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実在論 : 反実在論論争とフィッチのパラドックス

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No.54, pp. 33 − 40, 2004

実在論-反実在論論争とフィッチのパラドックス

斎 藤 浩 文

Realism vs. Anti-Realism Debate and Fitch's Paradox

Hirofumi SAITO

1. 二つの陣営(A陣営、およびB陣営としよう)の間の論争においては、それぞれの陣営のさまざ まな主張が現れる。それら主張のうち、あるものは、一方の陣営で受け入れられるが他方の陣営では 受け入れられない。このような主張、たとえば、A陣営で受け入れられるがB陣営では受け入れられ ない主張は、「A陣営に固有な主張」と呼ぶことができるだろう。逆に、B陣営で受け入れられるが A陣営では受け入れられない主張は、「B陣営に固有な主張」である。もちろん、一方の陣営で受け 入れられる主張のすべてが、その陣営に固有な主張であるとはかぎらない。多くの場合、両方の陣営 で共通に受け入れられる主張がたくさん存在するだろう。このような主張を、「両陣営に共通の主張」 と呼ぶことにする。(*1) ある陣営に固有な主張同士の間には、帰結関係をはじめとするさまざまな論理的関係が成り立っ ている。両陣営に共通の主張とともに前提することによって、そのような諸主張の多くを帰結として 導くことのできる、その陣営に固有な主張を、「陣営を特徴付ける主張」と呼ぶことができるだろう。 すなわち、A陣営を特徴付ける主張とは、(A、B両陣営に共通の主張を前提にした上で)A陣営に 固有な主張の多くを帰結として持つ、それ自体A陣営に固有な主張のことである。 「陣営を特徴づける主張」に関するこの定義には、さしあたって注意すべき点が二つある。まず、 第一に、それが、あくまで、その陣営固有の主張の「多く」を帰結として持つことを述べている、と いう点である。「多いかどうか」は、言うまでもなく程度問題であり、したがって、「陣営を特徴づけ るかどうか」も程度問題である。帰結として持つ主張が多ければ多いほど、その主張は、陣営を特徴 づける主張として「強い」ということができる。もし、A陣営固有の主張の「すべて」を帰結として 持つような主張が存在すれば、それは、「もっとも強い」ということができるだろう。「もっとも強い」 主張は、いわば、A陣営を「完全に特徴づける」のである。 第二の注意すべき点は、この定義に従えば、陣営をより強く特徴づける主張を作り出す、非常に 簡単な方法が存在するという、明白な事実に関連している。陣営に固有な主張のいかなる集合に対し てであれ、それらの連言をとることによって、それらすべてを帰結として導くことのできる主張が構 成できる。たとえば、陣営に固有な主張がすべて明らかになっていれば、それらの連言をとるという 形で、陣営をもっとも強く特徴付ける主張のトリビアルな構成が可能なのである。そこで、そのよう なトリビアルなものとは異なるものとして、連言を含まない、陣営を特徴づける主張については、と

