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近代中国における師範教育の展開 : 清末から1948年 までを中心として

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九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

近代中国における師範教育の展開 : 清末から1948年 までを中心として

崔, 淑芬

九州大学文学研究科史学専攻

https://doi.org/10.11501/3110806

出版情報:Kyushu University, 1995, 博士(文学), 課程博士 バージョン:

権利関係:

(2)

../� .- /、.

líド._:_ï丙rljI

これまで、 清末から民国初期]にかけての11'13�ln,1口組数121;の治111立を述べてきたり つまり" 1 H 97年に設立された南洋公学の自,11範院から民国のltU年代までであるが、'IJI-iJlirliW包括{脊の発J1.

と変動の歴史は次の3期に分けられる。

第一期は、19世紀末から20世紀初頭にかけて卜|本の制度をモデルに近代学校制度が導入 され\ 師範学堂が創立された時期である。

第二期は、1922年、 アメリカをモデルに6 ・ 3 ・ 3制が導入され\ 師範教育が整備され た時期である。

第三期は、1932年以後、三民主義教育を方針とし\自iji範教育が再び独立し、1�'lj範教育が 完備した時期である。

この3期における中国師範教育の沿革を次表の通りである。

-吋門付 成

一一所養

習口貝

一 例語 教 一線 一 業 学 一 訓一実小 一 育一

所 科

科所

習 習 修習

伝班講専講

湖 一

範備範範範

師予師師師

(表1) 中国自[11範教育機関沿革表

1904年

|

高等師範教育イ憂級師範学堂

( 4年)

1922年

師範専修科(2年)

1932年

師範学院

( 5年、 後4年)

中等師範教育 初級師範学堂

( 5年)

師範学校(6年) 後期師範学校

(2

3年) 師範学校( 3年) 郷村師範学校

( 3年)

教員専修班

簡易師範学校 ( 4年) 簡易郷村師範 学校( 4年) 幼科師範科

( 2

'"'-'

3年)

特別師範科 ( 1年) 簡易師範科 ( 1年)

資料出源 : 李友芝ら r中国近現代師範教育史料 第二冊J 北京師範学院 1983�ド

陳元町 r中国近代教育史資料匪編J 1986年

つまり、 中国における最初の近代的師範教育機関は、1897年に設立された南洋公学師範 院である。 この\ 近代学校制度の導入に伴い\ ボ師大学堂iこ速成科としての師範館が附設 されることになったが、 ここまでの師範教育は単級的であった。 1904年に制定された「奏 定学堂章程Jによって、師範学堂が正式に設立されることとなったr 師範学堂は\ 初級及

円〈υ Aq Qノυ

(3)

び優級の2種から成り、初級1}li範学':止は初等教員の長成をけ的とし、lU4232小,、t':;�.: /'f<.]と11.:セ 入学させる。{変級師範学堂は、ネVJ級IJ!li範学生以びII-I"Yでの卒業/とを人'γ:させ\ 初Jk:政r:lli;jむI\��:

堂及び中学堂の教員及び管理者を養成することをIdlJりとする1�!Iï範教育の以1"'Jヤ:}Úであるけ

この初級師範学堂と優級師範学立は、各段階における学:校|刑設の機関ではなく'- ��U ú:した 学校体系として開設されたのである。 この師範教育制は、 必く日本のlii[í範''f:校��IJJ支のJ12鮮 を受けた。 2段階の師範学校制度のみならず、 優級IJnia&学ifの教育桜紅も\ ノ作業後の設475 服務年限や附属学校の制度も\ 日本の師範制を模倣したのである。 また、Wi学λト;をrlノドに 派遣したり日本人教習を招聴したりするなど'- IJ本の自IÍJff&教育は中|王|の日Ilï範教育の創始以 開において相当な影響力を持っていたのであるQ

しかしながら、もう一つ注目すべき特徴は、日1'11範教育の内容には儒教の色彩が強く

「忠君J r尊孔」を中心とした封建的価値体系を固守する読経、 識経の11寺|出が4分のlを

占めていたことであった。 また教育課程は、 r 1-中-

君J r尊孔」 の儒教モラル注入のための教科iにこ\ 国家強j盛必に役3豆7:つとみられる近代的諸教

科を付け加えることによつて構成されたのであるO つまりは\ 日本の師範学制の外j支を 纏った中国独自の師範学制であったと言える。

1911年の辛亥革命\ 政治の変革は、教育の万針 -内容に大きな変化をもたらしたが\イLl し、当時の教育部には日本留学経験者が多く、 清末の学部からそのまま教育部へ転じた専 門家も多かったため、民国初期の教育制度も清末と同様、 白木の教育制度に組似した点が 多かった。 師範教育制度において\ 師範学校の名称上の変更が行われたものの\ ほとんど 清末の師範教育制度が踏襲されたのである。

第二期に入ると、1922年、アメリカをモデルに6 ・ 3 . 3制が導入された。 これによっ て中国師範教育の模範対象は日本からアメリカへと大きく変化してきた。 これは日本を模 倣した学制に対する徹底的批判の結果というよりも\ むしろデューイの訪華とプラクいマテ イズム教育思潮の盛行が契機となっており\ さらには、教育界のリー夕、、ーシップが日本留 学帰国者からアメリカ留学帰国者に移行したことが背景にあったと考えられる。

この6 ・ 3 ・ 3制をモデルとする新学制の中における師範学校は\ 中学教育レべ、ル(第

7 �12学年あるいは第10�12学年) " 師範専修科は短期高等教育レベル(第]3--- 14学年) 師範大学は4年制大学レベル(第13�16学年) ,こ位置づけられたのである。

このように転換してきたアメリカ型師範教育制度の特徴は、①師範学校\ 師範専修科\

師範大学・学院の3段階制、②中等教員養成の程度を高めて 大学レベルとし、 男女共学制 -244-

(4)

を実施し、自Ilí範と普通中学のの{)(:という改革をHtし進めたが" nIIJfì[�数f?の5:11\Î� I!�Lがうたわれ た 一一 点、が挙げられよう。

第三期の1932年以後になると、 '1':山川川:r川州rl耐Ií範学校1ι仏iム� I と r l'川川,]U川川:1川州|リ山Ií;印(信むUi品ぬ!l包γù

的な三民主義教育を万室針針十Aとし" 1-中ド|匡 国王耳|凶の実1情宵lにUこ斗j必じた教汗削|内什毛容千の改3故 攻(l 瓦 刈dι j を4わJ -)ている口 また(j 年制師範学校を廃止し\ 簡易自I!i範学校 \ 簡易自r!ifì(�12!を設ú人 また 組!�+j-nllia(�1'(:校をお!Ji/すQ

など、 師範教育体系の多様化が求められ、 教員の量的確似に重点が1l�I!iJ\れることとなるの である。 この時期は師範教育制度が最も完備されたl時期lであった。

この3段階の師範教育の沿712を見ると\ それぞれの11寺別において1 !I!I�!のr:lli範教育は制;余 曲折を経てきたことが分かる。自I!i範教育の歴史の流れを見ると\し|本からアメリカへの模 倣に終始してきたのが実情である。 制度が運用されるにあたり\ 次第比政的l(U I刻がそ に与えられて、 よく国家の要求に適応するという理組の域には達していなかったのであるり

