──時代精神と英国社会思想からの形成──
梅 木 真 寿 郎
(社会学研究科社会福祉学専攻博士課程後期)
蠢 は じ め に
「地域福祉の主流化」が夙に求められる今日,その源流の一つに位置するセ ツルメントに学ぶことは少なくない。セツルメントは,地域に即した課題への 取り組みを模索し,地域と共に歩み,民衆の自治や文化の創造といった主体形 成を図り,社会的な改良を企図した極めて実践的な施設であった。このセツル メントを我が国で初めて体系的に研究した代表的人物が,大林宗嗣(1884−
1944)である。しかしながら,大林を扱った先行研究(1)は,あまりなされてい
ないのが現状で,また,それらについても,「セツルメント」・「民衆娯楽」そ の他,代表的著作に限定した一面的な考察となっている。その思想性について 体系的に言及したものは,永岡正己(1984, 1996)に限られており,大林の思 想形成に関する研究の蓄積は充分な状況ではない。
永岡(1996)は,大林の代表作である『セッツルメントの研究』(1926 a)
の主な特徴として,以下のように言及している。
漓社会思想史,社会運動史的アプローチによってセツルメントの本質と 役割を明らかにしようとしたこと,滷一九一〇年代末から二〇年代前半に かけてのイギリス,アメリカの動向を反映して,社会運動と相まって働く 教育的セツルメントを重視していること,澆セツルメントの民間性,運動 性を基礎として,日本で主流となる公立セツルメントやいわゆる社会事業
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的セツルメントへの批判をおこなっていること,潺直訳的,紹介的傾向が 見られ,日本の社会状況をふまえた理論化や提言が充分なされていないこ と。
本論稿においては,上記漓に着目したうえで,大林が理解するセツルメント に連関するところの社会思想について,明らかにしたい。その際,大林自身の 思想形成の過程を通して,どのような影響がみられるのかについて考察するこ ととした。大林の思想基盤の一つであるキリスト教との連関については,既に 論じた(2)。ここでは,「詩人としての大林宗嗣」(3)という前提のもと,シアトル から帰国し,『セッツルメントの研究』に至る過程を主な射程とし,その思想 的背景の考察を試みた。具体的な分析枠組みとしては,(1)当時(明治中期か ら大正期にかけて)の歴史的時事を含む思想史的背景の整理,(2)大林の思想 的素地としての啓蒙思想,キリスト教,そして詩人としての内実,(3)大原社 会問題研究所(以下,「大原社研」とする)という研究環境からの影響につい て,論じることとした。
蠡 大林宗嗣の生きた時代精神をめぐって
個人の思想を考察するにあたって,時代の思潮と無関係に,個人の思想が形 成されていくというものではない。そこには少なからず,時代から受ける影響 があり,それが,歴史的な特徴としての時代精神ともなれば,逆に歴史的制約 や思想的限界をもたらすことにもなる。つまり,大林が生きた歴史における思 潮を紐解くことは,その思想形成を理解する上でも重要である。そこで,本章 では,大林の主著である『セッツルメントの研究』を理解する上で,不可欠と 考える思潮を中心に縦断的に考察することとしたい。
(1)明治期の自由民権と啓蒙主義の萌芽
幕末の黒船来航は,欧米列強国の帝国主義,植民地政策への対応措置として
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中央集権化と富国強兵を我が国にもたらした。その際に,日本神話に起源をも つ「天賦国権説」的アプリオニズムを採用し,超国家主義への第一歩を踏み出 した。この「天賦国権説」は,日本の近代化(西洋化)の根底を支持する基盤 となったが,一方で近代的市民社会の醸成に対して,大きな障壁となった。暗 中模索の対応(4)として,歴史的には意味をなすものの,周知の如く,昭和の敗 戦が示すように,掛け違えたボタンは,清算を要するものでしかなかった。明 治の自由民権運動も冷めた目でみると,結局は,砂上の楼閣にすぎず,立憲君 主制も所詮は,形式的な粉飾でしかなかった(5)。但し,「建白」における中江 兆民(6),植木枝盛(7)といった啓蒙主義者は看過すべきではなく,下からの民主 的な枠組みの発露であったことは論を待たない。このような時世,大林は1884
(明治17)年10月29日,熊本にて産声をあげることになる。
大林(1922 : 455−6)は,「Settlement Work,」のセツトルメント,ウワーク の歴史において,「我國にては明治の初め,中江兆民板垣退助等が此の佛國の 思想やミルの自由思想を受けたものである,此の思想が又救済事業にも及ぼせ る事は必然にして,当時の救済事業は官僚的貴族的で,救済を受くるものはむ しろ辱めを受くる事が多かった」と,当時の慈恵的状況に対して,ルソーを思 想的支柱とする自由平等主義,天賦人権説,抵抗権を含む社会契約説といった ものの及ぼした影響の大きさについて言及している。また,このような民主思 想から「貧民,労働者を教育する必要」性が展開されることになったとしてい
る(大林1927 a : 6)。つまり,明治中期の「自由民権」をめぐって展開され
た思想が,我が国のセツルメントを構成する重要なものであるとともに,大林 自身の思想形成においても少なからずインパクトを与えたものと考えられる。
但し,この期におけるデモクラシーは,あくまでブルジョア・デモクラシーで あって,大正期にみられるプロレタリアのデモクラシーとは,性格を異にする ものであった。従って,救済事業の側面からみても,負の側面が強調され,不 十分なものであった。
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(2)時代閉塞とロマン主義の招聘
「自由民権」にみる民権思想も,終わりを告げることになる。それが,天賦 国権説の法制化としての大日本帝国憲法発布(1889)であり,「『政治の季節』
としての『啓蒙期』が終了し,『文芸の季節』としての『ロマン主義の時代』
がはじまったことを告げるもの」(宮川,土方1971 : 112)であった。詩人的 思想家として知られる北村透谷は,このロマン主義文学の旗手の一人である。
その透谷からロマン主義の特徴をみてみると,「『実世界』における挫折,それ 故の『想世界』への後!退!という意味と,『実世界』に対する対抗,それ故のあ るべき『想世界』(8)の構築という意味の二様の意味が交錯」するところにある
(宮川,土方1971 : 147)。それは,「政治」から「文学」へのシフトを意味す るとともに,閉塞的時代を暗に意味するものでもあった(9)。
ロマン主義の台頭という文学の動向は,哲学思想の潮流において形而上学と しての観念論(10)への接近を促すことになった。その要因は,後進国として日本 の立場性に起因する。つまり,先進国である英・仏の思想としての啓蒙主義や 経験論等,「市民社会の哲学」への対抗理論として,それを超克する国家哲学 と考えられたドイツ観念論哲学の受容が政府にとって好都合なものであったわ けである(宮川,土方1971 : 178)。その中心的な役割を果たした人物が,井 上哲次郎であり,ヘーゲルを導入するとともに,国家主義的な「教育勅語」の 解釈(11)を行っている。時に大林は,1891(明治24)年,八幡小学校に入学し ている。教育勅語が1890(明治23)年10月30日発布であることを鑑みる と,教育勅語の一期生であるともいえる(12)。内村鑑三による不敬事件等,次第 に時代的な閉塞感が強まってくる時代背景であった。このロマン主義と大林の 連関については,第蠱章第2節にて詳述したい。
