論題 再論「江郎才尽」 : 江淹の価値観をめぐって
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(2) 宣城太守を辞めて帰り、最初に川辺の禅霊寺. 質明迹之、乃一小民傭酒館者。捐百緡予使鬻酒、. に泊まった、その夜、夢の中、自ら張景陽と名. 久之不復能歌渭城矣。近一江右貴人、強仕之始、. 乗る一人の男が現れ、江淹に「前に一匹の錦を. 詩頗清淡。既渉貴顕、雖篇什日繁、而悪道岔出。. 贈りましたよね。今返してくれますか?」と聞. 人怪其故、予曰、此不能歌渭城也。. いた。江淹は懐中を探り、数尺の錦を得、彼に. 江淹が錦を裂き、五色の筆を還す夢を見て以来、. 与えた。此の人は大いに怒り、「どうしてずた. 文章に佳句が無くなり、人は彼の才が尽きたと. ずたに切り裂きましたか?」と言った。「余っ. 謂う。鮑照もまた才が尽きたと謂うが、まった. た此の数尺の錦を持っても、使う処がありませ. く間違えていると思う。昔、夜、「渭城」とい. 3). を顧. う民間歌謡のきれいな歌声を耳にした人が居. みながらこう言った。その時から、江淹が文章. た。彼がその歌い手を調べてみると、なんと酒. に躓くことになった。又、嘗て冶亭に宿を借り. 館に雇われている一人の小民である。百緡 6)の金. た時、夢の中に自ら郭璞と名乗る一人の立派な. を与え、酒の商いをさせた。久しい時間が立つ. 男が現れ、江淹に「儂の筆がそなたの処にあり、. と、上手に「渭城」を歌えなくなった。最近、. かなり年月を過ぎたが、もう返すがよい。」と. 江右 7)の貴人で、四十代 8)の初めの人が、清ら. 言った。江淹は懐中を探り、五色の筆一つを得. かで、さっぱりとした自然な詩風を成し遂げて. て、彼に渡した。その後、詩を作るには、絶え. いた。しかし、官位が高くなると、文章が日に. て美句無し。当時の人は之を才能が尽きたと謂う。. 日に繁雑になっていき、悪い気風が頻りに顕わ. とある。張景陽は即ち西晋を代表する詩人の一人張. れてくる。その理由を人は怪んだ。私は、「こ. 協であり、景陽は彼の字である。前述した『詩品』. れは(金を儲け、豊かになった後、)「渭城」を. では、同時代の名高い詩人陸機とともに「上品」と. 歌えなくなった(例の小民と同じだ)」と言った。. いう一番高いランクに位置付けられている。郭璞は. とある。彼の後、清の時代の評論家劉熙載もまた、. 西晋から東晋に亘り、文学者、卜者として活躍して. 江淹が晩年に高官に就き、文学創作の質が悪くなり、. いた。五行、天文、暦法、文学など多方面の知識を. 才能が尽きたと嘲られたと考えている。. 有する博学多才の学者である。江淹の文学才能が張. 近代の先行研究に至ると、江淹の詩賦の文学的分. 協、郭璞から授けられ、また錦、五色の筆を返すこ. 析、詩学思想について、稀代麻也子の『江淹「雑体. とによって、彼らに回収されていく。これはもちろ. 詩」の曹丕』9)、黒田真美子の『江淹詩の叙景表現. ん当時の人が江淹の才能が尽きたことを説明するた. 10) について : その色彩を中心として』 、福井佳夫の『江. めの作り話に過ぎず、伝説として面白みがあるかも. 淹の「恨賦」について』11)、森博行の『江淹「雑体詩」. しれないが、文学研究としては何の信憑性もないと. 三十首について』12)等、数多くの論文成果が上げら. 思う。このような小説家の如き説は当然後世の学者. れているが、一方、「江郎才尽」の問題についての. に厳しく批判されている。明の時代の学者張溥はこ. 研究が非常に少ない。曹道衡の『江淹及び其の作品』. う述べている。. 13). 世猶伝文通暮年才退。張載問錦、郭璞索筆、則. 氏の『江淹年譜』15)等の文章がこの問題に少し触れ. 幾妒口矣。. ているが、結局前代学者達と同じ意見に落ち着く。. 世に猶お江淹が晩年に才能が尽きたと伝えてい. 私はこの問題に関して、他のより深い原因が隠さ. ん。あなたに差し上げましょう。 」丘遅. る。張載. 4). 、『江淹詩歌の幾つかの問題を論ず』14) と丁福林. れていると考え、原典である歴史資料に立ち戻った。. が錦を問い、郭璞が筆を索めるとい. うのは、殆ど小人の嫉妬心によるものである。. すると、この謎を解くヒントをたくさん得たのであ. 張溥はこのように伝説的な解説を否定したが、江. る。例えば、江淹と南斉文壇の風雲児で、「永明体」. 淹が晩年に才能が尽きたことの本当の原因について. 16). 新しい説をついに提起しなかった。これは明の後期. ると、文学思想では、江淹は沈約と異なる文学主張. の学者王世貞を待たねばならぬ。彼の歴代詩話評論. を持っている。四声論 17) の応用、近世のわかりや. 集『芸苑巵言』には、. すい典故の引用、対句を用いる文章構成等、新しい. 文通裂錦還筆入夢以来、便无佳句、人謂才尽。. 文体形式を通じて詩歌を一新した沈約は近世の文学. 鮑照. 論文. 5). の代表的詩人である歴史学者沈約とを比較してみ. を重んじ、古代の詩文を軽んじるのは当然である。. 亦謂才尽、殆非也。昔人夜聞歌渭城甚佳、. 2.