この原因は様々であるが、 ここでは外国制度の模倣と111国国情との示刷、 および教育t.�貨 の2つの問題を取上げるとともに\ 現代師範教育改革の連繋を探り、 今|ゴの自di範教育改」巨 に お ける主な問題点と改革の万向を検討することとする。

師範教育改革に おる主な問題点

(-)外国教育制度の模倣と中国国情との矛盾

清末から民国40年代にかけての師範教育は\ 他の段階の教育と|斗じく\ 日本の学制から アメリカ学制の模倣へと流れてきた 。 確かに遅れた国が先進国に追いっこうとする場合\

必然、的に進んだものを模倣し、 これに学ぶという過程を経過しなければならない。 その|療 に最も重要な問題は\ 模倣したもの\ あるいは学んだものが\ 自分の国家の発展にとって 利益になるかどうかということであろう。

当時、 外国 教育制度の移植 にあたっての確固たる根本理念は「中休西用J (中学は体と

なす、 西学は用となす)で\ それは一時的な応急措置であり\ 政治的な要求でもあった。

そのため、 系統的な計画もないま ま、 外国教育の移植が計られた。 大局的に見れば、 専制 帝国の清朝が立憲、君主制に移行する過程で\政体の似た日本の教育制度に、 民主主義社会 を目指す中華民国が政体の似たアメリカのそれを模倣したのは、 合理的なことであった。

しかし当然のことながら、 中国の社会と\ 日本やアメリカなどの社会との間には大きな差 異がある。 陶行知は、 これについて次のように述べている。

- 2 4 5-

(5)

「最近の日本の統計によれば\ わがlji]民 人あたりのH�庄は{些か11本令1 () 11員|とな1 ているの ....日本の人あたりの!!�-ft_Æは し 7:5111.'11であて\ わがI.JIの1'1{内であるυ 米 国の一人あたりの財産は6,607!屋|で、 わが|五l民の65イ凸である。 似l併は筑iUしているとは いうものの、 それでもわが国の上位にあって\ 人あたり756慢しわがIII民のダf?とん ど7倍である。 それ故に、わが民族の第 __JiU路は『;宥める社会1の倉Ijjßにあり、 わが

国の教育の第二の進路は『人をして富める社会を創造せしむJ I (注j ) また、 陳青之は次のように論じた。

r 米国は世界で最も発達した工業資本主義IgJ�どであって\ 彼らの教育政策は|二l然、

工業技術の人材を成することをその趣旨とし、 彼らの教育制度は当然、この極の社会 的要求に適合している。 最も発達した工業資本主義国家の教育制度を\ 農村社会の が国に持ち込んで来るとは、 単に胃袋に落着かぬどころか\ まけ見当違いの突

を呑んでしまうような危険がある。 J

「中等教育は普通、 師範及び職業の系統に分かれてり、 さらに中を i直系とし\

師範と職業とを傍系としている。 こは封建主義と資本主義との混合制皮で\ 雌鳥で もな馬でもなく\ もしの制度が有力になった腕には、勢い必ず矛盾し社会

を形成してしまうに違いない 。 J (注2 )

まり、 外国のいわゆる洋式教育を模倣るにあたってれをれる社会条件が\ まったく無視されたことである。 すなわち、 いわゆる外来制度は\ 経済的-社会的基盤を

異にする中国社会には\ 結局完全に合致しなったことを指摘のである。

この外国の洋式教育は工商業的社会組織を基盤とし\ 学校は者r�市に集中することが特徴

となっている。 しかし中国は\ 数千年来続けてきた農業国家であって、80%以上の人々は 農民である。 そして、 社会組織 政治制度ど\ すて小農的経済秩序の基礎の上に立 いる。 農村では交通不便さらにその生活水準は都市と比べるとはい。 ば四川北部、 湖北西部、 あるいは奥山地や辺境に住んで、いる農民たちは\ 子供を都市の学

校に入学させることは想像できない。 ところが中国の学校、特に師範学校はほとんどが都 市に集中しているのである。

1948年の『第三次中国教育年竪』によると、 各師範大学・ 学院 ・ 専門学校の状況は以|ご の通りであった。

- 2 4 6 --

(6)

*国立師範大学・ 学院: 10t.k -北平師範大学(北京) -師範学院 (北京) -湖北師範学院(武 漢 市)

・南寧師範学院(南寧市)

・貴陽師範学院(貴陽市)

*省独立師範学院: 6校

-江蘇省立江蘇学院(南京)

・江蘇省立教育学院(南京) -安徽省 立安徽学院(合肥市)

*国立専科 師範学校: 4校

-国立康定師範専科学校(四川康定市)

・ 立体育師範専科学 校 (北京)

* 省立専科校 : 7

- 江西省立体育師 範 専科学校 ( 南 昌 市 )

- 四川省立体育師専科 学校(成都市)

・快西省立師範専科 学校 (西安市) -福建省立師範専科学校 (福州市)

-E己|問自J!î範学院(昆l射ïlJ)

・I)�北!j,li範学院(凶宏司j)

・女子師範学院(北京) -長l主l自rlï範学院(長春市) -社会教育学院(北京)

- 匹|川省立教育学院(成者r)Î 1]")

・il�北次子師範学院(保定市)

・|上|東省立師範学院(済南市)

-国立幼稚師範専科学校(北示)

・ 4立国術体育専科 学校(北京)

- 上海市立師範専科 学校(上海d]")

・ 遼寧省立師範専科学校(沈陽市) 半夏省立師範専科 学校(銀)11市)

注: ( )内は学校所在市

制料出所 : r第三次中国教育年竪』 第7節( r中国現代教育大事記J 1919... 1949

中国教育化学研究所編 教育科学出版社P . 623 '" 625)

以上まとめた師範大学 ・学院 - 専門学校からみると\ すべての師範教育機関は都市に存 在したことが分かる。1927年、 「生活こそ教育、 社会こそ学校」の趣旨に基づき、 陶行知 は暁荘師範学校としづ郷村師範教育の実践を積極的に行ったが\ わずか3年で閉校のやむ なきに至っている。

この郷村師範教育振興のための農村の教員は極めて不足していたが、 教員は都市に集中 している。 ところが、 、 義務教育を普及させる対象としての子供は、80%が農村の子弟な のである。 この「都市の教育を重んじ、 郷村の教育を軽視する」という傾向は、 教育改革 の中で今でさえも大きな問題となっている。師範学校はほとんどが一部の大都市に集中し

-247-

(7)

ており、 これは必然的に地ノ�J f必の教育機会を滅却するものであり\ これによってもたら される一 部先進都市と地方都市や農村の文化紅皮の格差は、 ますます広げられることと なったのである。

義務教育もまた、必ずしも順調に発展するこ とはで きなかたが \ こ れもまた教員イベλ!

