社会科学基礎論
速川 治郎
(一
j
社会科学は具体的には︑政治学︑経済学︑法学︑社会学︑歴史学︑哲学︑言語学等である︒さらに︑社会科学部
では︑政策科学︑政治機構論︑政治過程論︑行政学︑産業構造論︑経済成長論︑農業経済論︑経済社会学︑貿易論︑
保険経済︑賃金論︑交通経済︑統計学︑環境経済学︑比較福祉論︑民法︑商法︑刑法︑民事訴訟法︑労働法︑社会
保障法︑社会政策︑管理会計︑会計監査論︑管理科学︑流通論︑経済社会学等々多くの講義科目がある︒これらを
総括した社会科学の意味があるだろうか︒それに常識的に答えて︑総括すれば︑社会科学は人間社会のもろもろの
現象を研究する科学であるとなる︒科学と言っても︑これは︑筆者が広科学︑中科学︑狭科学と三分割した内の中
科学である︒もちろん中科学と言っても︑それは︑広︑狭の二科学と全く離れ︑孤立しているのではなく︑言わば
相互浸透︑相互依存している面をもっている︒このことは︑中科学が哲学︑歴史学をもち︑数学を使う統計学をも
早稲田人文自然科学研究 第53号 98(H.10).3 3
っていることですぐ分かる︒ωoo野饗ω9Φ昌︒⑦ωのωoo一巴という語はラテン語のωoo言ωから来ている︒これは共同体︑
仲間︑会員︑組合員を意味する︒社会へωo濡幕ざOΦωΦ=ωoぴ9︒hけ鴇ω09傘9は︑人間の結合体︑生活共同体︑市民社
会︑社会体制を意味する︒社会の社は︑もともと神の意味を表す﹁示﹂と︑音を表す﹁土﹂︵と︶とからなる形声
字である︒その意味は︑耕作の神︑土地の神であるが︑人の集まり︑世間︑世の中︑仲間︑団体という意味が社会
の社となる︒会は米を蒸す﹁甑﹂︵こしき﹀琶と蓋︵ふた︶の形Aとからなる字愈であり︑もともとの意昧は︑
甑︵こしき︶に蓋︵ふた︶がぴったり合うことである︒ここから︑あう︑出会う︑集まる︑集める︑集まり︑一つ
の集団︑入の集まる所となる︒社会は人間の集まりを意味し︑人の間︑関係のある所である︒間は︑関係︑所を含
む字であるから︑間の中科学と言うことができる︒
人間を精神と言う語で表現することがある︒特に︑ドイツ哲学においては︑その傾向が強いようである︒そこで
は︑人間の活動によって生み出されたものが︑精神の客観化されたものであると考えられている︒具体的に言えば︑
人間の集団︑共同体によって出て来た客観的精神は歴史︑社会︑法︑習俗規範︑民族心理等を意味し︑これらは時
間によって変化するものである︒客観的精神に対して︑個人の意識という意味での精神は主観的精神と言えるであ
ろう︒社会科学は客観的精神を研究対象とするものである︒社会科学︑言い換えれば︑客観的精神が成立するため
には︑それに適応するカテゴリーを考える必要がある︒そのカテゴリーを探究することが社会科学の基礎論となる
のである︒
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︵二︶
社会科学基礎論
世界は無機物︑有機物︑動物︑人間によってできていると言えよう︒人間は無機物︑有機物︑動物に基づいて生
きている︒換言すれば︑それらを基礎として生きている︒社会科学は人間集団だけを問題にすればよいのだろうか︒
大体︑そうであると言えるかもしれない︒しかし︑そうでない場合もある︒例えば︑環境経済学は無機物︑有機物︑
動物をも問題にしなければならないであろう︒人間集団である客観的精神は無機物︑有機物︑動物という物に依存
している面がある︒入間が生きるには︑それら三つの物を必要とするのである︒だから三つの物を加工して︑商品
とすることができる︒また人間は︑自己の生活に都合よいように自然環境を変えることもする︒だが人間に都合よ
い改変が都合悪い環境破壊になってしまうことがある︒哲学︑論理学の側面から言えば︑他者である自然環境の改
変は︑他者への反照であり︑改変により生ずる自然の人間へのしっぺ返しは︑言わば自己への反照である︒他者へ
の反照が自己への反照となってしまっているのである︒あるいは︑他者から自己への転換である︒
自然環境の改変は︑生活している人間集団の中から︑例えば︑自動車の排気ガスによる場合と人間集団に近い山
野を例えばゴルフ場にする場合とがある︒自動車走行もゴルフ場建設も人間生活を快適にするための行為である︒
しかし︑この行為が入間生活に悪影響をもたらすことになり得る︒快適が不快に突然変化︑転換する場合がある︒
それどころか人間生活そのものを破壊する場合があり得るのである︒人間は自然にかかわる精神であると言えよう︒
単に自然にかかわるだけでなく︑精神は地球の表面を変化させている︒このことによって︑精神の自由があるわけ
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だが︑逆に不自由になり得る︒例えば丹那トンネルを掘った場合︑山の地下水が下がり︑丹那盆地に住んでいた人
達の井戸水が洞れてしまったことがあった︒また日本の敗戦直後︑今では想像もできないようなシラミが多くの日
本人にたかったので︑アメリカ占領軍の兵上が大量にUU↓︵ジクロロジフェニルトリクロロエタン︶を日本人の
身体に吹き付けたことがある︒このことは占領軍の好意的な行為であった︒∪∪↓は害虫を駆除するには極めて有
効な殺虫剤であったが︑それは人間に対して有毒であることが分かりUU↓の製造を中止してしまった︒この実例
はまさに精神の自由が不自由になったものである︒精神は物事を認識し︑計画を立て︑実行するのであるが︑実行
を取りやめることもある︒すなわち不実行の実行がある︒精神はまた動物や植物を育て︑改造をも行う︒というこ
とは精神は動物︑有機物を支配し︑それらに対して自由であると言えよう︒しかし︑人間は動物の肉や植物を食べ
るから︑精神は動物︑有機物に依存しているのである︒また人間精神は︑動物ももっている心を支配する︒すなわ
ち︑精神は︑衝動を制御し︑例えば︑他人の食べ物を勝手に食べてはいけないという習俗規範を作る︒精神は単な
る心の動きを抑圧し︑理性に高めるのである︒以上のことをまとめれば︑精神は無機物︑有機物︑心︵動物ももっ
ているような︶を制御︑支配するが︑逆に精神は無機物︑有機物︑心に依存し︑支配されている︒このことの一例
として自然の人間に対する手痛いしっぺ返し︑例えば︑山津波︑土砂崩壊︑トンネル崩壊事故が起きるのである︒
無機物の言わば自然力は精神には関係なく動き出す︒社会科学の研究対象である客観的精神の基礎に自然がある︒