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くに区別をしておくことが有益だろう。それらを「陣営を特徴づける単純な主張」と呼ぶこともでき る。(*2) 2. 前節で見た、論争におけるさまざまな主張のありかたを念頭におきながら、「実在論」対「反実 在論」の論争について考えてみることにする。まず、マイケル・ダメットが定式化した実在論の陣営 を特徴付ける主張として、「すべての言明についてそれ自身とその否定との選言が成立する」という 主張、すなわち「排中律」の主張がまず思い浮かぶ。たとえば、現在はまだ知られていない地球外文 明についての存在言明「地球外文明は存在する」について、この排中律を適用すると、「地球外文明 は存在するか、存在しないかのいずれかである」となる。数学的言明、たとえば、ゴールドバッハの 予想について、この排中律を適用すると、「4以上の任意の偶数は2つの素数の和に等しいか、4以 上の偶数で2つの素数の和では表せないものが存在するかのいずれかである」となる。われわれの知 識、われわれの探究とは無関係に、地球外文明は存在するか存在しないかのいずれかだ、ゴールドバ ッハの予想が正しいかその否定が正しいかのいずれかだ、というのが実在論の主張の帰結である。 排中律をもって実在論の陣営を特徴づける主張と考えるなら、その形式化も容易である。普通の 命題論理の体系を考えれば、φ∨¬φと形式化できる。命題論理に、命題変項を束縛する量化子を導 入した量化命題論理を採用することにすると、より明確に、∀φ(φ∨¬φ)と形式化できる。(*3) 3. それでは、反実在論の陣営を特徴付ける主張は、どのようなものだろうか。こちらについても、 排中律∀φ(φ∨¬φ)について考えることが手がかりになるであろうか。たしかに、反実在論者は 排中律を受け入れない。しかしその事実は、排中律を、対立する実在論の陣営に固有なものとするだ けである。反実在論の陣営においても、排中律の否定¬∀φ(φ∨¬φ)が主張されるわけではない のである。(実際、排中律の否定の否定こそが主張される。) そこで、反実在論の陣営に固有な主張を探し出すことがまず先決となる。たとえば、ダメットに 由来する「表明(manifestation) 原理」にそのヒントを求められないだろうか。表明原理によれば、 言明の意味の成分はその言明を理解して用いる主体の振る舞いにおいて、現れうるものでなければな らない。(*4) ダメットは、この原理を実在論批判の根幹に据えているといっていいだろう。実在論者は、言明 の意味がその言明の真理条件に存すると考える。したがって、ある言明の意味を理解することは、実 在論者にとって、その言明の真理条件を理解するということである。この、言明の真理条件の理解は、 表明原理を認めるとすれば、振る舞いに現れうるものでなければならない。日常的に用いられる言明 のうち、あるものについては、実在論者は、何の苦もなくその要求に答えることができるだろう。「今 日ここは晴れている」という言明の真理条件は、発話された当日その場所での天気がよいことである が、発話した実在論者は、たとえば、窓の外を見やることでその言明の真偽を確かめることができる。 そのような振る舞いの中に、この言明の真理条件の理解は確かに表明されるといえるだろう。 しかし、われわれが用いる言明は、そのようなものばかりとは限らない。たとえば、ゴールドバ ッハの予想について考えてみよう。われわれは、その真偽を知らず、さらに、4以上の任意の偶数が 2つの素数の和であることの証明も、そうでないことを明らかにするための反例も、いまだ手にして いない。同様に、地球外文明についての存在言明について考えてみよう。これについても、われわれは、

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その真偽を知らない。さらに、その真偽の認識に確実に至るための手段   すなわち、地球外文明 の存在の証拠や、非存在を決定的にするような証明   をいまのところ持ち合わせていない。この ような言明を「未決定 (undecided)」言明と呼ぶことにしよう。 これら未決定言明は、真偽の決定手段が現在存在しないのだが、さらに、将来そのような手段が 得られることが現時点で確実になっているわけでもない。したがって、それらが、単に未決定言明で あるばかりではなく、真偽の決定手段がそもそも決して存在しない「決定不能 (undecidable)」な言 明であるかもしれない、という疑いは歴然と残っている。実在論者が、決定不能言明について、その 意味である(と実在論者自身が考える)ところの真理条件の理解を表明する可能性は閉ざされている と言わざるを得ない。したがって、未決定言明についても、その真理条件の理解を表明することは不 可能であるかもしれないのである。 もちろんここでは、実在論者が、言明の意味理解のために、言明の真偽を決定すること、すなわ ち、言明が真であること(ないしは偽であること)を実際に知ることが必要である、などといってい るわけではない。あくまで、いかなる条件のもとでその言明が真になるか(偽になるか)を知ってい る(そしてそれを振る舞いとして表明しうる)かどうかが問われるのである。それでもなお、意味の 理解のために要求されるものが多すぎるのではないか、という印象が生じるかもしれない。たとえば、 ゴールドバッハの予想について言えば、その言明に含まれる「4」、「偶数」、「2」、「素数」、「和」‥ などの語について、われわれは、十分な理解を持っている。それらの語の理解を、語から言明が構成 される仕方にしたがって利用して、言明全体の理解を得ることができそうに思われるのである。たし かに、「2は素数である」というような単純な言明について考えれば、「2」「素数」という語を理解し、 それらの語が組み合わされて言明が構成されている仕方を理解すれば、言明全体の意味が問題なく理 解できると言えるだろう。しかし、より複雑な「4と2の和は偶数である」については、そう簡単で はない。含まれているすべての語の意味が理解されており、構成の仕方が理解されていても、実際に 4たす2という足し算を行うことによって(あるいは、「4は偶数である」「2は偶数である」および「偶 数と偶数の和は偶数である」という中間的な言明の証明を経由することによって)言明の正しさを証 明することが可能ですらなければ、われわれは、その言明を理解しているとは決して言い得ないであ ろう。 すなわち、表明原理のもとでは、ある主体が、語を理解し、かつ、それらの語からの言明の構成 法を理解することと、言明全体の意味を理解することの間には、ギャップがある。そして、そのギャ ップは、言明そのものが真であることを(あるいは偽であることを)証明することが、実際にその言 明が真であるならば(あるいは偽であるならば)可能だということ   一言で言えば、その主体が 証明のための手段や能力を持ち合わせているということによって埋められなければならない。 なお、ゴールドバッハの予想の証明がどのようなものかは見当もつかないが、反例が見つかると いう状況を想像することは容易であるように思われる  ある大きな偶数と2つの素数が見つかっ て、2つの素数の和が当の偶数に等しくなる   しかし、この想像は、実際に反例を見つける手段 をもつこと、すなわち予想が偽であることの証明が可能であることとは全く異なる。地球外文明の存 在言明については、逆に、その否定の証明(非存在の証明)は困難であるが、言明の証明の想像はあ る程度可能であるように思われる。しかし、やはり、その想像は、地球外文明の存在を明らかにする 手段と適切な関連をもちえていない。いずれにせよ、ギャップを、この種の「想像」によって埋めた くなる誘惑には十分注意しなければならない。 4. 以上のような、表明原理にもとづく、反実在論者による実在論批判を考えれば明らかなように、

