近世薬舗の﹁商標・商号権﹂保護
宇佐美
英機
はじめに 近世商人の信用保障がいかになされていたのかという点に関しては、一九八○年代以降、近世都市史研究のなかで主に 京都を素材として、個別町の町構成員に対する信用担保能力が評価され始めた。私もまた、金銀出入・金銀貸借の事例を ︵1︶ 通してそれらの実態に関饗したことがある。商人にとっての信用は、直接的には営業活動を円滑に進めることができるか 否かに関わってくるものであろう。そして、その営業活動は、資産の拡大・縮小に結びつくものであり、ひいては生命・ 生活の維持・再生産の可否に影響するものであったことは論をまたない。そのことは、単に商人のみならず手工業老もそ うであろうし、在方においては百姓もまた同じと考えられる。 ︵2> しかしながら、都市における個別町の有した信用担保能力については、それが町に内在する本質と理解するか歴史段階 的に変化するものと考えるかということでは、見解が異なっている。本稿ではこの点についての検討は行わないが、私は 後者のものとして考えていることは明らかにしておきたい。また、信用保障の具体的内容については、金融、訴訟に関わ ︵3> ってはすでに前掲の拙稿で述べたことがあり、家屋敷売買に関わっても安国良一氏の研究がある。それらの研究では、個 近世薬舗の﹁商標・商号権﹂保護 八三近世薬舗の﹁商標・商号権﹂保護 入篭 別町のもつ機能に関心が置かれているが、商工業者の経営活動それ自体からの接近は試みられていないことも事実であり、 在方の商工業者についての考察も欠いたものである。 また、一方で近世商家経営史では、経営管理、会計管理、労務管理、経営理念などの経営学的・経済学的概念と分析方 法を用いた研究はある程度の蓄積をもつものの、商工業者の﹁信用﹂それ自体は所与のものとして抽象的に前提とされて ︵4︶ 分析されている。 本稿は、このような研究状況に鑑み、中山道鳥居本宿︵近江国坂田郡、現彦根市鳥居本町︶で生薬を製造販売していた ︵5︶ 有川家による﹁赤玉 神無暗﹂という生薬の販売をめぐる争論を通じて、近世商工業者の信用保持問題の一斑を明ちかに しようとするものである。とりわけここでは、今日における商標権・商号権・特許権などのいわゆる無形財産権が、近世 期ではいかなる形で形成・保護されているのかということに留意したい。それは、このことを通じて﹁暖簾﹂あるいは ︵6︶ ﹁Ωooα妻已﹂の比較研究の手がかりが得られるのではないかと考えているからである。 ︵1>拙稿﹁京都町奉行所における金銀出入取山主法﹂︵﹃日本史研究﹄二二五、一九八一年︶、﹁近世都市の権力と公事訴訟﹂︵﹃日本史研究﹄二八三、一九 八六年︶、﹁近世前期京都の触留﹂︵﹃社会科学﹄三九、一九八七年︶、﹁幕末期町の金銀貸借﹂︵﹃部落問題研究﹄[○八、一九九〇年︶。 ︵2︶例えば、代表的には朝尾直弘氏の次のような叙述は、かかる理解に基づいていると考えられる。﹁町は、町人たちが互いに自分たちの商業活動を共 同に維持し、保障する組織であった。︵中略︶ある人にとって、彼がその町の町人であるという事実それ自体が、彼の信用を形成し、目に見えない資 本となった﹂︵朝尾直弘﹁日本近世都市の性質﹂、﹃町共同体と商人資本に関する総合的研究﹄i昭和六〇年度科学研究費補助金研究成果報告書、﹁九 八六年。後、同氏﹃都市と近世社会を考える﹄に再録、朝日新聞社、一九九五年目。 ︵3︶安国良一﹁近世京都の町と家屋敷所持﹂︵﹃日本史研究﹄二八三、一九八六年︶。 ︵4︶これらの個別研究論文を︻々例署することは困難であるが、現在の研究到達点を学ぶものとして、安岡重明・藤田貞﹁郎・石川健次郎編﹃近江商人 の経営遺産﹄︵同文舘、一九九二年︶、安岡重明・天野雅敏編﹃日本経営史1 近世的経営の展開﹄︵岩波書店、一九九五年︶が有益である。 ︵5︶有川家は、﹃近江名所図会﹄︵一八一四年刊︶の鳥居本宿の場面にその店頭が描かれている。また、﹃滋賀の薬業史﹄︵杣庄章夫編、滋賀県中業協会、 ﹁九七五年︶に若干の記述がみられる。併せて参照ありたい。 9
︵6︶﹁暖簾﹂と﹁Oooα≦ヨ﹂の関わりについては、高瀬荘太郎ヨ暖簾の研究﹄︵森山書店、 しかし、同氏は仲間組合株を暖簾と同一視するなど、歴史学的には問題がある. 一九三二年︶が会計学的観点から論及した早いものである。 ︵7︶ 藤屋久兵衛贋薬販売一件 明和三年︵︸七六六︶十月、江戸表で神教丸の美髪が販売されているということを聞きつけた有川市郎兵衛は、これを 捨て置きがたいと考え彦根層層方に届けたうえ下向し、同二十三日に江戸に到着した。江戸での旅宿は上州屋富次郎であ ったが、到着後直ぐに藩の江戸屋敷に参上し、溌墨から下し置かれた書簡を御上使河北勝兵衛に提出した。河北の前でも 彦根で言上した内容を説明したところ、﹁得与吟味仕、其上二型如何様共致方町並之、急キ下風俗謡宜﹂と言われた。この贋 薬事件解決にあたっては、拙速主義で交渉するように勧奨されたのである。もっとも、市郎丘ハ衛は病気中とて、藤介が代 理で説明・交渉にあたることになった。 ︵8︶ さて、この事件は江戸本銀町通二丁目藤屋久兵衛が、次のような引札を用いて神教丸を販売したことが発端となってい る。 しんきやうぐわん
神教丸
