著者
野間 信幸
著者別名
NOMA Nobuyuki
雑誌名
アジア文化研究所研究年報
巻
55
ページ
120-129
発行年
2021-01
URL
http://doi.org/10.34428/00012451
針生少年の見た武漢の景色
野 間 信 幸
キーワード:針生清人,漢口租界,日本領事館,領事館官舎 1 .日本租界を探す 華中科技大学外国語学院日本語学科と東洋大 学アジア文化研究所の架け橋となった,針生清 人元文学部教授(1935~2014。アジア・アフリ カ文化研究所時代の1983年~1991年および1995 年~1999年にかけて12年間,研究所長を務めら れた)は,1990年代以降ほぼ毎年武漢に出向か れた。たとえ武漢に用事が無くても,中国に赴 かれると必ず武漢に立ち寄られた。 私は一人旅が好きなので,中国にはいつも一 人で行っていた。ところがある時,針生先生か ら上海に行こうと誘われて,武漢‼を初めて訪 れることになった。1999年12月のことである。 12月22日,武漢天河空港に到着した私たちを, 華中理工大学(当時)日本語学科の陳俊森先生, 交流センターの張興敏氏が出迎えて下さった。 この頃已に針生先生は足を痛めておられ,長い 距離の歩行に困難を覚えられていたから,そん な体調への気遣いもあったのであろう,大学の 車まで用意されていた。 昼食後,ホテルのチェックインまで少し時間 があったので,せっかく車もあることだし,ど こか訪れたい場所はないですかと,陳先生だっ たか張氏だったかが尋ねて下さった。こういう 時,針生先生はあまりご自分の希望を口に出さ れることはない。しかしこの時は珍しく,「昔 の日本租界で,領事館のあった場所に行ってみ たい」とおっしゃられた。 車は長江西岸の漢口地区の,プラタナスの街 路樹が両側に並ぶ通りに入って停まった。この 辺りが,かつての日本租界だという。車から降 りて歩いてみると,確かに旧街の趣きが漂って おり,古い建物も残っていた【写真 1 】。とこ ろが針生先生は,「ここではなかったように思 う。ちょっとちがう気がする」と言葉少なに, しかしはっきりと語られた。そこで別の通りに 移動して探してみたりしたが,針生先生が思い 描かれている場所に辿り着くことはできなかっ た。先生はすこし残念そうであったが,街歩き を続ける脚力に限界もあり,あるいは皆を煩わ せることに遠慮をされたのか,ここで調査を終 えられた。 それにしても,針生先生はなぜ日本租界に行 こうとされたのだろうか,また領事館跡を探そ うとされた目的は何だったのだろうか。当日そ の場でお聞きしなかったが,後日先生と二人で 話をする機会を得た時に,思いきって尋ねてみ た。すると先生は静かな口調で,次のように答 えてくださった。 「外交官だった父が武漢の領事館に勤めてい た時期があってね・・私はまだ子供だったが, 官舎から道路を渡って領事館によく遊びに行っ た記憶があるんだ」 いつもながら,針生先生は饒舌ではない。今 となっては,この他にも聞いておくべきことが もっとあったと悔やまれる。結局私はこれだけ のことしか聞いていないのである。しかしこの 話から,先生の父親が外交官であったこと,か つて針生一家が武漢の領事館官舎に住んでいたこと,そして針生先生は少年時代に中国体験を 持っておられたことが判明した。 針生先生はこれまでご自身の子供時分のこと を,他人にはほとんど語ってこられなかったは ずだ。それゆえ,先生と武漢の関係の始まりを 知る人は,あまりおられないのではないだろう か。 ただし針生先生は,武漢の日本租界を,無邪 気に懐古されるような人ではない。日本租界が あったという事実は,歴史的問題や道義的責任 写真 1 上 4 葉は1999年12月22日。(旧租界探索時に野間撮) (右下)左より陳俊森先生・張興敏先生・針生清人先生 (左下)12月23日華中科技大学第二楼 …針生先生の歓迎宴の後で。左より王秋華先生・( 4 人目)針生清人先生・陳俊森先生・(右端) 邱為平先生
針生少年の見た武漢の景色… が存在することを示しており,先生はそういう 問題にきわめて敏感な人であった。それゆえ旧 領事館跡を探されたことを,懐旧の念の表れと して単純に判断するのは慎むべきだろう。しか しこのことがあって,針生先生と武漢の接点が 浮上したのである。 針生先生は訪中の度に武漢に出向かれ,華中 科技大学日本語学科の発展を見守ってこられ た。その姿の根っこのところには,少年時代の 武漢体験があったのかもしれない。私は針生先 生の原点がここにあると,いつの間にか勝手に 思い込むようになった。 2 . 漢口の租界 1999年12月の日本租界探訪は,せっかく旧租 界地区に入りながらも,領事館のあった場所に 辿り着けずに終ってしまった。針生先生はおそ らく,隔靴掻痒の思いを抱かれたことであろう。 