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戦後日本における社会福祉構想とモンテッソーリ教育再導入 : ペトロ・ハイドリッヒの動向を中心として

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Academic year: 2021

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(1)研究論集 第 1 号;13 − 24 , 2014. 【研究論文】. 戦後日本における社会福祉構想とモンテッソーリ教育再導入 ―ペトロ・ハイドリッヒの動向を中心として― 竹田 恵 (横浜保育福祉専門学校). はじめに イタリア出身のマリア・モンテッソーリ(Maria Montessori,1870-1952)が提唱したモンテッソーリ教育 1)は 1912 年(明治 45) 、当時の主要新聞の一つである『萬朝報』(第 6633 号)で日本に初めて紹介され、幼稚園およ び小学校現場に関心が広がったものの、戦前の日本においては定着することなく衰退し、影を潜めてゆくことに なる 2)。その後、モンテッソーリ教育が再び脚光を浴び、再評価・再導入の一連の動きが生じたのはアジア・太 平洋戦争を経た 1950 年代以降のことであった。この戦後のモンテッソーリ教育復活の底流には鼓常良 3)、平塚 益徳 4)、および上智大学を中心とするカトリック関係者ら複数の動向があり、それぞれが同時並行的かつ重層的 に展開していった。中でも、 上智大学教授ペトロ・ハイドリッヒ神父(1901-1990)の社会福祉構想に基づく動向は、 カトリック教育協議会内「モンテッソーリ研究会」の活動展開とともに、日本におけるモンテッソーリ教育再導 入の端緒に位置づけられるのではないかと考えられる。 本稿の目的は、ハイドリッヒ神父の社会福祉構想に基づく動向が、戦後日本におけるモンテッソーリ教育再導 入にどのようにつながったのか、その諸相を明らかにすることにある。ハイドリッヒ神父は「日本モンテッソー リ協会」で、理事長あるいは会長等の役職についたことは一度もなかったが、1977 年 7 月以降 30 年間にわたり 日本モンテッソーリ協会三代目会長を務めたクラウス・ルーメル神父 5)は、ハイドリッヒ神父を「日本におけ るモンテッソーリ運動に重要な役割を果たした」開拓者として評価している 6)。しかし、吉岡剛をはじめとする 先行研究においては、ハイドリッヒ神父の社会福祉構想とモンテッソーリ教育再導入に関する具体的な記述は十 分とはいえず、検討されるべき課題として残されている 7)。戦後日本におけるモンテッソーリ教育再導入の起点 とも考えられるこの動向について検討を加えることは、モンテッソーリ教育再導入の全体像を捉える上で見逃す ことのできない重要な作業であると考えられる。. 1.ペトロ・ハイドリッヒ神父の上智大学社会福祉構想 ハイドリッヒ神父は上智大学に社会福祉学科と社会福祉専門学校を創設するために尽力した人物として知ら れている。神父は 1901 年(明治 34)ドイツ・ケルン近郊のデイッケンドルフで 9 人兄弟の長男として生まれた。 トリールの国立フリードリヒ・ヴィルヘルム・ギムナジウムを卒業後、1922 年 ( 大正 11)21 歳の時にイエズス会 のドイツ北管区に入会した 8)。神父は、 哲学(ファルケンブルグで 3 年)と神学(アイルランドのダブリンで 4 年) を学び、1930 年(昭和 5)8 月 27 日にファルケンブルグで司祭に叙階され、その後 1932 年(昭和 7)に来日し、 当初は広島教区で宣教活動に従事した 9)。神父は 1933 年(昭和 8)に萩教会に赴任、1935 年(昭和 10)8 月に 岡山教会の主任司祭に任命され、1945 年(昭和 20)4 月まで岡山教会で「司牧と宣教に専心し、教理教育の協 力者養成に尽力」したと言われている 10)。神父は「岡山教会着任以来、精力的に宣教活動を開始し、豊かな着想と、 ─ 13 ─.

