<寄稿>私の社会学部長、学長時代 : 国際交流と アメリカンフットボール
著者 武田 建
雑誌名 関西学院史紀要
号 28
ページ 231‑256
発行年 2022‑03‑15
URL http://hdl.handle.net/10236/00030222
私の社会学部長、学長時代 ~国際交流とアメリカンフットボール~
武田 建
1.フットボールか学生部長か 2.社会学部 ~国際交流係~ 3.カナダ研究の来訪者4.「レシートを持っていらっしゃい」5.SMU 参入6.藤田さんの偉大さ7.職員を大切に 8.学長の仕事は骨が折れる 9.インドネシア出張
10.中国出張
11SMU .加藤理事長の訪問
12SMU.で一科目担当 13SMU .フットボール 14SMU.のクォーターバック養成 15.学部長コーチ、学長コーチ
16.雨の横スタ
17.一教員にもどって *8.9.は、『学院史編纂室便り』第
53号 (2021年4月
20日)掲載文を再録。
1.フットボールか学生部長か
全共闘による学内封鎖が解除され、最悪の事態を脱した後の一九六九年一二月二四日、経済学部教授の小寺武四郎先生が学長に選出された。小寺先生は同年三月一九日から学長代行を務めておられたが、ようやく選挙が行われたのである。年明けの一月八日、小寺学長の誕生と同時に、神学部の城崎進先生が学長代理に就任された。そして、小寺学長執行部の末端で、何も分からず何も知らず、命令された通り伝令役に専念し、それ以外はもっぱらアメリカンフットボールのチームと行動をともにしていたのがこの私であった。 それから約一〇年の歳月が流れ、一九八〇年秋、城崎先生が学長に選出された。「おめでとう」と申し上げる前に、私の研究室に城崎先生から電話がかかった。「ケンちゃん、神学部長室にす
ぐ来て」と。大急ぎで駆け付けると、先生は大学執行部の組閣の真っ最中だった。ドアを開け、「オメデトウございます」と申し上げるなり、先生はにっこり笑って「ケンちゃん、学生部長になってや」と言われた。研究室にお電話を戴いた時、嫌な予感がした。大好きな城崎先生だが、執行部に入ると高等部のアメリカンの監督ができない。したがって、お断りをしようと決めていた。だから、「先生、私に高等部でコーチを続けさせて戴ければ、高校日本一のチームを育てます。そうすれば、その選手たちが大学へきて甲子園ボウルで勝てるでしょう。私の学生部長と甲子園ボウル優勝のどちらを選択なさいますか」と、先生の目を見て、真剣な顔をして申し上げた。すると、「君の学生部長より、甲子園ボウルの優勝の方が大事やな」とにっこり笑って下さった(武田の高等部アメリカンフットボール部監督八年間に六回の全国優勝)。ただこの時、私が学生部長をお引き受けしなかったために、後に城崎学長が辞任なさった時、次の学長のお役目が私に回ってくることになろうとは、先生も私も想像もつかなかった。
2.社会学部 ~国際交流係~
学生部長をお断りした翌年秋、社会学部では、連続三期お務めになった倉田和四生学部長の後任選挙が行われ、私は社会学部長に選出された。それまで、私は学部内の要職に就くこともなく、社会福祉(第二類)の一教員として、授業と実習を担当するのがお役目で、授業とその準備以外はもっぱら大学のアメリカンフットボール部のコーチをすることに多くの時間を割いていた。
私の社会学部長就任(一九八二年四月)前後のことだったと思う。一九七九年三月に開設された国際交流センター(七月一二日付で国際センターに改称)の「藤田のダンちゃん」こと藤田允
さんのアイディアだろうか、関西学院大学が日本におけるカナダ研究の拠点校の一つになった。どういうメリットがあるのか知らないが、毎年一人か二人、カナダから先生が関学にやって来て、一年間滞在することになった。そんな制度を十分知らない新米学部長の私に、城崎進学長から電話があった。「カナダ研究の枠で、トロントの大学で行政学を教えている先生が来るから、社会学部で受け入れてやって」というお達しである。嫌も応もない、学長様からのご依頼である。追い打ちで「建ちゃん、カナダ人にご飯を食べさせてあげて」とおっしゃった。そんなことは、我が家の女王様に頼めば朝飯前だ。「ノープロブレム、エニータイム!」である。
カナダから先生が着任されたら、ウェルカムディナーだ。最初のカナダ研究客員教授であるから国際センターの藤田さんも少し心配だったのか、ついていらした。ダンちゃんが来れば、彼が全てをとり仕切ってくれる。
3.カナダ研究の来訪者
カナダ研究の最初の教員は、カナダ政府派遣のクレアランス・レデコップ先生と奥様のマグダレーヌ・レデコップ先生だった(一九八一~八二)。奥様は、トロント大学の中のヴィクトリア・カレッジで文学の看板教授、ご主人は政治学の専攻だったが、どこのカレッジ所属か忘れてしまった。あるいは、トロント大学以外で非常勤で教えておられたようにも思う。この二人は我々家族がお気に召したらしく、こちらがお招きしなくてもよく遊びにいらした。親しくなると、「ありあわせだけど夕食でも食べてゆく?」ということになる。それで、我が家の息子や娘は、レデコップ夫妻を「カナダの親戚」と呼んでいた。
