アフガニスタン平和構築の背景と戦略
−DDR に与えられた役割の考察−
篠田英朗 (広島大学平和科学研究センター助教授) [email protected] *本研究報告書に記載されたすべての内容を、広島大学連携融合事業の許可無く転載・複 写することを禁ずる。The Background and the Strategy of Peacebuilding in Afghanistan:
A Consideration of the Role of Disarmament, Demobilization and Reintegration
(DDR) in Afghanistan
Hideaki Shinoda
(Associate Professor, Institute for Peace Science, Hiroshima University)
Abstract
This paper is an attempt to examine the background and the strategy of peacebuilding
in Afghanistan and identify the role of DDR (Disarmament, Demobilization and
Reintegration) in their context. First, the paper provides an overview of the history of
Afghanistan and finds that its modernization process has been fragile. While the
central government’s power base has been weak since 18
thcentury, various attempts to
strengthen centralization by coercive measures have generally been fruitless. This is a
political environment that has invited repeated interventions by foreign powers ranging
from Russia, Great Britain, the Soviet Union, and the United States in addition to some
neighboring states. This historical insight provides peacebuilding in Afghanistan with
two major strategic pillars. First, the creation of a strong central government in Kabul
with a modernized national force is critical for stabilizing Afghanistan. Second,
however, rapid and ambitious centralization will inevitably face resistances and may
rather result in disintegration. DDR in Afghanistan were intended to meet these two
conditions.
はじめに
アフガニスタンにおける DDR(Disarmament, Demobilization and Reintegration:武装解除、 動員解除、社会再統合)の役割は、アフガニスタンの歴史の中で、また現在進行中の平和 構築の戦略の中で、考えるのでなければ、分析することができない。そこで本稿では、ま ずアフガニスタンの歴史を概観し、現在の平和構築がどのような歴史的背景に対応するも のとして進められているのかを示してみる。次に平和構築の基盤となっているボン合意に 焦点をあて、現在進行中の平和構築活動の戦略的見取り図を整理する作業を行う。その上 で、アフガニスタンの歴史および平和構築の戦略の観点から捉えることができる DDR の 役割について、考察を試みる。 第 1 節 アフガニスタンにおける平和構築の背景 1-1 アフガニスタンの独立と分裂 アフガニスタンは、18 世紀にカンダハールを中心都市としたパシュトゥーン民族の部族 連合王朝として、国家としての体裁をとり始めた。アフガニスタン地域を征服したペルシ ア王ナーディル・シャーを引き継いだパシュトゥーン民族のアハマッド・カーン・サドザ イは、1747 年に王として即位してアフマッド・シャー・ドゥラニと名乗るようになり、ア ブダーリー族が改称したドゥラニ族は初の土着のアフガニスタン王朝「サドザイ朝」とな った。そしてアフガニスタンを独立国として宣言すると同時に、地方部族を制圧していっ た1。ちなみに新生王朝の初代王を作り出したこのときの部族会議が、21 世紀の平和構築 の過程でも重要視される「ロヤ・ジルガ(国民大会議)」の原型とされる。 またこのときに成立したアフガニスタンは、ドゥラニ族が率いるパシュトゥーン人のカ ンダハールを首都とする王国であった。今日の国境線となっている「デュランド・ライン」 をこえた現在のパキスタン領内のパシュトゥーン人を含みこんでいた一方で、それ以外の 民族を含んでいなかったのが、当時のアフガニスタンであった。「アフガン人」が非パシュ トゥーン人をも包摂する総称として使われるようになったのは、ほとんど 20 世紀になって からだと言われる2。パシュトゥーン人と、タジク人、ハザラ人、ウズベク人、といった非 パシュトゥーン人との間の対立関係が容易には解決されなかった一方で、アフガニスタン という国が成立したときに、パシュトゥーン人こそが「アフガン人」であったという歴史 1
Steven Otfinoski, Afghanistan (New York: Facts on File, Inc., 2004), p. 7.
2
前田耕作・山根聡『アフガニスタン史』(河出書房新社、2002 年)、37 頁。マーティン・ユア
ンズ(金子民雄監修、柳沢圭子・海輪由香子・長尾絵衣子・家本清美訳)『アフガニスタンの 歴史:旧石器時代から現在まで』(2002 年、明石書店)、12-13 頁。
的経緯は、今日にまでいたるアフガニスタンの民族問題におけるパシュトゥーン人の特別 な地位に大きく関わる事実であろう。 18 世紀の当時からアフガニスタンでは、地方の勢力が群雄割拠する状況が続き、中央政 権の権力基盤は弱かった。部族の平等主義の上に成立した中央政権が行っていたのは、王 府をはじめとする都市部の法と秩序を維持することだけであった3 。そこでアフマッド・シ ャーは、重要事項の決定は部族長評議会で行うようにして、王朝の権力基盤を維持したが、 彼の後継者にそれほどの威信はなかった4。アフマッド・シャーの後継とされてヘラートに いた八子のうちの第二子のティムール・シャーは、父の死後に長子を王座につけようとす る動きを退けてカンダハールに入る。ドゥラニ族の独占的支配を嫌った彼は、1776 年にカ ブールへの遷都を実行した5。しかし暗殺の企てを防いでいったティムール・シャーが 1793 年に病に倒れると、残された男女あわせて 36 人の子たちの間で王権をめぐる激しい暗殺と 戦乱が繰り返された。主要な都市の支配者も変転し続け、アフガニスタンは大混乱の時代 に陥った6。18 世紀末のヘラート、カンダハール、カブールという主要な三都市の支配者 間の対立は、それぞれの都市において半世紀の間に、三分の一から五分の四の人口を減少 させるほど激しかった7。 アフガニスタンの国土の統一には、約 65 万平方キロの国土のおよそ 3 分の 2 が標高 1,500 メートル以上で、90%以上が山岳または高原地帯になっており、冬季には雪で閉ざされ、 しかも一年を通じてほとんど雨の降らない内陸性の乾燥した気候で覆われているという自 然条件が、阻害要因としてはたらく8。厳しい自然環境がもたらす過酷な生活条件の中、近 代国家の枠組みとは離れた地方の部族の紐帯を重視する気質は、アフガン人の国民的性格 を形作るものになったと言える。アフガニスタンの国土の僅か 10%だけが農耕に適した土 地であり、牧草に適しているのも 40%だけに過ぎないにもかかわらず、ほとんどのアフガ ン人が生存手段を農業に頼っているという事実は、低い生活水準にあっても、アフガン人 が統一国家中央政府の力を借りず、独立して生きる習慣を持ってきたことを意味する9。 敵対する支配者群が、独立性が強い主要都市の間でにらみ合い、他者の押さえる都市を 3 遠藤義雄「復興への社会的・歴史的環境」、総合研究開発機構・武者小路公秀・遠藤義雄(編) 『アフガニスタン−再建と復興への挑戦』(日本経済評論社、2004 年)、58 頁。 4
See M. Nazif Shahrani, “State Building and Social Fragmentation in Afghanistan: A Historical Perspective” in Ali Banuazizi and Myron Weiner (eds.), The State, Religion, and Ethnic Politics:
Pakistan, Iran and Afghanistan (Lahore: Vanguard Books, 1987), pp. 30-31.
5 遷都以前のカブールは、タジク人をはじめとする北部民族が居住する街であった。遷都によ って、多数のパシュトゥーン人が移り住むことになった。渡辺光一『アフガニスタン:戦乱の 現代史』(岩波新書、2003 年)、46 頁。 6 渡辺光一は、長老が仲裁や裁定を下すパシュトゥーン人社会の「パシュトゥーン・ワリー」 のメカニズムが、国王の選定の次元では全く機能しないことが、自らの属する血縁集団などの ために王子たちが混乱を繰り返したアフガニスタンの情勢の背景にあったとする。渡辺、前掲 書、48-49 頁。 7
Jeffery J. Roberts, The Origins of Conflict in Afghanistan (Westport, CT: Praeger, 2003), p. 3.
