混成アジア映画に見る家族
――マレーシアとインドネシアを中心に――
山本 博之
(京都大学)
1.はじめに 映像作品が教育や研究に利用される場合、ドキュメンタリーが使われることが多い。ドキュメン タリーでは制作者の意図が明確で、意図に即したデータと結論が示されるため、予備知識がなくて も内容を理解しやすい。これに対して劇映画は虚構の世界であり、写実的であっても現実を反映し ていると無批判に受け止めることはできない。しかし劇映画(とりわけ商業映画)の制作では複数 の利害関係者が利益を最大にする工夫を凝らす結果、たとえいつの時代のどの地域でも見られそう な物語だとしても、個々の作品が制作・公開される時代や地域の実情が映り込んでしまう。このた め、多数の観客を動員した作品や批評等で話題に上った作品、あるいは過去の作品への応答として 作られた作品を読み解くことで、社会が映画に託そうとした物語を探ることができる。 本稿では、東南アジアのマレーシアとインドネシアを対象に、人々が意識的または無意識的に思 い描いて共有する家族のあり方を映画を通して考えてみたい。マレーシアとインドネシアはどちら も多民族・多宗教・多言語の混成社会であり、多数派の宗教であるイスラム教が社会全体に大きな 影響を及ぼしている一方で、イスラム教が複数の宗教の 1 つとして社会に位置付けられているとい う特徴を持つ。以下では、異民族・異教徒との恋愛を扱う作品と、夫が自分以外の女性を 2 人目の 妻に迎えた女性を描く作品を取り上げ、これらの作品を通じて、それぞれの国で家庭づくりをめぐ る物語にどのような社会的要請が託されており、社会の要請と個人の幸福の調整がどのようにはか られているかを考えてみたい。 2.異民族・異教徒との恋愛・結婚――マレーシア (1)マレーシアの民族と宗教 マレーシアは、社会生活のほぼ全ての場面で民族の区別が重要な意味を持ち、ときに個人の権利 より民族の権利が重んじられる傾向があるとともに、民族・宗教に公的に序列が付けられていると いう特徴がある。国民はマレー人、華人、インド人のいずれかに属すると考えられており、混血者 や外来者は「その他」として扱われる。 マレーシアの民族別人口構成は、マレー人が 54.7%、華人が 23.2%、インド人が 7.0%、先住諸 族が合わせて 14.1%である。この国の本来の主人はマレー人と先住諸族であるとする考え方があ り、憲法でマレー人と先住諸族の優先が定められている。宗教はおおむね民族別に分かれ、マレー 人は生まれながらのムスリム(イスラム教徒)で、華人とインド人はそれぞれ 8 割以上が仏教徒と ヒンドゥ教徒である。憲法の規定にもあるように、マレー人とは、マレー語を自らの言語とし、マ レー人の慣習を守り、イスラム教を自らの宗教とする者のことで、イスラム教はマレー人のアイデG
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海外の新潮流
ンティティの重要な構成要素である。 宗教は冠婚葬祭の方法を規定するため、原理的に言えば宗教が異なる相手を弔うことはできず、 また、宗教が異なる相手と死後の世界で出会うこともできないと考えられており、親子や夫婦の間 で宗教が同じことが当然視される。法律上ムスリムと非ムスリムは結婚できず、マレー人がイスラ ム教から他宗教に改宗することもできないため、ムスリムと非ムスリムが結婚するためには非ムス リムがイスラム教に改宗する必要がある。ただし華人やインド人がムスリムになることは、親を弔 えなくなる「親不孝」であるとともに民族に対する「裏切り」でもあるとして、改宗したために親 子の縁を切られることも決して珍しくない。 また、マレーシアには芸術も国民の発展に寄与すべきという考え方があり、社会の秩序を乱すと 見なされる作品は政府から規制されるだけでなく社会からも忌避される。