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香川県における陸産・淡水産貝類研究前史-香川大学学術情報リポジトリ

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香川県における陸産・淡水産貝類研究前史

多 田

〒769−2601香川県東かがわ市三本松1766−2

The丘rstofthehistoryofstudiesonlandandfreshwaterMollusca

inKagawaPrefecture,Japan

AuraTada,ノ乃6−ろ5α〃あク〃椚αJ5〟ゐヱgα5g鳥αg‘才l相Cま加ゎg‘才Wα,乃クー2∂∂J,J呼α乃、 、て−いる。また『貝類図譜』の刊行計画もして いたが未完に終わっている。 『読み下し聞くままの記百七話』(高松市図 書館編,1993)によると,高松港家老木村黙

老(1774∼1858)は1827(文政10)年から20

年間,『聞くままの記』を執筆した。その中に 「讃岐大内郡虎丸城墟所産キセル貝図説」を 載せて−いる。日本でのキセルガイの図として は最も古いと思われるのが1835(天保6)年 の『乙未本草会物品目録』中の図で,これに は購種の陸産貝類の図が描かれている。当時 は学名も和名もなく,図に符号と殻色を付し ているだけで,内7種がキセルガイである。 木村が執筆を始めたのがその7年前で,問題 の図は『聞くままの記』の初期に描かれて−い るところから,それよりも古いと私は考えて

いる。虎丸山のキセルガイは,私が解説を加

えナミギセル∫re′・e甲力αβ血5αノ呼〃〝∼cαと特定し た(多田,2003)。現在も東かがわ市虎丸山頂 上付近に生息している。 明治時代∼大正時代(1867∼1925) 明治時代に入り輸入直訳に頼っていた貝類 学も日本人による研究者が出てくる。それが

飯島 魁であり岩川友太郎である。何れも東

は じ め に

香川県は,陸産貝類に多くの固有種を産す る石灰岩地を欠き,また多種の淡水産貝類を 産する湖や大きな川もないため,貝類研究の 場としてそれほど注目を浴びなかった。しか しその中で,研究家が訪れたり,地元の人達 による地道な研究により貝類相が徐々に明ら かになってきた。本稿では昭和中期(昭和30 年ごろ)までの香川県下の陸産貝類・淡水産 貝類に閲した研究の後を辿ってみた。 本文中,和名に、ついては現在使われて−いる 学名(イタリック)を付し,また,不詳産地 名の現在の地名については(現:)として記 述,何れも重複を避けた。 明治時代まで(∼柑66) 香川が生んだ本草学の大家平賀源内(1728 ∼1779)は,薬草の採集のために県下の大川 山(現:満渡町)や琴平山など歩いた記録は あるものの,陸産貝類,淡水産貝類は採って いないようである。ただ海産貝類には興味を もっていたようで1760(宝歴10)年,源内33

歳の時,相模(神奈川県)や紀州(和歌山

県)の海岸で貝を採集したという記録は残っ − 69 −

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之ニノ\二変種アリ其最モ普通ナルハ小ナルー・ 種ナリ仏生山勝賀山琴平其他至ル所二産ス HSPhinctortoma,Ad. 高松公園内ニテー個小豆島ニテニ個ヲ得タリ H.myOmphara,V・Mar’t. 仏生山小豆島二産ス H‖Sieboldiana,Pfi. 屋島山及ビ高松城内二其他二三ケ所ニテ採集 ス HpaupeI■,Gld. 高松公園内漁二五剣山薮中ニテ採集ス 11魚iedeliana,ⅤMartい 仏生山二於テ僅二二個ヲ採集ス H conospi−a,Pfi. 高松市二産ス 此ノ外二三ノ種輯アリタレモ標品破砕シテ充 分二其種ヲ定ム能ハス思フニ梅雨ノ候尚ホ各 地二採集セバ幾多ノ標品ヲ得ルヤ必セリ”