8
渡辺、前掲書、12-14 頁。ユアンズ、前掲書、7-12 頁。
9
奪ったり、逆に自らの押さえる都市を奪われて外国に逃れたりする状況が繰り返される有 様は、アフガニスタンという国が陥りやすい一つの歴史的傾向を示しているようである。 そしてその政治的状況に関する事実は、アフガン人の国民的気質とも密接に結びついてい る。19 世紀初頭にアフガニスタンの宮廷とペシャワールで条約交渉にあたった東インド会 社のマウントスチュアート・エルフィンストーンは、次のように記していた。 王の直接支配が及ぶのは、すぐ周辺の町や地方までであること。もっとも近 くにいる氏族の服従が不安定で、遠く離れた氏族が独立を保っていること。・・・ 国内の各社会に、拒絶と分裂の法則が存在するのではないかという懸念が持た れるのは、もっともである。このきわめて強力な法則を崩せる力は、全体をし っかりまとめながらも、全社会の特色を破壊し、消し去ってしまうような力で ある。 ・・・(しかし)アフガニスタンでは・・・各部族の内部統治が非常にうまく 機能しており、王の統治がいかに無秩序であっても、その機能はけっして混乱 することがなく、国民の生活に支障が出ることもない。秩序ある活気に満ちた 多数の共和政体は、この粗野な国をいつでも専制君主から守る準備ができてい て、内戦になっても敵の貧弱な攻撃を迎え撃つことができる。・・・(訪問者は) なぜ国家がこれほどの無秩序の中で存続できるのか、理解に苦しむだろう。そ して、このような状況の中で毎日を過ごさなければならず、不幸な境遇によっ て、詐欺や暴力、略奪、欺瞞、復讐をするようになってしまった人々を哀れむ だろう。それでも、その勇ましく気高い精神や、温かいもてなし、そして都会 人の従順さとも田舎者の無骨さとも違う、大胆で飾り気のない態度を、まずま ちがいなく賞賛するだろう。10 「秩序ある活気に満ちた共和政体」と呼ばれた各部族の賞賛されるべき「気高い精神」 は、脆弱な王の統治と「拒絶と分裂の法則」の中で「不幸な境遇」に喘ぐ人々が作るアフ ガニスタンという国の「無秩序」へと連なっている。愛されるアフガン人と、哀れまれる アフガン人とが、一体のものとして混在しつつ、アフガニスタンという空間を作り出すの であった。19 世紀から今日にかけてまでの時代に、この「極めて強力な法則」を崩すため の「全社会の特色を破壊し、消し去ってしまうような力」になるべく、部族主義者、近代 化主義者、共産主義者、イスラーム原理主義者、そしてイギリス、ロシア、ソ連、アメリ カが、次々とアフガニスタンに登場した。しかしいずれの場合においても、アフガニスタ ンという国に歴史的に観察されたある種の「法則」を崩すまでにはいたらなかった。むし ろいつのまにかその「法則」に飲み込まれ、いつのまにか「法則」を強化するように働い 10
Josiah Harlen, A Memoir of India and Afghanistan (Philadelphia, 1842), pp. 126-127(ユアンズ、前 掲書、59-61 頁に引用)。
ていってしまうのが常であった。 アフガニスタンは 19 世紀になるとロシアとイギリスの間の「グレート・ゲーム」に翻弄 されることになった。しかしあるいは大国の側が、アフガニスタンに絡め取られていった のだとも言える。19 世紀において、ロシアの南進政策の脅威を感じたイギリスは、インド を防御するにあたってアフガニスタンが持つ重要性に着目した。1838 年にヘラートに迫る ペルシア・ロシア連合軍を撃退したアフガニスタン軍を強固に支援したのが、インドに控 えるイギリス軍(ボンベイ歩兵隊)であった。しかしイギリスは、1835 年にサドザイ家に 代わって打ち立てられていたバラクザイ王朝(1926 年まで継続)のドスト・モハンマドを 嫌い、サドザイ族のシャー・シュジャーを元王と復位させようと画策した。そこでロシア に対抗し、英領インドの権益を拡大させるために、アフガニスタンに傀儡政権を作り出す ことを目的としてまずカンダハールに侵攻し、1839 年にはカブールを占拠したのであった。 しかしイギリス軍部隊はアフガン人(バラクザイ族)の執拗なゲリラ攻撃にあい、カブ ール副総督であったアレキサンダー・バーンズや軍政治顧問ウィリアムズ・マクノーテン らも襲撃されて殺害され、1842 年 1 月にジャララバードへと退却する。しかし厳しい寒さ と、取り決めに反したゲリラ攻撃によって、4 千 5 百名の部隊と 1 万 2 千名の非戦闘従軍 者は、ほぼ壊滅した11。これは大英帝国の歴史に残る大惨事であった。同年 9 月に新たな インド総督の下での苛烈な報復戦争が起こったが、イギリス軍はバーミヤンで捕らわれて いた捕虜を救出し、カブールを破壊した後、完全に引き上げた(第一次アングロ・アフガ ン戦争)。そしてイギリスは、アフガニスタンへの外国の侵入がある際にはイギリスの支援 を受けるという条件付きで、バラクザイ族のドスト・モハンマドの復位を認めた。 その後、中央集権化を進めた国王シィール・アリーが、ロシア大使をカブールに迎え入 れながらイギリス大使を拒絶したことに腹を立てたイギリスは、1878 年に再び侵略を開始 し、カンダハールなどを占拠した。しかし各地で諸民族の反乱が相ついだため、シィール・ アリーに代わって王位についたモハンマド・ヤクーブと、外交上の干渉権をイギリスに認 め、領土の割譲を含む「ガンダマク条約」を 1879 年に結んで撤退の準備に入った。ところ が最初のカブール常駐使節が条約締結の 3 ヵ月後に反乱によって殺されると、イギリス軍 は遠征軍を派遣してカブールを占領し、ヤクーブを退位させてインドへ連れ去ってしまっ た。イギリスはそのままカブールで軍政をしいたが、各地で反乱が相次ぎ、事態の収拾が できない状態にいたった。そこで 1881 年に強い指導力を期待して国内統治権をアブドゥー ル・ラフマン国王に譲った後、外交関係の権限を保持して、撤退した(第二次アングロ・ アフガン戦争)12。 19 世紀を通じてイギリスはアフガニスタンを制圧することができなかったが、二度にわ 11 ジャララバードに生還したのは、一人の軍医だけであった。ただし翌年の「報復部隊」によ って、100 名以上のイギリス人捕虜と、2 千名のインド人傭兵および非戦闘員が救出された。 ユアンズ、前掲書、94-95 頁。 12 前田・山根、前掲書、58−82 頁。
たる侵略戦争は、それまでにはなかった反イギリス、さらに反ヨーロッパの感情を、アフ ガン人の心に強く植えつけることになった13 。他方、軍事占領は成功しなかったものの、 外交政策に関する権限を獲得したイギリスは、いわゆる「緩衝国家(buffer state)」としてアフ ガニスタンの地政学的位置付けを理解し続けることになる14 。 あるアフガニスタン歴史家は、すでに 1950 年代に書いていた。 アフガン人の最も顕著な特徴の一つは、独立への強い愛情である。アフガン 人は、忍耐強く、不幸や貧困を甘受するが、外国統治に屈することだけはでき ない。・・・アフガニスタンを大規模な軍隊で侵略する者は、飢餓によって破壊 される。アフガニスタンを小規模な軍隊で侵略する者は、敵対する人々によっ て圧倒されるだろう。15 アフガニスタンには、そしてアフガニスタンにいかなる勢力にも、大国の間で完全に中 立を保ちながら行動するだけの力はなかった。しかし同時に、外国勢力の側も、アフガニ スタン全土を完全に掌握するために十分な力を発揮することもなかった。外国勢力は、一 時的にはアフガニスタンを支配するかのような様相を呈することができても、アフガニス タンの過酷な自然環境と政治的抵抗に直面し、次第にその支配基盤を掘り崩されていくの が、歴史的なパターンなのであった。このパターンは、アフガニスタンが独立国としての 体裁を整えようとした 20 世紀においても、基本的には踏襲され続ける。 1-2 アフガニスタンの近代化と挫折 ドスト・モハンマドの死去後の骨肉の兄弟間戦争を制して 1868 年に王位を固めたシィー ル・アリーは、中央集権政府を作り出すべく、内閣にあたる機関を行政府に作り出し、郵 便の制度化、首都における学校設立、新聞の発行、軍需工場の起業などの幾つかの斬新な 施策を実行した16。 第二次アングロ・アフガン戦争をへて、イギリスによって国王の座につけられたアブド ゥール・ラフマンは、イギリス軍をも苦戦させたヘラートのアッユーブ・ハーンに一度は カブールを占領される。しかし反撃の後、ヘラートも制することに成功し、さらに度重な る数々の反乱を制し続けた。かつてない内政上の権力基盤を固めた王となったラフマンは、 全部族の代表をカブールに集め、国王への忠誠を誓わせた。そしてアフガニスタンの歴史 上初めての近代化推進政策をとり、国家の行政構造を整え、税金徴収を制度化した。また 13
Otfinoski, op. cit., p. 11; Roberts, op. cit., pp. 1-24.ユアンズ、前掲書、99-100 頁。
14
Shaharani, op. cit., pp. 36-58.
