大学の目的と教育学カリキュラム : コナント報告を中心として
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(2) 42. 松. can 七ional science not in the modern. alpha. omega. The. a). be. to. The. c). third They. students.. Why?. the. these. areas.. incomplete lower. of comes. the. which. be. the. it.. This. scieIICe. The. wllOle. shall. given. their. eurricululll.. has its. Several. author. is.. He. professor of education. including those. academic免eld. The comes second. dreary. the. may. be mentioned. from. most. and. professors the lecture. of. strange. itself.. this. seems. say,. It is little. the. among. from. comes. excellent. nor. to. second practice. subjectmatter. education. of. are,. in. unpopular The one. in reply.. specialist. no. to. training. and. courses. is. the. philosophy constitute bases the theoretical. are. generally Few. be. should. part.. discipline,. a王uture. reasons. and. parent. method. these. others. is the広rst. history. own. to. one. All. core.. preparing. of. can't. our. fourth. criticized to. resist. them. little.. very. sincere. ln. majoring than. more. an. idea. a. of. clinical. is our. objectives. above out. of. The. conclusion.. reali2;ed in our University are. be a. the. curriculum. di缶cult more. present. what. a. it. believes. author. to. or. 日. would. college. Ⅰ大学教育の目的. 2. 媛介者としての役寮瑳. 3. 観念論教育学 「超教育学」 教育学カ7)キスラム. Ⅲ. 1. 「理論及び応用」. 2. 日的観の現状. 1. 構. 3. 一つの体験から. 2. 基礎理論グループ(B). 4. 合理主義精神. 3. 方法・技街グループ(C). 5. 「原理」の感得. 4. 教育実習(A). 6. 目的への条件. 5. その飽の奉ほ. 教育学の役割と性格. Ⅱ 1. 教育学「無用論」. 結. Ⅳ. 注. 想. 論. be. should. 序. 4. obstacles Full. overcome.. 次. 数青学老の姿勢- ・.執筆事情の人とその報告書 -Conant. important. many. be. ()f 6-3-3. system. University. very. Among. it.. with. professor. consideration.. chapter. this, those. Conant's. Dr.. Therefore. hopes the that author of them, Conscious into 4-4-4, and the business recognize world cooperate. the. and relevant of educational psychology subject-matter elements a be course to young Can The thi'rd such charming students? lecturing from on it practice teaching. separated current praxis so these yet a delicate and interesting process of teaching, apprehend. appeal. deserves. that. term. meta-science.. mixture. courses. The. on. grades. from our. Students. Ⅳ. role. that. say. professor of any. scholar. This. practice.. and. study. educational. socioio宮y,. common. is so-called. part. teaching.. who. a. of them indispensable. an. than philosophy, educational science The one. is the meta-pedagoglCS. an. classical. in theory. should to in relation. Each. teaching.. an. Criticizes. have. They. more. recent. teaching. practice. part.. a. and. slgni丘cance Educational psychology,. b ). no. 治. parts.. or. role. us. chapter. 賢. in the. both. education,. of. three. it is but. sense,. meta-physica. third into. devided. There壬ore. reach.. academic. Aristotle's The. Ⅲ be. the. and to. owes. 本. revised do. and.
(3) 43. 大学の目的と教育学カリキュラム. 序. 数青学老は従来,仕事の重点を初等・中等教育においてきた。そのことはそれなりに十 分理由があり意義もあったといえよう。ところで教育学老の多数のものはいまや大学人で もある。そ・してこんにち大学は内外に複雑困難な問題をかかえ,その苦悩は,初等・中等 学校のそれに比して,竜も劣るものではない。とすれば専ら初等・中等教育にのみ心を用 い,自らの主体的関心事たるべき問題を等閑視するやにみえる傾向は,このさい,強く反 省されなければなるまい。 大学間題といっても,内容は複雑多様であって,教育学の力の及ぶ範囲は限られたもの であろう。しかし当面教育学がぜひともやらなければならぬものが若干あるように思われ. る。たとえば大学入試,一般教育,専門教育特に教員養成プログラムーはその一例であ る。新制度下の大学はすでに16年の経験を積んだが,これらの問題はいまなお未解決の ままであり,結果はますます憂慮すべき方向にすすんでいる。少くとも教育学老はこれら の概念と背景を明確にして,解決への基礎固めをする義務と責任があるように思われるo Educationの概念とその背景」を書 私が本紀要第2集(1962年)において「General いたのはその気持からであった。もとより一般教育研究の一部にすぎないのでひきつづき. 続稿を意図しているが,まとまるまでにほなお若干の日子を要するだろう。ところで今回 の論文は,問題そのものの意義のほかに,一つの事情にこたえて善かれたのである。. 事情とは次の如きものである。. 1964年11月,わが横浜国立大学を会場に関東教育学会. (日本教育学会支部学会)第12回大会が開催された。この学会では,シンポジウムの一 っとして「教員養成の諸問題」 -Conant報告を中心として-が予定され,その具体 的構成の責任者として理事会は私を指名した。そ・こで私は関係者と協議して提案者及び提 案内容の検討をすすめたのであるが,結局4本の提案のうち最初の2本を私自身引きうけ ざるをえない仕儀となったのである補注。 symposium参加者はいずれも教育学の専門家で,現下の教員養成問題に深い関心をも っ人々ではあるが,. Conant報告を全員がよんでいるわけではなく,従って私はまず共通. 理解をつくること,即ち,この報告の意図や要旨の説明や解説からはじめることが必要で あった.そのために肝心の論点の究明は不十分のまま終ったのである.提案者の意図した conant報告がふくむ貴重な示唆とこれを基礎としての提案内容はなるべく速やかに,文 書の形で公表することが望ましいと思われた。以上が今回の事情である。 Symposium. 補注. 「教員養成の諸問題」-Conant報告を中心として一. 司. 会. 稲富栄次郎(上智大)長谷川亀太郎(早大). 提. 案. AcademismとProfessionalism. 横浜国大. 松本賢治. 教育学カリキュラム. 〝. ". 教科教育・実習. 〝. 目高. 養成大学と免許制度. 〝. 昂. 浜田俊吉. そのような次第で,この論文はSymposiumの提案そのままでほない。またConant.