一第一しょくしやう ゑひ かごのゑひ くハ能書にしるす 登包代十六銅 しやく つかえ はら一道 気つけ 目まひ 曳くらミ くわくらん 舟の 惣して酒より出たるわっらい又ハ腹中のわっらひ、何によらず男女とも用てよし、くわし 近世薬舗の﹁商標・商号権﹂保護 入戸近世薬舗の﹁商標・商号権﹂保護 善神教丸之儀、 功を弘メの為、 御薬調合所 ひろめ所 功能甚妙にして、数年来国元上方筋、郭外諸国へもとめに卒し相弘候、 所々に取次所仕、売弘雪雲候、まことに神仙の奇法著しきものなり 江州鳥居本宿 有川市郎兵衛印 江戸本銀町通二丁目 藤屋久兵衛 入六 依て此度御当地におゐて其薬 江戸取次所 神田三河町壱丁目 同橋本町弐丁目 芝口露月町 小伝馬町弐了目 本白銀町一丁め川岸 本郷四丁目 同砂利場 武州千住河原宿 富士屋清兵衛 橘屋太兵衛 市口権右衛門 山城屋半七 柏屋惣介 相模屋利助 鏡屋徳兵衛 上総屋浅右衛門 同三丁目 同久右衛門町 南塗師屋町 横山町壱丁目 本町三丁め岩附町 浅草田原町壱丁目 新吉原江戸町二丁目 藤屋長重良 糸屋長兵衛 万屋嘉十郎 市野屋善兵衛 明石屋文六 和久屋平吉 森田屋又左衛門 この引札により、当時、藤屋久兵衛が神教丸の江戸﹁ひろめ所﹂として存在し、その取次店が十五か所あったことが知
られる。そこでの謳い文句は、薬に効能があり、数年来、国元、上方筋、諸国へもとめに応じて頒布してきたが、このた び江戸でも取次店を設けて販売するとされている。 さて、有川家にとって右のような状況の何が問題であったのだろうか。十一月六日、上州屋富次郎と同道して久兵衛の 所へ罷越したさいの双方の主張から検討してみよう。 市郎兵衛の代人藤介は久兵衛に対し、神教導は﹁何方﹂から来たものか尋ねたところ、﹁外6頼レ売申候﹂由の返答があ った。つまり委託販売であるというのである。そこで藤介は﹁神教丸調合所有川市郎兵衛与申ハ拙者共匪候、何方6頼レ弘 メ所取次所藤屋久兵衛与申引札配リ被申候や、久兵衛与在之候ヘハ遁レ無之﹂と、有川家が関与していない事実から詰問し た。久兵衛はそれに対し、﹁本家6出申魔神教丸与実二存世話鼻聾﹂と、薬の製造元は有川家だと信じていたので販売の世 話をしたのだと応え、﹁何分御了簡直下候﹂様にと詫びを入れた。そのうえで、﹁御公辺﹂へ訴えても自分は病気なので出 頭は難しいし、裁許まで日数も懸かるだろうから﹁下済﹂しして欲しいと述べた。実際、この争論の裁許を求めるとすれ ば支配違いの出入りとなり幕府評定所に係属し、久兵衛の言う通り江戸滞在の日数も費用も懸かることは明らかである。 それゆえ、彦根藩江戸屋敷での意向も公儀権力を煩わすことになることを説き、当事者間での﹁対談﹂を勧奨していたの である。 しかし、久兵衛の半ば言い訳と桐喝を交えた応答は、藤介を満足させなかった。藤介はたとえ日数が懸かってもかまわ ず、遠方から来ているのだから﹁急度詮議﹂すると応じた。この姿勢に恐れをなしたのか、本町二丁目伊勢屋三次郎手代 善兵衛に頼まれ看板・版木・引札を伊勢屋方で椿えた、と久兵衛は白状した。そして、次のように頼んでいる。 伊勢屋三次郎ハ私出入旦那二面御座候、此義御公辺へも御蓋被先報ヘハ、三次郎名前出、然ハ私伊勢や方見捨られ候様 近世薬舗の﹁商標・商号権﹂保護 八七
近世薬舗の﹁商標・商号権﹂保護 八八 二相成、渡世難成、掬々難渋成事二候間、偏二下済二仕呉 病気でもある久兵衛の様子を見て、とりあえずは﹁存寄﹂があるならば親類なりとも旅宿に寄越すように伝え、その場 を後にした藤介は、次に久兵衛の家主十右衛門を訪ねた。そこでは、事の次第を説明して久兵衛の身柄の預かり手形を受 領し、続いて名主の明田太郎右衛門にも彦根藩屋敷に伺い済みの争論であることを伝えた。 翌日、十右衛門、店請人半四郎が旅宿を訪ねて来て、看板・版木とも渡させるので了簡して欲しいと富次郎に頼んだ。 藤介が彦根藩屋敷に伺ったところ、下済ししたらどうかと勧められた。御屋敷の見解としては、下染があったとしても﹁看 板相渡し、以後急度相認可申与可被蓋重事二様、御誓も有間敷候間、無爵義二候﹂とするものであった。その後の事の詳細 は省略するが、結論的に和済の交渉を進めることになった。 和済は、十右衛門・半次郎を通じて伊勢屋との交渉が行われたが成功せず、藤介が直接伊勢屋へ出向き行った。そこで は支配人義兵衛・家主山城屋藤兵衛が対応したが坪が明かないため、名主山本伝左衛門に事情を話し、五人組にも届けた。 その結果、交渉は進み、両名主の立ち会いのうえで﹁前野、両人支配下二而ハ三男彩雲致させ古論敷﹂という言質を得た。 その後、何回かの交渉を経て、十六日朝に内済証文の下書きを屋敷に届け了承を得た。ところが二十一日に十右衛門が訪 れて言うのには、十九日に藤兵衛が病死したとのことである。しかし、二十三日、山本伝左衛門宅で伝左衛門・義兵衛・ 善兵衛・藤丘一語・吉野屋文蔵︵この人物は不明︶・有川市郎兵衛・藤介が立ち会い、内済証文を手交して坪明けとなった。 このさい和済の条件として、①神教丸と銘のある掛看板大小+四枚、②能書を記した引札の配り残り全て、③薬に用いた 版木類三つ、④薬包紙の残り全てをそれぞれ没収し、⑤調合済み丸薬は有川方で焼き捨てるとされた。しかし、このうち 引札の版木一枚と摺看板の版木一枚は、鉄砲町の板木屋石井幸七方に預け置いたところ、二月に同所が類焼し損失した。