(2) 竹田 恵. 精力的な活動力をもって、 公会堂において映画会や講演会を催すなど、多彩な行事を計画」した 11)。また、神父は、 1941 年(昭和 16)に「伝道婦の養成を目的とした、公教神学女子専修学院」を創設し、同所に女子の寄宿寮を 建てている 12)。この専修学院は、 「我国で唯一の伝道婦養成機関で、岡山教会が戦火に遭って焼失するまで存続し、 有能な伝道婦を各地に送り出して、戦時下の、布教の困難な時期にあって、大きな役割を果たした」と記録され ている 13)。こうしたハイドリッヒ神父の宣教及び教育への熱意は、戦後上智大学における社会福祉課程の創設 に結実してゆくこととなる。1941 年(昭和 16)岡山教会で行われた中山神父の司祭叙階式の記念写真には、フー ゴー・ラサール神父、ペトロ・アルペ神父 14)、クラウス・ルーメル神父、そしてハイドリッヒ神父らが一緒に収まっ ていることからも分かる通り 15)、ハイドリッヒ神父の社会福祉課程創設構想に後年関わることになるこれらの 人々と神父は、この頃からお互いを知る間柄であったことがうかがえる。また、神父が計画した、岡山医科大学 の付近に布教センタ―を設置する案は、資金難から断念せざるを得なかったが、ドイツ語テキストを使用した聖 書研究会を通じて若い青年学徒に影響を与えたと記されている 16)。戦時中、神父は日本と同盟関係にあったド イツの人間であったがゆえに強制送還こそされなかったものの、信者の家庭でカトリック要理が行われる際の往 復の道を憲兵に見張られる等、厳しい状況下で過ごしていた。しかし、そのことに対しては勇敢で決して動じる 姿勢を見せなかったと当時の信者は述べている 17)。このようにハイドリッヒ神父は岡山教会で、 「多くの着想と 抜群の実行力をもって布教に当ったが、戦時下のことで充分にその真価を発揮することができず…中略…1945 年(昭和 20)の復活祭後宇部に転任」した 18)。その宇部教会(山口県)では、聖堂と司祭館の建設、幼稚園(2 園)の設立を成し遂げている 19)。 後に神父の上智大学社会福祉課程創設構想の協力者となる神藤克彦(岡山師範学校教授)20)は、岡山教会の 教会員であった。1946 年(昭和 21)頃、神藤の自宅を核に「聖書の研究会や、教理の研究会が催され、新旧の 信者が入り交って、熱心な討論が続けられた。長い戦争を経過し、虚脱状態に近い社会の中で、信者は餓えたる もののごとく、 神のことばに耳を傾けた」という 21)。また、当時、教会では「カトリックは如何なる社会政策を持っ ているのか ? 善業とは何か ? カトリックアクションは、如何にあるべきか ? 」等について議論がなされていた 22)。 神藤は、1950 年(昭和 25)に上智大学文学部教育学科に招かれ、やがてハイドリッヒ神父が責任を持つことに なる「上智大学神学講座」やクラウス・ルーメル神父が理事長を務めた「カトリック教育協議会」にも関わりを もつようになる。神藤は、1968 年(昭和 43)に「日本モンテッソーリ協会」初代理事長となり、1969 年(昭和 44)に「上智社会福祉専修学校」第 3 代目校長に就任する。さらに同年「上智大学モンテッソーリ研究会」代表 として「上智モンテッソーリ教員養成コース」設置の発起人を務めている。神藤は、1950 年(昭和 25)に月刊 『カトリック教育』の誌上で、児童中心主義の教育、社会中心主義の教育のどちらにも「智慧」が必要であると主 張し、その点からカトリック教徒であるモンテッソーリの教育に着目していることを記している 23)。モンテッソー リの逝去をうけて行われた平塚益徳による追悼放送「モンテッソーリ女史を偲ぶ」 (NHKラジオ、1952 年(昭 和 27))は、戦後にモンテッソーリ教育が再認識された端緒と一般的には言われているが 24)、神藤は既に放送の 2 年前からモンテッソーリ教育に注目していたことになる。 『上智社会福祉専門学校小史』及び『カトリック大辞典』によると、ハイドリッヒ神父は 1953 年(昭和 28)に山口 県宇部市から上智大学に異動し、上智大学文学部教授として社会倫理・宗教学を担当することとなった 25)。神父は、 上京後の一時期に、荒川区町屋の「上智社会事業団」に身を寄せているが、こうした生活経験を通して神父の社 会福祉構想は醸成され、 より堅固なものに形成されていったと言えよう。この事業団の前身は、関東大震災(1923 年)の惨状を受けて困窮者の多かった東京三河島町に、1931 年(昭和6)10 月上智大学教授のラサール神父によっ て開設された「上智カトリック・セツルメント」である。カトリック精神に基づき、貧困者の教育と救済を目的 としたこのセツルメントで、ラサール神父は、学生と共に貧しい人々と生活をともにしながら救済活動を行なっ た 26)。神父は、上智社会事業団創立 50 周年の折に「1929 年来日前、欧州で賀川豊彦の本を読み、神戸の貧民街 における彼の活動に深く共鳴を受け、私の日本における活動方向を決定づけ、幸いにも来日 2 年後には、上智大 ─ 14 ─.

(3) 戦後日本における社会福祉構想とモンテッソーリ教育再導. 学の学生諸君と共にこの活動に従事する」ことが出来たと記している 27)。また、神父は、創立当時の三河島地 域をふりかえり、 「生活困窮者が密集していて生活しており、家族全員が同時に寝ることが出来ないような非常 に狭く、今にも倒れそうな家々が立ち並び、戸はもとより窓からすらも一年中陽がさしこむことのない、いわゆ る『太陽のない町』 」であったと記している 28)。 また、1955 年(昭和 30)頃のセツルメントの状況について都筑は以下のように描写している。 この土地は東京でも恵まれない地区で、経済的理由で義務教育の中学でさえも通学出来ない児童が多く、 高等学校へ進学する生徒がわずか 4%で、4 畳半に 6 人家族はめずらしくない。家庭で子供達は働きに出た親 に代って兄弟の世話をしたり、内職の手伝いなどで忙しく、自分の時間がないか、又は反対に家の仕事のじゃ ま扱いにされている状態である。このような状態の中で、学生は小、中学生を相手に子供会、英語会を開き、 学習の場を与え、精神的、経済的援助を必要とする過程に積極的指導、助言をしている。戦後十年もたって も未だ混乱した社会からぬけきれないでいる中で子供達が真直ぐに生長することは非常にむづかしい。最近 になってやっと子供達を悪い環境から守る運動が行われ始めた 29)。 貧困者の教育と救済を目的とした「上智カトリック・セツルメント」の社会福祉の理念は、ハイドリッヒ神父 を通じて「上智社会福祉専門学校」に引き継がれていくことになる。 また、ハイドリッヒ神父は 1954 年 ( 昭和 29) にライフ神父から引き継いだ「上智大学神学講座」30)で修道女 や宗教科教員のための講義の企画等に取り組んだ。さらに、神父は 1954 年(昭和 29)から開催されるようになっ た「神学夏期講習会」 (会期 1 週間)にも指導者として継続して関わることになった。これらの講座は、1955 年 (昭和 30)には教育職員免許法に定める公開講座の指定を受け、宗教科教育職員免許取得が可能になる道が開か れた。神父自身も「聖会法」 (特に婚姻法) 「典礼学」 「比較宗教学」 「教理指導学」 「教理教授法」 「教理教授と聖書」 「宗教科教育法」「婚姻法」等の講座を担当している 31)。 「神学講座」には、後にモンテッソーリ教育の普及に関 わることになる神藤克彦、佐久間彪神父や塚本伊和男神父らも講師として関わっていた。特に塚本神父は 1962 年 1 月にカトリック中央協議会事務局次長に就任し、カトリック教育協議会内「モンテッソーリ研究会」の代表 者となった主要人物である。塚本神父とハイドリッヒ神父との間につながりができたことの意味は大きく、この ことが契機となってカトリック教育協議会主催の関東大会や、全国カトリック保育研究会を通してモンテッソー リ教育が、全国に広められることになったのではないかと考えられる。 ハイドリッヒ神父は「神学講座」を受講した修道女を通じて、「日本の各地で修道会などの経営する社会福祉 施設の専従職員の現状について知る」こととなった 32)。こうしてセツルメント及び「神学講座」との関わりから、 神父は「キリスト教と社会福祉実践を結びつける必要性を感じ始め」た 33)。また神父は急激な経済成長から取 り残され苦しんでいる多くの人々の問題を「学問的に研究し、支援の専門職の養成こそが、カトリック大学であ る上智大学の使命であると確信していた」34)。やがてその熱意は社会福祉課程の創設という形で結実することに なる。 「1963 年(昭和 38)春頃、ハイドリッヒ神父は、社会福祉事業に従事する人材の養成」に関して神藤克彦、 小林純一、山口善久等と共に可能性を探りはじめ、プロテスタント系大学と同様に、カトリック系大学において も社会福祉専攻の課程を設けるよう上智大学に強く訴えた 35)。1962 年(昭和 37)上智大学理工学部が増設され、 1963 年(昭和 38)に上智大学創立 50 周年を迎えた頃のことである。当時の社会状況として、日本全国で 300 箇所程あったカトリック系の社会福祉施設では、資格を持った人材が求められていたことが背景にあったが 36)、 当時社会福祉の資格を取得できるような学部や学科はカトリック系のどの大学にも存在していなかった。このよ うな状況下で、大学での学科新設の前段階として、夜間部で資格を取得できる社会福祉コースを設置することが 決まったのである 37)。神父は社会福祉事業に従事する人材養成を目指し、粘り強い交渉力で認可申請等の開設 準備を行なった。その結果、 1963 年(昭和 38)に「上智大学社会福祉専修科」 (夜間 2 年)は社会福祉事業法(昭 ─ 15 ─.

