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Charles Jonathan Arnell, an American Student in the Late Meiji Era : The Life of the Forgotten Japanologist

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(1)

<研究論文>明治末の米国人留学生チャールズ・ジョ

ナサン・アーネル : 忘れられた日本学者の生涯

著者

古俣 達郎

雑誌名

日本研究

58

ページ

107-137

発行年

2018-11-30

その他の言語のタイ

トル

Charles Jonathan Arnell, an American Student

in the Late Meiji Era : The Life of the

Forgotten Japanologist

(2)

はじめに

明治末の留学生   明治末︑日清戦争・日露戦争の両戦役における日本の勝利を契機 として︑多くの外国人留学生が日本を訪れるようになった︒それら の学生群のほとんどは東アジア圏からの留学生であり︑その大部分 が 清 国 か ら の 留 学 生 で あ っ た︒ 急 増 す る 清 国 留 学 生( 留 日 学 生 ) の 受け皿として︑法政大学清国留学生法政速成科︑明治大学設立経緯 学堂︑早稲田大学清国留学生部などが次々に設立され︑私立大学を 中心に明治末日本の高等教育機関は留学生ブームに沸いた︒さねと う け い し ゅ う﹃ 増 補 版 中 国 人 日 本 留 学 史 ﹄( く ろ し お 出 版︑ 一 九 八 一 年 ) に よ れ ば︑ 一 九 〇 六( 明 治 三 十 九 ) 年 前 後 の 清 国 留 学 生 数 は 八千人以上の規模に達するという ( 1) ︒   大量の清国留学生がいた一方で︑日露戦争以後の留学生の中には 少数ながらも欧米諸国からの留学生が含まれていた︒数少ない欧米 人留学生のほとんどがロシア人であったが︑彼らロシア人が日本に 赴いたのは︑明確な理由があった︒すなわち︑日露戦争において︑ 彼らの祖国ロシアに打ち勝った日本という国は果たしてどのような 国であるのかという問いである︒   当時の新聞報道には︑日本の教育機関への入学を望むロシア人の 姿が報道されている︒例えば︑一九〇六年四月九日付の﹃東京朝日 新 聞 ﹄ に は︑ 齢 二 十 四︑ 五 歳 の 美 し い ロ シ ア 人 青 年 が ロ シ ア 公 使 館

明治末の米国人留学生

忘れられた日本学者の生涯

(3)

を訪れ︑ロシア公使コザリフに東京帝国大学への入学を涙ながらに 懇請する姿が報道されている︒この青年はコザリフに次のように訴 えたという︒ 今 回 の 日 露 の 戦 争 は 実 に 余 に 精 神 的 大 革 命 を 与 え た り 余 が 小なる頭脳は従来我本国たる露西亜を以て世界に於ける最も強 大にして進歩せる国なりと思惟せり然るに何ぞや蕞爾たる日本 と戦ひて連戦連敗せるのみならず国内には各種の革命的暴動続 発してザーの権威を以てするも亦之を鎮圧するを得ざらんとは︑ 余は是に於て大に迷へり然ども其後の研究により敵国たりし日 本の連戦連勝せし所以を知り爾来日本の文明を研究せんとする の念日に増し盛にして遂に今回渡航し来るなり就ては之より東 京帝国大学に入りて大に研究せんと欲す ( 2)   この若きロシア人青年の説くところは︑日清戦争以降に開始され た清国人たちの留日理由と通底するものがある︒その理由とは︑有 史を通じて︑遥かに大国であった中国に勝利した明治日本とはどの ような国家であり︑その近代化の達成はどのようになされたのか︑ という問いである︒いうまでもなく︑その頃の中国では︑ロシアと は違って︑列強から植民地化されるという強烈な危機意識が生じて い た︒ そ の た め︑ 急 速 な 近 代 化 を 図 る こ と を 目 的 に︑ た と え︑ ﹁ 速 成﹂であろうとも︑大量の留学生を送り込み︑近代化を担う人材の 養成を急がねばならなかったのである︒いわば︑留日は国家の生存 を賭けた大規模な政策として行われたのであって︑その点︑あくま で個人単位の留学であったロシアとの違いは明らかである︒ただし︑ 両 者 と も 日 清・ 日 露 戦 争 で 生 じ た﹁ 日 本 の 衝 撃 ﹂( 山 室 信 一 ) を 受 けとめることによって日本への留学が行われた点で相通じているの である ( 3) ︒   同年十二月十八日付の同紙 ( 4) には︑日露戦争以後︑数十名のロシア 人学生や軍人が訪日し︑日本語を学んでいる様子が報道されている︒ そのうち︑約十名は駿河台の正教神学校で日本語の研究に励み︑一 名 が 東 京 帝 国 大 学 医 科 大 学 に 入 学( 一 九 〇 六 年 入 学 の ニ コ ラ ス・ ア ン ド レ ー エ フ の こ と ( 5) )︑ そ の 他 は 旅 館 に 寄 宿 し︑ 個 人 教 授 と し て 雇 っ た 日本人に直接日本語を教わっているという︒いずれも﹁粗食に甘ん じ熱心に邦語に研鑽﹂しているとのことである︒   これら明治末のロシア人留学生の中で最も知られているのが︑日 本 学 者・ 日 本 文 学 者 の セ ル ゲ イ・ エ リ セ ー エ フ( 一 八 八 九 ︱ 一 九 七 五 ) で あ ろ う︒ 一 八 八 九 年 一 月 十 三 日︑ 帝 政 ロ シ ア の 富 豪 エ リ セ ー エ フ 家 に 生 ま れ た セ ル ゲ イ は︑ ベ ル リ ン 大 学 を 経 て︑ 一九〇八年︑東京帝国大学文科大学国文学科に正規の課程で入学し た︒在学中には︑夏目漱石の木曜会に参加するなど︑日本文学者と して研鑽を積み︑優秀な成績で卒業した後︑ロシアに帰国し︑ペト

(4)

ログラード大学の講師に就任した︒しかし︑ロシア革命によって投 獄 さ れ︑ 釈 放 後 は フ ィ ン ラ ン ド を 経 て︑ フ ラ ン ス で 亡 命 生 活 を お くった︒ソルボンヌ大学で教鞭をとった後︑第二次世界大戦後は︑ アメリカのハーバード大学に転じて︑日本語・日本史・日本文学等 の講座を担当し︑エドウィン・O・ライシャワーやドナルド・キー ンなど日本学・日本研究の先導者たちを育てている︒彼は漱石門下 の小宮豊隆や安倍能成︑野上豊一郎︑森田草平などの文学者・作家 のみならず︑国際法学者の田中耕太郎︑経済学者の大内兵衛など︑ 戦前戦後の日本をリードした多くの知識人の友人でもあった︒エリ セーエフについては︑倉田保雄が詳細な評伝を刊行しており︑倉田 は彼を﹁日本学の始祖﹂もしくは﹁日本学の父﹂と位置づけている ( 6) ︒ 倉田の評が示すように︑エリセーエフは日本学および日本研究の歴 史を検証する際に欠かすことが出来ない存在として︑その名を残し ているのである︒   他方で︑これら留学生たちの中に︑日清・日露戦争を契機として 訪日したロシア人や清国人とは全く別の理由によって日本を訪れた︑ たった一人のアメリカ人青年がいたことはほとんど知られていない︒ この一人のアメリカ人青年の名はチャールズ・ジョナサン・アーネ ル ( Charles J onathan Arnell 一八八〇年七月一日︱一九二四年十一月九日 ) といい︑十代のうちにアメリカへ移住したスウェーデン系の移民で あった︒   アーネルは先述の東京帝国大学医科大学生アンドレーエフと同年︑ エ リ セ ー エ フ の 東 京 帝 国 大 学 文 科 大 学 入 学 に 先 駆 け る こ と 二 年︑ 一九〇六年九月に︑米国大使館に通訳官として勤務する傍ら︑法政 大学に入学している︒日本の私立大学( ただし︑当時の私立大学はす べ て︑ 一 九 〇 三 年 に 発 令 さ れ た﹁ 専 門 学 校 令 ﹂ に も と づ く﹁ 専 門 学 校 ﹂ で あ る ) に 入 学 し た 最 初 の 欧 米 出 身 者 で あ り︑ そ の 後︑ 東 京 帝 国 大 学に転じて︑エリセーエフに続いて︑欧米人としては東京帝国大学 文 学 部 国 文 学 科( 一 九 一 九 年︑ 文 科 大 学 か ら 文 学 部 と 改 称 ) の 二 人 目 の卒業生となっている ( 7) ︒   し か し な が ら︑ ﹁ 日 本 学 の 始 祖 ﹂ と の 評 も あ る エ リ セ ー エ フ と 比 して︑アーネルの名は忘却の彼方にある︒管見の限り︑戦後︑彼の 名が記された文献として︑アーネルの東京帝国大学国文学科におけ る 学 友 で あ っ た 高 木 市 之 助 に よ る﹃ 国 文 学 五 〇 年 ﹄( 岩 波 書 店︑ 一 九 六 七 年 )︑ 同﹁ 島 津 久 基 と ア ー ネ ル ﹂( ﹃ 折 り 折 り の 人 第 三 ﹄ 朝 日 新聞社︑ 一九六七年︒初出は﹃朝日新聞﹄一九六七年四月二十二日夕刊 )︑ 最 初 の 入 学 校 で あ る 法 政 大 学 の 歴 史 を 記 し た︑ 霞 五 郎( = 神 長 謙 五 郎 )﹃ お 濠 に 影 を う つ し て   法 政 大 学 八 十 年 史 ﹄( 一 九 六 一 年 )︑ 同 ﹃ 法 政 大 学   物 語 百 年 史 ﹄( 一 九 八 一 年 )︑ 教 員 と し て 勤 務 し て い た 東京商科大学 ( 現在の一橋大学 ) の ﹃一橋大学学問史﹄ ( 一九八六年 )︑ そして︑アーネルが来日するきっかけとなったタコマの日本人移民 に 関 す る 大 塚 俊 一 の 回 顧 録( 伊 藤 一 男﹃ 続・ 北 米 百 年 桜 ﹄ 一 九 六 九 年