から来る問題であった。 190U年までに800ノJ人以上の小 ・ けl学校の教員が存ど1: したが\ 資 質\ 人数のいずれにおいても9年制義務教育の必要に応じることはできなかった。 200ノJ 人の小 中学校教師が不足し て おり

、 とく に農村小 中学校教師が不起してた。 教員不 足の問題は、 むしろ人口増加との関係があるとしづ見万もできょうが、 模倣した自11í範学jjjlJ

が経済的・社会的基盤を異にする中国社会には完全に合致していなかったことと直接的な

関係があろう。

台予新城はこの点について次のように論じた 。

「教育は社会の需要に合えば\ その効果がある。 そして\社会の需要はまた、 ほ と ん ど経済的制度を決定的な原因としている。... .中国は地大物博の小農制皮の国家で、

あって....社会経済制度は曾て変更がない。 ただ教育制度のみ資本主義的方法を模倣 しでも\ 社会的需要に適);ができず\ 必ずや悪弊が続出してしまうo I (注3 )

(二)教育経費不足

以上のように、 外国教育制度は経済的、 社会的基盤を異にする中国社会に合致しなか たため、 清末から民国にかけ\ 政治の不安定とあいまって\ 教育経費の負担が農民の肩に かかることによる 殻学暴動 が特に目立っ た。

教育事業には、 政治の安定、 経費は不可欠の要素である。国家が安定し\ 経済的基礎が

固まって初めて教育の進展もスムーズに進行するO 前述したように\ 中国の経済は農業経

済からやっと一歩を踏み出したところで、 その経済的基礎

は極めて貧弱であった。清末以

後\戦乱頻発と外国への巨額の賠償支払い、 とくに民国に入ると軍閥混戦による教育経費

の激減は\ 学生の運営に大きな支障を来した。1919年の統計によると、i毎・ 陸軍費は総支 出の42%を占めてるが、教育経費は僅か19%に過ぎなかった。

しかし、 こ れらの状況において、 学校教育が発展すれば教育経費はさらに膨らむことに なり、 悪循環を生んでますます解決不能の状況に陥ることになる。民国元年以降、1930年 までの教育経費の増減を表示すると、 次のよ うになる。

- 2 48-

(8)

(表2. ①) 民国以来各種教育経費増減比較表 年 度 男IJ I 高 等 教 育 | 中 等 教 育 中国年号 西暦 経費総数 学 生 経費総数 学 生

(元) 平均費 (元) 平均費

民国冗年 1912 755, 730 489 6,361, 962 64. 84 2年 1913 822, 865 327 7,448, 859 63. 48 3年 1914 2, 426, 911 L 019 8, 463, 762 71. 09 4年 1915 L 306, 058 482 8,481, 619 69. 91 5年 1916 883, 069 306 8,575, 059 77. 24 12年 1923 13, 950, 424 400 14, 024, 180 76. 72 14年 1924 12,210,966 483

17年 1928 16, 730, 621 594 24, 602, 366 104. 77 18年 1929 23, 729, 430 746 35,988, 173 105. 52

初 等 教 育 一一 経費総数 学 IJ

(元) 平均貨

19,091, 109 6. 8�

22, 840, 084 5.9J 31, 449, 963 4.76

64,721, 025 8. 15 19年 1930 I 27,932,913 I 693 I 48,713,057 I 94. 66 I 89,416,977 I 8. 17

: 1 . 民国六年~十一年 十三年、 十五年~十六年の統計資料がない 2 . 学生平均質は 、 学生一人当 .りの平均貨用を指す 。

3 . 資料は 、 古楳編 「現代中国及其教育』 下ilrt、 357� 358 頁より 。

(表2 . ②)

民国元年以来全国中等教育各類学校校数学生数経費数比較表(年度は民国年号) 校 }j1J I 中 学 反 初 中

|

校 数 学生数 経費数 元年度 500 59, 971 3, 296, 672

2年度 643 72,251 3,849,893 3年度 784 82, 778 4, 612, 194 4年度

I

803 87, 929 4, 920, 084 5年度

I

653 75, 595 4, 200, 412 6年度

7年度 8年度 9年度 10年度

11年度 547 118,596 6,600,256 12年度

13年度

14年度 687 129, 978 9, 540, 228 15年度

16年度 17年度 18年度 盟主亙 幾何平

均数 I .075 . 110 .140

師 範 学 校 校 数 学生数

253 28, 605 314 34,826 231 26,679 211 27, 975 195 24, 950

385 43, 816 301 37,992

236 667 846

.__O_69 . 060

経費数 2, 040, 387 2, 533, 110 2, 673, 632 2, 731, 209 3,077,746

4, 633, 919 4, 368, 262

.081

職 業 学 校

校数 学生数 経費数 79 14,469 1, 024, 903 82 10, 256 1, 065, 856 82 9, 600 L 117, 936 96 10, 551 1, 190, 326 84 10, 524 1, 296, 900

164 20, 300 2, 790, OQ5 154 18, 011 し760,4�3

149 16,641 2,217,480 219 26,659 4, 131, 919 272 34, 852 4, 961, 996 071 .051 .0

9

3

注 : 本表は資料1 : 北京教育部の全国教育統計、 資料2 : 中華教育改進社の r中国教育統計概 r全国中等以上学校統計』 に よる 。 6年度から10年度までは統計に入 っ てい ない 。

この表で見るかぎり、 教育経費はスローペースではあるが、 一応年々増加の傾向を示し ている。 しかし、 学校数と学生数の急激な増加は、 実質的には教育費の増加をも抹殺する ところとなり、 加えて経費来源の不安定と組織の不健全性、 配分の不合理等の原因によっ て、 種々の問題がさらに発生するに及んだ(注4 )。 たとえば1929年の安徽省各県の教育 経費収入源の統計表(下表参照)を見ると、 県の教育費を得るために卵から魚、 肉\ 石に 至るまで教育税がかかっている。 これはまさに、 実質的には政府の財政困難等により教育 経費の独立・ 保障がたちし1かないことを示していることは言うまでもなく、 この教育経費

-2 4 9 -

(9)

の確保はしばしば問題を引き起こした。

(表3) 1929年度安徽省各県教育経費収入倣 覧表 経 費 来 線、

租借税及び利息収入 団地租借税 家屋税

その他の不動産租借税 各種附加税銀行利息

田地附加税 契約税及び登記賀 雑穀税

屠殺附加税 糧株附加税

その他地方税及び、附加税 各種物産税

米、 棉税 茶税 糸繭税 竹\ 木税

酒\ タバコ\ 茸類税 塩、卵税

魚肉、 家畜税 石、 陶器類税 各種食用油税 その他物産税

補助費及び寄付金 年末繰越金及び基金 貸出金取り立て収入 其の他雑収入

合 計

収 入 制()じ) 5g2, HjO 179,761 18, 385 25, 497

�-18, 517 1, 151, 805

;)20, 275 159, 418 20, 296 119,369 176,315 146, 132 111,976 16, 082 15, 875 8, 520 4, 446 10,820 16, 129 5, 312 1, 740 6, 150 27, 902 23, 160 11, 907 20, 789 38, 390 1, 953, 187元

|'1分比(%) :�o. 32

ワ14ハ斗リハHU「L、け ハ叫υりO「し「JU

注 : 資料は古楳編 r現代中国及其教育』 下Hlt、 362'" 363 より 。

1. 19 0.61 1. 06 1. 97 l00.00%

結局\ 学堂開設の経費は住民が賄わせられることとなったのである。 様々な新税が\ 話 ねて農民の肩に重くのしかかることになったわけである。 また\ 県における学堂開設を督 励する役所一勧学所の役人は学堂の校舎にあてるため、寺廟を没収した。 農村には\ 性 産と結び、ついた祭紀、娯楽など\ 寺廟とともに維持されてきた風習があるの この共同体の 楽しみ所である寺廟の強奪や、新税の徴収によって農民の反発がヲ|き起こされることにな る。 農民は、 その原因をすべ、て新学堂設立のせいであるとして\ 各地で学堂を倣壊したの である。 これが「堅金学暴動」である(注5 )。