(4) 44. 教. 本. 繁. 治. の忠実な紹介でもない。むしろ,それらをふまえた上で,論点そのものの私なりの考察で あるoただし, Conant報告ほ何といっても小論の梼成に大きなカとなっていることほ事 実であるので,はじ桝こ著者Conant及びその報告書についてかんたんに記しておきた い。. Bryant. James. Conantは1893年Massachusettsに生まれたo. 後,助教授から教授(化学)0. Harvard大学卒業. Harvard大学総長にえらばれ,. 40才(1933年)のとき,. 1953 いらい20年間級長の磯にあったoその間原子力委員会の賓聴を兼任(1947-1952). 年-1957年2月,西独高等弁務′凱 1957年嫁国後, Carnegie財拭後 ついで西独大使o. 援の下に公教育の調査に着手し,ほぼ2年おきに研究成果を発表してきた。それほ American. High. of American. School. Teachers,. Today,. Slums. 1963.いずれもConant. 因みにかれの名を以てよばれる Society",. 1959.. and. Suburbs,. 1961.. The. Education. Reportと称せられるものである.. 卜般教育の】報告書``Generat. Education. in. a. Free. 1946諸法.緒かれのHarvard大学総長在職中の重要な業績の一つであるo. こ. の報告はHarvard大学をこ虫かれた委員会の共同研究をこなるもので,かれぼ委員長でも委 員でもないが,委員会そのものの生みの親であり,その識見と洞察は少なからずこの報告 書の中に反映されているように思われる. 補注. 拙稿「General. Educationの概念とその背景」. (横浜国立大学教育紀要,第2集,. 1962)ほ. この報告書に多くを負うているものであるo. Education. さて,上記The. of American. Teachers,. 1963こそ,われわれがここで. いう Conant報告書であるo. この薄告書経かれが2年の歳月を費やして詞査研究した成 果で,調査は16州の教員免許政策と77大学の教員養成カリキ洗ラムについて行なわれ たものであるo. この報告書ほまず,合衆国の女帝養成が沖=こより大学によってきわめて変化に富んでい ること,この事実のよって来るその原因は地方分棒の発達と大学の自由の尊重をこあること を指摘してその意義を高く評価する。だが同時に,この多様性を尊重しつつも教員養成の レベルをもっと高めることほ可能でなければならない,としているのであるo Conantによれば,教員養成のあり方療何をま,教養学藩(Liberal 青学部(Faculty. of. Arts-. College)と敦. Education)問の長い,しかも時に白熱的論争の問題であったo. し. かし元来これは学問上の論争ではなく,勢力争い,主導権争いという性格のものなのであ るo. ところで問題はやがて大学内雷だをナでなくなってくるo事ほ初等・中等教育全体,つ. まり国民教育全体に深くかかわるものであるから,校長,教鯨,教育行政官,. PTA,マ. もともと大学内部の利欝争いにすぎなかっ スコミ,政治家などに拡大してくるのであるo たもの経いまや途方もない大問題に発展してしまったのであるo 論争の主要な問題点ほ次のようなものであるo. (I)教員養成の糞任主体捻詮であるかo.
(5) 45. 大学の目的と教育学カリキュラム. (2)本来の主体は誰でなければならぬか。 を守ることができるか。. (3)法的処置によって無知無能な教師から市民. (4)教員養成を行なう大学の自由に委かされていい範囲はどこま. でであるか。. 以上,最も基本的問題であるが,やや細かいものには教員養成カリキュラム全体の構成 区分,内容の問題,さらに現職教育の機会及び組織の問題などがあげられるであろうo conantはこれらの問題を,実証的データにもとづいて,幅広い視野と鋭い洞察を以て 明快にたち切ってみせる。そ・の明快さは直接利害関係をもたぬ公平な立場と,国民教育の 民主主義における役割を知る人だけが示しうるものであろう。またそれゆえに提案はすこ ぶる創意に富み,実行不可能ともみえる大胆かつ根本的な改革の要求をふくんでいる。こ の吾が発売(1963年9月)後日ならずしてbest-sellersの一つにあげられ,新たな論議 をよんだのもゆえなしとしないのである。. 本稿において私ほ, Conantの中心テ-マとみられるacademism対professionalism の対立に視点を据え,まず大学の目的を明らかにした上で教員養成の基本問題の一つにメ スを入れようと試みた。そのさい,私ほ教育学徒の一人として,徒らに自己の陣営の一方 的主張を固執しないよう戒心するとともに他方の立場や主義を尊重することにつとめた. なあ. このテーマと不可分の関係にある教員免許と養成大学の問題はほとんどふれておら. ず,教科教育法や教育実習についてもかんたんにふれたにとどまるが,それらは本稿の続 編として,後日他の筆者による執筆が予定されているものである.. Ⅰ大学教育の目的 1. 「理論及び応用」. (1)現行制度は教師の養成を大学で行なうこととしており,小・中・高の教員免許ほ学 士号取得を基礎資格としている。それゆえ教員養成のしごとはそのまま大学の目的につな がるのであり,大学の目的と別箇に教員養成があるのではない。つまり法律家,医師,工 学技術者などが大学の各学部で養成されるように,教師もこの点は全く同様である。 さて,問題は,その大学の目的とは何かである。それは一見明白なことのようにみえて. 実はそうでない。旧制度下でも必らずしも明確とはいえなかったが,新制はそれどころで はないようだoそれだからこそ,旧制大学を模範として速やかにこれに追いつくことを念 院としたり,また一般教育を邪魔もの扱いにしたりするのであるo一般教育は新制大学の 基本的な特長を示すものといっていいが,従来は単に大学予科的存在とみなされ,担当教 師も学生もその充実に創意と努力を怠り,甚だしいのほ殆んど非常勤講師まかせといった 倒すらあるといわれるo後期専門課程だ舶ミ大学の「学部」だというならば,それは全く 新制度の精神を理解しない保守主義者とされてもいたし方がないであろう注lo 大学の目的は学校教育法に次の規定がある。日く,. 「大学は,学術の中心として,広く. 知識を授けるとともに,深く専門の学芸を教授研究し,知的,道徳的及び応用的能力を展 開させることを目的とする。」 (同法第52条)補注 上の規定はいうまでもなく新制大学の目的規定であって,. 「広く知識を授ける」ほ一般.
(6) 松. 46. 教育を,. 本. 賢. 治. 「深く専門の学芸を教授研究」は専門教育を指すものと解される。ところでここ. にわれわれの特腐の注意をひくのぼその次の「知的,道徳的及び応用的能力を展開させ る」の一句であるo. この能力の展開ほ,一敗教育及び専門教育の両方をこついて要請され,. 旧制大学の「学術ノ理論及応用ヲ教授」,新制大学院の「学術の理論及び応用を教授研究」 するに対応するものであろうo郊ち,この条文の本旨は,理論と並んでその「応用」能力 を重視するところにあるo 補注1帝国大学令(明治19.. 3.. 2勅令第3号). 第1条. 帝国大学-国家ノ須要工応スル学術技芸ヲ教授シ及其症奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トス. 第2条. 帝国大学-大学院及分科大学ヲ以テ巷成ス大学院-学転技芸ノ轟奥ヲ攻究シ分科大学. 補注2. -学術技芸ノ理論及応用ヲ教授スル所トス 12. 6勅令第388号). 大学令(大正7.. 第1条. 大学-国家工須要ナル学番ノ理論及応用ヲ教授シ並其ノ轟奥ヲ攻究スルヲ以テ目的ト シ兼テ人格ノ陶冶及国家思想ノ滴養二留意ス-キモノトス. 補注3. 学校教育法く昭和22.. 3.. 31法律第26号). 第52条(前出) 第65条. 大学院は学術の理論及び応用を教授研究し,その深奥を究めて,文化の進展に寄与 することを目的とするo. そのこと勇ミ爾汝特Bllの注意をひくというのかo大学人の中に絃「理論」L面だをナを考え, 学生の知識が十分でないとしてこれを嘆くひとがよくあるo知識だけで拾いっばいだから 当然「応用」能力まで及ばない。まして理論と応用能力との関係にまで立入って把挺し, 教授の上に生かすという飼は少ないのでほあるまいかo. もしこれが事案だとするならば少. なくとも法の梼神は生かされていないのであるo いうまでもなく大学の中心使命は学術の研究を通して学生を教育することである。仮り に既成の知識の伝達に追われてそれ以上ほ望めないというのであれば,研究と貴官経パラ バラなものとなり,大学というものの概念ほ駁本から変えてかからねばならなくなるであ ろうo 2. 目的観の現状. 大学内潔の教育問題にほ目的の不明緩またほ混乱等に起因するものが少なくないo. 就. 中,教師と学生間のズレほ大きく,時代の風潮や社会体制に真の原因はあるにしても,こ のまま放置できない状態であるとおもう。大学内部だをナの努力で片がつくとほ思えぬが, まず内潔からをまじめなければなる窓いo教育とほそうしたものだからである。 考察の手はじめに学生の立場からみて行くこととしよう。. -マスプロ体制下の大学生は, 学生運動,等々。学 Eヨく,アルバイト,クラブ活軌 古典的定義によれ 業の犠牲においてそれらが多忙をきわ妙ているところをこ問題があるo 学業以外にたいへん多忙であるo. ば学校(School)は閑暗(Schole)に由来し,生活の心配なきものが専ら学問に精を出す 場所であったo る。. そ・の学校の一つである大学はこんにち甚だ事情を異にしているわけであ.