(5)

所 収 ) が あ る が︑ こ れ ら の 文 献 の う ち︑ ア ー ネ ル の 経 歴 に 関 し て︑ あ る 程 度 ま と ま っ た 記 述 が あ る の は︑ ﹃ 一 橋 大 学 学 問 史 ﹄ の み で あ る︒その他の文献は︑いずれもアーネルに関する数少ない情報を伝 えてくれる貴重なものではあるが︑それぞれの著者の関心に限定さ れた部分的な言及にとどまっているのである︒   こうした文献の少なさにも象徴されるように︑今日︑アーネルは その存在が忘れられているが︑それにはそれなりの理由がある︒と いうのも︑彼はわずか四十四歳という若さで急逝したため︑東京帝 国 大 学 で 研 究 を 行 っ て い た 能 や 狂 言︑ 歌 舞 伎 な ど の 日 本 の 伝 統 芸 能・伝統演劇の研究を大成することができなかったからである︒彼 は 一 冊 の 著 作 も 残 す こ と が で き ず︑ そ の 短 い 生 涯 を 終 え た︒ 一九二四年十一月︑大学院に在籍し︑博士論文の執筆に励んでいる 最中︑ ﹁排日移民法﹂の成立( 一九二四年七月施行︒同法の正式名称は︑ ﹁ 一 九 二 四 年 移 民 法 Immigration A ct of 1924 ﹂ ( 8) ) に 苦 悩 し︑ 急 逝 し た の で あ る ( 9) ︒﹁ 排 日 移 民 法 ﹂ は 日 米 関 係 に 深 刻 な 遺 恨 を 残 し︑ 多 く の 悲 劇 を生むこととなるが︑アーネルの死はその悲劇の一つであった︒   さて︑本稿は︑この忘れられたアメリカ人留学生であり︑そして 早世の日本学者であったアーネルの生涯を明らかにすることを目的 として書かれたものである︒それでは︑今日︑彼の生涯を辿ること に︑どのような意義があるのであろうか︒結論を先取りするかたち になるが︑ここでは︑以下の四点を指摘しておきたい︒   まず︑第一は近代日本の留学生史に関わる︒これまでの留学生史 は圧倒的多数を占める清国留学生の研究が中心であった︒これは量 的な観点のみならず︑彼ら清国留学生が辛亥革命などの中国近代史 に果たした重要な役割と足跡を考慮すれば︑至極当然のことであっ た︒しかし︑冒頭で記したロシア人や本稿で対象とするアーネルの ようなアメリカ人など︑明治末の日本には東アジア圏以外の様々な 国から訪れた留学生が︑少数ながらも存在していたのである︒この ことは事実のレベルにおいてもほとんど知られていないが︑彼らが なぜ明治末に日本に留学したのか︑また帰国後に果たした役割はど のようなものであったのか︑といった問いを︑国別の差異や偏差も 含めて検証する必要があると思われる︒   第二は︑日本学及び日本研究の歴史に関わる点である︒残念なが ら︑彼の早世によって未完となってしまったが︑彼が東京帝国大学 で着手していた能︑狂言などの伝統演劇の研究は︑日本国内のアカ 写真1 チャールズ・ジョナ サン・アーネル。『東京朝日 新聞』1924 年 9 月 27 日

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デミックな研究機関において︑アメリカ人によってなされた最初期 のものである︒本稿では︑筆者の力量不足のために紹介程度にとど まるが︑外国人による学術的な日本研究の先駆けとして注目するに 値する︒   第三は︑国文学史の領域に関係している︒アーネルは東京帝国大 学国文学科時代︑高木市之助らその後の国文学界をリードする多く の人々と研究をともにしており︑彼ら学友だけでなく︑恩師であっ た 国 文 学 者 藤 村 作( 一 八 七 五 ︱ 一 九 五 三 ) と も 極 め て 親 密 な 関 係 に あった︒本稿では︑昭和初期に大きな反響を呼んだ藤村の英語教育 廃 止 論( 英 語 科 廃 止 論 ) に 焦 点 を あ て︑ ア ー ネ ル の 死 が 藤 村 に 与 え た影響についても考察した︒   最後に︑ ﹁越境史﹂の観点からである︒根川幸男によれば︑ ﹁越境 史 Transnational H istor y ﹂ と は︑ ﹁ 一 国 史 や 比 較 史 に 対 す る 批 判 か ら 起こった新しい歴史研究のパラダイムであり︑複数国家・地域の関 係・交差の視点から歴史を見直す方法﹂ ( 10) である︒本稿はあくまで伝 記的記述が中心となっているが︑スウェーデンからアメリカへ︑そ してアメリカから日本へと越境し続けたアーネルの生涯は︑それ自 体が一つの﹁越境史﹂としても捉えることができるだろう︒ 一   移民同士の出会い   チ ャ ー ル ズ・ ジ ョ ナ サ ン・ ア ー ネ ル は 一 八 八 〇 年 七 月 一 日︑ ス ウェーデンに生まれた︒父ジョン︑母アリダ︑そして二人の妹とと もに︑十代のうちにアメリカ合衆国ワシントン州タコマ市に移住し︑ 一八九九年︑二十歳の折にはアメリカに帰化している ( 11) ︒   スウェーデンからアメリカへの移民が急増したのは︑一八八〇年 代 の こ と で あ る︒ ス ウ ェ ー デ ン で は︑ 一 八 一 五 年 に は︑ わ ず か 二五〇万人に過ぎなかった人口が︑一九〇〇年までに五一〇万に急 増しているが︑その背景には︑急激な死亡率の低下があった︒死亡 率の低下はジャガイモの栽培が盛んになることによって栄養状況が 好転したこと︑また︑天然痘に対する予防接種が普及し︑衛生状況 も 劇 的 に 改 善 し た こ と が 原 因 で あ っ た︒ 他 方 で︑ 農 業 国 で あ る ス ウ ェ ー デ ン に お い て は︑ エ ン ク ロ ー ジ ャ ー( ﹁ 囲 い 込 み ﹂ ) に よ り︑ 農業・農法の近代化と開墾も大規模化したが︑そのような農地の効 率化と拡張にも関わらず︑急激な人口を 賄 まかな うにはいたらなかった︒ 農村には無職者があふれ︑農村不況が発生した︒それゆえ︑多くの ス ウ ェ ー デ ン 人 は ア メ リ カ と い う 新 天 地 に 向 か う こ と と な る︒ ス ウェーデンでは︑一八六五年から一九三〇年の間に︑総人口の約四 分の一が移民となり︑とりわけ︑ピークの一八八七年の移民者数は︑

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一年間に約四万七千人もの規模に及んだ ( 12) ︒そして︑これらの移民の 約九割は︑アメリカへの移住者であり︑アーネル一家がタコマに移 住したのも︑こうしたスウェーデンからアメリカへの大規模な移民 の時代を背景としたものであった︒   アーネルの生涯を決定づけることとなる日本への関心は︑家族と ともに移住した︑このタコマの地で生じた︒ここで︑アーネルは日 本人移民たちと出会ったのである︒   彼が一九〇六年に法政大学へ入学した際に︑同校の学内誌﹃法学 志林﹄に掲載された記事によれば︑当時︑彼の父ジョンはタコマで バプテスト教会の伝道活動に関わっており︑その布教の対象の中に は︑彼らスウェーデン人移民と同じく︑アメリカへ移住して間もな い日本人移民が多数含まれていたため︑息子のアーネルも﹁自然日 本人との交わり深﹂くなっていったという ( 13) ︒   タコマの地に日本人移民が入植を開始したのは︑一八八五年頃の ことで︑アーネル一家がスウェーデンから移住した時期とほぼ同時 期にあたる︒この当時の日本人移民の急増もまたスウェーデンと似 通った理由であった︒一八八〇年代後半︑西南の役の後︑松方デフ レ政策による不景気を起因とした︑米価の低落︑地租の重税に凶作 が加わり︑農村部は深刻な不況にあえいでいた︒それゆえ︑農村の 無職者は︑都市に流入することとなるが︑当時の日本においては︑ 都市産業はいまだ発展の途上にあり︑農村から流入する労働力を全 て吸収するにはいたらなかった︒こうして︑農村における余剰労働 力の一部が北海道移住または海外への移住に回ったのである ( 14) ︒一方 で︑彼らの移住先のアメリカでは︑一八六五年の南北戦争終結後の 一 八 七 〇 年 代 か ら 一 八 八 〇 年 代 に か け て は︑ い わ ゆ る﹁ 金 ぴ か 時 代 ﹂ と も︑ ﹁ 第 二 次 産 業 革 命 ﹂ と も 評 さ れ る ほ ど の 未 曽 有 の 経 済 的 成長の過程にあった︒急成長を遂げる中で︑都市部であろうと農村 部であろうと労働力の不足が深刻化しており︑移民たちの労働力を 求めていたのである ( 15) ︒   この間︑ワシントン州の西北部に位置し︑太平洋岸の港湾地にあ るタコマは︑世界中の移民が集まる湾岸都市として発展していき︑ 一 八 九 〇 年 頃 に は︑ 百 名 を 越 え る 日 本 人 が 居 住 す る に い た っ た︒ 一八九一年にはタコマ日本人会が結成され︑以後︑日本人移民は漸 次的に増加していった ( 16) ︒とりわけ︑一九〇九年に大阪商船会社がタ コマを米国航路の第一寄港港とし︑日米貿易が進展したこともあり︑ 日本人移民は九百名を超え︑タコマの日本人社会は全盛期を迎えた ( ︒   先にアーネルの父ジョンがバプテストの伝道活動に関わっていた ことに少し触れたが︑タコマの日本人へのバプテストの伝道を開始 し た の は︑ ﹁ シ ア ト ル の 日 本 人 社 会 に 基 督 教 青 年 会 を 設 け た 元 祖 ﹂ ( と 称 さ れ る 岡 崎 福 松 牧 師 で あ る︒ 岡 崎 は︑ 東 京 一 致 英 和 学 校( 明 治 学 院 の 前 身 ) を 卒 業 後︑ 一 八 八 七 年 に 渡 米 し た 日 本 人 移 民 で あ っ た︒ 渡米当初は各地を転々とするが︑デンバー滞在中に︑同地の第一バ