そうならば︑社会科学基礎論は自然を論じることであろうか︒そうであるが︑そうではない︒これでは矛盾の表現
になってしまう︒その意味は︑その基礎論が自然を論じることでもあるが︑しかし︑社会科学の本質としての基礎︑
すなわち根拠を論じなければならないから︑自然を論じることではない︒
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社会科学基礎論
社会現象は本質ではない︒現象の奥に本質がある︒しかし本質はそれ自体で存在する訳ではない︒現象があるか
ら本質があるのである︒そうすると本質にとって現象が基礎となっている︒しかし︑現象の基礎が本質である︒本
質と現象とは基礎である限りにおいて同じである︒しかし︑やはり本質は現象の根底にあって︑現象の特質と展開
方向とを決めるものであり︑現象は現れた姿であり︑生成︑消滅するものであると言う限り︑本質と現象とは異な
っている︒ここに同一と差異のカテゴリーが出て来てしまっている︒実は︑これを論じることが社会科学基礎論の
仕事の一つである︒本質としての基礎を論じたことが同一と差異のカテゴリーを語ることになってしまったが︑本
質としての基礎をもう少し︑論究してみよう︒﹁本質は自己を根拠︵基礎︶として規定することによって︑自己を
規定されないものとして規定する﹂と言ったのはヘーゲルであるが︑この表現は並日通の表現とは極めて違っている︒
本質が基礎であることはすぐ分かるが︑なぜ﹁自己﹂という表現をしているのであろうか︒﹁自己﹂は本質を指示
している︒したがって︑上の引用文の意味は次のようになる︒﹁本質は︑まだ発展していない直接的本質を基礎と
いう意味に決めるので︑その発展していない直接的本質は︑まだ基礎として決められていないものとする﹂︒本質
が直接的本質を基礎と決めると言うと︑本質自身がそう決めることであり︑人間が決めることではないのかという
反論が出るであろう︒簡単に言えば︑本質自身がそう決めるのであり︑決めるのではないとなる︒しかし︑これで
は矛盾になってしまう︒矛盾ではあるが︑表現形式上のものである︒どういうことかと言うと︑ヘーゲルが考えた
ものではあるが︑ヘーゲルが消失して本質の自己運動になっているのである︒このことは本質が自己︵ヘーゲルの
思考であると同時に本質自身︶をより所にしているのである︒すなわち自己依存である︒これは︑ルーマン風に言
えば自己準拠QoΦぎω需似ΦヨNであるが︑しかし︑ルーマンの思想を語ろうとしているのではないからそれではいけ
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ない︒自己依存の自己は本質自身ではあるが︑同時に︵意味空間の差異において︶︑これとは違うヘーゲルの思考
であるので︑その限りで︑他者であり︑自己依存は他者依存であり︑他者依存は自己依存である︒社会科学の基礎
を論じることは︑社会科学を基礎付けることであるが︑しかし︑社会科学によって基礎付けられることでもある︒
なぜなら︑もろもろの社会科学を或る程度知ることによって基礎が基礎付けられるからである︒
基礎はいろいろと関係し合うものとは違う︒基礎はこれ以上解体できないものであり︑それ自体として存在して
いるものであり︑もろもろの精神の活動︑性質の基礎にあって︑それらを支持するものである︒こうして基礎は基
礎というカテゴリーの場所に立っている︒社会科学を研究することの基礎に関心という心の特質がある︒これは他
のものと関係し合うが︑関心それ自体が分離︑分割して︑関心とは別のものになってしまう訳ではない︒関心は脳
の一部が働いて生じるものであると言えないこともない︒しかし︑脳という物質が有ることと脳の働きは匿う︒関
心という働きは脳に依存してはいるが︑脳という物質そのものではない︒脳とは別のもの︑すなわち別の新しいも
のとしての関心がある︒M・ヴェーバーが社会科学に関心をもったことはアインシュタインが自然科学に関心をも
ったこととは違う︒両人は脳という同じものをもっているが︑両人固有の関心をもっていた︒ということは両人の
関心は全く違うのである︒違うから︑ヴェーバーは社会科学上の偉大な業績を挙げ︑アインシュタインは自然科学
上の画期的な業績を挙げたのである︒それらの業績は脳に還元できないものなのである︒しかし︑二人の業績は二
人の脳のものである︒そういうことにおいて︑二人の脳には差異がある︒が︑二人の脳は脳である限り︑同一であ
る︒差異は無差異となって︑同一の有に転換し︑同一は無同一となって︑差異の有に転換する︒それゆえ︑無即有
であり︑有三無である︒無は否定であることにおいて無であるが︑否定として規定されて有る限りで︑有である︒
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しかし︑有は直ちに無となってしまっている︒ここに︑有無の絶対的転換がある︒これまで述べた中で︑本質︑
象︑根拠︑根拠付けられるもの︑同一︑差異等が︑一応︑客観的精神のカテゴリーであると言うことができる︒
現
︵三︶
社会科学基礎論
社会科学は人間社会の科学であり︑人間社会は間を基礎としている︒間は一般科学︵広︑中︑狭科学︶において
論究されるものであるから︑社会科学固有のものではない︒しかし︑間が社会である限り︑固有のものである︒間
固有の意味は一般科学に適用できるが︑しかし︑社会特有の意味にもなるのである︒筆者は毒念という語を使用す
る︒間念は弁証法︑精緻には︑弁析法碧帯屋ヨΦ⇒?9︒昌巴旨凶ωoゴΦ∪巨①算畔の意味をもった間の概念である︒間はも
ともと次の意味をもっている︒すなわち︑①あたり︑ところ︑場所︑②入れる︑③わかつ︑④へだたる︑⑤離す︑
遠ざける︑⑥加える︑⑦交わる︑⑧あいだ︑関係等の意味がある︒
普遍︑特殊︑個︑あるいは︑類︑種︑個という表現があるが︑過去においては︑普遍︑ないし類が国家︑特殊な
いし種が社会︑個が個人と一般的に言われていた︒現在では︑特殊︑種︑個は変わらないが︑普遍︑類は地球規模
のもの︑国¢のように幾つかの国家の統合体規模のもの︑国家規模のものに分かれ得る︒また︑普遍︑類として︑
地球社会という表現もある︒したがって︑国家を超えた社会と︑国家の下に有る社会とがある︒地球社会は︑個々
の社会を否定した国家︑この国家の否定であるので︑否定の否定である︒ただし︑ここに︑否定即肯定がある︒し
かしながら︑これは否−定である︒否定しながら定まった︑一定のものが有るのである︒このように述べることに