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この原理自体、反実在論の陣営に固有な主張である。さらに、この原理を反実在論の陣営を特徴付け る主張としてとらえることも可能かもしれない。しかし、それを形式化しようとすることを考えると、 そのためにはある程度豊かな道具立てが必要となることが予想される。われわれの量化命題論理とい う枠組み、ないしは、それをわずかに拡張した枠組みを用いて、表明原理に近い主張を表現すること はできないだろうか。 表明原理は、言明の意味の成分が、あますところなく、振る舞いのレベルに現れているべきであ る、ということを述べていた。したがって、前節の議論を考えれば当然のことながら、反実在論者は、 言明の意味が実在論的な真理条件に存するものであるとすることはできない。むしろ、言明の意味は、 その言明の、振る舞いへの関わり、すなわち、その言明の使用の場面にこそ求められる。言明の使用 の場面において、言明を用いて何らかのことがらを主張するということが、重要な位置を占めている ことは明らかである。そして、何らかのことがらを主張することは、すなわちそれを真だとして主張 することである。したがって、言明の意味が、その真であるという主張がいかなるときに可能である かを述べる条件(真理主張可能性条件と呼ぶことにする)に存すると考えることは自然である。言明 の真理主張可能性条件は、その言明の使用の文脈において、たとえば、その言明を主張するための理 由や証拠を提示する別の諸言明の主張という形で、振る舞いのレベルに現れることになる。 われわれが真偽決定の手段を手にしている言明の場合、その手段を実際に適用することによって、 われわれはその言明が真であることを知ることができる、ないしは偽であることを知ることができる。 その過程を一連の言明として言語化することで、もとの言明、ないしはその否定言明の真理主張可能 性条件を述べることができると言えるだろう。たしかにこのときわれわれは、その言明の意味を理解 しており、その理解を振る舞いとして表明することができる。(*5) では、現在われわれがその言明の真偽決定の手段を手にしていない、すなわち未決定言明に関し てはどうだろうか。たとえばゴールドバッハの予想をとりあげてみよう。将来その証明が得られるか もしれないし、逆に反例が見つかるかもしれない。もしそのいずれかの事態が実現すれば、もちろん、 われわれはその意味の理解を振る舞いとして表明することができるだろう。しかし、まだそのいずれ の事態も実現していない現在において、その意味は理解されているのだろうか。先に指摘したように、 ゴールドバッハの予想に含まれる「4」、「偶数」、「2」、「素数」、「和」‥などの語について、われわ れは、十分な理解を持っている。それらの語から言明が構成される仕方についても十分理解している と言えるだろう。これらをもとにわれわれは、たとえば、ゴールドバッハの予想がそこから導けるよ うな諸言明について考えをめぐらせることができる。もちろん、そのような諸言明がそれら自体証明 されない限り、それはゴールドバッハの予想の証明を与えるものとはならない。しかし将来もし証明 が得られた場合、その一部分となる可能性がある。また、反例が与えられた状況を想像することがで きることを考えれば、ゴールドバッハの予想が否定的に解決される場合についても、われわれはやは りある意味で可能的な決定手続きを作り出すことができると言えるだろう。いずれにしても、その限 りにおいて、われわれはゴールドバッハの予想の意味を理解し、それを振る舞いとして表明すること ができる。地球外生命の存在言明についても、同様である。それが真である決定的な証拠、すなわち 実際の地球外生命の発見は、ごく容易に想像することができる。これに対して先に述べたように存在 言明の否定の演繹的な証明を想像することは困難である。しかし「かくかくの範囲にまで探索してい るのに地球外生命が見つからない」といった形の帰納的な証拠を想像できることに注目すべきである。 地球外生命の存在言明の意味に対するわれわれの理解もまた、これらの想像が可能であるというわれ われの能力によって、振る舞いの中に表明されうるのである。 未決定言明の真偽に関するこのような「不完全な」決定手続きについて、われわれがいくばくか のことを述べられる、という事実は、実在論者にとっては、意味の理解を表明するためになんら役に 立つものではなかった。しかし、それは実在論者が言明の意味として考える真理条件にとって、真偽 の決定手続きというものが本質的な関わりを持つものでないことによると言える。これに対して、反