︵ママ︶ また、﹁明和三二年霜月﹂付けで善兵衛が﹁有川市郎兵衛、附添人藤介﹂にあてた﹁証文之事﹂には、﹁右薬ハ主人三治郎 6久兵衛相頼量売三章義二而ハ曽而無慮、私方6久兵衛を相頼為致売薬候義二酒壷之候﹂と記されている。文字通り伊勢屋 の主人は無関係で、手代の善兵衛のみの裁量で神教丸を売弘めさせたのかどうか断定はできないが、残されている史料で は久兵衛・善丘ハ衛を直接の関係者として挙げており、市郎兵衛も三次郎に直接交渉はしていない。 さて、有川家にとって藤屋久兵衛らの行為は、了解を得ずして自家の神教丸を売り広め、しかも取次店を設置しており、 贋﹁薬売り﹂にあたるものであった。それゆえ、そのような行為は自らの営業活動を侵害するものと出訴を考えるのは当 然であった。しかし、藤屋久兵衛が﹁本家6出番候神教丸与実二存﹂じていたとすれば、薬それ自体は久兵衛が調合したも のではなく、彼は有川家製の神教丸を頒布していると信じていたと思われる。 七日に工面の伺いを立てたさい、江戸屋敷で善兵衛はどこから来た者かと尋ねられた時、藤介は彦根御組衆の子供であ る由答えている。両者のやり取りは、神心嚢そのものは有川家製のものであったこと、しかも入手にあたっては藩内の身 内が関わっている可能性があったことを示している。この点では、十一日夜の交渉の席で伝左衛門は、善兵衛が﹁私親元 ハ彦根二而、右之薬御屋敷者仁方へ頼参り世話下山﹂と述べていることを話している。右の引用部分は原本では付箋に記さ れているが、その下地文には﹁私親元缶切通し組木戸常右衛門与申候、此所6右之薬屋敷中村藤蔵与申仁方へ頼参、夫6私 世話致候﹂と記され、また人名は墨で囲んで抹消の形態を取っている。このことは、善兵衛は彦根藩足軽を父にもつ人物 であワ、薬を江戸屋敷在の中村藤蔵の了承のうえで江戸での販売を藤屋久兵衛に委託したことを示している。 しかし、江戸屋敷ではこのような経緯は掌握していなかったため、訴訟ともなれば足軽・藩士の介在が公になり、かつ 江戸屋敷と彦根無筋方との文書の交換を余儀なくされ、ひいては江戸屋敷の不手際が明らかになることを恐れたのか、七 日の席で出自の応答に続けて、この事件は﹁聞捨﹂にし、重ねて薬を販売したならば、その節に十分に吟味する、と述べ 近世薬舗の﹁商標・商号権﹂保護 入九
近世薬舗の﹁商標・商号権﹂保護 九〇 ている。そして、藤介の方で考えがあるのならば如何様にしてもよいとしたのである。そのため、藤介としては、この度 は堪忍するが、遠方から来たのだから薬を出した在所・名前は内々で調べたいと上申し、江戸で吟味することは勝手次第 だと許可を得たのである。その吟味で明らかになったのが上述したことである。 十二月八日、国元に戻った市郎兵衛は、江戸での争論が解決したことを筋方に届けた。そこでは、五点の和済条件の説 明が行われ、神教丸それ自体の入手経路などに触れることはなかったものと推測される。 ともあれ右の事件では、贋﹁薬売り﹂の情報をどのようにして有川家が入手したのかは不明であるが、紛争当事者間で 話し合いによる解決がはかられている。有川家は、このさい、不正な営業行為を支えた看板・効能書・引札、およびそれ らの版木などの全てを没収し処分することで﹁神教丸﹂と製造販売業者としての自らの信用を守ったことは明らかである。 ︵7︶本節で引用する史料は、特に断らない限り、コ江戸表贋薬指留之留帳︵一︶L︵滋賀大学経済学部附属史料館腰託﹃有川文書﹄商業一七七︶による。 ︵8︶﹃同右﹄商業二一六。 二 ︵9︶ 油屋庄右衛門売薬一件 江戸での争論がまだ記憶に新しい明和八年︵一七七一︶一月二十四日、前年末に難渋の趣を代官所に訴えたところ﹁年 内無余日、来早春願出馬様﹂と言われたため延ばしていた願書を、市郎兵衛は筋奉行に提出した。その願書の趣旨は、次 のようであった。 ︵ママ︶ 大津出店北向へ同町居住油屋庄右衛門与申仁、向城州山科郷髭茶屋町二而明和七年葭笛、貸ケ屋敷を買求、同七月右私
方与同薬銘之看板を出し、 ︵ママ︶ 鳥本丈助製与論売薬被致、 甚出店骨壷障二相成 この願書をうけた﹁中筋御加役﹂の佐原善右衛門は同役奥平思入が不在のため、他の烏鷺と相談して仰せ渡したことは、 ﹁名高き薬悉曇二候得ハ、不可の払方二而ハ戸外聞二懸り、容易之事二面之﹂いため、源八の出勤を待って処置するという ことであった。この対応から明らかなことは、神教護は彦根藩筋方役人にとっても出訴の結果次第では﹁外聞﹂に関わる ﹁名高き薬﹂という認識があったことであろう。有川家の出訴したいという意向に対しては、二十七日に代官所に召喚さ れて次のような指示がなされた。 先年江戸表之一坪とハ此度ハ格別、二条御役所へ及出訴群書容易御将合型置仰付義二も有間敷、京都御屋敷御留主居 様へ御使札を学童仰談垂雪も行届兼候、︵中略︶不坪勘而凹面外聞二二リ山間、京都御役所表内々激賞承合セ候様被仰下 置候二付、御礼御難申上、伍私罷登り何角聞合セ度聡警之候処、勝手門構登り得与聞合セ下様黒潮下欄候 右に示された代官の指示は、藩の体面を立てることを前提として極力出訴を避けさせようとするものの、市郎兵衛が独 自に京都で情報収集することについては認めている。それは、藤屋久兵衛一件における江戸屋敷の対応と同一である。し かし、市郎丘ハ衛は、個人的に強い人間関係を京都町奉行所にもっていた。彼は、その繋がりを大いに利用して勝訴の確信 を得るに到る。 すなわち、二月十九日に上京した市郎兵衛はまず﹁下地δ御厚情二被成下候﹂、﹁私深ク御出入﹂の神沢氏に接触し、事 情を説明して協力を求めた。この神沢は、東町奉行所与力︵閾所方︶神沢弥七の父で、元与力であった人物であるが、当 近世薬舗の﹁商標・商号権﹂保護 九一