たとえば光緒30 (1904)年6月、 江蘇省無錫県で、 また7月には江西省楽平県で騒擾が 起こった。 無錫では農民が、役人とこれに同調する地元の郷紳を襲い、 学堂を打ち壊す。

楽平は藍の特産地として知られた県であるが、 ここの役人は、特産の藍の販出ごとに新税 をかけ、 学堂経費の増収をはかる措置をとった。 これに反発した3,000人を越える農民は\

学堂や県の役所、 キリスト教会を次々と破壊したのである。

ハUFhu nノω

(10)

土地廟を祭る「迎有IJ張合jは、t易fμ;沿j��の出村では,'))仙VJと娯楽を品lliぶ{I二1111J ・]';の -つ

である。 この祭りにちなんで\ 毎年存がめぐってくるたびに、 法l_(たちは 'H�を呼んで村 芝居を楽しみ、 豊年を祈り、 山|目的なつきあいを深めるのであるの その行中釣川をH有うた め、 村ごとに “会回目 と称する高地を共同で所イlし、 また樹立;令を符JlUしている。 いくつ かの県の勧学所は、 これを守学:ゴ常主主:縦j持寺貨に比込む、 とを企l以ヌ刈|比したのである

年3月、j所折江省慈実総谷県の騒;擾愛は\ この祭りのわ中崎奪への反発を契機として、 農民t, UU() 人が1週間にわたって県下の学で5校を焼き十jちしてまわったことに|対米する。 6片には、

同じ省の余挑県でも同様の事件が発性\ こ こでは開設準備中の女子学堂に民民が押しHJけ\ 校具や教材を破壊し尽くして引きあげている(件: 6 )

宣統2(1910)年、 湖南省の省者1)・長沙で起こった暴動は、 なかでも再大規模のものと 言われる。 1万人を超える農民が全市の米胤、 学堂、 役所、 教会をrjl�き、{政接してまわeノ

た。 この頃には「槍米風潮1J " すなわち米騒動と「毅学j '\ すなわち学'�;�tJi袋しが組を糾 うがごとく各地に頻発しているの

各地の騒擾を伝える当時の雑誌には\ 次のような記事が散見する。

「学堂を滅し、 以て農業を安んず、 これが郷民の合言葉だJ I!\恭氏の般学、 その舎は

則ち全く官吏にありJ í平目、 官吏の追呼に苦しみ、 その怨毒を洩らす能わず\ いま 僅かに乃ち里見学の挙において\ 平らぐ能わざるの心を|鳴らすなりJ í学堂の学生みな 洋人の習気に染まるとなし、 各地の頑民往々にして学生を視て “小洋鬼子" となすJ

以上のように、 農村の生産力が変化していないことを考慮せずには\ 師範教育の改革は なかなか困難である。 とくに新税の徴収と農村の財政負担の増大、 農民の反発の激化が重 なり\ これらは師範教育にとって大きな障害となったのである。 健かに数のトーでは\ 学校 の創設数と学生数の増加は\年とともに発展を送げているようには見えるが" .ßfjだには粁:

費不足のため、 師範教育は常に不安定極まりないものだったのであるc

この教育経費の不足問題は、 現在の教育に至るまで、 中国にとっていまだに深刻な問題 となっている。

中国の財政学および教育学の長老である千家駒は、次のように述べている。

「指導層を含めて人々の心の中では、生産は『硬任務』 、 つまりやらねばならない ハードな任務、 教育は『軟任務』、 つまりどうでもよいソフトな任務とされてきた。

-2 5 1 -

(11)

学校は消費伯作だから、 金が少しあれば少しやり、 なければやらない。'下校の投仙カ 悪く なろうと\ 文盲が増加しようと、 それがいったいなんた。 白1)のHi;ふl作自1)は教-({

の重要性を認、識しているが、 それでもやはり 経済が ぷ俗であり、 教育は上自IH荷造だ、

経済発展の基礎があってはじめて\ 教育を少しず‘つ発以させることができる。 教147は 経済発展の後からついていくもので その|刊を行くことはでい 、 とみなしている

これはその実古くさい見万である。 彼等には教育が満足EC(Jな生j主ノJであることがわ かっていないのであるJ rすでに諸外国では教育経済学という新しい分野への似:先に 着手している。 彼等は事実でもって教育投資は生産的投資であることをイL�jfしてい

るJ í我が国の教育予算の過少問題を根本的に解決するには、 教育投資は性j主的投資 であるという観点を樹立し、 教育投資と生産投資を対立的にとらえる従来の教育認識 を根本的に改める以外に万dえはない。 J (注7 )

ここで千家駒は、中国の現実の教育政策に関わる基本認識を述べているが\ それは草安 な意味を持っている。 従来は、 教育を単に消費ないし上部構造と見てきたため、 教育は軽 視され、 教育予算も圧迫されてきた。 この点について彼は次の ように述べ‘ている。

「我が国の国家財政に占める教育予算の比率は哀れなほど低い。 世界諸国は一般的に 国家予算の15%以上\ 高い国では20%を占めている。 それに対し、 我がlìlは10%前後 でしかない。 GNP比でみると各国は5"'-'6%、 中には7%にも達しているものもあ る。 それに対し\我が国のそれは3%にも満たない。 78年度国連統計みると、 149 カ国中、 教育費のGNP比で我が国はなんと130番目、 第一世界、 第一:出界はおろか 第三世界の中でも最後尾に属する。 J (注8 )

この\教育予算が過少であることは\次の表を見れば歴然としていようの

(表4 ) 教育費比較

アメリカ(1977) ,日 本(977) ,中 国(1981)

教 育 費 1207億ドル 10. 33兆円 102億元

教育費の国民総生産に

占める割合

I

6.4% 5.4% 1. 4%

教育費の国家予算 に

占める割合 17.7% 16.5%

I 9.1%

国民l人当り教育費 556. 7ドル 536. 6トル一一 一一�担;-AL--

資料出典 : 董百芥 「再談教育投資的経済発展J (f" 教育学J 1982年3月)

教育予算の過少により、 中国では学校の校舎ょ教室などの施設や実験設備はもちろん、

机・椅子などの基本的な設備でさえも不足している。 たとえば北京師範大学では、 教室不 足のため多くの課程を夜間に害IJり振って行わなければならなかい。 新たに購入した大型 ・

。/U「hunノ臼

(12)

中型のコンビニlータや各種の設備を設置する場所がない。 科卒15と1-:ノjメートルの学1_-:1-:出合 には6住まなければならないという具合であるり さらに、f山|倹校舎の割合(市街比)は小 学校で12.5%、 中学校で10%を占めている(とÈ )。 もしこの危険校舎を修若返しようとす れば、 全国の2年間分の予算:が必要となる(注10)。

問題は、 教育費の絶対額が過少であるばの\りでなく、 しばしばその少ない教育費'が他に 流用されることになってきたことである。とくに地方では「指導幹部が教育を重視せず、」

「はなはだしいのは教 育賀'を ー種の ゼイ肉とみなし ているI (注11)υ 1984年10)ヲ27仁l

『光明日報』には、 「大量の教育経費を独r5し\ 教育事業に重大な損害を与える」という 記事が掲載されている。やはり、 教育費用不足の原因は、 単に国家経済基礎の問題だけで はなく、 各級指導者の教育に対する認識との関連もある。 力型(元国務院副総理)は、 教 育体制改革の背景となる思想について\次のように指摘している。