当時,日本人による記載は行われておら

ず,また,生殖器などの標徴も分類に使われ ていないために,小豆島の暗褐色の蛸牛は最 も殻の外部形態に似ていた5即C血ムergfα乃α (当時は和名がなかった)と同定した。この 種は現在ではクロイワマイ加あαゐ・α5即C鮎〝ムer・・ g王α〝αとよばれている。しかし,後に述べるよ うに田島(1893)が発見したマイマイは香川 県固有亜種、県指定希少野生生物のヤハタマ イマイ動地α∫α〃血i−yαゐαJdiであった。 一・繰マイマイ(当時は一・筋マイマイと称し ていたので漢字の間違いであろう)は現在で は,セトウチマイマイ且〝力αゐ・α5〝ム〝f朋あ05αで高

松市仏生山・勝賀山,琴平町琴平山などで

採っている。また「Helixsphictortoma,Adl」 は現在シメクチマイマイふ正和脚協.声′・′・〟gf〃eαで

高松公園(栗林公園?)1個,小豆島で2個

採集。「HmyOmPhala,V.Mar・t・」は現在コペソ マイマイ∫αわ〟肌α〝ツ0〝pあαJαで高松市仏生山, 小豆島で採集。「Hsieboldiana,Pfi..」は現在で はウスカワマイマイAc〟Sfα∫ヱゐoJd言α舶で高松 京開成学校(後に東京帝国大学となる)の同 窓生で1881年,東京帝国大学生物学科を卒業 して−いる。飯島は東京帝国大学教授となり, 岩川は東京女子師範学校教授となった。1890 年の末より3編の日本の蛸牛について−の報文

を,数回に亘り動物学雑誌に連載した。自ら

は採集せず全国の同好者によびかけ資料を収 集した。残念ながらこ.の報文には,香川県に 閲した地名は見つからないが高知県からは黒

岩 恒ら数名の協力者があり,この中から多

くの和名が誕生して−いる。岩川は飯島とは異

なり主として淡水産貝類や海産貝類を研究

し,自ら各地へ出かけ資料を集めている。

1897年,1903年,1905年と3度来県し採集し

ている。何処でどのような種を集めたか詳し い事は分からない。ただ岩川(1907)によれ ば,“先年讃岐国,琴平の象頭山の密林中に, 意外にもヤマタニシ(qcJ甲ゐ0′・〟5)p呼ヱ乃eJJα の如き有紫(ゆうえん)蛸牛類を澤山採集し た.ることあり。”という記述があることから琴 平山でヤマタニシCγCJ呼んor〟5ゐe′抽f5f,ヤマ クルマガイ郎f′・05わ椚α.メ呼0〝血肌,アズキガイ 軸∫乃eJJαrゆなど陸産貝輯の普通種を採集し ていることは確実である。

飯島 魁の呼びかけに協力した人に,タシ

ママイマイA曙ゐJαCαV如cf〟研に名を残す高知県 吾川那,田島千景がいる。田島(1893)によ

れば1983年9月初句より6旬(2ケ月?)余

り香川県に滞在して県下を採集している。香 川県に閲した報文としては最も古く重要な内 容が含まれているので一部弓l用して−みる。 “○讃岐蜘牛一・斑 Helixsenckenbergiana,Kdbelt? 余ハ小豆島ニテ唯其一個ヲ採集セリ。暗褐色 ノ三条帯アリテ下帯ハ巾最モ鹿ク上帯之二次 ク而シテ巾最モ狭キハ中帯ナリ臍絞アリ其他 第三巻廿七耽二載スル所(飯島博士ノ日本的 牛)ト同シ ー・繰まいまい

(3)

上回った.。当時の購読者名簿が残っており, 四国全体では6名の名前があるが,香川県関

係者はいない。そのような状況の中,助手と

して淡路島福良から雇った黒田徳光は,貝類 学に閲した実力を着実に、つけていた。 大正時代,県に閲しためぼしい記録は残っ ていない。1913年平瀬輿一・郎は,彼の念願の 貝類博物館を京都市岡崎に創設した。日本初 の本格的貝頬博物館の滑り出しは良かったも のの開館から1年も経たないうちに経営状況 は悪化していく。アメリカ フィラデルフィ ア科学アカデミ・−・のピルスブリ・−・(H.A Pils− brカに採集品を送って潮種記載をしてもらっ