(4) 竹田 恵. 和 26 年法律第 45 号)第 18 条第 2 号の規定による養成機関として指定され、1964 年 4 月に開講した 38)。初代主 任には小林純一神父が任命され、事務所には上智会館1階のハイドリッヒ研究室が充てられた 39)。専修科では、 社会福祉主事資格及び保母資格(保育実習のみ検定試験で合格することが条件であった)の取得が可能であり、 教養科目については上智大学の教員が担当した。カリキュラムの中には、人間学やキリスト教学が必修科目とし て位置づけられ、最新の専門知識と最高の技術とをもち、かつキリスト教的な人間理解をもって社会福祉を実践 する人を養成することが神父の目標であった 40)。新設時の入講案内には、担当講師として三宅みち(保育理論)、 神藤克彦(カウンセリング) 、霜山徳爾(異常心理学、精神衛生学)、菊野正隆(栄養学及実習)の名前が記載さ れているが、いずれも戦後日本におけるモンテッソーリ教育の再導入に中心的に関わることになった人物と重 なっている。入学定員は 60 名で、3 学期制を取り、授業時間は第 1 時限午後 5 時 30 分~ 6 時 45 分、第 2 時限 午後 6 時 50 分~ 8 時 5 分であった。初年度には、志願者が定員 60 名の 2 倍を超えて集まり、昭和 4 1年 3 月に 79 名の第 1 期生が卒業した 41)。 「老人ホーム、病院等で働く者や修道院のシスター等、年齢も経歴もバラエテイー にとんだ学生」が集まったと記されている 42)。 『上智社会福祉専修学校卒業記念小論文』には、昭和 41・42 年度の科目担当者氏名一覧が掲載されている 43)。 その中でモンテッソーリ教育の再導入にも関わっていた担当者(担当科目)は以下の通りである。. 昭和 41・42 年度 科目担当者氏名(敬称略). 宗教哲学. P・ハイドリッヒ. 心理学 . 山下 栄一. 異常心理学. 霜山 徳爾. カウンセリング . 神藤 克彦. 教育原理. 神藤 克彦. 児童心理学. 山下 栄一. 保育原理Ⅰ―Ⅲ . 三宅 みち. 保育原理Ⅳ(モンテッソーリ研究法). 赤羽 恵子. 保育内容. 三宅 みち. 保育内容(言語) . 赤羽 恵子. 宗教科教育法. P・ハイドリッヒ. 『上智社会福祉専修学校小史』によると、1965 年(昭和 40)10 月に上智大学講師の土田將雄神父が社会福祉 専修科の 2 代目の主任となり、保母養成機関としての認可申請と専修学校開設の準備を担った。1966 年(昭和 41)4 月に社会福祉専修科は、社会福祉主事及び保母養成機関としての指定を受け各種学校として認可され、 「上 智社会福祉専修学校」へと整備され、土田神父が初代校長に就任した. 。. 44). また、ハイドリッヒ神父は、文学部社会学科の中に社会福祉コースを設置(1966 年(昭和 41))するために尽 力し、教授招聘にも関与した。神父自身も、社会福祉コースで社会倫理や哲学、カトリック神学を基礎にした社 会福祉の理論と実践について学生に講義している。社会福祉コースは 1976 年(昭和 51)に文学部社会福祉学科 として独立した。. ─ 16 ─.

(5) 戦後日本における社会福祉構想とモンテッソーリ教育再導. 2. 上智大学附属保育所「うめだ『子供の家』」の創設 ハイドリッヒ神父は社会福祉構想の中で「学生の実習と実践的研究の場として、モデル的福祉施設の建設を考 え … 中略 … 人口が密集しているにもかかわらず、社会福祉施設や教育施設に恵まれていない」東京都足立区梅 田の地域を候補地に選んだ. 。足立区は、1945 年(昭和 20)から 1950 年(昭和 25)にかけて急激に人口が増. 45). 加し(人口増加率 51.8%) 、1972 年(昭和 47)には人口が 60 万人を突破する勢いであった。ハイドリッヒ神父 は東京都庁、足立区役所に足を運び、同地域に最も必要とされる施設についてヒアリング等の調査、検討を行っ た結果、足立区梅田に保育所を建設することを決意する に「保育所作り運動」. 47). う社会情勢とも符合する. 。このハイドリッヒ神父の判断は、折しも 1960 年代. 46). が全国的な広がりを見せる中で、足立区においても同様な取組み. 48). が推進されたとい. 。ハイドリッヒ神父は用地の取得、購入資金の調達、保育所の設置認可申請等の煩. 49). 瑣な課題に粘り強く取り組んだ。特に保育園の用地探しに奔走し、遂に足立区梅田の空き地を見つけた時は、塚 本伊和男神父を電話で誘い出し、一緒に土地を見に行ったというエピソードの中で次のように語ったと記されて いる。 「この公園のとなり、いいですな」すでに決めて譲ってもらう自信に満ちた言葉だった。 「神様のためなら遠 慮はいらない」. 50). ハイドリッヒ神父が候補地として選んだ当時の梅田 7 丁目 20 番地の区域には、東京電力の社宅が既に建て始 められており、 当該空き地には社宅が 2 棟建つ予定であった。しかし神父が幾度も東電社長と交渉を重ねた結果、 建築計画は中止され、社会福祉施設の用地として譲渡されることになった 校法人上智学院理事長ニコラス・ルーメル. 。1964 年(昭和 39)4 月 23 日に学. 51). が東京電力株式会社社長木川田一隆に対して譲渡願いの手紙を送っ. 52). ている。文書の中には、土地の使用目的として1.保育実習の為の保育園設置、2.社会福祉専修科学生のため の寄宿舎、3.その他を挙げている. 。また、1964 年(昭和 39)8 月 1 日付上智大学理事長代理 P・Heidrich の. 53). 署名付きの「メモ代わりとして」には、譲渡についての謝意と価格に関する交渉について手書きで記されている. 。. 54). このメモからも明らかなように、ハイドリッヒ神父は譲渡の交渉に直接関わっていたことがうかがえる。 保育所の設置認可申請は、設置申請主体である上智学院が学校法人であるため、行政側は当初認可を拒否する 姿勢であった。保育所の設置主体については、従来原則として市町村と社会福祉法人に限られていたため、学校 法人としての申請は異例のことだったからである。しかしこれもハイドリッヒ神父の粘り強い交渉の結果、認可 を勝ち取っている. 。当時、足立区長の岡崎十止雄に宛てた施設設置に理解を求める手紙. 55). を認め推薦する旨の区長直筆の一文が署名とともに記されている. 56). には、設置の必要. 。こうして 1965 年 10 月 1 日に、学校法人. 57). 上智学院、上智大学附属うめだ「子供の家」の設置が東京都により認可された. 。初代園長は学校法人上智学. 58). 院理事長のチノ・K・ピオヴェザーナが務めた。 その後関係者の間から設置主体を社会福祉法人に移すべきであるとの意見が出されるようになり、1972 年 1 月には、うめだ「子供の家」は学校法人上智学院から社会福祉法人からしだねに事業経営移管され、理事長に白 柳誠一東京大司教が就任した. 。. 59). 3.うめだ「子供の家」とモンテッソーリ教育 うめだ「子供の家」は、戦後日本におけるモンテッソーリ教育再導入の草分けとして評価が定着している保育 所である。赤羽恵子は、日本人で初めてドイツでモンテッソーリ教員の国際資格を取得し、うめだ「子供の家」 にモンテッソーリ教育を導入する際に初代主任として、中心的な役割を果たした人物である。赤羽がモンテッ ソーリ教育と出会った経緯については、赤羽自身の複数の著作に記されている. 。. 60). ハイドリッヒ神父と赤羽との出会いは、神父が指導者を務めた「召し出しのための黙想会」. 61). ─ 17 ─. に遡る。15 歳.