(3)日本における産業化の影と基督教社会主義
明治30年代を迎えるにあたり,日本も産業革命を経て,産業が高度化す る。そして日清戦争を契機に,資本主義が確立し,資本の独占化が急速に進む ことになる。加藤弘之の社会ダーウィニズムがもてはやされる一方で,資本主
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義の負の側面 も 頭 を 擡 げ て く る 。 横 山 源 之 助 に よ る 『 日 本 之 下 層 社 会 』
(1899)は,まさにこの現実を暴露するものであった。このような背景のも と,社会主義の思想が出現するに至る(13)。幸徳秋水(14),片山潜(15),安部磯 雄(16),北一輝(17),堺利彦らがその代表的思想家であった。
そして,ここで見逃してはならない動向として,キリスト教と社会主義との 連結の問題があった。周知のように,明治期における慈善事業は,キリスト者 による活躍に目覚ましいものがあった。石井十次の岡山孤児院,原胤昭の出獄 人保護事業,留岡幸助の家庭学校,山室軍平の救世軍ほか,挙げれば枚挙に遑 が無い。その背景には,ユニテリアンといった自由主義神学の影響が少なくな かった。しかし,キリスト教と社会主義は似て非なるものであるが故に,安易 な結合はオプティミズムの域を出ないことになる(18)。
例えば,安部は「基督教の精神は社会の救済であり,それが中心思想であ る。故に教会が社会事業をするのは,教会自身の為めにも会員各自が真摯と熱 誠を増す事である」,「基督教の本旨は修道院の生活ではない。宗教は自分一人 の信仰に満足するものでなく,自己の信仰を社会に適用するものである。少な くとも今日はさうした時代である」(安部1923 : 1−2)と基督教の社会への接 点を積極的に求めている。そして,中村によって整理された「社会主義と基督
教」(安部1906)からもわかるように,安部は『社会主義』の実現なしに『キ
リスト教』の理想は達成されないとの考えに至っている。
『基督教も社会主義も弱者の為に同情を表する』点で軌を一つにしてい るばかりでなく,『基督教は大胆に平等主義を宣伝する点に於て』もまっ たく社会主義と径路を一つにしている。キリスト教が精神的方面から『平 等主義』を唱えるのに対して,社会主義はまず経済上の平等を実行し,次 第に政治,社会,道徳方面に及ぼそうとするものである。そして,社会主 義は,「実行的方面」とともに「理想」面をもち,この「理想」のゆえに 社会主義は,人々の心を強く動かし,人々はこれにすすんで身を殉ずるこ とにもなるのである。まことにキリスト教と「理想を共有する」社会主義
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において,はじめてそうしたことがありうるのであって…(安部1906)。
ここには,「理想主義」と「普遍主義」とを通じて,キリスト教と社会主 義とが結びついてとらえられていることがよく示されている(中村1971 : 47−8)。
このような安部の立場は,当時の社会事業に接点を持つキリスト者におい て,相当に支持されたものであった。しかし,これに対して,内村鑑三の主張 は異なっており,
一,「基督教は天国の教へ」であり,「社会主義は此世を改良する為の教 へ」であること。二,社会主義とことなり「基督教は必ずしも財産の共有 又は国有を唱へ」ないこと。三,「基督教と社会主義とは其働きの方法を 異に」し,「基督教は或る一定の社会制度を定めて人に之を採用」させよ うとなどしないこと(「基督教と社会主義」明三六)。さらに内村は,社会 主義に対し,「基督教無しの社会主義は尤も醜悪なる君主主義よりも危険 なり」とまで明言している。(中村1971 : 51)
このように,キリスト教と社会主義の連結について,楽観的な安部に対し て,内村は対照的に極めて慎重な姿勢をとっている。この図式における類例は 少なくなく,他に,海老名弾正(19)や留岡幸助の「応用的キリスト教」に対する 植村正久の福音主義の立場等の論争もみられた(20)。また,藤田省三は,『維新 の精神』の中で,キリスト教の「救い」の概念から,次のように考察してい る。
キリスト教に特殊な本源的な人間に関する普遍的な「救い」が現実的な 特殊人の特殊面における一時的な救いに癒着され混同されているのであ る。信仰の超越性が伝統的に弱くて信仰がつねに道徳や習俗や運命への感 傷とくっついている日本精神のもとでは宗教のこうした思!想!的!退廃頽廃の
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傾向性が絶えずあるわけだが,賀川や山室もまた社会運動家として真面目 であり精力的であり不屈であったにもかかわらず否ある意味では社会運動 の中に全心!的に埋没したことによってこの伝統的な宗教思想の頽廃の流れ の中に立ち返ったのである。(藤田1967 : 99)
このような藤田の酷評は,一面では妥当な見解と考える(21)。しかし,社会事 業にキリスト者としての使命感を抱いて,邁進したところには,「隣人を愛せ よ」への真摯で,かつ,誠実な実践への姿勢があった。そこには,イエスの弟 子でありたいとする,純粋な信仰が存在していることは,間違いのないところ であろう。そして,そこにはある種の「福祉の本質」と呼べるものがあるよう に思われる。「福音」と「社会」の連子符問題は,このように極めて難解な問 題として,現在も横たわっているわけである。
それでは,大林はこのような思潮を受けて,どのようにそれを消化していっ たのであろうか。この点は,既に「大林宗嗣とキリスト教」にて言及したとこ ろであるが,重複を厭わず,引用しておきたい。
大林は,キリスト教と社会の接点についても,「私自らに云はしむれ ば,基督教は必ずしも常に当代の社会問題と一致して並行して行かねばな らない,などゝ云ふが如き考へはない」(大林1920 : 16)と安易に福音と 社会との結合を図らず,慎重な態度を示している。しかしながら,「制度 を社会の上に実現するための世論を喚起することに努力せねばならぬ。之 れが即ち救世主の精神の一つである」,「今日の基督教徒として現代社会に 貢献し接触し得る道は,精神運動を通じて物質的産業組織の革命,社会組 織の革命にある」(大林1920 : 20−1)においては,当時の社会的基督教に も,よく見受けられるような論理の飛躍があり,楽観主義であることは否 めない(梅木2007 : 69)。
大林は,聖書にある「全世界に行って,すべての造られたものに福音を述べ
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伝えなさい」(マルコ16章15節,新共同訳),「あなたがたは行って,すべて の民をわたしの弟子にしなさい」(マタイ28章19節,新共同訳)の一節にも あるような,救世主の精神としての福音を世論の喚起という手段で述べ伝え,
制度というかたちでこの世俗社会に実現させる精神運動の必要性を主張してい るように考えられる。