(3) しかし、形式より詩歌の内容を重視している江淹は. 江淹の「人生当適性為楽」という価値観が形成. 古今の異なる個性を持っている文学を兼愛すべきで. された原因. あると主張している。詩歌の形式は時代の変遷とと. 後漢、魏の時代、曹丕は嘗て自らの著作『典論』 「論. もに変わっていくが、人を感動させる「魄」、 「魂」. 文」の中で、「著述立名(著述を以って、名を立て. 即ち詩歌の内容、詩歌に表現された詩人の感情は不. る)」という文学主張を強調し、「蓋し文章は、経国. 変である。即ち歌を以て志を言い、情を言うという. の大業にして、不朽の盛事なり」と書いている。21). 部分は最も重要である。人に深い感銘を与えれば、. それによって、文学を魏までの歴史上一番高い位置. 即ち良い詩である。詩歌の形式は時代により各自の. に於いた。昔、荘子はこう言っている。「人生は白. 特色を持っている為、優劣の差がないのである。江. 駒の隙を過ぐるが如し」と。人生は白馬が走るのを. 淹は「雑体 ( 詩 ) 三十首」18) に於いて、前漢より南. 板戸の隙間からみているように、あっと言う間に過. 朝の宋の時代まで三十人それぞれ異なる風格を持つ. ぎてしまうものだ。生に涯あり。人生はまるで夢の. 詩人の五言詩を擬している。江淹はこれらの詩人の. ように瞬きをする間に終焉を迎える。このような瞬. 作品はそれぞれの異なる時代の特色を代表し、その. 時にして消えていく人生を超越するために、著書し. 時代の特有の美しさを持っていると考えたのであ. て名声を残すしかないと曹丕は思い込んでいる。故. る。政治面では、沈約が所属している「竟陵八友」 19). に、彼は文学を個人の命より尊いものと見なしてい. という文学集団のクーデターで竟陵王蕭子良を皇. る。人間は一時の快楽に耽溺すべからず、著述に精. 位に就かせる政治陰謀を見抜き、自ら、この文学集. を出すべし、と彼は提唱している。しかし、江淹は. 団から遠ざかることにより、短視的な沈約らより遠. 自分が編んだ文集の為に書いた「自序」の中に、曹. 見の識がある処世術を身につけていると言えよう。. 丕とまったく相反する文学、人生観を現した。 「人. 文学、政治の両面では、異論を唱える江淹は当時の. は生まれつきの自分の天性に従い、目前の人生を楽. 文壇を支配する「永明体」詩人らの恨みを買い、才. しむべきである。身後の名のために著述に励み、精. 能が尽きたと嘲笑された可能性もあると思われる。. 力や思慮の限りを尽くすほど愚かなものはない」と。. また、南斉武帝蕭賾の人材選抜政策も江淹の晩年. また、「愛子を傷む賦」の中に、彼は「雖十紀之空. に才能が尽きたと揶揄されることと深く関係してい. 名、豈百齢之能要 ( 十紀の空名と雖も、あに能く百. ると推測している。当時、武帝蕭賾が特に政治実務. 年の齢を求めんや ) 」22)と第二子の死を悼んだ。身. に長ずる寒族の文人を重用し、詩の形式ばかりを重. 後の名はただ雲煙のように瞬間的に過ぎ去るもので. んじている声律論という経国に役に立たない文学理. ある。これに比べれば、目下の人生の方が遥かに重. 論を書く、豪族出身の「士流文人」(たとえば、前. 要である。この価値観により、江淹は著書のことを. 述した永明体詩人ら)を軽蔑した。常に積極的に自. 念頭におかず、その故に、文才が尽きたと諷刺され. 分の政治才能を発揮したいと願う江淹は無用な長物. ていると筆者は考えている。しかも、江淹のこのよ. と見なされたくないので、晩年、政治の実務用の公. うな価値観を形成するまでに以下の三時期を経たと. 用文を多く作り、個人の感情を表現する詩文を創作. 推測している。. しなかったのであろう。それは彼の才能が尽きたと 貶されるもう一つの要因かもしれない。. 1. 寒族出身、艱難に満ちた少年時代 (13 歳から 19 歳まで). 以上の二点についてまた別の論文を用意し、深く 論じたいと思う。更に、江淹が人生の様々な紆余曲 折を経て、最後に「人生は当に性に適ふを楽しみと. 江淹の出身について、『南史』巻五十九江淹伝 23)、. 為すべし。安んぞ能く精意苦力して、身後の名を求. 『梁書』巻十四江淹伝 24)では、彼は済陽考城の人だ. めんや」20)という価値観に辿り着き、その人生観に. と等しく記載されている。『宋書』巻三十五州郡志. より、彼は晩年に文学作品を作ることを自ら放棄し. 一 25)では、以下のような記録がある。. た。本稿はこの過程を追跡しながら、江淹のこの文. 考城、前漢曰甾、属梁国、章帝改曰考城、属兗. 学的失墜の背後の本当の原因は恐らく彼自身にある. 州陳留郡、晋恵帝分属済陽郡、以永嘉大乱、郡. と解明してみたいと思う。. 人南渡而僑置於南徐州。南徐州治京口、為丹徒. 3. 論題 再論「江郎才尽」 〜江淹の価値観をめぐって〜.