不思議なことに、初代のカナダ研究客員教授が帰ると、次のカナダ研究の先生も社会学部にやってくる。「また、社会学部ですか? 他の学部ではいけないのですか?」と、学長に尋ねると、「そうなんだ。他の学部は嫌がるんだよ。頼むわ」とおっしゃる。城崎学長に「頼む」と言われると断り難い。
翌年はセシル・ヒューストンという地理の先生が、またトロント大学からやってきた(一九八二~八三)。社会学部がホストなのに、社会学部でなく文学部で教えるのは問題だというので、社会学部でも教えて戴いたという記憶が残っている。 次がヨーク大学のスティーブ・クライン先生である(一九八三~八四)。環境学が専攻だった。このお二人のことはおぼろげながら思い出せるが、最初に来たレデコップ夫妻ほど強い印象はない。このご夫婦とは、彼らがトロントに帰った後もお付き合いが続いた。そして、彼らが二人の子どもさんを養子に迎えた時、その子どもたちに我々の名前を覚えさせて、「ケン」、「トシコ」と呼ばせてくれた。
以後のカナダ研究客員教授も社会学部所属だから我が家にお招きしたはずだが、お顔と名前が一致しない。とにかく、この頃のカナダ研究客員教授は社会学部所属であることが多かった。
4.「レシートを持っていらっしゃい」
カナダ研究が始まった頃の社会学部事務長は石井佐兵衛さんだった。次から次に外国人教員が来て、学長のおっしゃる「歓迎パーティー」をする我が家の経済状況を心配し、「武田先生、外人部隊が来た時の食料品は仁川の生協で買って、そのレシートを持って来てください。あまりに
も学校のお客さんが多過ぎます。でも、アルコールはあきませんよ。うちはキリスト教主義の学校ですから」という有難いお言葉を戴いた。ただ、残念ながら、こうしたご厚意は、学長や理事長になってからは、ついぞ耳にしたことはなかった。
5.SMU参入 城崎先生がお頼みになるのはカナダ研究だけではなかった。米国のダラスにある協定校、南メソジスト大学(SMU)から毎年、交換教授が到着し、カナダだけでなく、米国テキサス州からも我が家にお客が来るようになった。SMU からは、ベティー・メイナードという社会学者(一九八二)、次はバーバラ・アンダーソンという有名な人類学者(一九八三)、そして彼女の教え子で、テキサス女子大の准教授、SMU では大学院生のナンシー・ナシロ(一九八三)と、ここまでの三人は女性軍であった。我が家の女王様とは女同士の話があるのだろう。結構話に花が咲いていた。そして、その関係は、後に我々が一九八九年にSMU に一年間お邪魔した時も続いた。もちろん、我が家に来たSMUの教員は女性ばかりではない、テニスが三度の飯より好きなグレン・リンデン先生は米国史が専攻だった(一九八四)。私よりはるかにテニスが好きな女王様は、よくリンデン先生とラリーを続けていた。
テニスと言えば、カナダ研究客員教授ではないが、カナダ大使館「御用学者」のジョン・セイウェル先生は何かとご用を作っては関学に来て、我が家と近所のテニス・クラブにやってきた。その度に、女王様は友人たちを集めてテニス・パーティとなった。
ドイツ語のユッタ・バンセルム先生はどこの学部へ来ていたか、私の記憶にない。画家の夫
アーリーと一九八八年に関学にいらした記録はある。ユッタはドイツ人で、SMUではドイツ語とドイツ文学を教えていた。それだけならばあまり私との接点はなかったのだろうが、夫で画家のアーリーはユーモアのある面白い人で、我が家の人気者であった。女王様はご自分の小遣いをはたいて彼の作品を買ったり、大阪の高島屋で彼女の友人と一緒に彼の作品展を開いたりもしていた。我々夫婦がSMUに滞在中、冬休みを利用して彼らがメキシコで借りていたコテージに近いホテルで冬休みを過ごした。結構親しくしていたカップルである。
関学でSMUといえば、ニール・マックファーランド先生抜きには語れない。先生は、宗教学をはじめ、様々な顔をお持ちである。一九八六年、我が国の天皇から叙勲の栄に浴された(瑞宝中綬賞)。ただ、我々夫婦が「お友達」付合いをさせて戴くにはあまりにもお偉過ぎる先生のような気がしていた。
6.藤田さんの偉大さ
こうした想い出は一九八〇年代が舞台であるが、その後も藤田允大先輩が関西学院大学でお始めになったカナダ研究は続き、毎年カナダの大学から一人以上の研究者が関学に来ているのはすごいことだと改めて感ずる。藤田さんの偉大さと、国際センターに始まり、国際交流部(一九九〇年四月~二〇一三年三月)、国際教育・協力センター(二〇一三年四月~)へと引き継がれたお働きに心から敬意を表したい。また、それと同じように、藤田さんが撒かれた種がテキサスの SMU で大きく育ち、交換学生が来るだけでなく、教員の来訪も続いている。SMU の武内宏樹先生も、日本研究の短期集中講義のため、学生を連れて毎年上ケ原においでになった。こうしたプ