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プテスト教会で受浸し︑一八九四年には︑シアトル第一バプテスト 教会で按手礼を受けて伝道者として承認された ( 19) ︒以後︑シアトルを 中心に日本人移民への伝道に努め︑一八九九年には︑アメリカ西北 部 に お け る 日 本 人 キ リ ス ト 教 会 の 第 一 号 で あ る シ ア ト ル 浸 礼 教 会 ( バ プ テ ス ト 教 会 ) を 設 立 し て い る︒ 彼 は 伝 道 活 動 と と も に︑ 日 本 人 移 民 へ の 教 育 に も 熱 心 で あ り︑ 一 八 八 九︑ 一 八 九 〇 年 頃 か ら︑ 移 民 たちに教育を施すために教会の一部を開放した宿泊所を設立し︑多 く人々が彼の世話になっている︒こうした岡崎の活動の功績は︑日 本 人 移 民 の 誰 し も が 認 め る と こ ろ で︑ ﹃ 在 米 闘 士 録 ﹄( 一 九 三 二 年 ) の 岡 崎 の 項 目 に は︑ ﹁ 在 米 同 胞 中︑ シ ヤ ト ル 港 に 上 陸 し︑ 暫 く 同 地 に足を停めて︑奮闘した者ならば︑大抵は岡崎氏の教会に止宿し氏 の厄介にならぬものはないといつても敢て過当ではあるまい﹂とし て︑彼を﹁海外に於る同胞精神界の明星﹂と称えている ( 20) ︒   その岡崎がシアトル近郊のタコマに伝道を開始したのは一八九三 年ことで︑岡崎の回想には︑タコマへの伝道に際しては︑同胞の牧 師 以 外 に︑ ﹁ 同 情 者 ア ー ネ ル 氏︑ ド ク タ ー ム ー ン 氏 ﹂ の 尽 力 が あ っ たことが記されている ( 21) ︒すなわち︑この回想にある﹁同情者アーネ ル氏﹂が︑父ジョンのことであり︑岡崎のタコマ伝道にはジョンの 貢 献 が あ っ た わ け で あ る︒ 先 述 の﹃ 法 学 志 林 ﹄ の 記 事 に 従 え ば︑ アーネルは父ジョンとともに岡崎ら日本人バプテストの伝道を手伝 う中で︑岡崎の周辺にいた日本人移民たちとも自然と親しくなって いった︒極北の地スウェーデンから移住者であり︑なおかつ多感な 少年期をおくっていたアーネルにとって︑未知の存在である極東の 日本人の言葉や文化︑風俗など︑彼を魅了するものであったことは 想像に難くない︒   アーネルと日本人移民の交流に関しては︑彼の母アリダの証言も ある︒アーネルの没後︑アリダが日本に滞在中のアメリカ人の友人 に宛てた書簡で記すところによれば︑彼はタコマで日本人移民に英 語を教えるなどの積極的な関わりをもっていたという ( 22) ︒例えば︑後 にタコマ日本人会の会長をつとめた川井徳平もその一人であった︒ タコマの日本人移民の歴史を記した最も古い文献である︑大塚俊一 ﹁タコマ日本人発展史﹂ ( 一九一七年 )には次のように書かれている︒   現駐日米国大使館一等書記官アーネル氏は︑駐日外交官中︑ 最も日本語に長じ︑歌舞音曲にすら通暁すと称せらるゝが︑氏 の日本語の手播きをなしたるものは︑明治三十二年にはじめて パシフィック街にリンコーン洋食店を開業せる川井徳平氏にし て︑互に日英語の交換教授をなしたるものなりと︒川井氏は久 しくタコマ日本人会々長として在留同胞の為めに尽せる人︑今 は仲買媒介業に従事せり︑春風秋雨二十年両者相会せば其の感 慨果して如何 ( 23) ︒

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  同著は一九一七年に刊行されたもので︑当時︑アーネルは外交官 として駐日米国大使館に在職していた ( 24) ︒タコマにおける日本人移民 の歴史を語る中に︑このような一節が残されていることから︑タコ マの日本人移民にとって︑アーネルは親しい友であり︑彼らの誇り であったことを窺い知ることができる︒   アーネルと﹁日英語の交換教授﹂を行っていた日本人移民の川井 は︑山梨県東山梨郡日川村に生まれ︑一八九四年にタコマに移住し ている︒一八九六年にはサムナー市のホワイトウォーレスカレッジ に入学し︑同校を優秀な成績で卒業した ( 25) ︒初期の山梨県から移民は 二十歳前後の青年が多かったが ( 26) ︑川井もその一人であったのである︒ 根川幸男は近現代日本人の移植民史の時期区分を試みているが︑そ れにもとづくならば︑川井は﹁黎明期﹂に特徴的な﹁苦学生﹂型の 日 本 人 移 民 で あ り︑ ﹁ 西 海 岸 の 日 本 人 移 民 の 始 祖 集 団 ﹂ の 一 人 で あったといえる ( 27) ︒川井はホワイトウォーレスカレッジを卒業後︑飲 食業・仲買業など手広く展開し︑親切な人柄から日本人移民のみな らず白人との付き合いも多く︑タコマの日本人社会の名士となって い る ( 28) ︒ 岡 崎 の 回 想 に よ れ ば︑ 川 井 は 渡 米 当 初︑ ﹁ 国 粋 保 存 主 義 ﹂ 者 として知られており︑キリスト教自体に反対していたとされる︒し か し︑ 後 に は︑ 信 徒 に は な ら な い ま で も︑ 賛 同 者 の 一 人 と な り︑ 一九一七年十月に彼が没した際には︑バプテスト教会の日本人牧師 によってキリスト教式の葬儀が行われたという ( 29) ︒おそらく︑アーネ ル一家らと親しく交流する中で川井の思想も徐々に変化していった のであろう︒   さて︑このようなアーネル一家と日本人移民との関係性は︑村川 庸子が明らかにしようとしている︑シアトル・タコマ周辺の日本人 移 民 の﹁ コ ス モ ポ リ タ ニ ズ ム ﹂ を 象 徴 す る も の で あ ろ う ( 30) ︒ シ ア ト ル・タコマはアメリカにおける東洋貿易の拠点であり︑日本との貿 易を一因として発展していった都市であった︒そのため︑カリフォ ルニア州ほど排日運動が盛り上がることもなく︑このことは異なる 国から移住した移民間の良好な関係性を促進したのである︒アーネ ルは五十三の諸語に通じているとの噂があったほどで︑もともと言 語への天賦の才に恵まれていたのであろうが ( 31) ︑その卓越した日本語 能力は︑こうしたコスモポリットな環境のもとで︑岡崎や川井ら日 本人移民たちと親しく交流することによって︑磨かれていったので ある︒ 二   法政大学入学と伝統演劇との出会い   アーネルはワシントン大学文学部を卒業後︑外交官試験に合格し た ( 32) ︒彼が外交官を志した背景には︑家族とともにスウェーデンから 移住したタコマ及びシアトルでの経験が反映している︒国際的な湾 岸都市である同地でアーネルの家族と日本人移民たちが育んだ移民