ていたが,新種も底を突きだんだん疎遠に

なっていった。1915年に中断していた「介類 雑誌」が再刊されたが1号でまた中断した。 博物館の方も1919年閉館,平瀬も1925年,昭 和を待たずして67才で亡くなる)黒田は博物 館の残務整理を済ませた後,貝類分類学の知 識を見込まれ京都帝国大学理学部地質学教室

の職員として採用される。そして1928年11

月,同好の士とともに日本貝類学会を立ち上

げる(Callomon&Tada,2006)。

昭和時代前期(1926∼1955) 黒田徳米は1886年生まれ,1901年平瀬輿一・ 郎の助手として就職,以来平瀬が亡くなるま で片腕となって働く。昭和のほとんどは陸産 貝類をはじめ,貝燥一‥般の同定は黒田が中心 となって行った。金丸・杉谷(1934)による と黒田は1934年8月,高知県の採集の帰途, 参拝をかねて金毘羅宮に立ち寄っている。短 時間のためヤマクルマガイ,アズキガイ,セ トウチマイマイ等道脇に生息している普通種 しか採集していない。また,坂口(1959)に よると1936年から1943にかけて香川県博物学 会(1941年香川県生物学会と改称)は著名な 生物学者を招聴して研修会・採集会を行っ

た。その中に黒田徳米の名がある。しかしな

市屋島・高松城内,その他2・3ケ所で採っ

、て−いる。「H‥paupe−・,Gld・」は現在のバツラマ イマイβg5C〟5ク叩e′・をさすが香川県には生息 していないのでおそらくコオオペソマイマイ A巧言5′αク′・0ムα椚∼〃〟Jαもしくはジタロウマイマ イA関血旭α肌¢創成の幼貝であろう。高松市高 松公園・五剣山で採集。「H丘・iedeliana,Ⅴ Mar・.」は現在フリイデルマイマイA曙毎rα.βヱe一 鹿J∫α〃αをさすが香川県には座しないのでおそ らくジタロウマイマイであろう。高松市仏生 山にて−2個採集。 「H00nOSPir・a,Ph・」はエンスイマイマイ n壷ゐ甲肋c〃佃野ヱrαをさすが香川県には座し

ないのでおそらくアワジオトメマイマイ

乃・f5ゐ呼伽αl両ね椚よsであろう。高松市内で採 集している。 平瀬輿−L郎は1859年淡路島福良に生まれ 1887年京都に移住,最初は家禽業を営んでい たが1895年ごろ同志社大学講師ゲインスや宣 教師で進化論着でもある.J.Tギュリックの薦 めもあって一日本の貝類を収集することにな る。日本は勿論のこと外国人を相手にそれを 売却する貝類販売業として生計をたて−た。貝 頬収集のため数名の採集専門の助手を雇い, 日本本土はもとより当時の植民地台湾・朝鮮 半島や中国大陸の貝類を採集させた。助手の 多くは平瀬の出身地である淡路島の人であっ

た。平瀬にとっては,新種の発見が商売のた

めには欠かせないため,陸産貝類では新種の 発見確率が高い石灰岩地や離島部に日が向け られた。香川県はその意味では魅力を欠いて いたのか来県が遅れたと思われる。1902年に 漸く助手の一・人森崎周吉が3回目の徳島県採 集の際,香川県にも足を伸ばしたという記録

がある。ただ新種などのめぼしい発見はな

かったようである。平瀬は日本初の貝類専門 雑誌「介類雑誌」を1907年に創刊したが,

1909年3巻3号で休刊する。購読者が少ない

上に月刊のため印刷費がかさみ損失が予測を − 71一

(4)

エα乃CeOJαrgαg′・町α朋C〟甲fdαfeなど,陸産貝類で はナミマイマイg〟力αdrα∫α〃(ねヱ“憫〝∼〟〃わ,ミ スジマイマイg〟烏αdrαタピタわ′呼ムαJ招など本県に は座しないものが入っており文献としては重 要とはいえない。1937年,県博物学会主催の 小豆島採集会で八幡ら会員は多数のカタツム リを採集した。八幡は京都帝国大学の黒田徳