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よって︑そこに間が生じている︒紀念のカテゴリーとして同一︑差異があるが︑これらは上述の間の意味から解釈
できないこともない︒交わる︑関係︑あいだがら同一が生じ︑わかつ︑へだたることにおいて差異がある︒間とい
う語の意味からのみ論述するのがく間の論理﹀︑言わば間念論ではない︒これは︑現実の事柄︑さらに哲学からも論
究できるのである︒家族︑市民社会︑国家を述べたヘーゲルにはまさに︿間の論理﹀︑間念論がある︒弁証法そのも
のがく間の論理﹀︑間念論なのである︒
︿問の論理﹀︑間念論は形式主義であろうか︒どんな物事にもく間﹀という絶対的原則があると言っているだけでは︑
︿間﹀という表現形式を述べている形式主義があるだけになるかもしれない︒しかし︑日本語の人間は間をもって
おり︑そこに間が現れる︒事物が有るということを考える存在論ではなく︑事物と言うとき︑事と物との間が生ず
るのである︒そして︑事と物とが関係している︒事物に間という語はないが︑事と物と書くので︑間という語がな
いにもかかわらず︑事物である限り︑事と物とは関係していて︑ここに間が生じている︒換言すれば︑事物に間の
消失即出現がある︒人間は間をもつが︑また人間は個であり︑特殊である限り︑間において立つのである︒人問は
個という意味と同時に特殊という意味とをもつ︑すなわち︑ここにも個即特殊がある︒即は間において有る︒こう
して間という概念は︑有るという概念より︑論理上︑思考上︑先位しているのである︒その限りで間は根拠に立ち︑
原理としてある︒いや︑有るの方が先位していると言う人がいるかもしれない︒しかし︑そう言ったとき︑筆者と
その人との間に間の出現があると同時に︑その人がいる限りでは︑間という字の消失がある︒こうして︑ここに間
の出現即消失がある︒現在︑システムという語がよく使われる︒これも間から来ている︒何故ならば︑システムと
は︑事物の複数の要素が相互に関連して一つの全体をなしている事態を指すが︑相互に関連しているということは
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社会科学基礎論
評から来ているからであり︑間は相互関連となっているからであり︑さらに︑事態という場所があるからである︒
間の論理は具体的な事物に外から︑単に付け加わるものだけではなく︑その事物の内面に︑契機として︑入り込ん
でいるのである︒丹念論を語ることは︑同時に具体的事物を語る契機であり︑媒介となっているのである︒社会科
学に関して言えば︑間が社会という特殊態︵各国家の下にある社会︶と普遍態︵国家︑ないし︑地球社会︶とを差
異させる場であり︑社会という豊里を同一にする差異即同一であり︑同一即差異であり︑即において間という場所
が生じている︒その限りで︑場所の論理が生ずる︒間の論理は場所の論理を含むのである︒また︑間の論理を具体
的に語ることはヘーゲル哲学︑特に﹃大論理学﹄を語ることである︒逆に言えば︑﹃大論理学﹄を論究することは
間念論を語ることである︒しかし﹃大論理学﹄をなるほどもっともなものとして︑肯定的に語るのではなく︑否定
的︑批判的に語ることが間念論である︒
社会という特殊態において︑罪悪を犯した人間には処罰する厳正さをモットーとする社会と︑その人間を許し︑
愛をもって接する暖かさをモットーとする社会とがある︒が︑そういう二つの社会が分離している訳ではない︒そ
こには対立があると同時に統一がある︑つまり対立即統一がある︒また︑そこには相互浸透がある︒ところで︑政
策科学にも︑政治機構論にも︑厳正さと暖かさとがないとは言えない︒社会科学部のすべての講義が厳正さと暖か
さにおいてあると言おうとしているのではない︒そうでなく︑そのすべての講義が間においてあることを言おうと
しているのである︒法学はだんだん分化の方向を取ると言われるが︑その限りで間の区別が出現する︒しかし︑間
という語が直接現れていることを言おうとしているのではない︒いろいろな区別が生じているところに間の出現即
消失︑消失型出現の論理が生成していることを言いたいのである︒児童福祉法︑生活保護法︑騒音規制法︑大気汚
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染防止法︑等々の区別において︑間の区別即消失がある︒そういう間において社会科学の統一もある︒間はアイダ︑
マである限り︑何にでも当てはまるから︑逆に間の特定の働きがないと言う人が出て来るかもしれない︒しかし間
はすべて事物の根拠であり︑また事物により根拠付けられるものであるので︑根拠の否定であり︑根拠付けられる
ものの否定であり︑根拠は根拠付けられるものの否定であり︑定である限り︑根拠付けられるものにより媒介され
るものとしての定であり︑根拠付けられるものは根拠の否定であり︑根拠により媒介されるものとしての定である︒
社会は非合理的なものをもっと言われることもある︒社会は非合理的なものがあり︑これが重要であると常に主
張することによって︑非合理の一貫性がある︒だから非合理的なものは合理的なものになってしまっている︒社会
は絶対に非合理であると言う人にとって︑非合理はいついかなる場合でも突き崩すことのできない堅固な論理であ
る︒その限りで︑非合理は合理に転換してしまう︒合理によって媒介された非合理が出て来てしまっている︒社会
の非合理を主張し︑合理を絶対に否定することによって︑非合理の主張に合理が媒介されてしまっている︒ここに
合理と非合理との間の意味の運動性︑すなわち恕罪性があり︑問の論理が働いている︒
間の論理は場所の論理であると既に言った︒社会という場所において︑人間は生まれ︑死ぬ︒社会に生まれ来て︑
漫然と生きているだけでは︑人間は死んでいるのと同じである︒人間として自覚して生きることが︑瞬間瞬間に生
きることであり︑真の生き方となる︒人間は非本来的な自己を捨て︑本来的自己を獲得しようとする努力が必要で
ある︒このことは︑つづめれば︑人間の自己の否定︑放棄と同時に自己の肯定︑獲得であり︑自己の徹底的放棄即
自己の徹底的獲得であると言えよう︒社会は我︑汝︑彼において成立していて︑そこには断絶と連続がある︒我︑
汝︑彼と断絶していると同時に︑連続している︒我はもともと我であり︑汝は汝であり︑彼は彼である︒しかし︑