じつは私自身,まことに恥ずかしいことなが ら,武漢に日本租界があったことを,この時の 訪漢(武漢訪問)で初めて知ったのである。初 訪問であったというのは,言い訳にもならない。 漢口にイギリス租界が設置されたのが1861年で あり,その後ドイツ租界(1895年),ロシア租 界(1896年),フランス租界(1896年)が開設 され,そして最後に日本租界が出現(1898年) したのであった。百年前の侵略行為も知らずに, 能天気に針生先生のお供をしていた自分が恥ず かしかった。 そこで以降は訪漢の度に,湖北省博物館や辛 亥革命紀念館に行って,租界のパネルを見たり メモを取ったりして,欠落している知識をわず かながらでも補足していった。当時の手帳を見 ると,2001年のメモと,2002年のメモとでは精 度が違っているし,2005年には展示の租界図を 丁寧に写している。 これらの作業は,知識の補充を目的としただ けではなく,昔の租界の様相を具体的に把握す ることで,いずれ針生先生を目的の場所に案内 したいという願いも兼ねていた。 しかしパネルの展示内容は,日本租界の位置 取りを教えてくれるものの,租界内部の建物や 街路まで,具体的に表示したものではなかった。 行き詰まりを覚え始めたとき,神奈川大学人 文科学研究所編『中国における日本租界――重 慶・漢口・杭州・上海』(御茶の水書房,2006 年 3 月)が,出版された。本書には,孫安石「漢 口の都市発展と日本租界」,李江「漢口租界の 都市と建築」,冨井正憲「漢口日本租界の都市 空間史」などの力作論文が収録されており,こ れによって漢口の租界の歴史や日本租界の変遷 などを具体的に知ることができた。 なかでも本書所収の冨井論文は,「一九三〇 年に漢口日租界居留民団土木課が作成した縮尺 一二〇〇分の一の『日本租界全図』は『原訂租 界地』はもちろん,『租界拡張地』まで含んだ 道路,街区,建物配置を記入した詳細な地図で あり,当時の日本租界の空間構成が最も判読で きる貴重な地図である」(p359)と記したうえ で,この地図に基づいて日本租界の街路名を書 き込んだ「1930年漢口日本租界全図」を作成し 掲載している【地図 1 】。そのうえ現存する建 物を記した「2005年現在建物概略配置図」【地 図 2 】を併載しているので,これによって領事 館と領事館官舎の位置関係が一目で把握できる ことになった。 【地図 1 】及び説明文(p359)によると,長 江と平行(南北)に走る道は,西から東(長江 側)へ向かって,平和街・西小路(途中から中 街)・中街(途中から大和街)・東小路・河街と 並ぶ。 またこれらの街路と直角に交わる東西に走る 道は,南(ドイツ租界側)から北へ向かって, 南小路・山崎街・北小路・誠忠街・昌小路・名 称のない短路・中小路・大正街と並んでゆく。 この地図を労作と評価する所以は,租界内の 番地とその域内にあった建物名や機関名,店舗 名を別表と対応させて提示しているところにあ る。 これによって針生少年が「官舎から道路を
地図 1 地図に記入されている数字は番地 地図 2 地図の②は日本領事館,⑤は領事館官舎 中 大 南 山 北 誠 昌 小 正
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揚子江 2005年現況建物概略配置図針生少年の見た武漢の景色… 渡って領事館によく遊びに行った」道順が,判 明することになった。官舎のあった16番地から 領事館のあった 2 番地までは,北小路を西から 東へと下りて中街を渡り,途中の 6 番地にあっ た明治小学校と校庭を右手に見ながら,東小路 を渡って領事館に到着したのである。記憶に残 る道路とは,大通りの中街のことだと思われる。 ここまでくると,後は現在の地図と旧租界の 地図を見比べて,領事館と官舎の位置を確定し てゆくだけだ。地図は訪漢の度に,黄鶴楼の下 や辛亥革命紀念館前の広場で10年間にわたって 買いこんである【地図 3 】(ここでは「武漢市 交通遊覧図」湖南地図出版社,1998年 6 月第 1 版,1999年 1 月第 2 次印刷,を使用)。ところが, いざ市街地図を開いて比較してみると,租界当 時の街路と現在の道路とを一致させるのが,な かなか難しい。 そもそも日本租界とドイツ租界との境界に は,もとより道路がなくて街区が接続していた。 そのため日本租界の南端を識別する,目印とな るものが存在しないのである。これが新旧街路 の照合に,困難をもたらしている要因の一つと なっている。 上記『中国における日本租界』では,つごう 5 点の新旧街路名を明記しているが,すべての 街路に記述が及んでいないのである。こういう ところに,照合作業の困難さがうかがえよう。 またこのうちで日本租界を走る道路は,中街(現 勝利路)と西小路(現中山大道)の 2 本だけで ある。