15
Mohammed Ali, Afghanistan: The Mohammedzai Period (Lahore: Punjab Educational Press, 1959), pp. 122-123, quoted in Roberts, op. cit., pp. xii, xv.
16
それまでの部族が提供する民兵に依存する兵力とは別に、常備の正規国軍を設立した。 ロシアの南進を警戒して外交政策の決定権をイギリスに譲ったまま内政に専心したラフ マン国王は、近代化推進にあたっては、イギリスからの補助金を利用する政策をとった。 また外国人技師を招聘して工場を運営するなどの産業振興策だけではなく、強化した常備 軍で国内の部族兵を鎮圧し、「国内帝国主義政策」を追求した17 。他方において、イギリス の圧力に抗しきれず、パシュトゥーン人の分断を固定化する「デュランド合意書」に署名 せざるをえなかったことは、将来の政治情勢に大きな影響を残す行為であった。なおラフ マンは、パシュトゥーン人の北部アフガニスタンへの北部殖民という、部族地域の不可侵 に挑戦する大胆な政策もとった。またイスラーム教を国土統一の原動力としながらも、守 旧派の宗教指導者には厳しい態度をとった18。 1901 年にラフマン国王を継いだハビブッラー・カーン国王は、引き続き欧米流の近代化 を進め、奴隷制度を廃止したり、世俗的学校や軍事学校を設立したり、西欧流の病院を導 入したりするなどの政策を実施した。第一次世界大戦ではイギリスに配慮して中立を保っ たが、国民感情にそった態度ではなかったため、1919 年に暗殺された。次に王位についた アマヌッラー・カーンは、即位と同時にアフガニスタンの完全独立を宣言し、英領インド に攻撃を仕掛けた(第三次アングロ・アフガン戦争)。世界大戦の厭戦気分が強かったイギ リスはすぐに講和に応じ、アフガニスタンは外交政策に関する権限を獲得して、完全独立 を果たした。これは「デュランド・ライン」の最終的な確定も意味した。外国勢力の支配か ら完全に免れて独立国となったのは、アフガニスタンにとって、このときが歴史上初めて であったと言ってよい19。 折しも 1917 年に勃発したロシア革命は、伝統的に南進政策をとっていた帝政ロシアの政 体を根本的に変革していた。アマヌッラー・カーン国王は、レーニンのソビエト政権との 劇的な関係改善を果たし、1921 年に友好条約を締結するに至る。レーニンは、「アフガニ スタンこそ、世界でただ一つのイスラーム独立国である。アフガニスタン人民には、奴隷 化された全イスラームの人びとの運命を統一し、彼らを自由と独立の道へと導く、偉大に して英雄的な課題が与えられている」と持ち上げた。それにともなって、イギリスから途 絶えた資金・武器援助が、ソ連からアフガニスタンに流れ込むようになる。しかし社会主 義圏の拡大を狙うソ連の意向に反応して、ヘラートやマザリシャリフでは、革命運動の動 きが見えるようになった。アマヌッラーはこれを是正するために、欧州諸国との外交関係 樹立や、1921 年にはトルコやペルシアと有効中立条約を締結するなど多方位外交を目指し た20。 内政面においては、アマヌッラー国王は、空軍の導入、国家予算の策定、憲法の制定な 17
遠藤、前掲書、58−59 頁。Otfinoski, op. cit., p. 11.
18
前田・山根、前掲書、84-87 頁。
19
Otfinoski, op. cit., p. 12.
20
どの近代化路線を、矢継ぎ早に打ち出した。しかし女性のブルカ不使用の権利や、フラン スやドイツの学制を模した男女共同学校の導入などにいたると、遂に宗教指導者層の逆鱗 に触れてしまう。1928 年に反国王の暴動がアフガニスタン全土に広がり、アマヌッラーは 翌 1929 年に退位し、ヨーロッパに亡命した。アマヌッラーを継いで即位した弟のイナヤト ゥッラーも、わずか 3 日間でインドに逃亡した21 。 反乱の首謀者であったタジク人のバッチャ・イエ・サカーオが首都カブールを制圧し、 自ら王位についたが、すぐにアマヌッラーの従兄弟であるムハマド・ナデル・シャーによ って権力の座を追われ、1929 年 11 月に処刑された。国王となったナデル・シャーは、制 定憲法の内容などにおいては穏健な装いを保ったが、政党活動を禁止するなど、反政府勢 力の弾圧には徹底した態度で臨んだ。しかし彼も 1933 年には暗殺され、国土の安定という 困難な課題は、一人息子の当時 19 歳であったムハメッド・ザヒル・シャーに託されること になった。 イギリスとソ連の伝統的な「グレート・ゲーム」が休止した第二次世界大戦までの世界 情勢は、親独的ではありながら中立を保ち、トルコ、イラク、イランとの「イスラーム四 国相互不可侵条約」を結んだアフガニスタンに、比較的平穏な立場を与えた。ザヒル・シ ャー国王の下では、首相職に就いた者が、比較的穏健な近代化政策を進めた。 しかし 1953 年にザヒル・シャー国王の三人目の首相に就任したムハンマド・ダーウド・ ハーンは、高等教育整備や国軍強化などの面で急速な近代化政策をとった。また国内の部 族兵を鎮圧し、伝統的に自治地帯となってきた部族地域にも中央政府の統治権力を及ぼし た。またダーウド首相は、領土問題(パキスタン領内のパシュトゥーン人の独立に関する 「パシュトゥニスタン問題」)を抱えるパキスタンに対して強硬路線を貫いた。この政策は、 パキスタンと良好な関係を保っていた米国との距離を広げ、アフガニスタンをソ連寄りに していく。当時、米国はソ連を封じ込める目的で、パキスタン、イラン、イラク、トルコ と、相互安全保障条約を結んでいた。パキスタンに敵対するアフガニスタンは、東西冷戦 の「緩衝国」として認識された。そこでソ連の軍事顧問団がアフガニスタンに派遣された り、多くのアフガン人が軍事教練のためにソ連に派遣されたりするようになった。しかし パキスタンとの敵対関係は、国境における物資の運搬禁止という措置を招いてしまい、ア フガニスタンを次第に経済的に追い詰めていった。経済の停滞が国民の不満を高めていっ たため、1963 年にダーウド首相は事実上解任されるにいたる。 ザヒル・シャー国王は、新しい首相としてムハンマド・ユスフを任命し、パキスタンや米 国との関係修復にも努めた。1964 年にロヤ・ジルガ(国民大会議)を召集し、新憲法を承 認させた。ちなみにこの中央集権的体制を定めた 1964 年憲法は、長い内戦によって機能停 止した後、2001 年の「ボン合意」によって、復活したものである。この憲法によって、ア フガニスタンの歴史上初めて、立憲君主制が導入され、一般選挙による議会制度が導入さ 21 Ibid., p. 15-16.