(7) 大学の目的と教育学カリキュラム. 47. かれらにとって学問ほどうでもいいということもある凱、が,それよりも社会人として のCareerの方がはるかに重要のようである。いうところの一流大学,二流大学とはその 出身者が実社会に占める等級(ranking)に対応しているので,学問や教育は二の次,≡ の次にすぎない。つまりその大学の格式が問題なのであって,そこで何を学ぶかはそれほ ど重要視されないということだ。. (もちろんこれほ極端ないい方であるが,そのような債. 向がみられるという意味である)。そうだとすると,これはいわば実用的目的観といえる かも知れない。. 他方,教師は如何。大学の教師もいろいろだが,この方ほともかく学問-理論的興味が 大学の生命だと考える。自分自身研究者としての誇りをもち,理論の探求に生き甲斐を覚 えるのであるから,学生に対しても同じことを要求せざるを得ない。第一義とするところ は教師と学生と全くズレているのである。そこで実際は何程か学生と妥協してやって行く. ほかない。かれが良心的な教師なら学生の教育(授業)は苦役となる。そして研究室や書 斎などが逃げ場である。 (教師も学生と同じように教育を避ける傾向のあることに注意し ょう。これは事すこぶる重大である。) 一方に実用性,他方に理論的興味。もちろん額塾的なわけ方だが,この完全に異質な二 種の目的観が大学教育の大きな断層をつくっている。それは果してどうすることもできぬ. か。それとも;学生の求める実用性をもっと掘り下げ,また教師のいう理論的興味をもっ と具体的に把握して行くなら,相互に共通のものを発見できるのではないか。どうもでき ぬというなら話はおし凱、であるが,恐らくそのようなことはあるまい。現状打解の第一. 着手は,その共通なものの発見に向って努力することだと考える。 3. -つの体験から. ここで私自身ささやかな体験を述べてみたい。々れはほとんど無自覚といっていい-人 の青年がどのようにして教育され開眼されたかのいつわらぬ告白である。 私ほ旧制大学で教育学を専攻する前に,高等師範学校文科第3部(東京教育大英文学科 の前身)に4年在学したものであるo地方の中学校を終えてこの学校に入学早々のある日 のことである,. 「コンサイス事件」がおこったのは。それはこうである。ある学生が指名. されて,テキストの一節を読解したとき,担当教授からある字句を何によって調べたかと たずねられた。学生答えて「コンサイスです。」教授「どこのコンサイスか。」学生「三省 堂」。教授ほえりをただしていわれた。. 「君のような不心得者を入学させたのはわれわれの. 不明であった。明日にでも退学願を出したまえ。」辛か不幸かその学生は私ではなかった が,正直私ども一同は一瞬いきをのんだのである。本人も私どもも退学に値いするような わるいことをしたという気は全くなかったのだo. ところで先生はそれ以上何の説明もされ. ず,次へ進まれたのであるが,先生の真意ほまもなく全員の理解するところとなった。そ れはいやしくも文三の学生にしてポケット版英和辞書をつかうとは何事か,語学にとっ て,辞書は最も大切なものであるから,つねに最良のものを使え,というのである。端的 C.0.D (Concise Oxford Dictionary)とP.0・Dを坐右に,また必要に応じ. にいって,. s.o.D乃至N.E.Dをひけ,というのである注2。この事件はいささか強烈ではあるが,.
(8) 松. 48. 本. 繁. 治. しかし実によい教訓となったのである補注. 補注. 卒業後30年を記念して昭和40年の5月,. '恩師を御招待して集まったとき,私ほ先生にこ. の事件をお話して,おぼえておられるかをうかがったo. 発生, 「そんなことカミあったかoいや,. そうだとすれば,大-んな失言だ。相済まぬことであったo」私「おかげでわれわれは中学か らの英語と縁を切り,本格のべんきょうにスタ-トできたのでした。」. 「コンサイス事件」の先生は説明らしい説明をされず,学生自身の発見と実行に待つと いう黄塵であられたが,. -そして発生の期待ぼうらぎられなかった-,私結後の横会 に語学学習の払訣ともいうべきものを片山正雄(ドイツ語の大家)の文章の中に発見し て,もし先生があの時説明されたとすれば恐らく同じことを言われたであろうと想像せざ るを得なかったo片山の文章とは次の如きものである。 「外国語を正しく理解するには先づその各語の坂本概念を明らかにしなくてほならぬo 共通に存在する具体的な事物や精密科学における事物の概念の名称を除き,如何なる外国 (寧ろ. 語の単語も邦語のそれと完全に一致するものでない。たとえばsitzenは「坐ほる」 「坐はっている」)という邦語で都訳するが, 「坐はる」は日本では,. いる」ことで,. sitzenほ西洋では普通の場合に「渡をかをテて hocken,. kauern,. nit. oder. zusammengefaltenen. Beinen. sitzen等の意味をもっているので,両者の間にほ内容即ち概念の充 分な一致勇ミない。だからsitzenの内容,観念を明ら滋ゝ書こしないで単にその訳語のみを知 gekreuzten. っている人ほ実はsitzenの本当の意味を知らない人である.このような仕方で外国語を やっている人ほ何年かかつても外国語に関しては一知半解の域を脱することができず,従 って外国人の爵碑生活に殊讃することなどをま恩抄も寄らなv、oゆえをこ厳密をこ言へば一切の 翻訳や訳語のみを集めた辞書は実は外国の思想を紹介しないで,その誤解を助けるやうな ものであるから,外国文化の研究にほGoetheが言ったやうに「一つの詩人を理解せんと するにほ英国に行く」に越したことは無いが,もーつの方法をま直接をこ外国の原書を原語で 読むことであるo. この目的を達せんが為にほ,外国語の学習に当って原語の辞書を用ひ. て,外国語の概念なり精神なりを直接に且つ比校的正確に理解することが必要である。そ れは外国の原辞書経訳語を示さないで,語の観念のみを分析して明らかに伝へてくれる為 めである」注3。. 片山のことばほ,外国語学習の要諦を説いてあますところがないo当時私ども17,8才 の子どもに絃,そのように深いところまでほ考え及ばなかったをナれども, English (英語でもなく日本語でもないあいまいなことば)の弊を知って, throug・h. Japanese "English. English=の原則をからだで学んだのでありた。. (私の学科ほ英語教師の養成を目的とするものであったo. そのことを知らずに入学した. わをナでほないが,また,それをほんとうをこ自覚した上で入学したのでもなかったo少しば かり英語ができたた捌こ試めしに受験したというのが正直の所であるoだから間もなく, 猛烈な調練の連続にいささか軽率を悔む気持にもなったが,い思さらどうしようもなかっ た次第であるo).