とりわけ映画に関して は、検閲制度が性・暴力、宗教、政治(共産主義)に関する表現を厳しく規制してきたことに加え て、国民映画振興政策のもと、マレー文化の発展に寄与する作品のみ振興の対象とされてきた。多 民族社会の現実を反映してセリフにマレー語以外が多く使われる作品を作ると国内で上映の機会が 制限されるため、マレーシアの映画は現実社会の多民族・多言語・多宗教を映すことをやめて、 もっぱらマレー人向けのマレー映画になった。このことは経済開発が進められた 1980 年代以降に 特に顕著で、後述するヤスミン・アフマドが登場する 2000 年代まで続いた。 (2)マレー人男性の幸福 マレーシアの映画で異民族間の恋愛が描かれることは稀で、イギリス植民地期のシンガポールで マレー人少年ハッサンと華人少女ライライの恋愛を描いた『グッバイ・マイ・ラブ』(1955 年)に る。2 人の恋愛はハッサンの母に反対され、ハッサンは命を落とす。公開時には異民族の女性の ためにマレー人男性が死ぬことが批判された。 独立から 10 年後に作られた『夜明け後』(1967 年)では、妻でマレー人のサルミとの関係が冷 え切ったマレー人男性アリフィンが華人女性アリスと親しくなって結婚を期待するが、アリスに夫 がいることがわかってサルミとの関係が修復される。夫婦関係が疎遠になったのはサルミが家庭を 顧みずに婦人会の活動に勤しんだためで、サルミが自分の過ちに気づいてアリフィンに謝ることで 関係が修復される。『霧雨』(1968 年)では、富裕なマレー人家庭の息子カマルがインド人女性リ ラと恋に落ち、それぞれの父から結婚を反対されたために駆け落ちする。困窮生活を経てカマルが 会社社長になると、顧客のマレー人女性ティナから呪術をかけられたカマルはリラを捨ててティナ と結婚し、リラは生まれたばかりの赤ちゃんを連れて家を出る。 『夜明け後』と『霧雨』で監督と主演をつとめたのは、外ではプレイボーイだが家では妻や母に 頭が上がらない男性の役が多い大スターでマレー人男性の P. ラムリーである。物語の焦点が P. ラ ムリーに当てられ、異民族の女性との恋愛はマレー人男性に(一時的な思い込みだとしても)幸福 をもたらすが、異民族の女性には幸福をもたらさない。 (3)多民族社会の統合 共産主義ゲリラとの戦いを警察側から描いた監督作で知られ、マレー人中心の国民映画振興に尽 力したマレー人男性のジンス・シャムスッディンが監督・主演をつとめた『明日はまだある』(1979 年)では、マレー人男性で警官のザムリが、妻でマレー人のファリダから遺伝した病気で息子と娘 を失い、ファリダとの関係が疎遠になる。ザムリは銀行強盗に人質にされた華人実業家を救出し、
その娘マリナはザムリに恩義を感じる。孫がほしいザムリの父の希望でザムリはマリナを第二夫人 に迎え、ザムリは生まれた男児を両親に預けてファリダに世話をさせる。マリナは息子を取り戻そ うとするが、息子はマリナが誰かわからず、「家に帰りたい、お母さんに会いたい」と泣く。『明日 はまだある』では、非マレー人は出自国の文化を捨ててマレー文化を受け入れるべきとする同化主 義が見られる一方で、女性は民族を問わず子を産むか育てるかの役割しか期待されていない。 経済開発が進んで伝統的価値が損なわれることに警鐘を鳴らし、イスラム教による社会の統合に 可能性を見出そうとする監督作で知られるマレー人男性のラヒム・ラザリは、『サラワクの息子』 (1988 年)で異民族間の恋愛を男女両方のハッピーエンドとして描こうとした。マレー人男性アザ ムは地方開発担当の役人として奥地に配属され、地元住民による反対運動を受けながらも経済開発 を進める。