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間の幸福な関係性は︑アメリカという多民族が共生する社会の理想 を体現するものであり︑国際社会においても︑その可能性を追求す る意義を与えるものであった︒異なる国家と民族︑人と人との架け 橋となる外交官という仕事は︑日本語を始めとした類まれな言語能 力と異文化への優れた理解力をもつ︑ ﹁越境者﹂アーネルにとって︑ 天職とも感じられるものであっただろう︒   彼の外交官としての最初の赴任地はマニラであったが︑まもなく︑ 東京の在日米国公使館に通訳官として着任している︒そして︑在日 米 国 公 使 館 着 任 後︑ 彼 の 名 が 日 本 の 新 聞 に 登 場 す る こ と な る︒ 一 九 〇 六 年 九 月︑ 日 本 の 私 立 大 学( 法 政 大 学 ) に 入 学 し た 初 め て の 米 国 人 学 生 と し て 報 道 さ れ た の で あ る︒ ﹁ 米 国 人 の 法 政 大 学 入 学 ﹂ と題された︑一九〇六年九月二十三日付﹃東京朝日新聞﹄の記事が それである( なお︑一九〇六年一月︑米国公使館は大使館へと昇格して お り︑ こ の 記 事 で は︑ ア ー ネ ル の 肩 書 き も﹁ 米 国 大 使 館 通 訳 官 ﹂ と な っ ている )︒ 米国大使館通訳官アーネル氏は今回梅博士の管理せらるゝ法政 大学に入学し法制及び経済に関する学理を研究する筈なるが米 国人の本邦大学は勿論私立大学に入学せるものは氏を以て嚆矢 と為す (﹁ 米 国 人 の 法 政 大 学 入 学 ﹂﹃ 東 京 朝 日 新 聞 ﹄ 一 九 〇 六 年 九 月 二 十 三 日 )   本邦初の米国人学生のアーネルの入学に関して︑入学先である法 政大学の学内誌﹃法学志林﹄には︑より詳細な記事が掲載された︒ 米国大使館通訳官﹁シー︑ゼー︑アーネル﹂氏は大の日本好に て故国に在るの間常に日本語の研究に趣味を有し来て我帝都に 在るや其熟達せる日本語を縦横に活用して其趣味の満足を貪り つつありしか頃日大に法律研究の志を起し校友高橋敏太郎氏の 紹介に依りて我法政大学に入るか﹁ア﹂氏は卒業後論文を提出 して学士の称号を得るに非すんば止まさるの決心なりと云ふ氏 当 に 年 二 十 五 気 鋭 に し て 志 壮 な る 前 途 有 望 の 青 年 な り 父 は ﹁ シ ャ ン︑ ア ー ル︑ ア ー ネ ル ﹂ と 曰 ひ て﹁ マ バ プ テ イ ス︹ 原 文 マ マ ︺﹂ 教 会 に 関 係 を 有 せ る か 該 教 会 は 邦 人 の 出 入 多 き 為 め 自 然日本人との交り深りしは﹁ア﹂氏が日本好の動機を為せりと い ふ 故 国 に 在 る や﹁ タ コ マ︹ 原 文 マ マ ︺﹂ 大 学 文 学 科 に 学 ひ 卒 業後馬尼刺政府の書記官と為り転して駐在米国大使館通訳官と 為りて来朝遂に我大学に入るに至れり 欧米人士にして我私立大学に入れるもの実に氏を以て之の嚆矢 となす (﹁米国人アーネル氏の入学﹂ ﹃法学志林﹄一九〇六年十月)

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  ﹃ 東 京 朝 日 新 聞 ﹄ の 記 事 に も あ る よ う に︑ 当 時 の 法 政 大 学 は 総 理 ( 現 在 の 総 長 ) で あ っ た 法 学 者 の 梅 謙 次 郎( 一 八 六 〇 ︱ 一 九 一 〇 ) の もと︑法律学及び政治学を中心とした私立大学として知られていた ( 33) ︒ 明治期の知識人の多くがそうであったように︑総理の梅自身がフラ ン ス の リ ヨ ン 大 学 へ の 留 学 生 で あ っ た が︑ 梅 は と り わ け︑ ﹁ イ ン ターナショナル﹂なフランス法学者として知られており︑清国留学 生を対象とした清国留学生法政速成科を法政大学内に開設したのも︑ 彼の主導によるものであった ( 34) ︒昭和初期に刊行された法政大学の評 判 記 の 類 に は︑ ﹁ 梅 博 士 時 代 は 単 に 国 内 の 学 生 の み を 相 手 に し て 居 なかつた点に注目しなければならない﹂ ( 35) と書かれているが︑これは 清国留学生のみならず︑米国人アーネルの入学にも当てはまるだろ う︒また︑ここで引用した法政大学の学内誌﹃法学志林﹄は︑梅自 身が編集主幹を務めており︑アーネルの入学にあたって︑梅による 庇護があったことを窺い知ることができる︒   ﹃ 法 学 志 林 ﹄ の 記 事 に あ る よ う に︑ ア ー ネ ル に 法 政 大 学 へ の 入 学 を勧めたのは︑高橋敏太郎であったことも注目される︒高橋は国民 英学校および郁文館中学校で英語教師として勤務する傍ら︑夜間に 法政大学に通い︑一九〇六年に法政大学を卒業している︒卒業後は 三井物産に入社し︑得意の英語を活かして国際貿易に携わっていた ( 36) ︒ アーネルと高橋の出会いがどのようになされたのか不明であるが︑ 高橋は︑十代のうちに受洗したメソジストとしても知られており ( 37) ︑ こうした経緯から両者に何らかの交流が生じていた可能性もあるだ ろう︒高橋が自身の母校である法政大学をアーネルに紹介したのに は︑幾つかの理由が考えられる︒一つは高橋自身がそうであったよ う に︑ 当 時 の 法 政 大 学 は 夜 学 の 法 律( 政 治 ) 専 門 学 校 で あ り︑ 昼 間 に職業を持つものが通うには格好の学校であったことである︒また︑ 外交官として働いていたアーネルにとって︑外交官としての職務に 直結する日本の法律・政治・経済を学ぶことができる点で︑都合が よかったのであろう︒     しかしながら︑法政大学の各種の卒業生名簿の中に︑アーネルの 名 を 見 つ け る こ と は で き な い︒ 霞 五 郎 が﹃ お 濠 に 影 を う つ し て   法 政 大 学 八 十 年 史 ﹄( 一 九 六 一 年 ) や﹃ 法 政 大 学   物 語 百 年 史 ﹄ ( 一 九 八 一 年 ) の 中 で 述 べ て い る よ う に︑ 彼 が 法 政 大 学 を 卒 業 す る ことはなかったのである ( 38) ︒法政大学を卒業しなかった理由について は︑いくつか考えられるが︑第一は外交官としての仕事である︒入 学から一年後の一九〇七年七月一日︑アメリカが満州国安東県に設 置した領事館に副領事として赴任することになったため ( 39) ︑一時︑日 本での就学が不可能となったのである︒いま一つの理由は︑その当 時の法政大学の学風やカリキュラムが関係している︒先述したよう に︑当時の法政大学は夜学の法律専門学校であり︑大半の学生は︑ 昼間に職をもつ下級の官吏や軍人などであった︒法政大学の卒業生 で 俳 人 と し て も 知 ら れ る 臼 田 亜 浪( 卯 一 郎 ) が 記 し た﹃ 最 近 学 校 評

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論 ﹄( 一 九 〇 六 年 ) に よ る な ら ば︑ 夜 学 時 代 の 法 政 大 学 の 学 生 は︑ ﹁ 多 く は 壮 年 思 慮 に 富 む の 人 に し て︑ 彼 等 は 他 に 職 業 を 有 し︑ 就 中 官吏に多くを見る︒此等労して糊口の資を作為し︑余暇を以て修学 せんとする篤志者﹂ ( 40) であった︒彼らはさらなるキャリアアップのた め︑高等文官試験などの国家試験の合格を目的として通っていたの である︒その分︑国家試験向けの実学的なカリキュラムが多く︑学 者肌のアーネルにとっては物足りないものであったのかもしれない︒   しかし︑それ以上に重要であるのは︑来日後︑彼が歌舞伎の観劇 をきっかけとして日本の伝統芸能・伝統演劇の魅力に徐々に取り憑 かれていったことである︒一九二二年十一月に﹃旬刊朝日﹄誌上に 掲載されたアーネルの談話﹁日本の演劇と西洋のダンス﹂ ( 41) では︑彼 が日本の伝統演劇に興味を持ったきっかけが︑次のように語られて いる︒   私が日本の演劇に初めて興味を持つたのは︑以前︑大使館に 居た書記官のメイさんに連れられて帝劇に幸四郎や梅幸の出演 した︑ ﹁関の戸﹂を見た時に始まります︒ ﹁関の戸﹂はドラマチ ツクなものでしたが︑演劇的趣味の他に所作の興味と︑調子の 非常に豊富なものであつた様に記憶して居ります︒其次に矢張 り帝劇で﹁勧進帳﹂を見ました︑此時もメイさんと一緒で其の 所作の雄大さに驚きました︒殊にメイさんは以前︑伊太利︑仏 蘭西︑独逸などに永らく居て音楽や踊りの好きな人でしたが此 の﹁勧進帳﹂を観て︑西洋のオペラに比して︑少しも遜色の無 いものだと褒めて居ました︒私も﹁関の戸﹂以上の演劇的価値 のある物だと思ひ︑これを観て一層深い興味を覚え︑自身日本 の踊りを稽古して見たい︑と云ふ様な気が起つた訳です︒     アーネルは米国大使館の同僚にたまたま連れられて行った観劇に よって︑歌舞伎に魅せられた︒とりわけ︑彼を魅了したのは西洋の ダンスにはない﹁所作﹂であった︒後に彼が整理するところによれ ば︑ ﹁ 西 洋 の ダ ン ス ﹂ は 身 体 の 美 し さ を 表 現 す る こ と を 目 的 と し て い る た め︑ ダ イ ナ ミ ッ ク な 動 作 が 強 調 さ れ る︒ 対 し て﹁ 日 本 の 踊 り ﹂ は﹁ 肩 や 手 先 の 微 細 な 技 巧 ﹂ を 駆 使 す る こ と に よ っ て︑ ﹁ 自 然﹂のシンボリズムを表現する︒いわば︑西洋のダンスは絵画的曲 線美をみせるものであり︑日本の踊りはそのような絵画的曲線美の ほかに必ずシンボリックな要素が含まれているのである︒例えば︑ ﹁花の散るところ﹂ ︑﹁水の流るゝところ﹂ ︑﹁風が吹くところ﹂ ︑﹁蝶々 の 飛 ぶ と こ ろ ﹂ と い っ た 自 然 の 光 景 を︑ 所 作 は そ の 繊 細 な 動 作 に よ っ て 表 現 す る︒ そ の よ う な 自 然 を 背 景 に し た 所 作( ア ー ネ ル は こ れ を﹁ シ ン ボ リ ッ ク・ ム ー ブ メ ン ト ﹂ と 評 し て い る ) は︑ ﹁ 日 本 の 踊 り﹂に独自のものであり︑西洋人であるアーネルには極めて新鮮な も の と 映 っ た( 彼 に よ れ ば︑ 歌 舞 伎 は こ の よ う な﹁ 日 本 の 踊 り ﹂ を 土