(9) 大学の目的と教育学カリキュラム. 49. ところで,そのような私事をのべたのは職業目的の訓練の中にも,一般的基礎的教養の 学習は可能だという事実のあることを指摘するためであったo私のばあい,英語とか英文 学とかいう媒体の性質が特に向いていたということもあるが,教育や訓練が真財になされ るとき,一般教育と職業教育の絶対的区別という如きものは一般になくなるといえるので はなかろうか。. 英語の徹底的訓練の効果は,そのほかにもあったo自分が独学ではじめたドイツ語の学 習の力となり,さらに英文そのもののもつ論理を克明に追う過程の中から,西欧近代の合 理的なものの考え方や態度をいつしか身につけることを学んだ。実はその国産物の方がも っと貴重なものとなったようにおもわれる。. このささやかな体験を,充た述べた「理論及び応用」と関連させて,この章の主題であ る大学の教育目的を考えて行きたいとおもう。 4. 合理主義精神. ゎれわれが西欧語を学ぶとき,いやでも注意させられるのは,まず彼我両国語の語法上 の顕著な相違であるが,実はその背後にもっと根本的なものの見方や考え方の相違の問題 (もっとも彼を合 がある。それは合理と非合理のちがいということもできるものである0 理というのはいいとして,我を非合理ときめつけるのは少しく穏当を欠くきらいもある が,ここでは比政の問題として大目でみてほしい。) 実際,英語を例にとっても,表現の厳密性は邦語と比べものにならないo時称の区別, 代名詞の執ようなくりかえしなどはほんの一例で,文章全体が英語国民のlogical of life, logical. way. of. way. tbinkingの反映とみるほかないように思われるoもし英文の. 一字一句もれなく邦語に移すならば,それは英語とも日本語ともつかぬ=English Englisbになるだろうo西欧語同志,東洋 Japanese・,となり,道のばあいはJapanese 語同志の問ならばさほどでないとしても,西欧語たる英語と日本語の間のひらきは単なる 語法上の問題だけではないのであるo. もっと単純な例をあげてみる。たとえば``God=ほふつう無雑作に「神」と訳される が,それは本来,キリスト教の=God=であるから,漢語の「神」とも邦語の「カミ」と も決して同じ観念なのではない注4。日本人の「カりはこんにち決して単純一様でないが. ふつう用いられる「カミ疎み」のそれがGodとは全く異質のものたることは明瞭だoま た,. =water=は物質としての水を意味し,自然科学の対象としては同じものであるが, 具体的生活観念としては必らずしも同じでないといわれる。要するに形而上と形而下を問 わず,言語は国民の生活と一体になっている生きものであって,それから切りはなしてた だの道具と考えることほ,一切の誤解のもととなるように思われる補注。 補注. 日本の漢文学習法の返り点送り仮名方式は,英語など近代外国語のばあいも忠実に踏襲され ているようである。何故なら,まず単語やphraseを日本語におきかえ,次にそれらを日本語 の語法によって排列し直すのだから。学生の訳文が往々本人にも雲をつかむようなものである のは,そのような間接的分析的方法に主要な原因があると思う。同文同種の漢文は別として, そうでない西欧語の学習法は再検討が必要であろう。.
(10) 跨. 50. 奉. 治. 賢. この点を少し立入って考察してみよう。人間は考えつつ生きるものであるが,考えるた めには必らずことばを用いなをナればならないo. ことばなしにものを考えること経できな. い。だが実は,もともと言語と恩考ほ同じ人間生活の磯能で,共通の論理をもつのではあ るまいか。ことばの論理を文法学,思考のそれを論理学というが,西欧人の文法と論理, また日本Åの文法と論理托それぞれ一体のものであるoつまり,ことばと思考の関係経外 在的というよりも内在的なのである。われわれがふつう学ぶ論理学ほ西欧のそれであるが, それは単に思考法の諸規貝Ijを理解し応用するだけでなく,その根抵を流れる合理精神をと らえるところまですすまなをナればなるまい。. 日本の近代化の主要な力となったのはいうまでもなく西欧に発達した近代科学・技範の 摂取であるが,従来とかく単なる消化と模倣に終始したきらいのあることは事実とせねば ならず,このような憲度で今後も行ってをまなる澄いo. それ経特に大学教育の任務と深くか. かわる問題であろう。 さて,ことばの問題であるが,日本語は英語と比較してみて多分にあいまいなところが あるo それ捻日本人の思考法,従って生活態度の反妖といえるo. どこまでも梶拠を求めて. 徹底的に一つの疑問を解く窓で食い下がるといった績碑姥ほなほだ十分でないようをこ思わ れるo. そこに一面長所もなくはないにしろ,少くとも近代科学の学習にとっては大きなマ. イナスがあるoなるぼど東洋でほ日本が最発進国かも知れぬが,国際永準に及ばぬところ も多く,特に近代科学の梶本をなす合理主義の徹底は教育の主要目的の一つに数えらるべ きである。. それゆえ大学教育でほ,文科系と理科系を問わず,合理精神,即ち科学的精神の培養に つとめなをナればならないoその訊凍上の工夫紘一にしてとどまらぬが,欧栄Åのすぐれた (ことに文科系では 文献を原典で克明によませることはきわめて有益な方法だと信ずるo 絶対と考えられる。)もちろん,指導者のこの点に関する能力ぼ当然の前提であるがo 5. 「震援」の感得. 一審に大学の年限延長論があるo私がこれに対して批判的なのほ必らずしも現行の4年 を固執するからで性ない。いまのような教育のやり方をしていて1年2年延長したとして ち,あ怒り意味がないと考えるからにすぎなも、。問題経年数よりも具体的な貴官の内容, そしてこれを規定する教育の目的そのものをこあるのである。 この点において,特に私が感銘をうけるのは, 1861-1947)の所論である.かれほその中で言う.. Whitehead. (Alfred. North. Wbitebead,. 「教育史を読んで最も心を打たれる現象. ほ,学問の諸学派がある時期をこ捻天才という酵母のはたらきで生々溌割と活動したのに, 次の時期になると徒らにpedantryandroutineだけしか示さなくなることである。それ はinert. ideasで身動きできなくなるからであるo」注5. 正体はinert. ideasだというo. "inert. ideas=. と。つ怒り,かれは垂流罰諸学の とほどのような知識であろうか。 「ただ緒. 神に受容されるだけで,これを使用することも,検査することもない,また【別の】新た なものと結合されることもない注5知識,これである。こんにちの大学数育にほpedantry androutineが少なくないと患わ着もるのであるが,もしそうだとすると,かれのいうinert.