ログラムを担当しておられる教職員のお働きに心から感謝申し上げたい。残念ながら、新型コロナウィルス感染症の世界的流行拡大により、二〇二〇年三月頃から、こうした活動ができなくなってしまっている。収束の日が来て、こうした交流が末永く続くことを願っている。
7.職員を大切に
以前から、教職員、特に職員の働きと存在をもっと重視すべきだと私は思っていた。それは、私を可愛がって下さった杉原方先生の影響が大きかったと思う。だから、学部長時代、学部長室にこもるのではなく、できるだけ事務室に出ていって職員の方々と話し合い、時には冗談でも言うようにしていた。
自分で言うのも恥ずかしいが、私が学部長になった頃は、大学教員として一番脂の乗り切った時期だったかもしれない。ほぼ毎年のように東京の誠信書房から臨床心理関係の本を出していた。その表紙の図柄の選択は、社会学部事務室職員全員の投票で決めてもらっていた。これは、事務室内のちょっとしたイベントだった。学外では、京都大学の河合隼雄先生と一緒に学会活動をやり、先生の求めに応じ、京大にも教えに行った。
フットボールでは、関京戦がリーグの覇権を決めるゲームであり、数万人の観客を集め、テレビで放送もされていた。サッカーのJリーグが誕生する以前の話である。そして、何よりも嬉しかったのは、学部教授会の雰囲気がかなり明るく、おだやかになってきたこと、教授会が短くなったことであった。学部長在任中、一時間を切ったことが二度あって、拍手が起こった。
8.学長の仕事は骨が折れる 一九八五年九月一二日、城崎進学長が突然辞任された。そのため、次期学長が選出されるまでの間、学長に代わって最低限の仕事をする「学長事務取扱」を置く必要が生じた。
当時、社会学部長を務めていた私は、集まった学部長の顔ぶれを見まわして、私が一番年下のくせに最古参であることに気が付いた。これはいけない、なんとかしよう。「一番年長の方が、学長事務取扱になればいいのではないですか?」と、もっともらしく申し上げた。それに賛同する声もあったが、すぐ八重津洋平法学部長が「学長選考規程を見ましょう」とおっしゃる。それを読むと、一番古手、つまり先任学部長だと書いてある。そんな規程は駄目だとは言えない。結局、私に学長事務取扱というお役目が回ってきた。そして、一一月二六日に行われた選挙で学長に選出されてしまった。
こうして、私は一九八五年一一月から八九年三月まで学長を務めた。学長と聞くと「格好いい」とか「大学のシンボル」とか言われることがある。しかし、実情はそんな結構なものだとは言い難い。少なくともその昔、私が学長だった頃はひどいものだった。学長に大きな予算が付くわけではない。大きな権限もない。大学の中の重要な決定というのは、全て大学評議会とか学部教授会の意思に基づいて行われる。学長は、大学評議会の司会者に過ぎない。また、当時は、予算とその執行、ならびに職員の人事は、全て理事長・院長の権限のもとに置かれていた。学長はその巨大な権限を持つ理事長・院長と大学の間に立たされ、右往左往するのが現実の姿であった。
大学評議会で叱られて頭を下げ、各学部教授会と大学の要求をもって理事長と渡り合い、もう一方で、ひたすら頭を下げ、理事長に大学の無理なお願いをするのが役目であった。
学長や理事長になると、当然授業は持てない。持ってもせいぜいゼミナールぐらいである。大学教員にとっては、授業が生き甲斐である。しかし、学長には、そんな贅沢は許されない。
私は旅行が嫌いだ。ところが、私立大学連盟、大学基準協会、そして文部科学省と、そんな頻繁に集まらなくてもいいと思うのに、重要会議だといって、次から次に「東京に出て来い」と学長にはお呼びがかかる。その外に、たまにではあるが、キリスト教系の大学の学長会議まである。その会議に出席した時のことだ。初めて行った明治学院大学のキャンパスで、迷子になってしまった。ゆくべき建物は教えて貰ったが、その入り口にあるエレベーターは点検中だ。代わりの階段が分からない。二階の行くべき部屋を見ながらうろうろした私が悪かった。ほんの小さな段差に足を取られて、足首を捻ってしまった。学長秘書にお願いして、足首を冷やすシップを買ってきて戴く。ひんやりする肌触りは気持ちがいいが、それだけのことのようだ。痛みはどんどんひどくなる。午後に開かれる私大連盟の会議は欠席させてもらい、飛行機で伊丹に帰ることにした。空港からタクシーを飛ばして、甲東園の織部接骨院に駆け込んだ。「捻挫ではなく、立派な骨折です」。全治四週間という診断である。足の甲を包帯でギリギリ巻きにされ、松葉杖をつきながら我が家に帰った。その頃、女王様はテニスの後、近所の焼き鳥屋で打ち上げパーティーだったとか。骨折してうんうん唸っている夫をひとり置いて、何たることぞ!