そして,そのような考えに至った大林の内実であるが,「資本主義化しつつ ある基督教から自らを解放せねばならぬ。もし教会維持の上から資本主義が教 会に取つて必要ならば,かくの如き教会は先ず自ら解散するがよい」(大林 1920 : 20)と,現状の教会の在り方への激しい批判があり,また,「近代の労 働運動は,基督教がその救世主に依つて宣伝しつゝある社会理想とその目的を 一つにしてゐるのは明らかな事実である」,「現代労働者の社会運動は経済問題 が中心であり,基督教者の社会運動は精神問題が中心と為つてゐる」,「物質問 題に触れない精神運動は要するに空想的社会運動であって,例えば中世隠遁主 義の運動の如きである。之は只だ徒らに不生産的な人間のみ造り出して社会的 には何らの意味もない」(大林1920 : 21)と言及している。ここで示されてい るような,キリスト教ヒューマニズムの傾向は,先に言及した安部と軌を一に している。このようにキリスト教社会主義の影響は,大林がセツルメントを研 究するにあたって,その底流を流れる思想的基盤となったといえるであろう。
(4)時代閉塞下の自然主義
大日本帝国憲法や教育勅語の発布は,国家にとって思想的自由を拘束する頑 強な鉄鎖となり,時代は閉塞的状況として混迷をきたしてくる。田岡嶺雲は,
『壺中観』(1905)の巻頭に,「現代の文明は『余りに科学的』であって『哲学 的』でなく,『余りに散文的』であって『詩的』でない」とし,また『数奇 伝』にて「予の社会主義といひ得べくんばは極めて簡単である。貧者に対する 同情,只是だけである。資本がどうの分配がどうの,そんな経済上の理屈は予 には無い。強者に対する反抗,弱者に対する同情,此が予の思想の基石であ る」と,「感情の上に建てられた」,浪漫的な社会主義を展開している(中村
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1971 : 77−8)。
しかし,「赤旗事件」(1908),「大逆事件」(1910)を経て,台頭しつつあっ た社会主義も沈黙を余儀なくされる。このように「明治国家の秋」に象徴され る時代閉塞の状況が出現する。石川啄木の「つね日頃好みて言ひし革命の語を つつしみて秋に入れりけり」は,当時の状況をよく表している(中村1971 : 105)。
日露戦争後,我国にも「自然主義」(22)がみられるようになる。但し,日本に おける自然主義には,生や自我の観念といったロマン主義が流入し,独自の状 況(思想的混乱)を呈するものとなっている(中村1971 : 107)。つまり,日 本においては本来,ロマン主義というべき範疇についても,自然主義の亜種の 如きに取り扱った経過があり,用語の使用方法として極めて曖昧なものであっ た。そのことは,「自然主義」の代表的論客の島村抱月が「文芸上の自然主 義」(1908)の中で次のように述べていることからも理解できる。
「純客観的」で「写実的」な自然主義と,「主観挿入的」で「説明的」な 自然主義との二つにわかれ,これらは,それぞれ,「本来自然主義」と
「印象派自然主義」と名づけられうる。後者は,「一旦斥けた作家の主観を 或る方法で再び挿入」しようとするものだが,それは「本来自然主義」の 消極的態度をこえて,積極的態度であるといえる。(中村1971 : 108)
このあたりの自然主義という言葉の混乱について,大林の場合も例外ではな い。大林の初発論文(23)と考えられる「理想としての自然主義」(大林1908 : 31
−3)には,「人類の進化及び社会の発展の上より理想としての自然主義の価値
を見れば甚だその薄弱なるを断ずるに躊躇せざるものにして,是れ吾人が人生 観として自然主義の危険なるを論ずる所以也」と批判的に自然主義を捉え,
「万能主義と見做された自然主義」に警鐘を促している。しかし,一方で,大 林は「時事評論〔二〕」において,
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文芸の傾向に甚だ尊重すべき徴候が見へるのは嬉しい。或る意義に於い ては吾人も亦自然主義者である,人間は到底自然といふ範囲を脱すること は出来ない。我が文壇の自然派が云つてゐた客観描写といふものは甚しく 其意味が狭隘であつた,即ち文士自身の狭き実験を基礎として,描写した 客観の事実であって,それが即ち人間の真であるかの如く叫んでゐた。現 今では色々な批判が出たので自然派の文士の経験のみが純客観ではないと 弁護する様になったが,その当時はそうではなかった,動物慾描写それが 即ち純客観の真であったやうに思はれる。(大林1911 b : 1)
ここにみられるように,大林は自然主義の解釈が拡大したことを言及してお り,その状況下において,自らのことを自然主義者と表明するにいたってい る。この説明によると,文士(ある特定の人)が認識した知覚(経験)が,即 ち人間の真なるものであるとの主張に対して,様々な批判が加えられたことを 前提にしている。この一節は,イギリス経験論を極めたデヴィッド・ヒューム の懐疑論が想定されており,絶対的な自然科学への否定を意味しているもので ある。つまり,デカルト以来の機械論的自然観ではなく,有機体的自然観をも 包含した価値観といえる。このあたりについては,イマニュエル・カントが超 経験的なもの(霊魂の不滅,神の実在 等)と,経験的に取り扱えるところの 科学的認識の対象との峻別をすることになるわけであるが,大林が主張すると ころの自然主義(者)においては,超経験的なものも,少なからず内包した上 での概念となっている。このことは,ロマン主義が流入した日本的な自然主義 の影響を大林が受けていたということの証左であろう。
(5)大正デモクラシー期の人道主義,文化主義そして社会主義の台頭
1912(明治45)年7月29日,「大帝」とよばれた明治天皇睦仁の崩御と,
陸軍大将乃木希典の殉死は,明治という時代のピリオドとしてあまりに象徴的 であった。当時33歳であった嘉仁が即位し大正天皇となるも,「体が弱く,無 気力で,政治的決定が行えない」状況のため国政運営の転換点となった(Bix
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=2000 : 62)。このような天皇の指導力の低下に伴い大正デモクラシーは開花 することになる。護憲運動による「大正政変」や「陸海軍大臣現役武官制」の 廃止と「文官任用令」はその表れであり,1925(大正14)年には,男子普通 選挙として結実することになる。大正期には,1918(大正7)年の米騒動や労 働運動からもわかるように,「民衆の力」を大きく意識させた時期であったと ともに,1917(大正6)年の河上肇の『貧乏物語』や長谷川如是閑らによっ て,貧困問題といった社会のうねりに対して,人道主義的立場からの対応が叫 ばれた時代であったともいえるだろう。
明治末期から大正期にかけて,武者小路実篤,有島武郎(24)といった白樺派に よる人道主義が台頭し,この自然主義を反駁する。理想郷の建設といえば,ロ バート・オウエンのニュー・ハーモニイ(25)や,コールリッジとサウジーらのパ ンティソクラシー(26)を思い浮かべるが,我国でも武者小路の「新しき村」の建 設は,それに劣らぬものであった。大津山によると,武者小路実篤の「新しい 村」の提唱には,三つの願いが込められていた。
第一の願いは,階級と搾取のない,万民平等の理想国家の建設。したが って,それは当時の社会主義者や無政府主義者の窮極の理念と合致してい たが,愛と理性のおのずからな効力に期待し,力による急進的な社会改造 をしりぞけた。暴力と専制の支配しない,新しい世界の誕生を願った。
第二の願いは,共生農園の創造。自愛と他愛,自立と連帯,文化と労 働,などの調和した,共産の友愛社会をつくろうとした。いたずらな拡大 や繁栄をねがわず,小さく貧しくとも,精神の躍動する王者の集団を願っ た。彼のいう武者主義がその指導理念となったことはいうまでもない。共 生社会を創って,そのなかに生きることは,彼の畢竟の夢であった。
