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全文

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土 し た河

南信

 

中 国 河 南 省信 陽 県 長 台 関の淮 河

岸の丘 陵で

1956年 より250 余の漆 器お よび青銅 器 な ど を含む遺跡 を発 掘 し てい る

文物 参考資料の 1957年 (No

8

91958年 〔No

の数 号に その畧 報 告と 図版が 出 てい るが1)

まだ ま と まっ た 正報告 を 出版して いない

この跡 は紀 元 前の 中国 と東南アジアの文 化 をえ る 上 に

非常に重 要 な材 料 を 提 出 したものと 思 う

そ の為ここに その内容を 整 理 し

これに関連す る問題点 を記 して

資 料紹介 とす る

1 .

遺 跡遺 物 内 容

 

長台関の遺 跡に は 墳 丘 があ り

表土の1m に黄 色 葦 編の蓆

そ のに続いて長 方 形 堅 穴がある

上部の 墓壁 は四 層の階 層 を持ち

墓口 14

5×12

3m

10

lmJ 口か ら 2

4m まで黄土

以下槨室の 頂 部 と周 囲 まで青 灰 色 粘 土で, そ の構 造は長 沙の戦国 墓2)と類 似 する

墓の 方 位 はENE に向い

墓道 前 方に長さ10x3m の発掘 の長 方形竪 穴が あ り

車 馬坑の可 能 性 が 強い

墓 底 長 10×8

35m で木槨室は7室 に分 れ る

さて,遺 物 出土 状 態を整理す る と

次の よ う になる

前室

 

13

編 鐘 大瑟

小瑟

伏 虎 木 彫

     陶器破 片

竹 簡 片

主 室

 

外 棺 (紫紅 色 生漆

内面 朱 紅 色 漆)

内棺 (黒漆     地 朱紅彩 絵雲紋 )

 棺 内 よ り紅 色 絹

玉 器

帯     鈎

棺 底より竹「

     以 上 2室 は 盗掘のた め

乱れて いる

左 室 長 方形 車 蓋

金 花木質 馬 銜2

当顱2

木 俑 2

右 室

 

木俑

漆 耳 杯

漆 豆

漆 杯豆

漆俎 陶方鼎

    陶鑓

陶 刀

陶 勺

後中室 木獣 男 俑 2

女 俑

後 左 室

 

漆 机

彩 絵 大 漆 案 (銅足付)

dth

 2

   

(中に銅 刮 刀

小 鋏

毛筆

筆 筒な ど)

    彩絵漆床

竹篇 6

銅提梁炉 (内に木 炭を残 す )

      竹 筒28

後 右 室 小 木漆 案3

彩 絵 木 豆 9

跪 坐木 俑

竹類編織       物5

なお 発掘 した竹 簡に副 葬品名が 記 し てあ り

そ れ に よ る と

こ の墓には更に 笙

竿な どの楽 器 もあ った ら しい

2 ・

絶対 年 代につ い て の郭 沫 若説へ の 疑 問  1957年の調査報告では遣 跡の年 代 を 戦 国 後 期 と してい た が

1958年にな り郭 沫 若がこの問 題につい て の新 しい 疑 問 を発 表 した

それは前6世紀の春 秋 期にまで遡るこ とが 出来 る とい う説で あ る3)

郭 氏出 土 品 中 13青 銅鐘中, 最 大の 1枚に見え る 銘文を 伴 出 し た 竹 筥 の文を利用 してのように解釈 した

 

い う人 が 晋 人を退 け

戒を楚の 国境で救っ た」 こうな る と

この鐘は戦 国 時 代の もので は な くて

春秋 時 代の もの と しな けれ ばな ら ない

なぜか とい う と, 晋 は戦 国 時 代に既に滅び て し まっ た し

晋と楚と の両 国の 関係が緊張し た時 期は春 秋 時 代であった か らで あ る

そ れでは春 秋時代に, こ の事 実 を 裏 書 きする 記事がある か と思っ て調べ て見 ると

「春 秋」魯 昭 公 17 年 (前 525 年)の

晋が陸 渾の戒 を滅し た 記 事 が あ る

左 伝 に よ る と

同年9 月に晋の荀 呉 が軍 を帥い て河 南の陸 渾 戎 を滅し

陸 渾 の 民 は その為 楚へ 逃 げことが わ かる

鐘 銘に見 える晋 人を 退け楚の境に戎 を救っ た時 がも しこ の時であった とすると

こ の鐘は前6 世紀に遡 る

言う まで な く

遺 跡の年 代は 前525年よ り後の のであ る が, 伴 出品の青 銅 器 か ら見ても 春秋 期に属 する と見て よ い

このえ を 正 しい ものとすれば

同様の遺 物を出 す 湖南 省 長沙遺 跡2)も亦 従 来の説の よ うに

概に戦 国墓 と ばかり言 うわけ に は行 か な くな る

 以上 が 郭沫 若の疑問であ る

彼の新しい疑問は 極 めて 大 き な問 題 を 提 出し たこ と に な る

つ まり

今まで

般 に考 えて いた江 南の戦国墓 を そ の年 代の位置づに関し て

すっ か り改めて見直 す 必 要が起る

し か し な が ら

この疑 問 が果 して大 き な変 更 を 齎 す余 地のある問題と な るであ ろ うか

彼の論 拠 と して いる銘 文は青 銅 鐘に見え るもので

こ の種の鐘は 同 遺 跡 か ら 13 枚

組と な って 発 見 さ れたもの で

それならば

同 様のが他 処に 発 見 されて

ti

だ ろ う か

し類の 例 が あ

の年 代を推 測出来る鍵があ れば、 解決の大き な 証拠と な る

そ こで 色々 と 探 して見る中に

安 徽 省 寿 県蔡侯 墓 が 有 力な 鍵とし て目についた

この遺跡 か ら甬 鐘12

編鐘 9

編 鑵8

斧など総 数

486

件に及ぶ 青銅器が 出て い る4)

れ ら 呉 王 光 鑑 と う銘 鑑 があ り

それは呉王闔 閭の娘 が 蔡の声 侯に嫁し た時の駿 器であ る

従 っ てその実 年 代を前5 世紀前半 と見ること が 出来る

つ ま り春 秋 晩 期に属 す る

こ の遺 跡 は 蔡の声 侯 の 墓 と考えてよく, 声 侯は前 457年に歿 し

蔡国も亦 前447年 に楚の為に滅びて い る

だ か ら, この遺 跡 を前

150

(2)