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実在論者によって言明の意味とされる真理主張可能性条件と、真偽の決定手続きとの関連はまさに本 質的なものである。だからこそ、決定手続きの可能的な一部分を構成することができるという能力を、 真理主張可能性条件の把握の証左と捉えることができるのである。 さて、ここまで未決定言明について述べてきたことは、その言明が決定不能な場合にも当てはま ると考えるのは、一見自然である。しかし、それは間違っている。たしかに、決定不能言明の場合も、 われわれはその「不完全な」決定手続きについて述べることはできるだろう。ゴールドバッハの予想 が実は決定不能言明だった、という場合を考えれば、先の議論がそのまま適用できる。しかし、大き な違いは、そのようにして想像された、たとえば「決定手続きの一部分」が、もはや本当の決定手続 きの一部分ではありえない、というところにある。ゴールドバッハの予想が決定不能である以上、決 定手続きは存在しない。したがって、想像されたものは、そもそも存在しない決定手続きに関わりの あるものではありえない。そして、「反例」の想像についても全く同様である。 ここで重要なのは、決定不能言明について考察すること自体の意味である。たしかに、われわれ は、未決定言明について、いつまでも、それが決定不能言明であるかもしれない、という疑念を捨て 去ることはできない。しかし、実際に、ある言明についてそれが決定不能であることが明らかになる 状況、というのはどういったものだろうか。たとえば、ゴールドバッハの予想が決定不能言明である とは必ずしも言えないことは明らかである。そもそも、決定不能言明の具体例を挙げることは、非常 に困難である。算術の場合、ゲーデルによる不完全性定理が、決定不能言明の存在保証を与えている、 と思われるかもしれない。しかし、必ずしもそうではない。不完全性定理は、あくまで、形式的体系 に相対的な決定不能言明の存在を保証しているだけである。将来新しい公理が発見され体系に組み入 れられることによって、その「特定の」言明の真偽は決定されうるのである。もちろん、そのように してできた新しい体系も算術を含むから、そこにおいてもまた新たな決定不能言明が存在が保証され ることになる。しかし、それは、先の決定不能言明とは明らかに別の言明である。したがって、その ような体系拡張の過程があるとすれば、いかなる特定の言明も決定不能なままでとどまることはない。 しかし、もし、ある特定の言明が決定不能であることが明らかになったとしよう。それは、ある 体系において決定不能であるばかりでなく、その体系をいかに拡張しようとも決定不能なままにとど まることが明らかになった言明である。このときこの言明はもはやわれわれの言語使用において、な んらの役割をも果たさない。 反実在論者にとっての表明原理をめぐる以上のような考察が大筋で正しいとするならば、表明原 理の形式化について、ごく単純な定式化を提案することが可能であるように思われる。ある言明φに ついてそれが真であると言えるとする。このとき、反実在論者にとって、言明φの意味の理解、すな わち、φの真理主張可能性条件の把握が前提されているはずである。さらにφは実際に真であると言 えるのだから、このとき、彼は実際にφの真理主張をすること、すなわちφが真であることの証明を 行うことが可能でなければならない。φを仮定してφの真理主張可能性を導くという、この論証が妥 当であれば、そこから「すべての言明φについて、φならばφは真理主張可能である」という原理を 導くことができる。後半部を形式化するために、「‥は可能である」という意味の可能性演算子◇と、 「‥は真理主張される(‥は証明される)」という意味の演算子Kを導入する。このとき、当の主張は、 ∀φ(φ→◇Kφ)、と形式化されることになる。これを真理主張可能性の原理と呼ぶことにする。 かくして反実在論の陣営を特徴付ける主張の候補が形式化された。 5. 真理主張可能性の原理は、認知可能性 (knowability) の原理、として定式化されるものの変種で ある。もとの原理においては、K演算子は「‥を知っている」という知識演算子として解される。1