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台 と し て 発 展 し て き た も の で あ る )︒ こ の 談 話 に も あ る よ う に︑ 彼 は 自 分 で も 踊 り の 稽 古 を し た い と︑ 水 木 歌 若( 初 代 ) に 師 事 す る が︑ 年齢的に身体が固まっており︑決して上達することはなかったとい う︒ し か し︑ そ の こ と は︑ ﹁ 日 本 の 踊 り ﹂ が 幼 少 時 か ら の 長 年 の ﹁ 仕 し 込 こ み ﹂ に よ っ て︑ 漸 ようや く 成 し 遂 げ る も の で あ る こ と を 知 る 機 会 と なり︑その奥深さに改めて感銘を受けている︒   後 に︑ ア ー ネ ル は︑ ﹁ 舞 踊 歌 舞 伎 に か け て は 日 本 人 も 及 ば ぬ 精 通 者﹂ ( 42) ︑﹁歌舞伎狂﹂ ( 43) などと評されたが︑歌舞伎にとどまらない︑能︑ 狂言などの日本の伝統演劇に関する探究の道はこうして始まったの であった︒ 三   東京帝国大学での日々   安東の領事館を経て︑再び日本の地に舞い戻ったのは︑約一年後 の一九〇八年六月のことである ( 44) ︒アーネルは安東県副領事から︑在 日 米 国 大 使 館 日 本 語 書 記 官 補 に 任 命 さ れ た ( 45) ︒ 翌 一 九 〇 九 年 に は ミ ラー一等書記官の極東局長への昇進にともない︑次席のアーネルは 一 等 書 記 官 に 任 命 さ れ ( 46) ︑ 外 交 官 と し て の キ ャ リ ア を 順 調 に 進 ん で いった︒   その頃︑日米関係は極めて微妙なバランスの上にあった︒日露戦 争時︑アメリカではロシアへの敵対心と︑アメリカは日本を開国さ せた﹁保護者﹂であるという意識から︑日本へ同情的な視線を寄せ る人が多かった ( 47) ︒タコマにおいても﹁米人の日本人に対する好感情 其の頂顚に達﹂し︑ ﹁諸種の労働口益々多きを加へ︑酒舗︑ホテル︑ 倶楽部等は競ふて同胞を用ゐ﹂ ︑﹁黄金の雨降らんず勢﹂であったと いう ( 48) ︒   しかし︑日露戦争での予想もしなかった日本の勝利は︑日本は東 アジアにおいて︑アメリカの権益を脅かす対抗者ではないかという 認識へと変化していった︒こうした背景のもと︑アメリカでも﹁黄 禍論﹂が流布することとなり︑カリフォルニア州では︑一九〇六年 に発生した﹁サンフランシスコ学童隔離事件﹂を契機として︑日本 人移民が﹁問題﹂として惹起されるにいたった ( 49) ︒秦郁彦はこれらの 出 来 事 を﹁ 第 一 次 日 米 危 機 ﹂ と 呼 び︑ 蓑 原 俊 洋 は﹁ 排 日 運 動 の 原 点﹂と位置づけている ( 50) ︒   ただし︑一九〇六年前後にカリフォルニア州議会に次々に提出さ れた排日法案は︑セオドア・ローズヴェルト大統領を中心とした連 邦政府の働きかけによって成立することはなかった︒まもなく︑日 米両国の外交的努力のもと︑日本人移民の制限を両国が合意した日 米 紳 士 協 定( 一 九 〇 七 年 十 一 月 ︱ 一 九 〇 八 年 二 月 ) が 締 結 さ れ︑ 日 米 関係はさしあたり小康状態にあったといえる︒この間︑アーネルは 様々な公務に従事しながらも︑私生活においては︑二十歳の日本人 女性玉子と結婚し( 一九〇八年 )︑ 玉子との間に二児をもうけている ( ︒

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  ア ー ネ ル が 東 京 帝 国 大 学 文 科 大 学 国 文 学 科 に 入 学 し た の は︑ 一九一三年のことであった ( 52) ︒一九一三年の文科大学の入学生は全部 で 四 十 四 名︒ 同 年 の 入 学 生 の 中 に は︑ 芥 川 龍 之 介( 英 文 科 )︑ 久 米 正 雄( 英 文 科 )︑ 辰 野 隆( 仏 文 科 )︑ 藤 森 成 吉( 独 文 科 )︑ 松 浦 嘉 一 ( 英 文 科 ) ら が お り︑ 国 文 学 科 の 入 学 生 に は︑ 終 生 の 友 と な る 島 津 久 基( 一 八 九 一 ︱ 一 九 四 九︒ 後 に 東 京 帝 国 大 学 教 授︒ 古 代・ 中 世 文 学 )︑ 三浦直介( 一八八九︱?︒ ﹃白樺﹄同人 )らがいた ( 53) ︒   欧米人であるアーネルの入学にあたっては︑エリセーエフという 先達がいたことが大きいだろう︒一九〇八年に同大に入学したエリ セ ー エ フ は 四 席 と い う 優 秀 な 成 績 で 卒 業 し て お り︑ こ の こ と は︑ アーネルの入学に際して好都合に働いたに違いない︒この点に関し て︑先駆者であったエリセーエフの場合︑非常な困難があった︒彼 は︑ドイツに留学していた際にベルリン大学で偶然出会った言語学 者の新村出に紹介状を貰っていたにも関わらず︑文科大学長の坪井 九馬三に 慇 いん 懃 ぎん 無礼な態度で無理難題を吹っかけられ︑ロシア語学者 の八杉貞利や国語学者の上田万年の尽力によって漸く入学を果たし たのである ( 54) ︒なお︑同時期にはアーネル以外にも︑ロシア人のワシ リ ー・ メ ン デ リ ン( 国 文 学 科︒ 国 語 学 ) や オ・ ロ ー ゼ ン ベ ル グ( 哲 学科︒倶舎哲学 )が東京帝国大学への入学を果たしている ( 55) ︒   また︑当時の国文学科の教員には︑上田のほかに︑芳賀矢一︑藤 村作︑保科孝一︑佐々木信綱︑吉岡郷甫︑垣内松三ら ( 56) がおり︑これ らの教員のうち︑近世国文学を専門とする芳賀や藤村とは公私共に 親しく交わることとなる︒   入学後︑アーネルは︑同じ国文学科の学生であった島津︑三浦に︑ 後 に 入 学 し た 高 木 市 之 助( 一 八 八 八 ︱ 一 九 七 四︒ 後 に 京 城 帝 国 大 学︑ 九 州 帝 国 大 学︑ 日 本 大 学 の 各 大 学 教 授 )︑ 沼 澤 龍 雄( 一 八 七 九 ︱ 一 九 四 五︒ 中 世 文 学 史 )︑ 宮 崎 晴 美( 一 八 九 二 ︱ 一 九 八 四︒ 後 に 駒 沢 大 学 教 授 )︑ 平 林 治 徳( 一 八 八 九 ︱ 一 九 五 九︒ 後 に 学 習 院 教 授︑ 大 阪 女 子 大 学 学 長 ) ら を 加 え て︑ ﹁ 元 六 会 ﹂ と 称 す る 親 睦 を 兼 ね た 研 究 会 を 結成している ( 57) ︒高木の回想によれば︑元六会はアーネルが創始者で あり︑彼を﹁主人﹂としたサロンとも言えるもので︑ ﹁元六﹂とは︑ 最 初 期 の メ ン バ ー が 六 人( ア ー ネ ル︑ 島 津︑ 沼 澤︑ 三 浦︑ 高 木︑ 宮 崎 ) で あ っ た こ と を﹁ 元 禄 ﹂ に も じ っ て︑ ア ー ネ ル が 名 づ け た も の で あ っ た︒ 月 に 一 度 開 か れ た 元 六 会 の 会 合 は︑ ﹁ 各 自 が 自 分 の 研 究 を持ちよりそれを話題に意見を交換するという仕組み﹂ ( 58) で︑主に勤 務先の米国大使館の一室で開かれた︒高木は官邸で出される料理の 美味しさにも引かれながら足繁く通っていた︒元六会の談話の中心 は常に﹁主人﹂であるアーネルであり︑しばしば恩師の芳賀や藤村 を招きながら︑機知に富んだ洒落で場を盛り上げたという︒   一九一五年九月に開かれた元六会では︑熊本の五高への赴任が決 定した高木のために送別会が開かれた︒その席で︑離別への思いを こめて奏でられた島津の薩摩琵琶の音は︑高木にとって生涯忘れら