アザムは華人女性でジャーナリストのメイリンと恋に落ち、メイリンがイスラム教に改 宗することで 2 人が結婚する。 公務に忠実なマレー人男性が職務で華人女性と知り合い、マレー人男性の家づくりに華人女性が 取り込まれる形で結婚する。国家が進める経済開発によって都市化や工業化が進む中で、マレー人 中心の秩序を維持しつつ多民族社会を統合するというマレーシアの課題がうかがえる。 (4)マレー人女性の恋愛 『サラワクの息子』は結婚を男女両方にとってのハッピーエンドとしたが、非マレー人女性が改 宗と結婚によってマレー人男性に取り込まれる構図への批判から、混血者や非マレー人の監督によ り、男女の民族性を入れ替えてマレー人女性と異民族・異教徒の男性との恋愛が描かれた。 マレー人とイギリス人の混血者で男性のハリス・イスカンダルによる『ただの友だち』(1997 年) は、フィリピン人とインド人の混血者の男性で俳優のハンスとマレー人女性で歌手のエラがどちら も本人役で出演して恋人どうしを演じ、2 人の関係は映画上のことか現実かが話題になった。劇中 では、駆け出しだった 2 人が俳優や歌手として売れていくにつれてすれ違いが増え、互いに相手の 仕事上のつきあいに嫉妬するが、仕事上のパートナーであり続ける。2 人の私生活上の関係ははっ きりせず、恋人どうしなのかと尋ねられて「ただの友だち」と答える。 海外に留学して映画制作を学んだ華人男性のテック・タンによる『スピニング・ガシン』(2000 年) は、音楽バンドを組むために出会ったマレー人、華人、インド人、欧亜混血者の青年男女が旅に出 て、華人男性ハリーとマレー人女性ヤティが互いに好意を抱く。海外留学経験があるハリーとヤ ティは保守的な男女交際の考え方に囚われずに 2 人の関係を深めようとするが、周囲の人々は宗教 と民族が異なる 2 人の交際を快く思わない。改宗は信仰のために行うもので結婚の手段にするのは おかしいと考える 2 人は、マレーシア社会に受け入れられる解決方法を見つけられずに別々の道を 歩む。『スピニング・ガシン』は改宗による結婚をハッピーエンドとした『サラワクの息子』に対 する非マレー人からの異議申し立てになっている。 この 2 つの作品では、マレー人女性は職業を持っていたり若者だけの旅行に出かけたりしてお り、親の庇護から出て家に縛られずに自由に行動する。結婚をゴールとせずにマレー人女性と異民 族・異教徒の恋愛が成立するのは、彼女たちの恋愛が自由意思に基づくためである。 (5)親子・夫婦間の権力関係 ヤスミン・アフマドは、映画で異民族・異宗教間の恋愛を描き、後のマレーシア映画にさまざま な影響を与えたマレー人女性である。製品や会社の紹介ではなく家族の物語を織り込んだテレビ
CMの制作で知られ、テレビ映画の監督を経て長編映画の『細い目』(2005 年)を撮った。 マレー人少女のオーキッドと華人少年のジェイソンの恋愛を描いた『細い目』は、登場人物がマ レー語、広東語、華語、英語を混ぜて話し、異民族・異宗教間の恋愛を当然のことのように描いた ため、マレーシア社会の現実を描いた作品として驚きと称賛をもって受け止められた。ただし『細 い目』はマレーシアの現実をそのまま描いた作品ではなく、男性が力強く女性を守り導き、主人が 使用人を酷使するというマレーシアの社会通念を逆転させている。 マレー人少年から「マレー人の男だと満足できないのか」とからかわれたオーキッドは、昔から マレー人男性が異民族と結婚しても誰も文句を言わなかったのになぜマレー人女性が同じことをす ると文句を言うのかと怒った。これは華人の夫を持つヤスミンが実生活で繰り返し経験してきた問 答である。華人少年がマレー人少女のために命を落とす結末は、『グッバイ・マイ・ラブ』が批判 されたのは死んだのがマレー人だからか、それとも男性だからかという問いを突き付けた。 