れた。議会制度自体はアマヌッラー国王が制定した 1923 年憲法にもとづいてすでに導入さ れていたが、当時は絶対君主制が前提であった。新憲法にもとづいて、1965 年には女性参 政権にもとづく初の議会選挙が実施された。しかし初の選挙によって設立された議会は、 当選者数わずか 3 名のアフガニスタン共産党が、学生デモを扇動し、それを軍隊が鎮圧し て死傷者が出るという騒乱に見舞われた。実際の選挙では、むしろ名望家や宗教家といっ た伝統的エリート層が多数選出されていた。しかし社会主義、イスラーム原理主義、パシ ュトゥーン民族主義などに分裂し始めていた若いエリート層も、権力奪取の機会をうかが っていたのである22。政府の基盤となる政党がないため、政府と議会は建設的な関係を築 けず、混乱を助長し続けた。 ザヒル・シャー国王時代のアフガニスタンは、政変こそなかったものの、社会情勢は決 して安泰ではなかった。宗教回帰勢力と左翼勢力の対立構造の背後には、少数派エリート と地方で貧困にあえぐ人々の拡大する格差があり、統一的な意思を示しえない議会の混乱 の温床となった。外国援助が減退し、課税基盤も脆弱な中、国家財政を蝕む過度な軍関係 の支出と政府機構の腐敗および官僚主義の弊害は悪化の一途をたどり、外貨収入の大半が 消費者製品取得にあてられる状況が続いた。専門家の数が足りなかったため、完遂した援 助施設の維持・管理もままならなかった。1971 年から起こった飢饉に対しては、政府は有 効な手段を打てなかったばかりか、能力不足と官僚主義で援助活動をも妨害したので、お よそ 10 万人ともいわれる数の人々が死亡した23。 こうした状況の中、1973 年に起こったクーデタは、かつてザヒル・シャー国王に解任さ れたダーウド首相が、今度は国王を放逐して、大統領兼首相に就任し、アフガニスタンを 共和国として宣言するという奇妙なものであった。しかしその背景にあったのは、国内の 伝統的エリート層に満足しない左翼勢力と、アフガニスタンへの支援を惜しまないソ連の 存在であった。したがってダーウド大統領がやがて次第に左翼勢力と距離をとろうとした とき、共産党系の軍将校たちは激怒し、再びクーデタを起こすことになったのである。 1978 年のクーデタ「サウル(四月)革命」は、ダーウド大統領とその家族や支持者を含 む数百人の人々を殺害するという徹底したものであった。権力を握った共産主義政党 (People’s Democratic Party of Afghanistan: PDPA)は、国名を「アフガニスタン民主共和国」 22 イスラームへの回帰を唱えて反政府運動を展開しようとしていた者の中には、カブール大学 内で開催されたイスラームの研究会「イスラーム協会」に参集し(1968 年に「ムスリム運動」 として公然と活動を開始)、後にムジャヒディン勢力を形成することになる、ブルハヌッディ ン・ラバニやアブドゥール・ラスール・サヤーフ(エジプトへの留学から帰国)がいた。カブ ール大学の学生には、後にムジャヒディンとなるグルブッディン・ヘクマティアール、そして アハマッド・シャー・マスードがいた。彼らは 1973 年以降、政府の弾圧の対象となった。そ こで彼らの多くはパキスタンのペシャワールを拠点とすることになった。ただしやがて「イス ラーム協会」を引き継いだラバニやマスードの穏健派と、軍事路線によるイスラーム体制樹立 を目指すヘクマティアールの急進派に分かれていった。他の集団が幾つか生まれて、ソ連侵攻 時には 10 以上のグループが存在していたという。前田・山根、前掲書、142 頁。長倉洋海『マ スードの戦い』(河出書房新社、2001 年)、第 3 章、参照。 23 ユアンズ、前掲書、214-215 頁。
と変更するほどに急進的な共産化政策を推し進めた。当初大統領兼首相となったモハマド・ タラキーは、すぐにハフィズラー・アミンに取って代わられたが、両者は徹底した反政府 勢力の弾圧を行ったという点では同じであった。おびただしい数の政治犯が逮捕・投獄さ れ、拷問の後に殺害された。共産主義政府は、反政府運動に米国が支援を行っていると非 難し、米国大使を誘拐して殺害する行為にまで及んだ。イスラーム主義活動家に対する粛 清は凄惨を極めた。しかし共産主義にもとづくイスラーム教の否定は、かえって民衆レベ ルでの反政府活動を喚起した。 1979 年 3 月にヘラートで行われた政府の識字教育キャンペーンの際には、育児の多忙を 理由に参加しなかったある主婦を政府職員が強制的に参加させたことへの抗議から、大規 模な暴動が生まれた。政府はヘラートの支配権を失い、政府職員とソ連からの顧問および 彼らの家族たちは拷問を受け、惨殺された24。その後のソ連軍の支援を受けた政府軍の総 攻撃によって、ヘラート市街の大半は瓦礫の山となり、推定 2 万人の市民が犠牲になった。 そのときに軍隊を脱走した兵士を束ねた元士官が、後にヘラートの「軍閥」となるイスマ イル・ハーンであった25。 こうしてアフガニスタン全土に内戦の混乱が広がる中、ソ連は強硬派のアミンを排除し ようと試みる。しかしアミンは幾度かの暗殺の危機を逃れ、逆に 1979 年 9 月にはタラキー が政治抗争の中で死亡した。そこで同年 12 月よりソ連軍が侵攻する事態が発生し、全権を 握っていたアミンに代わってより親ソ的なバブラク・カルマルの傀儡政権が成立した。 国内闘争の構図に拘泥していたソ連は、侵攻に対して非同盟諸国を含む国際社会全体か らの非難に立ち向かう準備がなかったばかりではなく、アフガニスタン国土を制圧するた めの現実的な見通しも持っていなかった。こうしてソ連およびその共産党傀儡政権と、イ スラーム教を信奉する伝統的アフガン人を基盤する「ムジャヒディン(聖戦の戦士)」勢力 との間で、長い内戦が展開していくことになる26。 ムジャヒディン側 6 グループは、「アフガニスタン解放イスラーム同盟」を結成し、反政 府運動での共闘態勢を築いた。ただし「イスラーム党(ヘズブ-イ-イスラミ)」のヘクマテ ィアール派は最大勢力として議長職を要求し、これが認められないと、同盟を脱退した。 カルマル政権(1986 年からはナジブラ政権)側は、地方の宗教指導者を懐柔しようとする などの穏健派層取り込みの政策をとったが、奏功しなかった。米国を中心とする西側陣営 諸国は、ムジャヒディン勢力を支援し、複雑な情勢の中、戦況は一進一退を繰り返した。 そうした中でイスラーム協会のアハマド・シャー・マスード司令官は、拠点であるパンジ シール渓谷へのソ連軍の度重なる攻勢を撃退し、「パンジシールの獅子」として頭角を現し た27。 24 恵谷治『アフガニスタン最前線』(みすず書房、1983 年)、77-79 頁。 25 ユアンズ、前掲書、237-238 頁。 26
遠藤、前掲書、59-73 頁。Otfinoski, op. cit., pp. 19-23.