(6) 竹田 恵. で敗戦を経験した赤羽は、数年後にカトリックの洗礼を受け、田園調布の観想修道会に入る決心を固めて黙想会 に参加する。その会の指導者であったハイドリッヒ神父は赤羽の修道会入りに賛成せず、代わりに上京して上智 大学の神学講座で学ぶことを勧めた。1954 年(昭和 29)に、赤羽はハイドリッヒ神父の紹介で、大田区の「白 百合幼稚園」に就職するが、前職が中学校の音楽教員であった赤羽にとって幼稚園は疑問に満ちた世界のように 感じられた。赤羽は「行事中心、教師中心、技術中心で表面的な事柄しか取り扱わない」1950 年代の日本の保 育界に批判的な立場を取るようになっていた。こうしたことを背景に赤羽は 1959 年(昭和 34)にハイドリッヒ 神父の斡旋により 3 年間の予定でオーストリアに留学をすることが決まった。 1959 年(昭和 34)3 月に横浜港を出発した赤羽は「ウイーン大司教区立女子専門学校」に入学したものの、 「幼 児の人格教育、子どもの本心、魂に触れるような保育実践」を見出すことが出来ず帰国を考えるようになってい た. 。赤羽は、1961 年(昭和 36)に学長から勧められた学生のための研修旅行に参加中に体調を崩したことから. 62). 一行と別行動をとることとなった。そこで赤羽は、日本を出国する前にあらかじめ紙片で渡されていた連絡先. 63). を頼りに、ケルンのシュメルツアーを訪ねた。シュメルツアーの案内で、ケルンの幼稚園教員養成学校(ラスキ 64) ン校長)を訪問した赤羽は、その場に偶然居合わせたヘレーネ・ヘルミング(Helene Helming) と出会う。そ. の場で赤羽が教育に対する思いを語ったところ、ヘルミングからモンテッソーリ教育の勉強を薦められ、ヘルミ ングの著書『モンテッソーリ教育学』を贈られた。また、その翌日からケルンの聖アルバン教会付属の「モンテッ ソーリキンダーハウス」の見学を許され、続けて 5 日間、観察をするうちに「誰かに指示をされて動くのではな く、時計を見ながら状況を判断して動く。先生が居る、居ないではなく、子ども一人ひとりが自分の秩序感に従っ て動く。これらの光景に心から驚き」本腰を入れてモンテッソーリ教育を勉強しなければならないと考えるよう になった. 。. 65). このような経緯から、赤羽はケルンの大学に在籍し新教育の動向研究をしつつ、モンテッソーリ・コースで学 ぶことになったのである。赤羽の卒業試験の際には、国際モンテッソーリ協会のマリオ・モンテッソーリとアダ 夫人、および事務局長のヨーステンらによる実技試験、口頭試問が行われた. 。赤羽は帰国に備えて、書籍を. 66). 買い揃え、絶版のものは借りてタイプライターで打ち直し、ドイツやオランダで撮ったカラースライドを千枚以 上作成した. 。それらのスライドは帰国後に講習会等で使用された。. 67). 1963 年(昭和 38)12 月末に帰国した赤羽は、その足で四谷のカトリック中央協議会に向かい、事務局次長の 塚本伊和男神父が召集した 30 名程の参加者を前にスライドを上映しながらモンテッソーリ教育の実践について 紹介を行なったが、 「異年齢混合組」 「自由」 について参加者の理解を得ることは難しかったようである. 。その後、. 68). 赤羽は 1964 年 1 月から約 1 年間、鼓常良の「月見が丘保育園」(京都)をモンテソーリ教育に切り替えるための 手伝いをして過ごしながら、カトリック保育研究会等でモンテッソーリ教育の紹介を行なった. 。. 69). その後、1965 年 4 月に赤羽は上智学院職員に採用され、1 学期間、保育所の認可申請をするために厚生省に足 繁く通いながら、環境整備に取り組んだ. 。赤羽を通してハイドリッヒ神父が知ることとなったモンテッソー. 70). リ教育法は、 うめだ「子供の家」の保育プログラムの骨格として取り入れられた。入園案内によれば、うめだ「子 供の家」は、昭和 40 年 8 月 15 日に設立され、上智大学文学部社会学科社会福祉専攻(大学 4 年課程)及び上智 社会福祉専修学校(夜間・2 年課程)の附属保育園として位置づけられていた。また目的として、モンテッソー リ教育に基づく学生の実習の場であることが明確に謳われていた. 。定員は 122 名で、職員は、園長 1 名、保母. 71). 8 名、事務・用務 1 名、調理人 1 名、嘱託医1名の計 12 名で構成されていた。また、手書きの入園のしおり 72)には、 保育時間が、午前 8 時−午后 2 時(但し家庭状況に照応し園長が必要と認めた場合にはこの限りではない。 )と 記され、休日については、日旺、祝祭日 夏休み(7 月 21 日− 8 月 20 日)冬休み(12 月 21 日− 1 月 7 日)但 し園長が必要と認めた園児はこの期間も保育すると記されていた。当時、モンテッソーリ教育に関心を持った多 くの実践家および研究者が見学に訪れたことから、うめだ「子供の家」はモンテッソーリ教育実施園の草分けと して評価が定着してゆくことになる。さらに、赤羽は上智社会福祉専修学校で保育内容の講義を担当し、「外国 ─ 18 ─.

