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欧米(人)における日本庭園の写像

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(1)欧米(人)における日本庭園の写像 岩. Images. 切. of the Japanese Masaaki. 正. 介. Gardens. among. Foreigners. lwAI(IRI. はじめに 国内で. 一. 日本を訪れた欧米人の目に写った日本の庭. (1)昭和期(2)大正期(3)明治期(4)江戸期(5)安土桃山期 外国で. 一. 欧米での紹介と受容. (1)万国博覧会で(2)ジャポニズムのなかで. 1. はじめに. 日本の庭園は,明治の開国以来しばらくの間,欧米において,美術工芸品と並ぶ日本の 代表的イメージであった。明治政府が万国博覧会でそのような演出をしたことや,ちょう ど同じ時期に欧米でジャポニスムの盛行したことなどの影響が大きい。その後,日本が近 代産業国家,アジアの列強国,科学技術の国に変わっていくなかにあっても,このイメー ジは生き続けて現在に至っている。ただその間,日本の庭園は日本そのものを代表するイ メージから,日本の文化を現わすイメージに局限されはした。日本の庭園は,おそらく将 来も伝統文化のシンボルとして世界に流通していくであろう。 日本の庭を目にした欧米人は,当然であろうが,白紙のままに受け止めたのではなく, 自分たちの文化を下敷きにして日本の庭を見た。あるいは自分たちの文化にないものを日 本の庭に読み込もうとした。また,二,三の芸術家は,日本の庭園に触れて,新しい霊感 を得て,芸術を新たな次元に引き上げた。このような歴史に見られる日本庭園のさまざま な写像のなかには,やはり,異文化との遭遇にかならず伴う特有の変容と活用とが見てと れる。以下,現代から順に時代を測って,日本の庭園の受容の姿をいくぶんなりとも,お もに紹介と説明という立場から見ていきたい。. 2. 国内で. 一. 日本を訪れた欧米人の目に写った日本の庭. (1)昭和期 現代では欧米各地で本格的な日本庭園が作られており,日本の庭に関する理解や紹介, さらに研究も高い水準に達しているように思われる。.

(2) 岩. 76. 正. 切. 介. たとえば雑誌「庭」の77号(建築資料研究社,平成3年1月)を見ても,欧米の他,ア ジア,ソ連,オーストラリアで日本人の造園家によって日本庭園が造られていることが分 かる。この一冊だけからも,ホノルル,クウェイト,ジュロン(シンガポール),クアラ ルンプール,ウィーン(1974年万国園芸博覧会および19区の庭園),サンパウロ,サイパ ン島,ボルネ*,ジャカルタ,アトランタ,ボストン,ツウ-ンバ(豪州),ヒュ-ストン, サンディエゴ,ロ⊥マ,. -ッセルト(ベルギー),ヴュルツプルク(ドイツ)などの地名. を拾うことができる。 現代の研究や紹介では例えば次のようなものが挙げられる。 Bernard. ・. ・. Jeannel. Massimmo. :. Jardins. Venturi. Claude. japonais. Ferriolo. France,. en. du. :Jardin. Paris,. Japan,. 1995,. Chene,. 1993.. Traduit. de. ritalien. par. Bonnafont.. ・オギュスタン・ベルク『風土の日本』筑摩書房1988 ・. Irmstraud. Schaarschmidt-Richter. :. Der. Japanische. Garten.. Ein. Kunstwerk,. Basel,. 1979. ・. Loraine. I(nck. Landscape ・. Art,. Samuel. David. ・. Samuel. :. Tokyo,. H. Engel. A. Japanese. Japanese. Garden. from. Chinese. to. Orgins. Modern. 1968.. York/Tokyo, Garden. Manual. Gardens. :Japanese A. Thousand. Reginald Gardens. and. of the. for Westerners.. Basic. Design. and. Con-. 1965.. Newsom:. やや古くは, Flowers. New. Newsom. struction, ・. World. :The. for Today,. Years. Farrer:The of Japan(. Tokyo,. of Japanese. Garden. 1959.. Gardens,. Tokyo,. 1904. )やFlorence. of Asia(. 1953. du. Cane:The. 1908)などがあるという。. フェリオロの紹介の書は,日本の庭の基本性格を「東洋の庭はたんに美しさを楽しむた めだけでなく、隈想や思索(内観)のために作られている。東洋の庭は,樹木,花,草, 小石,岩,砂,築山(丘),水を素材にして作られ,自然な風に見えなくてはならないが, 人間も庭を構成するその…部なのである」. (下線は筆者による。以下同じ)と述べ,芸術. 的な写真とともに名園を紹介している。 日本人の著書の英訳あるいは英文の著書には,たとえば ・. ・. ・. Garden The. Views Gardens. Katsuo ing,. I. Osamu. ・. The. I・ⅠⅤ,Tokyo, of Japan,. Text Wada:. Saito/Sadaji New. York/Tokyo, Mori. Gardens. :. 1991.. Typical of Japan,. by. Teiji ltoh, Tokyo/New. Magic. of Trees. &. Stones.. Tokyo,. 1962.. York/Sam Secrets. Francisco,. of Japanese. 1964. Japanese. Gardens,. Jiro Harada,. London,. 1928.. などがあり,これらの英文の本も日本庭園の紹介に寄与したはずである。 「日本の庭は美しい。いま日本の庭は世界の注目を集めているといってよい。欧州でも 米国でも日本庭園流行と聞く。そして米国あたりからは,わざわざ日本庭園見学のために 専門家以外の人々が団体で乗り込んでくる有様である。また数年前,法律の専門家であり. 1984. Garden-.