近世薬舗の﹁商標・商号権﹂保護 九二 時は隠居して無兵衛と名乗っていた。神沢は、立場を利用して積極的に同様の紛争の先例を調べ、﹁此上ハ格別春分二相見 へ候間、委書認﹂めて見せるように内意を伝えた。これを受けた太郎兵衛は、かねてから従兄弟の三太夫と作成しておい た訴状案を二十六日に差し出した。それによれば、以下の諸点が記されていた。 ①神唐丸は、西国はもちろん東海道へも弘まってきたので、享保十五年︵一七三〇︶に許可を得て大津髭茶屋町に出 店を開設した。 ②神教丸という薬銘は医書にもなく、先祖が名付けたものであるから、同量の薬があってはならない。 ③出店は売薬専門の店であり、往来の人々が腰掛けて休息できるような造作はしていない。しかるに、庄右衛門店は 立場茶屋を兼ねているので、この度結構に造作して御歴々様方の休息所を設け、その店で﹁鳥本出店﹂と偽り神教 丸を販売している。これでは、たちまち諸国へ弘まり、私の店がかえって偽店のように受け取られ、立ち寄る入々 がなくなってしまう。 第③点に関わっては、庄右衛門は諸方の馬方・駕籠昇達に酒などを送り、そのうえ薬代銭のうち少々つつ口銭を遣わし て往来の人々へ売りつけさせている、という主張もしている。神沢は、この訴状案をもとに、彼の町奉行所における人脈 を通じて情報を集めて行ったものと思われる。 五月十入日、神沢から連絡を受けた市郎兵衛・三太夫は上洛し、直ちに彼を訪問した。そこで神沢は二人を喜ばせる内 容を伝えた。 右一件御聞合被下中処、様子至而宜候、鳥居本薬、梅木和中散弾、世上名高薬量而、業事御役人中当方御存知、御奉行 様連も達盗聴在之義二候ヘハ勝利無疑、其上彦根表6御奉行様へ被仰込候ヘハ、別而宜段被管聞、早く罷下り、彦根表
へ相願可及公訴与御申被下候 ︵10︶ すなわち、﹁鳥居本薬﹂︵神教丸︶や東海道梅木立場の﹁和字散﹂は高名な売薬であり、その名声は奉行所役人は周知の ことである。紛争内容についても奉行の耳にも達しているので、訴訟になっても勝利は疑いないことであるから、訴訟を 提起せよ。また、奉行に別途彦根藩から内意を通じておくとよいだろう、と神沢から助言をうけたのである。 神沢の情報源は、現役の東町奉行所公事方与力本多金蔵であり、この人物は神沢と﹁近親御入魂﹂の関係にあった。市 郎兵衛たちは直ちに帰郷し、この旨を代官に届けた。 六月二十九日、出訴の願いを代官に届けたが、直ちに鳥本丈介と交渉したり町奉行所に出訴することは禁じられた。と りあえず京都留主居役山上良蔵の考えを聞いたうえ、出訴が良いということであれば、再度帰郷し言上するように、その うえで老中の許可を得られれば上洛するよう命じられた。京都においても、留主居役は出訴に備えて着々と根回しを進め ていった。蘭月六日に筋奉行から京都留主居役宛の用状を持参して上洛した市郎兵衛たちは、そこで﹁内々二条御役人中 へ御貝合被成、丹波市様へも御口上書を三号申上置、極首尾宜﹂しい状況であることを知らされた。実際には前日五日の 出訴を留主居役は予定していたが、当人たちが上洛しなかったので、すでに本多に断りを入れていた。 留主居役による情報収集によれば、奉行所役人に内々尋ねたところ、﹁神教説﹂という薬銘は﹁削﹂ることはできるだろ うが、先年の江戸でのような﹁十分之坪合﹂は難しいだろうということであった。 ともあれ、出訴すれば勝利は間違いないことは、事前の根回しで確証を得たため、.市郎兵衛たちは、本訴提起を前提に 鳥本丈介との交渉に乗り出すことになった。入月十三日号大津で鳥本との対談を求めて庄右衛門宅を訪ねた。しかし、庄 右衛門によれば丈介は弟であるが、現在は親元にいるということであった。そこで庄右衛門に店の看板を引き、売薬をや 近世薬舗の﹁商標・商号権﹂保護 九三
近世薬舗の﹁商標・商号権﹂保護 九四 めてくれるように申し入れた。すると、庄右衛門は次のように応じた。 諸方へ紙看板等をも出し、ケ様二手広致懸通義叢叢止男申と申義叢叢、勿論此外二も諸方二神雪丸与申看板出在之候へ 共、指障り二相成不申や ここで庄右衛門が、他にも神教丸の看板を掲げて売薬している者がいるではないかと指摘している点は注目される。実 際、これらの人々に対しても後日に差し止め交渉が行われるが、それは次節で述べる。また、市郎兵衛も﹁其義此方胸中 二在之事二候、其元指図二及下露候﹂と応じている。庄右衛門の主張は以下のようであった。﹁この店は入十年以前には自 分の持ち家であったが、手元不如意のため一旦手放した。しかし、隠居跡のことでもあり、昨年に買い戻したものである。 二十年以前にも神教丸の看板を出して薬を売ったし、他にも同銘の看板を出している者がいるので問題にはならないと思 って開業した。今回も看板を出す前に交渉があったならば相談もできたが、このように手広くなってきた今となっては取 りやめることはできない﹂。 結局交渉は決裂し、﹁左差損・出訴可仕﹂、﹁勝手二可仕﹂と物別れに終わった。そのため、双方の店の町年寄・五人組に 出訴の旨を届け、京都留・王居役にも届けたところ、願書の下書きを見せられた。つまり、本訴状案はすでに京都留主居役 のもとで作成されており、市郎兵衛らはそれを清書するにすぎなかったのである。 十四日に願書を留主居役に上覧したところ、山上は本多に連絡をとり、本多が同道して奉行所に向かった。本多は同役 中に相談し、町奉行酒井丹波守に上申したところ、懸り与力に本多が命じられた。さらには願書に﹁赤玉、鳥本杯与申紛敷 文字似寄候薬名御隠留﹂の一節を加筆さえしてくれた。本来、裁判を有利に進めるために奉行所役人などに縁故をもつ者
