である。

  モンゴル帝国・元朝がアムール河下流域に軍を進めたのは、クビライ・カアンの即位からさほど時間をおいていない時期であった。その後、シッディの率いる軍が、サハリン島にまで進軍したことが知られている 。シッディは、チンギス・カンの四駿の一人に数えられる武将ムカリ国王の玄孫である。ムカリ国王家は、ある時期からチンギス・カンの四男であるトゥルイの家に仕えており、シッディのサハリン島侵攻はトゥルイの子のクビライの政権で実施された。おそらくはシッディらの遠征の結果として、戚輔之『遼東志略』(陶宗儀『説 ぜっ』𢎥六二所収)に、又 また東北は奴 ゲンに至り、海を渉 わたると吉 など諸 もろもろの夷 えびす地が有り、咸 な統 しはいの内 うちに属している。とあるように、ヌルゲンから海(間宮海峡)を渡ったところに吉列迷が住んでいるという地理認識が生まれた。吉列迷

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kiəi-lie-miəi とは、吉烈迷kiəi-lie-miəi、あるいは吉里迷kiəi-li-miəiとも書くが、古アジア系の狩猟漁撈民であるニヴフの祖先の呼称gillemiを漢字の音で宛てたものである。十九世紀初頭の民族分布を示した地図によれば、ニヴフはサハリン島のほぼ北緯五十度以北とアムール河の河口域に居住していた。したがって、先のヌルゲンから海を渡ったところに吉列迷が居住するとの記述にも符合する。

  モンゴル帝国・元朝がサハリン島に進出したことを明確に示す遺物などは、実は確認されていない。唯一、可能性があるものとして白 しらぬしじょうという遺構がある。白主土城とは、サハリン島西岸の最南端にあるクリリオン岬から二キロメートルほど北上した海岸段丘上にある砦の遺跡である。土城の規模は一一五×一一四メートルで、土塁が版築の構造であることがわかっている

)(1

。版築は中国の土木技術である。この時期の北海道には版築の建築物が見あたらないので、この技術は大陸経由でもたらされたものと考えられる。

  白主土城については、間宮林蔵『北夷分界余話』巻之二

)((

、に、シラヌシを去る事凡一里許 ばかり東海岸にコヾハウと称する処あり。其処に𡎵 とりでの旧趾あり、夷言チャシと称す。其状図のごとし。三面に堤を築き、前一方堤を設けず、其中凡二十四、五間あるべし。三方の堤下悉く堭 こうを穿つ。何れの時又何者の造る所にや、年月・𡎵主共にしるべからず。其製島夷の造る処にあらざるに似たり。とある。土城の位置はコヾハウといい、誰が造ったかわからないが、アイヌが造ったものではないと記している。では誰が造ったのか。近藤重蔵『辺要分界図考』巻之三

)(1

、には、

図 2. 間宮林蔵『北夷分界余話』巻之二「チャシ図」(国 立公文書館 内閣文庫藏)

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シラヌシ〔西部ニ見ユ〕トアクナイボ沙濱グイ〔カラフト地西南ノ盡頭ナリ。夷住アリ。此處ノ丘上ニ古城跡アリ、土人名 なづけテトイチヤシト云、其制方百間四方許 ばかりアリテ、門ノ跡一ケ所、其外土手アリ。夷人云、古レプングルノ攻來リシ時築ク所ナリト。夷語ニレプンハ海、グルハ衆ニシテ、惣テ海西ヨリ來ルモノヲ指ス。山丹人モレプングル也。粛愼靺鞨モレフンクルナリ。蝦夷ニレプンクル合戰ノ浄瑠璃アリ〕とあり、土城の位置はグイといい、トイ・チャシと呼ばれていたことが記されている。これはアイヌ語で、土の城という意味である。またレプン・クル(沖の人)が築いたものとするアイヌの言い伝えを記している。松田伝十郎『北夷談』四

