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畿内荘園の成立過程

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Academic year: 2021

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(1)Title. 畿内荘園の成立過程. Author(s). 阿部, 猛. Citation. 北海道學藝大學紀要. 第一部, 9(2): 77-83. Issue Date. 1958-12. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/3688. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 第9巻. 第2号. 北海道学芸大学紀要 (第一部). 畿. 内. 荘. 園. の. 立. 成. 昭和33年12月. 過. 程. --東大寺領大和国石名荘の場合一-- 阿. 部. 猛. 北海道学芸大学釧路分校史学研究室. Takeshi ABE : Process of the Format ion of Ma1 lor in Kinai. l .. は. し. が. き. 荘園の成立については種々の契機がある, 従って, 史上荘園と してその存在を知ることのできる ものは, その形態においても 幾種類かに分類することができる, 荘園の形態は, そもそもその成立 過程に規定されるのであるから, 考察に当って従来のような 「畿内型」 とか 「辺境型」 とかいう分 類では不充分である, 渡辺澄夫氏の行った優れた研究1 )は, 単に地理的な区分による先進・辺境の )もあるように, でき上った 基準を越えた, 正しい型の設定の問題を提起した, しかし, 既に批判2 荘園の実態から見るだけでなく, 成立以前の複雑な過程 からも充分に説明されねばならない 私も , また, かつて渡辺氏に対 する要望として, 律令制解体の過程からの連結せる一貫的考察の必要性を ) 強 調 して お いた3 , し か し, こ の こ と は, い う は 易く 行 賀状極 め て 難 い,.従 来比 較 的 試 み られ な か. った理由の一つは, やはり史料的困難さにあったと思う, 断片的な史料を重ねて解決に至るには未 だ長い期間を要するが, 一つずつでもデータを出 して行く必要はあろう. )を発表しておいたが, その際 行論の必 私は先に主として 「名」 の性格を考える立場から小論4 , 要上から, 東大寺領白米免荘園およびデ H免荘園について, その成立の過程をもできるだけ考 えてお r いた, 白米免および油免は, いわゆる雑役免の一つであるが, いうまでもなくこれは畿内における )の分類に従えば 「正税物の荘 園化」 の一例 荘園成立の一つの契機をなすものである, 竹内理三氏5 である, そこで今回は, 同様の例として, いわゆる香菜免について少し考えてみたい, 史料的制約 ) が多く, 不充分のそしりを免れないが, 東大寺領右名荘の場合を述べることにする6 . , 註1 ) 渡辺澄夫 『畿内庄園の基礎構造』 2) 水上一久 「封建前期」 史学雑誌 66-5 56年の歴史学界所収 , 19 1 3) 史学雑誌66-3のれ 偏平 4) 拙稿 「平安末期における名の性格」 歴史学研究195号, 同 「平安末期における在地の諸関係」 史涛 リ 1 62・63合併号 5) 竹内理三 『寺領荘園の研究』89頁 6) 番莱発荘園については, 竹内理三前掲書103頁以下, および渡辺澄夫前掲書257頁以下においてふれ て い る,. 2 . 香 菓 発の起源 前述の如く, 番菜免は白米免・油免などと共に東大寺大仏供免の一つであった, 元来東大寺大仏 供は免田の形で給与されたのではなく, 米叉はその他の物品で支給されるものであった, それは大 - 77 -.