(11) 51. 大学の目的と教育学カリキュラム ideasについての反省は,決して過去の問題でほなくなってくるのである。. 元来,知識はそれが発見された時新鮮な感動と興味に伴なわれているのがつねであるo active. 仮りに個々のささやかなものであっても生活の中で生きてはたらくもの,つまり. ・ideasである。が一度ことばとともに定着するとそれは次第に生活からはなれて抽象化, ideasとなる危険をもっている。教育はつねにこの危険とたたかわなければ っまりinert ならない。大学といわず,すべてすぐれた教師は教師の本能ともいうべきものによって, -. この危険を知り,それに対処する工夫と努力を怠らなかったといえようo. さて知識には個々の細かいもの(details)から概念・法則(generalizations)にいたる 「あなたが. までいろいろあるが,個々の知識自体ほ,実際上,直接役に立つわけでない。. 学生にどんなものをつめこむにせよ,後日かれが教わったままのものにぶつかる機会ほほ とんどある凱、。またあるとしてもその時は忘れているだろうo. ・・-もし毎日必要なこと. ならほっきり記憶しているはずだし,ごく稀にしか必要でないことならその都度調べれば 一済むことだ。」注6 それなら知識の役割は何か。個々め知識を完全にmasterするその過程が大切であっ て,結果ではない。われわれが知識の根源普遍的原理へ接近できるのはこの過程をふむこ とによってである.そのた糾こ,知識は質量ともに十分吟味され,新たな観点から再構成 されることが必要であり,またその習得に意義と興味を感じさせるような教授上の工夫が few. 「真に卸こ立つ教育とは少数の普遍的原理(a. 望ましい。. general. principles)を感. 得させること,ならびにさまざまな具体的場面にそれを適用する仕方を徹底的にたたきこ =The. 心ことである。」 general. prlnCiples. really a. with. training. useful. thorough. a. yields in the. grounding. way. they. apply. a. of. comprehension to. a. few. variety. details=.注6. .of concrete. whiteheadのいう普遍的原理こそ,私の知識の根源に当るもののようである。それは 「知識の底にひそみ,知識を結びつけ,知識に生命を与えると 「大学の理想は知識で (power)である。 ころの何ものか」注7である。それはむしろ「力」 もはや知識というよりも,. 栂なく力なのだo大学の職能は子どもの知識を大人の力に変えることである.」補注 補注. =I. can. put. my. point as. muchknowledge, tbe. power. of. a. man".. by. otherwise power・. saying. Its business. (Whitebead,. op.. that. is to. °it., p・. the. ideal. convert. of. is. aロniversity. theknowledge. of. a. not. boy. 38). ここまできて,大学教育のあるべき姿というものは,かなり明瞭である。それほ学生に ぐ自ら原理を感得させることをめざして,個々の講義,個々の訓育,個々の実験,個々の研 究を工夫しなければならぬ。個々の教材は価値あるものを精選,整理して,これを徹底的 Lに学習させることである.それはまさに知性の訓練でなければならないであろう。 なあ 感得し得た原理はある程度までことばにあらわすことが可能であり,事実先人も. すぐれたことばを残してくれている。ところで後人または他人が真にこれを理解するのは .必らずしも容易でない。すぐれた原理は自らの体験によってその境地にまですすんだ人で. so. into.
(12) 52. 松. 本. 賢. 治. ないとわからない。その意味からも学生には学問や人生の底知れぬ深さを知らせたいとお. もう。知的謙譲は大切な目的の一つである。かの一知半解の教条主義(dogmatism)はお よそ大学教育とは似ても似つかぬものであることを省りみたいとおもう。 6. 日的確立への条件. 上来,大学の教育目的の核心とみられる若干の問題を考察してきたが,そのような理論 が単なる理論に終らぬた糾こは,なお補足しておくべきことがある。大学は独立の教育検 閲としてきびしい自己反省と努力をしなければならないが,同時に中等教育と実社会の中 ′. 問に位置しているところからそれらの協力を要望せざるを得ない。つまり大学が正しい姿 勢を確立できるためには,その理念を現実化するための幾つかの条件が必要なのである。 第1。高度の知的訓練の場としての大学。この点は先に,教師と学生の間でこれが大へ んズレていることを述べたが,幸いにもそれは全部ではなく,また根本的には認識の不足 が一つの主要な原因とみられるので,まずこのことを明らかにしたい。. 学生が目先きの就職に心をうばわれる事実は否定できぬとしても,就職後そこで何をし ようとするのか,何ができるか,また今後どのように生きて行くのかという問題は,恐ら くもっと重要な,そしていきの長い問題である。この点を深く考えさせるならば,大学で 何を学ぶべきかの反省は当然生じてくるはずである。. 理論的興味,学芸そのものへの興味といっても,それをただ説教するだけでは,教育者 としてまことに能がない。いまの大学生は,中学・高校と受験体制の中で追いまくられ, いわばテスト主義の犠牲を強いられてきたものであり,ようやく大学に入学できて一応満 足し解放感に浸るわけである.がその大学もー故に教師と学生の問は疎遠であり,肝心の 授業も教師の一方的なものが少なくないた糾こ,教室外活動に重点がうつるとみられるo そのようにして,いつしか就職を考える段階となるのだから,学生の思想と行動にも,そ れなりに同情に値いするものがないわけではない。 私が大学教師の主体的自覚をいうのは,そのような学生のおかれている立場を知った上 で,なおかつその学生に理論のもつ力強さ,美しさ,きびしさを感得させる努力をすべき だという意味にほかならぬ。百の説教よりも毎時間の講義や演習や実験の中で実際にわか らせるのが正しいやり方であるし,また有効でもある。それは学生を理解しようとつとめ る教師であって,はじめて成功の可能性がある。現状に妥協したり,また逃避したりする ような態度は教育の本質から遠いものである。 第2。中等教育及び大学入試方式の改善。 大学の教育が中学・高校のそれを基礎とする以上,.当然後者のあり方が問題となる。中 等教育制度の改革は近年来世界の動向といえる問題だが,わが国でも教育学老の問で, 4-4-4制の提案がなされ,議論が活発化しようとしている注8。ここでは深入りを許されな いが,もしこの提案の如くだとすると,中学・高校はそれぞれ4年制となり,教育計画の 点からいっそうの充実がみこまれることとなろう。その意味は,こうである。高校の4年 間を通じて,外国語や数学など基本科目は普通授業の外に選択科目のクラスを設け,一段 レベルの高い知的訓練を行ったらどうか補注。そこではある程度以上の能力がなければ履.
(13) 大学の目的と教育学カリキュラム. 53. 修を認めず,また一度許されたものでも能力や努力が十分でないとわかれば,時を移さず 他の選択にうつすものとする注9。学級を固定して進学生徒のみのクラスというのでは問題. もあろうが,それとはちがうのだから,この際真劇に考慮したいものである。 補注. 教育学老は一般に能力別編成の実施に対して著しく消極的であり,かつて私もその仲間の1 人であった。しかし,才能・素質の上下の事実ほ争えないことであり,しかも本人の責任でな いことの方がほるかに多いとすると,この事実がないかのようによそおうやり方ほ道徳的にも 疑問となってくる。優越感・劣等感などを気にする方がまちがっているのだという議論も成 立つo固定的でない能力別編成ほもほや議論でなく実行の段階に来ていると考えられる。. この問題と不可分なのは現行大学入試方式であり,これが根本的改善なくしては実現不 可台削こ近い。改正の主限は,中学・高校の教育の正常化,教育・学習上の浪費の根絶にあ るから,選抜は高校側の調査書を適正なものに改ため,これを中心に行なうこととするの. である。適正というのほ,大学側の信用に値いする良心的な内容をいうのである。ばあい により,能研テストや大学独自の簡易なテストの併用もあり得るが,これはどこまでも副. 次的資料としたい。中等教育の正常化なしに大学のそれは絶対に不可能である。調査書軽 視の方針は最近わが国でも反省されはじめたが,これを徹底的に推進するため,大学側は. 積極的に誠意を以て研究し努力しなければならないと信ずる。 第3。実社会の協力。大学卒業生の受入れ先である企業,官庁などの大学教育に対する 理解と協力も重要な条件である。大学の教育に対して実務的内容を求めるよりも,むしろ 高度の学習能力,広い視野,リーダーシップの有無などに重心をかけてほしい。自由化の 嵐の中で日本の経済や社会の従来のあり方は否応なしに修正をせまられており,もっと長 期的な姿勢でこれととり組んでほしい。たとえば終身雇用制,学歴,学閥など不合理なし. くみと慣習が実社会で通用する現状は,大学教育を著るしく因襲にしているのである。 大学で学んだものは社会有用の材とならなければならぬが,それは小さな利益よりも大. なる利益により強い関心をもち,そのた糾こほ時に小を犠牲にすることをいとわない人物 であることが望まれる。大とは,より多くの人間ということ,小とは自分自身とその周囲 の意味である。仮りに自分の従事している職務や事業が社会公衆の,国民全体の利益に反 することであれば,どうすべきかを正しく判断して適切な処置に出ることができる人でな. くてはならない。その意味で,こんにち,大学が多くサラリーマン養成機関化しつつある 傾向に対して,実社会側からもきびしい批判が望ましいし,具体的な指摘に接したいとお もうo大学教育が正しい姿勢をもつことは社会に対してよりよい人材を供給することとな るはずである。. ⅠⅠ教育学の役割と性格 1. 教育学無用論. (1)問題の所在. 教育養成はできるだけ良質の教師を多数つくり出すことだとすると,. 養成プログラム(カリキュラム)全体,さらにその中で教育学がどのような地位を占め役 割を果し得るかは,あらためて問われていい問題であろうo.