(3) 欧米(人)における日本庭園の写像. 77. ながら,日本の庭の美しさに魅せられ,日本滞在の二,三ケ月を庭園見学に打ち込んでし まい,帰国後,日本の庭の著書を出版したり論文を書いたりしたスイスの法律学専攻の青 年や,法学博士であるドイツ女性を私は知人に持っている。戦前にはみられなかった現象 である」と中根金作は,昭和39年刊行の『日本の庭』. (河原書店)の緒論に記している。. 日本の庭園から創造の霊感を受けた芸術家に,抽象彫刻や陶芸,小庭園や公園を手がけ たの芸術家のイサム・ノダチ(1904-1988)がいる。アメリカに生まれ,パリのブランクー 1931年(26・27歳),父野口米次郎の国日. シのもとで彫刻の修行をしたイサム・ノダチは,. 本を訪れ,京都の禅の庭園を見た。この時のノダチの霊感は,日本の庭園は地球の彫刻で ある,であったという。ノグチは日本の庭園に現代的で簡明な線を生かした小庭園をいく つかヨーロッパ,日本,アメリカに作っている。次のような庭園・設計のうち, 10,. 11などがその例である。. 1. 慶応義塾大学の庭園(1952年完成). 2 3. 1,. 4,. 7,. リーダーズダイジェスト東京支社ビルの庭園(1951年設計) コネティカット・ゼネラル生命保険会社(現CIGNA社)のための庭園設計。コネ ティカット州プル-ムフィールド。. 4. パリのユネスコ本部の庭園(1958年完成)。. 5. イエール大学バイネッケ稀親本・手写本図書館(コネティカット州ニューへイヴン) の沈床園(1964年完成) 1965年完成). 6. ビリー・ローズ彫刻庭園(イエルサレム,イスラエル美術館,. 7. チェイス・マンハッタン銀行プラザ(ニューヨーク)のための沈抹園(1964年完成). 8. IBM本社(ニューヨ-ク州ア-モンク)のために二つの庭園を設計o. 9 10. 草月会館(東京)に『天国』を設計(1978年完成)0 彫刻庭園『カリフォルニア・シナリオ』(カリフォルニア州コスタ・メサ,サウス・. 11牟礼のアトリエの庭園の施工開始(1983年) 12. 土門記念館(山形市酒田市)のために,水を使った庭園を設計(1983年). 13. その他,いくつかの小さい公園。. 戦前にはt. プル-ノ・タウト. Bruno. Taut. (1880-1938)が日本の庭園を紹介している.. タウトが桂離宮を訪れたのは,昭和8年(1933)と9年(1934)の二度である。タウトは 修学院,西芳寺,金閣寺,銀閣寺,龍安寺,伊勢神宮などを訪れた他,多くの日本の庭園 を見た。『奥の細道』を読み,逆回りの旅も試みている。ドイツの建築家でシャルロッテ ンベルク工大の教授であったタウトは,ナチス政権の樹立により,亡命来日し,はじめ3 ケ月を仙台で商工省工芸指導所の顧問として過ごした後,高崎郊外の少林寺達磨寺の洗心 亭に住み,群馬県工芸試験所高崎分場(タウトが工芸所に改組)で指導に当った。. 1936年. 10月,トルコのイスタンプール国立美術学校の教授に招かれ日本を去った.在日は3年余 (1933年5月-1936年10月)になる。この間,タウトは, などの論文や「日記」,. 「図帳桂離宮の回想」,. 「桂離宮」, 「日本建築の世界的奇跡」. 「永遠なるもの-桂離宮」などで桂離宮の庭.