がそれを利用する行為や為政者側の情実的な取り計らいが禁じられていたことは、周知のことに属する。しかし、この一 件は、明らかに京都東町奉行所ぐるみの、したがって結論︵裁許︶が先に決定している紛争の体を示している。 十五日朝五つ時、奉行所に願書を持参し本多金蔵に差し上げてくれるよう頼んだが、当番の下町代塚本長兵衛は、願書 は﹁全御帳付物二候﹂と訴訟帳付けはできても担当与力の指定はできないことを伝えた。そのため領主から通達されてい ることを述べたところ、取り次ぐとのことであった。しかし、この願書には﹁有川市郎兵衛﹂と苗字が記されていること を答められた。塚本にすれば、町奉行所に提起される訴状に町人が苗字を記していることは、書式に反するものと考えた のである。しかし、苗字についても、彦根では相手も鳥本という苗字があるのだから、当方もなければ釣り合いがとれな いという判断で、八日の時点で苗字御免を指示されていたのである。それゆえ、免許されている旨述べたが、塚本は自己 責任を間われることを恐れたのかなかなか了承しなかった。しかし、どこででも申し開きをするという約束で、塚本はよ うやく取り次ぎを承知した。この訴状はそもそも訴状の書式を踏襲していなかったことは、提出以前に市郎兵衛らは﹁外 之書様とハ違ひ碧玉、是ハ御威光筆先良蔵様御楯故、指出し願ひと遣物二相成﹂ると記していることからも明白である。提 出された訴状は﹁乍恐奉願口上書﹂という標題であったが、その末尾部分は次のようであった。 右庄右衛門被召出、神雷丸之銘二而売薬上輿義厳敷御斎留階下、看板御取上薬学候急撃論叢、弥富之通黙思付母岩置候 ハ・、此後彼店二而売薬仕候共、神教之二字ハ勿論、赤玉之称号罫描似寄候文字之薬名、鳥本杯と申ス紛敷名字をも御 指留被下置候様奉願候 右の史料のうち、﹁赤玉﹂以下の部分が、実は本多金蔵が事前に筆を加えた一節であると考えて良いだろう。かくして、 近世薬舗の﹁商標・商号権﹂保護 九五
近世薬舗の﹁商標・商号権﹂保護 九六 この訴訟は担当与カー全面的に市郎兵衛と内通している1本多の審理に係属することになった。しかも、常の審理過程と 大きく違い、極めて異様なスピードですすめられた。その夜に先方に差紙が出され、翌日に召し出して審理を終え、十八 日に裁許がなされているのである。裁許書によれば、庄右衛門が申し述べたことは全て証拠がないと退けられ、市郎兵衛 の全面的勝訴となっている。庄右衛門には反証の時間的余裕も返答書染筆の機会も与えなかったようである。丹波守によ る裁許書︵﹁申渡﹂︶の一部を引用すれば次のようである。 鳥本与名字を付ケ候事由、全市郎兵衛売薬鳥居本くすり会合ならハし候故、鳥本薬研弟子積と相聞工、又赤玉与申モ市 郎兵衛方薬之称号山蔓処、庄右衛門方薬包紙二赤玉与認、彼是与論仕形葺いたし候故、市郎兵衛方売薬渡世及衰微難義 二相成居間、差留之義願出番貸付、庄右衛門義令吟味諸処、去年以来新二差脚候神教丸之義一重右衛門方家伝之由二 而、先祖より之申伝を無量、殊近年身上向不如意二相成候故、与自存付専売弘義義、相違無之、殊追分赤玉与申言、先 祖専追分二百売註解由之処、数年来中絶いたし候義之由、尤右売薬ハ先祖6空聞土器己二而無証拠熟読答之、且橋本丈 助与看板二相認候義ハ、庄右衛門弟丈助与申者、城州吉田村手前方言季候町医鳥本玄真与申者方へ養子二差遣書論、玄 真義先年病死いたし、丈助義死跡相続も難相承前、庄右衛門方へ引取置候謂を以、鳥本丈助与相認候義之旨彼是嚢子候 へ共、何も無証拠之義、殊同町二至楽雷神教丸又ハ赤玉与申唱、市郎兵衛方売薬之余力を奪ひ謬論相聞へ、甚紛物仕形 不将之至二候、依之新製之神黒丸売出し候義目向後急度重留申渡候、且看板井薬方能書之板木ハ早々市郎兵衛へ相渡し 可申候、此以後外之売薬製法いたし候共、神教之二字、且鳥本、赤玉之文字も決而不相成候 右の裁許書が本多の加筆部分も取り入れて、市郎兵衛側の全面勝利になっていることは歴然としている。とりわけ、﹁此
以後外之売薬製法いたし候共、神教之二字、且鳥本、赤玉之文字も決而立相成候﹂と裁許されたことは重要な意味をもって いる。﹁神・教﹂・﹁赤玉﹂・﹁鳥︵居︶本﹂が有川家に優先権があると認定したといえるからである。それゆえ、一月二十七 日に代官所において説諭されたことは、全くの天津に過ぎない結果となった。有川家は、自分たちが当初考えた以上の権 利を保障されたのである。この結果、市郎兵衛は庄右衛門の店にあった台看板一枚・釣看板一枚・効能書版木﹁枚・紙袋 に押す版木一枚を没収し、処分することができたのである。 しかし、一般的に京都町奉行所においては、出願を受けた公事訴訟は一週間から十日後に初対決が行われていたものと 考えられるから、右の一件は尋常な手続きではなかったことは明白である。なぜこのような次第となったのであろうか。 この点を明確に述べている京都留主居役が考方に宛てた用状を次に掲げておこう。 