これでは,領事館や官舎の現在地を特定 できない。せっかく針生先生に報告できるとこ ろまできたと思ったのに,私の調査はここで頓 挫してしまった。 二進も三進もいかなくなった時,周徳鈞『漢 口的租界―…一項歴史社会学的考察』(天津教育 出版社,2009年 1 月)が出版された。「作者簡介」 によると,著者は1962年生まれの武漢の人で, 湖北大学歴史文化学院の教員である。 漢口の租界の盛衰史を記述した該書では,こ れまで知りたかった日本租界を走る新旧街路の 対照を行っている。「漢口日租界示意図」【地図 4 】の横に,小さく「地名対照」リストが付さ れている(p12)のが,その成果である。 これによると,長江と平行に走る道は,西か ら東(長江側)へ向かって,中華街(現中山大 道(一部))・西小路(現長春街)・大西街(現 勝利路(一部))・河街(現沿江大道(一部)) と並ぶ。 次に,これらの街路と直角に交わる東西に走 る道は,南(ドイツ租界側)から北へ向かって, 南小路(現陳懐民路)・山崎街(現山海関路)・ 北小路(現沈陽路)・成忠街(現張自忠路)・燮 昌小路(現郝夢齢路)・大正街(現芦溝橋路)・ 新小路(現劉家祺路)と並んでゆく。 これらの街路名を,「1930年漢口日本租界全 図」【地図 1 】と比較してみると,道路名称に おいて一部相違が見られるものの,街路の並び はほぼ一致していると認められる。 ところで『漢口的租界』には「漢口五国租界 方位示意図」【地図 5 】が掲載されており(p4), 地図 3
これによってドイツ租界に隣接する日本租界の 範囲が見て取れる。しかしこの図を眺めるかぎ り,日本租界の面積を少なく見積もっているよ うに見えてしまう。両租界の面積は,辛亥革命 紀念館のパネルによると,ドイツ租界が600畝 であるのに対し日本租界は623畝であり,ほぼ 同規模なのである(正確に言うと,日本租界の 方が若干広い)。 新旧街路の照合結果を示した周徳鈞氏の研究 成果は,これまでの研究の到達点をさらに前進 させるものであった。ただ私は地図における租 界の面積にこだわりを抱いてしまい,周氏の研 究成果を十分活用することができないまま,こ こで再び調査を中断してしまった。 針生先生は已に東洋大学を定年退職されてい た(2006年 3 月)。華中科技大学日本語学科創 設10周年の式典に招かれて訪漢した時(2008年 9 ~10月)も,針生先生を領事館跡にご案内す ることができなかった。 3 .官舎から領事館への道 針生先生は2014年11月10日,79歳で生涯を閉 地図 4 地図 5
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俄 租 界 I if:租 界 8租 界 双口五国租界方位示意OO針生少年の見た武漢の景色… じられた。あと 4 年長生きしてくだされば,日 本語学科創設20周年を一緒にお祝いできたのに と思うと,残念でならない。しかし先生は今日 この会場のどこかにおられて,私たちを見守っ てくださっているかもしれない。いやきっと, 仮の姿をまとってでも,お祝いに駆けつけてお られるように思える。 それならば,私は中断したままになっている 漢口の日本租界の調査を,たとえ不十分な形で あってもこの機会を利用して,調べ着いたとこ ろまで報告しておこう。そして会場のどこかで 聞いてくださっている針生先生に,間に合わな かった調査をお詫びしたいと思うのである。 そもそも私の知りたかったのは,領事館と官 舎のあった場所である。それには中街とこれに 交わる北小路の,現在の道路名がわかればよい のである。(もう一本走っている東小路は,「1930 年漢口日本租界全図」によると,領事館のあっ た 2 番地の西端を,山崎街から昌小路までの 3 ブロックにわたって走っていた道路であろう。 現在は消失したと思われる)。 そこで,まず南北に走る道路について,河街 (現沿江大道)の一本上(西側)を走る大きな 道を中街とみなすと,現在の勝利路がそれに当 たる。これは『中国における日本租界』の指摘 と一致するし,『漢口的租界』で大西街と記さ れた街路が中街のことであるなら,両書の認識 とも矛盾しない。 問題は東西に走る道路である。『中国におけ る日本租界』では,「(道路の呼称は)幅員の大 きさによって区別され,街,小路の呼称で呼ば れている」(p359)と記述している。この指摘 に基づいて,山崎街と大正街という南北に走る 当時の大通りを定めることができれば,自ずと 北小路(山崎街の一本北側)も確定するだろう。 北端の大正街は,現在の芦溝橋路と見てよい だろう。日本租界の北端は,現在の長江二橋の 手前であったので,芦溝橋路を大正街と見なす ことができる。「漢口日租界示意図」も,これ と同じ認識に立っていると思われる。 後は大正街から南の山崎街に向かって現在の 道路を当てはめてゆけばよい。