5世 紀前 半と考え て よい

そこで

こ こか ら 出 る 鐘 と長 台 関の鐘 と比べ て見る と

両 者は極 めて類 似 してい る

そうな る と

こ の種の鐘の年 代の

端 を前6世 紀 末から 5世紀 前半に当て る ことが 出来る

 こ のように青 銅鐘 が春 秋期にも属すると しても

長台 関遣 跡の絶対 年 代が 同 様 に 果 し て古 く遡 り得るものか ど うか疑わしい

現に

辺 遠の地にある遺 跡では青 銅 器 が 長 年 伝 世し た後で副葬品と な る例 が ある

たとえば

湖 南 省衡 陽の漢 墓 か ら殷の青銅 器が

また甘 粛 省 蘭 州の 漢 墓か ら西 周の青 銅 器 がそ れ ぞれ 出ている5)

長 台関遺 跡に春 秋 期の編 鐘 が あ るか ら とい っ て

直 ちに そ れを遺 跡の実 年 代 と見る ことは危 険である

そのよ う な結論に 達 する前に, 発 掘 した他の遺 物の年 代づけを確め て行く 必 要 が ある

そこで

出土 品の種類を詳しく見て行 くと

漆 器

木器

木偶, 陶器

玉器

竹 簡 及び青銅 器な どが あ り, その内容は長沙の所謂戦国墓の もの とよく似てい る

その中に金 銀 錯 嵌帯鈎がある

こ の技 法を持つ 作品 で絶対年 代の明 瞭 な ものが 近 年 発 見さ れ た

そ れは 安徽 省寿 県 出 土の鄂 君 啓の金節で あるti

これ は鉄錘

金塊 と伴 っ て 出た もの で

青 銅の筒に錯金 銘が見え る

銘文 を 読 む と

製 作 年 代は大 司 馬 昭 陽が襄陵で晋 を破っ た年 と ある

晋は必 ずしも春 秋の晋 を 指 すもの ではrsく

こ の場合は戦 国の魏 を示すと見てよい

そうする と 昭 陽 が 魏 を敗っ た年は前323年に 当り

前4世 紀 末に金 銀錯嵌 青銅 節 を 比 定 す ること が 出 来 る

・一

長 台 関の銀 錯 帯鈎 は5箇 あ り

その 2は円柱 形であ り

の 3は 長 方形であ る

後者の中の2箇に金 銀 錯 嵌が見え

三角 雲 紋 と その周 囲の巻 雲 斜条紋 が 描いて あ る

更に黄金 と 青玉 と を鏤め て

条毎に黄金四塊と 玉三塊 とを嬢め

蚊 竜の姿を表現 し て あ る

この技 法は 河南省洛陽出土と伝 え る 鏡 鑑に も見え る が7)

よ る料 と し て は

南省輝 県 固囲 村 中 央大墓 か らの金 銀 錯 小獣 環にも見え

又 同 西 大 墓の馬 具の轅 首 飾 金 具に も ある

更に同じ輝 県 の戦国小墓 か ら玉を以て扈 竜文 様を錯嵌 し た黄金 帯鈎 が 出て い る9

上 述長 台 関作 品ず れ も鉄 製 帯 鈎であ るこ とに注 目 して よい

戦 国 墓 か ら出る鉄 器は多 く斧

鍬などの農 具 と錐

鑒などの 工呉 及び 槍 鏃 な ど の武 具であ り

鉄 帯 鈎の発掘 例に至っ ては

河南 省洛陽 焼 溝の戦 国 墓 か ら9本

鄭 州 西 北 部の崗杜 戦 国墓 か ら9 本とい う僅かの例 があるに過 ぎ ない9)

これらの事 実を 比 較 して見る と, こ の錯 金 銀 鉄 帯鈎 が前4世 紀 を遙 かに 遡 る ものと は 思 え ない

 他 方

墳丘の問題につ い てえ る と

当遺 跡 は淮 河 北 岸 の 丘陵上 に あ る 六 基 の大 彖の

つ で

崩 壊が甚 しいが

や はり墳丘の存 在を認め ることが 出 来 る

類 似 遣物を 出 す 長 沙の墳 墓 も墳 丘 が あ る し, 寿 県の例に至っ て は大墳 丘の名 残 りを示 して いる1の

が 春秋 期

期に及ん で出現 する 大勢より見る と11)

こ の遺 跡も ま た 戦 国 期に属 す る と見た方が よい

以上 の 理由お よび 後に 記す 形 勢 か ら見て郭 沫若の前 6 世紀 説は無理であ り, 前 4

3 世 紀の戦 国墓 と考え た方が自然であろう

      3

江 南の楚の文 化と見て よい  遺物の種類か ら見て湖 南 省 長沙の楚 墓と似て い る とこ ろ か ら

1957

年の報 告以後

これを楚の遺 跡 とす る考 えが 続い て いる

実 際この考 え を 否 定 する有 力な材 料は見当 らない

まず遺跡 の木槨を見る

長 沙 例 と比 較 して遙 か に大 き く又優れて いる

しかし

棺 槨の結構

蓋 板の 構 造

板 端の嵌 込 み 技 法に

致 する点が多い

遺 物の でも漆 器

木 器

木 偶な どの内 容は両 者が

つの共 通 な 文 化に属 することを示 して いる

元 来楚の都は前 278年 郢 より陳に移 り

更に考 烈 王 22 年 即 ち前241年 寿 州に 移っ てい る

その間の 国 内の交通路につ いて

幸に して 新発見の寿 州出土鄂君啓の金篩がある6)