27
ここまでのアフガニスタンの歴史を見てみると、カブールの中央政府は、大国のどちら か一方(イギリスかロシア、あるいは米国かソ連)に近づき、その大国の力を背景にして、 国家統一を図っていく傾向を持っていたことがわかる。19 世紀末にはイギリスを利用して 近代国家化を進め、20 世紀後半にはソ連を利用して近代国家化を進めた。中央政権の威厳 を高めるために、外国勢力の力を借りたわけである。これに対して、外国勢力に反発する 農村部のアフガン人は、外国勢力と結託する中央政権とも敵対した。外国勢力の影をちら つかせながら支配を拡大しようとする中央政権に、地方の諸勢力は強固な独立心を持って 抵抗し、貧困と戦争の苦難に耐えていったのである28。 アフガニスタンの中央政権による近代化は、外国勢力の支援なくしては進めることがで きないものであった。しかし土着の社会的風土に根付かない近代化は、失敗を約束されて いた。この逆説を乗り越えて、必要な人的資源を動員し、社会的制度を確立する作業を、 アフガニスタンの歴代政権は完遂することができなかった29。 かつての部族抗争が蔓延していたアフガニスタンでは、王位をめぐる戦乱が絶えなかっ た。そこで近代化のプロセスの中で、中央政権の国軍設立・拡充が重要視されることにな った。たとえば 1956 年当時のアフガン国軍の兵力は、兵員 4 万 4 千人、警察官 2 万人であ り、装備も貧弱であった。ところが 1979 年時点では、陸軍 10 万人、空軍 1 万人、警察官 3 万人を擁するまでに至り、装備もソ連からの軍事援助で飛躍的に強化されていた30。とこ ろがこの中央集権化は、必ずしも解決策にはならず、首都で繰り返されるクーデタや政治 抗争が、国家の分裂と荒廃を生み出し続けていった。 19 世紀までのアフガニスタンの混乱は、部族対立を基本構造とするものであった。これ 官であった。ボン合意後のアフガニスタンでいわゆる「パンジシール派」が勢力を誇示するが、 彼らはマスードの部下たちであった。暫定行政機構から移行政権にかけて要職を握ったファヒ ム国防相、アブドゥラ外相、カヌーニ教育相らは、同じタジク人勢力の中のラバニ前大統領ら の守旧派とさえ袂を分かつ旧マスード派の政治・軍事組織「シューラ・エ・ナザール」の出身 者であった。現在のアフガニスタンにおいて、マスードは象徴的な国民的英雄として扱われて いる(タジク人の間で守り神とされているに過ぎないと考える者もいるが)。空港にはマスー ドの巨大な肖像画がかけられ、カブールの交差点にはマスードの記念碑が設立され、カルザイ 大統領はマスードへの敬意を忘れない。カルザイ大統領が 2004 年の大統領選挙の直前に「パ ンジシール派」の首領であったファヒム副大統領兼国防省を副大統領候補としない決定を行っ た際、代わりに副大統領候補に選んだのは、マスードの弟であった。ファヒムの失脚は、他の 「パンジシール派」の者たちの怒りを喚起しなかったが、マスードという名前が一役を買った という要素は否定できないだろう。マスードのカリスマ的な姿を描いたものとしては、長倉洋 海『マスード:愛しの大地アフガン』(河出書房新社、2001 年)などを参照。 28 もっともこれは必ずしも一般大衆レベルであてはまるものではないかもしれない。内戦中に アフガニスタンから周辺諸国に流出した難民の数は 500 万人以上であり、国内避難民も 100 万 人に達した。See Amalendu Misra, Afghanistan (Cambridge: Polity Press, 2004), p. 151.
29
Richard S. Newell, “The Prospects for State Building in Afghanistan” in Banuazizi and Weiner (eds.),
op. cit., p. 120.アフガニスタンの国家統一に対するイスラーム教の持つ意味については、Eden
Navy, “The Changing Role of Islam as a Unifying Force in Afghanistan” in Banuazizi and Weiner (eds.),
op. cit.
30
渡辺、前掲書、102 頁。ソ連侵攻による混乱で、1980 年の段階ですでに国軍兵力は 3 万人に 激減した。同上、110 頁。
に対して、20 世紀後半の混乱はイデオロギー的な対立によって作り出されたものであった。 強権的な中央集権化が、立憲政治を基調とする国内社会システムの進展にしたがって進め られなかったために、近代化のプロセスは結果的には国内の平和的安定に役立たなかった のである。この負の遺産を清算する作業は、結局、21 世紀の平和構築において、あらため て本格的に遂行されることになるのであった。 1-3 対ソ戦争から対テロ戦争へ アフガニスタンに進駐したソ連軍の規模は約 9~10 万にのぼり、数の上では現地アフガ ン人勢力を圧倒した。しかし「ムジャヒディン」勢力は、伝統的なゲリラ戦法で消耗戦に 持ち込む戦術を徹底し、ソ連軍を苦しめた。実際の「ムジャヒディン」勢力は、統一され た指揮系統を持っていたわけではなく、別個の集団を形成していた。しかし外国軍勢力に 対してとるべき伝統的な戦術は、アフガニスタンでは広く共有されていたのであった。 ソ連の軍事侵攻は、イランのイスラーム革命およびそれに伴う大使館員人質事件とあわ せて、この地域における米国の権威を失墜させる事件であった。リベラル派のカーター大 統領を破り、1980 年に米国大統領に就任した共和党のロナルド・レーガンは、1980 年代を 通じて対ソ強硬路線を貫く外交政策をとり続けた。レーガン大統領は、アフガニスタンに おいては、ソ連軍に対する武装抵抗を続けたムジャヒディン勢力を積極的に支援した。1980 年に 3 千万ドル程度であった米国からムジャヒディンへの支援額は、1989 年頃までには 6 億 3 千万ドルに達していた31。結果として、アフガニスタンの内戦は泥沼化することにな った。アルカイダ勢力を率いるオスマ・ビンラディンがこの時期にアフガニスタンに入り、 米国からの支援を利用して自らのテロリスト組織を育て上げていったことは、よく知られ ている。 1985 年にソ連共産党書記長にミハイル・ゴルバチョフが就任すると、次第に冷戦構造が 溶解し始めることになった。結果としてソ連の対外膨張主義も修正され、ソ連軍は 1988 年にアフガニスタンから撤退した。1988 年までの時点で、ソ連軍兵士のアフガニスタンで の戦闘による死者数は、1 万 5 千人に達していた。さらに劣悪な衛生環境に起因する感染 病の犠牲になった者が多数にのぼったといわれる32。 カブールでは、1986 年よりモハマド・ナジブラが、政権を握っていた。ソ連軍の撤退後 は、ナジブラ政権軍とムジャヒディン勢力との間の内戦が継続した。ムジャヒディン側は あらゆる形態の和平合意の可能性を拒絶し、徹底的に戦闘を続けた。そして 1989 年にはペ シャワールで、「アフガニスタン・ムジャヒディン・イスラーム同盟」暫定政府を結成した。 ムジャヒディン側各勢力は争いを繰り返し、依然としてソ連からの支援を受け続けたナジ 31 川端清隆『アフガニスタン:国連和平活動と地域紛争』(みすず書房、2002 年)、19 頁。 32
Otfinoski, op. cit., p. 27. ムジャヒディン側の死者は、9 年間で 60 万人にのぼったという。渡 辺、前掲書、129 頁。
ブラ政権を打倒するにはいたらなかった。しかしナジブラ政権の基盤は、ソ連が消滅して 支援が完全に途絶えると、本格的に衰弱し始める。ナジブラ政権側の暫定政府への参加を 前提にして 1991 年頃に本格化した国連の和平調停を、ムジャヒディン側は完全に拒絶した。 対ソ戦争中に台頭した「イスラーム協会」のマスードは、1992 年に政府側から寝返ったウ ズベク人のアブドル・ラシド・ドスタムと軍事協力体制を整え、マザリシャリフを奪取し た上で、同年 4 月にはカブールを包囲した。先にヘクマティアール派の部隊がカブールに 入ったのを見ると、マスードも入城し、カブールの重要地点を制圧したため、ヘクマティ アールは南に撤退した。暫定政府のメンバーが到着すると、「アフガニスタン・イスラーム 共和国」の建国が宣言された。この時点までのアフガン人の戦争犠牲者は 200 万人といわ れ、550 万人が難民となったといわれる33。 1992 年 6 月には、元カブール大学イスラーム法教授であり、「アフガニスタン・イスラ ーム協会(ジャミアト-イ-イスラミ)」の指導者であったブルハヌディン・ラバニが、暫定 大統領に就任した。ラバニは、同年 12 月には部族長たちによって、正式に大統領に任命さ れた。マスードは、国防大臣に就任した。しかしムジャヒディン連合政権は、早くも翌 1993 年には崩壊し始める。ラバニとマスードはタジク人であり、ドスタムはウズベク人であっ たが、対ソ戦中からパキスタンから膨大な支援を受けていたパシュトゥーン人のヘクマテ ィアールは、自分が長に立つのでなければいかなる政権にも協力しないという姿勢をとっ た。そして 1992 年 5 月には、カブールへの砲撃を開始した。マスードとの停戦を受諾した 後も、ヘクマティアールは、ドスタムは旧共産主義者でムスリムではないとの理由で敵対 し、軍事衝突を起こした。ところが 1994 年になると、今度はヘクマティアール派とドスタ ム派は共闘するようになり、ともにマスードのラバニ派に対する攻撃を開始した。北部で はドスタムが、ヘラートではイスマイル・ハーンが穏健な統治を行った一方で、むしろ内 戦中にあまり物理的被害はなかったカブールにおいて、1992 年以降の一年で、約 3 万人が ムジャヒディン各勢力間の戦闘の犠牲になるという事態が起こった34。 長い間ソ連の軍事侵攻にともなう戦争に苦しんでいたアフガン人民は、統治能力のない ムジャヒディン勢力に代わる政治集団の台頭を待ち望んだ。そうした気運に乗って急速に 支持を広げ、パキスタンやサウジアラビアの支持も得て、軍事的にも華々しい行動に出始 めたのが、過激なイスラーム原理主義を標榜するタリバーン勢力であった35。急進的宗教 指導者オマル師を仰ぐタリバーン勢力は、1994 年にまず南部カンダハールを掌握し、1995 年にはヘラートを制圧した。タリバーンの台頭にともなってヘクマティアール派は衰退し 33
Otfinoski, op. cit., p. 29.
