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歌語「心のすゑ」 ―院政期和歌における風景表現の一展開―

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歌語﹁心のすゑ﹂

1院政期和歌における風景表現の一展開1

平安鎌倉時代のひとびとは、恋受処世、凱別等の社会的な展開 に際し、あるいは自然に対し、信仰の過程において、いま現在の自 らの﹁こころ﹂のありようが一体どのようなものであるのかを他者 ^^、^る^^、ま^^自^刀自・^^、^^を.^^^、^^る^^^、^^^ の限られた和歌の定型の中でさまざまな工夫をこらして﹁こころ﹂ を具体化しようとしている。その一例として、平安末期の和歌に現 れた表現の一っに﹁心のすゑ﹂という用例がある。これは次の{紐 の和歌を咲大とする。 はじめに ながめやる心のすゑも道たえぬ雪のあしたの塩釜の浦

璽批・絵百首・冬・五九・{盗)

先行研究として、この﹁、心のす忽﹂という表現が生まれた北県と

して仏教的な影業指摘されているが、本孕は、﹁眺望﹂誓代

表される風h災現との関わり、すなわち憾小表現の史的展開の帰結 としての表現生成の可能性を提示してみたいと思っ。 この﹁心のすゑ﹂については、以前拙稿でふれたことがあるが、 そのとき解決できなかった課題が多く残り、それについて新たな角 、 し 度から検討しうる可能性が見えてきたため、伊τ改めて新たに分 かったことを述べていきたいと思う。なお、漢十﹁心﹂と和語﹁こ ころ﹂が表す意昧の相述もまた検討すべき問學あるため、本準 は﹁こころ﹂という零ルを用いる。ただし便宜上、歌,して引用 する場合は、﹁心のすゑ﹂のよう鰻撃﹁心﹂の表記も併用する。

まず平{女中期の歌人たちが﹁こころ﹂をどのように捉えていたの かを見ていきたい。 一、﹁こころ﹂のとらえ方

東の方へまかりける人に、よみて、造はしける

﹃ 1

おもへども身をし分けねぱ目に見えぬこころを君にたぐへてぞ (古今和擬・噺歌・三七三・伊香子淳行) やる この歌は、都から東国へ旅立っ人婦った歌で、﹁あなたのことを

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いつも思っているのだけれども、自分のこの身体は二っに分けるこ とができないので、目に見えない私の心だけをあなたと共に添わせ ます﹂という内容である。都と束国という隔たった所でも自分の心 だけは身から蹴れて﹁君﹂について行きたいと表してみせることで、 つも一緒にいたいという強い願いを相乎に伝えている。この歌で い 詠まれているのは、自分自身の﹁身﹂と﹁こころ﹂との分航である。 自分の﹁こころ﹂が自分の﹁身﹂から酬れるという発荏、一古 今和歌集﹄の成立したW世紀頃の和歌に多く認められる。 寄るべなみ身をこそ述く隔てつれ心は冴影となりにき (古今和歌染・恋竺・六一九・よみ人しらず) この歌もまた、﹁君﹂と俗分の﹁身﹂は益起く陣て﹂られているが、 ﹁こころ﹂は常に﹁君の影﹂となって寄り添っている、と詠んでいる。 一古今和歌染﹄の時代の人々は、刈象を思うb尋ちが強くなれぱ なるほど、﹁こころ﹂否分の﹁身﹂から遊蹴して、その対象へ向かっ て行く、という発杣y七持っていたようである。自分の﹁こころ﹂が 恋しい相手のもとに向かっていくという希三のものは﹃万一挺﹄ の時代から見られるが、﹁身﹂と﹁こころ﹂を刈比的に捉える発想 は﹃古今和歌架﹂の時代になって{碍するようになったと指摘され ている。 7身﹂と﹁こころ﹂を対比的に捉えた例として、さらに次 のような歌がある。 身は早くなきもののごとなりにけり消えせぬものは、心なりけり

(幕誤集・竺・一三三・伊勢)

この歌は、 7身﹂は早く﹁なきもの﹂のようになってしまったが、﹁こ ころ﹂は消えない、と勢でいる。形として存在するために消失す る﹁身﹂よりも、形のない﹁こころ﹂こそが消えないものであると 言い切る内容は注目すべきである。この用例からは、この時代の歌 人たちが 7身﹂と﹁こころ﹂の対比に強い恩を持ち、形のない﹁こ ころ﹂を、形ある﹁身﹂よりも確かなものとして捉える発想に而白 さを感じていたことを、つかがわせる。 普、同じ所に宮仕へしける人、﹁年ごろ、いかにぞ﹂など とひおこせて侍りけれぱ、性しける 7身﹂と﹁こころ﹂を対比的に捉える発想は、風凹裂現にも腎 られる。安や打など美しい[紛を見たいと思うことを、制約の多し ^身^と^を^たないゆえに胸由な^こころ^の二而^という^北和山 で捉えた歌がある。 ニ、﹁ながめやる心﹂ 河陳院にて、はるかに山桜をみてょめる 迺とほみ行きては見ねどさくら花こころをやりて今日はくらし (後拾巡和歌条' f ,九七・平器巴 つ この歌は、都の周辺の山々に咲く山桜を見て、道が述いので西接白 八刀肉身で訪ねてみることはできないが、 7身﹂の代わりに自分の﹁こ ころ﹂を花のもとに行かせたと詠んでいる。風景に対する場合にお