(4) 岩. 78. 切. 正. 介. について語っているが,その内容は,最初から終りまではぼ同じであり,次のように要約 できるかと思われる。. 1. 微妙極まりない調和と釣り合いを実現した関係の芸術である。. 2. 御殿と庭,人間との関係,庭の内部の部分間の関係など複雑な関係が全体として統一 されている。. 形だけの美しさでなく,背後に無限の思想と精神性をもっている(すなわち偉大な芸. 3. 術の持っ美しさを持っている)0 4. 庭を巡ると,変化の妙を尽くした異なる豊富な眺めと趣きが展開する。. (密度が濃い). 5. 庭は,簡明な日常生活の場,洗練された田園景趣の場,精神の集中を促す哲学の場と いう三種類の場に区分されている。 装飾的でなく,事々しくなく,観せるところがなく,簡明に洗練された古典的模範で. 6. ある。 7. 真の日本を知らせるものである(簡素で機能的な精神を表している)。. 8. 簡素で機能的,それ故に美しい。この意味で,御殿(書院)同様に,モダ-ンである。. 9. 細部(部分)が細かく分かれ,それぞれが独立して明白に作られているが,相い集まっ て全体は統一されている。. (あたかも一個の生物,あるいは自由な個人の集まった良. き社会) 10. 庭を眺める眼は,思考へ誘われ,疲れない。. (見るだけでは!人は疲れる). タウトは来日してすぐに,上野氏と下村氏の案内で桂離宮を訪れ,四時間あまりを過ご した。この時,桂離宮の庭を上述のように理解したものと思われる。この理解の骨格は, 以後も変わらなかったようだ。上に挙げた諸文は繰り返しはぼ同様のことを語っているが, 一 桂離宮」. タウトの桂離宮体験と思索のまとめと見てよい「永遠なるもの 11年1月執筆。. 『日本の家屋とその生活』. Das. japanische. Haus. und. sein. (1936,昭和 Leben,. 1936の. 最経章) (タウト全集第一巻38・48)を挙げよう(下線部は筆者。以下同じ)0 「五月初旬の麗らかに晴れた一日,私達---は桂村に赴いた。. --私達は樹々の若葉. の明るく照り映えている門の前の砂利道で自動車をおりた」。中門をくぐり,玄関をはいっ て古書院のこの問の広縁に立つと,初めてそれまで生垣に遮られて見えなかった庭の「明 るい陽に照らされた林泉のすばらしい景観が私達の目の前にひらけた」。. -・-. 「静寂である。折々どこかで爽やかな鳴蝉の声が聞こえてきてはまたはたとやむ。魚は 幾たびとなく鱗を水の上に躍らしては,またばしゃりと音をたてて地中に沈んでゆく。小 島の上に遊ぶ亀の甲羅は岩の色と見分けがたい。私達は今こそ真の日本をよく知り得たと 思った。然しここに展げられている美は理解を絶する美一即ち偉大な芸術のもつ美で ある。. --ひとはこの神秘にもたぐふ謎のなかに,芸術の美は単に形の美ではなくて,そ. の背後に無限の思想と精神のつながりとの存することを感じるのである」。 「いま私達に見えるのは,地中の島々と岸とに無限の変化を示している左方の庭苑が花 紅いの脚燭の列と簡素な橋とで,右側の一層単純らしい庭から限られている様だけである。.