「教育は知力資源、を開発する一つの重要な投資部門である。 そして教育投資は効益が 最も大きい一種の投資である。 多くの同志はこう指摘している。 r教育投資がた

し1へん少ない。 費用が不足している。これは教育面に存在する最大の問題であるJと。

教育経費の問題はたしかに重要である。 ... .ただし最も重要なのは、 やはり認識の問 題であり、 教育を重視するか否かの問題である。 教育を発展させ、 教育体制を改革す ることは、 四つの近代化が成功するか否かの全局に関わる問題であり\ 戦略的問題で あるJ I基礎教育を発展させ、 9年制義務教育を実施するためには、 必ず規格に合っ た教師を大量に養成しなければならない。 J (注12)

ここで万里は、 教育の重要性と、 義務教育と重要な関わりのある教師の大量養成問題を 論じたのであった。

中国における9年制義務教育を首尾よく実施するカキは、 教師の量的拡大と質的向上に あるが、 やはり、 教師の資質向上は量的拡大以上に重要なことである。1�87年までに8UO 万人以上の中・小学校の教師がいるが、 その資質と人数のいずれにおいても、 9年制義務 教育の必要に応えることができず、 そして200万人の有資格の教師が不足している。

この、 教師の大量養成 は深刻な問題となっている。 ところが現実には\師範学校や師範 大学への入学希望者は年々減少する傾向にある。原因は多β面にわたっていることが考え られるが、 不人気を招いた一つの要因は、 教師の社会的地位の低下と待遇面での魅力のな さである。

現在、 小・中学校教師の月収は、 中国の給与所得者の月収平均を大きく下回っている。

ηぺυ「huつ'U

(13)

奨励金と呼ばれるボーナスの文給制も、 -J被):jωj高比 べ少 ないのが'天↑17ある() l�gg 年国家統計局の統計によると、 教師の賃金は、 令ぐ以所有iI刊古I)r'jのl峨!誌の" Iごから3 iß: I I である。 教師の住宅問題はさらに深刻であるの 自1)の青年教師は\ 住宅がないため\私'i�\�

できないといった事態が発生している(注 13) 。 これらのj京凶によって、 誰もが師範学校

の門をくぐることに跨路している。 ーんーでは、l�lIj範学校に入学していながら約半数がl将 来教師にはなりたくなしリと表明しているのである。 師範新人生の教師峨に対する態皮を 示せば、次の通りである。

(表5 . ①) 教職に対する 師範大学328 師範専門296 中等師範 264 合計 888人

教師 を 押

一- -、

134人40.9児 132人44.5児 175人66. 3児 441人49.7包

碓定した

,._. .�一

104人31.7児 105人35. 6児 64人24.2児 273人3ll_1%

将米の転職

64人19.5児 43人14.5先 10人 3.8%

117人13. 2%

一一

その他また

'" _'Y

16人 5.4月 15人 5.7月 57人 6.4出

また、 師範卒業生の教師職に対する態度をぶせば、 次表-の通りであるυ (表5 . ②)

教職 に対する 生涯教師 l院生 | 教師になら| 現在、 だ| その他また になる決心 になって ないで、;民む 決心がつか は回答

から決定 ような方法 ない 師範大学333 95人

5児

76人 54人 73人 9児

35人

28 22. 8児 16. 2児 21. 10.5児

師範専門354 128人 43人 48人 103人 32人

36.2児 12. 1児 13. 6児 28.1児 9児

中等師範128 82人 14人 16人 47人 26人 44.3児 7. 6児 8. 7児 25. 4児 ト 14.1月 合計 872人 305人 133人 118人 233人 93人

35児 15.3児 13.5児 25. 6児 10.7児

(出典)いずれも 、 駿風 「教師職業信念形成之過程J 『教育研究J 1987年9月号 55頁所載による 。

現在\ 中国におけ教師の隊列は不安で あ。 殊に、 初 中 高中教師不足く 深 刻 にな っいる。 次表は国家教委学生司川 省 9 地区た 調査結果 である。

次表から見ると、 いかに中- 高等学校の教師が足りないかが分かる。 簡単にまとめると 教師不足の教科の比率は、次の通りである。

- 2 5 4

(14)

(表6 )

λヲ以乙 不| 紋忽i% '手化 初J不lヤ| {li)(釘l%

詰 初1j1 2. 2

文 高中 12.8 、"-' I"�'� I� 1 16

数 初司l 1. 89 ヰ-: 初Jtþ tì��

三r: 高中 12 物 l 円'r��lp 24

外 初中 38. 3 /土浬{信任了 100

1三1五仁l 高中 30. 2 楽 100

政 初中 28. 2 美 術休 100

治 高中 18. 5 初JI� 1 32 歴 初中 47 J同 高1+1 20 史 高中 25

地 初中 51. 6

I� 高中 23

メにミ1 Iユ;-j.

r1JJ中

物 初中 50. 7

理|高中 16. 4 (平均) I �-Í.虫_�.Ji5__._

中学校教員 :体育・政治 20�30%, JJt.史 地理・�I�物・外語 3U�6U%,

生理・衛生・ 音楽・ 美術 1 U()%

高等学校教員:国語-数学-政治・物出-化学 10�20%,

外語・歴史・ 地理・ 生物 2()"'-' 30%

今後\ 教育を受けるべき人々が急増する 4万で\ 教師不足はますます深刻となり\ 教自rlï 育成は危機に立っているのである。

アジア太平洋の情勢を見渡してみると\ 我々は危機感・緊迫感と重い責任感を持たなけ ればならないと同時に、 中国の師範教育を問い直さなければならない。 李鉄英(国家教育 委員会主任)は、1989年2月18日の『人民H報j (海外版)において、 「もし\ これから 教育に十分に力を入れなければ、 中国は地球の一一員から仲間外れにされかねない」と警告 している。

|

現代中における師範

ザ時 J

現在、 中国の至上命令とも言うべきものは\ 文化大革命による破壊からの教育の再興お よび急速な現代化である。 現代化政策の下、1984年から改めて始まった9年制義務教育は 師範教育の改革とも深く関わっている。

現行の師範教育体制、 とくに他の学校体系からの相対的独立性\ 閉鎖性は新中国成立;以 後、 今日まで一貫して変わっていない。 しかも、 この師範教育には、 上述の経費不足の問 題の他にも\ なお未解決の問題が山積しているのである。

次に5つの方面から取り上げて検討することにする。

「huに.uoノ臼

(15)

1. 師範教育体制の改革

中国の師範教育体制が直面している基本的|甘口組をまとめると次のようになろう。

①閉鎖的な師範教育では、 教員の資質と人数のし1すごれとをli�]わず、 その長j必がイベ|づ) で9 /rt三制義務教育の必要に応えることができない。

②師範学校は都市に集中し\郷村の師範学校は極めて少ない。

③都市の質・ 量両面における深刻な不足の背景には、 教師の社会的地位や待辿のイl�さ、

師範教育体制の不十分さがあり\教員養成における教育忠偲\ 教育ノj法、 教育1)']作 の面における伝統へのこだわりなどが存在している。

それでは、現代の中国師範教育はどうなっているであろうか。

1949年10月 1 日に新中国の成立とともに\教育改革も行われた。 米ITしい学校教育制度の モデルは社会主義国家・ ソ連の経験と制度となって\ それが縫立したのは195]年8 .R" 11' 央人民政府政務院が公布した「学制改革に関するとた定J (注14)である。 この全面的な教 育改革は\ 師範教育の性格・ 内容を社会主義化させることをも規定した。