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社会科学基礎論
我は視点を変えれば︑汝︑彼であり︑汝は我︑彼であり︑彼も我︑汝である︒こういう我︑汝︑彼が自己放棄即自
己獲得を目指すべきである︒
我︑汝︑彼はまた相互浸透である︒我と汝とのコミュニケーションにおいて相互に理解し合う︑あるいは反発し
合うということにおいて相互浸透がある︒ここには我︑汝が話し合う意味空間︑場所があり︑さらに︑その空間︑
場所に時間が反照する︒逆に話し合う時間に直ちに空間が反照する︒我と彼とのコミュニケーションもある︒だが︑
コミュニケーションすることによって︑我から見て︑直ちに彼は汝になってしまう︒彼の汝への転換が生ずるので
ある︒ここにも先述の空間︑時間が反照している︒汝と彼とのコミュニケーションは我から見れば︑汝が彼に転換
して︑一方の彼と他方の彼とのコミュニケーションになる︒我は汝とコミュニケーションすることにおいて︑汝か
ら見れば︑我は汝であり︑汝は我である︒こうして︑そこに転換︑転倒がある︒我︑汝︑彼の相互浸透と相互転倒
がある︒このことに間の論理︑間念論がある︒
我は我々であり︑我々は我である︒彼も彼らであり︑彼らは彼である︒我は誰でも我であるから︑我々となって
しまう︒複数の我々は︑一人一人が我である︒複数の我がいる︒一人一人違う我がいるのである︒また︑彼も︑我︑
汝も複数の彼となる︒その限りで彼は彼らであり︑彼らの︽彼︾は他と断絶した人としてある︒量的複数は︑単数
の否定であり︑その限りでは質的になっている︒質的であることにおいて︑量的複数がある︒﹁複数の我がいる﹂
は量的表現であり︑コ人一人違う我﹂とは質的表現であるから︑同じにはならないと言う人がいるかもしれない︒
たしかにその通りである︒しかし︑量的表現は質的表ではない限り︑質的表現である︒がなければ同一の質的表
現である︒・があるから質的表現と質的表現とは別のものである︒すなわち意味のレベルが違うのである︒その限
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りで成立する︒量的表現即質的表現が生ずる︒即は直ちにとすなわちという意味である︒即において間が現れてい
る︒量的表現と質的表現とは相即不離なのである︒
人間は個︑特殊︑普遍として︑自律しながらも︑相互反照︑相互浸透している︒しかも︑人間は︑環境を作り︑
選択しているが︑環境に依存している︒そのような選択︑依存に人間は関心︑意識をもちながら︑同時に生活をし
ているのである︒人間は個人として︑特殊人︵社会人︶として具体的に生活しているが︑普遍人︵地球社会人︶と
しては︑どちらかというと抽象的に生きている︒個は主観的精神であり︑特殊︑普遍は客観的精神である︒主観的
精神には差異があり︑客観的精神には相互関連がある︒相互関連として︑○①∋Φ言ω9曽津︵共同社会︶︑○ΦωΦ=−
ωo冨津︵利益社会︶がある︒O①目Φぎωo冨津の典型例として家族共同態︑村落土ハ同態があり︑○Φの①房︒げp︒津の典型
例としてヘーゲルの言う﹁欲求の体系﹂としての市民社会がある︒これは﹁世の成り行き﹂でもある︒これは市民
の生活であり︑個々人は自分の欲求を満たそうとして生活している︒だから﹁世の成り行き﹂は﹁欲求の体系﹂を
考えなければならない︒こうして﹁世の成り行き﹂は市民社会である︒主観的精神は︿私﹀︑我でもある︒各社会科
学者は︿私﹀であり︑生き方の差異があり︑例えば︑刑法学者と会計監査論学者とは生き方が違う︒哲学者と論理学
者と同一人物である場合もあるが︑哲学を論ずる場合と論理学を論ずる場合とに差異がある︒︿私﹀は差異があると
同時に︑社会科学部内の研究者として相互関連がある︒こういう︿私﹀が客観的精神を研究している限り︑︿私﹀は社
会科学を包摂し︑社会科学によって包摂されている︒︿私﹀は社会に包摂されているが︑︿私﹀がそう考えたとき︑同
時に社会を包摂している︒以上のように考えることによって︑間の差異︑関連︑または包摂されると同時に包摂す
ることがある︒
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社会科学基礎論
ところで︑人間は一人一人代え難いものである︒たとえ夫婦︑親子であっても︑例えば︑夫が悩んだり︑喜んだ
り︑考えたりしているまさにその場に妻が代わりに立つことは不可能である︒夫婦一体と言われることもあるが︑
夫の場に妻は立てないのである︒これが実存と言えよう︒︿私﹀と同じ人はいない︒︿私﹀は掛け替えのない人間であ
る︒︿私﹀は言わば孤独者である︒社会科学者であるく私﹀は︑自己の責任において︑自分自身で社会科学の意味︑内
容を自由に決定しなければならない︒社会現象を客観的に︑実証的に研究する社会科学者としてのく私﹀は︑客観的
に︑実証的に研究すれば︑するほどく私﹀に無関心となる︒しかし︑このことによってく私Vは出現している︒︿私﹀は︑
社会科学の中身を自由に決定して︑例えば︑経済学者になっても︑その決定に不安をもつものである︒すなわち︑
︿私﹀は経済学者としてやって行けるのだろうか︑経済学でもって社会全体を︑あるいは人間全体を本当に捕らえる
ことができるのだろうかという不安をもつ︒不安をもたない人は幸いである︒しかし︑そういう人は主体的に自覚
することを最初から放棄しているのである︒だが放棄していることを^自覚してはいないが︑主体的に自由に決定
している︒実証主義的︑客観的人間把握を︑あるいは︑普遍的︑もしくは特殊的人間把握を︑主体的な自由意志に
基づいて決定している︒その限りで︑そういう人は実存哲学の中に足を半歩踏み入れているのである︒社会科学者
個人はそういうものである︒
さて︑新聞を読むと︑すぐ分かることだが︑社会現象をしばしば数量で表現している︒例えば︑人間の生活活動
によって排出される大気中の二酸化炭素︵OOしは︑毎年三三億トンずつ増えている︒このままのべ!スで増え続
けると︑七︑八年夏平均気温が七度も上下した氷河期のような予想外の気温変動が︑突然起きる可能性が一九九七
年九月現在︑心配されている︒また︑積もり積もった国有林経営の赤字をどのように解消するか︒林野庁は一九九
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七年九月現在︑リストラ案を示している︒全国にある二六四の営林署を六割減らし︑一万五千人目る職員を二〇〇