(7) 戦後日本における社会福祉構想とモンテッソーリ教育再導. のスライドを使い、モンテッソーリ教具を持ち込んで」学生にモンテッソーリ教育の紹介を行なった. 。. 73). 4.日本モンテッソーリ協会と上智モンテッソーリ教員養成コースの設立 1966 年(昭和 41)8 月 17 日~ 23 日の 7 日間、現場の保育者からの要望に応えて、戦後初となる「モンテッソーリ教 育実践講習会」 (主催 うめだ「子供の家」幼児教育研究会)が、うめだ「子供の家」で開催された(30 名参加) 。 74). この講習会は、ルーメル神父、赤羽を中心とする上智大学の関係者、鼓常良を中心とする関西方面の関係者、お よびカトリック教育協議会内「モンテッソーリ研究会」の関係者ら複数のグループが一同に会して開かれたこと に特徴があり、この講習会こそが「日本モンテッソーリ協会」設立(1968 年)の礎と呼べるのではないかと考 えられる。翌 1967 年(昭和 42)の講習会には、90 名が参加し、 「日本モンテッソーリ協会設立準備会」が発足し、 ハイドリッヒ神父も設立準備会の発起人をつとめている。1968 年(昭和 43)7 月 21、22 日に上智大学で開催さ れた「第1回 日本モンテッソーリ協会総会並びに講習会」初日の 7 月 21 日午後 3 時 30 分から設立総会が開か れ「日本モンテッソーリ協会」 (Japan Association Montessori ;JAM)が承認された。設立の主要目的は「モンテッ ソーリ教育の理論と実践の研究とその普及」にあり、事務局は、うめだ「子供の家」に置かれ、1968 年度の会 員数は 424 名であったと報告されている ハイドリッヒ神父の報告. 76). 。. 75). によれば、神父は 1968 年 9 月 25 日、国際モンテッソーリ協会会長のマリオ・モ. ンテソーリをアムステルダムに訪ね、数時間にわたり懇談の時をもち「日本に於けるモンテッソーリ協会と国際 モンテッソーリ協会の一致について」話し合いをした。その際に神父は、鼓常良の「月見ヶ丘子供の家」及び「桂 幼児教育研究所」 、うめだ「子供の家」 、 「上智大学モンテッソーリ研究会」の設立、及び第1回「日本モンテッ ソーリ協会総会並びに講習会」の開催について報告をし、鼓が翻訳したマリア・モンテッソーリ著『幼児の秘密』 を贈呈している。神父から日本モンテソーリ協会の現状報告を聞いたマリオ・モンテッソーリは、会の発展をお おいに喜び、将来の協力を約束した上で、日本モンテッソーリ協会について定期的な報告をすることと、オラン ダ本部の明確な合意なしにモンテッソーリ教員の免許状を出さないように求めたと記されている。ルーメル神父 は、ハイドリッヒ神父に向けた追悼文の中で「ハイドリッヒ師はAMI(国際モンテッソーリ協会)のマリオ・ モンテッソーリ氏とアムステルダムで懇談し、師の並々ならぬ努力によってAMIの承認による、日本における 唯一のモンテッソーリ協会は設立された」と記している. 。. 77). その後、ハイドリッヒ神父は、モンテッソーリ教員養成の組織化に力を注ぎ、日本国内に教員養成コースを設 立すべく奔走する。当時、日本国内にモンテッソーリ教具が出回るようになったものの、教具を買っても「モン テッソーリの根底にある思想やそれぞれの教具の正しい用い方が分らず、正に宝の持ち腐れで、ややもすると弊 害になる危険性もあった。このような状況の中ハイドリッヒ神父は、日本で正式な教員養成コースを設立すべく 奔走した」のである. 。神父は、国際モンテッソーリ協会と交渉を始め、マリオ・モンテッソーリとの間で何. 78). 度も書簡による折衝を繰り返した。1969 年(昭和 44)12 月 1 日付で上智大学モンテッソーリ研究会代表の神藤 克彦、菊野正隆、霜山徳爾により「モンテッソーリ教員養成コース設置趣意書」が提出されて、1969 年 12 月 17 日には、学校法人上智学院の理事会で教員養成コースの設置が承認された. 。1970 年 1 月 3 日にハイドリッヒ. 79). 神父がマリオ・モンテッソーリに宛てた手紙の中で、教員養成コースが「上智学院」理事会で承認されたこと、12 月 24 日には正式な組織委員会が開催されること等が報告され、委員長菊野正隆、事務局長坂本堯以下 12 名の委員 の氏名が記載された。ハイドリッヒ自身については、情報・広報担当に任命されたことが報告されている のような経緯で 1970 年に「上智モンテッソーリ教員養成コース」は創設されたのである。. ─ 19 ─. 。こ. 80).