此度本多金蔵へ得与御上被肝入格別出精半被呉、十五日二願書指出し、十六日御吟味、同十入日御裁許与申義、中々容 易二右之通二可相成義二無之、尚又十三日四日頃、勅使中途6御呼返シ之御沙汰下之、就夫色々風聞有之、既近々御 停止御触も有之男囚申唱候骨付、弥右風聞無相違候ヘハ、十五日訴状帯出候而も御待合何程延喜申も難斗御座温故、 段々本多氏へ御漏ケ合意下弓義も無二相成、其上大津表へ対談之後日、先方6諸方へ手を入黒蝿、追分出店6嗅出し、 追々注進仕候由、其御手与申ハ九条家或御所司之御家来、或金蔵近キ縁類なとへ手を入候由、縦何程相働候共容易二覆 相可仕義二も無御座候へ共、何分御裁許相延候而ハ西御役所へ相思置段甚難渋、其上日数有之候潮脚先方存分相働候 事、大黒二相成候回内いつれ六ケ敷候間、今夜中二願書眉墨、明朝早ク可指樽候、随分手短二将合可塑致由被申子二 付、指図之通願書御器出させ被下候処、前段二三上篇通之御坪方二相成、丹波守粛学直二拮据書誌 近世薬舗の﹁商標・商号権﹂保護 九七
近世薬舗の﹁商標・商号権﹂保護 九八 すなわち、右の史料から市郎兵衛方もさることながら、相手の庄右衛門方も﹁九条家或御所司之家来、或金蔵近キ類縁 なとへ﹂縁故を求めて画策する動きがみられたことが明らかであろう。市郎兵衛方では、とにかく東町奉行所が月番の間 に、相手方の縁故が効を奏さないうちに裁許を得る必要があったのである。庄右衛門は市郎兵衛出店と同一町の者であっ たが、彼の店が建っている山科墨髭茶屋町は禁裏御料であり、公家・所司代らが関わってくる可能性は非常に高かったも のと考えられる。そのことが、右に縷々述べてきたような争論の解決過程をとらせたのである。市郎兵衛方は、写方・京 都留主居役の了承のもと、本多金蔵には銀十五枚、東町奉行所下役脇山源四郎・同中川繁右衛門にはそれぞれ五百疋・三 百疋を進呈し、丹波守には﹁御上﹂からとして、本多を通じて萱原綿三把・あめの魚塩引二戸を贈呈してお礼の印しとし た。 ともあれ、この争論によって、﹁赤玉 神教祖﹂は﹁鳥居本﹂の﹁有川市郎兵衛﹂の製法する薬であり、これに紛らわし い類似の文言を用いた看板・薬銘・引札類の一切が禁止されることが、京都町奉行の名において保障されたということが できる。それは、藤屋久兵衛との争論が結果的に私的な次元での﹁商標・商号権﹂の確保にすぎなかったことに比すれば、 公的に﹁私的な権利﹂として保護されることが確定したということができよう。 ︵9︶本節で引用する史料は、﹁大津出店向6出入諸事留帳︵二︶﹂︵﹃有川文書﹄商業一七八︶による。 ︵10V﹁壷中散﹂については、井上優﹁街道薬・墨摺散の創製と展開について﹂︵﹃栗東歴史民俗博物館紀要﹄二、一九九六年︶がその﹁本家﹂をめぐる問 題に論及している。また、参照すべき文献も網羅しているので参照ありたい。
三 ︵11︶ 京都・大津跡懸出入 前節で有川家の﹁商標・商号権﹂の確定の経緯について明らかにしたが、その争論過程の中で庄右衛門が他にも同様の 行為を行っているものがいるではないか、と指摘していたことを想起されたい。庄右衛門との争論に勝利を収めた有川家 は、当然のことのようにこれらの﹁商標・商号権﹂を侵害する営業行為についても、引き続きその差し止めを求めて行動 を開始する。もっとも、この行動については、彦根藩側が積極的に促した色合いが濃い。何分、東町奉行所に出訴すれば 勝利は間違いないことでもあり、藩の体面が揺るぐことはあり得なかったからである。それゆえ、市郎兵衛は明和八年九 月十三日に筋奉行に届け出、十月八、九日の両日にかけて大津・京都へと交渉に出向いた。これらの個別事例を詳細に述 べる必要はないと思うが、当然のことながら交渉はほとんど成立した。また、不調に終わった交渉も京都東町奉行所への 出訴を通じて全て勝訴となり、有川家の権利は保護される結果となった。それらの交渉相手となった人物︵職業︶と没収 した証拠品次第を抄記し、どのような物が店頭売薬に利用されたのか明らかにしておこう。 ︻対談で和済した者︼ ①大津馬場村扇屋次回 台看板︵幅二尺余・長四尺斗︶赤漆・薬銘金泥。効能書︵有川家と同﹂︶。薬包名前・若山 応澄。 ②大津境川町木屋佐兵衛︵薬屋︶ 懸看板︵幅一尺二寸・長四尺余︶。効能書︵有川家と同一︶。薬包名前・真田佐 兵衛。 B大津西今颪町柴田良助︵薬屋︶台看板︵幅二尺余・長四尺余︶、木地に.難本神教蒲江州彦根法橋久保少進 伝柴田良助製しとあり、薬銘・名前とも金泥。法橋名は高橋道意から授けられた由。 近世薬舗の﹁商標・商号権﹂保護 九九
近世薬舗の﹁商標・商号権﹂保護 ﹁○○ ④大津八町札ノ辻δ一丁目井筒屋清兵衛︵両替屋︶ 台看板︵幅二尺余・長四尺斗︶、木地薬銘金泥。効能書︵有川 家と同一︶。元は﹁神吉丸﹂としていた。 ⑤大津清水町倉敷屋利兵衛︵薬屋︶ 小さき台看板。効能書︵有川家と同一︶。 ⑥大津今一里塚町虎屋清兵衛︵針屋︶ 看板︵幅一尺四、五寸・長五尺余︶。効能書︵有川家と同一︶。 ⑦走井当居住大和屋吉兵衛︵先住、今は今一里塚町居住孫入︶ 懸看板︵幅三尺余・長六尺斗、台とも︶、﹁神教丸 鳥本市郎右衛門製﹂とあり、銘銘・名前とも金泥。孫八から薬方・懸看板とも譲り受けた。相伝の薬名は﹁安中丸﹂ で=五〇年余相伝のものの由。 ⑧大津下河原町徳永越後︵梅鉢屋次郎左衛門、針屋︶ 台看板︵幅三尺斗・長六漏斗︶、薬銘金泥。現在、お予めに より謹慎中。諸方へ卸売りもしていた。
⑨大津船頭町蓬嘉丘ハ油紙小複.釧鳥居本神教丸・と記玄効能書︵有川家と同一︶.