)(1

、には、一、シラヌシより去る事凡一里程東海岸に字 あざグイと稱する所あり。其處に砦の舊跡あり。夷言にチヤシと稱す。凡三百間四方にして、三面に堤を築き、前の一方は堤なし。三方とも堤の下ことごとくから堀にて、今に其あと連綿としてあり。所の老夷に尋るに、何のとき又何ものゝ造るにや年月は勿論砦主どもしるものなし。其製嶋夷の作る處にあらざるゆへに圖を顯す。左のごとし。〔又老夷いふ昔、胡人作ると云 いいつたふ〕とあり、土城の位置はグイといい、胡人が造ったという言い伝えを記している。胡人とは、漢語で西方や北方に住む異民族のことであり、近藤重蔵のレプン・クルに当たるものであろう。

  筆者は、コヾハウという地名に注目している。この地名に音が似た地名が元代の『国朝文類』という史料にも見えるからである。『国朝文類』は別名を『元文類』ともいい、元代の有名な文書を収録した書物である。同書の巻四〇から巻四二には、経世大典序録が収められている。『経世大典』は元代に編纂された政書といわれる書物で、元代の制度や法律などをまとめている。『経世大典』は散逸して伝わらないが、明初に編纂された『元史』の志の部分は、『経世大典』をもとに書かれたとされている。さて元代の公文書には、特徴がある。それは、各官庁の間でやり取りされた文書を、直

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接話法で記録する点である。『経世大典』を編纂する際に、関係の公文書を抄録し、さらに『国朝文類』に収めるにあたっても省略が行われたものと思われる。したがって『国朝文類』の条文は多くの場合、本来であれば記載されていたであろう一連の行政処理の結論の部分を欠いている。以下、『国朝文類』として引用する史料は、すべて『国朝文類』巻四一、経世大典序録、政典、招捕、遼陽骨嵬、からのものである。『国朝文類』に、大徳元年五月、骨 の賊の瓦 ウァインは、吉 の造った所の黄 ファンウォせんに乗って海を過 わたり、只 みさに至って乱を作

した。八月、吉 人の奴 キェは海を過り、為 ウェイとりでに至り、内 ヌァイトンの人に遇って、「吉烈迷人の牙 イャキェが『骨嵬の賊と不 が、今年の海が凍る比 ころに以 なったら、果 クオフオを過ぎ、打 たかを虜 掠に欲 ようとしている』と称 っているので、乞 うぞ之 これを討 せいばつしてください」と言った。既 に遼陽省よりの咨 ぶんしょには「三月五日、吉烈迷の百戸の兀 ケン

キェが来 帰たので、魚・糧・網・扇を給 あたえ、存 恤って(決められた)坐 せきに位 つかせ、管 かんジェばんに文を移 おくって収 した。六月五日、官軍が賊を吸 トンに於て敗 やぶった。七月八日、骨嵬の賊の玉 レンは果夥より海を過 わたり、拂 に入ったが、官軍は之を敗った」とある。とある。この大徳元年(一二九七)の記事に、サハリン島における元軍の拠点として果夥kuo-huoという地名が記されている。筆者はこの果夥が、地名の音の類似および『国朝文類』に見える吸 トンなどの地名との位置関係から、間宮林蔵がいうコヾハウではないかと考えている

)(1

。もしこの考えが正しいとすれば、果夥は白主土城のこととなり、版築という中国の建築方法で築造されていることとも符号する。また元軍は、サハリン島の南端にまで軍を進め、ここに砦を築いていたことになる。

  二  元朝と吉列迷との関係

  元朝がサハリン島の先住民について残した記録は、正史の『元史』と『国朝文類』に収められている。さきにのべた

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ように『国朝文類』は、もとが公文書であるため、関係する人名を漢字の音で記録しており、さらに多くの人名については、どの集団に属するのかも記されている。以下に、所属する集団別に人名と発音をあげる。さらにその人物が位を持っている場合は〔  〕の中に示す。史料に登場する順に名前をあげている。