(8) 竹田 恵. おわりに 以上見てきたように、ハイドリッヒ神父の第一義的な関心対象は社会福祉の分野に向けられており、モンテッ ソーリ教育そのものに対してではなかった。それにもかかわらず神父の上智大学における社会福祉課程創設への 熱意は、副次的な成果としてモンテッソーリ教育が日本に再導入される際の原動力として機能したことは疑い得 ない。神父の社会福祉課程創設に向けての一連の動向は、戦後の日本で組織的にモンテッソーリ教育運動が展開 される端緒として位置づけられるものと考えられる。 戦前においてモンテッソーリ教育の初期導入が定着しなかった理由として、 「正確にモンテッソーリ教育が紹 介されたとはいえず、継承者が誕生する」には至らなかったこと、及びモンテッソーリ教育を推し進めようとす る明確な意思を持った組織が作られなかったことが指摘されている. 。これらを考え合わせると、ハイドリッ. 81). ヒ神父が「日本モンテッソーリ協会」の設立や、「上智モンテッソーリ教員養成コース」創設の準備過程に精力 的に関わって組織化を推進したことにより、戦後の日本にモンテッソーリ教育が定着するに至ったと結論付ける ことができる。 本稿においては、ハイドリッヒ神父による上智大学社会課程創設の動向を中心に戦後の日本におけるモンテッ ソーリ教育の展開過程についての検討を試みた、今後の課題としては、鼓常良を中心とした、関西方面の実践家 や研究者の動向、さらには平塚益徳の動向についてそれぞれ、検討してゆきたいと考えている。. 注. 1) モンテッソーリは、 児童中心主義の流れをくむ「新教育運動」の実践者の一人として知られている。モンテッ. ソーリ法による教育実践は、1907 年に当時のスラム街であったローマのサン・ロレンツオ地区に開かれた 「子どもの家」における実践をもとに記された著作『子どもの家における幼児教育に適用された科学的教育 学の方法』の公刊と同年に開催された「モンテッソーリ教員養成コース」の 2 つのチャンネルを通じて国 際的に広まっていった。 2) 吉岡剛「モンテッソーリと日本」 (クラウス・ルーメル編『モンテッソーリ教育の道』学苑社、1993 年)53−58 頁。. 3) 鼓常良は、1954 年(昭和 29)に大阪市立大学を退官後、保育園の経営に携わることとなりドイツから幼児. 教育関連の本を取り寄せたところ、マリア・モンテッソーリ著『幼児の秘密』 (ドイツ語訳)が送られてき た。この偶然がきっかけとなりモンテッソーリ教育に関心を寄せるようになり、1964 年(昭和 39)に京都 の「月見ヶ丘保育所」で日本初の本格的なモンテッソーリ教育の実践を始めた。また、モンテッソーリの 主要 3 部作『幼児の秘密』 、 『子どもの発見』 、 『子どもの心』及び『私のハンドブック』を翻訳出版し、「日 本モンテッソーリ協会」初代会長を務めている。(市丸成人、松本静子著『モンテッソーリ教育の理論と実践』 [ 下巻 ] エンデルレ書店、昭和 62 年、149−162 頁。 ) 4) 平塚益徳は 1931 年東京帝国大学大学院生時代に「欧米における於けるモンテッソーリ運動」を紹介したこ. とからモンテソーリ教育との関わりが始まり、 「モンテッソーリの學校」 (岩波講座『教育科学』第 9 冊、 昭和 7 年) 、 「その後のモンテッソーリ運動」 ( 『教育』昭和 13 年)等の論文を刊行した。1960 年にパリのユ ネスコ本部教育局長に就任した平塚は、1961 年に「国際モンテッソーリ協会」の役員に委嘱され、その後 1971 年 7 月に「日本モンテッソーリ協会」第 2 代会長に就任している。 5) クラウス・ルーメル神父:1916 年にドイツのケルンで誕生し、1935 年にイエズス会北トドイツ管区に入会。. 1937 年に来日し、1945 年に広島で司祭に叙階される。1953 年 4 月に上智大学文学部助教授に任命され、学 校法人上智学院理事長、上智大学副学長、カトリック教育協議会理事長、上智モンテッソーリ教員養成コー ス委員長、日本モンテッソーリ協会会長その他を歴任した。 「クラウス・ルーメル神父略歴」高祖敏明編著 『ルーメルファミリー回想 クラウス・ルーメル神父追悼文集』学苑社、2012 年、367-371 頁。. ─ 20 ─.

(9) 戦後日本における社会福祉構想とモンテッソーリ教育再導. 6) クラウス・ルーメル「日本におけるモンテッソーリ教育の開拓者ペトロ・ハイドリッヒの死を悼む ― 他人. のために生きた人 ―」 ( 『モンテッソーリ教育』第 23 号、1990 年)99 頁。 7) 吉岡剛「わが国における Montessori Method の移入 ― その歴史と現在の動向」 (『聖母女学院短期大学家政学. 科研究紀要』第5輯、1973 年、70−91 頁) 、 「我国におけるモンテッソーリ教育の諸動向 ― 主として戦後の 出版状況について(1)―」 ( 『佛教大学教育学部論集』第 11 号、2000 年、201−214 頁) 、他 3 編、市丸成人、 松本静子編著『モンテッソーリ教育の理論と実践』[ 下巻 ] エンデルレ書店、昭和 62 年、140−191 頁」、青 山キヌ「近代幼児教育史研究Ⅱ ― 日本におけるモンテッソーリ教育の展開とその教育的意義 ―」 ( 『長崎純 心短期大学紀要』1994 年、77−84 頁) 、相良敦子「モンテッソーリ教育の特殊性と普遍性 ― その限界と寄与」 1981 年、 114−124 頁)。〈教育エッセイ〉クラウス・ルーメル「モンテッ ( 『聖母女学院短期大学紀要』第 11 集、 ソーリ教育 40 年を顧みて(1) 」 ( 『モンテッソーリ教育』第 41 号、2008 年、116−132 頁)他 2 編。以上先 行研究の中で、クラウス・ルーメルが著した教育エッセイの中に、1967 年以降のハイドリッヒ神父とモン テッソーリ教育の再導入との関わりについては著述されているが、神父と町屋のセツルメントとの関わり、 及びうめだ「こどもの家」設立につながる初期の具体的な展開についての記述は見当たらない。 8) ポール・フィスター神父「ペトロ・ハイドリッヒ神父の足跡」 (記念事業実行委員会代表塚本伊和男『記念. 誌からしだね』1990 年)9 頁。クラウス・ルーメル「ハイドリヒ」(『カトリック大辞典』1996 年)1613 頁 ―1614 頁。 9) 同上。1921 年(大正 10)8 月に、イエズス会は、中国地方 5 県の司牧を引き受け、1923 年(大正 12)には. 広島教区が設立された。 10) 同上。. 11) 岡山カトリック教会創立百周年記念事業実行委員会百年史部『岡山カトリック教会百年史』昭和 58 年、37 頁。. 12) 同上『岡山カトリック教会百年史』37 頁。. 13) 同上『岡山カトリック教会百年史』37 頁。 14) アルペ神父は、1938 年に来日し 1942 年広島で修練院長をつとめる。1965 年にイエズス会総会長に就任す るまでイエズス会の日本管区長をつとめたことから上智大学と深いかかわりを持つようになった。 15)「K.ルーメル神父様による愛宮ラサール伝『世界平和記念聖堂研究会・広島』」. 16) 前掲『岡山カトリック教会百年史』37 頁。 17) 前掲『岡山カトリック教会百年史』242 頁。 18) 同上『岡山カトリック教会百年史』65 頁。 19) 前掲『記念誌からしだね』 20) 神藤克彦(明治 39- 昭和 54 年)徳島県生まれ。昭和 3 年広島高等師範学校を卒業、1 年間鳥取師範学校に 勤務の後、再び広島文理科大学で学業を続け卒業。その後高知師範学校、岡山師範学校に勤務。昭和 25 年 に上智大学に迎えられる。 21) 前掲『岡山カトリック教会百年史』44 頁。. 22) 同上『岡山カトリック教会百年史』44 頁。 23) 「現代教育の原理は方法の長所を眞に長所ならしめるためにはどうしてもカトリック的世界観人生観が必要 (で)… 中略 … カトリック的心理内観的智慧を備えたものこそ、その實際指導面に於て誤なく教育効果を 挙げ得るのだと信ぜられる」神藤克彦「カトリック教育の立場 ― 智慧の働きこそ問題 ―」 ( 『カトリック教 育』第 3 號、1950 年 6 月 1 日) 24) 前掲、吉岡剛「わが国における Montessori Method の移入 ― その歴史と現在の動向」. 25) 『上智社会福祉専門学校小史』 」 ( 『上智社会福祉専門学校創立 25 周年記念誌』1988 年)及び『カトリック大. 事典』 ─ 21 ─.