光に同定を求めた。黒田はコガネマイマイ

g〟力αdJ・α∫α〃dα王と同系統であるが別種と断定, ヤハタニシキマイマイと仮称した。これは前 述の高知県人田島千景が1893年に小豆島で採 集した偽J玩∫釧Cたe〃あe瑠∼α〃αとみなせる。黒田 は送付した八幡に献名したが,採集会のメン バーの中には採集者が他にもいたため,その 命名に不満を漏らす人もあった。香川県博物 学全会誌4号にヤハタニシキマイマイの記事 があるようであるが私は未見である。八幡は

この年,日本貝類学会に入会している。西宮

市貝類館に残る黒田のメモ(黒田は全国から

送られてきた貝を同定,平瀬著の目録

『LANDSHELLS OFJAPAN』に克明に書き込

みをしている)に八幡の名前が多く残ってい る。送付した年が1938・1939年に集中してい るところをみるとこの事が大いに励みになっ

たと思われる。メモにはキセルガイモドキ

漸血=壷壷棚パ讃岐白方(現:多度津町白 方),ゴマガイかゎわ〝∼胴Jf〝αCα∫∫α:讃岐大滝 山(現:高松市塩江町),コベルトゴマガイ β¢Jo研削αf∼〃αた0占eJf∼:讃岐大滝山,モリサキ ギセル秒rα〃〃呼んαe血∫α椚Orねαた∫王:讃岐女木島 (現:高松市)・讃岐大川郡昼寝(現:さぬき 市),シリオレギセル顆rα〃〃呼ムαe血∫α ム∠− JαあrαJα(small):讃岐股島(現:観音寺市), ナミギセル:高松栗林公園,小豆郡,白方, シマケルギセルP玩gゆムαe血∫α∫Cゐ朋αCたどrg:讃 岐雲辺寺山(現:三豊市大野原町),シコクギ セルアJαCビ甲あαe血∫ααl両i班∫∫∫:讃岐琴平(現 :琴平町),コンボウギセル朋ム呼血路血朋 ゐよcた0〃g∫:讃岐大川郡昼寝,アップタガイ がら何処でどのような研修を行ったかはわか らない。黒田は1962年京都大学を退職。1963 年,西宮回生病院に住居を移し1987年,亡く なるまで後進の指導に当たった。私はその頃 指導を受けた一人である。 その他,平瀬輿一郎の子息で,わが国初の 本格的貝類図鑑を出した平瀬信太郎も香川県 博物学会の講師として来県している。

八幡栄作(図1)は新潟県柏崎市の人で

1893年生まれ1928年に新潟県柏崎中学校か

ら高松中学校(現:高松高等学校)博物科の 教師として赴任し1949年,高松高等学校在職

中に亡くなるまで教鞭をとった(多臥

1993)。貝類には特に興味を持ち県下の各地を 調査し「香川県産貝類及蟹類の目録」を報告 している。この中の貝類には海産153種,淡水 産14種,陸産12を含み179種の和名が記録され ている(八幡,相聞)。淡水産にイケチョウガ イ 均′rj甲∫i∫∫C以聯/よ,トンガリササノハ 図1.八幡栄作.

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標本も戦災に遭って焼失している。失意のな か,疲労が重なり1949年6月25日,56才で亡 くなった。ヤハタマイマイ(図2)が正式に 貝額学雑誌Venusに記載されたのは,八幡が死 亡して33年後の1982年であった(黒田・東, 1982)。 浦上(1939)の“晴乳類,鳥類,両生・爬 虫類,魚燥以外の稀有動物”の中に大型のマ

イマイ,クロイワマイマイが挙げられてい

る。クロイワマイマイは本県には座しないの で,形態,大きさの類似したアワマイマイ 励ゐαdr‘‡αWα釧∫∫∫であろう。 坂口消一は1899年生まれ 香川県師範学校 本科一部を卒業後,高松第一ヰ学校(現:高 松市立第一高等学校)教諭,高松市立二番丁 (現:紫雲)中学校校長,高松南高等学校校