兀的哥人厭薛iem-sie吉烈迷人蓋分kai-fən〔百戸〕、不忽里pu-hu-li〔百戸?〕、皮牙思p

‘i-ia-sï

〔千戸〕、奴馬失吉nu-ma-ʃɪəi-kiəi、牙乞木ia-k

‘iəi-mu

、兀勧吉u-k

‘iuen-kiəi

〔百戸〕、甲古kia-ku、乞失乞乃k

‘iəi-ʃɪəi-k

‘iəi-nai

〔百戸〕、多伸奴tuo-ʃɪən-nu亦吉奴iəi-kiəi-nu、皮先吉p

‘i-sien-kiəi

骨嵬瓦英ua-iəŋ、玉不廉古iu-pu-liem-ku、玉善奴iu-ʃɪen-nu不明不忽思pu-hu-sï 、大河沙ta-ho-s.a 、荅剌不魚ta-la-pu-iu

右記のうち、兀的哥u-tiəi-ko 人はアムール河下流域に住むツングース系の少数民族ウデヘと名称が類似しており、ツングース系の集団とみることができる。集団が不明な三名のうち、不忽思は吉烈迷の不忽里と同一人物なのではないかと思われる。おそらく、どちらかが書き間違いなのであろうが、筆者は不忽思が正しいのではないかと考える。その理由は、吉烈迷に皮牙思という人名があり、~思という語尾が共通するからである。もしこの考えが正しければ、不忽思(あるいは不忽里)は吉烈迷ということになる。大河沙と荅剌不魚が、どの集団に属するのかはわからない。

  元朝から百戸ないし千戸の地位を与えられているのは、吉烈迷人だけである。また吉烈迷人は、史料に吉烈迷人または吉烈迷と書かれるが、骨嵬は骨嵬人とは書かれない。兀的哥人の例から考えると、元朝の支配下にある場合は人をつ

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け、支配下にない場合は人をつけないというように、書き分けがなされているのかもしれない。十一名の吉烈迷人のうち、百戸は三人ないし四人である。さきに不忽里について〔百戸?〕と記したが、その理由は、『国朝文類』に「吉烈迷人の百戸の蓋 カイフェンと不 は……」と記されているため、蓋分が百戸であるのは間違いないが、不忽里は百戸であるのかないのか、どちらとも判断しがたいからである。さて千戸は皮牙思一人であるから、百戸と千戸を合わせると四名ないし五名の吉烈迷が元朝から地位を与えられていたことになる。

  注目すべきは、傍線をつけた多伸奴tuo-ʃɪən-nuと亦吉奴iəi-kiəi-nuの二人の名前がアイヌの名前に似ていることである。骨嵬の瓦英ua-iəŋ と玉善奴iu-ʃɪen-nu となどの名前は、アイヌの成人男性の名前に多くみられる-ainu という語尾を漢字の音で表しているものと思われる。アイヌ語でアイヌということばには、神に対する人という意味と、女性に対する男性という意味がある。そのため、アイヌの男性の名前は語尾が-ainuという形が見受けられる。語尾が無声化すると-ainとなる。有名なコシャマインやシャクシャインなどはその例である。興味深いことには、このアイヌ風の名前を持つ二人の吉烈迷は、骨嵬と元朝との間を調停しようと動いている。当然この多伸奴・亦吉奴は、骨嵬と意思の疎通ができたであろう。彼らについては、アイヌとニヴフとの混血であった可能性があるし、あるいはニヴフ語に堪能なアイヌが元朝の役人にニヴフだと偽って言った可能性など、いくつかの可能性が考えられる。もし多伸奴と亦吉奴の二人が吉烈迷ではなく骨嵬なのであれば、吉烈迷は九名となる。そうすると、半数近くの吉烈迷人が元朝から地位を与えられていたことになる。

  三  元朝と骨嵬との関係

  さきにのべたように、吉烈迷は元朝の支配のもとに身分秩序が形成されていたが、骨嵬は元朝の支配体制の外側にいたことがわかる。ではアイヌと元朝との間には何の接触もなかったのかといえば、実はそうではない。そのことを示す

(11)

興味深い記述が、元代の大都(北京)の地誌である熊 ゆうぼうしょう『析 せきしん』に見える。著者の熊夢祥の正確な生没年は不明だが、明代のはじめに九十余歳で没したとされているから、本書の成立は十四世紀の前半と考えられる。『析津志』の原本は明代の末期には失われ、他書に引用された佚 いつぶんを集める作業が進められている。同書の物産、鼠狼之品に