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-46-いても、﹁身﹂から際するーなものとして﹁こころ、を捉えて いるのである。 さらに平{条期の和歌になると、次のような歌も見られる。 ﹂一 ①ながめやる心は乃にそひながら隔つ急●はなほつらきかな 念伯承三十六人腎・三五二・烹巴 1 この歌は、空をわたる月を﹁こころ﹂は追いかけているが、中乏隔 てられて月か見えなくなると、﹁こころ﹂は雲に隔てられずに添っ てはいるものの、やはり何に見えないのは物足りない、という内容 -a7︺ である。打四夫しさに引き付けられてやまない思いを、﹁身﹂から﹁こ ころ﹂歪航して﹁打﹂に添うと捉えているのである。 この①で注愆すべきは﹁ながめやる心﹂という表現であろう。こ れは、次の掠俊頼の歌に初めて詠まれた表現である。 (千載和歌集・耿上・二九一・俊恵) 摸洋国なりける所にまかりてのぽりけるに、男のあやめ刈 るを見てょめる ②ながめやる心もともにさみだれて空岫れぬ冏にあやめをぞかる (散木冷歌条・条・七六一一・源俊頼) この②は、風"だ目を逃る肉分の﹁こころ﹂も、五村雨でん岩﹁空﹂

と共に﹁さみだれて﹂つまり心武れず曾ていると勢でいる。

ながめる﹁さみだれ﹂の墨ぞ内分の﹁こころ﹂の状態と重ね合わ せているのである。 俊頼の子である俊忠に、この﹁ながめやる心﹂を用いた歌がある。 ﹁ながむ﹂とは、木来物思いに沈んである一点や戸外n松をぼん やり見る、という意味を表す語で、平安中期以峰から、一心にそち ︹主H︺ らを見つめる、という用法へと派生している。﹁ながめやる﹂とは、 思いを込めてそちらの力を見やる、という愆味の語と觧釈される。 ③ながめやる心のはてぞなかりける明石の沖に澄める河影 海辺河 これは二御辺月﹂題で明石沖の月を詠んだ歌で、打が渡って行く明 石の禦果てしなく広がっているのに伴って、自分の﹁こころ﹂も 打に従ってどこまでも果てしなくついてゆくと捉えて、明石沖と打 の美しさを愛でる﹁こころ﹂がいつまでも尽きないことを献んでい る。 ①は治承三年(三七九)頃、③は架二年八月以前の詠作とさ れる。ほぼ同時翔に﹁月﹂キ詠んだ①と③の二首は、﹁打﹂という 対象に﹁こころ﹂鳶耕すると捉えている。この二首は、おそらく 俊頼の②を承けて、﹁こころ﹂と胤小を重ね合わせて、向らの﹁こ ころ﹂の羅を揣いているのである。 特に③では、﹁ながめやる心のはて﹂という表現が見られる。こ れは、﹁ながめやる心﹂に﹁はて﹂という語を結びつけた表現であ るが、後年の建久四年(三九三)頃の﹃六百番歌合﹄にも次のよ 、つな例がある。

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一十五番広沢池眺望 季経卿 ④ながめやる心のはては広沢の池より述にいづる河影 中筥怖大夫(家房) 右 広圦の池にはしづむ月影の土晶の山にたちのぽる力な 冷ガ小云、左歌、無指剣。左方卵云、右歌、﹁広沢池﹂ よりは﹁音羽山﹂はいかか見えむずる。 判云、右 W切.崟りに途く儁るべし以在為肝 全<百番歌介・﹂厶沢池桃望・ニ'・左排・膝原季経) この歌は都の郊外にあって、池としてかなりの広さを誇り、児の名 所として知られる 1仏沢池﹂の﹁眺望﹂という顎Uからして、広沢 池から速くの河をながめる﹁こころ﹂を詠んだ歌である。﹁ながめ やる心のはて﹂とは、はるか途くまで恕いやる自分の﹁こころ﹂が 至り村く彼方を指し、広沢池という太大な空剛のはるか途くの祝界 から上空に昇って水而に映り込んでくる河に﹁こころ﹂至り耕い たことを献んでいる。この歌には打か出るまでの吽剛の峡輪一と空朋 の広がりと、飽きることなくながめて河に引き付けられる自らの ﹁こころ﹂が埀ね合わされている。 このように、野小をながめ、その風お様柳に向らの﹁こころ﹂ 左重ね合わせる表現が治承期に生まれたことが注Uされる。これら の歌では、対象に強く引きつけられて'体の﹁こころ﹂か刈象に 密着すると捉えている。これは、風参τながめ、刈象に引きつけら れる主休の﹁こころ﹂の動きを捉えることにょって、風¥楸成し、 界昂をながめる、王体の存在を歌の世界の小に取り込み、心到を船写 する新しい表現枇造なのではないかと考えられる。 鼎昂と﹁こころ﹂を重ね合わせる表現が治↓水期に詠まれていたこ とを硫認した上で、冒顕に掲げた﹁心のすゑ﹂の表現の検剖に入り たいと思、つ。 三、﹁心のすゑ﹂ ⑤ながめやる心のすゑも美えぬ雪のあしたの塩翁の油 ^一^^^^・^^^^、・^^^・^、・^^・・^^^^ Jヨ判則穿 この歌は、文治三年(三八七)十一月、﹁餓百首﹂において﹁雪 朝眺望﹂の題で詠まれた一首で、雪か降った翌判雪で道か埋もれ 会釜の浦の"小を詠んだ歌である。この歌に先立つ治永二年(一 ^^^^の^^^臣宏^^^ロ^には、 当 朝戸あけて外の当をもなかめやらん心のゆくは跡しつかねば ^^^^,^^^ロ・^、^^・^^・^^^^^^ という歌があり、当の朝の風条をながめることを、一而の雪の上を ﹁こころ﹂が足跡も付けずに自在に川かけて行くと捉えている。寂 延はこの﹃右大臣家歌介﹂に参加しており、この一甜法師の歌を画 接知っていたと思われ、彬郭を受けていることか考えられる。