この新学制によると、小学から大学までの全修業年限を16学年とし、 初等IJlli範学校は(�J 級中学教育レベル(第6'"'-'9学年)、師範学校は中等教育レベル(12'"'-'13学年)、 師範大 学・学院は4年制高等教育レベル(12'"'-' 15年) ,こ位置づけられた。

新学制に基づき、民国期におけるアメリカ型教育体系は改変されたが\ その師範教育*IJ 度について言えば、①新学制に基づく師範教育体系は、民国期と大きな差異はなかったが 6年制小学を5年制に改めたことによって、師範教育機関の位置づ、けもそれぞれ!土|ニ引き 下げられた ②目的別に3段階、すなわち小学教師を養成する初級師範学校 - 中等師範学 校、 初級中学教師を養成する師範専科学校、初級中学教師・高級中学教師を養成する師範 大学・学院に区分され、 それぞれ中等教育レベル\短期高等教育レベル" 4年制大学レベ ルに位置づ‘けられた。 また、小学教師を速成するため初級師範学校を設市置したが、次第に 取り消されていった ③教師教育機関の独立性が号lき続き維持された ④師範学校は公_Ù�

教育機関であると同時に、中学専業学校の- 極であるとしづ位置づけが{I在認された (五)1記 等師範教育機関は他の高等教育機関と異なり\教育部の管轄下に置かれ\ その学制が縫立 されると同時に、教学大綱・計画・規則等も制定された。

このソビエ卜型師範教育の特徴は、次の通りである。

ρ円U「「unL

(16)

① 正規の養成教育のほか、 対則泌j点的養成教なに努め、 またfJ�lrì政教1':,11の''(:'ì!ilと{リ|修を も重視した。

② 師範学校には、 発展する首iJ]教育にj必ずる大量:の新しいliili �ぬの長成と"' J北lf政教r:diを 再教育するという2つの大きなイJ4{が桜せられた。

③ 政治教育と思怨改造の重視。

以上の特徴の①、 ②は\ 当時の11ーIj王 |における救r:市の量の地)JIIと質のI(リ|二には\ 大きな役 割を果たしたことは事実である。 しかし、 処|ギ|以米、 政治教育とほ似改造の辺助が繰り広 し引き起こされたため、 教員養成は質量ともに|五|内の需要に応じることができず\ その矛 盾は一層深まった。 たとえば'", 1966年より|刻始された1U年にわたる文化大革命によって\

学制は短縮され、 中等師範学校も有名無実化したことなどによって、 師範教育は市1J1支I�I休 が徹底的に破壊されることになったのである。

現行の師範教育制度は、 初級師範学校を取り外した以外、 民国後期の向lï範教育制度とほ ぼ同じで、 大きな体系的変化はなし\0 すなわち\ 小学校から大学までの全修来年限を16�1

とし、 中等師範学校は 中学教育レベル(第l()� 12学年、 あるいは10---13学年)"' 師範寺科 学校は短期大学レベル(第13'"'"' 14学年、 あるいは第13�15学年)"' 師範大学 ・ 学院は4年 制レベル(第13�16学年)に位置づけられている。 師範教育制度の学校体系における位箇\

殊に他の学校体系からの相対的独立性、 閉鎖性は新中国成立以来今日までの40年間"' 貰 して変わっていない。

校)校)学年学年「nU61ErnHUlat公山中ti年間中t師~師~学3等3中(中(

) ) 年 ) ) 年 一年年3年年三44(44こ ftftdイftfk

勺 心一

工庁a Jt、一学院修学院科一大学専大学専一範範範範範範一エ叩エ叩Tm叩市川VZ巾市川ド一

年 寸li nノu nu,u nud

師範専修科 師範訓練班 師範速成班

このような教育体制は、時代と世界の発展の趨勢には合わない。 今日的な師範教育法規\

教師法などを早急に制定する必要があろう。

2. 教育思想と教育方法の革新

新しい時代の養成に応える多数の新師範タイプの人材を養成するため\ 教育思想と教育 方法の革新は師範教育改革の重要な課題の一つであろう。

古い伝統的な思想を徹底的に改めない限り"' \くら教育経費を増額しでも\ 優秀な人材 を養成することは不可能である。 従来の師範教育方法は、 一定の内容を生徒に詰め込ませ、

ワI'にdnJO

(17)

試験によつて11州11山州1J判JI α的J1な2考えんをa抑測!I川|リl定してきたり /ぺ作|卜ド‘:. {従£の|臼辺i主〈一,件|

かつたO このような教育によって養成されたi3,II�色町が創志性やI�-I律的ホJitillを欠くようにな るのは必至である。

また\ 卒業生の知識が狭いという欠点が ノjにはある。 文科系の教nilíは自然科学の矢Ilrl叫 に欠け\ 理科系の教師は社 会科学の知識に乏し 般的な現象として、自,li範 卒 業生知 識構造では適応力に乏しい。 この偏りを改めるには、師範学校 -大学のカリキュラムを改

革しなければならない。 また師範学校 ・ 大学のせ/ドIj;P-1 住|の経類を増やし\ 選択科回\ とく に専攻の枠を超えた科目や講座を多く開き、 知識を広めるとともに、 .)5では最新の科学 的成果を踏まえ、中学教育の必要に応た教科書をつくる必要があ

3. 教員養成の多様化と枠の拡大

1990年の各級各種学校の専任教師は1, U3c)ノ7人に達し'\ 1980年に比べ、 138万9千人的 加した。 師範大学と師範学校は'\10年間に合計J25万5千人の中学の教師を新しく養成し た。 また、1990年には、 全国で78万人の在職教師が職場を離れての研修や通信教育に参加l した(注15)。 それにしても\ 教師の量は依然として不足している。 また教自|日の質も長iく

ない。 小学校教師では、あるべき学歴(注16) '\ 基準に達しない者が31.8%、 高校教自'1iで、

は58.68%となっている。 一部の地区では\ その比率が一層低下する傾向が見られる(注 17)。

各国の教師教育は\ もとも と教師の就職前教育を中心に考えられてきたが\ 現在の注|寸 すべき動向は、 職前教育と現職教育を有機的に統合することである。 すなわち\ 前者の延 長線上で\ 一貫したプロセスとして後者を把握していこうとしている。 しかしこれまでの 中国の教師教育は、 職前教育と現職研修とは分離して考えられ、両者の統合、 一一貫性とい う発想には乏しかった。 教員の養成、採用、研修を一貫したプロセスとする教師教育制度 の「再創造」の道を開拓しなければならない。

今の中国の現職教員の研修に関する特色の一つは、教育学院、教師進修学院\ 進{医学校 という研修のための専門機関を持っていることである。 また\ 一般大学、 専科学校による 中等学校教師研修クラスが行われることになっている。 もう 一つは、 通信教育\ 大学仮出l

部及びテレビ大学( 1校、 省レベルのテレビ大学28カ所)、 そして衛星教育テレビなどが ある。 また\ 各地の教育行政部門、 教育養成機関、 教育学院などの研修専門機関、 省- 地 区・県の教学研究室(部) '\ 政府機関講師団が

