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<研究・制作ノート>ロドリーグ島(モーリシャス)の自治権付与過程についての考察

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Academic year: 2021

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(1)研究・制作ノート. ロドリーグ島(モーリシャス)の 自治権付与過程についての考察 長谷川秀樹. ロドリーグ島〔1〕は島嶼国であるモーリシャス共和国に属する、面 積 100 平方キロ、人口 5 万人弱の島嶼で、モーリシャス本島から東に 約 600 キロに位置するインド洋の孤島である。本稿は、ロドリーグ 島における自治主義運動と自治権付与(モーリシャス政府側) ・獲得(ロド リーグ島政府側)過程を追い、考察するものである。. 自治主義運動や国内の特定地域に自治権を付与するという動きは 世界各地に見られ、特段珍しい現象とは言えない。だが、七大陸に 領土を持たない島嶼国の中で、人口が最大で首都を有する主島に対 し、他の島嶼が自治を要求するという動きは、同じインド洋のコモ ロ連合共和国、地中海の EU 加盟国マルタ、カリブ海のトリニダー ド・トバゴなどに限られる。三島間の闘争の結果、島嶼国家が究極 なまでに連邦化、分裂化が進むコモロに対し、主島に対する従島(マ ルタのゴゾ島、トバゴ島)の自治権がなかなか進展しない後の二島嶼国と. いう二つの潮流があるなか〔2〕、モーリシャスでのこの動きは第三の 方向であり、島嶼研究において注目すべき現象であると考え、本稿 でその過程を描写し、考察を加えるものである。. ロドリーグ島(モーリシャス)の 自治権付与過程についての考察. 115.

(2) インド洋. ポールマチュラン市. 右図に拡大 モーリシャス島 レユニオン島(仏). 図 1 ロドリーグ(Rodrigues)島の位置 (地図出典:Researchgate.net[和文箇所は筆者が加筆した]). 第 1 章 ロドリーグ島概況および植民地史 モーリシャスはインド洋の島嶼国で、首都ポールルイ〔3〕があり、 人口および面積の 9 割以上を占めるモーリシャス島以外に、この島 から 500 キロほど離れたところにサンブランドン諸島とロドリーグ 島、1,000 キロ以上離れたところにアガレガ諸島を有する広範な排 他的経済水域を擁する複数島嶼国である〔4〕。 ロドリーグ島はモーリシャス島とともに 16 世紀初頭、ポルトガ ル航海士ペドロ・マスカレーニャにより発見され、両島ともに先住 民のない無人島であった、その後、南インドに勢力を拡大するフラ ンスがこの領域一帯を領有する。モーリシャス島はフランスから多 数のプランテーション経営者が移り住み、アフリカから奴隷を連れ て来ていた。一方でロドリーグ島への移住者はごくわずかしかなく、 ロドリーグ島がモーリシャス島の従島という関係かどうかは不詳で あった。辺り一帯はすべて「仏領東インド」という王室経営の統治形 態が曖昧なものであった。フランスが近代植民地政策およびその行 政機構を打ち立てる前の 1810 年、モーリシャス島が英艦隊に占拠さ れ、1814 年のナポレオン敗北に伴うパリ条約により、戦火のなかっ たロドリーグ島も併せてイギリス領となった。ただし、フランスの プランテーションやカトリック信仰、さらにフランス語やフランス 法の維持が認められたことから、モーリシャスの島々は英領であり 116. 研究・制作ノート.