れ に は 323 年発行の舟に よ る通行 証と, 車に よ る通 行 証と があ り

双方 共 通 用 期 間

1

ケ年であ る

こ の節に見え る道 は 湖 北

湖 南

江 西

河南

安 徽に及ん で おり

前 334 年 越 を 滅 して後 10 数 年に し て長 江 下流近 くまで通 網を 拡 げ たことが わ か る

こ の交 通 路に従っ て当時の都

郢 か ら淮 河 流 域に至 る路を調ぺ る と

武 昌か ら舟で漢 水 を 北 上 し

襄 陽に至 りこれ よ り南 陽 信 陽

新蔡へ

は 東と して淮 河 を 降 り, 下 蔡, 寿 県

巣 県に至 る

こ の間 の交通制 度は 発 達 し

舟の場 合 は 馬

羊 を 載せ た場 合の関税 を 中央へ 報 告 すること

車の場合は武 器輸送 と 馬

徒 歩の人の数 な どの制 限 方法を 記 して あ る

これによっ て楚の領 内における 通行税の制 度 を 知 る ことが 出来る

それはと もあ れ

前4世紀末に楚の都か ら信 陽 に 至 る交通路は発 達して いたの である

元来 楚の 勢 力が淮 河 流 域に及んだ時代 は古く春 秋 期

つ ま り前 6 世 紀に遡る

そ の間の 当地 方の勢力関 係をまと め る と次 のようにな る

151       h584B

C

538529523515496473 呉

寿 州に入る 楚

寿 州に 入 る 呉

寿 州に入 る 楚

寿 州に入 る

呉 王光・囃 越

呉 を 滅 す

(3)

152 454447334292278241223

侯没 す 楚

蔡を滅す 楚

越を滅 す

蔡 侯 墓・完成   鄂 君 啓 金 節の製 作          (323B

C

) 秦

楚の宛 (南 陽 ) を取る 楚 陳に遷 る 楚 寿 州に遷る 秦 楚 を滅 す  これ に よ ると, 楚 が 早 くから淮 河 流 域の地 を求 あ争っ て い た こと がわか る

し か し, こ の地 を手中に入れ たの は前 5世 紀中頃であ り, 長江下流 域 を 完 全に掌 握 した 時 は前 4世 紀 中 頃であっ た

その後

3

世 紀 始に秦が信 陽の西の南陽を 奪っ て いる

従 っ て信 陽の戦国墓 を楚の ものと す る考え は極めて穏 当で ある

又この墓の主人 公 が 楚におけ る重要 な地 位の人物であっ たこと も

長沙例 と比べ て遙かに壮 大な遺 跡遺 物を持つ こ から見て わ かる

しか し, 彼が何物であっ た か は文献に見え ていな い

4

長 江 流 域お け る 金文 化発 展   信陽のは帯 鉤 だ けであ るが, 青 銅 器には煮 焚 きの 器, 食 器

酒 器 水 器

楽 器, 兵 器

車 器

馬具 および 木器 漆 器の附 属 金 具などが ある

これ らの で鼎は弦 紋の ある扁 円の腹で

足は半 円柱 形で細 長 く, 蓋は 三つ の環 紐と活環 とがあ り

長 沙 顔 家 怜の鼎に似て いる2 )

但し平底 平 蓋で浅い腹と カ

ブのある腹を持つ 点では寿 県の例に近い10)

球 形

瓢 形の匝およ び箕形の勺は 長 沙例 に近 く

平底の盤は寿 県の楚 王醇志盤に近い

ま た燐炉 も寿 県例 と形が 似 ている

ま り長 沙 と寿 県 との 双方の特 色 を持っ て い る

その他

圏 足の瓶, 陶鑒, 円 柱 盤 は従 来の楚 器に見えず

寧ろ輝県戦 国 墓の例に連 な る8)