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れない思い出となった︒どうやら︑この時︑アーネルは不在であっ た よ う だ が︑ 彼 は﹁ し ょ せ ん は こ の 人︹ 引 用 者 注: ア ー ネ ル ︺ が 薩 摩の殿様に琵琶を語らせたのだ﹂と回顧している ( 59) ︒   アーネルは元六会で友人や恩師たちと日本文学の様々な領域につ いての知見を深めながら︑彼個人のテーマである能や狂言など日本 の伝統演劇の研究に励んだ︒先に大使館の同僚に連れられた観劇か ら彼が日本演劇に興味を持ったことは触れたが︑その後︑演劇界と の付き合いも深まり︑とりわけ︑歌舞伎界においては︑市川羽左衛 門( 十 五 代 目 )︑ 松 本 幸 四 郎( 七 代 目 )︑ 尾 上 梅 幸( 六 代 目 ) ら 花 形 役者たちと極めて親密な関係にあった︒例えば︑恩師の芳賀は︑歌 舞伎座で上演された﹁平仮名盛衰記﹂に招待された際︑アーネルに 楽屋に連れて行かれ︑幸四郎︑梅幸︑森律子らに﹁これは芳賀先生 です﹂と紹介され︑面をくらった思いをしている︒この時︑芳賀は アーネルに一つ芝居の筋でも説明してやろうという心持あったが︑ 開幕前にアーネルの筆による優れた英文の筋書きが配布され︑驚く しかなかったという ( 60) ︒   歌舞伎界との密接な関係を物語るものとしては︑幸四郎や梅幸の 指 導 の も と︑ 日 活 向 島 撮 影 所 に 交 渉 し て︑ ﹃ 積 恋 雪 関 扉 ﹄ の フ ィ ル ム を 撮 影 し た と い う エ ピ ソ ー ド も あ る︒ 撮 影 で は︑ ﹁ せ め て こ の 美 しい型衣装だけでも米国人にみせたい﹂と︑アーネル自らが幸四郎 の衣装を借り受けて︑主役の大伴黒主に扮したという︒同僚のアー ノルド書記官も出演し︑米国の名士の間で上映したところ︑大変な 評判を呼んだとのことである ( 61) ︒   こうした現役の役者陣との交流でも深められた日本演劇研究の成 果は︑東京帝国大学国文学科の機関誌である﹃国語と国文学﹄に掲 載 さ れ た︒ ﹃ 国 語 と 国 文 学 ﹄ は︑ 文 学 研 究 室 主 任 教 授 で あ っ た 藤 村 の主導で一九二四年五月に創刊されたもので︑今日においても国文 学界を代表する研究誌として知られている︒同誌の発刊の趣旨は︑ 第 一 次 大 戦 後 の 国 文 学 の 隆 盛 と と も に︑ ﹁ 天 下 同 感 の 学 者 教 育 者 に 本 誌 を 開 放 し て︑ 相 共 に 斯 学 の 研 究︑ 教 授 の 進 歩 に 尽 く す 所 あ ら ん﹂との方針のもとに︑若い研究者たちに対して︑その研究成果を 発表する場を提供しようとするものであった ( 62) ︒   ア ー ネ ル の 日 本 演 劇 研 究 の 成 果 で あ る︑ B rief N ote on Comparison B etw een the N ō and the G reek D rama ( 邦題は︑ ﹁能と希臘劇の比較断片﹂ ︒ 写真 2 大伴黒主に扮したアーネ ル。『東京朝日新聞』1936 年 10 月 2 日

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以 下︑ 邦 題 で 記 す ) が 掲 載 さ れ た の は︑ ﹃ 国 語 と 国 文 学 ﹄ 一 九 二 四 年 七月号︑すなわち第三号である ( 63) ︒   ﹁能と希臘劇の比較断片﹂は︑      一︑能狂言と希臘悲劇との比較    二︑能狂言と希臘喜劇との比較    三︑能狂言とエリザベス時代の間劇 の 全 三 部 か ら な る も の で︑ B rief N ote と さ れ て い る こ と か ら わ か る ように︑未だ覚書に等しいものである︒   能とギリシャ劇を比較するのは︑英語圏の能に関する言説として︑ 当 時︑ 一 般 的 に 見 ら れ た も の で は あ る が ( 64) ︑﹁ 能 と 希 臘 劇 の 比 較 断 片﹂に特徴的であるのは︑両者の差異よりも﹁是等の類似点は変遷 する環境の中にあつて︑普通の法則︹ 英文は common laws ︺が実行さ れることに寄与されなければならない﹂ ( 65) として︑両者の共通性を見 出すことを意図している点である︒   例 え ば︑ そ の よ う な 共 通 性 を 象 徴 す る も の が︑ ﹁ 面 ﹂ で あ る︒ 日 本の能もギリシャ悲劇も﹁面﹂を使用するが︑それはどちらも﹁超 自然的な役﹂を表すためである︒能もギリシャ悲劇も﹁半宗教的で 且 教 訓 的 ﹂ で あ り︑ ﹁ 神 々 や 英 雄 た ち の 性 格 や 行 為 ﹂ を 表 す こ と を 主題としている︒両者とも︑その﹁面﹂は原始的ではあるが︑とも に 奏 で ら れ る 音 楽 や 役 者 の 荘 重 な 動 作 と あ い ま っ て︑ ﹁ 夢 幻 的 神 秘 的 ﹂ な 雰 囲 気 を 醸 し 出 し︑ ﹁ 笑 と 同 じ や う に 涙 が 好 き で あ っ た 当 時 の純粋な聴衆﹂に訴えたのである︒   一 方︑ 狂 言 は ギ リ シ ャ 喜 劇︑ と り わ け︑ サ テ ュ ロ ス 劇( 原 文 で は ﹁ サ タ ー 歌 ﹂ ) と 際 立 っ た 類 似 性 が あ る︒ 狂 言 が し ば し ば 謡 曲 中 の 人 物を茶化すように︑ギリシャ喜劇はしばしば悲劇の題材を﹁もぢつ た も の ﹂ で あ る︒ 両 者 と も﹁ 可 笑 美( ユ モ ラ ス )﹂ ︑﹁ あ て つ け ﹂ に よって︑当時の社会状態を風刺しつつ︑人間の愚かさや弱点を指し 示す︒こうして︑狂言もギリシャ喜劇も﹁劇に於ける非現実的な人 物及生活から︑現実的なものへの推移を標示﹂するものとして機能 するのである︒   さて︑このような能・狂言に関する分析を︑先述の﹁西洋のダン ス﹂と﹁日本の踊り﹂の差異の分析と重ね合わせるならば︑彼の問 題 意 識 が 次 の よ う に 抽 出 で き る︒ す な わ ち︑ 今 日 に お い て は︑ ﹁ 西 洋のダンス﹂と﹁日本の踊り﹂は様々な点で差異をなす︒しかし︑ ﹁ 西 洋 の ダ ン ス ﹂ は そ の 起 源 に 遡 る な ら ば︑ そ こ に は﹁ 日 本 の 踊 り﹂と共通の形態・要素を見出すことができる︒それが西洋文明の 源であるギリシャの劇である︒西洋人であるアーネルが﹁日本の踊 り﹂に心惹かれる所以は︑その意味からすれば︑彼が西洋人である ということではなく︑人類に共通する﹁踊り﹂の根源が︑日本の伝 統演劇により色濃く遺されているからではないか︑という問いに繫

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がるのである︒このような観点は︑日本の伝統演劇を世界的な視野 の も と に 開 く も の で あ る と 同 時 に︑ ﹁ 踊 り ﹂ と い う 人 類 に 共 通 す る 文化を探究する視座を構築しようとする気宇壮大な試みであったと いえるだろう︒   以上︑ここでは彼の東京帝国大学の日々を中心にみてきた︒この ようにアーネルは一見極めて社交的であり︑華やかな演劇界との交 流や外交官としての仕事も含めて︑その生活も順風満帆であるかの ように見える︒しかし︑恩師の藤村はそれとは違う彼の相貌を伝え ている︒アーネルは親しい藤村だけには︑自分はこうした生活は好 まない︑大使館の仕事も望むものではない︑としばしば吐露してい たという︒藤村は﹁アーネル君の性格は地味な方であつたようであ る﹂と観察している ( 66) ︒彼の日本の学友たちとの学究生活や演劇界を 中心した交流が充実したものであったことは疑い得ない︒しかし︑ 彼はたった一人のアメリカ人学生であったことに注意する必要があ る︒   また︑同じ藤村によれば︑アーネルの願いは日本で学位を得た後︑ アメリカに帰国し︑し︑母校のワシントン大学で教鞭を取ることで あったという︒この点に関して︑学士号に関してはエリセーエフと い う 先 達 が い た が︑ 日 本 人 で さ え 極 め て 難 し か っ た 博 士 号 の 取 得 ( 後 述 す る よ う に 一 九 二 三 年 に ア ー ネ ル は 大 学 院 に 入 学 し て い る ) に つ い て は︑ 前 代 未 聞 の こ と で あ っ た︒ ア ー ネ ル が 死 去 し た 際 に は︑ ﹁排日移民法﹂とともに︑ ﹁過度の勉強﹂も一因ではないかと噂され ていたが ( 67) ︑次節で見るように︑彼が異常をきたしながらも︑博士号 の取得を藤村に懇願していることを考慮すると︑無視できない側面 である︒一見︑華やかに見える生活の裏で︑様々なかたちの精神的 な抑圧が積み重なっていったのであろう︒ 四   ﹁排日移民法﹂の成立とアーネルの苦悩   ア ー ネ ル は も と も と﹁ 神 経 衰 弱 ﹂ の 傾 向 が あ っ た と い う ( 68) ︒ 一九一三年に東京帝国大学に入学していながら︑卒業まで十年もの 月日を費やしたのは︑大使館での激務はもちろんのこと︑一度︑長 期の入院生活に入ったためであった ( 69) ︒それゆえ︑一九一七年八月に は︑米国大使館も退職せざるをえなくなり︑退職後は︑一時的に神 戸の商館に就職し︑その後︑彼自身の名を冠した﹁ 紐 ニュー 育 ヨーク アーネル合 同会社﹂を設立している ( 70) ︒   長期の入院生活を経て︑東京帝国大学に復学したのは︑一九二一 年のことであった︒復学から二年後︑一九二三年三月に︑アーネル は先述の日本演劇の研究で東京帝国大学を卒業し︑翌月︑大学院に 入学した ( 71) ︒学部を卒業する約半年前の一九二二年九月には東京商科 大 学 商 学 専 門 部 及 び 予 科 の 講 師 に 就 任 し︑ 英 語( 英 会 話 ) を 担 当 す ることとなった ( 72) ︒東京商科大学との関係は︑一九二一年に同校の英