(3) . 阿. 部. 猛. 和国街が国内から徴収した正税物および交易物の一部を, 国街の手を通じて東大寺に支給する形式 ) をとっていた1 . 従って東大寺は, その正税を提出する土地叉は農民とは何らの関係も持たなかっ たのである, ところがこの形式はやがて崩れて, ブぐ仏供を提出する土地が固定し、 それが東大寺領 某荘 と 呼 ばれ るよ う に な った,.こ の 過 程 は‐一体 どの よ う な も の で あ っ た ろ ぅ か,. 4 98 ) 頃と推定さ 0世紀末である, 汚 く観2年 ( 番菜免荘石名荘が史料上にその名前をみせるのは1 3 ) 2 に その山辺郡の項 広大和国の雑役免荘を列挙してあるが, れる蕪照僧都分付帳 葛こむ , 「石名庄 園町一段二百歩」 とみえるのがその最初のようである, 雑役免とは, 雑役を国術から免除され, 官 物のみ納める土地を指している, この場合, 雑役は東大寺が収納す るのである, かかる雑役免がい 1 01 0 )8 かにして成立してきたかについて考える手 懸りとなる史料は幾つか存在する. 寛弘7年 ( 4 ) る ≦ は, 農民の言葉として次のように述べてい , 月22日付東大寺椴 御寺建立以降, 至千大仏供, 代々聖皇依本願之趣, 以供御稲 被割宛者, 価当国百姓不運御稲, 己 得息肩之便, 御菜者昔国内道心之輩, 随カ所堪吾以備進, 其子孫為件庄商司供奉年久経, 部相分 錐有其数公民不幾, 往代以後, 依免臨時雑役, 雄無料物所勤行也 右の史料について藤間生大氏は, かつての 「寺奴」 の系譜を引くものが, 東大寺の経営方針 の転 換 ) に伴って荘園内の一定の分割地に土着させられたものであろう, と述べられた5 , しかし, この解 釈 は全く 妥 当 しな い よ う に 思 う, 先 ず こ の こ と に つ い て 考 え て みよ う,. 盛照僧若 先にふれた? 8分付帳には, 東大寺の大和国雑役免荘が列記 されているが, 例えば添上郡白 地荘について次のように記している. 白地庄廿二町百八十歩 北米富 ▲歩 不輸租田七町九段二百冊 勧学院田一町七段 大興寺三町三段二百冊歩 左京職二段二百冊歩. 大夫殿位田二町六段小. 公田畠十四町二百四十歩 4町余は, 租は国術に納入し, 雑役のみ東大寺が収納するものである, 勧学 右のうち公田畠とある1 院田以下の不輪租田とは一体いかなるも のであろうか, それらは, その名称が示すように本来勧学 院や大興寺・左京職・大夫殿 (位田と して) に与えられたものである, このうち左京職田を例にと っ て み る,. 元来律令国家の中央官庁の財政は調・庸および一部の正税を財源としていたが, 公麻 田 も あ っ )により, 大学寮・雅楽寮 7)8 月 23 日の勅6 75 た. 諸寮司に宛てられた公麻田は、 天平宝字元年 ( 1 0 3 0 ・ 町を与えたのを初めとしている, その後諸司には要劇料とt ・陰陽寮・内薬司・典薬寮に )によると,- 1 881 5日付太政官符7 )11月2 て官田が割き宛てられたが, 元慶5年 ( 1域・大和・河内・ - ー 摂津 に計1235町 2 段 339 歩 が 置 か れ た, こ の と き 左 京 職 に は河 内 国 に26町 8 段 324 歩 が 与 え ら れ て. 写 」 という状況 { いる, この措置は 「諸国願称正税不足, 屡申不動用尽, 徒為行季之煩, 毎有闘乏之り の下でとられたのである, 要鯛囲む業富田を割き宛てたのであるから, その経営の方法は富田のそれ と 同 じで あろ う,. 官田は元来大化前代の屯倉・田荘的構造を継承した国家の直営地であり (宮内省が管理する) , 離そ 岳を免除され 苗子営種料々ま国家が支給し, 労働力は班田農民 の筒役労働を宛てた, 従って農民は藷 た, そのような直接経営は9世 紀中頃に入ると行 き詰りを生じ, 経営形態の変化を余儀なくされ 79 8 ) 政府は畿内諸国に大規模な官田の増設を行ったが, それと同時に直営を一部 た, 元慶3年 ( 8 ) に詳細に示されている. 即ち, 「当今尽 ) 廃した . その経営方式は元慶5年2月 8日付太政官符9 欲営佃, 慮吏民之難堪, 全為地子, 恐公家之少利」 というところから, 「折中商量, 令佃半分」 「遺 - 78 -.