の地 理 的 位 置 が 長沙

寿 県 及び輝県中間 に あること

お よ び そ の時代 も亦 中間 期に属することか ら見て, か か る類 似の事実は当然で あろう

  このよ う に 数多くの青銅 器 と共に鉄 製 品 と して前 述の 金銀錯鉄 帯 鈎 が あるが

元 来 帯 鈎 は 北 方 か ら輸入 した も の であ る

楚 辞 製 作 した 犀 比 は き らき ら と輝 いてい ると見 えて い るが

犀比 と は帯鈎の ことで

い てい るとは錯 俄の為であ ろ う

長 沙 戦 国 墓 (406 号) 出 土の漆盾 中の 二面に細 密 な 幾 何 学 文様が施してあ る が

越 絶 裏書る よ うに

越 が 呉に贈っ た楯 は 白壁 を 飾 り黄金 を鏤め

竜 蛇の動 く姿 を 現 わす」 と 記 し

又 「釈 名」

(巻

7 ・

釈 兵)に呉で大 将 の使 用 す る 大 き な楯を作っ たことを記 して いる

ま た呉 王 が懸賞金

出 して国 中か らす ぐれ た帯鈎を製作さ せた 説話は有名で ある

こ のような 細 かな技 術 が 楚のみなら ず

呉 越にも見えるの である

寧 ろ戦 国 期の楚は長沙付 近よりも淮河流域に おい て, か か る鉄帯鈎製作の技 術を 持っ た かも知れない

信 陽の西にある南 陽は当時から鉄 山 として有 名で

秦の勢力が及ぶ ま で は楚が 領有し

矛 類 を 製 作 して いた

しか しなが ら

こ の錯金 銀 鉤 が果 して こ の地で製 作 したものか

或いは又 洛 陽

鄭 州 な どの北の地 か ら贈 られたものか尚証 拠が不十分であ る

従って, 信 陽と長 沙 とにお け る初 期の鉄 器 文 化につ いて, な お 問 題 解決の資 料に乏 しい と思 う

 楚 の 遺 跡 の分 布を見る と

郢 を都と し た 洞庭湖及 び 鄙 陽湖の畔

長 江 中流 域を含 む

群 と

淮 河 流 域 およ び長 江下流 域 とを 含 む

群 とに 二 大 別 出 来る

楚 が 郢に都 し て いた時 も

信 陽および寿 県 か ら都へ の交 通 路は

黄 河 流 域の高 度 金 属 器 文 化の流 れ 入る路であっ た と想像 出 来 る

淮 河 流 域 及び長 江 下 流 域には古 くか ら青 銅器文 化 が 栄え

江蘇丹 徒 県 煙 燉 山遺 跡

江蘇 儀 徴 県 破 山口遺 跡か ら西周の古 銅 器が見 えS) , 又 寿 県蔡侯 墓から春 秋期の古 銅 器群 を 発見 し てい る

その寿 県 及 び信 陽 戦 国墓の精 徽 な作 品 が 連 な る

また

方いわ ゆ る淮 河 式 と称せ られ る青銅 器の発 見 品 も 多い

こ のように見て来 る と

呉 楚 両 国が 寿 県 を 争っ て戦い

遂に楚が蔡お よ び 越 を滅して 後

淮 河 お よび長 江 下 流 域に東 した事 実が 理解 出 来る

勿 論秦の勢 力 伸 張の

を避 けて東遷 したこ と もあ る が

,一

方こ の地方が 地下資源に恵ま れ

農耕の生 産に

更に鉄 山に近 く, また 古 くか ら高 度の金属器文 化 を 持っ て いたことに魅 か れ たこと もあ ろ う

寿 県と信 陽 と の国墓はこの ような背 景に立っ て

楚の後期 文化の華 を飾っ てい る

5

種 類内 容  前 室には編鐘, 鐘槌, 瑟 お よ び鼓があ り

竹 簡に よれ ば

更に笙と竿 とが あっ たこと がわか る

編鐘 は 13 枚 発 見 され, これ らが

つ の組 をな し ていたこと が架台の 発 見 と竹 簡の記 事 か ら確め得る

鐘の高さ は 最大 30cm か ら最 小 13cm の もの に至 る まで約 1cm 位ずつ 高 さ が異 り

これを並べ て架 台に吊 し鐘 槌で打 っ た音を 測っ て見る と

音階が出来る

但 し大 きい鐘か ら数え て第3

第 4鐘 間 と

第9

第 10 鐘間とでは全音以 上 の 差 があ り, 最 小の第 13 鐘 と第 12 鐘 と の問で音 分値差が殊に 大 きい

この

13

枚が必 ずしも

組と して の全べて で は な く

実際 は 更 に数 が多か った ものか

或いはやはりこ のま まで 用を果 し ていた ものかとい う疑 問 が 残っ て い る

この点, 専門家に教えて載 きた いと思 う

52

(4)

 瑟 に は完 全な大 瑟 と同 残 片 およ び小 瑟 残 片 とがある

大瑟 は大 小数十塊に破れて いた が

複 元 する と

184

cm , 巾 48

5cm で 25 弦あ る

「楚 文物展 覧 図録」に 見え る長 沙 出土の瑟は長 103cm , 巾

38,

7cm

で信 陽の 大 瑟より小さいが

信 陽の小瑟 は長 lm

巾40cm で ほ ぼこれ と同 じである

こ こに注目すぺ きことは小 瑟の首 尾に菱 形 幾 何 学 文の他

竜 蛇

人物などの文 様 が見 える ことで ある

そ の上段の

の人物は跪い て笙を吹 い て いるが

笙の頭は非常に小さ く吹口 が極めて長い

笙 管は紅 色 と褐 色 とで描き

現 在の葫 蘆 笙 を 思 わせ る

そ の次の 3人は漆 皮が破損 し て 詳 かでな い が, 第 5番 目 の 人物は手に

2

つ の槌 を 持 ち敲 く状 を 示 し

そ の左側に 鼓の上縁と右 辺の輪 廓 が見 える

鼓の上に羽飾 り, 羽 あ うぎ が見え

その上に飛 竜 が 舞い

鼓の下には柱が見 え る

第 6 の 人物は舞人で紅 色と黄 色の帯のある長 袖衣を 着て い る

下 列の第 1番目の人 は 瑟 を弾き白色の弦 が見 え る

第 2の人 は手を拍ち 歌い

第 3の人 は 肩に荷 を背 負っ てい る が

こ の荷は小瑟 ら しく

肩 後の紐 状の もの は瑟 尾の木 柄 らしい

第4の人は弦 楽 器 を 手に し

第5 の人 は 脆いて

つ の架 台の下 に お り鐘 か 磬 を 打っ て い る

この 図 は燕 国 楽 漁 猟壷

輝 県 出土 銅 鑑の図 と共に, 古代 音 楽を示 す 好 例であ り1哩 ,笙 瑟 鼓と歌 舞 が 合 して

体 とな る様 子 を 示 して いる

瑟の図には以上の音 楽 の 図の他に 巫師乗舟の図

仮 面 を 付 け鳥の姿をした 人物, 弓る射る 人物

鹿

鹿 を囲む 猟 犬

犠 牲 の 鹿を棒で荷 う 2人物

孔 雀

,一

角獣

飛竜

甲鱗のある蛇様の動物

股 を 開き 乳房を示 す蛙 様の下 半身な どが見え る

これら の図は 当時の国の祭

儀式を表 現し たもの で

鹿を 犠 牲に供 し

巫入に祈 りを させ, 又 鹿 を狩 りそ して楽 を奏 で る祭の状 態 を示したもの であろう

乳 房 を示 す動 物の 下 腹部に蛇様の動物の頭 が見え ること は 豊饒を祈る儀 式 を 思 わ しめ る

この ような文様を描いてある瑟 自体 が 魂 の世 界 と 現 妹とを 結ぶ役 割 を 示して い る かも知れない

  次に鼓には大 鼓 と小 鼓 が あ る

小 鼓 は推 定 径 42cm

鼓 腔木 部の高 12cm , 腰 は朱 漆 地の上に黄 褐 色 漆で文 様 を 描い てある

皮 革はな く竹釘だけ残っ て いる

大鼓は 推 定 径

93.

8cm .

外 部 は 中 央の腰 を 暗 紅 色 漆で, 上 下の 縁 を 黒 地 紅漆で それ ぞ れ文 様 を描いてある

そ の 縁端 0

3cm 位は 漆 が な く竹釘だけ木 面 よ り高 く突 出 して い る

これ は皮 革 を張っ て後に漆を 塗 っ たこと を示し てい る

虎形木座は伏して尾を連ね る2匹の虎の彫 刻 品で

総 黒 漆 地朱 漆雲 文 様が あ る

両 虎の肩先と臀部とにそれ ぞ れ

つ の方形穴がある

鄭 州 戦 国墓に も鷺 鷙の長い腿 に勾 飾 りを付 け 肩に穴の ある作 品があ り

共に鼓の木 座 と見てよい

現に河南省南 陽の漢 画像石の に音 楽舞踏 の図が あ り

大鼓を連 尾伏 虎の座の上に置き

鼓の両 側 に

人ずつ舞踏し鼓 を撃つ 姿が見 えてい る

つ いでな が ら

この図で 鼓の傍で

組の 鐘を鳴 らして いる姿が 見 える

楚 辞 招 魂 )に舞人を連 ね, 鐘を連ね鼓 を撃 ち歌 う

美人が酔い

や が て

2

列に

8

人が立っ て舞 う頃 には

竿瑟 が狂いし鼓は堂を 震 わす

激楚

呉 歌

蔡 歌 が終り

正奏し止 む と あ り

激 楚

呉, 蔡の歌な ど郷 土 色 豊 かな

し かも強 烈 な舞 楽が あっ たことが わ かる

6 ・

を 垂ら す 漆 木 獣

 