第三の願いは,武者小路個人の生活改造。親ゆずりの私財(といって も,時価五千円余の我孫子の家だけであったが)と文士生活の収入をすべ て新しき村に提供し,「人類」に対する義務として肉体労働を分担しよう とした。そのことによって,「自分は疚しい気がしない日は一日もない」
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(「第一の対話」)という有産の負い目,徒食の負い目からの解放を願っ た。(大津山1997 : 42)
新しき村の場合,武者小路自身は離村するに至ったが,平成の現在でも現存 しているという事実は,ニュー・ハーモニイが早々に頓挫した事を思うと評価 に値するものである。
大正デモクラシーを牽引した人物として忘れてはならないのは,吉野作造(27)
と福田徳三(28)であろう。吉野は,「海老名弾正の影響のもと,ヘーゲルの法哲 学や歴史哲学の研究」(山脇2004 : 101)を起点に,「吉野自身,『イギリスの 政治学』に対する親近感を語っている(「本義」論文)が,彼の政治学には,
おそらく彼の意識せぬ所で,J・S・ミル,T・H・グリーン,ホブハウス,E・
バーガーら,一九世紀後半から二〇世紀前半にかけての英国自由主義の一連の 思想家・学者の政治理論に通じる思想が見られる」(松沢1996 : 311)。また,
「ルソー型の人民主権を非現実的とみなし,政策決定は民の意向に沿ったかた ちで有能なプロの政策立案者が行い,それを選挙によって民がチェックすると いう民本主義をとなえた」(山脇2004 : 101)人物である。福田は,吉野と談 合のうえ,1918(大正7)年,黎明会(29)を結成している。福田の思想は,「シ ュタイン的な『国家−社会』観の意味内容をなかば逆転させ,『社会』を『人 格的なものが自己実現のために非人格的なものに対抗する運動の場』としてと らえ,その運動による要求を『国家』が承認するという『社会−国家』観を打 ちだした」,また「人々の『生存権確保のための戦いとその制度的承認』」(山
脇2004 : 104)を重視するものであった。
労働組合運動で知られる鈴木文治は,1912(大正元)年,友愛会(30)設立して いる。友愛会は,「『社会主義』を目標とするものではなく,労働者の『品性の 向上と知識の発達』をはかるための一種の修養会として発足している」。ま た,鈴木自身の自伝『労働運動二十年』(1937)において,「キリスト教の感 化,青年時代からの窮乏の生活体験,社会制度の理論的研究による現在の社会 制度の不合理性の自覚」(生松1971 : 127)と言及している。従って鈴木自身
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の思想も「私も社会改良主義を妥当なものと信じ,社会主義は痛快であるが,
要するに一種の空想に外ならないと思ひ込んだ」(鈴木1937 : 51)とあるよう に,あくまで資本主義の枠内で考える社会改良主義の立場であった。
大杉栄(31)による労働者の自立・自治を企図したアナルコ・サンディカリズム もこの期にみられるようになったものである。大杉は,「思索人」(『近代思 想』1(4))において,人類の発展を「動物人」(原始的な本能のままに生きて いる人間),「機械人」(「思想という力強い光と其の個性の自覚」を持つに至っ ておらず,意志し行為する勇気まで失い,規則,制度,習慣などの重荷の下に 圧しつぶされている),「思索人」(「理知の純化が,鉄火に遭ふ度に益々鍛錬せ られて,不断の闘を闘ひ」,しかもその間にかれらの柔軟さとを保っていくも ので,超人ともいえる「近代人」)の三段階 で と ら え て い る ( 中 村1971 : 180)。ここには,自らの労働運動の進むべき途をみることができる。また,加 藤博史は,大杉の労働者観を,
「生は永久の闘いである。自然との闘い,社会との闘い,他の生との闘 い」,「闘いは生の花である」と叫び,その力と生気とを労働者の中に身も 心も打ち込む中から汲みとっていきたいと願い,労働運動の目的は単に賃 金の増加と労働時間の短縮を要求するところにとどまるのではなく,専制 君主たる資本家に対して奴隷の生活から自らを解放すること,自分の手で 自分の運命と生活を決定するところにあるとし,「労働運動は労働者の自 己獲得運動,自主自治的生活獲得運動である。人間運動である。人格運動 である」(加藤博史2008 : 176)
と言及している。大杉は,「生」と「闘」のもと,人間存在そのものへの問い をなげかけた運動家であったといえるだろう。サンディカリズム(Syndical- ism)について,大林は組合主義として詳述している。大林の理解するサンデ ィカリズムの提示の意味で,以下引用したい。
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それが政治的国家及び資本主義制度を認めない点に於て,矢張り共産主 義及び無政府主義と同様である。所がこの主義の特徴とする所は,労働階 級を総ての社会組織の基礎に置くといふ点に於て共産主義とも稍や趣きを 異にして居る,即ち労働者同志の職業に就てそれぞれ組合(サンヂィカ ー)を作り,それを以て社会組織の根底となす,随つてその単位は労働者 の職業組合であつて,現在の労働組合には自由労働者や或は農業労働者其 他の特殊労働者は加はらないのであるがサンヂカーには凡ゆる職業の労働 が加はるのである,…サンヂカリズムの直接目的とする所は資本主義的経 済組織と政治的国家を□□□□することであります,しかしその間接の目 的はそれによつて来る所の新社会を樹立するといふことにあるのでありま す。随つてその目的は□□□□といふことである点に於て彼等は過激な手 段即ち直接行動を執るといふことになる,…サンヂカリストは国家とか議 会とかに依つて作られた法律といふものを認めず,従つて其の力を籍らず 組合が直接行動によつて社会を改革して行かうといふのであります。…し かし無政府主義は組合組織の必要を認めない点に於てサンヂカリズムと違 つて居ります。…サンヂカリズムは必ずしも同業者の組合でない。苟くも 労働者であれば誰でも加入する事が出来る。尚ほこのサンヂカリズムの特 徴は近頃左傾的労働者の間に唱へられて居る如く智識階級の運動を必要と しない,…所謂智識主義の反対,智識階級の倒壊といふことを主張して居 るのである,故に研究などを職業にして食べて居るものもサンヂカリズム から排斥される訳であります。…マルクス主義は現代資本主義の自然的倒 壊を待つのに対してサンヂカリズムは直接行動に依って積極的に之を倒壊 せしむるのである。即ち楽観と悲観との相違がある。このサンヂカリズム は佛国に於て根拠を得今日では各国に及んで居りますがサンヂカリズムの 思想は英国に於て播かれたものはギルド・ソーシアリズムの先駆をなし,
米国に於てはI・W・Wともなつて居る。(大林1924 : 109−11)
大林は,上記のように,無政府主義との比較,マルクス主義との比較等,極
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めて厳密な分類に努めていることがわかる。その上で,自らが研究者である立 場性も踏まえてか,「研究などを職業にして食べて居るものもサンヂカリズム から排斥されるわけであります」とも自らの立場についても暗に表明してい る。大林の思想との連関について考えた場合,白樺派にみるユートピア思想,