(4) . 紙 内 荘 園 の 成 立 過 程. 田者或地子或価直, 任民所欲随宜弁行」 すのである, 即ち, 官田の半ばは直営として残し, 半ばは 地子制叉は賃租制をとることに 定めた, 然して, 地子制の場合の地子は 「式女」 即ち弘仁主税式公 田条の田品制による対価支払法をとり, 賃租制の場合の価直の数は 「国例」 即ち令制公田条による の, 一方直営地についても改革を加え, ①営料は田品に 佑価法によって支払う べきを規定した1 郷 土・ 0束, 中田3 00束とする, ③営 0束とし, 春時正税を宛て用 いる, ②穫稲量は上田32 拘らず町別12 田に は 「力 田 之 輩」 を え らん で正 長 と し監 督 させ る, と した, こ の や り 方 は, ま さに か の 弘 仁14年. 1 )と同じである, 82 3 ) 大宰管内に施行された公営田1 ( 諸寮司は, 宛てられた土地を上述の如き方式で官街の私領の如く支配 した, いわゆる諸寮司領が 成立するのである, ところで元に戻って考うるに, 東大寺領荘園の中にそのような諸寮司領が含ま れているのはいかなるわけであろうか, 東大寺側の証言によれば, 2 ) 件雑役免田者, 元是大仏御杏菜料, 毎日宛一町所令奉免也1 0町分の雑役 が宛てられたのである, 諸寮司領につ とし, 毎日1町分の雑役, 即ち 1年を通じて36 3 」によると町別米 いていえば, それは雑役以外のものを収納したのである, それは, 12世紀の史料1 1石・絹1疋となっている. これを農民側からみれば, 1人の人間が雑役は東大寺へ, 租は諸寮司 叉は国街に納入するという二重支配の形になるのである, 東大寺への雑役勤仕が国家の命によるに も拘らず, 農民の主観として, また東大寺の主観としては 「国内道心之輩, 随カ所堪吾以備進」 と い う表 現 と な っ て 出 て い る の で あ る,. 先に, 諸寮司領が元来宮田の系統を引くものであることを明かにしたが, 多分歴史的順序として は次のようになるであろう. 元来その土地は口分 田であったろう, 従ってその口分田占有者は令の 規定に従って祖・調・庸・雑筏を負担した, しかるに彼の夫役負担分は香莱料として東大寺に施入 された, 即ち, これを国筒の観点からすれば彼の雑役を免除した, 即ち彼は国街と東大寺の双方に 負担を負った, その後元慶5年に至って, 彼の口分田は宮田となり諸寮司に宛てられ, 地子を負担 す る よ うに な っ た, こ の よ う な 経 過 を た ど って き た の で あろ う と推 測 す る, 当 面 の 石 名荘 に つ い て. は, 湛照分付帳に地積のみが記されていて構成内容が示されていないが, 同様に考えて大過ないも 4 ) の と 思う1 , 「寺領荘園の研究』9 9頁 註1 ) 竹内園三 じ 2) 東大寺要緑巻6封戸水田草第8所収 3) 石名荘の位置は, 大和国山辺郡11条4里, 12条 4・5 里,13条4里にわたっていた. 現在の地図上に あてると, 中津道と小中津道の間で, 二階堂村九条および築紫,朝和村永原および長柄の辺りになる, 現在では石名という地名は残っていないようである, 4) 東大寺要録巻6封戸水田章第8所収 1278~9 頁 但し藤間氏はその後 「階級社会成立についての研究ノ ート」 (歴 5) 藤間生大 『日本庄園史J , 史学研究199号) では右の考えに反省を加えられ, 断定を留保された. 