こ の作 品は7室の中の後 室 か ら発掘された

元 来こ の 木 槨 墓 は主 室に竹 編 物を敷 き, その上に外棺を

更に内 棺を置き中に玉器

帯鈎 を収め

左 右の 4室には青 銅器

漆器

竹 簡

木俑な ど

前 室に は尋 ら楽 器 と青銅 鼎

壼 の供物用 器を 置い て いる

そ して後 室 中央に漆 木獣 を、

t

また その前 後 左 右に男女 木 俑 計4箇 を配 して いる

この よ うな配 置より見 る と

後 室の漆木獣 が 鎮 墓 獣の役割 を 持っ てい ることは疑い ない

こ の作 品は高 L4m で頭 上 に両角

その左 右に大き な 双 耳 を持 ち

全身黒褐色漆 地 に黄 色の鱗状或は斑 状の細 か な文 様が あ る

額に は3本 の横 じわを赤 く彩 り

目は真 紅で丸 く大きい

ロは左 右 に大 き く開い て誇 張 し

長い舌 が 足 まで 垂れ深 紅 色 に塗 って ある

左 前 肢に蛇 また は繩 を握 り前 方 を 睨ん で い る

背に は黄色 幾 何学 文 様が 見 え る

こ のようにを 垂 らす 類似の奇 妙な木 彫 品 は長沙か ら曾て発 見さ れ たこと がある

その例 は今 度の ものより角が遙 かに 長 く 大き く

目 も亦 同様に大きい

こ の種の怪像が楚の遺 跡に

つな らず ある とい う事実は, こ の像 が 楚における特 別の 意 味を持っ た或る種の鎮 墓獣 を示 してい る と し か 思 え な い

 舌 を 垂 らす 偶像の諸 例につ いて

1956 年の Artibus Asiae 紙 上に A

 Salmony が 記 し てい る

この種の像 は太平洋岸に沿っ て遠 くニ ュ

ギニ ア に及び

更に太 平 洋沿 岸 以外にも見え るらしいが, 残 念な が ら未だこの論 文に接 する機 会を得ない の で詳らかでない

舌を 垂らす 像が広い地 域に存在 する と し ても, 他 方こ の偶 像 が 局地 的に国 で どのような意 味 を持っ て いたか

また それが 後に どの よ う に変 形し て行 くかを確める ことも問題解 決 の

つの鍵と な ろう

ところで, こ の像 と旧 関 東 州営城 子古 墳壁画の鎮墓 獣或は漢六 朝の土 偶 な ど とを 比較し て も類 似点 が 見 当 らない

そこで今 度は信 陽と長沙 との木 獣 を詳 細に比 較 して見る と

長沙 例の方が より粗 朴で

信 陽例はむし ろ始の形のデフオル マ シ オンの感が強 153

(5)

154 い

た と えば 信 陽の作品の角は太 く短 くて先が突出して いな いが, 長 沙の作品は細 く長 く先 が 分 枝 して

明 らか に鹿角を表 現 したもの と理解 出来る

元来鹿 は 古代中国 で々文 献に見え る

〈釈 獣 )に見え る崖

庸の 他

 

説 文 え る麒 麟 は仁 獣麋 身 牛 身

角を持 っ とい う

この ような想 像 上の動 物に 鹿の変形 が 見 え る し

漢 書96

西 域 伝註 に桃 抜

名 符 抜鹿 に似て長 尾

角 を 天 鹿 とな し, 両角を辟 邪 となす」 と ある

これに よっ て天 鹿

辟 邪とい う対 をなす 語があ り

邪を 避ける思 想にあ ることがわかる

また沈 括 の 「夢 漢 筆 談 」 に, 「イ ン ドシナの交 趾 か ら麟 を献 上し た が

その姿は 牛の よ うに大きく

全身 大鱗があ り

角 を 持っ て いる

これ を 犀 という人 がある が犀には鱗がない か ら

恐 らくこれ は 天禄であろ う」と書い て ある12)

うも 当 に な ら ない記事だ が

とにか く天 禄 が 角 と鱗 を 持 つ 怪 獣でることはわか る

また信 陽に近い南 陽の漢 代 宋資墓前に天禄

辟邪の銘のある二石 獣があ り

大鱗 と 角があ る とい う記事 もあ るエ9)

V

 Segalen :

Mission

Archeologique  en 

Chine

と 「六 朝 陵 墓 調 査 報 どに見える墓 前の石 獣 が そ れであ ろうが】3)

墓 獣 でも時 代により姿は異る

しか しなが ら, 天 鹿ま た は天 禄 が角を 持 ち 大 鱗 を 持つ こと は麒 麟 と同 様

そ の発 生の 当 初に鹿と関係を持っ こと を 示 し ている

信陽出 土漆 瑟 の細 密画 を見ると, 鹿の図

狩人お よび猟 犬に囲 まれ た 鹿 或いは犠 牲に供 する鹿の國が見 え

鹿 が楚の祭と 深い 関係 を 持っ ことを示して いる

以 上 漆 木 獣の角と鱗 状 紋 と につ い て考 察 したが

鎮墓

辟 邪

垂 舌の形 相

蛇或 は繩を持つ 点19)

爪 な ど 関係全 く不面 が 多い

7

漆 技 術

問 題

 

出 土品の漆 器 と彩 絵 木 暴との総 計は 250余 件に及び, そ れ を分 類 すると次の ように な る

(祭 器と酒 器 ):彩 面 木爼 彩 画 豆

帯 鳥 首円盤豆

彩 画耳 杯

耳 杯 形豆

木 勺

漆 方盒 (日用 家具 ):彩 画 案

彩 画 臥 榻床

隠枕

扇柄

(楽 器と付 属 品 ):大 形木漆 瑟

施 精 細 彩画錦瑟

編 錘 架, 編 鐘錘

大小 鼓残 片

伏 虎 鼓 木 座

 

兵 器 付 属 品 ):戈筴

戈秘

木矛 ?