吉野のデモクラシー,鈴木の労働運動・社会改良の思想とは,親和性が高いも のといえる。一方で,大杉とは距離があることがわかり,また,福田の生存権 思想等については,現時点ではその影響について資料等から,はっきりしない ように思われる。
次に,大正期の一つの特徴として「文化主義」をあげることができる。この ドイツ理想主義哲学の影響を受けた文化主義は,まさに民衆の時代にふさわし いものであったといえるだろう。この「文化」(32)については,桑木厳翼(33),左 右田喜一郎(34),土田杏村(35)らによって,活発に議論された。桑木によると,
「『文化』とは『人格ある人としての総ての能力を自由に発達せしめること』で あり,『文化主義』とは『此文化を以て生活の中心とする思想』である。『文化 の基礎を為すものは人格的自我観念であって,結局其根柢に於て一種の主観的 哲学が形成されて居る』,その『根柢』の有無が『文化』と『文明』の区別の 基礎となる」(生松1971 : 90)と述べられており,また,左右田は,「与えら れた自然の事実を『或一定の規範に照し之を純化し,究極に於て其の理想とす る所を実現せんとする過程の全体』が『文化』であり,『人文史上の凡ゆる努 力に対して其の目標となり得るもの』が『文化価値』,そして『文化価値の内 容的実現を布図する謂はば形而上学的努力』が『文化主義』である」(生松
1971 : 93−4)としている。このように,「文化」が大きく注目されたことは,
特筆すべきことであるとともに,大林への影響を考えた際も,その傾向は顕著 に見られる。例えば,大林の社会事業理論における対象設定における枠組みか らもそれが確認できる。大林は,対象となる社会問題を次のように表してい る。
―41 ―
一,労働問題 狭義の社会問題
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二,婦人問題
三,文化問題 (大林1924 : 8)
実際,大林の社会事業にかかわる研究業績を分類すると,この三つの領域に 分類することが可能である。仮に大林の単著だけを分類すると,漓労働問題と して,労働者教育を扱った『ソーシャル・セッツルメント事業の研究』,『セッ ツルメントの研究』,滷婦人問題として,『女給生活の新研究』,『幼児保護及福 利増進運動』(大林は児童問題も,婦人問題の一つとして考えないと解決をみ ないとの立場性がみられる),澆文化問題としては,『民衆娯楽の実際研究』,
『東亜共栄圏の厚生文化政策』のように分けることが可能である。
また,大林は,『セッツルメントの研究』において,次のようにセツルメン ト思想を定義している。「個人的接触を通じて労働者階級の物質的並に精神的 要求を満たし且つ彼等に教育の機会を与えて自発的に自己の文化を創造し自己 開発をなす人格を作らしむる事である」(大林1926 a : 15)と。この文化につ いてであるが,大林は「『革命的無産階級文化』の主張するが如く,労働階級 の文化は資本主義制度の倒壊の為めの戦闘的文化でなければならず,…とする 行き方とも亦其の趣を異にする」(大林1926 a : 7)と,特定のイデオロギー に基づいた文化ではなく,あくまで,「人間的生活に必要なる科学的知識を獲 得する機会を与ふる社会教育である」(大林1926 a : 8)との立場である。こ のように,「文化」という概念は,大林自身,極めて大切にした要素であった といえる。しかしながら,最終的にはファシズム政策の一翼としての「文化政 策」へと嵌入するに至り,負の遺産を築くこととなった。
最後に,社会主義の台頭を上げることができる。長谷川如是閑,河上肇はヒ ューマニズムの視点から鋭く社会問題を指摘した旨を,既述したが,本格的に マルクス主義の導入が見られ,唯物史観と階級闘争が浸透する。その結果,山 川均(36),櫛田民蔵らによって,人道主義・デモクラシー・文化主義は徹底的に 批判されることとなった。山川の「沙上に建てられたデモクラシー」(1917),
―42 ―
「吉野博士および北教授の民主主義の不徹底を難ず」(1918)等の論文は,大山 郁夫の民主主義論・吉野作造の民本主義に対して展開された批判の代表的なも のであった。加えて,山川は「無産階級運動の方向転換」(1922)において,
「これまでの社会主義運動,労働運動の反省から,『大衆の中へ』という『方向 転換』の必要を提起したもので,直接的にはサンジカリズム的傾向の打破と在 来の『観念的な革命主義』からの脱却」(生松1971 : 164)を主張している。
所謂,山川イズムとしてのマルクス主義である。このように,大正期は,ある 程度の範囲内であれば,社会主義を含め比較的自由に思想展開が許容された時 代であった。しかし,昭和の声をきくと,再び左傾思想に対する弾圧が加えら れるようになる。1928(昭和3)年の「三・一五事件」においては,大量の検 挙者がでることになった。そして,翌年の世界恐慌は全世界の資本主義経済の 脆さを露呈することになる。いよいよ,敗戦に向けて昭和という混迷の時期に 突入することになっていくわけである。また,1930年には,野呂栄太郎が
『日本資本主義発達史』を刊行。社会主義内部においても,労農派と講座派に よって激しい論争がなされることになる(日本資本主義論争)。このような時 代背景のもと,大林自身の思想にも変化が見られる。1928年あたりの論文か ら見られるマルクス主義に依拠した論旨の展開である。この点については,第 蠶章第2節において,改めて論じることとしたい。
蠱 大林宗嗣の思想基盤
(1)フランス啓蒙思想とイギリス功利主義の理性
大林のセッツルメントに関しての記録として,最も古いものは,1919(大正 8)年4月12日開催の第70回救済事業研究会に於ける講演録と考えられる。
その講演録は,『救済研究』7(4)〜7(5)及び廣池千英旧蔵の手書きノートと して残っている。大林は,1918(大正7)年12月下旬にシアトルから帰国 し,翌年の2月に大原救済事業研究所の所員として着任。実質の準備期間が,
2ヶ月弱しかないことからも既に,在米時から研究の蓄積がなされたものと考
―43 ―
えられる(37)。大林は,セツルメントの既存の定義(38)として,J・アダムズによ る「セッツルメント事業は,民本主義に社会的機能を与える努力なり」と紹介 している(大林1919 a : 21)。そして『ソーシャル・セッツルメント事業の研 究』においても,「今後我国の社会的発展は,唯物観的労働主義の高調に待つ よりも寧ろ民主的精神の普及にある」,「セツルメント事業は労働問題を一歩越 えた,広い意味に於ける恒久的文化運動であり,且つ社会的生活の基礎を固う する民主運動である事を信じて疑わぬ」と主張している(大林1921 : 44)。こ れらより,セツルメントの重要な思想的概念として,民本主義(39)を位置づけて いることがわかる。
更にセツルメントの思想的系譜について,「十九世紀初頭に於けるヨーロッ パの民主々義運動に其の思想史的背景を有するが故に,従つて又それは十八世 紀の『自由思想』に負ふていると見なければならない」と,フランス啓蒙思想 家(40)とイギリス功利主義者(41)にその思想的源流を求めている(大林1926 a : 276)。啓蒙主義に代表する「理性」は,歴史的にはジャコバニズム(42)が,暴力 主義へと滑りこみ恐怖政治を招聘した(岩岡1990 : 41−2)。しかし一方で,
「理性」は封建社会を打破し,個の解放や「自由」の獲得を促した。ルソーは