(3) ながら、仏語圏でありつづけた。 ロドリーグ島がモーリシャス島に「従ずる」地位となるのは、イギ リス領となってからで、モーリシャスに提督(governor)が常駐し、ロ ドリーグ島にはそれに仕える高等弁務官(high commissioner)が常駐し たことによる。これによりロドリーグ島はモーリシャス島の属領 (dependency)となる。. 1968 年に独立する直前のロドリーグ島の人口は 3.8 万人であった が、フランスから領有権を受け継いだ直後は僅か 44 人、それから 100年ほど後の20世紀初頭でも3,000人程度で〔5〕、英領時代もその殆 どは極めて人口希薄な島であった。入植者もその殆どがモーリシャ ス島から再入植したフランス系白人、および後に「ロドリーグ・クレ オール(Créole Rodriguais, Kreol Rodrige)」と称されることになるアフリカ 系奴隷で、アングロサクソン系入植者は高等弁務官とこれに付随す る役人以外皆無であった。英植民地時代、モーリシャスとロドリー グの法制度的な差異は表向きはないものとされていたが、モーリシ ャス島で課されていた法制度の中にはロドリーグ島には適用されな かったものもあった。ただそれは意図的にロドリーグ島には適用し なかったというよりは、植民地における法制適用の権限を有する提 督がロドリーグ島への適用に無関心、あるいは気づかなかったこと による。ロドリーグ独自の法制は高等弁務官の要請により提督が細 則を定めることになっていた。19 世紀末期ごろから漸く「特段の明 記事項がない限りモーリシャスのすべての法制は原則、ロドリーグ 島にも適用される」という法解釈が確定する〔6〕。 第 2 章 マルチエスニック社会モーリシャスにおけるロドリーグ自 治主義運動の有無 ロドリーグ島の利益を防衛するための組織的な運動は、先行研究 に従うならば〔7〕、1885 年に成立した憲法と、それにともない設立さ れた植民地立法議会の選挙権をめぐる同島民の異議申し立てである。 この議会は、一定額以上の納税をしたモーリシャス植民地住民有権 者により、小選挙区から選出される代議士により運営されたが、選. ロドリーグ島(モーリシャス)の 自治権付与過程についての考察. 117.

(4) 挙区が割り当てられたのはモーリシャス島だけで、ロドリーグ島民 には選挙権も被選挙権も付与されなかった。英国王ジョージ 5 世が 1915 年に記した回想録によれば、その際、79 名のロドリーグ島民が、 同島にも選挙区を設け、モーリシャス島民と同じ条件での選挙権付 与を求める請願運動を展開したとされ、モーリシャスやロドリーグ の著名な史家のなかには、これがロドリーグ島の自治主義運動の起 源だとしている者もいる。だが、この要求がロドリーグ島民のアイ デンティティ醸成の一要因となった可能性があるにせよ、組織的な 自治権要求運動であったかというと答えは否定的である。 まずは自治権を求めるに至る根拠が何かということを考察する必 要がある。具体的には言語、文化、あるいは宗教といったエスニッ クな差異、あるいは自集団をエスニック・マイノリティ(少数民族)と 規定し、そのエスニシティの維持、マジョリティとされるグループ への同化を抑止する手段として自治権、および自治権要求運動をと らえるならば、1885 年時点での要求は時期尚早、と言わざるを得な い。少数民族の自治権という発想、そして実際の少数民族における 自治権の要求と獲得という動きの殆どは、ウィルソンの民族自決を その契機としているから、つまり自治権とその要求運動は、早くて も 1920 年代、ということになる。だが、ロドリーグの明確な自治権 要求運動は、この時代には見られなかった。 ロドリーグ自治権運動が出現するのは、モーリシャスがイギリス から独立する1968年ごろと考察される。1960年代後半は、世界的に 少数民族問題や自治権要求運動が高まった時代でもある。 ロドリーグ島民とモーリシャス島民との「食い違い」は、英国植民 地からの独立を問う 1967 年 8 月レファレンダムの際に生じた。投票 の結果、モーリシャス島では 97%が独立賛成であったのに対し、ロ ドリーグ島では 98%〔8〕が反対した。 かかる意識の食い違いは、いかなる理由あるいは背景から生じた のか。これを科学的に説明することは困難が伴う。両島は 600 キロ 以上も離れ、航空路が開設されるのは独立後のことで、航路も週一 便程度と、物理的な距離とコミュニケーションの少なさが招いたと 118. 研究・制作ノート.