5 6) 類票三代格巻1 , および続日本紀巻20 7) 類票三代格巻15 2月4日付太政官符 5 8) 類票 三代格巻1 , 元慶3年1 9 ) 類票三代格巻15 ) を参照せよ. 10) この部分 の理解については, 宮城栄昌 -「賃租制と地子制」 (史学雑誌 66-7 . 「 公営田を通じて観たる初期荘園制の 2 政官奏 4 1 なお赤松俊秀 1 日付 年2月 太 弘仁 11) 類票三代格 巻15 , , 構造に就いて」 歴史学研究 7-5 1 2)13) 東南院文書 3-42 , 康和2年9月 2日付官宣旨案所引東大寺解 14) 最新の概説書である安田元久 『日本荘園史概 説』 は, 本項でとりあげたような東大寺領内に含まれた 左京職田の如きものについて, それを東大寺が 「売買譲渡」 叉は 「種々の方法」 で集積したものと理 61頁) 以来の伝統的なものであるが 49頁) 解している ( . かかる理解は今井林太郎 『日本荘園制論』( :書の影響力を考えると, 更めて注意を喚起しておく必要がある. 明かに誤りである, 安田氏の著. - 79 -.

(5) . 阿. 猛. 部. 3 . 東大寺領石名荘の成立 史料上にそ の名を示した最初から石名荘は 「荘」 と記されている. しかし考うるに, 先に述べた ように, 東大寺領石名荘とはいうものの, 東大寺がそこから収版するものは元来番莱料としてのな にがしかの雑役のみである, 令制における租に相当する部分は国街叉は諸寮司・他寺社等が収坂し ている, 東大寺の石名荘における支配権は頗る心許ないものであることは明かである, 東大寺は石 名荘の土地には何らの支配権も持っていない, 即ち雑役免は浮免だからである, 浮免とは 「予め其 反別のみを定め, 下地に至ては年々特に指定することに依て定むるもの」 で 「下地が常に浮動す ) ’ る1 」 もので, 「随而難免者浮免也, 下地不定之間, 弐拾町下地, 不可限黒鞭村歎2 」 とか, 「難免 ) 弐段浮免也3 」 と い う の はそ れ を 示 して い る, 60 町とはいっても特定の土地 (田畠) を指定しているわけではないし, 雑役を勤仕する 雑役免3 農民は東大寺以外の諸寮司・寺社等にも奉仕するのであるから, とかく紛争の生ずるのは当然だっ 101 0) 香菜免荘園に防河夫役並臨時雑役が課せられたとき, 東 たといわねばならない, 寛弘7年 ( 4 ) 大寺はそれを止むべき旨国街に膜した , 浮免であることは東大寺にとって不利であり, また紛争 107 6 ) に至って坪 1 027 ) に浮免停止の宜旨を賜わり, 承保3年 ( の種でもあったから, 方寿4年 ( 5 ) 付に載せた, 即ち、 坪を指定したのである , 大和国内の浮免が坪を定められた時期は概ね11世紀 ) 1 046) を下ることは なく6 前半に求めてよいようである, 東大寺白米免では少くとも氷承元年 ( , の 油免では同じく永承頃にその時期を求められる , また興福寺の場合をみても, 延久荘園整理当時 ) (1069) 坪 が定 め ら れ て い た こ と は 明 か で あ る8 ,. しか し, 坪 を 定 め て も 東 大 寺 の 支 配 権 が 確 立 し. 1世紀の末廉和の頃, 国司が連年東大寺香菜免田に臨時雑役 (国役) を課し たことを意味しない, 1 たので, 在地の 「各領主等窓為遁国役, 