催する短期の講習会、 講演会、 訓練クラ

- 2 5 8

(18)

スなどもある。 さら に1986年には、所定の学歴袋件に遥していない現職教自diを対象とした

能力検定試験も発足した。 以下の図は、研修の系統性の角"W!ないし強弱を縦軸に" 11寺山的 な長短ないしプルタイムかノマートタイムかの区日1]を横11[I1Jにとって\ 現ど1:行われている.5l峨 教師の研修刀法を構造化してみたものである。

現職教師研修方法の構造

系統|杓

衛星教育テレビ・ 通信教育・

夜間部・ テレビ大学 ぐートタイム ー

短期訓練クラス・講習会・講 演会(教育学院 ・研究室・講 師団による) ・教学研究組(

校内研修)/自学自習

教育学院・ 教師研修学院 大学- 専科学校の研修クラス

ー ブノレタイム

非系統的

長春にある東北師範大学では" 1953年から中学の教師2万5, 900人余りを、通信教育を 通じて研修を行った。 上海・華東師範大学は1956年から成人高等通信教育を始め" 1986年 までの30年間に 3, 000人余りの在職中学教師を進修させている。 また、夜間大学および江 蘇・j折江 ・ 福建・山東省に通信教育拠点を設けた。

このように、師範大学が多様な方法によって教師を養成・進修させるやり方を253大学 とL028校の中等師範学校が実施すれば、地方\ とくに農村教員の量と質の問題はある程 度解決することができるであろう。

1986年、政府は衛星放送テレビを使い、教育専用の番組を開始した。 これは\ 農村に分 散している中・小学校教師の研修に大きな意義を有している。

このような師範教育の改革を通じて、教員養成を師範大学だけに任せる古い枠を打破す る、多様かっ弾力的・総合的な教員養成と研修システムの形成が切に望まれる。 一方、経 済改革と技術革新につれ、新しい中学教育のシステムが構想されている現在、高等師範教 育の養成対象の幅を広げ、初級・高級中学の教師だけでなく、中等職業技術学校の教師養 成をも図る必要があろう。 今後の目標としては\ 第一に、師範大学各学科では職業技術に 見合った科目の設置に努め、各関係大学・専門学校にも前者に対応した教員養成コース あるいは教師訓練コースを設けることである。 第二に、師範大学の役割を増大させ、 単に

nuu 「huηL

(19)

教員を養成するに止まらず、教育旬:泊JTぞ;-ギ&-(Hûlヲピと1の�i�)ぶにもノJを入れるべきであるυ

1980年以来、政府は教育改I'I'� ,こいろいろなJl包;誌を漸く具体化させるようになっているり たとえば、1981年には自習試験fljlJ度の設定、 !教I1riJüíJJ の公 布 (l9851 I )�の第6 11-11令II�I 人民代表大会常務委員会第9 1111会議)を行う ノJ、1988�1ミ8片、 国家教育公民会はj足利数 育を促進するための全国的なI燦原計画」を笑胞したの この対象範|却は2俗人に及んだり

さらに1993年2月、国務院は大学教育を促進するためr I�I.II孟|教育改革と発以綱以| をj}j�{ij し、 I 2 1 1工程」の実現を提唱した。 2 I I じ位とは21世紀に向かつて100校の大学と 幾つかの重点学科を創るということである(佐18)。 そして中央は19 9 5�r (j ) J t 5 Iゴ'\ I f与 及9年義務教育」の中で、義務教育の予算をこれまでの毎年2億元に今後はさらに2俗ノ己 を上積みすること、さらに3年以内に毎年10倍、)Cを投入することを決めている(注19)。

新華社1995年7月10日電によると\ 国家教育委員会財務司副I..iJ長 - 銭 ー岩は'\ I政府は今 年(1995年)から2000年までに\ 義務教育に刈し累計で5U�oO億元の予算を投入する! と 述べている。

現在、全国の小・中学生はあり2億人いるのに、 教自rljは僅か日ODノj人しかいず、 かっそω うち40%は不適格者である。 それゆえに、師範教育を大規模に充実・ 発展させる必裂があ るし\ また教師の資質も向上させられなければならない。 師範教育体制の改革は\ 深刻な 問題となっているのである。 因みに、1953�1990年の小・中学教師の学歴状況を示すと\

次の通りである。

(表7)

1953年 1957年 1963年 1978年 1980年 1985年 1990年 高校教師

I

68.8児 47.6先 53.9児 45. 9児 35. 9児 41. 3先

大学本科卒業

中学校教師

I

53.5児 51. 2児 74.7児 9. 8児 12.7児 27. 5児 46. 5先

高等専科卒業

小学校教師

I

13.5児 14. 4児 34. 5児 47. 1先 49. 8児 60. 6児 73. 9児

中等師範卒業

中国教育部 r中国教育成就 1949'" 1983年I 1984年 、

中国国家教育委員会 『中国教育成就 .J 198 Ö年 、 中国教育 報J 1990.11.24より作成

国家教育委員会は、2000年までに 234万人の小学校教師'\ 148万人の中学校教師'\ 33万 人の高校教師を養成する必要があると推計している(注20)。

教員の養成改革は、量的拡大と質的向上との統合、学術的性格と師範的性格との統合\

けunhu nノU

(20)

基礎的専門教育と技術的専門的教育との統の、 行IS,IJ"n"i給与文行と刻I�村教ffとυ) Xdc (7なと、 総 合的な観点から把握されていく必要があろう"

4. 教師の人格・社会的地位-峨能というい:者-合 Jをもとにした"' 11守代にiØ1合した 新しい教師像の創造

現代師範教育の発展のためには、 優れた人材、 つまり大勢の俊秀な教員を長成しなけれ ば、ならない。 清末から19�0年代までは\ いずれも師範生に特別な仮泊施策 - 給貨制度を実

施する一万\ 義務服務制度も厳しく要求されたり これは優れた人材の|吸収 - 育成・6佐保の ための直接的な方法であろう。 それでは"' 1 mfl�の現l[説教員の待遇‘ 地イ\'Lなどはどうなっ ているのか」。 また、「教育行政機関に優秀な人材を集めることができるのかJ r g�峨の 教員を集めることができるのかJ 1-全社会の教台は順調に発以することができるのかl

等々、 重要な問題は国家の米米と密i安な関係があろう。

中国における教員の待遇の低さは長い隆史をもっているり 蹴述ーした泊り、 消末から1940

年代まで、 各時代の政府はいずれも教員に対し\ 待遇(給与-年金など)政策を頻繁iこH-.'J したが\ 現実に効果をあげたとは言い難い。 しかし中国はもともと、 必d:ili尊敬の伝統があ り、 その伝統は崩れていない。 たとえ待遇は低くても\ 教員の人格は尊敬されていたので ある。

しかし文化大革命中、 教師はブルジョア的知識分子と批判され、 その威厳は全く地に洛 ち\ 学生は教師を無視したり授業を拒否をすることがよくあった。 また\ 教師の給与は低 く抑えられたままであり、社会的地位も低く、 その状況が今なお続いている。 これらの影

響により、 師範大学に進む優秀な学生も少なく\ 中堅の教師陣も手薄となっている。

(1) 教師の地位の向上

現在当面する問題は、 教師像の確立と教師の社会的地位の向上、 待遇の改善などの緒問 題を現実のレベルの中でし1かに具体化していくかである。

現在、国家と社会各方面で\ たえず “教師の社会的地位を高め\ その仕事は世の中に最 も尊敬され、羨ましがられる職業の一つにしなければならなしい? ことが提唱され、 強制さ