翌日から松葉杖出勤である。多少不自由ではあるが、足を骨折した選手はチームの中に常時何人かはいる。不自由さを少し体験出来るとか言って自らを慰めながら出勤し、夕方仕事が終わったら、いつものように高等部のグラウンドへ。その頃には、慣れぬ松葉杖のために脇の下が痛くなっていた。顧問の崎弘明先生にお願いして保健室で車椅子を借り、元選手の東元春夫先生に押
して戴いてグラウンドに下りる。
高等部の練習が終わると、翌々日の京大戦を前にした大学チームを覗いてみた。いつもならばすぐにやって来る芝川龍平選手も堀古英司選手も、一瞬ぎょっとしたのか寄って来ない。「オーイ」と手を振ったら、やっと来てくれた。
土曜日の対京大戦、関学は無残にも大差で敗れてしまった。しょんぼり試合場から出ようとすると、藤田允国際センター室長に捕まって、翌週(一九八六年一二月二日)インドネシアのサティヤ・ワチャナ・キリスト教大学の創立三〇周年記念の式典があるから、出席しろという命令である。「僕は一昨日、東京で足を骨折してこの通り松葉杖ですよ」と言うと、「試合を見に来られるではないか」と言われてしまった。
翌日曜日は高等部の関西大会準決勝である。神戸市のサッカー場で試合だった。松葉杖姿の私を見ると、新聞記者たちが、「どうした」と質問をする。何でも記事にするのが彼らの仕事だ。冗談のつもりで、「関学の守備チームに対し、相手の関大一高のクォーターバックになってトリプル・オプションをやっていて、骨折してしまった」と言ったら、そのままデカデカとスポーツ新聞の記事にされてしまった。
9.インドネシア出張
私は、学長をしながら高等部のアメリカンフットボール部監督を続けていた。シーズン途中、いかに公務とは言え、数日間であっても監督がチームを離れるということはもっての外である。そこで、インドネシア行きに当たっては、最短のスケジュールを立てて貰った。だから、ジャカ
ルタ到着は夜九時半、ホテルに着いたのは午前一時を回っていた。寝ようとすると電話がかかってきて、明朝一番の飛行機で飛んで来いと言う。スマランまではシャトル便だから予約切符はない。当日買えと言う。ウトウトすると、大きな声で目が覚める。後でわかったのだが、この国の圧倒的大多数はイスラム教徒で、朝早くというか、真夜中に大きな声でお祈りをしていたのである。モーニングコールが鳴った時、我われ夫婦はとっくに目が覚めていた。とにかく、タクシーを飛ばして、空港に一目散。おかげで出発三〇分前には到着できた。切符も買った。女王様はコーヒーが飲みたいとおっしゃる。注文すると、液体の上にコーヒーらしき粉が浮いている飲み物を持ってきた。出発前、そんな時には「テー」と言ってお茶を貰えと、ある同窓生が教えてくださったことを想い出したが、後の祭りである。
スマランの飛行場に着くと、学長夫人が迎えに来て下さった。学長はインドネシアの方だが、奥様はオーストラリアの方だ。学長が若い頃、留学中に結婚なさったと後でうかがう。オーストラリアの英語は苦手だなどと言ってはいられない。今、我々は母校を代表して、サティヤ・ワチャナ・キリスト教大学創立三〇周年のお祝いに来ているのである!
インドネシアは昔、オランダの植民地であった。飛行機が着いたスマランは元軍港で、今でも会社や工場が沢山あるらしい。かつて、そこで働いていたオランダ人は暑い海辺を避けて、山の方にあるサラティガという避暑地に住んでいたようだ。そのあたりに、我が協定校は三〇年前に創立されたのである。
大学差し回しの車に乗って、ものすごいスピードでサラティガまで走る。先発の藤田国際センター室長が迎えてくださる。大きなゲストハウスに通されると、ジャワ更紗のシャツとドレスが
置いてある。これを着て祝賀パーティーに出るようにという命令だ。
直ぐに大学の行事が始まるから車に乗れという。トイスタ学長の車に乗って会場にゆく。この日の最大の行事は、日本万国博覧会記念基金から贈られた八〇〇万円の寄付金をもとに設置された視聴覚施設のテープカットであった。この寄付を貰うのに、我が関西学院の国際センター室長、藤田さんが大きな役割を演じて下さったことを、現地に行って初めて知った。聖書の「右手のすることを左の手に知らせてはならない」(マタイ伝六章三節)という教え通り、藤田さんはこれについて何もお話しになることはなかった。私は、その藤田さんの大学を代表してきているのだ!