(4) 県西郷、即今江蘇鎮江市。. らかである。. 考城、前漢では甾と言い、梁国に属した。(後. しかも、『南史』巻五十九江淹伝によれば、江淹. 漢)章帝(劉炟)が考城と名前を改めた。兗州. は十三歳の時、父を亡くし、生計を維持するために、. の陳留郡に属した。晋の恵帝の(時)、済陽郡. 毎日一人で山へ柴刈りに行かねばならぬ。早くから. に分属した。永嘉の大乱を以て、同郡の人は南. 人生の辛酸を嘗めたという。一家の大黒柱の父親を. に渡ったので、南朝政府が南徐州に考城を僑置. 亡くした年は江淹の天真爛漫の幼年期と逆境と戦う. した。南徐州の治所(政庁所在地)は京口、丹. 少年期との分かれ目である。彼は山への柴刈りとい. 徒県の西郷、即ち今の江蘇鎮江市にある。. う辛い仕事に鍛えられ、早熟な少年になった。少年. 清の康熙帝の時の『考城県志』の巻三によると、. 期のこの経験から江淹は人生の儚さを悟る。人間は. 考城は即ち今の河南省民権県である。この二つの資. やはり自分の天性に適うことを楽しむべきである。. 料から江淹の祖先は先ず、河南省に居住し、西晋の. これがこのような無常な人生から一時の解放を得る. 皇室が南に遷都する時、江南の京口に来て、移住し. 為の唯一の方法だと彼はそう思っている。文学も楽. たという江淹の出身についての経緯が伺われる。ま. しめばよいと。身後の空名を求めるために、自分の. た、 江淹は「愛子を傷む賦」の中で、第二子江艽を「皇. 身を削りながら、著述に励むのは愚かなことに違い. 26). 帝の高陽の玄胄」. ないである。. と称える。高陽は即ち中国上古. 神話上の聖なる五帝の一人顓頊の名である。 『広韻』. 2. 不遇な青年期(20 歳から 29 歳まで). 上平声巻一・江第四には、このような記載がある。 江亦姓出陳留. 27). 、本顓頊. 28). 玄孫伯益. 29). 之後、爵. 封於江陵、為楚所滅、後以国為氏。. また、江淹の「性に適ふを楽しみと為すべし」と. 江は姓でもあり、陳留(郡)から出て、元々顓頊. いう価値観の形成は、彼が弱冠(20 歳)にして官僚. の玄孫伯益の後裔である。江陵に封爵されたが、. に就いた時から元徽元年(473 年)までの、個人の. 楚に滅ぼされた。後、国名を自分の姓氏にした。. 不遇な経歴と深く関係していると思われる。わずか. 江という姓は元来聖天子、賢臣の末裔の為、まさ. 九年という歳月の間に、彼は殺戮を伴う政治闘争を. に大族でありながらも、門弟(家柄)が低い故、寒. 多く目の辺りにした。. 門 30)に属する。『宋書』巻五十九江智淵伝では、江. 『全梁文』巻三十九江淹「自序」に江淹は永明. 淹の宗人(同じ宗族の人)江智淵について、彼は朝. 年間までの経歴をこう記録している。. 野で実権を最も大きく握っていたにも関わらず、 「門. 弱冠、以五経授宋始安王劉子真、略伝大義。為南徐. 孤援弱 ( 家柄が低く、後援が弱い為 )」、 「不入高流 ( 高. 州新安王従事、奉朝請。弱冠(二十歳)、五経を以っ. い家柄の豪族 31)に入れない )」32)という記述がある。. て宋の始安王劉子真に教え、大義をほぼ伝えた。( 後 ). また、当時もう一人の江淹の宗人江謐も「江謐は寒. 南徐州の新安王の従事、奉朝請となった。34). 士である為、誠に華族(豪族を指す)の同列には論. ここの新安王は即ち宋の孝武帝劉駿の最愛の第八. じられない」と南斉高帝蕭道成に貶められた。これ. 子劉子鸞である。しかし、江淹が仕途に就いて、明. らの記載によれば、考城の江氏は確かに寒門に違い. くる年、孝武帝劉駿が薨じ、彼の王位を継いだ人物. ない。劉璠の『梁典』によると、江淹の祖父江躭は. は前廃帝劉子業であった。彼は非常に残忍無道な君. 丹陽の県令、父の江康之は南沙の県令であり、二人. 主で、父親に寵愛された劉子鸞を憎み、即位した直. とも極めて低い地方の官吏である。故に、江淹も詩. 後、まだ十歳の幼い弟劉子鸞に死を賜った。劉子鸞. 文の中に自分の寒族という出自を自らしばしば嘆. が亡くなった後、江淹はすぐに始安王劉子真の幕府. く。 「交友と隠を論じる書」の中で、敢えて自分の. に入った。殺戮を嗜む劉子業は弟始安王劉子真を生. 低い家柄を明かした。. かすわけはなかったと彼は予測した。江淹は劉子真. 淹者、海浜窟穴、戈釣為伍 淹は、海浜の窟穴に戈釣と伍を為す. に従い、共に石頭に赴任した時、「石頭にて始安王. 33). に仕う」35)の中で劉子真の暗い前途について深く憂. つまり、江淹は海浜の窟穴で釣りをする人と一緒に. 慮している。. 居るものだという意味である。当然誇張はあろうが、. 攬鏡照愁色 鏡を攬りて愁色を照らし. 彼は寒門という出自に劣等感を持っていることが明. 論文. 従坐引憂方 従い坐して憂方を引く. 4.