長代理など教育畑を歩んだ。動物,植物に広

い識見をもち多くの論文を出している。貝類 にも興味があったとみえ「香川県採集貝類」 に290種を記録している(坂口,1936)。八幡 とほぼ同じ表題で海産257種,淡水産11種,陸 産22種となっている。和名だけの目録で詳し い産地などはわからない。陸産貝類ではクチ ペニマイマイ血ゐαdr‘才α/〃αJfβピ,ミスジマイマ イ血んαゐαクβJわ〝pムαJα,クロイワマイマイ, トバマイマイ(現在はムツヒダリマキマイマ イ)E〟力αゐ〟ゐc〃J・α′α,コシダカコペソマイマ イぶd鈷〟′〃αβ∫Cαなど本県に生息していない種

が多くみられ信憑性に欠ける。先年,標本の

大部分は高松市市民文化センターヘ寄贈され た。陸産・淡水産貝類は3つの木箱(各ケー ス36枠)に納められており,目録作成にあた り整理を私に依頼され,本会会員矢野重文と 同定を行い目録を作成した(高松市市民文化 センター,1995)。産地不明のものなど標本と して不適なものが若干あったが,中に重要な ものもあった。特筆すべきは淡水産貝類のカ ワネジガイCα′′pわCerα∫んfrがeが1産地4個体 あったことである。この貝は過去には近畿や qcわ加Cα〝甲α〃〟J血∫:讃岐白丸 コウペマイ マイA堵∫∫′αたロムe旧お:小豆島草壁偶:小豆 島町内海),コオオペソマイマイ:讃岐高松, セトウチマイマイ:山田郡三谷村(現:高松 市),讃岐三野郡財田村(現:三豊市財田 町),小豆郡四海村(現:土庄町),讃岐股 島,ヤマクルマガイ 讃岐白方,アワジオトメ マイマイ:讃岐五剣山(現:高松市),小豆島 神懸(現:/ト豆島町),琴平,チャイロオトメ マイマイルkム呼Jgfα用e∫OgO〝fα:小豆島神懸, コハクガイZo〃言わfdααJ・ムorビ〟∫:讃岐五剣山な どがある。なお,女木島のモリサキギセル は,機会あるごとに調べているが今もって再 発見できない。

八幡は1940年8月3日から5日まで,高松

中学校の登山部と希望者65名を引率,綾歌即 実合村(現:浦波町)大川山にも登ってい る。その時の採集した陸産貝類はオオギセル 〃聯J呼んαピ血∫α′′WJe那∠,ナラビヒダギセル 顆′・α〃〃甲ゐαピ血∫αクrOあαC甜ツ0∫gO〝∼α,ホソヒメ ギセル丹′・α〃〝呼ゐαピ血∫αgrαCZJ如grα,コンボウ ギセル,ヤマキサゴⅥ匂Jde椚αrfαノ呼0〃よcα,キセ ルガイモドキ,コオオペソマイマイ,コニッ ポンマイマイ∫αね〟〝王αノ呼0〝よcαん離′・OgらpJα,ゴ マガイ,コベルトゴマガイなどである(香川 新艶1940)。このように香川県下のめぼしい 産地へはほとんど行っており,黒田に同定を 求めるようになってからは種名は正確になっ ている。残念ながら目録は残されておらず, 図2.ヤハタマイマイ. − 73 −

(6)

(1935)によると昭和10年夏,琴平,栗林公 園,屋島,志度などで採集している。琴平で はオオギセル,ツムガタギセル都乃g〟わぁαe血‡α 〆乃g〟まs〆α秒あα,シコクギセルPAl両ie乃Sム, ホソヒメギセル,セトウチマイマイ,アズキ ガイ,ヤマクルマガイ,アップタガイ,ヤマ タニシ,タキカワオオペソマイマイ変種(恐 らくジタロウマイマイであろう),ぬJ∠e肋sp. (微小なキビガイ類で,現在では属名が変更さ れている)など,栗林公園ではナミギセル, ヤマクルマ,セトウチマイマイなど,屋島で はセトウチマイマイ,タキカワオオペソマイ マイ変種,志度では海産貝輯2種が記録され