募他所威勢, 不叶寺家之所 堪」 という有様であった, この ことにより東大寺は国司の行為の非を訴え, 雑役免除を再確認する官宜旨をうると共に, 町別米1 ) 石 ・絹 1 疋 は 確 か に 国 街 に 納 入 さ せ る こ とを 約 した9 ,. その後, 諸寮司領・寺社要劇田を除いた公田畠に対して東大寺がその支配を貫徹すべき契機が生 じた, それは, 東大寺がその経営のために古く から多くの封戸が与えられていたのが, その封戸か らの調・庸・雑物等の収納が充分に行われず未済の分が多かった, そこで東大寺と国司が相談して の, 即ぢ, 従来租は国術に 雑役は東大寺に 香菜免田の官物を封物代として弁補することになった1 , まですべての この時に至っ 貢納を東大寺に納入することにな て粗以下雑役 納めていたのであるが, ったのである, いわゆる公田畠からの全貢納を東大寺が収版することによって, 果して東大寺は公 田畠に対する完全な支配権を確立しえた であろうか. 否である, 先に東大寺白米免小東荘について 考察したようにロ) , この段階では東大寺は当該公田畠に対して検注権を持たなかった, それは, 弁 補された官物の収納の方式を見れば明瞭である, 弁補された官物は本来的には国街のち郡収納所の 手を経て東大寺に渡されるのであって, 東大寺が直接現地について徴収するのではない, 田数の検 りの 主 張 によ れ{ rま, 注 お よ び 祖 の 徴 収 は 国 術 の 手 に よ っ て 行 わ れ て い るの で あ る, と こ ろ が 東 大当事i. の 髪国検田使等, 移封生得田事, 迫年幾百分之一也1 1 3 致阿容, 損田甚多, 得田甚少 1 11 06 ) に杉 というわけで, 寺家にとって甚だ迷惑なことであるとし, 嘉承元年 ( ミ田権を寺家に与え るよう要求 した. これに対 して大和国司は国判を与えて, 寺家政所便に永代を限って検注・検田権 を与えるとした, これは郡司・書生らに通告されたが守られなかったとみえて, 翌嘉承2年にも東 4 ) 大寺はそれを問題にし, 国司の判をえて検田権と臨時雑役免除の特権を再確認せしめた1 , その後 史料は. 欠くが, 実際には東大寺の要 求は貫徹されなかった, 検田権および臨時雑役のことについ て争いはくり返され, 現実の問題としては国術の圧力の方が強大であったと思われる 永久4年 , - 80 -.

(6) . 畿 内 荘 園 の 成 立 過 程. 11 1 6 ( ) 東大寺は雑役兎荘について, 国司窓充課種々之切物, 因舷田堵等或負波他名, 或以威猛不勤 仕寺役1 ノ 5 ,. とい って い る が′ こ の 女 面 か ら は, 国 街 の 圧 力 と 同 時 に 田 端 ら の 積 極 的 な 動 き をも 看 取 す るこ と が. ・を把握しえなかったことは 国街の検田権を法的には与えられている できる, 東大寺が在地の田端 , 6 にも拘らず行使できなかった原因の一つであった1 ) 11 32 ) にも東大寺は検田権を与え , 天承2年 ( よと要求しているが, 東大寺の支配権確立は困難であった 東大寺が石名荘において支配権を確 立 , することが困難であった理由は他にも幾つかある, 第1に, 東大寺領石名荘は, その荘地の構 成からみて次の二つの部分から成っていた 即ち 欠 , , 1 2世紀中頃と推定される) 石名荘坪付案1 7 )によると 4町1段2 年( 0 0歩のうち2ぼ 0歩は け7段22 , 左京城田であり, 残りが公田畠であった, 公田畠については, 先にみた如く, 所当官物および雑役 ともに東大寺の収納するところであったが, 左京職 田に関しては東大寺と左京職の二重の支配が及 んでいたのであって, 東大寺がそこに支配権を貫徹させることは不可能であった 国司の免判にも , 拘らず国郡便が 「不法」 にも荘内に入る根拠も, 左京職田の所当徴収権が残存していたことにある の であろ う,. 第2に, 公田畠についても, 東大寺が所当・雑役共に収納するようになったのは封戸代を便補す る よ う に な っ て のち で あ り, しか も そ こ に は, い わ ゆ る 浮 免 か ら 出 発 した事 情 が あ る の ち に浮 免 ,. を停止して坪を定めたが, そのことは直ちに個々の耕地を指定するような定免に移行したことを意 味しない, 東大寺の白 米・香菜等の負担は名 単位になされているが, 封 戸代を便補 したときもまた 名を基準 としたであろう, 歌徳元年 ( 8 1 09 )に引用された近江国司解に, 7 ) の官宣旨1 当寺封戸椎物代内, 見下之弁不過二三百解 其残曾ドド符国内名, 所令弁補 , とあるように行われたのであろう. 従って最初は坪も指定せず名にかけ のち坪を 、定めたのであろ , 9 ) しか し, 「於 進官 坪 者 目 本依 先 方付2 0 う1 ) 」 と い われ る よ うに, 個 々 の 耕 地 ま で は 指 定 して い . ,. なかったのではあるまいか, 従って, それを把握すべき東大寺側にとっては極めて不利な条件が存 在 した と せ ねば な ら な い で あ ろ う,. 第3に, 東大寺の支配権確立を阻止 した勢力として興福寺・春日神社の存在がある, 平安後期に おける興福寺・春日神社勢力の袷頭と東大寺勢力の凋落は著名な事実であるが 東大寺領はかなり , 1 ) 多く興福寺・春日神社のために侵略されている2 , 1 1 62 応保2年 ( ) に, 春日神社は, 小太郎名が所当の供米を弁済しないという理由でネ ヰ〆くをたて 2 ) た2 2 3 ) しかるにこのと き, 春日神人は東大寺領石名荘に乱入して 「漆立庄田方 榊1 , , 令損亡 住人 」 めた, 石名荘住人の訴えに 基いて東大寺は春日神社に抗議し それに対して春日神社側も応酬した , 4 ) こ の 結 末 が ど の よ う に つ い た か は こ れ 以 上 史お を持たず明かでないが いずれにせよ ら しい2 , , ,. このような 「横妨」 の起りうる条件としては, 東大寺の支配が一円的なものでなかったことがあげ られ るの で あ る, 同 じ香 菜 免 で あ る 箕 田 荘 に つ い て, 興 福 寺 が,. 5 件田畠者, 地主者発志院也, 負処者御寺進官, 叉東大寺雑役免一 ) 也2 と述べたような, 複雑な権利関係の錯綜こそ、 その主たる原因である , 次に, 右の如 き紛争を惹起すべき原因の一つとして, 荘地の散在性もあげることができる, 石名 荘の荘田配置を知ることのできる史料+ま前引の欠年坪付であるが それをみると次のようになって , いる,. 11条4里1 8坪………1町 (左京職田) 12条 4 里32坪… …‐ ‐ 7 段 (同 上). 33坪………3段 (公田畠) - 81 -.