︻出訴して解決した者︼①山科郷八事桝屋磐衛門響板︵幅二尺余・長三尺余︶、張り紙に、軍神白丸・。懸看板・薬包紙に、江州
播磨田福岡次右衛門製しとある。効能書︵有川家と同一︶、﹁売弘所 京伏見追分﹂とある。 * この人物は、十月八日より同銘看板を出して営業し始めた。播磨田村近辺の親類に問い合わせたところ、二十 年余以前に村追放された者であった。裁許の結果、手錠を申しつけられた。油屋庄右衛門の親類の由である。 ②京都日暮通り四丁目西側南6四軒目奈良屋平兵衛 看板︵幅一尺余・長五尺斗︶、木地に金箔で﹁鳥居本本家神教 丸﹂。薬包・効能書︵有川家と同一︶、﹁鳥居本本家 京御城前日暮香花堂﹂と認めてある。* この人物は審理過程で﹁神教導﹂はやめて﹁神散丸﹂と改めると答えたところ、奉行からけしからぬことを申 すと叱られ、今後、売薬製法をするとも﹁神・教﹂の二字は﹁決而不相成﹂と命じられた。このことは、先の庄右 衛門に対する裁許書に共通する点である。 さて、この時期に解決した事例は上記の十一件である。いずれの事例についても、看板や薬包紙、効能書の現物はもち ろんのこと、それらの版木にいたるまで全て有川家が没収して処分することになった。話し合いで解決がついた九件につ いては、当然ながら以後の同名売薬行為をしないことの約定書をとっている。売薬営業それ自体の禁止を求めているので はなく、あくまでも有川家の﹁商標・商号権﹂を侵害するような営業活動の自粛を要求したからである。しかし、この時 に解決できなかった事例がもう一件あった。残存する史料からは確認できないのだが、これも話し合いで解決されたので はないかと考えている。その一件は、伏見藤森字田楽、町名玄番町河内屋太兵衛屋敷である。 この事例は、当主が西国へ他出中とのことで日時を替えて二回訪れたが、やはり留守であった。そのため、ことの子細 を手代と町年寄に話し、来春に再び訪れることにしたものである。この店では台看板︵幅二尺余・長五尺斗︶に﹁延命㊧ 神教丸﹂と金泥で記され、上げ看板にも﹁延命神教丸﹂と認めてあった。京街道の方の暖簾に薬名を記し、﹁調合所 小倉 近江﹂とあり、効能書も有川家のものと同一であった。したがって、これらのことどもは先の事例と同一の類似性をもっ ているため、翌年春には有川家に看板など一式没収されたであろうと推測できるのである。 ︵11︶本節で用いた史料は、﹁京大門跡懸出入御裁許之豊幡︵三V﹂、﹁京大津弓懸出入巨細留帳︵四︶﹂︵﹃有川家文書﹄商業一七九、一入○︶である。 近世薬舗の﹁商標・商号権﹂保護 一〇一
近世薬舗の﹁商標・商号権﹂保護 一〇二 四 鳥居本近辺の贋薬事件 有川家の﹁神空喜﹂に関わる﹁商標・商号権﹂は、上述のように確立されていた。しかし、それは紛争当事者以外に公 示されたわけではない。近世社会は、私権の公示という行為が体制的に成立している歴史段階ではないため、この後にも 三人の人物が有川家との間で物議をかもしている。天明六年置一七入手︶七月六日に出訴し、同十二日に中筋奉行の裁許 ︵12︶ を受けた事例は、坂田郡記法寺村四郎丘ハ衛にかかるものであった。すなわち、四郎兵衛が静粛から売薬店を出して﹁当駅 隣宿之馬方・駕籠昇等へ酒肴を送り、かたらひ、旅人を引付、薬を売付けさせ、口銭を遣し被申候由風聞在之、引札を持、 往来之旅人へ配り、且登り下 御大名様御下宿へも右札を持参、日本一之看板目当二御出、赤玉御求被下豆粥二与堅強廻﹂ たことを誓めたものである。 馬方・駕籠昇を利用して集客を試みるという行為は、先に述べた油屋庄右衛門と同様であった。このことは、有川家の 神春曇製造販売がまさに﹁街道の商業﹂であり、中山道あるいは東海道を往来する人々を対象にした店頭販売のみの営業 形態をとっており、取次店を設置して卸販売を兼ねるような方式をとらなかったことからくる必然的な帰結でもあった。 中筋奉行が代官に宛てた用状を次に掲げ、事件の概要を明らかにしておこう。 坂田郡西法寺村 四郎兵衛 右溢者、神力丸尽申売薬いたし、依之近頃新二高キ懸看板を持、赤キ丸ノ内二日本一、下二本家鳥居本薬自認メ置候 由、元来上矢倉村市郎兵衛数年来館弘メ候神痩肉之義ハ、所々遠国迄も人々功能を賞用ひ来り、鳥居本薬又者赤玉与申
唱候得ハ、全神教丸之事と人々群居事三厩、右四郎兵衛新規外出シ踏肥看板二而ハ、他国往来之者神教丸と存留ひ可申 も難語、薬鞍点ハ人身二相懸り大切漫事二輪、其上赤玉之模様言外二顕シ在之候ヘハ、是又不宜致方二候、能書ハ同 様之判形二相力之一字を彫賢島而已にて、却而年古キ神教丸を贋薬ノ様二人二念迷可致も難斗手段相見へ候、同型領分 同宿二住居いたし、隔失語基ひを企候義不坪至極二詫間、右躰之懸看板ハ叢説メ、其外諸事紛敷仕形向後取斗不申時 様二可被申渡候、及違背候ハ・越度二可申附候 右之趣呼寄セ於代官前急度可被申渡候、以上 午七月 中筋奉行所 中村与左衛門殿 この事例では、有川家と同じ在所の人物が、﹁赤キ丸ノ内二日本一﹂・﹁本家鳥居本薬﹂と記した﹁赤玉﹂・﹁鳥居本薬﹂に 紛らわしい看板を掲げて﹁神力丸﹂を販売している。右の史料には記されていないが、店内の看板にも﹁神力丸 赤玉元 祖三浦清蕎畢宿西川四郎兵衛製﹂と認めていた。さらに、薬包添書には﹁赤玉薬、近来ハ紛敷贋思慕御座世間、御吟味御 求可被下﹂などと記し、あたかも﹁赤玉 神悪留﹂が紛らわしい新製品のようにとり繕っていたのである。 他家の商品の名声を意識的にまたは無意識に利用することは、商業活動にはつきものであるとはいえる。しかし、﹁赤玉﹂ ・﹁鳥居本薬﹂・﹁神教丸﹂は有川家に固有の商標・商号であることは確定しており、彦根藩の裁許もそのことを改めて確 認させる内容となっている。七月十一日に至り、この場合は薬それ自体は売薬とまではいえないので、看板は差し止める が、それを市郎兵衛に渡すには及ばないとされた。 このように有川家の﹁商標・商号権﹂は彦根藩内の鳥居本宿では周知化されたと思われるが、年月の経過は﹁権利﹂に 近世薬舗の﹁商標・商号権﹂保護 一〇三