太峅

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叙延の⑤の﹁ながめやる心のすゑ﹂という表現は、俊恵の③の﹁な がめやる心のはて﹂を受けて、﹁ながめやる心﹂に﹁すゑ﹂という

草曾っけて詠み変えたものと考えられる。﹁はて﹂倫奎岡

的に行き着く先、または抽象的な極隈の藤を表すのに刈して、﹁す 恵﹂の語は、川の流れや道といった淫話な空Wイメージを表す県 物につして、迎紗的な延長の到碧"を尓し、空開的空傑と時間的 、 し 烹徐の双方を兼ね表す用法で用いられることの多い語である。こ の﹁すゑ﹂の剪爪法として、次の歌を例として引く。 獺をはやみ岩にせかるる沌川のわれてもす恵にあはむとぞ思ふ 詞化和歌集・恋上・ニニ九・小.補浣、 久安百首・初句﹁ゆきなやみ﹂) この歌において、﹁すゑ﹂の胎は、川とい、ユ櫻の方'Wを牙空 朋における、迩行の前力にある到馨{として捉えられていて、岩に 割かれた水の流れかまた合流する下流という空冏的到述点を表すと ともに、剛れた恋人と両び会う米来という侍岡性を衣している。﹁す ゑ﹂を、空剛的な意味と時冏的な愆峠の双方を冉縦しながら川い、 盆川の述瀚リ却な延長の羽轡"にⅢして物小のザ諜の畊田内変ヒや告 采を重ね介わせることで、岩にせきとめられる川の流れが、川繊し た恋の比喩になっている。 再慕延の⑤に戻って考えてみると、﹁ながめやる心﹂に﹁す念﹂ を吐新びつけた^は、.^aの降った^^翁の浦^の^条に引きつけられ ることを﹁こころ﹂の移動として捉え、その行き許こうとする到述 点を﹁すゑ﹂と示している。第二句でも二退たえぬ﹂と﹁道﹂の詔 を用い、一首全体を道を歩いてゆく人のイメージで描き出している ことから、雪に埋もれて道が剛ざされた風条に白らの﹁こころ﹂の 行き場のないやるせなさを重ね合わせている。 このように、風1それを眺める、裸の﹁こころ﹂の動きを重ね 合わ^る表現^造は、俊頼の^、俊恋の^、覚盛の^の流れを受け ているといぇる。しかも同じ﹁ながめやる心﹂という表現を用いな がら、広大な胤小を海々とみつめ、内在に対象に鱗加する祥の﹁こ ころ﹂を詠むことから、道の剛ざされた果"小に血らの楙篇した﹁こ ころ﹂のありようを重ね合わせる内容に転じた所が、この表現の応 用力を示しているといぇる。俊頼の^では﹁さみだれ﹂た風条に自 らの時れぬ思いを爪ね合わせていることから、﹁こころ﹂という概 念で主仏のどのような思いを表すか、各人の裁せで応用できる表現 だからこそ次々と変{谷していく表呪派生の柔軟なありかたに注月し たいと思、つ。 この﹁心のすゑ﹂は、叙越と親し態円の歌にも見られる。慈円 の泳条一拾玉架﹄の鎌文には、寂述の謡輯百首﹄は慈円も一緒に 詞んだ百^倒であると轡かれているので、慈円は{叔蓮の^を当然Πに したことと思われる。その表れが、建久二年(三九この﹃二夜 し ブ 百直で詠まれた次の歌で、 ⑥はれやらぬ心のすゑもあはれなりながむる・補の熈冴の空 ^^、^、^・一^^、白^凶・^ 霧 一四'二念円)