ている。私が,生前の大山に直接聞いたとこ

ろによると,“琴平の助J∼e助spいは確かに見た 事のない新種であったが紛失してしまっだ’ といって残念がっていた.。1995年死去。 波部忠歪は1916年兵庫県に生まれる。1936 年大阪府池田師範学校卒業後,大阪府堺高等 小学校で教鞭をとっていたが貝類研究を深め るために京都帝国大学理学部(動物学)専科 に入り,修了後は専ら貝類研究に専念した。 1957年まで京都大学,その後,九州大学助教 授,1962年より国立科学博物館に勤め,定年 退官後は東海大学教授,東海大学自然史博物 館館長を勤める。2001年死去。1938年12月, 四国に陸産貝頼調査に来て,本県では琴平に 立ち寄り「四国陸産貝類採集行」(波部, 1940)に採集品目録を残している。琴平での 採集物は先述の大山 桂のものとはとんど同 じで,シメクチマイマイ,コペソマイマイが 加わったぐらいで全て普通種である。 大阪市立自然科学博物館(館長:筒井嘉 隆)が“Natur・eStudy’’の臨時増刊として「自 然研究シリ・−ズ」を出すことになり,第一・に

取り上げたのが『小豆島の自然』である。

1954年11月6日∼14日まで,地質,植物,動

物の各部門につき調査を行った。陸産貝類に 関しては博物館に専門家がいなかったためか 徳島県のため池などに生息していて−いたが, 香川では初記録になる。最近四国では生息が

確認されておらず,員重な標本といえる。採

集日:1951年6月10日,一−・宮神社内堀(現: 高松市)と産地もはっきりしており大切にし たい。 江村重雄は1901年新潟県に生まれる。八幡

より8才後輩になる。新潟県立高田師範学校

卒業後新潟県内,旅順,千葉の高等学校教諭 を経て−1949年新潟大学理学部教授となる。江 村はカタツムリの研究に優れた業績を残して おり,特に日本の貝燥研究に遺伝学を本格的 に導入した事,陸産貝類の生殖に、ついてさま ざまな研究をした事である。その他エムラマ イマイ血んαゐαg′αJαe∽〟′欄ぬどカタツムリ属 且〟ゐαゐ・αに献名されている。八幡とは同じ新潟 県人で1937年ごろ盛んに交流していたようで ある。柏崎市立博物館(1996)には八幡から 送られた大滝山のホソヒメギセル,フルトン ギセル(コンボウギセル),五剣山のコシボソ ギセル押′闇乃〃甲ゐαe血5α朋〃玩王ゐβ〃5f5シリオレ ギセルがある。また,1937年には来県してい るようである。黒田のメモにヒメナタネ(現 在ナタネガイ)几〃C血肌α桝的′gO〃〟∽とミジン マイマイl匂Jわ乃ヱαCO∫JαJα:讃岐居島(現:三豊 市詫間町)(払札1937),とあり,当時詫間

海岸近くの無人島,居島で採集している。ま

た,前述の標本目録にアワマイマイ:香川県 大滝山とあり採集者に寄贈者の名前が入って− いない所から大滝山にも登っているようであ る。江村も八幡もこの事についてをま書き残し ていないので,あくまでも推測であるが八幡 は同じ新潟県人の江村を大滝山や居島に案内 した可能性が強い。

大山 桂(かつら)は1917年生まれ1941

年東京帝国大学理学部動物学科卒業,文部省 資源科学研究所,地質調査所,鳥羽水族館な どに勤め貝類研究の権威であった。大山がま だ学生の頃,本県に調査に来て−いる。大山

(7)

の新種を発見している。内1種にヒノイデミ ジンツツガイCαピC〟椚んf乃0んねfと学名・和名に 献名されている(波部,1978)。1997年死去。 磯村貞成(さだよし)は(図3)1934年香 川郡弦打村郷東(現:高松市郷東町)に生ま