(14) 54. 松. 本. 賢. 治. 教育学(教育心理学をふくむ,以下同じ)の教員養成における歴史は古い。それは恐ら・ くわが国の公教育沿革史の最初からとみていいだろうo戦前の師範・高師等では必修科目 であり,戦後の制度改正でそれらが廃止されると免許法が代って必修単位を規定するにいレ たった。つまりこの学科ほ教員養成という特別の仕事にとってなくてはならぬものとして 扱われてきたのであり,また頭からそのように信じて疑わぬ向きも多いのである。. だがこの点疑義がないわけではなく,むしろ反対の意見は知識層の問にかなり根強いも のがある。おもうにこの問題は,教員養成の特別な制度の必要不要論とからみあっている ので,不必要論の立場なら自然的に教育学も軽くなるわけである。ところで一般知識層は ともかく,教師の間にも教育学に疑問をもつものは必らずしも少なくない。ことに高校, 大学の教師となるとおそらく比率ははるかに高い。もちろん心の中で思うだけのものが多 いのであろうが,教育学ほ果して先生となるものに必要か,と熱心に問いかけてくる人た. ちが少数ながらいることは事実である。 教育学の有用無用論は,制度や法でどちらかに結着をつけうる問題ではない。それは古 くして新しい問いである。. (2)学生の立場から(筆者の回想)筆者は先にふれたように中等教師養成の学校に学 んだが,その学校では教育学概論,西洋教育史など若干の教育学が組まれ必修とされてい, た。筆者のクラスでこれらの科目を担当したⅠ教授は当時新進の教育学老(後年新教育の・ 代表的学者となる)で,講義案をプリントして事前に配布し,博引穿証,青年の知的興味 に訴えるに遺憾ない努力をされた。いま回想してみてもその講義における熱心さ,良心性. ほ敬服の外ない。とはいえ,当時,私どもがこのすぐれた先生から,どれほどの教育的興 味なり見識なりを学び得たかは,頗る疑問といわなければならない補注。 卒業いらい30年,同窓はあるいは英文科の大学教授となり,高校の校長,教頭になっ ているが,この人たちにきいてみても,印象は心細く,仮りにⅠ教授の教育学がなかった. としてもかれらが今日たり得たであろうことは,ほぼ確実であろうかと思われるのであ る。. 補注. 私はこの学校を卒業後直ちに大学の教育学科に進学したのであるが,それは教授の講義とほ 殆ど関係がなく,たまたま手にすることとなった「一冊の本」のとりことなってその著者の教 えを乞うために教育学へのコースをきめたのである。. (3)教授の立場から(Conant)先に紹介した如く. Conantは若くして大学の化学教. 授となった人であるが,同じ大学の教育学教授たち(大学院)に対して強い反壌を感じた と述べている注9。 「私の確信によれば,私は優秀な教師の一人であり,教授能力は自分の 経験から学んだのであって,教育学の先生方のおかげではなかった。私だけが例外のはず はない,化学を専攻して優秀な成績で大学を卒業したものなら,そして-イスクールの教 師を志望したものなら,同じことがいえるほずだと考えられたo. -イスクールの化学教科. 書の共著者としての私は,この教材のこなし方を知悉していると確信しでいた。」注10 ことばの中の「優秀な成績云々」という条件に注目したい。実にこの一点こそ,教員養成. この.
(15) 55. 大学の目的と教育学カリキュラム. の根本問題へのカギがありそうに思われる。 (4)公平慎重な態度を./教育学の有用無用論義はおそらく教職教育全体に及ぶ性質 のものであろう。そうだとすると問題は制度全体の根本にかかわってくる。これはこの小 論の範囲をこえる問題であり,ここではただ,教育学に焦点をおいて考えることとした い。. 私は教育学徒の一人として頭からの無用論老にはかんたんに同調し得ない。私の回顧談 ほそのような印象を与えそうであるが,そのばあい,. Conantの一語は私への救いであ. 当時の仲間たちはいずれも相当の知的素質をもち,かつ,学問においてもまじ桝こ努. るo. 力したといっていいだろう。なるほどかれらは,英文の学生として,教育学にはほとんど. 反応を示さなかったが,その後の教師としての経験,また読書や研究は,優に学生時代の 空自(教育学的)を埋めてあまりあるものがあったと考えられ串のであるo これに対し,有用論乃至必要論については,私はいっそう慎重な態度をとりたい。世間 の常識におもねり,法令に迎合することは,いやしくも学者のとるべき態度でない。その ような手厚い関税障壁にかくれて-それは大学の外部のものである-学問や教育の厳 しい使命をいささかでもおこたる風潮ありとすれば,これは容易ならぬことである。教育 学は現在大学におかれている講座であり学科である。それは学外と交渉は密であっても,. まずもって,大学内部で理解と支持を得なければならないのである。私は現状を以て直ち に有用と断定することに少なからず腐措を感ずるものであるが,然しその改善は不可能で ないと信じ,またそのた糾こ努力したいと考えるものである。 2. 媒介者としての役割注11. (1)教育学が実務家養成プログラムの中で有用か否かの議論は時に利害や感情の要素 をふくんで冷静を欠くばあいが少なくない。そのような議論はここでは論外である。少く とも客観的検討を意図する以上,有用無用といった大ざっばな割切り方ほ当を得たもので なく,何が有用で何が無用か,またその程度はどこまでか,をきめ細かく考察すべきもの であろう。. (2)すでにある程度ふれておいたことであるが,教育理論に対する真励な探求の出発 l. は主体的な教育実践の中にある。例外的(私のばあいはこれに属する)には理論的興味か らということもありうるが,それとても後日,何程かの実践に媒介されることによって, 地についた理論構成となるであろう. だから,上の予想が正しいとすると,本格的には教職についてから後の問題というのが 正しいともいえよう。かつて一時の腰掛けのつもりで代用教員となり,今日でも当初デモ 先生から出発したものが,やがて興味と生き甲斐をおぼえてこの仕事に打ち込むようにな. る例は案外に多いのである。 とはいえ,すべての教師にそのようなことを期待はできないし補注,現在の諸事情から 補注. 伝えられる教員試補制度がもし実現性のあるものなら,この不安はある程度解消できるかも 知れぬ。がその実現はまず困難とみられる。.