)(1

、銀鼠〔和 林と朔 さくほくの者 ものを精 こうきゅうと為し、山の石の罅 われめの中に産 すんでいる。初 生には赤毛に青 あおみがかっているが、雪に経 ふれると則 たちまち白くなる。愈 なんども年を経 て深 とても雪 しろい者は愈 ひじょうに奇 きちょうとされ、遼 りょうとうの骨 (のところ)に之 これが多い。野 じんが海上の山や薮 やぶの中に於 いて鋪 こやを設け以 そこで中国之 ぶっしと易 こうえきする有 のであるが、彼 かれと此 これとは倶 たがいに相 あいてに見 わ不

い。此 これが風俗なので也 ある。此 の鼠の大小や長短は等 おなじでは不 く、腹の下が微 かすかに黄 きいろい。……諸 もろもろの鼠では惟 の銀鼠が上 じょうとうと為 れ、尾の後の尖 とがった上 さきが黒い〕とある。海上とは「海島」の誤りではないかと思われ、サハリン島を意味する。このように、サハリン島では骨嵬と元朝に仕える野人とが銀鼠(オコジョ)の沈黙交易を行っていたのである。野人の交易品が中国の物資であるという事実は、沈黙交易という原始的な交易の形を採りながら、元朝と骨嵬との間に交流があったことを示す。その理由は、骨嵬は野人のように、元朝と朝貢交易を行うことが許されなかったためと考えられる。元軍と骨嵬との間に紛争が続いたことを考えあわせると、骨嵬は元軍からすれば討伐の対象であったのだろう。さきにのべた白主土城の築造も、そのような事情からなされたと考えられる。ただし、『国朝文類』に、至大元年、吉烈迷の百戸の乞 キェキェナイが「骨嵬の玉 イゥェンが降 きじゅんを欲 のぞんでおり、大 という者を遣 つかわし訥 ゲンに至らせた」と言った。又、吉烈迷人の多 トゥオャン・亦 イァイキァイが来て「玉善奴・瓦 ウァインが降を乞 うている。刀と甲 よろいを持ってきて、頭 とうもくの皮 ェンキェに与 さしだし、且 さらに毎年異 めずらしい皮を貢 けんじょうすると言った。夏の間に荅 が出 でかける時に以 なったら(彼らを一緒に)回 す」と言った。云云。とあるように、至大元年(一三〇八)に骨嵬の玉善奴と瓦英らが吉烈迷人を仲介として、元朝に帰順を申し出ている。

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この記述が『国朝文類』の遼陽骨嵬の条の最後となるため、この後の骨嵬と元朝との関係はわからない。もし玉善奴と瓦英が提案した毛皮の貢納を元朝が認めたとすれば、十四世紀初頭には、骨嵬と元朝との間に朝貢交易が始まったであろう。さきにあげた『遼東志略』の記載に、サハリン島の先住民が元朝の支配に服しているとあるのは、十四世紀以降に元朝と骨嵬を始めとする先住民との関係が安定したことを示唆するものかもしれない。もしそうだとすれば骨嵬は、『析津志』の時点では野人との沈黙交易によって得ていた「中国之 ぶっし」を、元朝との直接の交易によって獲得することが可能になったであろう。また直接の交易が実現しなかったとしても、沈黙交易によって骨嵬が中国の物資を得ていたことは事実である。交易品の多寡を考えなければ、サハリン島のアイヌ社会に中国の物資がもたらされていたことは間違いなく、唐子という名称の成立はこの状況を背景としていたと考えられる。

四  北海道とサハリン島との交易と天塩の位置づけ

  一  アンジェリスの記録に見えるテッショイ

  十四世紀のサハリン島に住む骨嵬に、中国製品が持ち込まれていたとしても、それが本当に北海道の北部にまで運ばれ、唐子という名称の成立をもたらしたといえるのであろうか。サハリン島と北海道とは、古くから交流関係があったことは事実だが、十四世紀の北海道北部に限定すると、明確な交流の証拠は見あたらない。ただ年代を下ると、北海道北部の西海岸に位置する天塩が、北方との交易の拠点であったことを示す記録がある。ジェスイット教団の宣教師であるジェロニモ・デ・アンジェリスの第一蝦夷報告をみてみよう。この報告書は、一六一八年十月一日の日付けを持つ