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語奨励会が主催する演劇会において︑東京外国語学校のメドレー博 士とともに舞台監督にむかえられたことから始まった ( 73) ︒講師就任後 は︑ 学 生 た ち か ら 温 和 な 人 格 者 と し て 親 し ま れ︑ ﹁ お や じ ﹂ と い う ニックネームまでつけられるほどであった ( 74) ︒東京商科大学の学生新 聞である﹃一橋新聞﹄には︑当時のアーネルの様子が報じられてい るが︑学生たちに近松の研究を披露し︑その名調子に学生たちは目 を見張ったという ( 75) ︒このように︑大使館辞職後のアーネルは︑幾つ かの職を経て︑漸く教壇に立ちながら博士号の取得を目指すという 学究生活に入ることができたのである︒   しかし︑こうした学究生活の日々に︑まもなく︑突然の破綻が訪 れることとなる︒それは一九二四年七月のこと︑すなわち︑先述の ﹁ 能 と 希 臘 劇 と の 比 較 断 片 ﹂ が 掲 載 さ れ た﹃ 国 語 と 国 文 学 ﹄ 第 三 号 が刊行された頃であると同時に︑アメリカにおいて﹁排日移民法﹂ が施行された時であった︒   第一次世界大戦時︑日本とアメリカは共に同盟国としてドイツと 戦ったこともあり︑日米友好の雰囲気が醸成されるようになった︒ 一 九 一 七 年 十 一 月 二 日 に は︑ ﹁ 石 井・ ラ ン シ ン グ 協 定 ﹂ が な さ れ︑ ドイツという共通の敵の前に︑両国で共同の宣言が行われたのであ る︒しかし︑終戦後に行われたパリ講和会議において︑日本が終始︑ 自己利益を追求する方針をとったため︑そのような親日ムードは一 変していった︒それとともに︑カリフォルニア州では︑一九〇六年 に発生した﹁サンフランシスコ学童隔離事件﹂以後︑ 燻 くすぶ り続けた排 日運動の熱が再燃することになる ( 76) ︒   一九一九年一月二十九日には︑日米紳士協定の廃棄を綱領とする ﹁ カ リ フ ォ ル ニ ア 州 排 日 協 会 ﹂ が 結 成 さ れ︑ 翌 一 九 二 〇 年 十 二 月 に は︑日本人移民の土地の制限を目的とした﹁第二次排日土地法﹂が カリフォルニア州法として成立した︒一九二一年には︑第一次大戦 後のヨーロッパからの大量の移民の制限を目的とした﹁新移民法﹂ が連邦議会で制定され︑同法が失効をむかえる一九二四年六月を目 標に︑より厳格な修正移民法案が次々に提出されるようになった︒ 下院では︑排日を意図としたアルバート・ジョンソン議員の案が提 出され︑一九二四年四月十一日︑ジョンソン案に基づいた移民法が 可決された︒一方︑上院でも︑同月十六日︑デイヴィッド・リード 議員による修正案が可決され︑上下の両案をすり合せるための両院 議会が開催されることとなり︑五月十五日︑両院の投票によって可 決された︒五月二十六日︑クーリッジ大統領が同法案に署名し︑七 月 一 日 に 施 行 さ れ る こ と が 決 定 さ れ た ( 77) ︒ 同 法 案 は︑ ﹁ 一 九 二 四 年 移 民 法( Immigration A ct of 1924 )﹂ が 正 式 な 名 称 で あ る が︑ そ れ が﹁ 排 日 移 民 法 ﹂ と 呼 ば れ る の は︑ ﹁ 同 法 案︹ ジ ョ ン ソ ン 案 ︺ に は︑ 帰 化 資格のない移民はアメリカから排斥されるとし︑黄色人種は帰化資 格のない移民とされていた︒当時のアメリカの移民法において︑ま だ排斥されていない黄色人種は日本人だけであった﹂ことによる ( 78) ︒

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  日 本 人 を 標 的 と し た﹁ 排 日 移 民 法 ﹂ の 成 立 に 対 し て︑ ﹁ 日 本 の 多 くの国民はそれをアメリカ議会による恣意的な侮蔑であると受けと め ﹂ た ( 79) ︒ 日 本 の 新 聞 社 は 共 同 で 抗 議 を 行 い︑ ﹃ 国 民 新 聞 ﹄ の 徳 富 蘇 峰は︑ ﹁排日移民法﹂の成立によって︑ ﹁日本国民は未曾有の侮辱を 被った﹂と憤慨し︑同法が施行される七月一日を﹁国辱の日﹂と命 名すべきであると主張した︒親米派として知られる新渡戸稲造さえ も︑ ﹁ 実 に け し か ら ん︑ ア メ リ カ の た め に 惜 し む︒ 僕 は こ の 法 律 が 撤回されないかぎり︑断じてアメリカの土は踏まない﹂と誓ったと いう︒これらの言説を詳細に検証した蓑原は︑この当時の日本の世 論は﹁感情的になる傾向が顕著だった﹂と総括している ( 80) ︒   このように﹁排日移民法﹂をめぐって日本の世論が湧き立つ中︑ アーネルは一人煩悶し︑眠れない日々を過ごしていた︒当時のアー ネルの様子を︑妻玉子は次のように回想している︒     日米問題が起つた時分なども︑男ですからさう愚痴は言ひま せ ん が︑ 側 の も の が ハ ラ ハ ラ す る ほ ど 懊 悩 し て を り ま し た︒ ( 中 略 ) 七 月 頃 に な つ て︑ 一 寸 変 だ な と 思 ふ や う に な り ま し た︒ けれどもさうしたうわ言みたいなやうなものは︑大抵日米問題 が関係したことで︑陛下だとか米国議会がどうしたとか︑一人 で興奮をしてをるのでした ( 81) ︒   アーネルの異変に気づいていたのは︑家族の玉子だけではない︒ アーネルの師であった藤村はその鋭敏な観察眼をもって︑アーネル が異常をきたす様子を伝えている ( 81) ︒   七月六日のこと︑藤村の家にアーネルが長男を伴って来訪した︒ 出 迎 え た 藤 村 に 対 し て︑ 開 口 一 番︑ ﹁ 先 生 を 大 金 持 ち に し て あ げ ま す ﹂ と し き り に ま く し 立 て た と い う︒ 藤 村 ら 帝 大 教 授 を﹁ 大 金 持 ち﹂にするというのはどういうことか︒アーネルは日本政府が大学 の教授陣を薄給にしておくのは文化的観点から大きな間違いである と し て︑ 彼 が 新 た に 設 立 す る レ ス ト ラ ン の 株 主 に 帝 大 の 教 授 陣 が なってくれさえすれば︑必ず彼らを﹁大金持ち﹂にしてみせると︑ 奇 想 天 外 な レ ス ト ラ ン 構 想 を 語 り 始 め た︒ そ の レ ス ト ラ ン は︑ ﹁ 極 楽 ﹂ と﹁ 地 獄 ﹂ の 二 つ に 分 か れ て お り︑ ﹁ 極 楽 ﹂ で は ア ー ネ ル が 考 案したという菜食を中心とした人間にとって理想的な料理を︑天女 の格好をした給仕と静かな音楽の中で味わう︒一方︑ ﹁地獄﹂では︑ 壁から炎が噴出する真っ赤な壁に囲まれ︑耳を 劈 つんざ くような音楽が流 れるなか︑槍を持ち︑鬼の格好をした給仕に監視されながら︑肉と 酒を食するのだ︑という︒   藤村はこのようなアーネルの夢想的なレストランの話が︑戯言な のかそれとも真面目な話なのかと戸惑いながらも︑藤村が酒を 嗜 たしな む こ と は ア ー ネ ル も 承 知 し て い る は ず で あ る か ら︑ ﹁ わ た し は 地 獄 組 ですね﹂と冗談めかして︑茶々を入れてみる︒しかし︑アーネルか