この歌は﹁霧﹂絵で、眺める悦勢行き着く先の荏、心の進展

していく先の愆味を掛けて、訓弼に毅われて視界の利かない空に、

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それを眺める自分の﹁こころ﹂を重ね合わせて、淹み切った悟りの 境地にたどりつけないでいる月八刀臼,吋の﹁こころ﹂の村相として揣 き出している。 詠作年代は明らかではないか、藤凉良経もまた﹁網代眺望﹂題て ﹁心のすゑ﹂を用いて詠んでいる。 網代眺望 ⑦浪のーに心のす恵の催むかな網代にやどる{帯のあけぼの ^火^^刃U^^・^ー"・^^一^^・一^^^^^^^ これは﹁もののふのやそ宇治川の網代木にいさよふ波のゆくゑ知ら 一六五0 ・柿本人麻邑を木歌として、 ずも﹂霸十Π今和歌染 卸圷 宇冶"にか力る網代木ガ朝務に慢んでしる匝芽に、川を﹁没し(宇 治)﹂と思いながら網代木にせきとめられる自分の﹁こころ﹂の先 行きの見えなさを靈ね介わせた歌である。 建久倒年(一一九三)の﹃六百番歌介﹄には、﹁広沢池眺望﹂の ^で^の^ながめやる心のはて^が詠まれているが、^ながめやる 心のすゑ﹂という表現も兄られる。 なぜこのような表現が生まれてきたのか。そこで奨小Lたいのが ﹁眺望﹂題との関わりである。近腰みゅき氏は、属己祭中国詩、 特に一白氏文条﹄に山来するものであること、平安前翔の本那河の 四風景表現と﹁眺望﹂題

左持

兼宗朝臣 ⑧ながめやる心のすゑもとまれとや村に{佰貸す広沢の池 言定(脊) 右 処科も明石もここにさそひきて月の光は広沢の池 ^^^ノ^丸^噸■^中﹂ノ 判云、左の歌、 7心のすゑもとまれとや﹂といへる、宜 ⑧は、広沢池が水而に河を映すことを﹁宿貸す﹂と捉えて、広沢の 池をながめる﹁こころ﹂が月に引き付けられてそこに止まり、雜れ られなくなることをマ扣まる﹂'け、広沢の池をながめる﹁ここ ろ﹂も宿に池まれというのか、村に宿を貸している広沢の池よ、と 詠んだ準ある。移動してゅく﹁月﹂を迫いかけてながめる﹁ここ ろ﹂が行き着く先を﹁すゑ﹂と捉え、ながめる主体の﹁こころ﹂が 、 札黛的に﹁打﹂と共に﹁系の池﹂に引きつけられることを﹁とま る﹂と表現しているのである。この﹁心のすゑもとまれとや﹂とい う表現が判詞で評価を得ているのも、この表現の面白さにょるもの であろうと思われる。 これらの﹁心のすゑ﹂は、空岡性と時朋性を張合わせた表現と して則いられている。﹁すゑ﹂という空開・時倒の向力の︼峡を兼 ね表す語を表現の要として刑いることにょって、由分の爲や桑心 の時岡的または伏態的な変化を、前後の方向性を持つ空問性に重ね 合わせ、主休の﹁こころ﹂のありようを表す表現千焚といぇる。 しくこそ見え侍るを、右歌、﹁明石もここにさそひきて﹂

といへる迭司左砂に劣ると小力たし。よき§す

一十八番

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-50-作例はあまり認められないか、十Ⅲ紀の平{女中刈になって次第に関

心を集め始めて多く倫えられ、﹁見渡せぱ﹂という誤表現の

広かりにも﹁眺望﹂詩の発相郊、深く関わっていることを指摘してい ︹庄]︺ る。 この﹁眺望﹂題が和歌の世界で詠まれるようになるのはさらに遅 れて平{穫期以降になってからである。その最も早い例と考えられ るのは次の歌である。 この﹁眺望﹂題について、小泉利氏は﹁広田社歌合以降、六百番 (江膨 歌合までの問において﹂成立したという見通しを示している。承安 二年(三七三)、﹃広田社歌合﹄において﹁海上眺望﹂の學堅 れた和歌と判詞は、﹁眺望﹂の塑思がどのようなものであるかを具 体的に知ることの出来る資料である。 雪削眺望 ながめやる箱根の山を誰がために明くれぱ当の降りおほふらん (散木奇歌染・冬・六七丁源俊頼) この歌は、箱根の山々が雪に稜われているさまを広く見渡し、その 人気のない寂しさを感慨として詠んでいる。﹁僻巴題で和歌を詠 む、その先陣を切ったのが、②の﹁ながめやる、心﹂J線んだ源俊頼 であることは注愆されるべきであろう。

さらに条元年から三年(三三二S 三三四)に催されたー

歌である﹃為忠家初度百首﹄では、初めて﹁眺望﹂學歌が詠まれ ている。それに引き続ミ保延元年(三三五)四月二十九日の﹃内 裏歌△県で詠まれた、 をはじめとして、川徐天皇の在位時または退位後の歌堺において 雪小眺望﹂﹁田中眺望﹂﹁野径眺切巴の題で詠まれた歌が見られ、﹁眺 望﹂冴流行がうかがわれる。 新院位におはしましし時、 ませ給けるにょみ侍ける わたの原こぎ出でてみれぱ久方の雲井にまがふぉきつ白浪 子ハニ・藤原忠通) 糺下 言Π↓寸1哥4 新院位におはしましし時、雪中眺望といふことをよませ給 けるにょみ侍ける 紅に珂ルえしこずゑも雪ふれば白木綿かくる神奈備の森 司化飛歌集・冬・一五七・係原忠通) ︼ t j三玉"' 1r 秋の田の場子四昔も開こえこぬほども目路にはかかるなりけり (教長集・雑剖・九二0、出徐院句題百首) 新院にて、野径眺望 ますらをが朝踏む野路をΠ袋せば雲井はるかに隠るせこなは (顕輔架・一四 J (※)といふことをよ 倒番 実国 左 松浦轡ルえゆくほどはそれながらただえやごゑのききぞ絶えぬ る 海 1'( tJJ 'も 主E リ