(7) . 阿. 部. 猛. 34坪………4段 (左京職田) 1 段 160 歩 (同 上) 35坪”.”. 1. t2段22 0 歩 (公田畠). 5里3坪………4段 (左京職田). 5坪・ - - 機 雷. 塾白. l… … …180 歩 (同上) 13条 4 里14j i 16坪 … … … 5 段 (同 上). 右の如き荘田分布で, しかも, ひと坪が1町を埋めつくしているわけではなく, 他領と入りくみ になるところが多かったと思われる, このような性質は畿内の荘園に特有のも のとされているが’ これが紛争の一因でも あったろう. 註 1) 中田薫 『庄園の研究』151頁 2 ) 3) 4) 5) 6) 7 ) 8) 9) lo). 11) 12) 13 ) 14) 15) 16) 17) 18 ) 19). 50号 嘉元4年関東下知状 高野山文書1-1 石英荒 河本荘公文証文去文 高野山文書3-581号 女応元年12月3日付大法師ネ ≦ 聾 東大寺要録巻第 6 封戸水田草第8所収寛弘7年8月22日付東大寺片 京都大学所蔵東大寺文書 永久4年3月27日付東大寺 諸文案 5号 拙稿 「平安末期における名の性格」 歴史学研究 19 拙稿 「平安末期における在地の諸関係」 史湖62・63合併号. 0日付興福寺鏡高反別記--雑役先東諸郡--および, 興福寺進官帳--雑役免西諸郡 延久2年9月2. 東南院文書 3-42 康和2年9月 2 日ィ寸言宣旨案, 成讐堂所蔵雑文書 康和2年9月8日付東大寺諸 文案 東大寺文書 4-43 嘉承元年8月18日付東大寺牒案 5号 拙稿 「平安末期における名の性 格」 歴史学研究 19 8日付東大寺牒案 東大寺女書 4一43 嘉承元年8月1 東大寺文書 4一43 嘉承2年10月日付東大寺政膨rド文案 同上文書 京都大学所蔵東大寺文書 永久4年3月27日付東大寺解案 な領荘園の没落過程」 日本歴史 115号 拙縞 「平安後期 における 一巻 東大寺文書 4-44 東大寺文書 1-11 前引の欠年坪付による と次の如く書かれている. 「石名庄四町一段二百歩 村石 丸員」 この村石丸は 有名 荘4町余の負田の責任者, 即ち負人である. 恐 らく彼は在地の有力田堵であって, 本文に引用し ゞし」 という名の名主 であろ う. なお, 渡辺澄夫 畿内庄園の基礎構造』 たような 「符を国内の名に1. 259頁 参 照,. …沙汰人申状 20) 東大寺文書 3-= 嘉禎4年10月 5 日付上吐田老 21) 東大寺文書 4-44 久安4年9月25日付東大寺領大和国雑役免顛倒荘注進 をみると, 興福寺のために 横妨された荘園の多いことが窺える, 22) 東大寺文書 4-44 応株2年2月日付春日社預下文案 華案 0月日付石名荘住人等f 8 23) 東大寺文書 4-3 9 長寛元年1 5 欠年6月22日付火中臣祐清請女 2 4) 東大寺文書 4-4 く元年11月19日付勧学院 政;労F文 5 嘉短 25) 東大寺文書 4-3. 4 . あとがき-不入制の問題に関連 して- 一般に荘園の完成というとき, 不輪・不入の両極の獲得を以てその指標とする, これによれば, い ま ま で み て き た 石 名 荘 の 場 合 は, 荘 園 と して 完 成 しな か っ た と い う こ と に な る で あ ろ う, 前 記 の. 如く, 石名荘はいわゆる一円荘園ではない, その内部に左京城田の如きものを含み, その部分につ いては東大寺は雑役免除の特権しか持たなかった. 公田畠についても, 封戸代に便補するために所 当官物が宛てられる以前は雑役免にすぎない. 従って便補以前の段階では, 巨大寺煩石名荘は雑役 - 82 -.