往時の街路を残 す1998年版市街図【地図 3 】に基づきながらも, 現在ではグーグル・マップという便利なアイテ ムがあるので,これも活用しながら大正街から 順次当てはめてゆくと,次のようになる。 (旧街路名) → (現在の道路名) 大正街 芦溝橋路 中小路 大連路 (燮)昌小路 郝夢齢路 誠(成)忠街 張自忠路 北小路 沈陽路 山崎街 山海関路 以上の結果は,周徳鈞氏が提示されていた新 旧街路の対照表と,ほぼ同じである。私自身は ドイツ租界との境界が,五福路と六合路の間で はなかったかという想定をまだ捨てきれないも のの,ともあれ北端の大正街から道路を当ては めてゆく作業を行ってゆくと,周徳鈞氏が示さ れた結果と同じになった次第である。 4 .針生少年の見た長江 針生少年の歩いた道を,もう一度たどってお こう。少年は日本租界の16番地にあった領事館 官舎を出て,北小路(沈陽路)を東に直進し, 中街(勝利路)を渡る。そして 6 番地のブロッ クを通りすぎ,領事館裏手(西側)の東小路(現 存せず)を横切って,領事館に到着するのであ る。領事館へはおそらく裏口から入っていった ものと思われる。 日本租界は日中戦争開始後の1937年 8 月11日 に漢口市政府によって接収されるが,1939年 8 月26日に日本軍が再び占領してしまう。その後 戦争末期の1943年 1 月 9 日汪精衛(兆銘)政権 に返還するのである。 1935年 5 月10日生まれの針生先生が,武漢に いた子供の頃(年齢)を特定するのは難しいが, 当時の記憶が残っていることや,領事館まで歩 いたという行動面から, 8 ・ 9 歳の頃,つまり 小学校 2 ・ 3 年生の頃と推定できそうである。
汪兆銘政権が支配した時期に,針生一家は武漢 で暮らしたのではないだろうか。 官舎から領事館へと歩く少年の視線の先に は,長江の黄土色の水が,左手の下流に向かっ て滔々と流れていたであろう。大河(江)の流 れは,時代が変わろうが,武漢の主人が変わろ うが,いつも「唯見長江天際流」(李白「黄鶴 樓送孟浩然之廣陵」)と変わらない。子供の頃 に漢口から見た長江は,おそらく針生先生に とって,武漢の原風景になったと思われる。 ただし少年時代の懐かしい風景であっても, 外国人の自分が漢口の租界にいた事実は,大人 になってからも針生先生の心の底に,ずっと澱 のように沈んだまま残っていたはずだ。(私の 観察では)先生はこれを「原罪」のような感覚 で,ずっと持ち続けておられたように思うので ある。 針生先生は中国の人たちといつも誠実に,そ して真摯に付き合われた。とりわけ華中科技大 学の日本語学科を支えてゆかれる若手の研究者 には,無限の期待を寄せられた。そうした姿勢 の根本には,少年時代の武漢体験が存在してい たと思われる。武漢体験の思い出は当時の景色 とともに,針生少年の心の奥底に大切にしまわ れた。やがて哲学者として大成されてからも, 先生は子供の頃に見たその景色を心の抽斗から しばしば取り出して,心の痛みを伴いながらご 覧になっていたのではなかろうか。 1999年,針生先生は旧日本租界に赴かれた。 しかしそれは旧時の建物に郷愁を覚えたり,懐 古の情に流されたものではなかったはずだ。か つて見た景色を,もし同じ場所から見ることが できるなら,それは自分の原点を再確認するこ とになるだろう。そういうことを期待なさった のではなかろうか。 時を経て,対岸武昌の華中科技大学に,針生 先生は縁あってたくさんの知己を得られ,多く の若い友人に恵まれることになった。晩年にさ しかかった先生は昔の租界地区を訪れること で,かつての針生少年に,何かを語ろうとなさっ たのかもしれない。1998年に日本語学科が創設 されたことで,その翌年になって針生先生は日 本租界への再訪を,ようやく自分に許されたの だと思うのである。 【追記】 「日本語科創立20周年記念大会」の翌日(2018 年 9 月23日),「日本語・日本文化国際学術シン ポジウム」が開催された午後,筆者は日本語学 科教授の李思純先生の按排を得て,日本語学科 4 年生の李嘉琪同学の案内で,漢口の旧日本租 界を訪れることができた。 まず,日本領事館跡地に建つ匯申大酒店 (WESUN…HOTEL)を起点に,山海関路(旧 山崎街)→勝利街(旧中街)→沈陽路(旧北小 路)→長春街(旧西小路)→中山大道(旧平和 街)まで歩いた。さらに沿江大道(旧河街)に 戻ってから,張自忠路(旧誠忠街)を勝利街ま で歩いた。このように現地を実際に歩くことに よって,いくつかの発見を得ることができた。 以下に当日気付いたことを,箇条書きにして記 録しておく。 (1…)領事館宿舎のあったブロックは,東西を長 春街(旧西小路)と勝利街(旧中街)に囲ま れていて,さほど広くない。 (2…)針生少年が歩いたと思われる沈陽路(旧北 小路)は,現在は勝利街で行き止まりになっ ており,東(長江方面)へ向かうには,山海 関路(旧山崎街)か張自忠路(旧誠忠街)に 迂回しなくてはならなくなってしまった。 (3…)かつて小学校のあった 6 番地の跡地は,現 在(2018年 9 月)更地になっている。かつて ここは東西を旧中街(現勝利街)と旧東小路 に区切られたブロックであったが,領事館の 裏手(西側)にあった東小路は已に無くなっ ており,沿江大道(旧河街)から勝利街まで が,一つのブロックになってしまっている。 (4…)山海関路(旧山崎街)側では消失してしまっ た旧東小路が,張自忠路(旧誠忠街)側では, 一部残っていることが分かった。張自忠路を