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肺光 勝 イ 朝瓜の湘路はるかにいでにけりかもめにまがふ村の釣,州 太の﹁松浦船見えゆくほどはそれながらえやこゑの﹂き きたえぬらんほど、心釧くは倩るを 右の、﹁潮路はるかにいでにけり﹂といへる姿よろしく 十四稲 判者である俊成は、倒番の右の歌について、﹁些の心なほ優れる にや侍らん﹂と、﹁眺邑の壁思がよく表現されていると評価して いる。この歌は、対象が水平線の彼力にあり、それをこちらから眺 める状態を諫んでいることから、俊成は、空朋の広がりを巧みに表 現することが﹁眺望﹂題の誓一だと判断していると思われる。俊成 肉身が﹁眺梨﹂恕で一献んだ歌を見ると、 きこえて、些おこころなほ優れるにや付らん、よりて 以右為胖。 七番 m"允久袖心

た勝

小云の波わけゆく舟の消えぬるは火の河原にこぎやつけつる 県太后火夫俊成 唯 わたのはらこぎはなれぬる,舟路には心もえこそつながざりけれ 左歌、﹁天の河.椋にこぎやつけつる﹂といへる心、いと をかしくこそ侍れ。 右歌は又愚老の拙歌に倩るべし、さのみ判お威を伊り てとがをあらはさず侍らん御慮おそれあるべし、﹁心つ おさ 右の俊成の歌は、広い﹁わたのはら﹂へ淋ぎ出て陛地から述く凱 れてしまった舟には、それを眺める胸分の﹁こころ﹂も陸地につな ぐことができなかった、と詠んでいる。陸地から獣れて行く,川をな がめることを、舟黒雫﹁つなぐ﹂といい、﹁こころ﹂を舟のも やいにーてて、惜分の﹁こころ﹂も,舟に竃、川して、身から剛れて いくと捉えており、舟の動きと﹁こころ﹂を重ね合わせて、﹁わた のはら﹂の広がりキ袰そうとしている。 俊成は、﹁心つながれずといへるぱかりは眺望の心さだめて少な く付らん力し﹂と判名の立場上この目竹をⅡ判してはいるか、﹁、心 つながれず﹂という表現に一、裂しているところに、風駄に主体の﹁こ ころ﹂を埀ね合わせることにょって﹁眺望﹂匙"¥表そうとする 慈識を見て取ることができる。このような﹁こころ﹂と興呆との爪 なり合いは、次に挙げた歌にも見られる。 侍らんかし、左歌の心まことに万里の浪おもひやられて はるかにこそおぼえ侍れ、よりて以左為勝。 ながれず﹂といへるぱかりは僻お心さだめてすくなく 左 顕広王 見渡せばおまへの沖の波岡よりかすかにまがふぁまのつりぶね 沙弥逝因 右勝 ⑨ながめやるこころ抑ふゑ鷲かな波路は果てもなしとこそきけ 左は、初めつ方に﹁おまへの沖をみわたせぱ﹂と侍りつる (゛Π) 歌の文小亥すこしかはりて、これははじめの五文字のこと ばなれたるやうに侍るにや。

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-52-右は、﹁ながめやる﹂とおきて、﹁波路は果てもなしとこそ きけ﹂といひすてたる姿いとをかしく心もあはれにこそ見 え侍れぱ又以右為勝。

⑨の尿篇﹂とは、久安奈(三五0)の一久安百首﹄に

押﹂^^^^^^よ^^^さ、^^^一、,^^^^^L^^リ^^リ (秋・六四0 ・傑東器千赦和歌架に入染) 七訓まれた淡路島の北端にあゑ鷲か崎のことで、⑨は対岸からの ﹁海上Ⅲ0ととVう政定で詞んだ歌とⅢ劣れる。叱'ガ崎の而白さ に﹁こころ﹂が引かれることを、絵・県﹁こころおさふ﹂すなわち 絵島が 押しとどめると捉えた上で、 ﹁こころ﹂を艸しとどめるので ﹁こころ﹂を逃れないものの、その向こうに﹁波路﹂の巣てしなさ を想像する、と詠んでいる。﹁﹁ながめやる﹂とおきて、﹁波路は来 てもなしとこそきけ﹂といひすてたる姿いとをかしく、心もあはれに こそ見え侍れ﹂という評は、﹁眺邑の鷲忌としては広い光而揣写 が常であるのに、それをあえてせず、想像にとどめることにょって 空問の広かりか表され、﹁眺超の町讐にょく適っている、と評し たものと老えられる。 この⑨が、﹁墜﹂の冴1れ、果をながめることを﹁こころ﹂ の移動として捉え、﹁ながめやる心﹂という表現を川いていること は埀要六立昧を持っと思われる。治永三年(一一七九)頃の①、治 が二年八河以前の討件とされる③に、先立つかまたよ弐ま司時明の 永安二年(一一七二)に﹁海上眺望﹂題で﹁ながめやる心﹂という 永い 0 ばさマニう 表現が則いられているのである。さらに﹁心のすゑ﹂の用例の初出