『グブラ』(2006 年)は『細い目』の 7 年後の物語で、オーキッドはマレー人のアリフと結婚し ている。浮気相手と一緒にいるところをオーキッドに見られたアリフは、彼女はオーキッドが仕事 で家を空けることが多くて自分が寂しかったときにたまたま現れた女性で何の価値もない存在だと 言って許しを請い、それを聞いたオーキッドの怒りはさらに激しくなって、その鉾先はアリフ個人 からマレー人男性全体に向かう。家庭を ろにしたと責められた妻が許しを請うことで夫婦の関係 が修復された『夜明け後』と異なり、オーキッドはアリフを許さない。 ヤスミンの登場は国外の映画界から新しいマレーシア映画の誕生だと歓迎されたが、国内では好 意的な反応ばかりではなかった。『グブラ』で、マレー人男性で礼拝堂管理人のビラルが台所で料 理し、妻でマレー人のマズは手伝わないどころか盗み食いする場面は、妻が夫に料理させ、しかも 夫は一般男性ではなく宗教指導者であるために物議を醸し、一部の日刊紙とテレビ番組が『細い 目』と『グブラ』を批判する特集を組むほどだった。 ヤスミンは批判に負けず、『ムクシン』(2006 年)でオーキッドの初恋の相手ムクシンがコーラ ンの一節を読む場面で、アラビア語のセリフに字幕がないために非ムスリムには聖典の章句を読ん でいるようにしか見えないが、読んでいるのは「ええ呪われろ/寄ると触ると他人の陰口」という 一節で、わかる人にだけわかるマレー人批評家への意趣返しだった。 『ムアラフ―改心』(2007 年)では、権勢欲が強い父の虐待のため家出したマレー人ムスリムの ロハニとロハナの姉妹が華人でカトリック信徒の青年教師ブライアンと出会い、交流を通じてそれ ぞれの親との関係を修復する。宗教は違っても教えの中身は同じというメッセージを伝えるととも に、異教徒どうしのロハニとブライアンが交際する予感を描くことで、宗教の壁を超えることは片 方への一方的な「改宗」ではなく「改心」であると訴えた。遺作となった『タレンタイム∼優しい 歌』(2009 年)では、異教徒と結婚すると相手側の一族に取られてしまうからと結婚に反対する親 の世代に対し、そんなことはないと主張する新しい世代を登場させている。 民族間の序列とイスラム教にまとわりつく権威主義という二重の構造に縛られているマレーシア で、異民族・異教徒との恋愛が話題に上ることがあるが、そこで実際に解くべき問題は民族・宗教 の違いではなく親子や夫婦の間の権力関係ではないかとヤスミン作品は問いかけている。
3.一夫多妻と母の願い――インドネシア (1)インドネシアの民族と宗教 インドネシアは 1 万 6000 以上の島々に約 2 億 6000 万人が暮らす島国である。民族は 300 以上あ り、最大の集団は人口の 42.0%を占めるジャワ人で、スンダ人(15.4%)、マレー人(3.5%)と続 く。植民地期にナショナリズムが発展した結果、在地の民族はどれも等しくインドネシア国民であ るという意識が浸透した。 また、インドネシアは国民の 87.2%がムスリムで、キリスト教徒(9.87%)、ヒンドゥ教徒 (1.69%)、仏教(0.72%)と続き、ムスリム人口が世界最大の国である。イスラム教、キリスト教 (カトリックとプロテスタント)、ヒンドゥ教、仏教の 5 つ(現在では儒教を加えた 6 つ)の宗教を 対等に扱う国是が採択されており、敬 なムスリムも統計上のムスリムも、そしてキリスト教徒も ヒンドゥ教徒も等しくインドネシア国民であるため、イスラム教はインドネシア国民のアイデン ティティにとって重要ではない。ただしイスラム教を中心とする国づくりを是とする立場も存在 し、近年では宗教的な不寛容が高まっているとも言われる。その一方で、ジャワでは地元の価値観 と融合した慣習的なイスラム教も実践されている。 (2)夫から見た一夫多妻 2008年に制作・公開された『愛の章』は、今日に至るイスラム恋愛映画の流行をインドネシア にもたらした記念碑的な作品である。設定も重要なので、あらすじを少し長く紹介したい。なお、 本節で言及する人物は、特に断らない限り、現実の人物も作品中の人物も全てジャワ出身のインド ネシア人ムスリムである。 エジプトのアズハル大学で学ぶ男子学生のファハリは、勤勉で宗教の知識と理解も十分にあり、 全ての人に優しく接し、女性に人気がある。しかしファハリは伴侶は神が与えてくれると信じてお り、女性に対して常に受け身の態度で接する。近所に住むエジプト人女性でコプト教徒のマリア は、裕福でない家庭で育ち、ムスリムではないがコーランの章句が暗誦できるほどイスラム教に関 心と知識を持っており、ファハリの生活や勉強の世話を焼いてくれる。しかしファハリはドイツ国 籍のトルコ系ムスリムで良家の子女のアイシャに見初められて結婚し、意気消沈したマリアは交通 事故に遭って昏睡状態になる。 逆恨みで投獄されたファハリの無罪を唯一証言できるマリアを目覚めさせるため、アイシャの提 案で、ファハリは病床のマリアを第二夫人にする。マリアの証言でファハリは無罪を勝ち取り、3 人はアイシャの豪華な家で共同生活を始める。しかしマリアは病魔に侵されており、死後に天国で ファハリと再会するため、死の淵でイスラム教に改宗する。 『愛の章』は同名のベストセラー小説の映画化である。著者のハビブラフマン・シラジは男性作 家で、アズハル大学で学んだ経験をもとに宣教の意図をもってこの小説を執筆した。しかし映画化 を持ち掛けられた男性監督のハヌン・ブラマンチョは、イスラム教が社会に過度に影響を及ぼすこ とに消極的で、原作のイスラム色を薄めてもよいことを条件に映画化を引き受けた。ブラマンチョ は、別の映画で妻以外の女性とのキスシーンを演じた歌手・モデルのフェディ・ヌリルをファハリ 役に起用し、ファハリに西洋風の服装を着せ、女性たちに支えられる受身で弱々しい存在にした。 小説版のファンとシラジは映画版が原作の持つイスラム的な世界観を貶めたと批判したが、西洋 式の生活様式や価値観に慣れ親しんだムスリムの観客層にはイスラム性の薄さが歓迎され、予想を
超えた大ヒットとなった。ブラマンチョは原作にない一夫多妻の生活の場面を映画に入れていた。 一夫多妻を滑稽に描くことで現実的でないことを示す意図があったが、ムスリム女性たちから一夫 多妻を推奨して女性を貶めたと批判された。 シラジが強く逞しいムスリム男性の立場から一夫多妻の物語を描こうとしたのに対し、ブラマン チョの意図はそれと反対の方向を向いていた。ただし、ブラマンチョが一夫多妻を滑稽に描いたこ とによく表れているように、シラジもブラマンチョも一夫多妻を夫の側から見て描いていた。 (3)地縁・血縁の中での家づくり 『愛の章』の大ヒットの後、シラジは自身の小説『愛が祝福されるとき』の映画化を進め、『愛の 章』でイスラム性が薄められた誤りをこの作品を通じて正すと公言した。 カイロのアズハル大学で学ぶ男子学生のアザムは、実家の母と妹たちに仕送りするために勉学の 傍らインドネシア料理を売っている。ジャワの宗教教師の娘でアズハル大学で学ぶアナは、街で 困っているところを助けてくれたアザムを理想的な夫だと思うが、料理を売って勉強に専念しない 自分はアナにふさわしくないと考えるアザムは本名を名乗らない。帰国したアナは、世間体を気に する両親から結婚を急かされ、両親が紹介する縁談を受け入れる。アザムも帰国し、アナと出会っ て密かに思いを寄せ合うが、エジプト産品の小売りで生計を立てるアザムは宗教教師の娘であるア ナと格が合わないと考え、アナの結婚を祝福することしかできない。