『社会契約論』(1762)第一章の冒頭に,「人間は生まれながらにして自由であ るが,しかしいたるところで鉄鎖につながれている(43)。ある者は他人の主人で あると信じているが,事実は彼ら以上に奴隷である」と言及,抑圧された社会 構造を象徴的にあらわしている(Rousseau=1943 : 232)。大林に影響を与えた 人物に,ロバート・オウエンを挙げることができる。白井厚は,「オウエンは 住民の自主管理の夢を抱いていた。協同体構想自体が中央集権への抵抗を示す が,それだけでなくオウエンはゴドウィンのアナキズムの影響を受け,私有財 産・宗教・結婚制度を悪の三位一体として批判しただけでなく,個人による判 断(Private judgement),精神的独立を強調した」(白井1989 : 178)と述べて おり,また大林自身,オウエンの『社会に関する新見解又は性格構成の原理並 に其の原則の実際適用論』における訳者序言にて,
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彼れの社会批評の根柢をなしてゐる処の−「人と人の間の相違はその環 境の相違から発生し,環境の諸事情は直接人類の統制の下にある」と云ふ 思想は既に千七百六十二年に佛国に於てはルーソーの「社会契約論」に於 て現はれてゐ,更に又トマス・ぺーンの「人間の権利」は千七百九十一年 に出版されて居り,またウヰリアム・ゴドウヰンの「政治的正義」は千七 百九十三年に出版されて居る…之等の諸名著を見遁がしたであらうと想像 することは極めて困難なことである…ボドモアーがゴドウヰンの「政治的 正義」中の数節を引照し来つて,オーウエンの本書中の字句と其の符節を 合する点を指摘し…(大林1926 : 10−1)。
上記からもわかるように,オウエンにゴドウィンの思想が流入していること を指摘できる。従って,このことは,ゴドウィンの思想が大林自身の思想とし て吸収されていったことの証左でもある。そしてこのゴドウィンの思想が,次 節のロマン主義にて言及するコールリッジとともに,理性と想像力を架橋する 人物であると考えられる。白井の『ウィリアム・ゴドウィン研究』より,長文 になるが,ゴドウィンの注目すべき思想的側面について引用しておくこととす る。
かくしてロドウエイは,ゴドウィンを理性と感情の両面を備えた動きの 頂点として把える。何故なら,彼以後,理性と感情は分裂し,功利主義は 感情を否定して官僚政治へ,ロマン主義は理性を棄てて狂信へと進んだと 考えられるからである。だが彼を理性と感情の両面を持つというだけで は,問題は解決しない。確かに,彼は功利主義者の中ではロマン派との結 合の頂点に立つし,そこに象徴されるように,近代的個人の形成を推し進 める面と,これに鋭い批判を浴びせる両の二重の論理構造を持つのであ る。けれども,これを理性と感情として処理することは,やはり単純に過 ぎるといえよう。この二つは功利主義の内部においてすでに複雑な問題で あり,それがゴドウィンの中にもつれ込み,彼以後,ミルやシジウィック
―45 ―
でも重要なのである。ゴドウィンの場合は理性的だとしても,功利主義は 元来がブルジョア的人間像の成熟を背景とする感覚的な人間把握である。
それは, 考える前に先ず感ずる ルソーの流れを汲み,形式的合理性に 反発したロマン派の感情とは異質のものであった。功利主義とロマン派が 真に対立する点は,単なる理性と感情ではなく,ブルジョア的人間観と,
それへの反抗においてであった。(白井1964 : 223−4)
このようにゴドウィンの思想においては,功利主義的側面とロマン主義的側 面が共存することが指摘されている。但し,安易な理性と感情の統合と認識す ることには慎重さを要求されるものではあるが…。このことは,J・S・ミルに おいても『ベンタム論』と『コールリッジ論』として現れるところである。つ まり,功利主義も,ロマン主義も,各々の一面性だけでは不十分であること,
従って,統合化の方向性を模索していたということは事実であろう。トマス・
ペインやウィリアム・ゴドウィンにみる「理性への絶対的信頼」とラディカル な側面は,フランス革命の理論的支柱となったルソーとともに,セツルメント の思想的源泉であった。そして,これらのことは大林自身の思想として消化吸 収されていくものでもあった。ロマン主義については,次節にて詳述すること とし,ここでは,啓蒙思想と功利主義からの大林への思想及びセツルメントへ の影響(大林が理解するところのセツルメント)を押さえるに留めたい。ま た,大林の思想と,セツルメントへの影響は分けて考えるべきであるとの批判 も予想される。この点については,大林は,大林が理解するところのセツルメ ント観を媒介にして,自らの思想形成を図っていった経過がある。従って,本 論文におけるセツルメント観は,原則として,大林が理解するところのもので ある。
(2)ロマン主義詩人としての感性と想像力
大林は,ルソーに「理性」だけでなく「想像力」の発露を見出している。そ れは,ルソーの影響について,コールの「カントの道徳哲学並にヘーゲルの法
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律哲学に與へた彼の感化は近代思想に與へた根本的貢献の両面である。実際彼 はドイツ並にイギリスのアイデアリズムの偉大なる先駆者である」,「彼は充分 藝術,文學,及び人生に於けるローマンチック運動の親と呼ばれ得る。彼はド イツのローマン主義並にゲエーテ自らに深刻なる影響を與へた」旨を引用して いることからもわかる(大林1926 c : 277−8)。実際,ルソーは『孤独な散歩 者の夢想』(1782)の「第五の散歩」において,「ビエーヌ湖の湖畔はジュネー ヴの湖畔にくらべるといっそう野性的でロマンチックである」にみるように,
フランスロマン主義の父(44)でもある。
また,大林はロマン主義詩人にも深い造詣(45)があったことから,ルソーの影 響が「佛國革命の影響を受けて深く自由思想に共鳴してゐた哲学者にして詩人 なるコルリツヂSamuel. T. Coleridgeは其の華麗なる詩に依って當時の青年及 び学生の若い感情を刺戟して少なからざる感化を與へてゐた」とコールリッジ にみられることを指摘している(大林1926 a : 76)。そして,セツルメント思 想の直接的指導者であるトマス・カーライル(46),ジョン・ラスキン,ジョン・
フレデリック・デニスン・モリス(47),チャールズ・キングスレーらに,このコ ールリッジによって与えられた感化が少なくないと主張している(大林1926
b : 76−7)。田村によると,コールリッジは想像力を「『理性と悟性を仲介する
シンボルを理想化する能力である』といったが,想像力の観念の象徴的表現は おそらく何よりも,ロマン派たちが想像力に対してなしたものであった」(田
村1997 : 226)。そして,この「象徴」という鍵概念についてであるが,イギ
リスへは「コールリッジやカーライルを通じて浸透していった。カーライルは ゲーテを象徴主義者と考えたが,コールリッジは直接ゲーテの影響は見られ ず,むしろカント,シェリングから影響を受けた」(田村1997 : 289)。このあ たりについて,大林に誤認があるようである。つまり,大林はドイツ観念論の 影響から生成されたロマン主義が,コールリッジをすべての基点に伝播したと 考えているが,厳密には,コールリッジとカーライルの二つのチャンネルであ ったわけである。注(46)の点について,補足しておくと,向井もいうように
「コールリッジは,ドイツ文学・哲学の思想を共有する点で,カーライルにと