である、文治示(三八七)の﹃結題百首﹄裟延の④の裡﹁雪

朝眺望﹂であり、良湧⑦も﹁網代眺切乏哘心、建久四年(三九三) の﹃六百番歌合﹄の④と⑧も 1仏沢池眺望河、といずれも﹁僻三 題で﹁ながめやる心﹂という表現が爪いられているのである。 一迎の検制から、平安後翔倫填と諮"における﹁眺望﹂題の流 行が、﹁ながめやる心﹂という俊頼由来の表現の逃打をもたらし、﹁、心 のはて﹂﹁心のす恵﹂という一述の表現窒み出されたという胤小 表現の史的展開が浮かび上がり、﹁心のすゑ﹂という表現の生成と ﹁眺望﹂題倫行蛙張な関係にあると老えられる。 先行研究において、﹁心のす恵﹂は、﹁﹁心の打﹂﹁心の空﹂という 仏教を源泉とした、、心の内割を観ずるとい、?密教的な打綸観を壁9 語とともに、西行を始゛として、密教的な観想四詠法という釈教的 (主5) なものから生じたもの﹂と指摘されている。しかし﹁心のす恵﹂の 使用は釈W験や述懐歌に隈定されるものではないことは前述の通り である。﹁心のす恵﹂と決関条あるとされる﹁心の打﹂の用例 をみると、 五﹁心の月﹂と﹁心の空﹂ 深き山に、心の打しすみぬれぱ鏡にょもの悟りをぞ見る NH藥・一五・西行) h西弟子品内秘"ゞ'行の心を いにしへの鹿鳴く野辺のいほりにも、心の河はくもらざりけん

(10)

西行の﹁心の月﹂については、円満で溌んだ心、または縊の喩え (注W︺ であると指摘されている。慈円の帰例は、釈迦の弟子の逸話をふま えた歌で、﹁心の月﹂は清浄な、心を表していると老えられる。これ らの﹁心の打﹂は信仰に努く澄みきった心という観念の象徴とし て胴いられているが、あくまで﹁心月﹂の翻案としての意味川法に 留まっていて、興厭と重なり合、つような構造を伴うこともなく、仏 繋脚として則止化された表現用法であるといぇる。 7心のす恵﹂と いう表現の四水として光手げられるほどの強い彬菊力があったとは言 い切れないのである。 また﹁心の空﹂についてみると、 (新古今和系・釈教・一九五0 ・慈円) ^の 7心の空になりし﹂とは、心が上の空になり気もそぞろになる 小と空帯が嶋ることを掛けたものであり、②の﹁心の空﹂も、上 の空という意味の髪介動詞﹁そら﹂を掛けたものである。一方で③ は、牽牛が天の川を渡り織女に会いに行くという七夕伝説をふまえ たもので、﹁君﹂J条い求める恋心を空にたとえて﹁天の川﹂とい う語を引き出し、﹁かひなくて﹂に舟の誓<としての椛と効き目が ない、無駄という冉様の﹁かひなし﹂を掛けて、迩瀬の叶わないこ とを天の川のたとえで詠んでいる。④は、﹁きりふたがれる﹂に、 鴛ですっかり空鳶怠ことと涙で前が見えなくなることを掛けて、 霧が立ちこめた元区の風以を﹁こころ﹂に見立てている。これら の用例から、﹁心の空﹂とは、まず恋準用いられる表現であった といぇる。 さらに源俊頼は、次のような歌を詠んでいる。 観、心をよみ侍りける 制はれて心のそらにすむ村は西の山べや近くなるらむ (新色今和歌条・釈教・一九七八・西行) 西行の﹁心の空﹂は、仏教語﹁●﹂とほぽ同じ意味、虚空として (庄E の沽浄心を表しているとされる。 この﹁心の空﹂は、平安中期の用例か複数見られる。 大弐長,笑の家にて歌合せんとしけるにょめる ⑤誰か又心の空§●暗れてえもいはぬ夜の村を見るらん 泊まりぬべきことなど一言ひたらばとまらむと言ひ侍りけれ ぱ、よみ侍りける ②いかがせん山倫にだにとどまらで心の空にいづる月をば (後拾遺誤集 八六ブ・艸編世 雑一 帰謀心ふる心の空は天の川かひなくて行く打Πなりけり (誕乢集・恋・- 00) ④涙のみきりふたがれる頃ならぱ心の空の晴るるよもなし (誕衛門集・二七四) 判いたく,鳴りける期に、宣耀殿の女側のもとに造はしける ①君をのみ思ひやりつつ杣よりも心の空になりし宵かな

毎越誤集・讐・三四一・杓上天皇)