34 ユアンズ、前掲書、295 頁。 35 タリバーンに対するパキスタンの支援の背景を分析したものとしては、広瀬崇子・堀本武功 (編著)『アフガニスタン:南西アジア情勢を読み解く』(明石書店、2002 年)所収の、広瀬崇 子「パキスタンの苦悶とターリバーン支援」、井上あえか「ターリバーンとパキスタンの内政」、 伊豆山真理「パキスタン軍の『失われた十三年−ジュネーブとボンの間』、小田尚也「パキス タン経済における『アフガン問題』−密貿易の実態とその経済的コスト」、を参照。
ていき、イスマイル・ハーンも逃亡させられる中、タリバーンは暫定政府との全面対決を 挑む。1992 年以降の犠牲者数が 10 万人に達する状況の中、タリバーンは国連の調停努力 も拒絶し、1996 年にはカブールを制圧した。その後もさらに攻勢を強め、結局アフガニス タン全土の約 90%を実効支配するまでにいたる。ドスタムは 1997 年に国外逃亡した。マ スードやラバニ(国際社会の認知からすれば依然として大統領)は、北部に撤退した後、 1997 年に一般に「北部同盟」といわれる「反タリバーン連合イスラーム救国統一戦線」を 形成して体制を立て直し、タリバーン政権と対峙し続けた36。 タリバーン政権は、イスラーム原理主義にもとづく過激な政策を実行し、世界にその悪 名をとどろかせることになった。またパシュトゥーン人を基盤にするタリバーン勢力は、 北部地域において虐殺事件の対象になったり、虐殺の実行者になったりした。民族の違い を理由にした虐殺行為が蔓延するようになったのは、タリバーン台頭以後だと言われる37。 またテロリスト組織であるアルカイダが、タリバーン政権下でアフガニスタンを自らの活 動拠点としたことも、タリバーン政権の悪評を高めた。米国のクリントン政権は、1995 年・ 1996 年にサウジアラビアで連続した米軍施設爆破事件にアルカイダが関与した可能性を 疑い、1998 年のケニアとタンザニアの米大使館爆破事件の後には、アフガニスタン南東部 のテロ訓練施設数箇所を数十発のトマホーク巡航ミサイルで攻撃した。2001 年 9 月 9 日に ジャーナリストに扮装した者に自爆テロを行わせ、マスードを暗殺したのもアルカイダの 仕業であったと考えられている。タリバーンがカブールを奪取してから 2001 年 9 月までの 間に、国連を中心とする国際社会の側からの数々の和平交渉の試みがなされた。しかしそ れらのことごとくをタリバーンは拒絶した。 2001 年 9 月 11 日に米国東部で同時多発テロが発生すると、米国のブッシュ政権はその 首謀者をアルカイダのオスマ・ビンラディンと断定した。タリバーンの後ろ盾であったパ キスタンに方針の転換を求めた上で、自衛権の行使として、同年 10 月 7 日に、アフガニス タンに潜伏するアルカイダ勢力およびその協力者に対する軍事行動「不朽の自由作戦 (Operation Enduring Freedom)」を開始した。現在にまで続くアフガニスタンの「平和構築」
プロセスは、「対テロ戦争」の一環としてアルカイダ勢力の駆逐を目指す米国の軍事行動で、 タリバーン「実効政府」が放逐されたことによって始まったものである38。 米国の圧倒的な空軍力によって、わずか一ヶ月ほどでタリバーン政権は崩壊した。さら に米軍は軍事行動を継続させて、パキスタンとの国境付近地域にまで、タリバーン勢力を 36 「北部同盟」はもともと軍事的必要性で生まれたものであり、政治的同盟と言えるような結 びつきを各派が持っていたわけではなかった。長倉洋海『アフガニスタン敗れざる魂:マスー ドが命賭けた国』(新潮社、2002 年)、18 頁。 37 川端、前掲書、114 頁。 38 2001 年の段階でタリバーン「実効統治」政権を政府承認していたのは、パキスタン、サウジ アラビア、アラブ首長国連合の三国だけであった。しかも 2001 年 9 月 11 日から 10 月の軍事行 動の開始までの間に、三国は政府承認を取り消したため、国際法的には、軍事攻撃はアフガニ スタンの正式政府軍に対するものだとは認識されない。
追い詰めた。北部同盟は、この軍事作戦において重要な役割を演じ、事実上の米国の地上 展開部隊としてタリバーン勢力と戦った。しかし自らの空軍力によって、タリバーン政権 をあまりにも早く駆逐させてしまったがゆえに、米軍は北部同盟の進軍にあわせて地上展 開する準備を整えることができなかった。そこでブッシュ大統領は、カブール陥落直前に、 北部同盟指導者層に対して、カブールへの入城を控えるように呼びかけた。しかしこの呼 びかけは無視され、マスードを継いで司令官となっていた北部同盟のファヒムは、11 月 13 日にカブールに入り、米国に先立って軍事プレゼンスを確立した。その背景には、タリバ ーンと敵対して北部同盟側を支援していたイランからの働きかけがあったという。11 月 9 日にはドスタムがマザリシャリフを、11 月 12 日にはイスマエル・カーンがヘラートを、 占領していた39。 米国の軍事行動は、アフガニスタンの情勢を完全に塗り替え、長い内戦の時代は、一応 の終わりを迎えることになった。しかしそれは米国だけによる軍事行動ではなかった。北 部同盟は、米国の空軍力の果実を享受しつつ、米国を牽制してカブールなどの国土の要所 を押さえていった。結果として米国の軍事行動は、アフガニスタンを有力な軍閥が群雄割 拠する新たな状態へと陥らせたのである。 米軍を中心とする国際部隊はアフガニスタンに駐留し続けることになった。しかし米軍 を中心とする国際部隊の主眼は、アルカイダおよびタリバーン勢力に対する「対テロ戦争」 に あ っ た 。 首 都 カ ブ ー ル に 限 定 し て 治 安 維 持 任 務 を 行 う ISAF(International Security Assistance Force)も展開したが40、いずれにしても軍閥が群雄割拠するアフガニスタンの政 治情勢の改善は、手付かずの状態になった。 かつて北部同盟は、カブールを制圧した後に内紛を起こし、タリバーンの台頭を許して しまった。同様に 2001 年にカブールに侵攻してきた北部同盟も、途中で空中分解しないと は言い切れなかった。しかし北部同盟が内紛を起こしてしまえば、アフガニスタンはさら なる混乱に陥る。「対テロ戦争」を遂行する米国にとっても、タリバーンに敵対する勢力の 内紛は、避けなければならない。そこで米国を中心とする支援国は、「対テロ戦争」と同時 並行で、「勝者」の間の和解を促進し、中央政権の政治的基盤を固めていく政治プロセスを 始めさせることにしたのである。そこではタリバーンに代わる最大民族パシュトゥーン人 の勢力を確保する政治プロセスを作り出すことが、大きな課題となった。 米国同時多発テロ以降、国際事務総長特別代表に再任されたラクダール・ブラヒミは、 急遽、和平の基本方針をまとめた。米国主導の対テロ戦争と一線を画してアフガン人勢力 39 川端、前掲書、192 頁。 40 ISAF は国連平和維持部隊ではないが、国連安全保障理事会の決議によって、国連憲章第 7 章の「強制措置」の権限も与えられた組織である。See UN Security Council Resolution 1386, UN Document, S/RES/1386 (2001), 20 December 2001.当初は有志連合的な組織であったが、2003 年 8 月より北大西洋条約機構(North Atlantic Treaty Organization: NATO)が主導している。活動地域も カブールをこえてアフガニスタンの国土の約半分を扱うようになり、地域復興チーム(Provincial Reconstruction Teams: PRTs)も展開させている。