文 具 ) , 錆

鋸の 木 鞘 と把 柄

文 具 箱

(彫刻 品 ):木 俑

鎮 墓 獣

(交通 工 具 ):木 竹車蓋

車 欄

れ らの材は大部分楠木で

心の上に漆 を 重 ねそ の上に絵 を 描い てい る

爽 綜につ い て特に 記 して いないが

耳杯の 如きは長 沙 例 と同 様 夾紵 技法の ものがあろう

これ らの作 品の中で特に注目すべ き技 法を持つ のがある

その技 法は (1)細 密画

(2)金 銀粉末を溶かす技法

3

)蒔絵である

まず 細 密画につ い て見 る と

既に述べ 来 た 瑟の首 尾に実に細かい絵が あ り

人 物動物の姿 を 刻 明に描い て い る

ま た鼓 とそ の木 座の細か な文様も, 耳杯の幾 何学文様も共に漆細 密画 が 楚で流行して いたこと を示し てい る

文献 上では 「 子」(巻1L 外 儲 説 )に

「周 君が或る者に 馬の鞭を注文 したところ

3年 か かっ て無地の漆塗りの鞭 を持っ て来 た

大い に怒っ た ところ

そ の者が言 うには陽の良 く当 る高所で詳 しく見て欲 し いと

そこ でよく調べ て見る と 漆 鞭に竜蛇禽獣 車馬万物の状 が 細 密に描い てあっ た」 と いう

この記 事 が ど れ 程歴 史上の事 実を 伝 えている か は 疑わしいが, 楚の漆器 を見る と, 当 時の細 密画 を 裏 付け ること が出来る

細密画の技 術は金 銀, 玉類の錯 嵌 技 術 と 共 に古 代 中国 に おける美術品の特 色を示し ている

(2) 金 銀粉末 を溶 か す 技 法に つ い てはこ れ まで 不 明であっ た

金 銀の細片版 或 は 金 銀の錯嵌 技 術は 既に知られてい た

ところが

こ の遺 跡では 黒漆地の棺

殊 紅

石 黄, 石 緑などの鉱 物 性 顔 料 を 調 合し た漆 文 様の作 品に 加 え て

金 銀の文 様が見 える

これは決して錯鏤の技 術にょ るもの では ない

従っ て金 銀 糸 を粉 末 状に して, 他の鉱 物 性 顔 料 と 同様に溶 か して使 用 した と しか 考 え ら れ な い

〔3)蒔絵 技 法につ い ては

錦瑟に見 え る 魚鱗紋と雲 紋 とのな幾 何 学 紋の中に

多くの細 か な塵 埃のような 金 粉 が 施し てある

これは 日本の蒔 絵に見え る塵 蒔 き法 の類 か も 知 れ ない

唯 漆地の上に金 粉を蒔い た だ のか

或いは そ の 上に更に漆を かけ 研 出 したものか は

報 告 書に よっ て 知 ることが 出来ない

正倉院御 物末 金 鏤 太刀 は 粉 末状の金 を 鏤 め たいわ ゆ る蒔 絵 技 法の 日本にお け る 最も古い例であ り

それが唐の披 法で ことを 思 わ し め る

ところ が中 国にお ける古 代蒔絵につ い て楽 浪 漆 器に見 え る と言われて い る他は よ くわ か らない

そ の点で こ の報 告は極 めて重 要 な もの とな るか も 知れ な い

しか しながら

なにぶか 報 告の記 事に見 え る語によ っ てだけの想像であ る から

今後の調査 研究に待つ とこ ろ が大きい

 漆の作品は戦 国 時 代より古 くどの位まで遡 る か明ら か でないが15)

蔡 侯 墓は墓 底漆皮え る

は残 片で はある が紙のように薄い皮 膜 を何 層 も重 ね

2cm の厚 さに して いる と報 告 書に見えて いる

恐 らく夾綽技 法であ ろ う

その他こ の遺跡には 銅器上に塗っ た漆皮 膜 が あり

黒漆 地に細 か な雲 紋 を 紅 色 を以っ て描いてい る

こ の資 料を基にすると

前5世 紀に そ の技 術は かな り発 逮して いたことが わ かる

戦 国墓の漆 作 品の出 土 例は多 い

河 南 輝 県の漆 大 鑑お よ び漆 棺 も黄 河 流 域の漆 文化 を 54

(6)

物語っ ている が

何と言っ て も長沙を始とする楚の漆作 品の数は多い

この ような大 量 生 産の漆技 術 が 漢 代に至 ると揚 子 江 上 流におい て発 達 する

楽浪 遺跡の漆 器銘に 見え る漆工 は巴蜀の工人が多く

漢代の巴蜀 地 方が

大 中心地 となっ た ようである

つ ま り河南 省 方面 か ら文 化 の輸 入 が あっ た 楊 子 江 下 流 およ び中流 域で栄 えたこ の技 術 は漢に至 り, 上 流 地 方に中心 を移 すようにな り

その 作品 は漢の土の辺 縁でる朝鮮の地に及ん だこと が わ か る

8

 イソ ドシナの ドンソ ン文 化 を中心 とす る青 銅 鼓が

何 処か ら伝っ た ものか とい う問 題で多 くの議 論 が 続いて来 た

その代 表 的 な 考 えでは

D

オ ル ドス青 鋼 器

淮河 式 青 銅器

ドン ソン とい う

B .Karlgren

説, 

C2

〕楚の 社 会に おける イン ドネシア 系 文 化

ドソ ソ ン とい う

Ling Shun

shen9 説

3

〕中央アジア

雲南

一一

ドソ ソン い う Heine

−Geldem

説の 三つが ある15)