(10) 竹田 恵. 26) 『上智大学史資料集』第 3 集(1928-1948)、昭和 60 年。 27) 『上智大学社会事業団創立 50 周年記念誌』上智社会事業団、昭和 56 年、6 頁。 28) 同上。 29) 都筑保「セツルメントにおける学生の活動」(『カトリック教育』1955 年 12 月 1 日) 30) この講座の源流は、クルトウール・ハイム(kulturheim は kultur(文化)と Heim(ホーム)をつなぎあわせ た造語)で知識人の集まる茶の間といった意味を表す。 (初代会長、武宮隼人)1937 年に開設し、1940 年 にロゲンドルフ教授がこの仕事を引き受け、1945 年までに少なくとも毎月 1 回講演会か座談会が開かれた。 (講演;柳宗悦、三木清、田中耕太郎、吉満義彦その他)『上智大学 50 年史』上智大学出版部、昭和 38 年、 110-111 頁。 31)『カトリック教育』 『カトリック新聞』掲載記事より. 32) うめだ「こどもの家」創立者の紹介 http://www.umeda-kodomo.com/souritu.html 最終アクセス日 2014 年 1 月 13 日。 33) 記念事業実行委員会(代表塚本伊和男) ( 『記念誌からしだね』1990 年)9 頁。神学講座の礎は、1949 年(昭. 和 29)に、ロゲンドルフ神父が一般向けに開いた神学講習会にあった。神学講座については、T・ゲッペ ルト「上智大学公開講座」 (上智大学史資料集編纂委員会、委員長クラウス・ルーメル『上智大学史資料集』 第 4 集(1948 ~ 1969)学校法人上智学院、平成元年)に記されている。 34)「創設者ペトロ・ハイドリッヒSJ、No5」( 上智大学公式サイトWebで知る “ SOPHIA ”). 最終アクセス日:2013 年 3 月 21 日 www.sophia.ac.jp/jpn/aboutsophia/sophia_spirit -. 35)「上智社会福祉専門学校小史」 ( 『上智社会福祉専門学校創立 25 周年記念誌』1988 年)9 頁。. 36) 同上、9 頁。 37) 同上、9−10 頁。 38) 「上智社会福祉専修科」の入学案内には、「上智大学は昭和 38 年 12 月 12 日付厚生省収社 698 号により、社 会福祉主事養成機関としての指定を受け、夜間 2 ヶ年の社会福祉専修科の新設を見ることとなった」と記 されている。クラウス・ルーメル「社会福祉専修科の指定」(上智大学史資料編纂委員会、委員長クラウス・ ルーメル『上智大学史資料集』第 4 集(1948 ~ 1969)学校法人上智学院、平成元年)58−63 頁。 39) 上智社会福祉専門学校『上智社会福祉専門学校創立25周年記念誌』1988 年 10 月 20 日発行、10 頁。. 40) うめだ「こどもの家」創立者の紹介 http://www.umeda-kodomo.com/souritu.html 最終アクセス日 2014 年 1 月 13 日。 41)『上智社会福祉専門学校小史』 上智大学史資料室所蔵。. 42) 同上。 43) 上智社会福祉専修学校卒業記念小論文委員会編『上智社会福祉専修学校卒業記念小論文』昭和 44 年 6 月 1 日、 83 頁。上智大学史資料室所蔵。 44) 昭和 41 年 1 月 13 日付で申請のあった上智社会福祉専修学校の設置は、学校教育法第 83 条第 3 項において. 準用する同法第 4 条の規定により認可する。昭和 41 年 3 月 9 日 東京都千代田区長 遠山景光 45) 春見静子「社会福祉法人の 20 年を省みて」(『記念誌からしだね』1990 年)16-7 頁。. 46) 同上。 47) 「1960 年代 … 中略 … 保育所づくり運動が全国的に展開された。… 中略 …1960 ~ 70 年代の保育運動は戦 後社会運動史の一つの画期をなした」橋本宏子『戦後保育所づくり運動史』ひとなる書房、2006 年。 48)「1947 年、 1960 年代、 児童福祉法が制定され、 『市町村が保育の実施に責任を持つ』と明記されました。その後、. 『ポストの数ほど保育所』を合い言葉に保育所づくり運動が全国に広がり、足立区でも活発に展開されまし た。」橋本ミチ子議員「公立保育所の建設で待機児解消、足立区の子どもを守れ」2009 年度 2 月 25 日第 1 ─ 22 ─.