来たゲストには寛大である。大きな拍手が起こった。やれやれ。 シンボルが私の骨折です」といった意味もない話をした。ご出席の皆さんは、遠い日本の国から くなるそうです。それと同じように、皆様と私たちとの結びつぎが今まで以上に強くなることの それどころか、医師に言わせると、折れたところがつながったら、その部分はこれまで以上に強 上にあがるまでに考えた。「私の足の骨が折れたからと言って、両校の関係が壊れることはない。 「一言スピーチを」と突然言われて驚いた。右手で父の形見のステッキをつきながら、壇 翌日は朝の九時から三〇周年記念式典である。これからが本番だ。後生大事に持参した紺のスーツを着て、式で話す祝辞の原稿を左手に持ち、右手に例の杖をついて、最前列の席に座らして戴く。とにかく、骨折を押して、はるばる日本から杖をついてやってきたというので大評判である。
インドネシアの人達は儀式やスピーチが好きなようだ。学長のスピーチは、なんと一時間一〇分以上も続いた。さらに、理事長、市長、キリスト教の教会関係と続き、いよいよ外国からの来賓のスピーチである。まず、創立当時からの姉妹校であるフリー・オランダ大学の学長からであ
る。背がものすごく高い学長さんが、背の低いトイスタ学長と握手すると、少々滑稽な姿だ。笑いが漏れる。さらに、壇の上にあがると、ご自分の声がちゃんと入るようマイクをほぼ垂直に立て、「ごめんなさい。私はこんな身長に生まれてしまいました」が第一声であった。会場からは、やんや喝采だ。次は、日本の学長さんの私の出番である。小さな男が、しかも杖をつきながら危ない足取りで壇に上がる。垂直に立ったままのマイクに手を当て、それを直角に戻しながら、「すみません。私はこんな身長に生まれてしまいました」と、オランダの学長さんの言葉を繰り返した。これにも、やんや拍手喝采だった。
こうして、この日は夜まで祝賀ムードの式とパーティーの連続で時が過ぎた。今から三〇数年前の想い出である。申し訳ないが、記憶に残っているよりも、忘れてしまったことの方がはるかに多い。あのトイスタ学長ご夫妻はどうしておられるだろうか?やがて、天国で再会出来る日も近いと思う。
10中国出張. 吉林大学の創立四〇周年記念式典(一九八六年一〇月五日)に出張した頃は、中国はまだまだ発展途上の国だった。当時、日本からかなりの数の乗用車が中国に輸出されていたようだが、排気ガスを浄化して車の外に排出する装置は必要がないから、輸出する前に取り外し、その代金は差し引いて欲しいと輸入業者から求められたそうでる。
北京空港へゆく道には白樺の木が植えられている。この調子では白樺の運命は危ないと心配していたが、今も白樺は健在と聞く。あれから二〇年ほどの間に、中国の車事情は一変したよう
だ。クォリティーも良くなっただろうし、生産台数も世界一を誇り、どんどん成長していると聞く。二〇年前に比べると、長足の進歩をとげているようだ。
私がSMUに教えに行っていた時、卒業式に出たことがあるが、科学系の大学院、特にPhDの学位をもらうのは中国からの留学生が圧倒的に多かった。中国政府は北米に留学したい優秀な若者に多額の奨学金を出し、家族連れでの留学をすすめていたのである。自動車に限らない、あらゆる面で中国の科学は急激に進歩した。SMU は、関西学院から前学長が来たというので、大学の宿舎でなく、わざわざ民間のアパートを借りてくださった。そのアパートに、中国から来た院生が住んでいた。政府の奨学金で米国へ留学したエリートなのだろう。SMU に限らない。アメリカ中の大学院に優秀な若手科学者を送り、博士号取得を目指して勉強させ、帰国後、中国科学の発展に貢献させようという国策が見事に実を結んだのではないだろうか。日本政府の国策との差をしみじみ感じるのだった。
ランバス留学基金等により、関学から留学の機会が与えられ、外国の大学院へ勉強に行く人の多くがドイツやスイスに足を向け、北米を敬遠しているように感じる。理由はいろいろあるだろう。まず、ヨーロッパの大学は北米の大学に比べると授業料がかなり低額であるか無償である。一方、米国の授業料は非常に高い。しかし、関学の留学制度(教員であれ、院生であれ)は、行く先(国)の授業料や生活レベルに関係なく、一律同額である。
東南アジアもアメリカの大学も同額では、アメリカの大学へは「行きたがらない」ではなく、行きたくても「行けない」のではないだろうか。関西学院はアメリカの教会が創立し、アメリカとカナダの教会が協力して発展させてきた学校である。だからこそ、学院史編纂室は必死になっ
て、関学のルーツを探り、少しでもその消息なり情報を学内外に発信している。古きを訪ねるだけでなく、新しきを知るために、関西学院からの留学生を創立者の教会のある国に送って戴きたいものだ。
11SMU加藤理事長の訪問. 一九八九年三月、関西学院の創立百周年を前に、私は任期途中で学長を辞任した。それは、久山康理事長・院長の任期満了による辞任と同じタイミングであった。このあたりの事情については、当事者として、別の機会に書き残しておきたいと思う。
学長を辞任した私は、一九八九年四月から一年間、休暇を戴き、自費で渡米した。SMUの先生たちが関学にいらした時、精一杯面倒をみたつもりだ。お帰りになる時、「学長を終えたら、
SMUにいらっしゃい」と言って戴いたので、そのお言葉に甘えることにしたのだ。
私がSMU に到着してからまだ数日しか経っていない頃、加藤誠之理事長がSMU を訪問された。ビジネス・スクールでの講演(通訳なし)のためであった。その少し前、私のSMU到着の頃、関学とSMU の交換留学のことで国際センター長の藤田さんがこちらに来ておられることを知った。そこで、万が一加藤さんが英語でトラブった場合にそなえ、藤田さんに滞在を延ばして戴いた。しかし、そうした私の心配は全くの杞憂であった。加藤理事長の英語力、原田の森で鍛えられた「英語の関学」の実力には脱帽だった。加藤さんは、学生時代、テニス部の選手で、テニスの好きな宣教師ミックル先生のお相手をよくなさっていた。授業以外にも、コート上で英語でお話になる機会があったようだ。