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ら は 何 の 反 応 も な く︑ ﹁ 東 京 中︑ 日 本 中 か ら お 客 が 集 ま り ま す︒ 会 社 は 大 儲 か り で す︒ ﹂ と︑ 滔 とう 々 とう と︑ か つ 真 面 目 に 語 り 始 め た︒ 藤 村 はアーネルの様子が明らかにおかしいことに気づく︒   台所では︑動物の声色をまねて︑藤村と藤村夫人を驚かせ︑別室 ではたまたま居合わせた客人と子供たちがアーネルの様子がおかし いと首を傾げている︒結局︑深夜までアーネルは一人で騒ぎ続けた︒ 藤村と藤村夫人はもう一人の来客者とともに︑彼の昂揚した様子に 辟 易 し な が ら も︑ ﹁ 例 の 神 経 衰 弱 が 高 じ た の ぢ や な い か ね ﹂ と 頻 り に心配し合っていたという︒   約一週間後の十二日夜半︑今度は玉子と二人の子供を連れて再訪 した︒席につくやいなや︑柳行李から石鹸や売薬︑化粧品などを取 り出して︑ ﹁これもあげます﹂ ﹁これもあげます﹂と︑矢継ぎ早に贈 り物をしてくる︒藤村は玉子に﹁少し亢奮してゐらつしやるやうで すね﹂と耳打ちし︑アーネルを刺激しないよう︑彼の申し出を一々 受 け た︒ 贈 り 物 が 終 わ る と︑ ﹁ 先 生 と 一 緒 に 食 事 を し よ う と 思 つ て﹂と︑またしても柳行李から次々と食料を取り出し︑自分で発明 したという﹁フスマの麺包﹂や乾葡萄と落下生を主食とした独特の 料理を振る舞った︒   食事が終わると︑アーネルは藤村にしばらくアメリカに帰国する と打ち明けた︒アーネル曰く︑帰国の目的は︑日米問題にあるとい う︒すなわち︑排日移民法の制定は︑全くアメリカ政府の﹁過った 処置﹂であるから︑帰国して︑諸方に演説をしてまわり︑国論を喚 起しよう思う︑とのことであった︒藤村は彼の日本への好意と正義 感に心をうたれるとともに︑最近の興奮した様子は︑日米問題に起 因すると思い至り︑心が痛んだ︒そのうち︑アーネルは藤村に博士 号の取得について懇請し始める︒   それに就いて先生に御相談があります︒私は日米両国のため に帰国するのですが︑私が単に日本の大学を卒業したといふだ けでは十分の信用が得られません︒広く演説して回るには︑日 本の博士の学位が欲しいと思ひます︒私は大学院にゐてまだ研 究は纏まりませんが︑どうか︑この事を先生から大学総長に話 して特別に学位を貰うて下さい︒   藤村はこの申し出に大いに困惑し︑博士号の取得は厳密に学位令 に基づくゆえ︑極めて困難であることを説明したが︑納得しない︒ 困り果てた藤村はアーネルをこれ以上興奮させてはいけないと︑そ の場しのぎに︑明日︑総長に相談すると約束してしまった︒すると︑ ﹁ き つ と 出 来 ま す︒ 斯 う い ふ 特 別 な 場 合 で す か ら ﹂ と 非 常 に 喜 ん だ 様子であったという︒   そうこうするうち︑アーネルは藤村にもアメリカへの同行を求め てきた︒偶然︑高木市之助が来訪したため︑藤村は高木に話をふる

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も︑高木はアメリカへは秋の船で行く予定だからと譲らない︒アー ネルは非常に不満な様子であったが︑突然︑親友の沼澤龍雄のこと を 思 い 出 し︑ ﹁ そ れ で は︑ 沼 澤 さ ん に 一 緒 に 行 つ て 貰 は う︒ さ う 〳〵 沼澤さん︑沼澤さん︑沼澤さんなら大丈夫だ﹂と一人で納得し て︑例の声色ではしゃぎだした︒この日︑結局︑アーネルと彼の家 族が帰宅したのは午前一時であった︒   翌日︑藤村は︑彼の病状を 慮 おもんぱか ったとはいえ︑その場しのぎの口約 束をしてしまったことに良心の呵責を覚えながらも︑なんとかアー ネルを宥めようと︑急いで手紙を書いた︒君の好意は日本人として 実に感謝に堪えない︑ただ︑総長にも相談したが︑日本の学位令は 非常に厳格で︑君の希望に添うことは難しい︒しかしながら︑君は 遠からず博士号を得られるはずだから︑アメリカではそのように伝 え れ ば い い の で は な い か︑ と︒ ﹁ 総 長 に も 相 談 し た ﹂ と い う の は 噓 であった︒それはもとより無理な話であったのだから︒藤村は玉子 に も 彼 の 様 子 を 心 配 す る 手 紙 を 書 き︑ 同 僚 の 宗 教 学 者 姉 崎 正 治( 嘲 風 )らと甲府への出張に向かった︒   十四日︑甲府の出張から帰宅すると︑昨夜もアーネル夫妻が訪れ︑ 藤村夫人を相手に︑日本の学位の窮屈さをしきりに非難していたと いう︒玉子はアーネルの様子が日増しに悪くなっていき︑興奮の度 合いが尋常ではないことを藤村夫人に伝えている︒   翌十五日︑今度はアーネルの親友である沼澤が一人で藤村のもと へ訪れ︑アーネルの症状が日増しに悪化していくため︑友人たちで 協 議 を し て︑ 築 地 の セ ン ト ル カ 病 院( 聖 路 加 病 院 ) に 入 院 さ せ た と いう︒しかし︑セントルカ病院では治療できる設備がないため︑青 山脳病院に転院させたところ︑すぐに面会謝絶になってしまったと のことであった︒数日して︑アーネルの帰国が決まったとの報が藤 村のもとに届いた︒急遽︑米国大使館の便宜で船室を与えられるこ とが決まり︑七月二十三日︑帰国の途につくことになったのである︒ 七月二十三日︑高木と沼澤はアーネルを見送るため︑船室に向かっ たが︑そこにはやつれ果てた姿のアーネルが一人待っていた︒面談 の際︑高木は﹁琵琶を聞いたあの夜とは全く違った涙﹂を流さずに いられなかったという ( 83) ︒この時︑アーネルは誰が見ても回復の見込 みがないほど病状が悪化しており︑もはや絶望的な状態だったので ある︒見送りに行くことができなかった藤村は︑アーネルを乗せた 船が︑海上を穏やかに進行していることを願いながら︑帰国後は故 郷の母のもとで心静かに療養し︑奇跡的な回復を遂げることを祈る しかなかった︒ 五   アーネルの死と遺されたものたち   ア ー ネ ル の 帰 国 は︑ ﹁ 排 日 を 憂 い て   米 人 教 授 発 狂 ﹂ と 題 さ れ て ﹃ 東 京 朝 日 新 聞 ﹄( 一 九 二 四 年 九 月 二 十 七 日 ) に 大 々 的 に 報 道 さ れ た ( 84) ︒

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同紙の報道を受けて︑アーネルが教鞭をとっていた東京商科大学で は︑彼に教えをうけた商学専門部の学生たちが義捐金の募集を呼び かけている︒ われらの旧師アーネル先生は発狂されました︑そして只今先生 は︑ワシントンの州立脳病施療院で淋しく暮らして居られます︒ 先生は蓄財がないために愛する玉子夫人や二人の愛児の看護を 受くることも出来ず︑知らぬ中に日本を去り︑知らぬ中に施療 院に影ばかりの生活を初められたのです︒何と云ふ悲しいこと でせう︒吾等は先生が日本を愛されたことを知つて居りました︑ 併し先生が今度の日米問題に就いて煩悶の末発狂せらるゝまで 日本を愛して下さつたことは知りませんでした 心なくして先生に単に米国人なるが故に︑白眼を向けた人こそ 慚謝すべきでありませう 先生を思う諸兄よ︒応分の寄付をしてください︒それは物質的 に望み少き先生に捧げられるのです︒ ( 略 ) 商学専門部有志 ( 85)   彼ら東京商科大学の学生たちの善意は疑うことはできないが︑こ の 呼 び か け に 記 さ れ て い る よ う に︑ ﹁ 排 日 移 民 法 ﹂ 成 立 前 後 の 反 米 感情の高まりの中で︑勤務校である東京商科大学においても︑アメ リカ人である彼を白眼視するような傾向があったのである︒商学を 中心としていることから英語教育が盛んであり︑リベラルな校風を 誇っていた同校でもこのような事態があったとするならば︑他は推 して知るべしだろう︒   ﹁ 排 日 移 民 法 ﹂ の 成 立 に︑ 最 も 苦 悩 し て い た 一 人 が ア ー ネ ル で あったことは疑い得ない︒本稿で述べたように︑アーネルの日本へ の関心は︑移住先のアメリカ︑タコマでの日本人移民との交流から 始まった︒そして︑彼らとの交流はアーネルのその後の生を方向づ けたのである︒同法が標的とする日本人移民たちは︑彼の生涯を方 向づけた人々であり︑少年時代からの彼の友人たちであった︒   アーネルは大使館に勤務していたころにも︑排日問題に取り組ん でいる︒例えば︑一九一三年にカリフォルニア州議会で﹁カリフォ ル ニ ア 州 外 国 人 土 地 法 ﹂ が 可 決 さ れ た 際 に は︑ ﹁ 排 日 問 題 の 醸 生 す る畢竟日米両国人の意思の疎通を欠くあり﹂との見地から︑大日本 平 和 協 会 と 日 米 平 和 協 会 の 共 同 事 業 の 一 環 と し て︑ 阪 谷 芳 郎 ( 一 八 六 三 ︱ 一 九 四 一︒ 大 蔵 大 臣︑ 専 修 大 学 学 長 等 を 歴 任 ) ら と 外 国 人 向けの日本語学校の設立に参画し︑日米間の融和に努めている ( 86) ︒神 田錦町に設立された同校では︑米国人を中心として︑老若男女百名 ほどの留学生が熱心に日本語を学んでいたという ( 87) ︒   一九一七年四月に発足した日米協会の発起人にもアーネルは名を 連ねている ( 88) ︒日米協会が設立された背景には︑カリフォルニアにお

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