れる(多乱1997,200鋸。香川大学附属中学

校の時に氏家由三に出会い生物学に興味を覚

える。高松高等学校では生物部に入り坂田

勲から惑陶をうける。最初は植物など生物を 広くやっていたが,やがて陸産貝類に興味を 覚え,不明な貝は京都大学の黒田徳光や波部 忠重に送って同定をうけていた。高校2・3

年には生物部長として活躍,タイプ刷りの

「香川.県産陸産貝類目録」を作成している。 印刷は61種で種名を羅列したものである。後 に産地や書き込みをしているのをあわせると 74種が記録されている。同定も正確で高校生

としては立派なものである。ただ,採集地が

ほとんど分からないのが残念である。磁村は 高校卒業後も採集を続けていたとみえ1953年 5月,牟礼村(現:高松市牟礼町)八乗寺境 内で直径7mmほどの種名不明のカタツムリを 発見した(図4)。黒田に送りそれが新種であ ることがわかりイソムラマイマA鍔よ∫fα∫fe〝0川十 ダムαJαと仮称した(黒田・波部,1953)。外部 形態はオトメマイマイ属弟血桓〆加に似ている 地元の貝類研究家,樋出誠拘(ひのいでせい じゅん)が協力した。樋出は1923年生まれ 内海町(現:小豆島町)草壁で歯科医院を開 業,中学時代から趣味として植物や貝類,化 石を収集しており地元では有名である。「/ト豆 島陸産貝類目録」(樋出,1955)は樋出31才の 頃の執筆で,26種記録している。現在のヤハ タマイマイはヤハタニシキマイマイと仮称

し,その生態を下記のように解説している。

“小豆島特産,日本産4大力タツムリの1

つ。30×56mmにも達する。大型種の例にもれ

ず個体数少なく,かつ生息条件は400∼500m

以上の集塊岩の絶壁近くであって,排水の比 較的良好な斜面である。典型的な地上種であ る。”また,当時コシボソギセル秒rα〃〃0一 夕ムαビ血∫αCJαVαとした貝は,今から30年ほど 前,ショウドシマギセルr〃αf払∠ぁだ〃∫f∫γα〃Of と新亜種になった(湊,1978)。樋出は海産貝 類のミジンギリギリツツガイ科の研究で3種 図3.磯村貞成. 図4.イソムラマイマイ. ー 75 −

(8)

が,殻の表面に毛状の突起があるのでオオペ ソマイマイ属A句ぎ扇αの特徴を併せ持、つため相 当話題になった。イソムラマイマイの記述は 謄写刷りのため,正式な記載とはならずその まま年月が過ぎていった。平成に入り磯村は 2回脳棟塞を患うが奇跡的に回復,長年家業 のため中断した陸産貝類研究を再開した。イ ソムラマイマイが未記載のため,陸産貝類の

権威である湊 宏に早期記載を依頼する。湊

は電子顕微鏡で殻皮毛の形態を近似種と比較 検討し新しいものと断定,折から高松市峰山 から第2産地が見、つかり記載に拍車がかかっ た。2004年に記載された(湊,2004)。発見か ら51年たっていた。3度目の脳梗塞で入院中

の磁村は,病床でこの事を知り喜んだとい

う。2005年死去。著作物としては“香川の陸 貝”(磯村,1974)がある。 昭和後半から平成にかけての研究史につい ては稿を改めたい。 謝 辞 本稿を作成するにあたり西宮市貝類館より 黒田メモの閲覧ならびにコビー・の提供をいた だいた。心よりお礼申し上げます。また、ご 校閲いただきました香川大学教育学部金子之 史教授,同末広喜代一・教授に対し深謝申し上 げます。 文 献

Ca1lomon,P.and A.Tada.2006.Yoitir・Ou Hト

r・aSeandhisroleJapaneseMalacol(唱y・Nishino−

miyaShe11Museum.68pp,西宮.

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参照

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