加藤理事長は、ケンタッキー州にあるトヨタの新しい工場を視察に行かれた後、故ミックル先生の奥様をニューオリンズの老人ホームにお見舞いに行かれた。そこからダラスへ飛んでいらした。
原田の森では、宣教師やその家族と日本人教師や学生との触れ合いがふんだんにあったのだろう。留学経験のない加藤理事長だが、実に流暢な英語で“My Years with Toyota” という題で講演をなさった。その後、多くの質疑応答を一人で受けて立たれるお姿を拝見し、原田の森時代の「英語の関学」の実力を垣間見たような気がした。そして、いつの日か「英語の関学」を復活させたいと思った。しかし、学長を辞したその時の私には、そんなことは夢物語であった。ただ、この時の思いが、後に三田に総合政策学部と理工学部を開設する時、再び沸き起こってきたのであった。
12SMU で一科目担当. 一年間の滞在中、社会学の開講科目の中に新しく出来た「ジャパン・スタディズ」という科目を担当させられた(秋学期)。関学に交換教授でいらしていたメイナード先生の悪企みである。毎週二校時の講義である。大変だ! 私は院生時代に長期間留学をしていた。関学に勤めてからも、臨床訓練やワークショップのために北米には何度も来ていた。しかし、大学で一学期間講義を持つ、それも自分の専門外の科目を教えるなんて初めてである。SOSを発信し、学内で日本のことを知っている先生を探し、私のクラスで講義をお願いした。こうして、三分一近くは、
SMUの日本通の先生方を動員して、お茶を濁した。帰国前、講義をして下さった先生方のリス
トをメイナード先生にお渡しし、彼女が日本について講義を担当して下されば、と願っていたが、先生は二度目の関学訪問後、突然天に召された。
メイナード先生と親しい文化人類学のバーバラ・アンダーソン先生も、交換教授として関学にいらした。彼女の博士課程の院生で、日系三世のナンシー・ナシロにとって、アンダーソン先生は指導教授だった。藤田さんがお世話して丹波篠山で、民話と煎じ薬の研究調査をしていたが、どうやらそれが彼女の博士論文の一部になったようだ。やがて、ナシロさんはSMU で人類学の博士号を取得し、フロリダの大学でフルタイムの先生の仕事に就いたと聞いた。藤田さんは実に様々なところで、いろいろと人助けをなさっているが、このことは案外知られていない。誠に残念である。
13SMUフットボール. SMU のフットボールは、度重なる強引な高校選手勧誘を重ねてきたため、私がSMU に行く二年前にNCAA(全米大学体育協会)から体育局長と副局長は解任、監督とコーチは全員追放、チームも解散という、前代未聞の処分を受けてしまった。NCAA 史上最も厳しい処罰で、「死刑判決」と言われたくらいであった。母校のチームを強化したいという思いから、お金持ちの卒業生が有望高校選手の勧誘に裏で乗り出し、「SMU に行くならば、高級車をプレゼントしよう」と約束し、実際に車を買い与えるといったことが何度も何度も起きたようだ。こうしたことは、
NCAA の規則のなかでも最も重い処罰対象となった。しかし、幸いにも、私がSMU に行った年から、フットボールの練習と試合は再開された。
滞在中、私は毎日午後三時になると、SMUのフットボールチームの練習に行き、コーチのお手伝いをしていた。これは関学のコーチとして、とても良い経験になったと感謝している。ただ、部外者がすぐにアメリカの大学チームの見学や見習いに入れて貰えるほど甘くはない。私の長年の友だちであるマイク・ギディングス氏が、その頃、アメリカのプロフットボール選手の能力評価のコンサルティング会社を経営していて、プロフットボールの世界では有名だった。幸いなことに、私は彼がまだユタ大学の監督の頃に知り合い、関学に何度も教えにきてもらった仲だった。彼に頼んで、プロフットボールの選手・監督の経験者であるSMUのホレスト・グレッグ監督に紹介状を書いてもらった。さらに、関学と親しい関係にあるアメリカの大学チームの監督チャック・ミルズ氏にも手紙をお願いした。これならば初対面でも信用してもらえる。
夏休み中の練習が終わり、秋のシーズンが始まる頃には、すっかりチームのコーチや選手にもなじんで、ボランティア(つまり、給料を貰わない)コーチのような扱いになってしまった。
だが、新人ばかりのチームは連戦連敗、ヒューストン大学にはもう少しで一〇〇点入れられそうになった。その「ひよっ子」チームが、中西部のインディアナ州にあるノートルダム大学へ遠征した。相手は、新聞記者投票で全米ナンバーワンにランクされているチームだ。相手のルー・ホルツ監督は我々に失礼にならないようにと、第一クオーターの終わりに、二軍三軍選手に切り替えてくれたのだが、それでも手も足も出ず、大差で敗れてしまった。
試合の前日、こんなことがあった。試合前の練習が終わって、スタジアムの前で我々を待っているバスの先頭車に乗り込んだ。一番前が監督の席だ。何故か、私はそのすぐ後ろに座るようになっていた。私が座るのを待っていたかのように、チームのキャプテンがやってきて、「監督、
しばらく休憩の時間を下さい」と頼んでいた。「よかろう。一時間、出発を遅らせよう」と言った監督は、後ろに座っている私を見て、「ケン、あいつらが何処へ行くか見てきてくれ」と、ウインクしてニッコリ笑った。私はどういうことかよく分からなかったが、監督が「見て来い」とおっしゃるのだから、忠実にそれを守ってキャプテンの後ろをついていった。すると、選手の大多数が、「わんさかわんさ」とキャプテンの後ろについて、大学内の大きな売店に押し寄せ、ノートルダムのTシャツやスウェットをしこたま買い込んでいるではないか。私はパジャマを忘れたことを思い出し、ノートルダムのシャツを買ったのだが、後でそれがバレて、コーチ仲間からさんざん冷かされたのだった。関学の二軍と試合に来る地方の大学チームの選手が、関学生協で関学のTシャツを買って帰るのと同じことだ!どこの国でも、若者は強いチームに憧れる!