四年には五千人削る︒国の仕事は森林の保全管理や治山に限り︑造林や木材生産は全面的に民間に委託するという
内容だ︒だが︑それだけでは物足りない︒特別会計の累積債務︑来年末には三兆八千億円に上る︒その累積債務を
解消する責任は林野庁︑農水省にある︒特別会計は︑年に二千億円ずつ借金を増やしている︒これ以上増やさない
ことも必要である︒以上のような数字は︑普遍態としての地球社会︑特殊態としての日本国にとって確かに重要で
ある︒だが重要であると主体的に自覚する人間が必ずいなければならない︒個としての人間は︑たくさんいる︒そ
の限りでは︑個は特殊︑普遍である︒その個でなく︑実存としての︑あるいは︑現に存在しているこの私の徹底的
研究は残念ながら社会科学の対象ではない︒だが︑社会科学者が人間として生きている限り︑主体的自覚は出現す
るのである︒個人は普遍︑特殊たり得るが︑実存は普遍︑特殊にはならない︒実存は自分自身にかかわることによ
って︑物事︑自分をも対象として見る考えを捨て去り︑自分の根底へと自分自身を越えるという考えであるから︑
普遍︑特殊とならない︒しかしながら︑︿自分﹀というように語られたとき︑既に自覚された主体は何らかの対象に
なってしまわないか︒自分とはほかならぬ︑現に︑ここにいる︑誰にも還元され得ない︑この私のことである︒し
かし︑そうすると主体即対象が出て来る︒が︑同時に︑それは主体即下対象である︒こう考えると︑まさに︿間の
論理﹀が出て来てしまう︒︿自分自身にかかわること﹀によって自分︵普通に考えられる直接的主体︶と自分︵実存
として︑自覚している主体︶との関係になってしまう︒他人と断絶し︑孤立した実存は︑︿断絶し︑孤立﹀している
限りで︑何らかの関係が出て来てしまう︒ここに間のメテクシス︵蒜騨愈ω関与︑共有︑分有︶がある︒実存が規
定されればされるほど︑間のメテクシスが生ずる︒すなわち︑実存に間が関与しているのである︒メテクシスは
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喬誌決e︵〜に与かる︑〜を分有する︑共にする︑関与する︶から来た名詞である︒︿私﹀は対象にならないことに
おいて対象になっている︒ここに間のメテクシスがある︒メテクシスはもともとプラトンによって唱えられたもの
である︒だが︑これから離れて︑例えば︑実存は他人との断絶において︑間に関与する︒このことがまさに間念論
なのである︒個が同時に特殊︑普遍であることにおいても馬廻論が生じてしまっている︒実存と個とは全く違うこ
とにおいて二念論︑間の論理が出現する︒そうすると理念論を語ることにおいては︑実存と個とは同一の契機であ
り︑言葉の意味に関しては差異である︒実存と個とは同一であることにおいて︑差異であり︑差異であることにお
いて︑同一である︒
経済学はシンフォニーのようなものであり︑社会学︑歴史学︑心理学等の種々の楽器を駆使して人間社会の全体
像を描く芸術だと言ったのは森嶋通夫氏であるが︑それは︑筆者が一般科学のシンノエーシスω旨づooω凶ω︵相補的
至芸学︶と言ったこととほぼ同じである︒日本経済が公害︑都市︑環境︑医療︑高齢化の諸問題を抱えていること
は︑まさに紀念論の問題になってしまっている︒それら諸問題を論ずることが間念論を考える契機になるのであり︑
間念論を考えることがそれらの諸問題に通ずるのである︒
社会科学基礎論
︵四︶
公害︑都市︑環境︑医療︑高齢化等は並列されている限り多であるが︑同時に︑それらは︑日本経済により︑統
一される一である︒その同時にとは︑多と一という異なった対の意味表現空間をもつが︑ここに多と一とが共時的
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にあるということである︒公害︑都市⁝⁝を生み出すものは社会であり︑直接的一であり︑未分の一である︒一か
ら公害︑都市⁝⁝という多が生じ︑それぞれを研究する︒しかし︑その多は︑十分に自覚されてシンノエーシスの
研究対象になり︑未分の一から︑不識の一へと発展するのである︒この発展は間︑場所の論理︑つまり間念論であ
る︒ 人間は間がなくても人である︒そうすると人間は間があってもなくても人間であり︑間を入れることは恣意的で
ある︒しかし人間に対して︑恣意的なものが働くということは︑間が生じているが︑間という字がない限りでは︑
間が消失しているということである︒したがって︑そこには間の発生即消失がある︒間は消失していながら︑発生
しているのである︒そうすると︑どんな物事を語っても問が出て来るではないかと非難されそうである︒しかしな
がら︑そこに直ちに間が出て来るし︑非難される場所︑すなわち間が生じてしまっている︒このように何を語って
も間が出て来るということは︑人間は間を意識しなければ︑間は人間のすぐ近くにあるが︑自覚して間を深く考え
ようとすると︑間は人間から離れてしまうのである︒換言すれば︑間の論理︑間の哲学︑間念論が深く考えられた
ことはないのである︒
人間︑時間︑空間の間はなくても日本語として使うことができる︒それゆえ間は不必要なものである︒だが問は
全く重要なものではないと言えるだろうか︒しかし︿私﹀があらゆる物事を論ずるとき︑既に︿私﹀と物事とに間が入
ってしまう︒真剣に考えると︑そこに︑そういう場所が出て来る︑すなわち間が出現するのである︒これは真剣に
考える態度という場を指しているとも言える︒間自体は関係︑場所︑場︑同一︑差異等となって働いている︒存在
者があるとは︑一定の時間︑空間の中にあることであり︑間に基づいて有るのである︒その限りでは間は基体とい
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社会科学基礎論
うことになる︒もともと基体はミ︒霧ざ亀ミ︵性質︑量等のもろもろの変化の下に横たわって変化しないもの︶で
あり︑これは動詞ψ詠幕ミミ︵下に置かれている︑前提としておかれている︶から来ている︒間は前提としておか
れているものとして基体なのである︒間は基体ではあるが︑間は関係という意味をももっている︒その限りで︑間
は基体であると同時に関係である︒間は自覚されて把握されたことはないが︑また完全に把握され得ない面をもっ
ている︒間はあるゆる物事にあるが︑しかし︑ないとも言える︒なぜなら︑間がなくても物事を説明︑解釈できる
からである︒その限りで間は無である︒しかし︑このことには同時に無であるという場︵間︶があり︑間と無との