間の調停に集中する、暫定政権の構成にはパシュトゥーン人の利害が反映されるように考 慮する、十分な暫定期間を設けた上でロヤ・ジルガなどの伝統的な政治制度を活用して民 意の反映を図る、国連 PKO ではなく重武装の多国籍軍の派遣を検討する、アフガニスタン 駐在の国連職員の数は限定して多くをアフガン人に任せる、などが、ブラヒミが中心にな ってまとめた方針であった。そしてもう一つの方針として、治安の維持と政局の安定のた めに部族間のバランスのとれた新アフガン国軍と警察の成育を和平の柱として支援する、 というものがあった41。国土の統一的な安定には、新しい枠組みでの国軍と警察を作る作 業が必須になるという認識が、そこにはあった。米国の軍事行動が、民族別の軍閥たちが 拠点都市を押さえる群雄割拠を生み出していく過程で、平和構築プロセスにおける DDR へとつながる基本的な方針が確認されていったのであった。 平和構築の基本的発想としては、まず DDR の実施計画があって、その後に新国軍と警 察の創設が検討されるようになったのではなかった。アフガニスタンの歴史と、2001 年 11 月当時の群雄割拠状態への洞察から、新しい国軍と警察の必要性が認識され、その流れの 中で DDR の実施計画が策定されるようになったのである。アフガニスタンという特異な 歴史を持つ国でいかにして平和を構築するか、という大きな問題設定の中で、段階的に DDR が位置づけられ、実施が求められるようになっていったわけである。 1-4 アフガニスタンの歴史を踏まえた平和構築の方向性 ここまで見てきたように、アフガニスタンでは国家としての歴史が浅く、国家統一には 常に困難が伴ってきた。部族主義の伝統が色濃いために、カブールの中央政権の統治能力 の向上自体が、近代化のプロセスにおける一つの大きな課題であった。またイスラーム国 でありながら、欧米諸国(含むロシア[ソ連])の干渉にさらされ続けたため、外部世界に 対する反発と、それを退け続けてきたことに関する自尊心も、非常に強い。植民地主義に よって、国家形態の原型が形作られるということもアフガニスタンでは起こらなかった。 こうした政治的事情に、厳しい自然環境と広範囲の貧困が重なり合うため、外部支援者に とってアフガニスタンへの関与の仕方を見極めるのは、簡単なことではない。 アフガニスタンは欧米流の近代化を拒絶してきたわけではなく、むしろ一貫して関心を 示し続けてきた。19 世紀に英ロ間の「グレート・ゲーム」にさらされてから、アフガニス タンは(正確にはカブールの中央政権は)国力を増強させるための近代化政策をとり続け てきたと言ってよい。しかし結局、20 世紀において欧米流の政治体制がアフガニスタンに 安定的に定着しなかったのも、事実である。近代化政策は、中央政権による軍事化路線と 一体の関係にあったが、それは国内社会における抑圧を助長しがちであったため、かえっ て地方の伝統的エリート層あるいは他民族集団との確執を生み出し、国内の安定を阻害し 41 川端、前掲書、193 頁。
てしまう場合が少なくなかった。大国および周辺諸国の関心対象となったがゆえに、20 世 紀後半の共産党勢力やタリバーンおよびアルカイダ勢力の暗躍などに象徴されるように、 外部世界からの影響を受けたイデオロギー的に急進的な集団が台頭しやすいという事情も あった。そうした集団が武力に訴えると、短期間のうちに社会が混乱させられるような脆 弱性も、抱えていた。 こうした経緯から、アフガニスタンの平和構築に統一国家としての安定性を確立するこ とが不可欠であることは明らかだが、しかしそれを達成するためのアプローチには、繊細 さが要求されることになる。 第一に、地方の部族主義が根強い一方で、それを連邦制などのシステムに反映させた経 験は、アフガニスタンにはない。むしろ部族主義は、しばしば収拾できない政治的混乱の 温床となってきた。人工的に部族主義を無視する政策がとりえない一方で、部族主義にの み依拠する政治システムに限界があることも、推察することができる。したがってアフガ ニスタンには、適正な行政執行能力を持つ中央政権の下で、部族主義の紐帯を維持するよ うなメカニズムが求められることになる。 なおアフガニスタンでは、国土が荒涼とした山岳地帯に覆われているため、主要な都市 が相互に十分な交流のないままに浮遊している状態が今日でも続いてしまっている。交 通・通信のインフラ整備は、中央集権と地方分権のバランスを論じる以前の問題であるが、 現状を所与のものとして捉えたときに、中央政権の統治能力の拡大は、少なくとも漸進的 に進めるべきものとして理解しておく必要があるだろう。 第二に、外国勢力の干渉に対しては過敏に反応するため、国際社会によるあからさまな 介入主義的アプローチは、他地域と比しても阻害的効果が大きいと懸念される。しかしア フガニスタンの歴史をひもとけば、政治的・経済的発展度が低いため、外部世界からの支 援なしに、統一的な国家システムを発展させることが難しいことも見てとれる。したがっ て特にアフガニスタンでは、強権的な介入を行っているかのような印象を与えることを極 力避けて、しかも地政学的な意図はないことも強調しつつ、最大限の支援の効果を狙って いかなければならない。 なおアフガニスタンの場合、世界的に最底辺に近い経済水準にあることから、貧困対策 は切実な課題である。しかし平和構築に関する限り、貧困問題が紛争の深刻な温床になっ ているとまでは言えない。確かに、潜在的武装兵力の数を減らすためには、雇用創出が大 きな意味を持つことに間違いはない。また武装集団の資金源になっている麻薬経済を取り 締まることにも、大きな意味がある。長い内戦が「戦争経済」の構造をアフガン社会に深 く染み渡らせてしまったため、経済的利益が内戦を助長する要素になってしまったことも 確かである42。しかしこれらは基本的に、農村部で喘ぐ貧困層への支援とは、区別される べき問題である。アフガニスタンの紛争は、極めて政治的な文脈で起こってきており、戦 42
争を誘発する経済的利益の構造も、平和構築の観点から見れば、政治的問題と密接に結び ついているがゆえに、深刻なのである。 第三に、アフガニスタンの安全保障・治安面での脆弱性の背景に、特有の地理的環境要 因があることは見逃せない。すでに主要都市間の交流が乏しいことについて指摘したが、 さらに切実なのは、広大な国土の四方が山岳地帯の国境で囲まれているため、国境管理に 著しい困難が伴うことである。国境管理には、常に限界が約束されていると換言しても良 いだろう。行政能力の向上とインフラ整備によって、また安全保障・治安組織の拡充によ って、自然環境がもたらす否定的な効果を最大限に是正するための努力を払うべきである ことは当然である。しかしそれでも環境要因自体を消し去ることができないとすれば、限 界をわきまえた上で対策を講じる思考方法も求められる。再武装のための武器の流入を未 然に防ぐことが極めて難しいという事実は、多大なエネルギーを投入して完全な武装解除 を目指すことは効率的ではないという DDR の戦略的発想にもつながる43。 こうした事情は、アフガニスタンの安定に利益を見出すように、周辺諸国を一体のもの として巻き込んでいくような平和構築のアプローチの必要性を示唆する。具体的には、イ ランに代表される中東情勢の影響、パキスタンに代表される南アジア情勢の影響、ウズベ キスタンなどの中央アジア諸国の影響に、ロシアと西欧諸国の利害関心、および対テロ戦 争の文脈をふまえた米国の利害関心を組み合わせた国際的な和平プロセスの進展が、国内 社会の和平プロセスと組み合わされて実施されるのでなければ、アフガニスタンに永続的 な平和は訪れない。 次節では、こうしたアフガニスタンの歴史から読み取ることができる平和構築の要請を ふまえた上で、実際の 2001 年ボン合意以降の平和構築活動の流れを概観する作業を行う。 43