(5) 山中如未夕 山中も如し未だ夕べならずんば. 弟の中で生き延びた唯一の人物は桂陽王劉休範であ. 無使桂葉傷 桂葉をして傷ましむる無かれ. る。しかし、彼もまた後廃帝劉昱(明帝の長男)の. 当時、劉子鸞のような皇子達だけでなく、大臣、. 元徽二年 (474 年 )、謀反の失敗により殺された。桂. 特に諸叔父達も、想像を絶する残酷な仕打ちを受け. 陽王劉休範の乱の際、劉景素も援軍を連れて都に赴. ている。まさに皇公から大臣まで朝廷内外皆氷の上. いたが、実は後廃劉劉昱にとってかわる心も持って. に居るように慌て恐れている時、ひどく迫害された. いた。江淹は「自序」の中でこのことについてこう. 叔父の一人湘東王劉彧が画策し、前廃帝劉子業を弑. 語った。. 殺し、皇位を纂奪した。歴史上彼を宋の明帝と称す. 宋末多阻、宗室有憂生之難。王初欲羽檄徴天下. る。しかし、孝武帝劉駿の諸子は明帝劉彧が皇位を. 兵、以求一旦之幸。. 奪い取ったことに不満を抱き、各地で叛乱を起こし. 宋末期に、危難が多いため、宗室が何時も死の. た。明帝劉彧は孝武帝劉駿の第三子晋安王劉子勛の. 恐怖に脅えている。最初、建平王劉景素は羽檄. 反乱を鎮圧した後、将来自分を脅かしそうな孝武帝. を飛ばし、天下の兵を徴用し、王位を奪おうと. 劉駿の諸子を殺し尽くした。劉子鸞の後に継いで、. した。38). 僅か十歳の始安王劉子真もまた死を賜られた。劉子. 地方で人望を得て、皆に嘱望された劉景素は都の. 真が死んだ後、彼の南兖州刺使という職務を引き継. 皇室の殺戮を無くし、謀反で皇位に就き、宋の頽勢. いだのは建平王劉景素である。彼は才能がある文士. を挽回しようとした。しかし、深い宮殿に生まれ育. を愛接することを好み、江淹を尊敬し、非常に優遇. ち、文籍を好む一介の軟弱な文士である劉景素がも. した。が、江淹は当時、やはり一介の賓客として建. しも、叛乱で兵を挙げたら、必ず惨敗する羽目に陥. 平王劉景素の幕府に入った為、実際の官位を持って. ると江淹は見抜いている。故に、彼は劉景素が叛乱. いない。政治の実務とは関係がなく、宴会の時の応. を企んでいる当初から、色々な詩文を通じて劉景素. 制の文章を書く賎しい仕事をしているのみである。. に諌めた。しかし、その時劉景素はもう自分の実力. そのため、 江淹も知己袁炳(字は叔明)宛の文章「袁. を信じ込み、江淹の進言に耳を傾けてくれなかった。. 叔明に報じる書」の中に自分が「首を俯して衣を求. この時の江淹は劉景素に理解されず、孤独を感じ、. め、眉を斂めて寄食するのみ。」. 36). 苦痛な精神状態に陥る。故に、彼は殺戮の影から逃. と不満を示した。. しかも、個性が強い江淹は、世間の恨みを買い、泰. げ、隠居生活を送ることを望んだ。彼は前述した親. 始三年 (467 年 )、収賄の疑いで、広陵県の令郭彦文. 友袁炳宛の手紙「袁叔明に報じる書」と「交友と隠. の罪に連座し、投獄されている。小人の卑怯な誹謗. を論ずる書」の中で、自分のこの心境を語った。. に憤慨し、自身の無実を表明する為に、江淹は牢獄. 涼秋陰陰、独立閑館。軽塵入戸、飛鳥無迹、命. の中で有名な「建平王に詣りて上書す」. 37). 保琴書而守妻子。. を書き、. 古人の故事を引用しながらも、自分の冤罪を痛烈に. 涼しい秋が陰陰たる時、独り閑館に立っている。. 建平王劉景素に訴えた。劉景素もまた感動のあまり、. 軽い塵が戸に入り、飛鳥迹無し。願わくば、た. 江淹を即日に釈放した。彼はその事件の後から、元. だ琴書を保ち、妻子を守れることを。. 徽三年 (475 年 ) 呉興の令に貶謫されるまで、泰始六. 劉景素の前途を憂慮する為に、眠れない日々が続い. 年 (470 年 ) 巴陵王右常侍に任命された為、巴陵王劉. た。そして、憔悴しきっている。. あと. 39). 休若の幕府の中に居た数ヶ月を除いて、前後おおよ そ八年、建平王劉景素の幕府に生活していた。. 一方、劉景素の異心は日増しに明らかになってい. 江淹は建平王劉景素に対して、感情を深く抱いて. く。江淹は「阮公になら效 う詩十五首」を作って、. いると思う。しかし、劉景素にとって、部下への感. 