近世薬舗の﹁商標・商号権﹂保護 一〇四 ︵13V 対する記憶を風化させていく。文政三年︵一入二〇︶正月二十六日に出訴した事例は、次のような経過をたどっている。 すなわち、米原村船問屋の酒屋九平が神教丸の当薬を謡え、看板は出さないものの内々に荷物客の遠国で販売している。 このことの差し止めを求めて出訴した。審理の結果、西法寺村医者俊良は、﹁昨年二月に九平が自宅を訪れ、鳥居本の赤玉 は荷主・旅人に相応に売れるので製造してくれるように頼んだ。それで、何の弁えもなく丸薬を計えて渡した。九平とは 一服につき九文で売買していた。申し訳ないことである﹂と答えた。その結果、版木一枚・印形一つを有川家に渡し、二 人はお叱りのうえ戸〆となった。また、天保十年︵一入三九︶十一月にも贋薬を持え販売した上矢倉村藤兵衛が、詫び状 ︹14︶ を有川家に差入れ、赤玉台大看板・印形・効能書・版木などを残らず提出している。 このように、四郎兵衛といい藤兵衛といい、たとえ有川家と同じ近辺に居住する者であっても、いやむしろ近隣である がゆえに﹁神教丸﹂の声価は否応なしに耳に届き、﹁赤玉﹂﹁神教丸﹂﹁鳥居本薬﹂﹁有川市郎兵衛﹂の称号をもじつた類似 の看板・能書・薬嚢を作製して営業に利しようとするのは当然であったのかも知れない。その行為が意識的に悪意をもっ て行われたのか、有川家の﹁商標・商号権﹂ということを理解せず軽い気持ちで行ったのかは、早急には判断しがたい。 ただ、三節で取り上げた事例は、後者の色合いが濃いのではないかと考えるものである。 ︵12︶﹁西法寺村四郎兵衛看板御指留被下置候留帳︵六︶﹂︵﹃有川文書﹄商業一八五︶。 ︵13︶﹁米原酒屋九平贋薬売捌有之節之願書留帳﹂︵﹃同右﹄商業一八九︶参照。 ︵14︶﹁贋薬売広候二付謝一札覚﹂、﹁贋薬売広候申付証人相頼謝一札﹂︵﹃同量﹄商業一九〇、一九一︶参照。
結びにかえて 右に述べてきたように、﹁赤玉 神教丸﹂を製造販売していた近江国坂田郡﹁鳥居本﹂宿の﹁有川市郎兵衛﹂の生薬製造 販売業者としての信用は、近江国内の本店と出店においてのみの店頭販売を原則とすることによって成り立っていた。し たがって、他所において有川市郎兵衛製を称して﹁神星表﹂銘の薬を販売することはあり得ないことであった。ましてや 取次店が存在することは、あってはならないことであった。江戸における藤屋久兵衛の行為はあずかり知らないことであ り、有川家にとっては自家の信用に関わることであった。それゆえ、上京して解決にあたるのは当然ともいえる行動であ った。しかし、支配違いの出入となり、領主の彦根藩も関わらざるを得ない問題であり、真相の解明が進むにつれて江戸 屋敷にも問題があったことが明らかになっていった。それゆえ、当事二間での解決を藩側が勧めるのも理由のあることで あった。結果として有川家は、看板・引札など全てを没収する形で和済し、十分な満足を得たのである。しかし、ここで の有川家の﹁商標・商号権﹂は、あくまで私的なものであり、せいぜい彦根藩が容認する程度に留まるものであった。 しかし、明和八年の油屋庄右衛門との争論は、内々の縁故を通じた、ある意味では不法な行為ではあったが、京都東町 奉行所で勝訴の裁許書を得ることにより、公的に﹁赤玉﹂﹁神教丸﹂﹁鳥居本薬﹂﹁有川市郎兵衛﹂の﹁商標・商号権﹂が認 定されるという奇貨を得たという意味で画期的な事件であった。少なくとも、奉行所役人もすでにその時点でコ神教丸し の薬銘を知っていたという位に市価を高めていたことは、有川家に有利に働いたといえる。とはいえ、﹁商標・商号権﹂が 登録されたり、公示されるような社会制度ではない以上、その後も同様な行為が発生するのも当然ではあった。しかし、 裁許書で認定されたことは紛争のさいには強い効力を持つものであり、以降の散発的に生じた紛議も有川家の勝利に終わ ったのである。 近世薬舗の﹁商標・商号権﹂保護 一〇五
近世薬舗の﹁商標・商号権﹂保護 一〇六 このように獲得された﹁権利﹂を﹁商標・商号権﹂と称するには、もちろん異論があろう。それは近代的な無形財産権 概念に照らせば、語の正当な意味では問題があることは十分に承知している。しかし、本稿では敢えて﹁商標・商号権﹂ と捉えて述べておいた。それは、近世商人の営業活動を支える﹁信用﹂というものの内実を具体的な事例に即して検討す るためにも必要な作業だと考えたからである。商工業者にとって﹁信用﹂が多数の顧客との間で結ばれる愛顧関係で成り 立つものだとすれば、営業の継続のためには製品に対する顧客の信認が必要であろう。店頭販売を専らとする﹁街道の商 業﹂においては、顧客そのものを狭隆な地域にのみ限定した営業戦略では経営の拡大は困難である。また、広域販売を目 指すためには、出店、取次店などの開設が必要であるが、それらの維持は資産の拡大と減少の可能性の両面性をもつもの である。街道を往来する不特定の人々をもっとも有力な顧客とする生業であれば、製品にたいする風評は販売高を左右す ることは歴然としている。それら諸々のことを考えた時、多くの異なった生業と立地条件などを意識して、各地での事例 ︵15︶ 研究が必要だと考えている。その積み重ねのうえで、改めて﹁商標・商号権﹂に代わる歴史学用語を提示できるのではな いだろうか。 また、本稿では商品銘を公家や領主から授けられることにより、それを一つの﹁権威﹂として営業を行うことについて 関呈していない。あるいはこれは﹁御用達﹂商人の商標・商号とも関わって行くことであろう。多くの場合、営業当事者 自身による信用保持が一般的だと考えているが、歴史段階的に吟味した分析が必要であろう。いずれにしても、今後の課 題としておく。 もちろん有川家に限定しても残された課題は多い。本稿では、万治元年︵一六五八︶創業と伝えられる有川家の経営内 容の検討は行っていない。﹁神教丸﹂がいつの時点でどの地域まで周知されたのかについては、各地に残る史料から客観的 に判断されるべきであろう。本稿では、現存する有川家文書側からの検討であって、明和三年以前の状況は不明のままで
ある。また、明治期になれば京都府下や大津、八日市、敦賀、奈良、三重などに取次店を設けているが、それは経営方法 の変化を意味するのであり、その転換の歴史的推移も明らかにする必要があろう。いずれについても今後明らかにして行 きたいと考えている。 ︵15︶この意味で伊丹酒の類似酒の製造をめぐる争論における、近衛家・酒造仲間・幕府の対応を通じて商標権の問題を考えようとした以下の研究は、貴 重な成果である。︵石川道子﹁書下と似寄伊丹酒﹂、﹃地域研究いたみ﹄一七、一九入墨年。同氏﹁伊丹酒銘とその類似酒﹂、﹃新・伊丹史話﹄所収、伊 丹市立博物館、一九九四年︶。右の事例でも直接的には幕府は商標権保護に介在せず、信用の保持は酒造仲間が実施している。なお、これらの文献は 藤田貞一郎氏のご教示を得た。記して謝意を表する。 近世薬舗の﹁商標・商号権﹂保護 一〇七