14SMUのクォーターバック養成. シーズンが終わった。これから春の練習まで、コーチは高校選手の勧誘に明け暮れる。私は一年生のフライバーガーという長身のクォーターバックに目を付けていた。一年生だった最初の年はあまり試合に出ていなかったが、一年上で試合に出ていた小柄な選手よりも能力的には優れたものを持っていると、私は感じていた。それで、一週間に二回ぐらいだったが、投球練習を手伝いたいと提案してみた。ただし、私には彼の剛速球を受けることは出来ない。だから、彼とキャッチボールをするパートナーを連れてきてくれと頼んでおいた。関学の選手と違って、アメリカの選手はシーズンオフに自主トレのような練習をするなんていうことは考えてもいないようだった。しかし、パスを投げたいフライバーガー君の熱意にほだされ、毎回パートナーは変わっても、誰
かを連れてきて週二回の練習は続けられた。ただ、キャッチボールをするだけではなく、ボールを受ける選手がキャッチャーミットよろしく、高いボール、低いボールと、身体のあちこちに両手を持っていって、そこへ投げることを要求していると、だんだんそこにボールが行くようになってきた。つまり、投球のコントロールがついてきたのだ。その年の秋のシーズンが終わってから、
SMUの監督からの知らせで、フライバーガー君は首尾よく先発選手になって、結構活躍したと聞いた。めでたし、めでたし。
15学部長コーチ、学長コーチ. フットボールの話が出たところで、私が社会学部長や学長をしていた時、フットボールと役職者という二足の草鞋をどのように履いていたか、印象に残っている出来事を中心に記しておこう。
時代は少し遡るが、一九七六年に大学の監督を退いた後の一年間、ミシガン大学へ行って取り組んだのは、関学の文学部心理学科がお手のものである学習(行動)心理学の「子育て」への応用であった。簡単に言えば、「良い行動を増やしてゆけば、悪い行動は次第に減る」ということをシステマティックに、子どものレベルに合わせて行うという内容であった。
帰国した私は、関学の社会福祉専攻の学生が実習でお世話になっている神戸市中央児童相談所の小前千春所長(関学出身)にお願いして、ミシガン大学で習った子育ての理論と方法を相談所のスタッフと大々的に実践し、その普及に勤めようと計画していた。ところが、大学チームの伊角富三ヘッドコーチが来て、「高等部のチームが弱くなった。だから、高等部のチームを立て直せ」と言うのである。幸い、同じ流れを汲む芝野松次郎先生の留学が終わり、関学に来てくださるこ
とが決まったので、私は安心して彼に児童相談所のプロジェクトを任せ、高等部のコーチが出来るようになった。
私が大学のコーチ時代には、甲子園ボウルで学生日本一になるために、アカデミックな勉強に負けないくらいフットボールの勉強をしたつもりだ。米国のコーチの協会の会員になり、メンバーとして毎年沢山の資料を入手した。フットボールに関する本もどんどん購入して読んだ。幸い、親しくなったアメリカ人コーチたちがありとあらゆる便宜を私のためにはかってくれた。手書きの作戦やプレーの詳細、練習や試合のフィルムを届けてくれた。北米に勉強に行ったときには、出来る範囲で米国大学のコーチを訪問して見学し、教えを乞うた。今のようにコンピューターで米国の試合や練習が我が家にいながら見るなんていうことが出来ない大昔の話である。
学部長になると、自分の研究室にいるよりも、学部長室や学部の事務室にいる時間が長くなった。しかし、大学生コーチとミーティングをしたのは個人研究室である。幸い、私の研究室は学部のすぐ隣だから問題がなかった。私が少しぐらい遅れても、彼らは勝手に研究室に入り、昼食の足しに私が買っておいたサンドウィッチを食べ、私があまり関係しない事柄から先に打ち合わせを進めていた。
だが、学長になると時間が随分と制限された。まず、私の研究館と学長室はキャンパスの対角線の端と端に位置していた。小走りしても七~八分はかかったように思う。サンドウィッチを買いに行く時間も無くなってしまった。チーム全体のことよりも、私が担当する攻撃に関することを手短かに話し合い、守備については学生に任せきりで、私の関与はほとんどなくなった。
一番いけなかったのは、次の対戦相手の試合のフィルムを学生コーチと一緒に見て、ああだ、
こうだと、意見を交換する機会が極端に減ったことである。見る時間が減るということは、試合の計画の質が低下することにもつながった。ただ、私の思い上がりかもしれないが、大学チームで京大や日大としのぎを削っていたことに比べると、相手が高校チームということで、多少の時間の不足はなんとかごまかすことが出来たような気もする。しかし、それはあくまで私の心理的な合理化、つまり自分本位な理由づけだったかもしれない。