(8) . 謡 内 荘 園 の 成 立 過 程. 主権を持たず, 土地そのものを支配するに至らな 徴収をその目的とする荘園であって, 東大寺は検キ い, 法的は検注権が与えられたのちにおいても, 平安末に至るまで東大寺は遂にその権限を行使し えずに終った, 以上の意味からすれもま, 東大寺領石名荘なるものは遂に成立しなかったといわねば ならない. 単に 「荘」 として立券することは不輸・不入権を持つ荘園として成立したことを少しも 意 味 しな い か らで あ る,. 既に藤間生大氏が指摘されたように, いわゆる初期荘園においては, 「不入制はいうまでもなく ) 」 ではなかった。 それが問題となるの 昨旦課不輸』 さえも何等庄園体制の上において基本的な問題1 は10世紀以降の荘 園においてであったと思われる, 石名荘の如く, 律令制の変質の過程において合 法的に生れてきた荘園が, 本来不入制という反律令的特権を持たなかったのは当然である, 東大寺 にとっても, 本来不入権の獲得は切実に希求すべき事柄でもなかったのであろう, しかるに石名荘 の例についてみれば, 東大寺は11世紀後半から頻りと検田権の確保に努力し, 国術使の不入を要求 するよう になった, 不入権の獲得が東大寺にとって緊要なものとなったのは, 従来と異る政治的・ 社会的条件がそこに生 じたからである, 即ち, それは律令体制の変質に基き, 国街の在地支配の方 三地農民の変化 (成長) に基くものである, 「在地領主」 といわれる有 式の変化と, それに応ずる有 力な田端らの成長が自己の負物を 「或負渡他名」 したり, 「募他所威勢」ったりするほどになったと き不入制が問題に されたことを銘記せねばならない, 清水三男氏もかつて指摘 したように, 「不輪 ) 」 の で あ る, 石 名 荘 不 入 の 完全 性 は荘 園 と して の 必 須 の 条 件 で ある こ と は 考 える こ と が で き な い2. の場合をみてもそれ は明かである. 史料上極めて多く不輪・不入に関する記録ガみられるが, しか しそれは荘園そのものものの本質にかかわる事柄ではなく, 収納 の客体としての荘園を確保するた めの一つの段階における手段にすぎない . 1 ¥が 不輪・不入植が何を根拠として生じえたか, ということもかつて問題とされた, 藤間氏は奴女 4 ) 3 ) び ~ 竹内理三氏は寺田の不輪 住家の免租に め 清水氏は園宅およ 不課口であることに根拠を求 , , )に根拠を求めた, この問題も重要ではあるが, 更に緊急なるは, なぜ不輪・不入が必要とな 租」性5 0世紀以降にそれが問題となったこと ったかという, その歴史的条件の究明でなければならない, 1 の意義こそ重大であるといわねばならない, 藤間氏が, 不輸・不入について, それを荘園内部構造の変化から考察する方法を提起されたのは 正しかったと思う, たとえ氏の初期荘園に関する理解に誤りがあったとしても, 問題提起は貴重な ものであった, 氏の初期荘園研究の誤りを指摘することによって, 氏の出された問題をも共に葬っ て しま う こと は正 しい 学 問 の 途 で は な い で あ ろ う, そ の 後 に 集 積 さ れ た 多 く の 成 果 を 土 台 に して,. もう一度, 不輸・不入の問題を正面から阪扱う必要があるように思 われる, この拙女は, 右の問題を当面の対象とはしていないので, 直接これに応えることはできないが, 考える上で一つの材料にはなると思う. はじめに述 べたように, 荘園を成立以前の複 雑な 過程 から 見直すという意味で駄女を草した が, その意図がどの程度行われたか疑問である, ただ貧しいなが ら個別的研究を積み重ねることによって, 右にみた不輪・不入の問題, 或は大げさにいえば, 荘園 の性 格 につ い て, よ り確 かな 見通 しを う る こ と が で き る と 思 う の で あ る, 全 面 的 な 考 察 を 他 日 に 期 ・今 回 は こ こ でキ 間筆 す る, して, EI 善 ) 藤間生大 『日木庄園史」 珪264頁以下 2) 清水三男 「荘園の不輪不入性について」 上代の土地関係所収 3) 藤間生大前掲書 4) 清水三男前掲諭女 5) 竹内理三 「荘園不輸性の根源」 日本歴史46号 (律令制と貴族政権第1部所収) 貴女 回こよって <附記> 引用史料の大部分は, 東京大学史料編纂所所蔵影写本, および竹内理三氏編 『平安ラ いる, 記して謝意を表する, - 83 -.

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