Alpaslan Özerdem, “Disarmament, Demobilization and Reintegration of Former Combatants in Afghanistan: Lessons Learned from a Cross-Cultural Perspective” in Sultan Barakat (ed.),
Reconstructing War-Torn Societies Afghanistan (Houndmills and New York: Palgrave Macmillan, 2004),
第2節 アフガニスタンにおける平和構築の戦略と DDR
2-1 「部分的和平合意」としてのボン合意
タリバーン政権崩壊後、「勝者」としてカブールに入城した北部同盟勢力を中心とするア
フガン人の各集団と、アフガニスタン支援に関心を示す各国が、国連によってドイツに招 聘され、2001 年 12 月 5 日に「ボン合意(The Agreement on Provisional Arrangements in Afghanistan Pending the Re-establishment of Permanent Government Institutions)」が成立した44。
「ボン合意」は、「緊急ロヤ・ジルガ」の召集から「移行政権」の樹立をへて、大統領・議
会選挙を行うという、アフガニスタン国家の再建の道筋を定めた合意であった。
「北部同盟」に加えて、元国王支持者からなる「ローマ・グループ」、民主政権樹立構想 を協議していた「キプロス・グループ(The Cyprus Movement for Implementation of Peace in Afghanistan) 」、 パ キ ス タ ン の ペ シ ャ ワ ー ル で 部 族 指 導 者 を 集 め て 開 催 さ れ て い た 「APNUA(Assembly for Peace and National Unity of Afghanistan)」、などが、アフガニスタン 担当国連事務総長特別代表ブラヒミの仲介で、協議に参加した。米国、EU、イランなどの 関心を持つ諸国は、側面から積極的に当事者の説得にあたった。タリバーン勢力が含まれ ていないとはいえ、決して一枚岩ではない(北部同盟の内部ですらも全く一枚岩とは言え なかった)諸派が、一つの国家形態の確立に向けて共同歩調をとることを誓った意義は大 きかったと言えよう。穏健なパシュトゥーン人を代表するハーミド・カルザイが暫定行政機 構議長に選出されたことは、特にブラヒミや米国などの国際社会側の働きかけの勝利であ った。カルザイの選出によって、北部同盟のタジク人勢力の独占が中和され、さらに後の 政治プロセスでの改善の道筋がつけられた。 ボン合意はまず、「国民和解、恒久的平和、安定、人権の尊重を促進する決意」を表明し、 「イスラーム、民主主義、多元性、社会正義の原則に則って政治的将来に関するアフガニ スタン国民の自決権を認める」ことを宣言する。「国の独立、領土的統一、国家の一体性」 を護ったムジャヒディンへの感謝が表明されたが、暫定政権の発足にともなって「すべて のムジャヒディン、アフガン兵士、武装兵力は移行政権の指揮と支配の下に入り、新しい アフガニスタン治安部隊および国軍に関する要求に基づいて再編成されなければならな い」ことも明記された。また暫定政権の発足後は、緊急ロヤ・ジルガを召集し、移行政権 を作り出し、憲法制定をへて、選挙による正式政権発足へとつなげていく道筋が、定めら れた。選挙は緊急ロヤ・ジルガから二年以内に実施されるというスケジュールも示された。 さらにボン合意は、幾つかの重要な項目を持っていた。治安に関しては、「全土で治安、 法と秩序を確保する責任はアフガン人自身にあることを確認」した上で、「新しい治安部隊 と国軍の創設と訓練のための支援を国際社会に要請する」ことになった。国連安保理には 44
Annexed to “Letter dated 5 December 2001 from the Secretary-General addressed to the President of the Security Council,” UN Document S/2001/1154.
「カブールとその周辺の治安維持を支援する部隊の派遣を要請する」ことになったが、そ の部隊(ISAF)は、「状況が適切であれば漸次他の都市や地域へと拡大することができる」 とされた。それにともなって「カブールをはじめ、国連が派遣する部隊の展開地域からす べての軍部隊を撤退させることを約束する」ことも付け加えられた。またさらなる要望と して、「アフガニスタンの独立とその国民の尊厳の保全に貢献したムジャヒディンの功績を 認め、新しいアフガニスタン治安部隊と国軍へのムジャヒディンの再統合に対する支援の ため、暫定政権との調整によって必要な措置を講じるよう国連と国際社会に促す」ことが 表明された。 このようにボン合意は、アフガニスタンが統一国家として再生するための政治プロセス の見取り図を定めたものであり、2001 年 12 月以降の平和構築の流れの大きな枠組みを作 り出すものであった。したがってボン合意が、一つの政治的合意であることを強調するの は、正しいことであろう。しかしそのことは、ボン合意が和平合意としての性格を持って いないことを意味しない。むしろボン合意は、国連が中心となってアフガン内戦終結のた めに行われていた和平交渉の努力の延長線上に位置づけられるべきものである。たとえば、 タリバーンと北部同盟は、1999 年 2 月と 3 月にトルクメニスタンの首都アシガバードで行 われた協議で、行政、立法、司法の三権に関する合同機関の設置に関して合意をしていた。 この合意は実行には移されなかったが、和平の鍵がボン合意で結実した統一国家機構の設 立にあることがすでにこの時期から意識されていたわけである。また北部同盟は、2001 年 夏の段階ですでに、ロヤ・ジルガと選挙の二段構えによる政権構想を文書化し、それをも ってタリバーン政権との和平交渉に臨むことを表明していた。ボン合意の内容は突然の思 いつきで作り出されたものではなく、それまでの長い和平交渉の一つの帰結として成立し たものであった45。 タリバーン勢力という内戦の当事者を欠いていたという点で、ボン合意は完全な意味で の「和平合意」ではなかった。ボン合意の主眼は、アフガニスタンの統治形態の充実にお かれていた。しかしその一方で、内紛を繰り返してきた他のアフガン人勢力が統一国家樹 立に向けて協力を約束したという点で、ボン合意は少なくとも部分的な「和平合意」とし て理解されるべきものだと言えるだろう。 和平合意は、全ての紛争当事者を含みこんだ形で締結されることが望ましいとする議論 がある。しかしその一方で、包括性を重視する余り、和平合意を尊重する意思を持たない 武装勢力を含みこんでしまうと、和平プロセスは死に体となる。米国によるアフガニスタ ン攻撃以前の時期には、タリバーン政権が和平交渉を拒み続けたため、内戦は終結しなか った。そのタリバーン勢力を欠いたまま成立したボン合意は、間違いなく部分的なもので あるが、しかし少なくとも一定程度に和平合意の枠組みを遵守する意思を持った集団によ る合意であった。 45 田中浩一郎「和平プロセスから見た国家再建プロセス」、総合研究開発機構・武者小路公秀・ 遠藤義雄(編)、前掲書所収、79-91 頁。