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1963 年にフレデリック・フィッチによって、認知可能性の原理が反実在論的な立場にとって深刻な パラドックスを導くことが示された。(*6) すでにそのパラドックスの解決案がいくつか提出されてい るが、それらによって完全な解決をみたとは決して言えない状況である。以下で見るように、認知可 能性から真理主張可能性への読み替えは、反実在論的立場にとってのパラドクシカルな状況を変える わけではない。しかし、K演算子をこのように読み替えることによって、「知識」概念の反実在論的 な捉え方が明確化され、さらには、パラドックスの自然な形での解決への糸口が見えてくる可能性も あるかもしれない。以下では、その方向への予備的考察を行っておくことにしたい。 まず、フィッチのパラドックスにいたる論証を簡単に述べておこう。真であるが現在知られては いない(われわれが知っていない)言明が存在するはずだ、という仮定から出発する。   (1)∃φ(φ∧¬Kφ) そうした言明の一例をpとして、   (2)p∧¬Kp (2)に認知可能性の原理を適用すると、   (3)(p∧¬Kp)→◇K(p∧¬Kp) (2)と(3)から、モーダス・ポーネンスによって   (4)◇K(p∧¬Kp) ところが、一方、次を仮定すると、   (5)K(p∧¬Kp) 連言が知られていることから連言肢それぞれが知られていることが導けるから、   (6)Kp∧K¬Kp 知られている言明は真だから、   (7)Kp∧¬Kp これは矛盾であるから(5)は否定されて   (8)¬K(p∧¬Kp) 仮定なしに(8)は証明できたのだから、   (9)□¬K(p∧¬Kp) 必然性と可能性の関係により、   (10)¬◇K(p∧¬Kp) (4)と(10)は明らかに矛盾する。そこで、認知可能性の原理を維持するためには、(1)を否定する、 すなわち、   (11)¬∃φ(φ∧¬Kφ)「知られていない真なる言明は存在しない」 を認めなければならない。 ここからさらにパラドクシカルに見える帰結が導ける。直観主義論理によって(11)から次が 帰結する。   (12)∀φ¬(φ∧¬Kφ) そして、これから次を導くことができる。   (13)∀φ(¬Kφ→¬φ)「知られていない言明はすべて、真でない」 さらに、上の議論とは別の、しかしやはり直観主義的に許容せざるをえないステップを経て、未 決定言明が存在するという仮定、すなわち、   (14)∃φ(¬Kφ∧¬K¬φ) という仮定からも、矛盾が導かれることが示される。そこで、反実在論者は、