アザムも世間体を気にする母 の勧めで別の女性と結婚する。 互いに好意を抱くアナとアザムが結ばれるのを妨げるのは世間体を気にする親である。『愛が祝 福されるとき』では、たとえイスラム教の最高学府で学んだとしても地元社会では地縁や血縁の網 の目に取り込まれてしまう様子が強調されている。 他方、ブラマンチョは、執筆を通じてムスリム女性の権利の促進と擁護を目指す女性作家のアビ ダ・ハイレキによる小説『ターバンを巻いた女』(2001 年)の映画化に乗り出した。ジャワのイス ラム寄宿塾の塾長の娘アンニサは芯が強く賢い女性だが、素朴な疑問を口にするたびに父や他の教 師から「女に勉学は必要ない、結婚して子を産んでいい妻といい母になるのが女の務めだ」と怒ら れる。寄宿塾の発展のため、アンニサは自分の意志と無関係に、裕福だが素行が悪い男性と結婚さ せられる。留学から戻った元恋人と再会すると、アンニサは 2 人きりの場で自らスカーフを外して 抱擁を求める。現場に踏み込んだ夫や村人たちに不実を責められるが、アンニサは男性ムスリムの 象徴であるターバンを地に投げ捨てて村を去る。 『ターバンを巻いた女』はアンニサを通じて女性の自己決定を肯定したが、わかりやすく描こう とした結果、ジャワのイスラム寄宿塾が因襲に囚われた存在であることが過度に強調された。イス ラム教の指導者はこの作品を見ないよう呼びかけ、フェミニストのグループは映画館に行くことで ボイコットに対抗しようと呼びかけた。 生まれ育った土地での恋愛・結婚は、望むと望まざるとにかかわらず、地域社会に積み重なった 地縁・血縁の縛りから完全に自由にはなれない。地域社会で生きていこうとすれば縛りを受け入れ ざるを得ず、縛りを拒否するならば地域社会の外に出ざるを得ない。 (4)妻から見た一夫多妻 『愛の章』の成功以降、インドネシアではイスラム恋愛映画のジャンルが細分化されていき、ス カーフを被ったムスリム女性が外国を訪れて、異国情緒や異文化の中で恋愛・家族や信仰について
考えを深める作品が増えた。舞台を海外に移して女性を主役にすることで、ジャワの地縁や血縁の 網目から抜け出して幅広い思考実験を行うことが可能になった。 ブラマンチョが制作に関わった『望まれざる天国』では、男性建築家のプラスが女性絵本作家の アリニと結婚して娘のナディアが生まれる。プラスが交通事故で重体のメイを見つけて病院に担ぎ 込むと、妊娠していたメイは男児アクバルを出産するが、夫なしで出産した将来を絶望視して自殺 を試みる。幼い頃に母が自殺したトラウマを抱えるプラスはメイに自殺を思い留まらせようとし て、メイの今後の人生の責任を負う証としてメイと結婚すると言い、2 人は病院で結婚する。 自分が愛するのはアリニとナディアだけという気持ちが微塵も揺るがず、一夫多妻に関する章句 をすべて暗唱できるほどコーランを理解しているプラスは、自分の行動はイスラム教に照らして適 切だと確信している。しかし父に第二夫人がいたと知って父の不実を嘆き憤るアリニを見て、プラ スは自分に第二夫人ができたとアリニに言い出せない。 プラスを演じたのは『愛の章』でファハリを演じたフェディ・ヌリルである。『望まれざる天国』 は、冒頭でプラスに一夫多妻状況を背負わせ、どのような過程を経れば全ての当事者がそれを受け 入れられるかを探っている。登場人物はみな敬 かつ誠実で、親は子のことを最優先に考え、善意 と合理的な判断に基づいて行動する。その結果、いったんアリニを含む全ての当事者が納得して一 夫多妻状況を受け入れるが、経済的に自立していない状況で幼い息子を手元に置くと息子のために ならないと考えたメイは、アクバルをプラスとアリニに託して姿を消す。現実離れした設定にして 登場人物に極端な考え方や行動を取らせているのは、この作品が思考実験であるためである。