間が有る︒間と問とは︑・がある限り異なっているが︑間である限り同一であり︑そして︑間は無即有である︒
すべての存在者は延長をもつと言われるが︑既に︑その延長は間を前提︑基礎としてもっている︒人間も間を前
提︑基礎としてもっている︒精神を語る場合でも︑語る前提としての精神の場︑場所︑すなわち︑間がある︒その
限りで︑間は基体である︒そして間は関係の意味をももっている︒鈍粋数学の対象領域は量において成立している
だけではない︒点は線ではない︑線は平面ではないという意味で質的なものがあり︑無理数︑例えば冴は有理数
ではないことにおいて質的なものであり︑σは既約分数O\ρと等しくないことにおいて質的なものである︒量が
質をもつことにおいて︑関係がある︒また数体系は単位︑1との関係の上に築かれている︒分数︑方程式︑関数は
関係である︒或る物事が計算できるならば︑その物事と計算可能性との間に関係がある︒
人間個体は有機体として自然環境との関係をもつ︒その個体は︑それ自身の中に︑自身の器官とこの器官の働き
との間に関係をもっている︒個体が生きているということは︑先の関係と個体のもつ自己調節とのバランスの上に
立っているのである︒そのバランスが崩れたとき︑環境破壊の問題が生ずるのである︒また︑人間個体と環境との
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関係は︑人間個体の生活過程と社会︑民族︑国家︑地球社会等という全体過程との関係でもあり︑さらに︑もろも
ろの個体︑社会︑民族︑国家間の関係もある︒これらの関係が崩れたとき︑闘争︑戦争が生ずる︒人間の何らかの
体験︑意志︑行動︑愛憎も︑これらに対する物事があるから関係をもつ︒政治︑社会︑文化︑これらの生活史上に
も関係がある︒以上のような関係の前提にあるものが間なのである︒間はその限りで⇔8鳶ざ亀ミ︵基体︶であ
る︒問は人間として人間の側にある︑すなわち主観である︒葺︒需樹建ミも主観の意味をもっている︒しかしな
がら︑その間は︑同時に人間から超越している︒何故ならば︑間がそれ自体として︑例えば︑関係︑場所の意味を
もち︑人間の作った意味ではあるが︑それ自体として関係︑場所はあらゆる物事の存立する根拠としてあるからで
ある︒間はすべての物事の根拠であり︑すべての物事を根拠付けるものであるが︑しかし︑また︑関係︑場所︑場︑
同一︑差異等によって根拠付けられるものである︒そうするとぎ︒主面建ミはζ①冨閃Φ巨①ロ8︵超観︶になって
しまう︒
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︵五︶
間は物と同じように見ることもできないと言う人がいるかもしれない︒しかし︑そう言ったとき︑既に間が生じ
ている︒そのように否定することには︑否定の問︑場所があり︑否定は否ということと同時に︑定まった物事があ
る︒定まったとは肯定の定である︒見ることもできないという主張で否定の肯定がある︒その限りで︑否定の肯定
である︒務台理作は自著﹃場所の論理学﹄︵弘文堂︑一九四四年︶の中で﹁超越的場所の論理的限定として最も根本的
社会科学基礎論
な形は︑包むものと包まれるものとの関係である﹂︵五九頁︶︑﹁超越的無限の限定は場所的に包み.包まれることと
の関係である﹂︵五六頁︶と言う︒筆者の考えでは︑場所は人間の感覚から超越していると言えるが︑人間の間に内
在している︒場所が包むものと包まれるものとの関係であるということは︑既に場所が関係︑間であることを示し
ている︒間は場所の根拠であり︑また︑場所によって根拠付けられたものである︒根拠は根拠付けられたものでは
ないから︑根拠付けられたものの否定であり︑根拠付けられたものは根拠の否定であり︑根拠︑根拠付けられたも
のは︑先の否定により媒介されたものである︒根拠には根拠付けられたものが対としてあるからある︒そうすると
根拠は根拠付けられたものであり︑根拠付けられたものも根拠を対として規定しているから根拠である︒しかし︑
間と場所とは表現形式としては異なっている︒人間の問は日本語としては︑単純に人間の側にある︒だが︑その間
は︑同時に人間から超越している︒なぜなら︑間はそれ自体として︑例えば︑場所︑関係の意味をもち︑あらゆる
事物の存立する根拠としてあるからである︒
場所が包むものと包まれるものとの関係であるということは︑筆者にとっては︑立つものと立たされるものとの
関係として場所︑場がある︒人間は何らかの主張をすることにおいて一定の場所に立つが︑同時に何らかの物事︑
または誰かによって触発されるから人間は主張し︑こうして一定の場所に立たされるのである︒人間は宿命によっ
て立たされていると言えないこともない︒筆者が今︑ここに立っているということは︑何ものかによって︑その場
所に立たされていると言えなくもない︒何ものかとは何か︒それは彼岸の宿命であるかもしれない︒だが︑そう言
ったとき直ちに︑宿命はく私Vの思考内容という此岸のものであり︑その限りで彼岸のものである︒それゆえ︑宿命
は主客合一体︑すなわち超観︵ζ①冨犀鉱ヨ①8ロ︶になってしまっている︒場所に立ち・立たされるとは︑立つもの
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が立たされるものを反照し︑また︑逆に︑立たされるものが立つものを反照する︒例えば︑管理会計︑会計監査論
を研究する場所に立つものは︑同時に︑その場所に立たされるものである︒そのように立つものは自分の関心によ
って︑そういう研究の場所︑場に立たされるのであり︑また︑超観としての宿命によって︑立たされるものでもあ
る︒宿の本来の意味は﹁夜になって席に着く﹂︑﹁人間が廟中など神聖な建物に宿直すること﹂︑﹁屋根の下でちぢま
る﹂︑さらに﹁あらかじめすること︑残存すること﹂︑﹁止まる︑残るもの︑あらかじめ︑先に︑もとから︑古し﹂
等である︒また命は本来︑﹁人為の及ばない所﹂︑﹁脆伏している人に対し︑大声で叫ぶ︑あるいは教える﹂︑﹁集合
した人達に口で何事かを明らかにする﹂︑﹁口で声を上げて叫ぶ︑口で命令する﹂︑﹁使う︑教え︑仰せ︑道︑言葉︑
はかる︑与える︑天の意志︑天のお告げ︑まわりあわせ﹂等という意味である︒そうすると宿命は︑あらかじめ与
える道となり︑一定の場所に止まる人間に天の意志を与えるとなる︒また︑人間が一定の場所に止まるような回り