)(1

。蝦 夷の国は我が〔ヨーロッパの〕古い地図に描かれているような島ではなくて、大陸であります。西部は韃 タルタリヤ靼及び中国と、東部はノーヴァ・エスパーニャと連続していて、東方へ伸びる蝦 夷の先端とノーヴァ・エスパーニャの先

(13)

端との間に、われわれがアニヤン海峡と称ぶ分堺があるだけでございます。〔蝦夷は〕非常に大きな国です。彼等の多くに、蝦夷にある国々に就いてその知っているだけのこと、〔それぞれの国への〕路程距離のことを訊ねましたところが、彼等は松 マツマイからアニヤン海峡に達する東部までにある国々の名を挙げました。それで小生には概計して八十日行程だとわかりました。松 マツマイから西部へは、蝦 夷人の船 フネの松 マツマイへ来る或る処即ち天 テッ塩までを、彼等は七十日の行程であろうと数えました。というのは、それより前は、北部地方から続いているとはわかっていても、その国々の名を知らなかったからでございます。そしてその北部がどれ程長いかも知っていません。……毎年東部の方にあるミナシの国から松 マツマイへ百艘の船 フネが、乾燥した鮭とエスパーニャのアレンカにあたる鰊 という魚を積んで来ます。多量の貂の皮をももって来ますが、彼等はそれを猟 ラッコノカワ虎皮といい、わが〔ヨーロッパ〕の貂に似ています。頗る高価に売ります。蝦 夷ではなくて、猟 虎と称する一島におるので、蝦 夷人はそこへ買いに行きます。その猟虎島は他の六つの島々の近くにあります。されば小生は、それに就いて、蝦夷の先端の正面にあるノーヴァ・エスパーニャの一部分キヴィラ国の正面南部に向いおうている島々だと判断できました。その島々の住人は余り色白くはなく、鬚がなく、未開であります。その二人が昨年松 マツマイへ渡来しましたが、彼等の言語を解する蝦夷人がいませんでした。メナシからは小生が前述した百艘以外にも船 フネがまいります。東部地方の船 フネも亦、松 マツマイへ猟 ラッコノカワ虎皮を載せて来ないだけで、同じ商品をもって来ます。蝦夷国の西 の方に向う一部である天 テッ塩国からも松前へ蝦 夷人の船 フネがまいりますが、それらの船は種々の物と共に中国品のようなドンキの幾反をも将来します。それらの蝦 夷は高 コウライ麗から余り遠くないようでございます。但し実際に蝦夷人達は、中国をも高麗をもその何物であるかを知らないといいました。日本からも亦毎年総て大きな船 フネ三百艘程が松前へ渡ります。小生の乗ったのは二 ジュウタンの船 フネでありました。どの船 フネも皆米 コメ

と酒とを積んで行きます。傍線の部分にあるように、西部のテッショないしテッシオ国から松前に来る船は「中国品のようなドンキの幾反をも将来」

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すると記されている。テッショないしテッシオ国は天塩川の河口に位置する天塩のことであり、ドンキとは緞子つまり絹織物のことであろう。一方、東部のミナシの国ないしメナシから松前に来る船は乾燥した鮭と鰊さらにラッコの毛皮を持ってくるとある。メナシはアイヌ語で東を意味する。ここで注目するべきことは、西部では天塩が中心とされているのに、東部には中心とするべき拠点があげられていないことである。