(16) 56. 松. 本. 賢. 治. すれば大へんらんぼうな議論でもある.学部段階での教師養成は,一つには教科の実力に 重点をおくべきであり,二つには教育実習を教職課程の中心に据えて教師の仕ごとに眼を ひらいてやることが肝要ではなかろうか。. (3)教聴教育の中で実習が果す役割は早くから認められていた。師範学校はこれを重 視し,実習の場としての付属校のstaffの充実に意を用いて,師範教育の仕上げを期した ものである。学生はその訓練によって教師として開眼させられたといわれる。ところが大 学となってからは著るしく事情が変化し,実習はかなり名目的なものとなっているようで ある。この点は再検討されなければならない。. さて実習が教職教育の要石だとすると,教育学の役割は白から定まってくる。すなわ ち,狭義の教育学をはじめ,教育心理学,教科教育法などは実習との関連において規定さ れなければならない。次章で詳論する如く,そのあるものは実習への準備として,他のも のは実習と結合(むしろその一部と)して展開されるのが適当である。 それだけではない。実習は国語,社会,数学,理科などの諸教科を中心として行なわれ る。しかし一般・専門教育で学んだ学芸は,そのまま教材となることはできない。それら. を子どもの学習指導に生かすには何らかの媒介が必要である。直接的には教科教育法であ るが,ある意味でもっと大切な役割をうけもつのが教育学である。そ・れは一般の学芸と実 践活動を結びつけるという意味で,やはり教員養成の中では媒介者といえるであろう。 一体,専門家,ことに教育者の養成というような仕事は,数年という限られた年限内で 完成するような性質のものでない。それは人間一生の仕事というべきであろう。そ・の意 味からいうと,学部の教員養成は,どこまでも教師への準備教育にすぎず,現職について からの自己教育への基礎をしっかり据えることで満足しなければならないのであろう.と いうことは,教員養成全体がintermediaryなのだということであり,何も教育学だけの ことではないのである。そしてこの性格をまず確認してかかることが非常に肝要だと考え るのである。 3. 観念論的教育学. (1)大学の教育学はしばしばこのように批評されている.観念論的教育学とは対象の 教育活動や事実現象を抽象的にしかつかんでいない理論のことである。換言すれば``inert ideas''や"verbal. formulations''をほとんど出ることのない教育学である.. 観念論的教育学の要因は大別して二種あるようである。理論外要因と理論内要因と。 (2)まず,外の要因から。教師志望の学生にとって,それが頭から必修とされている ため,自主的な意欲や学問的興味ぬきで教育学の講義にでることが多い。学生からみると. 他の学術教科とくらべて内容上も魅力に乏しい。また学術の教授たちからみると,教育学 は法令の保護をいいことにして,. 「無内容」な講義を学生におしつけ,学術教科を侵略し. ていると感ずる。たしかにこの学問の大学における市民権は,それ自らの実績によって得 られたというよりも,いわば学外事情(教員養成制度の改正)に多くを負うている。そし て手厚い法令の庇護がその学的努力にマイナスに作用している一面は否定しきれないもの があるであろう。.
(17) 57. 大学の目的と教育学カリキュラム. (3)理論内要因。いま教育学を教育科学(個別科学)と考える-それだけでないこ とはすぐ後で述べる-と,社会科学や自然科学とくらべてまだ方法論が十分確立するに いたっていないこと,従って後進科学だということができる。. -箇の学問でありながらそ. のlogicが明確でないということは何といっても大きい問題である。そのた軌一口に教 育学といっても,実質はまことに区々雑多である。数多い教育書,教育雑誌を吟味するな らば何よりも雄弁にこのことが実証されるであろう。 さて,そのようにきわめてvarietyに富む教育理論であるが,これにも「子どものいな い理論」と「子どもだけしかいない理論」という2種額を区別できるように思われるo ばらくこの区分にしたがって考えてみたい。. 前者は「政治的教育学」として一括できる一群の理論である。そこでは教育は政治社会 的現象としてとらえられ,しばしば「政治の中に解消」されてしまう。教育学の方法論は. 政治学,つまり社会科学の方法論の枠をほとんど出ることがない。教育学は完全に社会科 学の中に,政治学,経溶学,法学などとならんで位置づけられるのである注12。 たしかに巨視的にみれば,教育は政治・社会現象の一つであるであろう。だがそこでは 子どもの⊥人々々のすがたはみえない。そのような巨視的理論は教育の基本的な一面をと. らえてはいるが,しかし全部ではない。すなわち,教育実践に方向を与え,これを指導す るという実践の学としての他の一面は見失われているのである。 思うにわが国戦前の教育学はそのような教育の政治的基掛こふれることをおそれて,守. ら哲学的教育学か,または外国理論の紹介に終始していた。そ・れは「臭いものにふた」読 の教育理論であり,結果的にほやはり一種の政治的教育学であった。少くとも「日本の」 子どもはその中に不在であったということができる。戦前戦後を通じてこのように子ども 不在の教育理論があたかも教育学のすべてであるかのように幅をきかせてきたことは不幸 という外はないのである。. それでは他の一群はどうか。これは子どもだけしかいない教育技術の理論である。この 教育学の基本的立場は教育心理学のそれである。たとえば適応性や個人差の問題,そこか. らいわゆるGuidanceや能力別指導の理論が展開される。それの有用性,必要性はたし かであるが,この理論だけで教育問題の解決を与えるかに思われるのは早計であろう。テ ストの点数に示される子どもはその子どもの全体ではない。個人差の心理学的事実から直 ちに能力別指導の理論はでて来ない。その間に心理学以外のものが入ってこなければなら ないのである。 教育学の対象となる人間は,一般にいって,心理学によって抽象された人間ではない。. それは具体的な歴史的・個性的存在である。必然の中に自由を求め,個でありながら普遍 につながるものであるo. 歴史は連続の中に非連続をふくんで成立つように,人間とか子ど. もという概念はつねに矛盾の中に調和・統一を実現する可敵性を蔵している。そのような 「子どもしかいない」教育理論は,実 人間が教育の対象に外ならない。そうだとすると, は現実の子どもでなしにその影だけを問題にしているということになるのである。 さて. この理論を信奉する教育学は,平均のところやそれ以下の層に主たる注意を払. し.
(18) 58. 松. 本. 賢. 治. い,知的優秀者に対する熱心な配慮に欠ける傾向がある。前時代の教育の欠陥の是正とい えばまさにその通りであるが,一面的だという点は同じことであろう。. 20世紀前半の新. 教育運動がその適例である。もっともこの運動はすべて心理学からでてきたものではなく,. また教育の科学化・合理化に対する重要な功績は偉大なものがあるが,特にスプートニク 1号(1957)以後のアメリカでの論争とその結果としての教育改革が証明するように,節 教育の見落した一面をはっきりさせることはきわめて重要な問題となった。 子どものいない社会科学的教育学も,子どもだけしかいない心理学的教育学も,ともに 抽象論観念論である。それらはいずれも真実の人間形成の一面だけをとらえるものにすぎ ``patbetic=. ぬ。そのような教育学はともすると過度に自己の立場を強調する傾向があり,. という印象を与えるものが多い注13。そうじてこの評語は現在までの教育学全般に大なり 小なり,あてほまる感がある。教育理論の観念性は,理論そのものの弱さに最大の原因が あるのではないか。その弱さは教育の取木をなす所のものをしっかりとらえていないとこ ろから来るように思われる。 4. 超教育学(meta・pedagogic畠). (1)教育学といえばacademicな講壇学,教育学老はspecialistの学者,. -これが. こんにちの通念のようである。それは一応正しいとしても,実はかなり不完全な規定の仕. 方ではあるまいか。仮りに教育問題のすべてについて専門家の優位を要求し,他を一段も 二段も下にみるということになったら,明らかに行きすぎであろう。何故なら教育は人間 形成の根源につながる仕事であって,個別科学としての教育学がすべてをつくせるような. 性質のものではないからである。たとえば人間像や世界観はすべての教育活動のアルファ でありオメガであるが,従来の教育学(個別科学としての)はこの種の梶本問題にどれほ どの貢献をなし得たであろうか。教育の最も根源をなす部分は少くとも教育学者だけの餌 域ではないと思われる。. (2)このことは歴史的事実に照らしても明瞭であるo近いところでは,たとえば Whitehead Schleiermacher. (186ト1947),. Russel. (1768-1834). ,. (1872-)。少しさかのぼればRousseau. Fichte. (1762-1814). ,. Durkheim. (1712-1778),. (1858-1917)。この人た. ちの教育学史上の功績は没すべからざるものであるが,いずれも本慣は教育学でなく,敬. 学,哲学,神学,社会学などであった。いや,教育学着でないからというのではない。 この人々に共通しているのは,教育学老でないという外に,いずれも第一級の思想家. (Denker)だったことである。大学人と否とを問わず,断じてただの学者・専門家ではな く,豊かで独創的な精神,改革の情熱のもち主だったことであるoそのようなDenkerは, 学問のせまい枠内に自らをとじ込めておくことはできず,それを深く掘り下げ,広くおし 拡げて,認識の主体である人間そのもの,その人問の形成という問題に及んだのであっ た。. (3)最も梶本的な意味での人間形成の学はもはや教育学老だけの占有物でないと述べ たが,それは実際家の教師の問でも夙に気付かれていたことである。たとえば信州の教師 たちが自主的につくっている郡市ごとの教育会や哲学会など(信濃教育会はそれらの連合.