針生少年の見た武漢の景色… 西に向かって少し歩くと,左手に(南側)に 短い路地が現われる。この路地は,現在ホテ ルの北側の煉瓦塀によって遮断されて(行き 止まりになって)いるが,かつて領事館の裏 手を通っていた東小路の名残りと考えてよい だろう。 以上の調査から,針生少年の歩いた道は途中 で分断されており,昔の道筋を再現することは もう出来ないことが判明した。しかし行き止ま りになった道を別角度から見通すことは,今の ところはまだ可能である。少年の足であっても, 官舎から領事館までは 5 分程度で到着すると思 われる。 以上は,今度の訪漢によって得た成果である が,調査を按排してくださった李思純教授と, 現場を一緒に歩いて調査の手助けしてくださっ た李嘉琪同学の協力に,心よりお礼を申し上げ る。 以下,本稿掲載の経過を付記しておく。本稿 はもともと華中科技大学日本語学科創立20周年 記念大会での基調講演として準備したもので あった。大会後には記念冊子に収録する計画が あった。しかし冊子は未見のまま,新型コロナ 騒動もあり現在に至っている。そこで針生先生 とも縁の深かったアジア文化研究所『研究年報』 に,若干の訂正と補筆を施したうえで掲載して いただいた次第である。 (研究員/文学部東洋思想文化学科教授)
Young HARIYU’s sight on the scenery of Wuhan
NOMA Nobuyuki
This paper was prepared as a keynote and presented at the 20th Founding Anniversary (22 Sept 2018) of the Japanese department, School of Foreign Languages, Huazhong University of Science and Technology (Wuhan). The paper with an “edit”, a fieldwork done at Wuhan was planned to publish in the memorial booklet of the Founding Anniversary. However due to Covid19, the memorial booklet is not yet published and the progress is unsure. It will be a loss if this paper is being abandon, so I would like to publish paper in the Asian Cultures Research Institute’s publication which professor HARIYU had a deep relationship. In the title, “Young HARIYU” is referring to emeritus professor Kiyoto HARIYU, who was the director of Asian Cultures Research Institute for 12 years, 1983-1991 (the research institute was named as Africa Cultural Research Institute) and 1995-1999. Professor HARIYU did not only help the establishment of the Japanese department indirectly, he also acted like a bridge linking Huazhong University and Asian Cultures Research Institute. This paper discussed professor HARIYU’s idea on the development of Japanese department by focusing on his youth.