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っては最も重要な人物であろう」(向井2002 : 196)ということは確認でき る。そして,『ジョン・スターリング伝』(Life of John Sterling, 1851)にもあ るように,カーライルは確かに,コールリッジと面会の機会をもってはいる。
しかし,向井によると,その内容は肯定的なものといえない(カーライルの人 物評はそもそも,酷評に近い辛口のものが多い(48)のは事実であるが)。その部 分を以下引用すると,
カーライルの見るところでは,コールリッジは理想的な詩人としての資 質を十分に備えておらず,「その人生は抽象思考と夢想と理想主義であっ て,消滅した肉体とまだ生まれていない肉体のその幽霊の中を通過してき た」にすぎない。もう一つの致命的な欠点は,「苦痛と恐怖に立ち向か い,かなたにある信仰の新たな大地を目指して砂漠を決然と横断する」勇 気が欠如していたことである。(向井2002 : 196)
このようなカーライルのコールリッジの人物評を鑑みると,思想的な影響は 受けていないものと考えられる。従って,このドイツ観念論に影響を受けた思 想は,コールリッジとカーライルの二人を経由していくことになる。この点に ついて,更に補足しておくと,河合榮治郎が次のように言及している。
理想主義のために,進路を開いたものがある。コールリッヂ,カーライ ル及びラスキンは,その代表的なるものである。彼等は或はコールリッ ヂ,カーライルの如く経験論の認識論に反対の指をそめたけれども,主と して力を傾けて反対したのは,功利主義の倫理観であった。物又は快楽は 夫れ自身価値あるものではない。他の価値あるものに従って,価値付けら れるに過ぎないことを述べて,心霊の成長を以て最上の尊厳を有するもの だとした。(河合1938 : 72)
河合の言及からもコールリッジとカーライルの二人に着目していることが確
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認できる。つまり,コールリッジ経由で,J・F・D・モーリスへその思想は継 承され,カーライル経由で,ジョン・ラスキン,チャールズ・キングスレーに 継承される。この段階がセツルメント誕生前夜とでもいえるであろうか,トマ ス・ヒル・グリーンにそれらの思想が注入されることになる。同じく河合によ ると,「彼は少年時代を顧みて,知己とも云ふべき恩師を求めることが出来な かつた。唯散漫な読書を漁るより外なかった。当時彼れの愛読したのは,フレ デリック・デニソン・モーリスの神学の本であり,カーライル,キングスレー であつた」(河合1938 : 116−7)と述べているが,グリーンは少年時代という 重要な思想形成期にそれらを吸収するに至ったわけである。そして,ジョウェ ット博士とグリーンの感化を受けたのが,アーノルド・トインビーということ になる。大林は,「其の思想及び主義に深く動かされた結果彼の人道主義的資 質が一層刺激されて益々其の色彩を明かにした」(大林1926 a : 117)とグリ ーンの感化が,セツルメント運動を歴史に刻みこむ人物となったトインビーを 開花させたと言及している。
加えて,大林はトインビーとロマン主義の連関を決定づける根拠として,次 のように主張する。トインビーの父ジョセフについて,「彼は其の長子を湖畔 詩人の名に従つてワーヅワースの名を與へ,第二子を詩人マシュー・アーノル
ドMathew Arnold父子の名に従つてアーノルドと名づけ,長女にコルリッヂ
の名を與へた」,「その子供等を伴つて花束を持ち貧民窟を訪れる事は陷々見る 事であったとガートルード・トインビー嬢Gertrude Toynbeeは云つてゐる。
けれども不幸にして彼等の父はアーノルドが十四歳の時に他界した。此の事は 子供等に取って極めて大きな打撃であったとは云へ此の高い父の理想はアーノ ルドに依って実現された」と詩人的豊かな性格をもっていたと述べている(大
林1926 a : 119−20)。それでは,このロマン主義のいかなる側面がセツルメン
トに重要であるのか。ロマン主義とは「高き理想への挑戦であり,未知への冒 険であり,夢と希望の追求」であり(岡地1989 : 35),そして詩人とは,シェ リーがいうように,「時代精神を映す巨大な鏡」であって(木原2001 : 53),
「時代精神を直観的に把握しその変革の方向を指し示す詩人こそが時代と歴史
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の導き手」であった(岩岡1990 : 149)。このような詩人の霊感,そして詩の 象徴としての「想像力」が,セツルメント思想に内包されるということは,ま さに,その理性としての民主的枠組みに,超理性的な霊という息吹をふき入れ ることになるわけである。これはある意味,人間という被造物が造られた過程 そのものと考えられる。つまり,セツルメントという実践的施設を血の通った 人間的な尊厳性のあるものに,形づくる作業そのものであったといえるのでは ないだろうか。そして,このようなセツルメントの本質に,大林自身の思想が 投影されることで,大林自身のセツルメント観も形成されていったものと考え る。
このような,ロマン主義のセツルメントへの連関を間接的に言及しているも のとして,柴田善守のボランティアとロマン主義運動に関する指摘がある。
十八世紀後半のアメリカ合衆国の独立とフランス革命は,身分制社会か らの解放を目的とするこの時期のヒューマニズム運動の表現のひとつであ り,この路線上に十九世紀前半のロマンティシズム運動は展開する。(柴 田1985 : 54)
COS運動の友情訪問friendly visiting,セツルメント活動における友愛
関係friendly relationshipと,いずれも友人となることを目的としているの
であるが,そのいずれもが主体となって行動するのは市民であり,市民と して社会からの脱落者の友人となるところに大きな特色があり,ここにボ ランティア活動が発生するのである。…十八世紀の後半から十九世紀前半 にかけて,アメリカ合衆国の独立,フランス革命,南アメリカの諸国の独 立,ギリシヤの独立などに参加する義勇兵がボランティアといわれ,当時 のロマンティシズム運動の一面をあらわしている。(柴田1985 : 68)
この柴田の説明より,18世紀後半の「個の解放」としてのヒューマニズム 運動は,19世紀前半のロマン主義運動の展開と同一線上にあること。そし て,ボランティアの語義の一つに,その起源をロマン主義運動に求めることが
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できること。また,そのボランティア活動の起源の一つを,セツルメントの友 愛関係の担い手としての市民の主体的活動に求めることができることを確認で きる。従って,セツルメントの友愛関係の活動の中に,ロマン主義運動の息吹 が存在していることを確認できるわけである。
(3)「宗教と科学」の調停
大林は,シアトル日本人美以教会の第三代牧師であって,キリスト教を信仰 していた。そして,海老名弾正(49)との親交を持っており,自由主義神学の影響 を受けている。その傾向は,特に帰国後,顕著にあらわれている。大林は,
「私達は神様を研究の道具に使つて研究してゐる時代ではない。今少しく宗教 家としては深く立ち入つて,神の現代社会に対する旨を探り知らねばならぬ時 代であると思ふ。貧富の懸隔の生じた原因は神様と共に研究せぬとも人間丈け で充分分かる,一見して資本主義の弊害たる事は明瞭である」(大林1920 : 20)と述べている。この一節より,社会問題の中でも,最も顕在化している貧 困問題に対して,大林が資本主義という社会構造を問題視していること,及び その研究に際して,道具として神を用いるのではなく,ある種の社会科学的方 法(この段階ではマルクス主義は採用していない)で事足りる旨を主張してい ることがわかる。そのことは,大林が「科学」を強く信仰していたことにも通 じている(50)。