16雨の横スタ. 私が社会学部長を務めていた一九八二年の高校王座決定戦は、横浜球場で慶応高校との対戦だった。その年の高等部チームには、投げて良し、走って良しのQB(クォーターバック)芝川龍平がいた。そして、二年生のQBはラグビーのオープン攻撃に似たオプション・プレーの申し子、野村康平だった。パスを受ける下村真三、牧野信昭、堀古英司たちは大学級だ。当然、主たる武器は「パスの関学」であり、私はパスをひっさげて、大学でも高等部でも日本の王座を毎年狙ってきた。
五反田の宿舎を出たバスが高速道路を横浜に向かう頃、大雨になってきた。高速道路に叩きつけられる大粒の雨をバスの窓から恨めしそうに見つめながら、「この雨ではパスは苦しい」と、自分に言い聞かせた。野村の絶妙なオプション・プレーの能力を生かすためのランニング攻撃が出番だと考えていた。つまり、RBの代わりに野村を入れ、野村が捕まりそうになったら、後ろからくる芝川にボールをピッチするというオープン攻撃も用意をしてきていた。
最初の二プレーは当然パスだった。しかし、大雨のなかでパスは無理だとわかった。サードダ
ウンではRBに代えて野村を投入した。プレーは「右のオプション」。野村は見事六五ヤードを独走、タッチダウンを奪ってくれた。これと同じプレーで前半は三つのタッチダウンを取って、相手に一タッチダウン挽回されたものの、リードが出来た。前半終了間際、ゴール前一ヤードまで迫られてから、相手の四回の攻撃を食い止め、さらなる追加点を与えなかったのは、守備陣のお手柄だった。
しかし、後半はそうはゆかない。大雨で関学はパスを投げられない。相手はパスを警戒しなくてもいいから、ランニング攻撃だけをマークしてくる。オプション・プレーも止められた。そこで、第四ダウンまで待ってボールを蹴るのではなく、相手がボールを蹴ると思っていない第三ダウンでボールを蹴って、大きく陣地を挽回する策に出た。それは良かったのだが、相手に攻撃権を与えてしまうことになる。後半は、慶応高校がどんどん進み、わが軍は防戦一方だ。その時、関学の最後尾を守っていた小柄な選手がグラウンドを端から端まで走って、慶応の選手を懸命にタックルしていた。この武田丈のプレーに救われた高校日本一であった。
17一教員にもどって. SMUから帰り、一教員に戻った私は、定年でご退職なさった島田津矢子先生が長年お持ちになっていた「性格発達論」も担当することになった。むろん、初めて持つ授業である。島田先生は主として精神分析学的なパーソナリティ論と年齢にともなって人間がどんな発達段階を通って成長するかという観点から講義を進めておられた。私にとっては、精神分析学的な発達と結び付ければ前者は比較的講義しやすい理論であった。ただ、私の野心的な試みで、行動(学習)心理
学的な視点も加えてみた。当然、講義の準備にはこれまで経験したことがないほど沢山の時間が必要だった。さらに、二〇〇数十名という大人数の履修生であるのに、ほぼ毎月一回平常試験をし、その日のうちに試験の結果、つまり点数を発表するとアナウンスしたのである。実は、社会学部の共同研究室に小型のコンピューターのような「採点マシン」が置いてあった。ただ、誰もその機械を使う教員はいなかったそうだ。そのことを知った私は〇×式の試験のマークシートを使えば、機械が採点してくれると考えたのである。若い事務の男性に相談すると、「助けてあげる」と言ってくれた。機械を使えば〇×式の採点は簡単である。しかし、問題を作るのが一仕事だ。毎週、講義の準備もさることながら、試験問題の作成に時間がかかった。しかし、機械に正解と間違いを教えておけば、マークシートを機械に通すだけで採点をしてくれる。若い男性職員は、この機械の使い方に通じていた。機械音痴の私は、彼のお助けにすがって、毎回採点を機械にお願いし、その結果(巻紙状の採点用紙)を二人で社会学部の一階の廊下に張り出した。なんと、試験が終って二時間以内である。はじめのうち、月一回試験をし、その日のうちに結果を発表するなんて出来る筈がない。また、武田の「ホラ」だと思って、試験の準備をしてこなかった学生も、どうやらこれは本当だということが分かったようだ。次の試験からは、皆、試験準備をしてくるようになった。心理学でいう、即時強化の効果は歴然だった。アメリカで習ったことの一つがこれだった。SMUの先生は、試験をしたら四八時間以内に採点して、その結果を学生に知らせないといけないようだ。冬休み前で旅行に出る先生は、学生番号とその横に点数を書いて、研究室のドアに貼っていた。
こうして、授業の準備に多くの時間を割く必要があったため、理事会の日に加藤理事長が名古
屋から学院本部にきておられることを知りながら、なかなか学院本部には行けないでいた。自分が学長時代は、仕事上、いやでも学院本部に行っていた。その頃は何とも思わなかった。しかし、自分が役職を離れてみると、学院本部という建物は一教員にとっては遠くて行き難いところだった。