自己の真情を吐露し、劉景素に最後の諌めをしよう. 情より皇位の方が遥かに重要である。孝武帝劉駿の. としていた。. 諸子を殺し尽くした明帝劉彧は晩年、ますます疑い. 「阮公に效う詩十五首の二」40). 深くなった。自分の長男(太子)はまだ幼く弱いが、. 富貴如浮雲 富貴は浮雲のごとし. なら. (明帝の)弟達が強く、実力がある。将来、反乱で. 金玉不為宝 金玉も宝と為らず. 太子が殺されるかもしれないと案じて、泰始七年. 一旦鵜鴂鳴 一旦、鵜鴂鳴り. (471 年 )、明帝劉彧は諸弟達を迫害した。明帝の兄. 厳霜被勁草 厳霜は勁草を被う. 5. 論題 再論「江郎才尽」 〜江淹の価値観をめぐって〜.
(6) には、中年に愛する息子を亡くした父親の悲しみが 41). 「十五首の十」. 溢れている。. 燕趙兵馬地 燕趙は兵馬の地. 傷弱子之冥冥、独幽泉兮而永秘。余無愆於蒼祇、. 唯見古時丘 唯見る、古時の丘. 亦何怨於厚地。44). 登城望山水 城に登りて山水を望めば. 弱い我が子の永眠を傷み、彼が独りで幽泉に永. 平原独悠悠 平原は独り悠悠たり. 遠に隠した。儂、一体どうして蒼天、厚地に怨. 寒暑有往来 寒暑は往来有り. まれているのか?. 功名安可留 功名安くんぞ留まらん. 天地に問うても、幼い息子を亡くさねばならぬ原因. いず. を教えてはくれない、かくて、江淹は仏教の極楽世 富貴、功名はみな一瞬にして消え去るものである. 界に愛する息子と再会することを願うしかない。. と江淹が懸命に劉景素を悟らせようとした。しかし、. 信釈氏之霊果、帰三世之遠致。願同升於浄刹、. 江淹のような君子の忠言を受け入れず、周りの媚を. 与塵習兮永棄。45). 売る小人の甘言を信じ、野望を遂げるために、自分. 釈氏の霊果を信じ、三世諸仏の遠く達する境地. の命を度外視し、叛乱を日夜謀議し続けた劉景素は. に帰依する。願わくは(亡き息子と)同じ浄刹. 遂に江淹の諌言にうんざりし、彼を辺鄙な地建安の. に昇り、俗世と永遠に別れることを。. 呉興 ( 今の福建省の浦城 ) の令に左遷した。. 愛子を失う悲しみに耐えず、彼の最愛の妻も翌年. 江淹は八年も劉景素に仕えた為、主従の情は非常. 即ち元徽四年 (476 年 ) にこの世を去った。江淹は彼. に深いものである。いざ劉景素のもとを離れて吳興. 女を偲んで、「室人を悼む十首」を創作した。佳人. のような辺鄙な処に行くことになると、彼は心より. は既に去っていったが、彼は何時も妻を慕っている。. 名残を惜しんでいる。元徽四年 (476 年 )、江淹の予. 一年中、どんな季節になっても、彼女の面影は常に. 想通り、劉景素は遂に臺軍に破れ、殺された。宋の. 目の前に現れる。. 文帝劉義隆が弑殺されて以降、宋の宗室の間に殺戮. 春 ( 十首の二 ). が絶えず、朝廷内外の人々は皆、戦々恐々としてい. 帳裏春風盪 帳裏に春風盪き. た。江淹が人生の無常を感じるのはこのような情況. 簷前還燕拂 簷前に還燕拂う. の下に居たからである。呉興での「山の楹を鑿し、. 垂涕視去景 涕を垂れて去る景を視. 室を為し、永く黿鼉と群を為す」(「呉興の令に黜. 催心向徂物 心を催して徂く物に向かう. いた. 42). けられ、辞牋して建平王にいた詣 す」). 46) うご. み. のような 47). 艱難な山中生活は逆に彼を癒した。詩人は三年間自. 夏 ( 十首の三 ). 然を楽しみながら、のんびりして暮らしていた。「草. 夏雲多雑色 夏雲は雑色多く. 木の頌十五首」 、「石の上の菖蒲の詩」等自然の植物. 紅光鑠蕤鮮 紅光は蕤鮮を鑠す. を描写する詩は皆この時期に創作された。政治闘争. 臨綵方自吊 綵に臨みて方に自ら弔い. の中心から離れ、やっと生きた心地がしただろう。. 攬気以傷然 気を攬て以て傷然たり。. とか. み. 左遷されたことが逆に彼を救ったのである。もし、 劉景素の幕府に留まったら、巻き添えを食い、殺さ. 秋 ( 十首の五 )48). れる運命に辿るしかない。. 秋至擣羅紈 秋至りて羅紈を擣けば 涙満未能開 涙満ちて未だ能く開くこと能わず. 3. 家族、友人との死別を経験する中年期 (30 歳から 39 歳まで). 