メイ が物語の舞台から退場することで一夫多妻は現実的でないことを示している。 ブラマンチョが監督をつとめた続編の『望まれざる天国 2』では、メイはブタペストで自分のブ ティックを構えて経済的に自立し、アクバルを引き取って母子で暮らしている。男性医師のシャリ フはメイに求婚し、メイもそれを受け入れたいが、書類上プラスと婚姻関係にあるメイは結婚でき ない。売れっ子作家のアリニは出版広報のためにブタペストを訪れてメイと再会し、合流したプラ スはメイとの離婚手続きを進めようとする。アリニが病気の再発で倒れ、余命は数日と告げられ る。アリニは、幼いナディアにはまだ母が必要なので、婚姻関係を解消せずに一緒にナディアを育 ててほしいとメイとプラスに頼んで息を引き取る。アリニに恩義があるメイはシャリフが祝福する 中でプラスと結婚式を挙げる。 ここでもアリニの物語の舞台からの退場は一夫多妻が現実的でないことを示している。ただし一 夫多妻は形を変えて、幼い子を残して死んでいく母が子のために夫に自分以外の女性を妻とするよ う願い、周囲の人もその願いを満たそうとすることに移っている。 『愛の章』では夫が危機に直面して夫の視点から一夫多妻が描かれたのに対し、『望まれざる天 国』では妻や子の命が危機に直面している状況で子を守るという観点から、妻=母の視点で一夫多 妻が形を変えて描かれている。 (5)社会人と良き母の両立 『愛の章』から 9 年後、『愛の章 2』が公開された。ファハリはスコットランドのエディンバラ大 学の講師になっており、妻アイシャから引き継いだビジネスが成功して、経済的にも社会的にも安 定した生活を営んでいる。アイシャはビジネスで成功した後、パレスチナで戦争孤児の支援活動に 取り組み、ガザ空爆で行方不明になっていた。イスラエル軍に捉えられたアイシャは貞操を守るた めに自分の身体を傷つけて子を産めない身体になり、顔も傷つけて人相がわからなくなっていた。
アイシャはファハリが暮らす町に戻ってサビナと名乗って陰からファハリを見守っていたが、街で 居場所がないサビナを見かけたファハリはアイシャと気づかずに家に招き、家事手伝いと引き換え に家に住まわせる。 ファハリはアイシャが亡くなったと受け入れ、アイシャのいとこのフルヤと結婚する。妊娠した フルヤは暴漢に刺され、病院で男児オマルは取り出したがフルヤは助かる見込みがない。サビナが アイシャだと知ったフルヤは、死後に自分の顔面をサビナに移植してほしいと頼む。オマルは母の 顔を忘れずに母に育ててもらえるし、サビナはファハリの妻になれる。移植手術が済み、ファハリ と、フルヤの顔をしたサビナ(実際はアイシャ)と、ファハリとフルヤの子オマルの 3 人の姿で幕 を閉じる。 舞台を外国に移して女性を主人公として一夫多妻を描く作品が増えたことは、地元社会の権力構 造からいったん外に出て、イスラム教を拠り所として家づくりを試みていると見ることができる。 その思考実験の行きつく先の 1 つが、死が目前に迫った母が残される子の母を確保するために夫に 別の女性との結婚を求める物語である。ここには、自分の親や親戚に子の世話を頼むというインド ネシアで伝統的に見られた選択肢が欠如している。これらの作品で舞台から退場する母が経済的に 自立して社会的に意義がある活動に従事していることを考えるならば、家族や親戚による干渉を疎 ましく思って家族・親戚から離れて暮らす女性にとっての社会人としての達成と良き母であること の両立の難しさが表現されていると受け止めることも可能だろう。 4.むすび 本稿では、異民族・異宗教間の恋愛と一夫多妻に関する作品をいくつか紹介しながら、マレーシ アとインドネシアの映画に描かれる家族の形について考えてみた。