れている。 小平は「知識尊重・ 人材尊重-重教尊師」を提唱し\ また1980年の全国自j"lí範 教育会議の中で中央は"' r師範教育は教育事業の土台である。 人材を養成する根拠地であ る」と強調した。 前述したように、1985年の全国人民代表大会において\ 毎年9月l日を

「教師の日」とすることが定められでもいる。

- 2 6 1-

(21)

(2)給与と住宅条件の改jG

待遇改善の P環として笑胞されたものは、 め -tこ給与の1.] I 1-_げである(l

1985年に公布された新しい給り規定に よれば、公務員のfめりは 般に),t本給 . J[法務給 勤務年数に基づく定期的子主主1 .イベ定期の奨励子%という4つの部分から砧成されるの 小Jγ 校教師でl級から4級\ 中学校教Oiliでl級から14級に分かれる。

給与の引上げとともに、 教151日のための住宅整備にも)Jが人れられてきた。 第6期全|王|人 民代表大会常務委員会の第9恒|会議で教育に|刻する悩告を行った\11111寺のイ"J :;1�円教育日I� M-I� 1.,<

は、 多くの小学校 ・中学校教職員の住宅条件の;出さは組めて傑亥1]であると龍、め、 今後は、

「地方が主となり、 国がこれにill市助するl方法で投資し、問題解決にあたる必要性を説い ている。1983年に小学校。'-1.1学校教職員のために\ 令国で2億;3, O(JOノ7元の資金が調達さ れ、 のべ 150万平方メートルの住宅が建設された。

しかし\教師の給与-待遇の低さの問題はまた\ 現実の問題である。民|家統計局が1990 年に出した、12の業種の職員・ 労働省の給I-j_紘β|によると、 教員の似人は知11位に付iit'l t ている。 この、教師の待遇改善問題は、 今後の教育改革における重安な課題の 一つであろ

つ。

5. r教育経費の不足」問題の解決

教育経費の不足は当面の教育改革の中で\ 直面するもう ーつの深刻な問題である。 70年 代以降、 国民経済と財政状況は徐々に好転し、 教育経費も大幅な伸びを示した。1�87年の 国家予算の中で、 教育費支出は277. 02億元、89年同397.72億元、さらに93年の全国教育費 の支出は1488. 78 億元で国家予算の2.68%を占めており\ 年平均の国家財政収入の伸びを 上回っている(注21)。

しかし、 現在の中国の教育費と実際の需要との聞には依然として大きな隔たりがある。

以上に述べた校舎の不足\ 教師の低給与などの問題は、 この教育費不足の深刻lさの問題と 密接に関係している。

この教育費の不足問題を解決するため、 各レベルの政府ーや教育機関は各種の措置を講じ ており、 改革の過程で関係行政部門や学者が多くの構想やフ。ランを提出している。簡単に

まとめると、 以下の通りである。

1 . 教育機関の発展が国家の財政能力の限度を超えることのないようにすること。

2. 法律を通じて\ 教育費が国民経済及び政的の財政支出, 1_1に占めるべき合理的分自己比

ハノむnhu η/U

(22)

率を確保すること。

3 . 財-源を拡大 し、 多くのルー トをiill じて資金を制注し\ 乍校:@日のおi体jj)IJを}J ち 1‘/て ること。

4. 教育貨の管出を改善し\ 効ネを高め、j良県I�を少なくすることり Uìそ��)

以上述べてきたように" I十11;[1では教師をめぐる種々の深刻!な問題を解決するため\ 相当 な努力が払われ、 多方面にわたる改善策が実施されてきている。 しかしo、|ーの|問題は、 い ずれにせよ問題の根は極めて深い。 問題の似本解決には\ 国の経済の発展\ 全国民的な矢11 的・文化的水準の向上を含む\ かなり長期的な刈j必が必要となろう。

以よ\線々述べてきたが\払個人の力は微々たるものである。 しかし\ この論文が\ 我 が国の師範教育の進展に少しでも役立つことができるなら幸いに思うり 11最後iこ\ 今後の仙 究課題を1 2" 取り上げてみ;論の結びとしたい。

中国教育改革の現状及び課題

中国の実業教育についての具体的な究明

円〈Unhu nノU

(23)

<結論 住>

注l 隙吉之I近代IIJ1主|教141=火jド. 40 注2 向上掲古P. 16

注3 í教育必μ11・社会的出生LJ相応方能顕其功効、 I(ri?.i会的掃裂、 X1LJ�以経済的制度l� i 要的決定ItSl点o ... I111五11.:�地大物|導的小j法制度的IfJ家 .f士会続出;ljlJ).良川目イJ)リ|だ 更、 共有教模倣省資本主義的方法、 教育自然小能適応社街製、 然;リ44千 端百山」

告予新城「中国学校制度の改革J 1927 ( r 1 1.1国訓代教育文選J人民教育lH版社 1989 P. 348)

注4 古楳「現代中国及其教育J卜聞 香港 屯門音店彬印本 1975年 36

注5 阿部洋I近代学校と中国農民 清末kおける里会学j孔糊の考察! (IJ本教育!と'/会 紀要r l.:l本の教育史学J 5 講談社 1962年)

注6 中村↑�i. í清末学堂設立をめぐる江蘇農村社会の一断l面J ( r歴史教J 10巻11�・

1962年)

注7 千家駒 l 知識一侃教育J (1紅肱1 83年8号) 注8 向上掲

注9 千家駒「要把増加教育経費作為実現 “四化" 的重装戦略措施l 年2月)

注10 千家 財政支出応首先保証智力投 I ( r教育学J 1983年6月) 注1 1 r光明日報J 1980.3. 26

注12 r光明日報J 1985.5.18 r人民日報J 1985. 5 . 30

教育ii)f':先J [�j K己

注13 中凶凶家統計局「中凶の教育状汎J (1 .JL京i1M報J L�89. '1. 1� [). ��) 注14 í政務院関於改革学制の決定J (r人民政府法令陛編\J P. 475 '�f7'1) 注目 「我国教育発展的四個特徴J (r人民日報J海外版 199 1年10月 2日)

注16 小学校教師は中等師範学校卒、 中学校教師は短大レベルの師範専科学校卒、 高校教 師は4年制師範大学 ・ 師範学院卒という。 (中国国家教育委員会教育規画餅公室

「面向二十一世紀的中国教育 国情 ・請求 ・ 規画 - 対策J 高等教育出版社 19

90 P. 177 )

注17 中国国家統計局「中国の教育状況J (r北京週報J 1989.7. 18ド. 22) 注目 f人民日報」海外版 1994年6月25日

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(24)

注目 「人民日報J海外版 1994年6 n 2811

注20 中国間家教育委員会教育規画緋公室rI(!Î lílJ .. 1ー ー111紀的II'IFI教汽 規画 ・ 対策』 高等教育出版社 1990 177 17H

注21 r中国教育統計年盤J ]990 人民 教出 版 社 P. 112

「人民日報J 1995年8 )j 21日 「中国地)jll教育貨除款|

ILI11I;. . ;'/I�

注22 I世紀への教育改革」 北京大学尚等州究副長 . n7k�注(1ギ1 \'1.教育州|

究所編 第一法規出版)

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参照

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