結念向珠網 念を結びて珠網に向かい. 江淹がやっと心身を休めている時、無情の運命は. 冬 ( 十首の七 ). また彼の愛する息子と妻を奪った。元徽三年 (475. 方冬有苦涙 冬に方りて苦涙有り. 年 )、江淹の僅か二歳の次男江艽が夭折した。彼は. 承夜非膏蘭 夜を承けて膏蘭にあらず. 生まれつき神俊な者で、将来「必ず美器と為る」43). 从此永黯削 此より永く黯に削らん. と江淹は彼に非常に期待していた。 「愛子を傷む賦」. 萱葉焉能寛 萱葉は焉んぞ能く寛らんや. 論文. したた. 瀝思視青苔 思いを瀝らせて青苔を見る 49) あた. いずく. 6. ひろが.
(7) 注 また、其の後の南斉武帝蕭賾永明元年 (483) に、 江淹が一番尊敬する友人檀超は殺されたが、もう一. 1). 人の親友袁炳は早くも泰豫元年 (472 年 ) に病死した。. 謝朓:464 〜 499、南朝の斉の山水詩人。同族の詩. 人の「大謝」の謝霊運に対して、 「小謝」と呼ばれる。. 「友人を傷む賦」の中で江淹は涙を誘うほどの感動. 2). を与える文章で知音を失った悲しみを描いた。. ここの「遒」の意味を久保卓哉の「文学評語『遒』. 字の意味」(「中国中世文学研究」第 11 号、1976 年、. 一瞬にして、妻子、親友を全部亡くした江淹は死. 27-37 頁)を参照し、訳した。 . 別の苦しさを「別賦」の中でこう語っている。「黯. 3). と. 然銷魂者,唯別而已矣! ( 黯然として魂を銷かす者. 丘遅:464 〜 508、南朝の斉、梁の詩人。優れた文. 才を持ち、梁武帝蕭衍に寵愛される。. は,唯だ別れのみ! )」50). 4). 张載:前述した張協の兄、西晋の有名な文学者。. 弟張協、张亢とともに「三張」と呼ばれる。『南史』. 結び. の成書年代は明の時代よりずっと早く、唐の時代で ある。故に、張溥は誤って張協の兄张載の名を記し. 少年期、青年期、中年期三つの時期を分けて、江. たと思われる。. 淹の波乱万丈の半生を見てきた。父親の死のため、. 5). 鮑 照:414? 〜 466 南 朝 の 宋 の 詩 人。 宋 文 帝 の 元. 十三歳から母親を養う責任を負いながら、文学に志. 嘉 年 間 を 代 表 す る 三 大 詩人「元嘉三大家」の 一 人。. して勉学に勤しんでいた。しかし、彼が弱冠にして. 新奇な詩風で唐代の詩人李白などに大きな影響. 仕途に就いた時から永明年間までの経歴は決して平. を与えた。. 穏なものではない。仕えた皇子達が次々と非業の死. 6). を遂げていく。三十歳までの短い歳月に彼は殺戮を. 緡(さし)とは銭の穴に通す細い痲縄。百緡(ひゃく びん)とは、銭さしにさした一〇〇文の銭。. 伴う政治の争いを多々目の辺りにした。しかも、左. 7). 遷先の辺地に居た中年(三十歳)の江淹はまた妻子、. 江右とは揚子江北岸からみて右の意味。今の中国 の江西省の一帯を指す。. 親友を亡くした苦痛を経験した。 「朝、朱門に生まれ、. 8). 強仕の出典は『礼記』曲礼上「四十曰強而仕(四十. 夕暮れ、溝壑に死す」という感慨である。此れは六. になると、体は、健康、丈夫で、精神面は、分別が. 朝時代、歴史に翻弄されている人々が感じた人生そ. あり、故に、仕官すべき)」に拠る。. のものである。江淹も勿論時代を超越することがで. 9) . きないと思う。人生は自身がコントロールできない. 10). 「文芸言語研究・文芸篇」、第 56 号、2009 年、66-84 頁。 「お茶の水女子大学中国文学会報」 、第 20 号、2001. 不条理なものだと悟ったのである。別離と死が何時. 年、1-30 頁。. でも訪ねてくるかもしれない。このような無常な人. 11). 「東方学」、第 91 号、1996 年、61-75 頁。. 生において、人は「性に適うことを楽しみと為すべ. 12). し」 、つまり、目下の人生を享受しながら、人生の. 13). 「中国文学報」第 27 号、1977 年、1-35 頁。. 苦悩から一時的な解放を求めるしかない。江淹のこ. 曹道衡『中古文学史論文集』 、中華書局、1986 年、. 250 頁。. のような価値観が形成されることもごく自然なこと. 