入道摂政ものがたりなどして、{祥の河のいづるほどに、

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-54-この﹁心の北正は、澄んだ河を見て、心鳶れることを、﹁九己と﹁こ ころ﹂を重ね合わせて捉えたものである。この⑤の﹁心の空﹂が表 す内容と表現術造は、前述した源俊頼の①﹁ながめやる心﹂という 表現と、墨小に心を重ね合わせる点で儲っているのである。 時代を下って新古今時代の﹁心の九正の用例をみると、 (散木奇歌染・耿剖・九月・五0七・穫頼) ⑥ときわかぬ心の空の五月雨も草の雌に時れざらめやは (拾玉集・厭敵百首・夏・六二三念円、文治三年) ⑦さびしさに思ひ弱ると月見れぱ心の空ぞ秋ふかくなる (秋篠月清集・花打百首・七五、・藤原良経、建久元年) ⑧忍びかね心の空に立っ煙見せばや¥ゐ峰にまがへて ?ハ、白番歌△口・恋六・Ⅱ九番・寄煙恋・左勝・藤原良経) ころ﹂表現を生み出す源泉の一つとして位糧づけるのは妥当だと思 われる。ただし、"奇の⑥や良経の⑦⑧の用例をみるかぎり、西行 ﹁心の空﹂の叱弊というよりも、むしろ平安中翔の般血の③、赤 の 染術門の④や俊頼の⑤裂現内容と倫ぴつきが強く認められる。 つまり、慈円や良経たちの﹁心の空﹂という表現には、平安中期 以来の表現の展開が受け継がれているのであって、この﹁心の空﹂ を、西行を始点とする観想緑法として仏教的な枠組みの中で限定 して解釈するのは、その豊かな表現性を狭めて考えることになると 思われる。したがって、西行がこの 7心の九巴という表現に注目し て数多くの釈教歌に詠んでいることに関しても、それを西行一人の 特契'独創として捉えるのではなく、和歌表現の史的展開の中に位 竺けて捉える必要があろう。 ﹁心のす恵﹂という表現に関しても、それが釈教歌・述懐歌であ るにせよないにせよ、その枠組みをこえて、条を見渡すという﹁眺 望﹂冴流行と定着をきつかけに、ながめる風き自らの﹁こころ﹂ の動きを重ね合わせる表現手法の生成、表現の大きな流れの中で考 えていく必要があると思われる。 ⑥は、自分の﹁こころ﹂を﹁五月雨﹂の風景に重ね合わせており、 俊頼の⑤気似する。⑦は秋の空の月をながめて、﹁こころ﹂とい う空にも月か{佰ってさびしさが深まることを諫んだもので、﹁ここ ろ﹂を空にーて、秋の空裂しい風条に﹁こころ﹂が重なること を献む点で、④の影糾を感じさせる。また⑧は忍ぶ恋の股定で、外 に見せずに内面忍い焦がれる﹁こころ﹂を空に見立てて、恋の思 いの火の煙を富士の煙にたとえている。恋心を空に見立てる趣向と して、③との関連が酒取される。 このように﹁心の空﹂という表現は、果昂と﹁こころ﹂を埀ね合 わせる点で﹁心のすゑ﹂と盗構造が叡しており、平、条期の﹁こ ﹁こころ﹂をめぐる和歌表現は、﹁身﹂と﹁こころ﹂を対比的に とらえる面白さから、﹁こころ﹂そのものの内実や動きを具体的に

とらえようとする方向に展開している。とりわけ、配邑冴発

想を得た平安末翔の歌人たちは、その風以を描くことだけでなく、 その憾ぞみつめる白らの﹁こころ﹂がどのよう勗くのかに関心 まとめにかえて

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を持ち、﹁こころ﹂の動きを風県の中に捉え、﹁こころ﹂のあり力を 興昂と重ね合わせて拙く表現を生み出したといぇる。 平安末期の歌人たちの﹁こころ﹂をめぐる表程*には、仏教的 な田葱の彬氣を受けた、陶已の﹁こころ﹂への沸い僕心力怯・瓜に通 じていることは祚かであろう。そのような内らの﹁こころ﹂を、分 かりやすく、目の前に広がる風県を見るかのような空問イメージと して具体化する力向に向かっているのが平安末削の和歌表現であ り、里県に﹁こころ﹂を乗ね介わせる手法か還択され、好まれた東 地として、実祭ないしは仮想としての﹁眺超体験が深く影Wを及 ぼしているとぢぇられるのである。 ﹁心のす急﹂という表現は、﹁こころ﹂とい、?誥に﹁す・三とい う位逃を示す語を粘びつけ、風以と重ね合わせることをより強訓す ることで、風尿と、それに﹁こころ﹂引かれている.株のまなざし のありようを、;Hの中に捉えようとする表現手法であると思われ る。このような表現手法は、加以を見波して、そのル以や、無以の 小のひときわ美しい対象を揣くだけでなく、その轡昂をみつめる.土 体の存在を風呆の中に取り込むことを・ν深する。歌の世界の小に主 ^の存在を^り込む力法は、新^U今片代になると、物磊や^U歌等の 人物に成り代わってその心象を興昂に託す象微脚な九而表現へと発 雄していくことから、本稲で見た利歌表現はその生成過程としてと らえることができる。風戸袰現と﹁こころ﹂の関わりについては、 ^マ後も^制してしきたし。 1 ﹁こころ﹂については、川平ひとし﹁<心>のゆくえ1中世和 歌における<主休>の閥題1﹂(﹃小世和歌テキスト論零小 へのまな、ざし﹄笠岡書院・二00八年)をはじめ、﹁こころ と王体﹂(﹃中川誤論﹄μ而古院・二00三年)など、﹁こ ころ﹂をめぐる修辞や詠歌、王体との関係性、その根威にある 儲キ帽広く体一而に捉えた一迎の姦小かある。 一﹁古代和歌における﹁こころ﹂の空朋化表現﹂司 半謬什 語学研究﹄築三四染・一九九1三月)は、﹁心のうち﹂﹁心 の制﹂﹁心のくま﹂﹁心のそこ﹂﹁心のおく﹂﹁心のひま﹂など の表現を、﹁県詣な空冏と対比的に、心を一つの空問とし てイメージする﹂ものとして﹁﹁こころ﹂の空剛化表現﹂と 捉えている。 謙雅之﹁{際における西行歌受写,1 ﹁心の釆﹂と﹁しの ぶの丸﹂1﹂一栞太丁文蝉1人文甲学W究所・列究勺聖 第力^同^ラ・一九九九年十H^。芽原^は、^この^心の末^な る誓、何れも釈教歌や述懐歌の中で用いられてくる。﹁思 ひ入る﹂﹁はれやらぬ﹂﹁ながめやる﹂等、歌の名句に明示さ れてくるように、どれも田椛的な様相を詠んだ歌であり、そ の粘杣需一を象徴する語として﹁心の末﹂が用いられている﹂ とし、﹁心の末﹂や﹁心の果﹂﹁心の奥﹂﹁心の底﹂などの表 現が、西行の歌の﹁心の冴﹂﹁心の空﹂の表現に代表される、 山分の心の内部に空間性を認散するという密教的な﹁観相ど の舒紘という仏教的なものを源に、西行の強い彬新力ら生じ 2 3 -56-注