(5) 考察することはできよう。エスニシティの観点から言えば、両島は フランス語とクレオール語を共有する〔9〕。インド洋島嶼地域フラン ス語に特有の語彙(例えば、タコourite、焼きそばmine、辛味ソースrougailなど)も 両島に共通してみられるが〔10〕、クレオール語を共有するとはいえ、 モーリシャス・クレオール語とロドリーグ・クレオール語には相当の 差異がみられる。民族・人種、あるいは宗教構成については、モーリ シャス島は極めて多様な多民族・多人種・多宗教社会であるのに対 し〔11〕、ロドリーグは島民の殆どがカトリックを信仰するクレオー ルで占められる。総じて言えばモーリシャス島、特にポールルイな ど都市部においては多人種・多民族・多宗教・多言語〔12〕の混淆性が 特徴付けられるのに対し、ロドリーグ島ではクレオールが圧倒的多 数派、 「ロドリーグ(島)人(Rodriguais, Rodrigue)」とはまず何よりもクレ オール系住民を指している。 両島は仏英の植民地化の歴史を共有しつつも、それ以外の歴史的 経緯の違いや地理的遠隔性、さらにはコミュニケーションの希薄さ もあって、エスニシティの観点から異なると言える。また今日、ロ ドリーグ島民は「モーリシャス人(Mauricien, Morisyan)」とは異なる「ロ ドリーグ人」というアイデンティティも強く保持していることがう かがえる。 だが、こうした民族的な差異をもってただちに自治権の希求に繋 がるとは言い切れない。独自のエスニシティがマジョリティ側(本件 の場合は国家としてのモーリシャスと、モーリシャス島民)からの同化圧力によ. り危機に瀕し、さらにそのことがマイノリティ(本件の場合ロドリーグ島 民)に危機感として意識されたならば、エスニシティの防衛手段の一. つとして自治権を要求することは考えられるが、モーリシャス独立 プロセスにおいてロドリーグ島民からかかる危機感が表出した形跡 はうかがえない。. 第 3 章 ロドリーグ人民組織とセルジュ・クレール ロドリーグ島の自治権を公然と掲げるのは、1976 年に設立された. ロドリーグ島(モーリシャス)の 自治権付与過程についての考察. 119.

(6) 運動組織「ロドリーグ人民組織(OPR)」である。だが、同時代に激し い国家との闘争を見せたフランス領コルシカ島の自治権要求運動 と比較して、ロドリーグの政治運動は至って平穏であったと言える。 この運動は 1982 年にモーリシャス国会において初めて議席を有し、 そののちロドリーグに割り当てられた 2 議席のすべてを占めるに至 るが、国会全議席数 70 の中ではそれは微々たる勢力でしかない。さ らに、OPR に関する設立当時の一次資料や論考は皆無で、OPR の中 で自治主義思想や理念がどう構築されてきたのかという手がかりを 得ることは現時点では不可能である。ここでは組織としてのOPRよ りも、その創設者であり、現在もなお、ロドリーグ島の政治に大き い影響力を有するセルジュ・クレール(Serge Claire)について触れた方 がよいであろう。OPR は少なからず彼の思想や政治的言動を受けて きたと考えられるからである〔13〕。 彼の生涯についての記述や資料もまた乏しいのであるが、1940 年 にロドリーグ島のクレオール家系に生まれ、6 歳の時にモーリシャ ス島に移住し、20 歳でフランスの大学に進学、26 歳でモーリシャス 島にではなく、カトリック司祭としてロドリーグ島に帰還した。以 後、モーリシャス国会議員(1982–2002 年)期間はモーリシャス島で政治 的活動を行っていたものの、それ以外の時期は常にロドリーグ島で 政治活動をしてきた。 OPR は設立以降のモーリシャス国民議会で議席を獲得するが、上 述したようにその勢力は極めて小さく、仮にこの党がロドリーグ自 治主義を綱領の筆頭に掲げ、これを前面に押し出したとしても、自 治権獲得の十分条件とみるには無理がある。ロドリーグ自治権は 2001年のモーリシャス国民議会により可決承認された法によるもの で、この点からみても、自治権獲得は、OPR 単独の政治活動、ある いはロドリーグ島民による自治主義運動の成果、というよりは、モ ーリシャス国民議会、あるいはモーリシャス政界の流れの中で実現 したとみるべきであろう。 まず、1967 年の独立から 2001 年に至るまでのモーリシャス国民 議会の政治勢力を概観する。英領時代に設立された「立法議会(Leg120. 研究・制作ノート.