14). であろう。この人生観により、悟りが開いた晩年の. 曹道衡『中古文学史論文集』 、中華書局、1986 年、. 286 頁。. 江淹は文学的な詩文を書くのをやめた。恐らく、此. 15). の時から、彼の才能が尽きたと揶揄し始められたの. 丁福林: 『江淹年譜』、鳳凰出版社、2007 年、230 頁。. 16). 永明体とは南斉武帝蕭賾の永明年間(483 年 -493 年). であろう。. に流行した詩体。主に詩の韻律、形式に着眼し、. 本稿では、江淹個人の価値観に焦点を当てながら、. 唐の時代の近代詩の基礎を築いた。武帝の次男で. 「江郎才尽」という問題を考察した。今後、個人史. ある竟陵王蕭子良の西邸に集った文人の中、蕭衍、. ではなく、南朝、特に南斉武帝蕭賾の寒人政治の歴. 沈約、謝朓、王融、蕭琛、范雲、任昉、陸倕、八. 史背景という、もう一つの側面からこの問題をさら. 人が特に竟陵王の寵愛を受け、 「竟陵八友」と称さ. に論じたい。. れる。そのうち、沈約、謝朓、王融らは永明体詩 体を創設した中心人物である。. 7. 論題 再論「江郎才尽」 〜江淹の価値観をめぐって〜.
(8) 17). 四声論とは沈約は民間新曲、仏教経典の転読から. 35). 胡之驥: 『江文通集彙注』、中華書局、1984 年、99 頁。. ヒントを得て、発明した詩歌の韻律論である。彼. 36). 胡之驥: 『江文通集彙注』 、 中華書局、 1984 年、 348 頁。. は中国語を四つの声調に分け、さらに、一定の規. 37). 胡之驥: 『江文通集彙注』 、 中華書局、 1984 年、 327 頁。. 則に沿い、四つの声調を配列し、抑揚のある詩の. 38). 胡之驥: 『江文通集彙注』 、 中華書局、 1984 年、 379 頁。. 音楽性を追求した。. 39). 胡之驥: 『江文通集彙注』 、 中華書局、 1984 年、 348 頁。. 胡 之 驥:『 江 文 通 集 彙 注 』 、 中 華 書 局、1984 年、. 40). 胡之驥: 『江文通集彙注』、中華書局、1984 年、122 頁。. 136-165 頁。本論文が引用している江淹の詩文は、. 41). 胡之驥: 『江文通集彙注』 、 中華書局、 1984 年、 125 頁。. 全部この版本に拠る。本版本は現存している江淹. 42). 胡之驥: 『江文通集彙注』 、 中華書局、 1984 年、 334 頁。. 集が十何種類もある中、中華書局が『四部叢刊』. 43). 胡之驥: 『江文通集彙注』、中華書局、1984 年、383 頁。. 影印明翻宋刻本『梁江文通集』と梁賓刻本『江文. 44). 胡之驥: 『江文通集彙注』、中華書局、1984 年、384 頁。. 通集』とを参考しながら、 明の万歴二十六年(1598. 45). 胡之驥: 『江文通集彙注』 、 中華書局、 1984 年、 384 頁。. 年)の胡之驥注本を校正し、 『文選』 (胡克家刻本)、. 46). 胡之驥: 『江文通集彙注』 、 中華書局、 1984 年、 166 頁。. 『玉台新詠』 ( 文学古籍刊行社影印明趙氏刻本)、 『芸. 47). 胡之驥: 『江文通集彙注』、中華書局、1984 年、166 頁。. 文類聚』 (中華書局影宋本)などから異文を集輯し. 48). 胡之驥: 『江文通集彙注』、中華書局、1984年、166、. たものである。. 167頁。. 18). 19). 注 16 を参照されたい。. 49). 胡之驥: 『江文通集彙注』、中華書局、1984 年、167 頁。. 20). 胡之驥: 『江文通集彙注』 、中華書局、1984 年、381 頁。. 50). 胡之驥: 『江文通集彙注』、中華書局、1984 年、35 頁。. 21). 北京大学中国文学史教研室、 『魏晋南北朝文学史参. 文献. 考資料』 、中華書局、1961 年、51 頁。 22). 胡之驥: 『江文通集彙注』 、中華書局、1984 年、383 頁。. 23). 李延寿: 『南史』 、中華書局、1975 年、1447 頁。. 劉躍進、範子燁: 『六朝作家年譜輯要』 、黒龍江教育. 24). 姚思廉: 『梁書』 、中華書局、1973 年、247 頁。. 