  つぎにアンジェリスの第二蝦夷報告をみてみよう。この報告書は一六二一年に記されたが、日付は残されていない

)(1

。第二、小生は〔地図上に〕天 テッョイ塩に相向うて朝 鮮の国を描きました。そのように小生の心を動かした理由は、松 マツマイから天 テッョイ塩へ行くと陸路六十日を費すのだとも、また次に、松 マツマイから天 テッョイ塩へ向うときは、絶えず東 フイガから西 へ進んで行くのだとも蝦 イエジン達が申しますので、この二つの言を確かなものと仮定しますと、天 テッョイ塩に向いあう陸地が高 コーライ麗若しくは高麗に隣接する兀 ランカイであると小生は信ずるのでございます。高 コウライから西 サイコクの名 までは船で渡って八〇レグアあると日本人がいうております。このように、松前から天塩までは陸路で六十日かかること、さらに天塩が高麗やその北方にある兀 ランカイとは、互いに向かい合う位置にあるという地理認識が記されている。

  以上の検討によって、十七世紀の初頭には、天塩が北方のサハリン島との交易の窓口となっていることがわかる。

  二  名寄市智東八遺跡出土の南貝塚式土器が語ること

  北海道北部に位置する名寄市の郊外に、智 とう八遺跡がある。この遺跡は天塩川の川岸に位置し、縄文・続縄文・擦文文化という長い期間にわたって存在した遺跡である。一九七八年に氏江敏文・鈴木邦輝両氏によって発掘が行われた。擦文時代の住居跡が十二基確認され、一号住居跡とされた住居から十メートルほど離れたところから、南貝塚式土器がつぶれた形で見つかった。住居の中からではない。ただし地層の層位からみて、氏江氏らは十世紀以降の地層から出土

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したと判断している。南貝塚式土器は、オホーツク文化の最終末期にサハリン島で作られた土器で、北海道では十二例の出土例が確認されている(図1参照)。これらの出土例の多くは、オホーツク海の沿岸部で発見されているが、智東八遺跡ほか内陸河川の付近から出土している例もある。

  筆者らはこれまで土器の胎土中の砂粒に注目して、化学分析を行ってきた。智東八遺跡出土の南貝塚式土器には、接合しない破片があったため、提供を受けて分析した。その結果、智東八遺跡出土の南貝塚式土器の砂粒は、同じ遺跡から出土した擦文土器の砂粒とは違うことがわかった。つまり智東八遺跡出土の南貝塚式土器は、名寄市周辺で作られたものではないということである。ではこの土器は、どこで作られたものであろうか。筆者らは、故新岡武彦氏のコレクション

)(1

にある、サハリン島南部で出土した土器片からサンプルを採取して分析した。これらの土器片は現在、稚内市北方記念館が所蔵している。分析の結果、智東八遺跡出土の南貝塚式土器の砂粒は、サハリン島南部のアニワ湾周辺で作られた土器である可能性が高いことが判明した

)(1

  ではこの南貝塚式土器は、どのような経路で名寄市の智東八遺跡まで持ち込まれたものであろうか。筆者は、天塩川を遡ってここまで運ばれたものであろうと考えている。天塩川の河口部には、天塩町天塩川口遺跡

)11

と幌延町音 おとんるい竪穴群遺跡

)1(

という、大規模な擦文文化の遺跡が存在する。さ

図 3. 智東 8 遺跡から出土した南貝塚式土器の写真(左)と実測図(右)

8.5 1.0

Numeric unit:cm 8.5

0.5 0.5

0.6

0.6

0.7

0.8 20.0

0.3

20.0 6.8

0.9 0.3 1.5

0 (cm) 5

(16)

きに指摘したように、智東八遺跡出土の南貝塚式土器は十世紀以降の擦文文化の集落遺跡から見つかっている。天塩川の河口近くに栄えた二つの遺跡をはじめとした北海道日本海沿岸の北部地域一帯は、十世紀に急激に遺跡・竪穴の数が増え十二世紀前半まで継続する。十二世紀後半以降は沿岸地域の遺跡は姿を消すが、天塩川流域では遺跡が増加する

)11

。したがって、天塩川口遺跡、音類竪穴群遺跡と智東八遺跡の三遺跡は、すべて十世紀には営まれていたことが指摘できる。一方で南貝塚式土器は、最新の研究では十一世紀後半から十二世紀代に位置づけられる

)11

。名寄市の南貝塚式土器は、天塩川の河口で丸木舟に積み替えられ、天塩川を遡って智東八遺跡まで運ばれたものであろう。このことに間違いがなければ、さきのアンジェリスの記録にあるように、天塩がサハリン島との交易の拠点あるいは中継地であるという状況が、少なくとも十一世紀にまで遡る可能性があるということができる。