当時の思潮として,加藤弘之がハーバード・スペンサーの社会ダーウィン主 義を吹聴していた。そのことも少なからず影響していたと考えられるが,大林 は極めて進歩的であった。例えば,1924(大正13)年の段階における大林 は,人道主義の立場であり社会主義には未だ懐疑的であった。そのことから,
「資本主義制度の齎らした功果も吾々は決して没却することは出来ない,資本 主義制度は實に今日の燦爛たる文化を生み,凡ゆる物質文明の進歩を促がして 来て居る」といった社会観をもっていた(大林1924 : 128)。このことは,先 の引用と,矛盾する様でもあるが,社会主義者にみられるような全否定の立場 ではなく,資本主義がもつ肯定的な資質に対しても一定の評価を下した上で,
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弊害に対してはその問題解決を積極的にはかる(事後救済的でなく,予防的 に)といった大林の社会改良的側面の表れといえよう。このような進歩的な大 林の特徴として,科学への無批判的採用をあげることができる。このことは,
新マルサス主義にも否定的ではなく,むしろ「私の主張するのは無産者,労働 者の避妊を勸告し,有産者,又は子孫を養育し得る俸給生活者に対しては避妊 が不道徳である事を確説するのを憚らない」と積極的に賛同していることにも うかがわれる(大林1921 : 3)。ここには当時,科学として考えられていた優 生学(eugenics)への無批判な受容があり,そしてそれは「性格の遺伝」や
「優良種保存」といった観念に根差したものとなっている。また,このこと は,後の堕胎研究にみられる「堕胎への是認」(積極的導入)といった発想に も通ずるものである。このように本来は,キリスト教では容易に受け入れ難い 科学的知見に対しても,奇妙なまでに共存関係を保っている側面も見受けられ る。
蠶 歴史的舞台としての大原社会問題研究所
(1)英国社会思想への接近
大林の社会事業思想において,大原社会問題研究所(以下,「大原社研」)が 与えた影響は,極めて大きいものであった。大原社研への着任は,高田慎吾(51)
の推薦によるものであった。1914(大正3)年,高田は,東洋大学で社会事業 の講座を担当しており,アーノルド・トインビーの説明も行っている。セツル メントを志そうとしていた大林にとって,高田は刺激のある人物であった。
また,大原社研の所長は,社会政策で著名な高野岩三郎であった。そして,
岩三郎の兄の房太郎は,キングスレー館を設立した片山潜と知己の関係にあっ た労働組合運動の先駆的人物である。岩三郎自身も社会問題解決を労働者自身 の手による労働組合,消費組合の発展に求めた(生松1971 : 130)。岩三郎は 統計手法に精通しており,大林にとって社会調査への接点となった。それは,
『民衆娯楽の実際研究』や『女給生活の実際研究』へと繋がっていくことにな
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る。大原社研では,岩三郎が中心に,マルサス『人口の原理』,シドニー・ウ ェッブ&ビアトリス・ウェッブ『産業民主制論』(52)を,大内兵衛がJ・S・ミル
『婦人解放論』(53)の翻訳作業を行っている。
このように大原社研は,極めてイギリスの思想を研究していく上で,恵まれ た職場環境であったといえるだろう。このことは,主にアメリカでの経験に依 拠してまとめられた『ソーシャルセッツルメント事業の研究』から,よりイギ リス労働者教育の立場が強調されることになった『セッツルメントの研究』の 成果を一瞥すれば確認できる。
最後にカリスマといえる人物,大原孫三郎を付言しておきたい。孫三郎は,
日本のロバート・オーエンと呼ばれ,石井十次の遺志を継いだ類まれなフィラ ンソロフィストであった。彼自身,実際に「オーエンに傾倒して理想的な産業 社会を夢みた」ことで知られる(法政大学大原社会問題研究所1971 : 2)。大 林はオウエン研究者としての側面ももっており,『社会に関する新見解』
(1926)の翻訳書を刊行している(同研究所内の森戸辰男も『オウエン・モリ ス』(1938)の研究をしている)が,このことは,大原孫三郎の影響は少なく なかったと考えられる。このようなイギリス研究への環境からの導きは,大林 の研究に大きな活力を与えるものであったといえるであろう。
(2)フェビアン主義からマルクス主義へ
1924年の段階では,大林は人道主義の立場にあり,社会主義には未だ懐疑 的であったことについては先に述べたとおり。しかしながら,次第にフェビア ン主義そして,マルクス主義へと,科学的社会主義へと舵を切ることになる。
大原社研においては,森戸,大内,櫛田民蔵,久留間鮫造によって,カール・
マルクスの著作が次々と翻訳されている。
大原社研内の社会事業部門は実質,高田と大林の二人であたっていた。その ような状況下,1927(昭和2)年7月5日に高田慎吾は病死することになる。
1927年7月9日,森戸は弔辞で「社会問題と対立した或は交渉のない救済事 業としてゞはなしに,社会問題の一部としての社会事業として理解されんとし
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てゐるのであります。社会問題は一面からいへばヨリより社会への闘争に伴う 問題である」(森戸1928)と述べている。これは研究所の方針が,人道主義で はなく,階級闘争を前提にした社会主義(特にマルクス主義)であることの宣 言と読み取ることができる(54)。その動向は,1924(大正13)年7月『改造』
にて展開された櫛田民蔵の河上肇批判の論文「社会主義は闇に面するか光に面 するか」の論文が暗示しているかのようである。そこには「カーライルやラス キンの人道主義は実は封建的・反動的・観念論的な立場からの資本主義経済倫 理の批判にすぎず,マルクス=エンゲルスの科学的社会主義とはなんの関わり もない」との断言がみられる(生松1971 : 147)。この批判は,直接的には河 上に向けられたものであるが,しかし,その批判に込められた本質は,河上だ けに向けられたものではなく,ヒューマニズムに依拠した社会改良主義全般に 向けられたものであって,大林も例外ではなかったわけである。この後,河上 はマルクスを崇拝するようになるが,若干遅れてではあるが大林もマルクス主 義に傾倒していくこととなった。
蠹 結語にかえて
歴史的思潮や時代精神からの投影,自らの思想的中核となったセツルメン ト,そして職場環境としての大原社研,これらとの交互作用によって,大林の 思想は形成され,更なる発展を遂げていったものと考える。イギリス・ロマン 主義に詩人として親しんでいた素地,イギリスの社会思想への接近。そのこと で,ルソーの思想と功利主義が,コールリッジを媒介にセツルメント思想に流 入していったとの指摘に至った。それは,セツルメントに結実する過程での
「理性」と「想像力」の統合を予期するものであった。
今後の課題であるが,大林の思想におけるフェビアン主義への傾倒から,階 級闘争・唯物史観といったマルクス主義への思想変遷と大林社会事業理論との 関連について,また,戦時下に埋没することになった文化政策について,深め ていくこととしたい。
―54 ―