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  (15)¬∃φ(¬Kφ∧¬K¬φ)「真であるとも偽であるとも知られていない言明は存在しない」 を認めなければならなくなる。(*7)(*8) さて、これらの帰結について、K演算子を「‥は真理主張される」と読み替えてみよう。   (11)は「真理主張されていないが真であるような言明は存在しない」   (13)は「真理主張されていない言明はすべて、真でない」   (15)は「真理主張も、偽であることの主張もなされていない言明は存在しない」      =「未決定言明は存在しない」 などと読めるだろう。これらは確かに依然パラドクシカルである。たとえば、(11)について、「真 理主張される」ということを、あくまで、現時点で、(われわれによって)真理主張されることだ、 と捉えれば、現時点ではまだ真理主張されていないが真である言明が明らかに存在するように思われ るのである。たとえば、非常に大きな数同士の足し算の正しい式を考えればよいだろう。 しかし、ここで、問題の言明について、「それが明らかに存在するように思われる」ことと、「そ の存在が証明できること」の間には大きなギャップがある。反実在論的に許容できる形で(すなわち 直観主義論理にしたがって)存在が証明できるためには、その実例の構成の可能性という非常に強い 条件が満たされなければならない。「真理主張されていないが真であるような言明」については、お しなべてこの条件が満たされていない、というのが(11)の内容なのである。大きな数同士の足し 算の正しい式は、それが正しいことが実際に示されるまで、真なるものとして存在しているとはいえ ない。そして、正しいことが実際に示されるとそれは、真理主張されることになる。 他のケースをも含め、このようにK演算子を「真理主張」によって解することが、パラドックス の自然な解決への糸口として有効かどうかをさらに検討することは、別の機会に譲りたい。しかし、 真理主張可能性の原理が反実在論の陣営を特徴付ける主張の有力な候補であるという本稿における議 論が妥当であるとすれば、その見込みは十分にあると考えられる。 注 (*1)「受け入れられる」「受け入れられない」という表現と強く関連するが、全く同義ではないもの として「主張される」「拒否される」という表現があげられる。ある表現が主張されるとき、その表 現はそこで受け入れられている。また、ある表現が拒否されるとき、その表現はそこでは受け入れら れない。しかし、直前の二つの言明のいずれについても、逆は成立しない。 (*2) 実際の論争に対して、この見方をとるためには、さまざまな微調整が必要だろう。また、固有な 主張の集合すら一意に定まらない場合もあるだろうが、そのような場合、その「陣営」は、本当の意 味で陣営を形づくっているとは言えないだろう。 (*3) さらに、言語そのものだけではなく、その意味論にまで言及することで、よりよい特徴付けが与 えられるかもしれない。実在論の陣営でごく自然に採用できそうな意味論は、言明に真、偽を割り当 てる二値の意味論である。二値の意味論の前提となっているのが、「すべての言明は、真、あるいは、 偽の真理値を持つ」という「二値原理」である。二値原理を形式化するためには、たとえば、値とし て真理値をとる意味論的関数vを導入し、v(φ)=T∨v(φ)=Fのような形で与える、といっ た道具立てが必要となる。当然のことながら、形式化は、どのような形式体系において行なうか、に よって、まったく異なるものとなる。

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(*4) たとえば、Dummett (1973) を参照。 (*5) ここでは、否定言明の意味が理解されていればもとの言明の意味もまた理解されている、という ことが前提されている。 (*6) Fitch (1963) を参照。 (*7)(11)および(13)は、古典論理を用いれば、次と同値である。    (16)∀φ(φ→Kφ)「真である言明はすべて、知られている」 また、(15)は、古典論理では次と同値である。    (17)∀φ(Kφ∨K¬φ)「すべての言明は真と知られているかまたは偽と知られている」 ただし、直観主義論理では、(16)、(17)は、(11)(あるいは(13))、(15)からは導かれない。 Williamson (1988) は、(16)の否定、すなわち、    (18)¬∀φ(φ→Kφ)「真である言明がすべて知られているわけではない」 を充足するような直観主義的な解釈を提案することによって、パラドクシカルな状況を和らげようと している。 (*8) フィッチのパラドックスに対する、別の反実在論的な解決案として、認知可能性原理が適用さ れる言明の範囲を、Kφから矛盾が導かれることが示されないような言明φに制限する、という Tennant (1997, Chapter 8) の提案がある。φをp∧¬Kpとすると、KφすなわちK(p∧¬Kp) からは矛盾が導かれる((5)から(7)へいたるステップを参照)ので、パラドックスを導く論証は ブロックされる((3)が主張できない)。ただし、この制限が適切なものかどうかについては議論が ある。他の解決案の紹介をも含む最新の論争状況については、Brogaard and Salerno (2004) を参照。

文献

Brogaard, B. and Salerno, J., "Fitch's Paradox of Knowability", The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Summer 2004 Edition), Edward N. Zalta (ed.),

URL = <http://plato.stanford.edu/archives/sum2004/entries/fitch-paradox/>.

Dummett, Michael, 1973. "The Philosophical Basis of Intuitionistic Logic", rep. in Truth and Other Enigmas, Oxford, Chapter 14, 1978.

Fitch, F., 1963. “A Logical Analysis of Some Value Concepts”, The Journal of Symbolic Logic 28, 135-142. Tennant, N., 1997. The Taming of the True, Oxford.

参照

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