五  おわりに

と入の道海北島・ンリハサが、流住の品産国中のへ島ンリ先ハ民た子唐う。ろあでたしらのもらを会に何社かの変化の 年イアと朝元は、に降以を八〇三一にらさた。いて得とヌたの性物サなうよのこる。あも能間可れわ行が易交貢朝に資 の白はるあに下配支の朝元ヌンイアた。いてい築を城土ツグ製交国中らか人野い、行を易黙ー沈に間のと人野の系ス主   『にたは、に葉中の紀世四十しン立成が』詞画神明大方モゴ端進南最島ンリハサし、出にル島ンリハサが朝元国・帝諏

図 4. 天塩川口遺跡と音類竪穴群遺跡の位置

(17)

いう名称が成立した背景には、モンゴル帝国・元朝の影響力の拡大があったと考えるべきである。さらに、北海道北部の西岸にある天塩は、十一、二世紀と十七世紀初頭には、サハリン島との交易の拠点であった。十四世紀の状況は不明だが、おそらくは継続して拠点あるいは中継地であったものと思われる。そうすれば、サハリン島から中国の物資がもたらされた場合に、それはまず天塩川の河口部に入ってきたものと考えられる。

  以上検討してきたように、北海道の北部にいた唐子と呼ばれる集団が、中国風の姿や髪型をしていたから唐子と呼ばれたのかどうかはわからない。ただ、当時は唐 からものと呼ばれた中国製の品物が北海道の北部、とくに天塩に持ち込まれたことは十分にあり得たことである。そのように唐物を所持しているという状態が、北海道北部のアイヌの集団を他の集団から際立たせ、彼らを唐子と呼ばせた理由なのではなかろうか。

(1)小口雅史「『諏方大明神画詞』解題」(青森県史編さん中世部会編『青森県史』資料編

中世二、青森県、二〇〇五年)四六五

~四六六頁。(2)青森県史編さん中世部会編『青森県史』資料編

中世二(青森県、二〇〇五年)二九四頁。

(3)註2『青森県史』二九四頁ではルビが「ハタニ」となっているが、同書二九五頁の写真版の上段を見れば、この部分は「ハタエ」であるため改めた。なおこのことは、小口雅史氏のご教示によって初めて知った。心より感謝申しあげる。(4)蓑島栄紀「古代から中世和人との関係で見るアイヌ史」(『アイヌをもっと知る図鑑―歴史を知り、未来へつなぐ』「別冊太陽

日本のこころ二八〇」

、平凡社、二〇二〇年)三九頁。(5)

『時代別国語大辞典』室町時代編二(三省堂、一九八九年)三六六頁。

(6)奴児干都司は、「ヌルガンとし」と読まれてきた(『アジア歴史事典』第七巻、平凡社、一九六一年、二七一頁)。しかし長田夏樹氏による一四一三年の「勅修奴児干永寧寺記」のモンゴル文・女真文の対訳の研究によれば(「奴児干永寧寺碑蒙古女真

(18)

文釈二稿」『長田夏樹論述集』下、ナカニシヤ出版、二〇〇一年「初出は一九五八年」、一八八~二〇二頁)、モンゴル文では「nurgäl-ün(奴児干の)」(一九〇頁)と、女真文では「nu-ru-ɢen ni(奴児干の)」(一九四頁)と転写されており、ヌルゲンがより正しいようである。(7)A.R.アルテーミエフ(垣内あと訳、菊池俊彦・中村和之監修)『ヌルガン永寧寺遺跡と碑文―十五世紀の北東アジアとアイヌ民族』(北海道大学出版会、二〇〇八年)。(8)中村和之「『北からの蒙古襲来』について―モンゴル帝国の北東アジア政策との関連で―」(『歴史と地理』第六七七号、二〇一四年)一~一四頁。(9)本稿では、藤堂明保編『学研