(7) islative Assembly, Assemblée Législative)」を継承するものであり、独立後も. 1992 年まではこの名称であったが、選挙方法は 1967 年の第 1 回選 挙時に改められた。モーリシャス国民議会は一院制の 70 議席で、こ のうち 60 議席はモーリシャス島の 20 中選挙区から 3 人ずつ選出さ れ、ロドリーグ島からは単独選挙区として 2 人選出、残る 8 議席は 「ベストルーザー(meilleurs perdants)」と称され、選挙後にモーリシャス 憲法第 5 条に基づき、選挙管理委員会が人種・民族・宗教・地域・性 別構成などを勘案したうえで指名される〔14〕。独立以後、国会は主と して保守中道系のモーリシャス社会民主党(MSDP, PMSD)と、中道左 派の社会主義闘争運動(MSM)と労働党(LP, PT)、モーリシャス闘争運 動(MMM)が勢力を掌握してきた。このうち、PMSD のみがモーリシ ャス独立時に反対を唱え、この点では当時のロドリーグ島との利害 と共通していた。独立後の各選挙後における各政党会派の勢力図は、 以下の通りである。 1967年選挙 76 年選挙. 82 年選挙. 87 年選挙. 91 年選挙. 95 年選挙. 00 年選挙. LP 連合 39. MMM 30. MMM 連合 60. 3 党連合 * 39. MMM/ MSM 57. LP/MMM 60. MMM/ MSM 54. PSMD 23. LP 連合 25. OPR 2. MMM 連合 21. LP/PSMD/ OPR 5. OPR 2. LP 連合 6. 他0. 他0. 他0. PSMD 7. PSMD 0. OPR 2. 他0. 他0. 他0. OPR 2 他0. 表 1 モーリシャス国民議会の議席配分(ベストルーザー8 議席分を除く選挙区選出分) *MSM,LP,PSMD の連合 数値はEISA(Electoral Institute for Sustainable Democracy in Africa)ウェブサイト (https://www.eisa.org.za)のモー リシャス各選挙のページを参照した。. 表のように、モーリシャス国政四大勢力は、選挙の度ごとに様々 な合従連衡を繰り広げてきたことがわかる。こうした状況からうか がえるのが、モーリシャスにおいては左右、保革の理念は重要では なく、またロドリーグ島の自治権も左右、保革の係争ではなかった という点である。そのなかで OPR およびロドリーグ有権者は当初、 モーリシャス独立に否定的な PMSD を支持、あるいは連繋関係にあ ったとみてよい。だが、1980 年代から次第に PMSD が勢力を失うに. ロドリーグ島(モーリシャス)の 自治権付与過程についての考察. 121.

(8) つれてOPRは距離をとるようになる。1987年から95年までは与党・ 野党いずれにもくみしなかったが、クレール党首はロドリーグ省の 大臣として閣外協力をしていた〔15〕。1995 年と 2000 年選挙では OPR の 2 議席に加えベストルーザーにより、 「ロドリーグ運動(MR)」とい う別の地域政党に2議席が指名されたことでロドリーグ島からは4議 席となり、相対的にではあるがモーリシャス国民議会でのロドリー グからの発言力が強まることになる。 ロドリーグ自治権付与がモーリシャス政府から公然と発言される のは、2000 年選挙に際して連繋協定を締結した MMM および MSM の中道左派勢力である。選挙前に両党党首(MMM ポール・ベランジェ党首、 MSM アネルード・ジュグノート党首)は「メドポワン合意(Accord de Medpoint) 」. を交わし、選挙勝利の際、両党首が交互に首相職と副首相職に就く ことで同意したほか、ロドリーグ島については憲法改正により「最 大限の自治権を付与する(Autonomie maximale allait être accordée à Rodrigues)」 ことでも合意した。. 〔16〕. 以上の過程をみるに、ロドリーグ自治権は、自治主義 OPR という よりは、この勢力が加わっていない左翼二大国政政党の連繋から大 きく動いたことがわかる。ただし、いかなる政治的背景がこのプロ セスをもたらしたのかについては、とりわけ1990年代の現地におけ る状況をより深く分析考察する必要があり、この部分については稿 を改めて言及したい。. 第 4 章 憲法改正とロドリーグ地域議会法の成立 MMM/MSM 政権下で 2001 年、モーリシャス憲法改正法案が可決 する。モーリシャス憲法は 1968 年の独立時に制定され、1991 年に共 和国に移行するのに伴い大規模な改正がなされたが、2001 年の改正 は、 「ロドリーグ地域議会条項」の新設がメインであった。 第 6A 章 にこの条項が設けられ、第 75A 条ではロドリーグ地域議会が設置さ れ、議会議員もしくは法の定めるところによりそれ以外から選任さ れる議長がこれを主宰すること、第 75B 条ではロドリーグ地域議会 122. 研究・制作ノート.