合わせとなるのである︒天という字のもともとの形は人間の身体を正面から見て︑特にその頭部をはっきりと書い
て頭の意味を表した象形字である︒天はまた人為の及ばない場所である︒このように見てくると︑天の意志は人為
の及ばないものではあるが︑しかし︑そう考えることによって人間の頭の中で考えたものである︒それゆえに︑宿
命は超観であることになる︒こうして人間は一定場所に立ち︑立たされるのである︒そして︑立つものと立たされ
るものとは相互に反転して︑立つものが立たされるものになり︑立たされるものが立つものとなる︒なぜなら︑自
分の意志で一定の場所に立つのであるが︑与奪としての宿命によって立たされるからである︒こうして︑相互に反
転があるのにもかかわらず︑立つものは絶対に立つものであり︑立たされるものは絶対に立たされるものである︒
この関係は絶対に反転しないのである︒なぜか︒立つものと言った瞬間︑その立つものという表現形式は変わらな
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いからであり︑立たされるものと言った瞬間︑その立たされるものという表現形式は変わらないからである︒以上
のことをつづめて言えば︑場所に立ち・立たされる関係は︑﹁方では反転し︑他方では︑反転しないのである︒こ
のような表現形式の矛盾が生ずる︒その関係は反転し︑反転しない︑また反転せず︑反転するという堂々巡りをす
る︒この堂々巡りを︑人間は大体無意識的に︑自分の好みによって反転する場所で止めたり︑反転しない場所で止
めたりする︒こうして間における場所の論理が論究されるのである︒
︵六︶
社会科学基礎論
理論社会学者︑吉田民人氏は﹁情報空間の特殊な応分がプログラムであり︑あるいは規則であり﹂︑﹁プログラム
が︑物理︑化学的に作動・発現するのでなく︑表象媒介的にしか作動・発現しないシンボル性プログラム解明科
学﹂を社会科学と言う︒また︑彼はその解明科学を﹁個体にしろ社会にしろ人間のレベルのシステムを制御するプ
ログラムは言語を中核とするシンボル性のプログラムであり︑そのプログラムは物理・化学的にではなく︑表象に
媒介されて規約論的に作動する﹂ものであると言う︒
彼の使う表象は心理学上の使い方に則っていると思われる︒そうならば︑表象は直観的に心に浮かぶ像のことで
あり︑換言すれば︑刺激するものがなくても︑また︑受容器に興奮が生じなくても︑浮かぶ事物や人の像のことで
ある︒記憶表象︑想像表象︑思考表象によってしか現れない︑働かない言語シンボルのプログラムを解明する科学
が社会科学になるだろうか︒実在社会とプログラムとの一如が有るのか︑ないのかはっきりしない︒吉田氏にとつ
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ては︑実在社会とプログラムとは分離していて︑プログラムは主観の内に入っているようである︒﹁言語を中核と
するシンボル性のプログラム﹂と言っている限り︑主観内にプログラムがある︒プログラムと言ったとき︑既に︑
そこに愚弟があるのではないのか︒プログラムが表象だけを媒介しているような書き方になっている︒表象は固定
的︑並列的にしか働かないように取られ得る︒言語を中核とするシンボルが固定的︑並列的であるならば︑実在し
ている社会が動的︑相互浸透的︑相互反照的ではないことになる︒社会を静的︑分析的に把握することは重要では
あるが︑静的︑分析的把握は動的︑総合的︑全体的社会のものである︒動的な社会が静的な把握となることそれ自
体︑動から静へと移る動的なものである︒
吉田氏は﹁対象のパタンを制御する一定の情報︵記号集合︶をプログラムとしてカテゴライズするプログラム解
明科学﹂と言う︒この場合︑彼によると︑対象は即自的︵直接にそれ自身として︶であり︑=疋の情報︵記号集
合︶は向自的であり︵対象の中に人間の考える記号があり︶︑プログラム解明科学は即詠向自的︵それ自身︑人間
によって考えられて︑端的に有るもの︶である︒彼においては︑即自的と向自的との考えが分離してしまっている︒
対象が直接にそれ自身としてあることが向自的に︑すなわち人間によって媒介されているのである︒対象そのもの
が人間の考える記号なのである︒﹁対象の中に人間の考える記号がある﹂だけならば︑対象そのものの何の規定に
もなっていない︒記号集合が対象を指示していないならば︑それは文字通り単なる記号の集合にしか過ぎない︒吉
田氏がプログラム解明科学を一所懸命に主張していることは︑自己への反照であり︑自己決定である︒彼はそうい
う自己の場所にたっているのである︒そして︑彼はプログラム解明科学を研究することによって︑その科学という
対象︑他者への反照に立つ︒立つ限りにおいて︑彼は︑新局面に立ち︑発展した自己となっている︒これは︑自己
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への反照と他者への反照との自己への反照の中のゴシックの自己なのである︒
吉田氏の主張に対して批判を行ったが︑このことは間の論理においてある︒彼の主張とその批判とに間︑関係が
ある︒筆者はその関係に立ち︑吉田氏の主張から隔たっていると言えよう︒また筆者は批判という場所に立ってい
るのであり︑吉田氏により批判という場所に立たされているとも言えよう︒
︵七︶
社会科学基礎論
人間学は︑一般的には人間についての学であるが︑筆者にとっては人が問に立つことを自覚する広科学である︒
間に立つとは人と人との間ばかりではなく︑人と自然との間︑人間が世界内存在であるというだけでなく︑社会の
中の一定の場︑場所︵間︶に立っている︒人間学は人間を考えながら︑人間から離れた︽間学︾︑すなわち︽間広
科学︾である︒間は物事を規定しながら︑物事が間を規定している︒いかなる物事も︽私︾とのかかわりにおいて
しか語れない︒物質は主観から独立してあると言う限り︑誰かの︽私︾と関係し︑また︑独立してあることへ︑
︽私︾が︑浸透してしまっている︒その限りで物質は主観から独立しているのである︒﹁かかわり﹂︑﹁関係﹂︑﹁浸
透﹂は問であり︑この間を人が論究する所に人−間学がある︒
間学の例として次の文を挙げることができる︒すなわち﹁単に永遠に過ぎない︑あるいは︑抽象的に過ぎない精
神は自己︵精神︑すなわち単なる直接的精神から超出して︑新局面に立った精神︶にとって︑一つの他者︵神︶と
なる︒あるいは︑その精神は定有︵人間により規定されて有るもの︑つまり神︶へと進むのであり︑しかも︑直接