漢和大字典』

(学習研究社、一九七八年)にある、元代の韻書『中原音韻』の音を引用した。(

( 一~一四頁。 10)和』って―」(『歴史と地理第め五八〇号、二〇〇四年)村ぐを之「人中世における北方からのの城流れとその変動―白主中土

( 11)間宮林蔵『東韃地方紀行他』(平凡社、一九八八年)二五~二六頁。

12) 『近藤正斎全集』第一(国書刊行会、一九〇五年)三一~三二頁。

13) 『日本庶民生活史料集成』四巻(三一書房、一九六九年)一二六頁。

( 四一三~四三〇頁。 14)和道アの歴史と文化』北海大ア学出版会、二〇一〇年)村ジ東之「を『北からの蒙古襲来』め中ぐる諸問題」(菊池俊彦編『北

( 15)北京図書館善本組輯『析津志輯佚』(北京古籍出版社、一九八三年)二三三頁。

( 16)H・チースリク編『北方探検記―元和年間に於ける外国人の蝦夷報告書―』(吉川弘文館、一九六二年)五五~五六頁。

17)註

16チースリク著書、九一~九二頁。

( 18)新岡武彦・宇田川洋『サハリン南部の考古資料』(北海道出版企画センター、一九九二年)。

19)竹内

孝・中村和之・氏江敏文・鈴木邦輝「名寄市北国博物館所蔵の『南貝塚式土器』の胎土中の砂粒の化学分析」

(『北国研究集録』第一七号、二〇二〇年)一一~一八頁。(

( 20)加藤晋平・前田潮編著『天塩川口遺跡』(「筑波大学考古学・先史学調査報告Ⅱ」、筑波大学歴史・人類学系、一九七九年)。 21)」確認調査報告書第六集北遺海道埋蔵文化財センタ跡要北ー海道埋蔵文化財センタ編『重幌延町音類竪穴群』(「ー、

(19)

二〇〇八年)。(

22)澤井

( アイヌ』「アイヌ文化の成立と変容―交易と交流を中心として【上】」岩田書院、二〇〇八年)二一七~二四六頁。 玄「一一~一二世紀の擦文人は何をめざしたか―擦文文化の分布域拡大の要因について―」(榎森進ほか編『エミシ・エゾ・ 23)熊木俊朗『オホーツク海南岸地域古代土器の研究』北海道出版企画センター、二〇一八年、二三八頁、図八六。

【謝辞】本稿の執筆にあたり、秦野裕介・澤井玄両氏には、文献の所在などでご教示をいただきました。感謝申しあげる次第です。また、本研究はJSPS科研費JP20H01306の助成を受けたものです。

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<ABSTRACT>

An essay on the ‘Karako’ in “Suwa Daimyōjin Ekotoba”

N

AKAMURA

Kazuyuki

Completed in 1356, the “Suwa Daimyōjin Ekotoba” is an important historical source of the medieval history of the Ainu. In this book, the Ainu were referred to by the word ʻEzoʼ. There were three groups in ʻEzoʼ : Hinomoto, Karako, and Wataritō. Among them, the ʻKarakoʼ people have been regarded as a group that lived on the west coast of northern Hokkaido.

In the 13th and 14th centuries, the Mongol Empire and the Yuan Dynasty invaded Sakhalin Island. In medieval Japanese, the group name ʻKarakoʼ can be translated as ʻthe children in Chinese attire and hairstyleʼ. The meaning can be explained by the relationship between northern Hokkaido and China.

According to the records of Jesuit missionaries in the early 17th century, the place called Teshio on the west coast of northern Hokkaido was a trading hub with Sakhalin Island. And one example of Okhotsk type pottery made in the southern part of Sakhalin Island was found in ruins, dated to be after the 10th century, in Nayoro city in the inland area of northern Hokkaido. It is estimated that this Okhotsk type pottery was carried to Nayoro city via the Teshio River. At the mouth of the Teshio River, there is a large archaeological site of Satsumon culture. Thus, the mouth of the Teshio River was likely a hub for trade with Sakhalin Island from the 11th to the 17th centuries. The newly found evidence indicates the name ʻKarakoʼ originated from the close relationship between Teshio and Sakhalin Island.

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