出版社、1999 年 .. 25). 沈約: 『宋書』 、中華書局、1974 年、1059 頁。. 胡之驥 :『江文通集彙注』、中華書局、1984 年 .. 26). 胡之驥: 『江文通集彙注』 、中華書局、1984年、383頁。. 丁福林:『江淹年譜』、鳳凰出版社、2007 年 .. 27). 地名、兗州に属する。現在の河南省の辺り。. 劉躍進 :『門閥士族与永明文学』、三聯書店、1996 年 .. 28). 顓頊とはとは中国上古神話上の帝王。名は高陽。. 張溥、殷孟倫 :『漢魏六朝百三家集題辞注』、人民文. 聖人である五帝の一人である。 29). 学出版社、1960 年 .. 伯益ととは中国の聖君堯、舜、禹の三代に仕えた. 曹道衡 :『中古文学史論文集』、中華書局、1986 年 .. 賢臣である。 30). 房玄齢:『晋書』、中華書局、1974 年 .. 寒門:門閥政治の六朝時代では、人材登用制度で. 沈約 :『宋書』、中華書局、1974 年 .. ある九品官人制度が採用されるとともに、士人階. 蕭子顕 :『南斉書』、中華書局、1972 年 .. 級も寒門と勢族と二つに分けられていく。寒門と. 姚思廉 :『梁書』、中華書局、1973 年 .. は低い家柄、権力、経済力もない一族を指す。勢. 李延寿 :『南史』、中華書局、1975 年 .. 族は、即ち豪族。莫大な権勢、財力を持つ一族を. 魏徴 :『隋書』、中華書局、1973 年 .. 指す。豪族は位が高い清官を世襲し、独占し、寒. 厳可均 :『全梁文』、商務印書館、1999 年 .. 門子弟は郷品三品以下の官位に就くしかないので、. 逯欽立 :『先秦漢魏晋南北朝詩』、中華書局、1983 年 .. 出世の道が塞がれた。従って、門閥制度がさらに. 曹道衡:『蘭陵蕭氏与南朝文学』、中華書局、2004 年 .. 硬直化されていく。西晋の劉毅は「上品に寒門が. 範文瀾 :『文心彫龍注』、人民文学出版社、2001 年 .. 無く、下品に勢族が無し」と言い、この格差が激. 穆克宏、郭丹 :『魏晋南北朝文論全編』、江蘇教育出. しい階級制度を痛烈に批判した。. 版社、2004 年 .. 31). 注 30 を参照されたい。. 鐘嶸、陳延杰:『詩品注』、人民文学出版社、1958 年 .. 32). 沈約: 『宋書』 、中華書局、1974 年、1609 頁。. 荒井健、興膳宏訳 :『中国文明選 巻の十三 文学論. 33). 胡之驥: 『江文通集彙注』 、中華書局、1984 年、349 頁。. 集』、朝日新聞社、1972 年 .. 34). 厳可均 :『全梁文』 、商務印書館、1999 年、416 頁。. 高橋和巳 :『高橋和巳作品集 第九 中国文学論集』、. 論文. 8.
(9) 河出書房新社、1972 年 .. 福井佳夫:「江淹の『恨賦』について」、『東方学』 、. 小尾郊一 :『文選 ( 文章編 ) 六』 、集英社、1976 年 .. 第 91 号、1996 年、61-75 頁 . 黒田真美子:「江淹の悼亡詩について」、『日本文学誌. 論文. 要』、第 58 号、1998 年、3-16 頁 . 森野繁夫、先坊幸子: 「六朝文人伝 : 江淹 (『梁書』)」 、 『中国中世文学研究』、第 37 号、2000 年、33-52 頁 .. 豊福健二: 「江淹の賦」 、 『中国中世文学研究』 、第 7 号、 1968 年、55-63 頁 .. 黒田真美子:「江淹詩の叙景表現について : その色彩. 森博行:「江淹『雑体詩』三十首について」 、 『中国文. を中心として」、『お茶の水女子大学中国文学会報』 、. 学報』第 27 号、1977 年、1-35 頁 .. 第 20 号、2001 年、1-30 頁 .. 中野将:「『江淹集』の変遷」 、 『中国古典研究』、1988. 稀代麻也子:「江淹『雑体詩』の曹丕」、『文芸言語研. 年、第 33 号、43-53 頁 .. 究・文芸篇』、第 56 号、2009 年、66-84 頁 .. 9. 論題 再論「江郎才尽」 〜江淹の価値観をめぐって〜.
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