(19) 59. 大学の目的と教育学カリキュラム. 体)では夏季大学やその他さまざまの機会を設けて中央から講師を招くならわしである が,第一級の文学者,哲学者,歴史家などをえらぶのがつねとなっているo教育学老はむ しろ例外といっていい。これらの催しの中心のねらいが教師の技術向上といったことより. ち,教師の自覚を深め,その姿勢を正すことだとすると,この考え方はむしろ正しいとい うこともできよう。 私ほ信州教師のこうした傾向を,教職に対する劣等感のうらがえしではないか,と疑っていた。 それによって現在いだいている不満を代償させているのだ,と。しかし信州教育の実地調査を行な い,その地の少壮,年輩の先生たちと心ゆくまで討議した結見私の予想は主観的な臆測にすぎぬ ことを知った注14。. (4)超教育学への道. 人間-この複雑で底の知れぬもの,限りなく個性的なもの-. を対象とする学問は他にもあるが,その人間を全体としてとらえ,その成長を具体的な歴 史条件の中で明らかにしようとするところに教育学の独自性がある。 このような対象に接近する道は,対象である人間の種々のすがたに応じて種々のものが あり,ここに教育学は若干の個別科学に分かれることとなる。だが人間そのものはそれら. の研究成果をつなぎあわせればわかるというようなものでない。人間形成の秘密は個別科 学のメスのとどかぬところにある。それは個別教育学の能力を越える仕事であって,いわ ば教育学を越える学問が必要なのである。私はこれを,. Aristotelesがmeta-pbysicaと. 名付けた故事にならい,近くはmeta-scienceの例に学んで, 育学)と名付けておくo. meta-pedagogics. それはもはや教育学ではなく,哲学というべきであろうo. (超教 (この. ばあいの哲学は近世のアカデミックなそれでほなく,むしろ人間の学としての哲学,古代. ギl)シャ人の考えた意味での哲学を指すことはもちろんであるo)あるいはまた,教育心 理学や教育社会学などとならぶものでないという条件をつけた上で,ことばの本来の意義 における教育哲学と考えることもできるであろう注15o さて,超教育学-の道は二つあるように思われる。その-は,教育学とは無関係に,教. 育という行為や事実の中からそこに息づき流れている生命にふれることである。すぐれた 教育実践ほ必らず何程かそのようなものを秘めているのだが,ばあいによってはすぐれた 思想家や実際人に学ぶのも一つの方法であろう。すなわち,哲人,歴史家,文学者,自然 科学老,実際家など,凡そ傑出した人間についての人間研究である。ここですぐれた思想. 衣,傑出した人間というのは,必らずしも有名無名を問わないこと,もちろんである. そのこは,教育学を通りぬけ,その底を破って,源泉に到る道である。後に述べるよう に,教育史なら歴史学,教育社会学なら社会学という基礎学を根本にもっており,人間の 学としての教育学を深めるためにこの基礎学をさかのぼって行く方法である。それがほん ものの歴史学であり,社会学であるならば,必らず人間そのものの深い洞察をふくむはず であって,それがないようなものなら敢えて問題とするに足りないと思う。 超教育学はいわば教育学の原型である。すべての教育学的研究,教育的行為はそこから. 出発し,そこへ帰着するのである。教育学が凄刺たる生命力にあふれて学的使命を果すと き,必ず根源の超教育学が若々しい鼓動を打っているであろう..
(20) 松. 60. 本. 賢. 治. ⅠⅠⅠ教育学カリキュラム 1. 構. 想. 本章は教育学の学問的分質を試みようとするものではなく,前章の論義をうけて,どの 部分がどの意味で有用であり,他の部分は何故にそうでないかを少しく立ち入って検討し. たいとおもう。ここでは教員養成プログラムの一部として考えるので,教職教育の全体に ふれることとなるであろう。. (1)実習を核とする全体の構成. 教職教育の核心を教育実習(A)におくとき,教育学. 諸科目はこれとの関連においてそれぞれ位置と役割を規定されるo C. 私はConantの示唆にもとづいて実習(A)以外の全体をB, たい。. 2群に分けて考えてみ. B群は理論的準備(基礎)を与える諸科目で,教育心理学,教育社会学,教育史,. 教育哲学など。いわゆる入門としての「教育原理」補注もこの中にふくませる。. C群は広義. の教授法(教育技術)で,学習指導,生活指導,教育課程,学級経営法,さらに教科教育 法をふくむ。 C群は教育実習との関係においてB群よりも直接的であり,その性質上独立 の講義としてよりも実習に平行しそれにふくめて研究させる方が有効であろう。教育実習 は近い将来の本格的教育実践(教師としての専門的な教育活動)を予想して課せられる が,それはなお教師養成プログラムの一部だから,方法・技術の研究をその中にもりこむ ことは十分に理由があるだろう。 補注. アメリカの諸大学では. ‖Foundations. "∫ntroduction. of education''とか,. などの名で,入門として行われているものであるが,. Conant. to. Teaching''. はこの科目に対し「よせ集め」. (eclecticcourse,)という評を下し,原則としてカl)キュラムから削除するよう勧告している。 その主たる理由ほ,断片的な知識のよせ集めでほ学生に学問としての興味を利親することがで きないこと,何よりもこの講義の担当者に問題があり,およそ学者の名に値いしない教授が通 りいっぺんの話しをして済ましていることが多い,としている。かれの批評のある部分はわが 国の大学にもあてほまるかもしれない。. cf. Conant,. op.. °it., p.. 126-129.. ところでわが国の現行制度では,上述以外の教育学諸科目が選択として認められてい. る。社会教育,特殊教育,教育制度,教育行財政などである。それらはたしかに教育学の だが. 寵域の一部であるし,それを課すことは教育学的教養として望ましいともいえようo 教員養成の限られたプログラムの中にもち込むことが賢明かどうかは一考を要し,むしろ 別の機会にゆずるべきだと考えられるo (2)量よりも質. 教育学カリキュラムの検討に当って第2-の前提は知識の量よりも質. が問題だということである.. Conant. はいう。ギリギl)まで執成し,精選せよ注16,とo. た,質を高めるにはまず担当教授の資質,次に講義内容が問題となる,と注17.. ま. (質といえ. ば,教師志望の学生の質の改善方策も見落してはならない。むしろこの方が重要だともい えよう.) もちろん,このような問題は,かなり専門的な性質のもので,見解の相違から賛否さま.
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