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4 てきたものであると指摘している。 ﹁歌語﹁心のそこ﹂ 1西行および文治建久期黒円と定 '家1﹂(﹃武庫川国文﹄第六四号・二00四1 一河)。誘 の必要上、一部屯複する所がある。

六万柴倭諾

七二七。ただし^万菜条^では^こ 七一九 、 ころ﹂の諦だけでなく﹁弛(たま・たましひととい、つ語を 形いた例^多い。^こころ^と^^^たま・たましひ^の語 の用法に関してはここでは立ち入らないが、﹁﹁、心﹂は告戴に 近災屡にあるもの、﹁魂﹂はそ登轟の及ぱない深層にあ り、人闇を存在せしめているより基層をなすもの﹂という増 田繁夫の鮒卯会平安一券のH都・愛陪・性愛1多亥制社会 の男と女﹄青一馨・二00九年)をあげておく。 野村粘一﹁﹁牙﹂と﹁心﹂の相克1券れたる存在について1﹂ (﹃団文学﹄第工三'九号・一九七八年七打)。また高木和子﹁古 今集の﹁身﹂と﹁世辻(十H今誤条研究条成・第云﹃古今 和歌染の本文と衣刃^二0^四仟・癒剖冉浣^は、ーロ^マ犬小 で7牙﹂と﹁心﹂とがともに殴込まれた十例について、7身﹂ と﹁心﹂は︹対比的に詠み込まれ﹂、﹁﹁身﹂と﹁心﹂の関係 をし力に紡き出す力という占一に各歌の犯創性が発見される﹂ と指摘している。 N'の■"イω耐については柚橋開﹁覚荏法師とその周辺﹂ リイj^^^静.^^ト^・^^・↓^ー^^^^・^一^ー^^^^り"^^ 世牙思恕社 年六月)、田仲洋己﹁三百六十番腎﹄ しし ブブ について﹂(﹃巾世弼の歌沓と歌人﹂和泉'・二00八年 十二月)に詐釧な立小かある。 5 6 8 辻田昌三﹁ながむ﹂(﹃四天王寺女子大当鞄要﹄ 7 ﹁歌語﹁す恵﹂の表現空岡1万菜か号1Π今ヘ1﹂(﹃武 拙稿 9 庫川囲文﹄第六■1 三00五年三河)説明の必要上、 亟複する所がある。 W 慈円﹃拾玉条﹄ 7曾首倭歌﹂鉱文、 7父治三年十一月廿一Ⅱ 一、^,^肖^^^心^リ市^^。 b^.反一^単^^"^、虫MJ^^。 ^^^^^き^n^^^^^と^^^^^^^ーム幻^^^^七^^^^ U 文受容に関する一問池として﹂(和漢比校洗ゞ第十一巻﹃古 ^ソ^と沙,^学一^A円^・^^^^^^ W 松野陽一邪傑俊成の研究系■W院・一九七三年)では﹁海 、 上眺超として掲げている。 玲 小・希﹁豆最における眺切懲の成立1為聖舎首の位肌﹂ ヲエリス女一誘大尋峠﹄二四号、一九八九年三月) N ψ晟番にーつ、十.一番・左・頼・災の﹁はるばるとおまへの 沖をN彼せぱ烹"にまかふ海人の釣児﹂。 前描注3、"際氏倫文。 山田昭全﹃西行の利歌と仏敦﹄(明治占院・一九八七年) 新古今集の巻末歌であるこの歌について、川平ひとし﹁<心> のゆくえ1中世和歌における<、赤>の製1﹂(﹃中川誤 テキスト論,条へのまなざし蚕W院・二00八年)は、 ﹁仏教的恨界観のもとでの﹁観心﹂という爵﹄、内的世界を 賠示する﹁心のぎ﹁西﹂へと向かう娚1、<心>をめぐ る主冴玉大さを伝えている﹂とする。 弓用した^^の^,^は^汀じ^国^^^^^角川山^^にょり、^ 1 一一一 一九七上 三 拙 稿 ]7 16 巧 、鴫』ーノ _盟一 ノ、 イ

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(雪訟避詠苓峡今+々y ・廿耿興§)

参照

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