(9) の権限として、第 75C 条では執行評議会(Executive Council)が設置され、 執行評議長(Chief Commissioner)、副評議長(Deputy Chief Commissioner)、お よび複数の評議員で構成されること、これらの選任方法や権限につ いては法の定めによること、第 75D 条ではロドリーグ島が独自の財 政(「ロドリーグ資本基金(Rodrigues Capital and Consolidated Funds)」を有し、島内 開発にそれが優先されること、歳出の一部についてはモーリシャス 国会の承認が必要であることが規定されている。だが、自治権やロ ドリーグ島の特殊性については憲法には明記されていない。 (ACT39/2001)が可 さらに、2001 年 11 月、 「ロドリーグ地域議会法」. 決成立する。これは憲法改正により新たに規定された第 75A ~ D 条 を具体的に詳述するもので、被選挙権についてはモーリシャス市民 権を有しながらも一定期間のロドリーグ島における居住をその条件 とする(第 5 条)など独自の規定も設けられているが、肝心の「自治権」 についての規定、あるいはロドリーグ島の特殊性についての規定は みられない。のちの法改正により、ロドリーグ地域議会の権限とし て農業、芸術・文化、児童福祉、民間航空、島内地方公共団体の発展、 消費者保護、税関、教育、雇用、環境、家族政策など48項目が規定さ れているが、執行評議会の成員は評議長含めて 7 人しかおらず、果 たして 48 という多岐に及ぶ役割を担いきれているか疑問に思われ る。 以上の過程およびモーリシャスの状況を踏まえれば、ロドリーグ 島の自治権は法的に明文化されたものではなく、ロドリーグ地域議 会と執行評議会の制度にその根拠をおいているとみるべきであろう。 つまり地域立法権の存在であるが、こうした諸制度の運営が現地で どのように機能しているのかをもう少し詳細に観察してから自治権 のあり方を考察したほうがよいと考えられる。. 註 1.. 日本語では「ロドリゲス島」の表記があるが、これは誤りである。①現地調査(2018 年 12. ロドリーグ島(モーリシャス)の 自治権付与過程についての考察. 123.