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的定有︵厳然たる神︶となるのである︒そこで︑このような精神は一つの世界を創造する﹂︵写ぎ︒日①8δひqδαΦω
OΦ翼①ρω﹄ω9︒この文は︑精神善神が世界を創造することを意味する︒その引用文中の﹁精神は自己にとって﹂と
いう﹁自己﹂は主語﹁精神﹂の代名詞であるが︑﹁自己﹂と﹁精神﹂とは精神であるかぎりでは同一であるが︑
﹁自己﹂は新局面に立った精神である限りでは︑﹁自己﹂と主語﹁精神﹂とは違っている︒こういう関係︑かかわり
があるので︑﹁自己﹂と主語﹁精神﹂とは間に立っているのである︒
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︵八︶
間の論理に同一︑差異があることは既に述べた︒これらは間においてあるカテゴリー︵範疇︶であるから︑間疇
である︒人間は多様であるということは人間の同一性︑差異性︑つまり間疇をもっていることになる︒すべての人
間は差異性の中にありながら︑何らかの意味で同一性をもっている︒そうでなければ︑多様性の統一ということは
不可能である︒また︑すべての人間は同一性の中にありながら︑何らかの差異性をもっている︒人間は差異性をも
つからこそ︑同一性であることができるのである︒同一性︑差異性はまさに間斜なのである︒両者は関係︑換言す
れば︑間係の中にある︒それゆえ︑或る人間は他の人間と同一であり得るし︑また勝る人間は他の人間と違うこと
ができるのである︒その壁面が崩壊するならば︑同時に差異性は消失するし︑また同一性も単なる空しい言葉とな
ってしまう︒同一性が優勢であればあるほど︑それだけ同一性の場が拡大し︑多様性の場が少なくなってしまう︒
差異性が優勢になればなるほど︑異質なものが多くなり︑ますます複雑となる︒似ているということは︑相違して
社会科学基礎論
いながら︑部分的に同一であることを示している︒似ていないということは︑部分的な同一があるにしても︑大き
く相違していることである︒
論理的同一性から言えることは︑同一律︷︿×︵欝川菊︶︸︑矛盾律︷︿×〜︵h×﹀〜h×︶︸︑排中律︷︿×︵難く
〜財︶︸であろう︒これら三つの法則はいつ︑どこでも成立する︒その限りで︑それらは論理的同一性をもってい
る︒だが︑同一律︷︿×︵州×剛h×︶︸において︑左辺の騨の位置と右辺のh×の位置とが異なることにおいて同一律
は成り立っている︒異なることを式にするならば︒︒︷︵︷×︶一丁︵貼×︶﹁︸となる︒ただし︑︵噛×y左辺の位置にある
(h︶である︑︵鱒︶﹁ 右辺の位置にある︵h×Vである︑︒︒一位置を考えるものとする︒したがって同一律は
︷︿×︵h×川h×︶︸﹀﹇︒︒︷︵︷×y朴︵h×γ︸﹈⁝・・⁝・o
となる︒a式は同一性と差異性を表している︒また︑矛盾律は常に矛盾律である限り︑また排中律は常に排中律で
ある限り︑それらは同一律に含まれてしまう︒同一律を×要覧11<父h×川な︶とすることもある︒この場A口︑身目︑
h〜×睡猷く響く︷o⁝とすることができないことはない︒そうすると×H〜×︿h︵h×田︷〜×︶が可能になる︒その具
体例を示すと︑大学生は大学で正規に学んでいるものすべてである︒学生証をもっている人は大学で正規に学んで
いるものすべてである︒こうして︑×11〜×は矛盾ではないのである︒これに対して︑ヘーゲルの矛盾は融﹀︷〜曽
か︑け﹀〜貯であり︑賦≧〜蝉1一賦﹀︵凄くけく冠︿⁝︶⁝⁝①︑あるいは貯﹀〜貯11富﹀︵ひqβ︒<9<冨<⁝︶⁝⁝②
とすることができるので︑この矛盾も厳密に言えば︑矛盾律を犯す矛盾ではない︒匿>h〜蝉︑貯﹀〜匿は︑矛盾
に見えるだけである︒そして①︑②式は同一律に則っている︒
人は同じ流れに立つことができない︒直ちにその流れは別のものになってしまうからである︒そればかりか︑人
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は同じ流れにすら入ることができない︒なぜなら︑人が入るときには流れは別のものになっているからである︒し
かも︑人も別のものになってしまうのである︒このようないわゆる生成をヘラクレイトスは言う︒万物に当てはま
るその生成は︑或る一つのものから他のものへと絶えず移行することである︒
生成とは量る性状から別の性状へと変化︑交替することであるが︑よく考えると︑変化︑交替することの中で︑
例えば川の流れそのものは変わらない︑いわゆる自己同一を保っている︒ここに差異性︑同一性がある︒ヘラクレ
イトスはまた司ミ§oωω貝︒ωω黛貯9︒︒曾ミく曾鶏鵠耗ミ︒ミ曾bミ罵£①ド無紮傷く鵠逡ミ︒寒葦切魯・︵同じ川の
流れに︑我々は入っていて︑そして︑入っていない︑また︑我々は存在していて︑そして︑存在していない︒︶︹ω●
一︒︒−=①轟蔦ρCヨ︒二二臼℃巨︒ω8三①︺とも言う︒例えば︑利根川そのものは︑いつも︑常に︑やはり利根川であり︑
いわゆる自己同一を保っている︒そのような同じ利根川である流れに我々は入っているが︑しかし︑同時に︑利根
川が流れていることによって︑その水の或る性状から︑別の水の性状に変化している限り︑利根川の同じ流れに入
っていない︒我々は生きている限り︑自己同一を保ち︑存在しているが︑同時に我々の身体の細胞は絶えず変化し
ていて︑古い細胞は存在していない︒その限りで我々は存在していないのである︒ここに表現形式上の矛盾と意味
内容上の差異があり︑また同一︑差異の問題も含まれている︒これまでの叙述内容は社会科学の基礎論として存在
し得るであろう︒社会科学部も永遠に存在して︑自己同一を保ちながら︑以前の講義科目︑ないし︑その内容より
も充実した新しい講義科目︑ないし︑その内容を定立することによる両者の差異を続けて行くであろう︒社会科学
部が自己同一を保つ限り︑社会科学部と自己との間に間念があり︑間の論理がある︒これらのものは既に述べた︒
こうして社会科学基礎論の一端を述べたことになる︒筆者は結論を出さない︒何故ならば︑結論を出すことによ
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社会科学基礎論
る つ
。 て
これまで述べて来た過程が消えるかまたは薄れてしまうからである︒まさにその過程が重要なのであ
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