(11) 戦後日本における社会福祉構想とモンテッソーリ教育再導. 回足立区議会定例会。一般質問より。 49) 1967 年に総理府が行った「保育及び就労に関する母親の意識調査」の調査結果によると、35%の母親が「保. 育所をふやす、内容を充実する」ことを望んだ。このように保育所設置の要求は高まっていた。 (岡田正章 編『戦後保育史』第二巻、フレーベル館、昭和 55 年、178-188 頁。 ) 50) 塚本伊和男「ハイドリッヒ神父様と私」(『記念誌からしだね』1991 年) 。. 51) 赤羽恵子「意志さえあれば道もある」 (『記念誌からしだね』1991)43 頁。 52) クラウス・ルーメル神父は、上智大学に赴任した際に院長から呼び名の変更を求められ、その後契約書等に、 ニコラス・ルーメルとサインをしている。既に大学にヨハネス・クラウスという名の神父がいたことが原 因であった。 (クラウス・ルーメル、 赤羽孝久編『ルーメル神父来日 68 年の回想』学苑社、2004 年)38−39 頁。 53) 上智大学史資料室所蔵。. 54) 上智大学史資料室所蔵。 55) 前掲、赤羽恵子「意志さえあれば道もある」43 頁。 56) 東京都足立区区長 岡崎十止雄殿 学校法人 上智学院 理事長 クラウス・ルーメル … 前略 さて、社会の要請するところにより、社会福祉主事資格養成機関として厚生省の指定を受け、社会福祉専修 科を本年 4 月より開講いたしましたがこれが実習施設として貴区内に保育園及び学生寄宿舎を設置すべく 目下東京電力株式会社御所有地の土地の一部の割愛を交渉中にしてこれが実現に努力して居ります。御承 知の通りこの社会福祉専修科は社会福祉事業に専門的に従事する有能な人格者を養成することを使命とす るもので、キリスト教的使徒的使命を達成するソーシャルワーカーを養成するものであります。以上この 様な施設を貴区内に設置するが為には、区の皆様の御理解と御協力を得なければ教育の実を上げられない ことは勿論、その効果を期することが出来ないと信じて居ります。ついては社会福祉教育の社会的必要性 を御認識の上何かと御支援御指導を将来とも賜りたく御願いいたすのであります。 敬具 上智大学史資料室所蔵。 57) 上智大学史資料室所蔵。 . 58) 上智大学史資料室所蔵。 59) 「カトリック教会の社会福祉事業として位置付けるという了解のもとに、上智学院は土地と建物を寄付し、 白柳誠一大司教を理事長とする新しい社会福祉法人からしだねがつくられた」春見静子「社会福祉法人の 20 年を省みて」 ( 『記念誌からしだね』1990 年)16-7 頁。 60) 赤羽恵子「モンテッソーリ教育との出会い」(『モンテッソーリ教育』第 44 号、2011 年) 。. 赤羽恵子「モンテッソーリ教育との出会い」(『自由を子供に』第 6 号、1991 年) 。. 赤羽恵子『モンテッソーリ教育の道』学苑社、1993 年。. 61)「司祭になる」 「奉献生活者」なることをカトリックでは「召し出し」「召命」と呼ぶ。 . 62) 前掲、赤羽『モンテッソーリ教育』第 44 号、7 頁。 63) 紙片は「R神父、H神父」から渡されたと記されているが、状況からハイドリッヒ神父、ルーメル神父の ことであると思われる。前掲、赤羽( 『モンテッソーリ教育』第 44 号、2011 年) 。 64) ヘルミング(1888−1977)は、西ドイツ、ノルトライン・ヴェストファーレン州のアーハウスに生まれた。. 1924 年に、アーヘン市立「フレーベル幼稚園教員養成所」所長となり、1930 年ローマでモンテッソーリ主 宰の「モンテッソーリ教員養成コース」に入学しモンテッソーリ自身から直接指導を受けた。帰国後「フレー ─ 23 ─.

(12) 竹田 恵. ベル幼稚園教員養成所」に「モンテッソーリ子どもの家」を創設して、モンテッソーリ教員の養成に努め るとともに、モンテッソーリ教育を全ドイツに普及させるために、著作活動や講演に全力を投じた。1946 年ヘルミングはエッセン教育大学の学長に迎えられ、退官までの 10 年間、幼児教育学、特にモンテッソー リ教育学の研究に専念し、後進の指導にあたった。その成果は 1958 年『モンテッソーリ教育学』として発 表された。平野智美「訳者あとがき」 (ヘレーネ・ヘルミング『モンテッソーリ教育学』エンデルレ書店、 昭和 57 年) 。 65) 前掲、赤羽『モンテッソーリ教育』第 44 号、10 頁。. 66) 同上、10 頁。 67) 前掲、赤羽『モンテッソーリ教育の道』69 頁。 68) 前掲、赤羽『モンテッソーリ教育の道』70 頁。 69) 前掲、赤羽『モンテッソーリ教育』第 44 号。その他『自由を子供に』、『モンテッソーリ教育の道』。 70) 赤羽恵子『モンテッソーリ教育との出会い』 (クラウス・ルーメル編『モンテッソーリ教育の道』学苑社、 1993 年)、72 頁。うめだ「子供の家」入園案内 目的 2. ソフィア社会福祉機関として、単に目前の要保 護児童を救済援助するだけではなく、さらに進歩的なモンテッソーリ教育法に基づいて、児童福祉業を目 指す学生に最も適切な実地訓練を与える 72) 上智大学史資料室所蔵資料。. 73) 前掲、赤羽『モンテッソーリ教育の道』72 頁。 74) 同上、73 頁。 75) 「報道欄」 『モンテッソーリ教育』第 2 号、1969 年、104−107 頁。 76) ペトロ・ハイドリッヒ「国際モンテッソーリ協会会長マリオ・モンテッソーリ氏を訪問した時の報告」『モ ンテソーリ教育』第 2 号、1969 年、45−46 頁。 77) 前掲、クラウス・ルーメル「日本におけるモンテッソーリ教育の開拓者ペトロ・ハイドリッヒ師の死を悼. む ― 他人のために生きた人」99−100 頁。 78) クラウス・ルーメル「上智モンテッソーリ教員養成コース」 1999 年、 125 頁。 『モンテッソーリ教育』第 32 号、. 79) クラウス・ルーメル「モンテッソーリ教育 40 年を顧みて(2) 」 『モンテッソーリ教育』第 42 号、2009 年、. 115−116 頁。 80) 同上、119 頁に手紙のコピーが掲載されている。. 81) 甲斐仁子「アメリカにおけるモンテッソリ教育に関する一考察(10)― 一般文化社会における教育の展開 ―」 ( 『日本保育学会大会研究論文集』(52)、1999 年 450−451 頁) 。. ─ 24 ─.

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参照

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