(10) 月)の際、モーリシャス本島、ロドリーグ島住民、さらに空港や港湾での公共アナウンス など確認した結果、いずれも「ロドリーグ」である。②この島の欧文表記は Rodriguez で はなく、Rodrigues(フランス語)、Rodrig(ロドリーグ・クレオール語)である。 2.. 島嶼国、なかでも群島からなる小島嶼国家の分裂・統合についての先行研究事例として 以 下 の 文 献 を 挙 げ て お く。François Taglioni (2005), «Les revendications séparatistes et autonomistes au sein des États et territoires mono- et multi-insulaires: essai de typologie», in Cahiers de géographie du Québec, no.136, pp.5–18. 花渕馨也(2008) 「アンジュアン島紛争 『アジ研ワールド・トレンド』、 の動向─コモロ連合国における地域対立の新たな構図」 2008 年 11 月号(158 巻)、pp.29–32。. 3.. 日本語の地図帳などでは「ポートルイス」と英語風に表記されるが、現地ではこのように 発音されることはない。モーリシャスは多民族・多人種国家だが、いずれのエスニック・ グループも仏語もしくは現地語であるモーリシャス・クレオール語で「ポールルイ」と呼 んでいる。. 4.. これら以外にモーリシャスが領有権を求めるトロムラン島(モーリシャス島の北北西約 600キロ。フランスが実効支配)、チャゴス諸島(同島の北東約1,500~2,000キロ。イギリ スが実効支配)がある。. 5.. 数 値 は Fiona Berry and Tony Angelo (2004), “From Pirate’s Lair to Federal Partner”, in Autonomie en Polynesie Française, ALCPP, p.310 による。. 6. 7.. Ibid. Op. cit., Christian Barat (2013), «Rodrigues, de l’administration par l’Isle de France à l’autonomie dans la République de Maurice», Études océan Indien, no.49–50.. 8.. 数 値 は La fête de l’autonomie à Rodrigues ウ ェ ブ サ イ ト(https://www.ile-rodrigues.fr/ fete-autonomie-rodrigues.php)による。. 9.. 英語はロドリーグ島も含めモーリシャス共和国の公用語だが、学校教育で用いられたり、 交通標識で使用されたりする以外、島民の日常生活で使用されることはほとんどない。 首都ポールルイの南郊サイバーシティなど、ビジネスや観光街区で英語使用を奨励する ところもあるが、こうした街区のないロドリーグ島は英語はまったく使用されないとい ってよい。. 10.. ただし、これら語彙はモーリシャスのみに共通してみられるのではなく、マスカレーニ ュ諸島一帯、あるいはマダガスカル、コモロ諸島、セーシェル諸島など南インド洋仏語 圏地域一帯にみられるケースが多い。. 11.. フランス領時代はフランス本国からの植民者とアフリカからの黒人奴隷のみであった。 英領になってからもこれら住民の継続居住が維持され(イギリス系入植者はなく、総督 や一時滞在の軍人・官僚に限られた)、奴隷制廃止後、インド、中華、アラブ、東アフリ カからの季節労働者が多数移住し、そのまま定住する者も多数に及んだ。また、白人と 有色人種間の混淆も進む。モーリシャス・クレオール語はフランス語語彙を基盤としな がらもかかる多様な民族・人種状況を反映して形成されたもので、民族・人種・宗教が何 であれモーリシャス島民の共通語として機能している。モーリシャスではエスニシテ ィを含めた人口調査がなされたのが 1972 年の 1 回だけで、現今の正確な数値は出せな いが、参考までに当時の宗派別民族構成を見ると、51.0%がヒンズー教徒であるインド 系、31.3%がキリスト教徒であるクレオールと白人、一部のアフリカ系、16.6%がムスリ ムであるアラブおよび一部のアフリカ・アジア系、仏教もしくは儒教を信仰する華僑が 1 %弱となっている(Central Statistical Office, Ministry of Economic Planning and Develop-. 124. 研究・制作ノート.

(11) ment (1973), 1972 Population Census of Mauritius, vol.1 Preliminary Report, pp.16–17)。 12.. モーリシャスの公用語は英仏語とクレオール語である。しかし実用の面から言えば、モ ーリシャス島において多用されるのは仏語とモーリシャス・クレオール語(51.8%)で、 この二言語はモーリシャス島内の異人種間、異民族間のインターエスニック言語として も用いられる。仏語(7.2%)は役所や銀行などの公式かつ格調ある場面において、ある いはビジネスにおいて優遇され、クレオール語はスーパーや市場、商店街や乗合バス車 内や待合所などバナキュラーな場面において多用される。同一人種・民族内サークルに おいては、例えはインド系ヒンズー教徒間では、ヒンディー語(31.7%)、タミル語(3.6 %)、ボージュプリー語などインド系諸言語が、華僑間では北京語、広東語、福建語など 中華系諸言語(1.1%)が、ムスリムどうしではアラブ語、アフリカ系住民どうしではマ ダガスカル語やスワヒリ語などが用いられ、極めて多様な言語社会状況となっている (数値は前注統計資料 p.12 参照)。. 13. 14.. Barat, p.5. モ ーリ シ ャス 国 民 議 会 ウ ェブ サ イ ト(英 語 版) http://mauritiusassembly.govmu.org/ English/AboutUs/Pages/Introduction.aspx 選挙区をもたない同国アガレガ諸島、サンブ ランドン諸島からの代議士はここから指名されることとなる。. 14, 15. Barat, ibid. 16.. MMM/MSMの選挙勝利により、MSMジュグノート党首は2000〜03年首相に、MMMベ ランジェ党首が 2003 〜 05 年首相を務めた。. (都市イノベーション研究院・准教授). ロドリーグ島(モーリシャス)の 自治権付与過程についての考察. 125.

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