作品への批判や先行の映画に対 する応答とあわせて考えることで、家族をめぐる社会の課題およびそれに対応して個人の幸福の調 整がはかられている様子の読み解きを試みた。 映画が虚構世界であることの積極的な意義を考えるならば、映画が極端な事例を描くのは、社会 の多数派によって自明視されているために課題として取り上げにくいことがらや課題として意識さ れていないことがらを別の形で表現しているためである。マレーシアの異民族・異宗教間の恋愛の 物語からは親子や夫婦の間の権力関係の問題を、インドネシアの一夫多妻の物語からは親や親戚の 干渉を避けて暮らす家庭で女性が社会人と良き母の両立に難しさを感じていることを読み解くこと ができるだろう。 【映画一覧】 凡例:①原題、②制作年、③制作国、④監督
『愛が祝福されるとき』① Ketika Cinta Bertasbih、② 2009、③インドネシア、④ハエルル・ウマム(Chaerul Umam)。
『愛が祝福されるとき 2』① Ketika Cinta Bertasbih 2、② 2009、③インドネシア、④ハエルル・ウマム。 『愛の章』 ① Ayat-Ayat Cinta、② 2008、③インドネシア、④ハヌン・ブラマンチョ(Hanung Bramantyo)。 『愛の章 2』① Ayat-Ayat Cinta 2、② 2017、③インドネシア、④グントゥル・スハルヤント(Guntur Soeharjanto)。 『明日はまだある』① Esok Masih Ada、② 1979、③マレーシア、④ジンス・シャムスッディン(Jins Shamsuddin)。 『霧雨』 ① Gerimis、② 1968、③マレーシア、④ P. ラムリー(P. Ramlee)。
Krishnan)。
『グブラ』① Gubra、② 2006、③マレーシア、④ヤスミン・アフマド(Yasmin Ahmad)。
『サラワクの息子』 ① Anak Sarawak、② 1988、③マレーシア、④ラヒム・ラザリ(Rahim Razali)。 『スピニング・ガシン』 ① Spinning Gasing、② 2000、③マレーシア、④テック・タン(Teck Tan)。
『ターバンを巻いた女』 ① Perempuan Berkalung Sorban、② 2009、③インドネシア、④ハヌン・ブラマンチョ。 『ただの友だち』 ① Hanya Kawan、② 1997、③マレーシア、④ハリス・イスカンダル(Harith Iskandar)。 『タレンタイム∼優しい歌』 ① Talentime、② 2009、③マレーシア、④ヤスミン・アフマド。
『望まれざる天国』 ① Surga yang Tak Dirindukan、② 2015、③インドネシア、④クンツ・アグス(Kuntz Agus)。 『望まれざる天国 2』 ① Surga yang Tak Dirindukan 2、② 2017、③インドネシア、④ハヌン・ブラマンチョ。 『細い目』 ① Sepet、② 2005、③マレーシア、④ヤスミン・アフマド。 『ムアラフ―改心』 ① Muallaf、② 2008、③マレーシア、④ヤスミン・アフマド。 『ムクシン』 ① Mukhsin、② 2006、③マレーシア、④ヤスミン・アフマド。 『夜明け後』 ① Sesudah Subuh、② 1967、③シンガポール、④ P. ラムリー。 【参考文献】 山本博之 2018「引き継がれる母性、なくならない資産――インドネシアのイスラム恋愛映画の展開、2008 ∼ 2017年」山本博之編『母の願い――混成アジア映画研究 2017』京都大学東南アジア地域研究研究所、pp.8-20。 山本博之編著 2019『マレーシア映画の母 ヤスミン・アフマドの世界――人とその作品、継承者たち』(混成 アジア映画の海 1)英明企画編集。