以 上 説がいず れ も仮 説の域 を 出ない とい う根 本の理由は

江 南の青 銅 器 文 化の発 掘 調 査 が 進ん でいなかっ た為であっ た

私 も江南の青 銅器文化が 明 らかになる につれて

銅 鼓の起源 地の問題に も何 らかの解決の鍵が得 られるの で はないか と希望 して来た

ところが 長 沙 か ら全 く青 銅 鼓 が 出てい ない上に

信 陽の発 掘の結 果

中原 と同 様の漆 大鼓

小 鼓が瑟 編鐘 と共に 出て来た

これらが楚の歌 舞 を 構 成 する楽 器でことが 明 らか となっ て来た

そこ で青 銅 器 文 化に関 す る限 り

楚 は 黄 河 流 域 文 化 を 受客し ていた と言わ ざ る を 得 な くな っ た

勿論 僅かの地 方 色 は ある に して

形態を全 く異にする青 銅 鼓の如き変形品 は ない

ま た雲南昆明の石 寨 山 遺 跡の発 掘によっ て

始 めて正確な銅 鼓の 出土 状 態がわかっ た が11

こ の 起 源 を求め る根 拠は何も発 見さ れて い ない

・一

方, 広 東 省 を中心 とする銅鼓の蒐集は 目覚ま しく

現 在広 東 博 物 館に数多くの銅 鼓 を蔵 して い る由でるか ら

今 後こ を 謌 査 する仕 事 が 問題 解決に当っ て重 要 とな ろ う

 

楚の遺 跡 を調 査 す る場 合にも

二 つの種類があ る とい うことを 見 落してはな らない

そ の

つ は 上 述 し た華 麗な遣物を持っ大 墳墓であり

他の

つ は青 銅 器 鉄 器 と伴っ て, 印 文 土器 を出す 貧 弱な墳 墓である

印 文土 器 は 提子江 下流域

洞 庭

都陽 湖 岸

福 建

広 東地お よび地方IC広 く分 布 して い る

春 秋 期以 前は 軟 陶 で

以後は 硬陶とな る が

その硬 陶が金 属器 と伴 っ て 出 る 遺 跡の性 格を 比較 し

高 度 文 化の輸 入に際して の 二種 の跡の相 違 を明 らかにするこ と が今 後の問題 と して っ ている

 

また江南にお ける農耕の問 題 も関 係して 来 る

漢 代の 巴 蜀地方で は穀種

野菜

果 実の栽 培 家畜の飼養お よ び鋳鉄な どの文化が発 展して いた

雲 南 山地の剣 川の湖 畔 遭 跡から最 近 石 器 青 銅 器 と共に稲麦 粟 稗の穀 粒が発 見 さ れ たIS)

戦 国 期お け農耕具若 干の鉄 製 品が 出て い る が

長 沙 糸茅冲戦 国 墓 か ら木斧 (斧 長 15cm

柄 長 44cm ) も 出て いるls) 但しこれらは報 告 書を字 義通 り信 用 し受取っ た場 合のことである

恐 ら く今 後 発掘 資 料が 増 加 す れ ば

澗 庭

鄙 陽 湖 及び長 江 流 域の 泥湿 地 帯 にお ける木製農工具と

山地 に おける焼 畑 耕 作 具との比 較の問題も起っ て来る で あ ろ う

こ うな ると従 来の有 肩 石 斧にする考え方も改めて見 直 す 必 要 が 出て来る と思 う

とも あれ 最 近の淮 河

長江 流域の遺跡 調 査は北の黄 河 流, 南の東 南アジア

東の 日本

南 朝 鮮との関係上極 めて注 目に価 す る

      註 1) 長 台 関 遺 跡 の料には 次の ものが あ る

 

a

河南信陽長 台 関 戦 国 墓 出土的漆鰆図版

文物参 考資   料  1957 年第7期

 b

河南信陽長台 関戦 国墓 出 土 的 編 鐘 図版

文参

  1957

8 期

 c

同 上出土 的木彫 花 案

漆彩鎮 墓獣

残漆片

文参   1957

9 期

 d

河南省 丈 牝局文 物工作隊 第

隊 :我 国 考 古 史上 空   前発 現 信陽長 台 関 発 掘

座 戦 国大墓

文参 1957

9   期

 

e

沫若 :信 陽的 年 代 与 国 別

丈参 1958

1 期

  f

顧鉄 符 :信 陽楚 墓 銅 器 的幾 個 問題

丈参1958  

1期

 

g

中 国 音楽 学 院民族研 究所調査 組 :信陽戦国楚墓 出   土楽器 初歩調 査 記

同上書

 h

陳大章t 賈 峨 :復 制信陽 楚墓 出 土漆器槙 型 的体   会

同上書

2 長 沙戦 国墓の資料には 次の もの がある

a

中 国 科学 院考古研 究所編著 :長 沙 発 掘報 告 国   田野 考 古 報 告集考 古学 専 刊丁種 第二 号

1957 年

 b

湖 南 省 丈 物管理 委員会 :衡陽出 土戦 国時 代 的   鉄 器

考 古通訊 1956年 第 1期

 

c

呉 銘生 :長 沙 市郊 外 戦 国墓墓 串土

  文 参 1956

4 其月

 d

周 世 栄 :長 沙 黄土嶺 戦 国墓的清理

考 古通訊1957  

4

 e

湖 南省文物 管理委員会 :湖南長沙 絲 茅冲戦 国小 型   木 槨墓清理 記

通 訊 1957

5 期

  f

「司上会 :沙 紙 園工地 古 墓 清理 小結

通 訊   1957

5 期

 

9

方継 成 :長沙 候家塘 MO18 号墓的 年 代 問 題

通   訊1957

5 期   h

羅 敦 静 :湖 南 長 沙 発現戦国 和六 朝的洞室墓

通訊 ヱ55

(7)

156    1958

−−

2i

  L 許 道 齢 :関 於 長沙 候 MO18 年 代 問 題    

的 討論

邇 訊 1958

4 期

 

1

周 世 栄 :長 沙烈士 公園清理 的戦国墓葬

通訊1958    

6 期

  k

絲 茅 冲工小 組郊 絲 茅 冲工 地第

区 的 古    代墓葬

丈参 1955

11 期

  L 李正 光

彭 青 野 :長 沙沙湖

as

−一

帯 古 墓 発 掘 報 告

   考 古学 報 1957

3 号

 m

李 正 光 :出土戦 国 時 代 銅 鏡

1957    

1 期

n

李蔚然 :評 略 鋭 長 沙 出戦 国時 代 銅 鏡

1958    

1 期

  o

郭 沫 若長 沙 出楚 器 図録

海 出版

.1955

    年

  p

史樹 青 :長 沙 仰 天 湖 出 土 楚研 究

  q

北 京 歴 史 博物 館 :楚 文物 展覧図 録

1954 年

  r

考 古研 究 所湖南調 査 発 掘団 :長 沙 近 郊墓 発掘 記     畧

科挙 通 報 3

7

  s

長 沙

図 騰芸 術

美 術 考

1950    1951 年

3) 郭 沫 若 二信 陽 墓 的 年 代 与 国 別

1957

9

4

) 乱 安徽省 文 物管理 委 員会

安徽省博 物 館 :

i

寿県 蔡    侯墓出土 遺 物

考古 学 専 刊

乙種 第5号

1956 年

  b

郭 沫若 :由 寿 県 蔡 器論到蔡墓 的 年 代

考 古 学報    1956

1 暑

  c

陳 夢家 :寿 県 蔡 銅 器

学 報

1956

12     号

5) 桶日隆康 :薪 発 見の西 周銅器 群 と その問 題 点

東     洋史 研 究

16_3

6) 郭 沫 若 :開子鄂君啓節的研 究

文参 1958

4 期

    殷 滌 非

羅 長 銘:欝 県出 土 的 鄂# 啓金 節

丈 参1958    

− 4

期 7 ) 梅原 宋 治 :洛 陽金村 古 墓 聚 英

図版 67t 68

8)  輝 県 戦 国墓の資 料に は次の ものがある

  a

県 発 掘 報 告

国科 学 院 考 古研 究所

.1956.

  b

考古研究所 輝 県嬲 査発掘団通訊組 :輝 県 考古 発 掘    紀畧

同 続 言己

同三記

科 学 通 報1950

8

1951

3     号

  c

関 野 雄 :河南 省輝 県に おける殿墓 と戦 国 墓 の 発    掘

中 国 考 古 攣所収

  d

梅原末治, 水野 清

:河南 輝 県出 土の夾 紵 大 鑑 に     就て

国華 42

7

  e

:戦国 式 鋼 器の研 究

東 方 文 牝 学 院 京 都    研 究 所 研 究報省, 7

  f

0

Karlbeck :Note  on the ArchaeQlogy  of

   

Ch

洫a

  MFEA  Bulletin No

2

1930

9

) 王仲殊 :洛 陽附 近 的戦 国墓 葬 考 古学 報 1955    

総 8轡

p

155

   河南文物工作 隊第

隊 :鄭 州崗 杜附 近 古 墓葬発掘簡     報

 文 参

1955−

10号

p

13

14

10) 李 景 聰寿 県 楚墓 調 査 報 告

田野 考 古 報 告

No

   1

11 関野 雄 :中国にお け る墳丘の 生成

中国考 古 学 研    究所収

p

563

591

12

 沈括 :夢 溪 筆 談

 ∋巻…21

13)

 

Victor Segalen

 

Gilbert de

 

Voisins

 

Jean

  

Lartigue :

Mission

 Arch 叡)正osique  en 

Chine.

   Paris

1923〜

1924

   中央古 物保管委 員会 驪 査報 告 第

陵 墓 調 査

  報告

 民国 24  年

14) 図録 「長 沙

図 騰 芸 術 木 偶と並 ん で 垂 舌 の 土

  製 品 も 見 え る

夂垂 舌怪獣が手に縄を持つ画 が四川

  嘉 定漢石窟にあ る

(Richard  C

 Rudolph ; Han

   Tomb  

Art

 of 

West

 China

1951

 pL 7 and  

8.

  22

)尚日本岩 手県で 現 在 行 わ れて い る 鹿 踊 り衣裳   は鹿 角 怪髞面 を 付 け模 様化 し た 舌を 垂ら して いる

15 殷 代に漆 器管 あっ た とい う説は安 陽発 掘 報 告 (1950   年 )に見 える 武官 村 大墓の泥 土 に付着した 木 器圧

  

胡厚宣 :殷 城 発 掘図 版 31及 び京 博 物院 陳   品 画片 第

集 所収 同様圧痕によ るら しいが

尚 証拠   不 十 分である

叉 河南濬県辛村 (田 野考古報告第

  册 ) 出土 品を漆の最古 例 と す る考え もある

16 B

Karlgren : The  Date  of the 

Early

 

Dong −

   son Culture

  MFEA

  Bulletin No

14

1942

   Von  Heine

Geldern :  L

Art  pr6bouddhique

   de la Chine et de 1

Asie 

du

 

Sud −Est

 et son

   infiuence en Oc色anie

  RAA

  XI

4

1937

  Ling  

Shun ・

sheng : New  Interpretations  of    the decorative designs on  the bronze drums    of South

east  

Asia.

 Paper   of the  

Eighth

   

Paci

丘c Science 

Congress.

  Manila

 Nov

1953

17 孫 太 初 :両 年古 遣址 及 墓葬的 発 現 与 清理

   三虻参  1955

6 期

    雲 南博物 館 :雲 南 晋 寧塞 山古 遺及墓葬 考 古学    報

 1956

1 号

18)  雲 南 省 博 物 館 : 丿ii

F

口古 牝遺址 清 理 簡 報

 通    訊

 1958

6 期

1g) 考 古通訊 1957

−=

5 期

 pL

V ・

No

1

      (学 習院大学 )

Bijdragen

最 近号

所載

文 化

類 学 関 係 諸 論 文

  積

 オ ラソダのハ

グ 市にある 王 立言語 地理民 族 学会 (Koninklijke  Instituut voor  Taal

−,

 Land

en  Vo1

kenkunde

既 に 19 世紀中 頃か ら イソ ドネシアの 地 文人文に関する諸 研 究 を 載せた 雑 誌 Bijdragen  tot de Taa1

−,

 Land

en  Volkenkunde

1951 では

こ の題 名の あ とに van  Nederlandsch  Indi6 の文字

がつ い て い たが, 最 近 は附 け ら れて い ない

以 下 単に

Bijdragen と云 う

) を毎 年 1册 宛 発 行 て いたこと は

周 知の通 りであ るが,こ の雑 誌 は 第2次 大 戦のため1944

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参照

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