(5) 欧米(人)における日本庭園の写像. 79. 月見台の右方に,台に真近く一本の松があり紅い掛偶の生垣はそこまでつづいている」。 「下村氏が先ず庭に出て他の廻りをめぐる方がよくはないかと言う。私達は中門まで引 き返した。そして行きとまりに一本の小松のある道の生垣に沿うて進み,鄭びた茶屋風の 待合の傍を通り過ぎた。. --他に架せられた小さな石橋を渡ると,そこに滝が咳くような 音をたてて落ちていた。しかし池景はここでもまだ中正の趣を失っていない。ところが向 岸に立つ茶屋(松琴亭)との距離が狭まるにつれて,ここに来るまでの田園詩的な景色は 次第にその様をかえてきた。そこに現れたものは荒磯の岩を思わせる粗石であるo磯浜に 見るような円い石からなる小さな岬はその実端に石灯寵を抱いて寂家をかこっている。茶 室に通ずる石橋のところまで巨石を擁する道は,ますます峻厳な相貌を呈して,あたかも 近づく人を斥けるかのようである。橋は長さが六米もある角石で,両端は大きな隅石で支 えられていた。ここで私はいま一度引きかえして,和やかな田園詩が厳粛な相に変わると ころまで戻り,そこから池をへだてて右方に離宮の建物,左方に茶室を眺めた。上野氏は 言った『いま私達は実に決定的な転換点に立っているのです』」。 「昔,茶の湯の賓客達はこの橋を渡って茶室の定めの間に赴いた。それ故に一切のもの は精神の厳粛な集中を促すように工夫されたのである。しかし茶礼を了えた客が-たん狭 い茶室から出て,懐石を頂戴する広い室に入ると明け放たれた障子の前には,小さな島々 のある池景と背景に御殿をもつなごやかな林泉とが開けるのである」0. --. 「この茶室から,径はあたかも公園の遊歩道のように入江に沿い築山を越えて屈曲し, 離宮本屋にいたる橋を渡り,それから今見たのよりはもっと大きな茶屋(笑意粁)に達し ている。この茶屋の前の入江には幾披かの小舟を繋ぐことができるようにしてある。笑意 軒もまた農家風の建築であり,松琴亭よりも多人数の茶礼に用いられるのである」。 「私達はここから離宮の本屋に向った。向って左方の,うしろにのびた翼は,平生の御 住居[新書院]として用いられたものである。ところがここには日本風の造園術はもうまっ たく見られなかった。この庭園は樹木を植込んだ広閲な芝生である。樹木は弓形の線に沿っ て植えてあるが,家屋に近いところでは広い芝生を残している。これは世界のどこにでち 見かける自然で単純なやり方である。造園術は,松琴亭にいたる道では哲学的な風格を示 し,次に優雅な林泉を展開し,最後に日常の生活が営まれる居間から外を眺められるとこ とでは,まったく用いられていないのである」。--. 「いったい桂離宮の林泉の秘密はどこにあるのだろうか.この秘密は,桂の庭苑のもつ 異なった三形式がそれぞれ所求の目的を実現しているところにあるのだ。日常生活が他奇 なく営まれるところでは,庭もいわば実用的なものとして最高の洗練を示している。禅の 思想に出ずる峻厳な形式は,茶室に通う路で精神の志向があらかじめ用意せられねばなら ぬところにおいてのみ用いられている。中門から斜に庭苑を眺めた時にも,小滝の見える 田園詩的な橋においても,奇哨な哲学的要素はまだひとつも現れていないのである」。 なお!当然であろうが,タウトは桂離宮の庭だけを見たのではない。建物から庭を眺め, 逆に庭から建物を眺め,建物と庭との相の考慮された機能的な関係を語っている。 論文「日本建築の世界的奇跡」. (1934,昭和9年11月執筆,翌年欧文雑誌Nipponに発. 表,外人向け)に示されている二度目の桂離宮訪問の際の理解もはぼ同じである。簡略な.

(6) 岩. 80. 切. 正. 介. 記述で終わっているが,桂離宮の建物と庭が世界に比類のない関係の芸術であるという認 識がここではよりはっきりと述べられている(タウト全集第一巻89-94)。 タウトの『日記』には以上二つの論文のもととなった訪問体験がその時その場での言葉 で記されている。繰り返しの紹介になるようだが,以下引く。 1933年5月4日[最初の訪問] 「上野氏と自動車で京都郊外の桂村に赴く。桂離宮を拝観するためである。 桂離宮の清楚きわまりなき竹垣。. ・・--. -・・・離宮の御殿はなに一つ蔽ひのない清純な建築であ. る。--・. 小さい玄関の間とさらに大きな玄関の問(鍵の間),これにつづく古書院の控えの間 (二の間),広縁,そこから張出された月見台とその竹縁。. -するとその前に素晴らし い林泉が展開される。泣きたいほど美しい印象だ。限を悦ばす御庭のたたずまい,月見台 に対して斜に設けられてた舟着場,右方には紅いの花をつけた蹄踊の列がいま一つの簡素 吃(新書院の)御庭を限っている。然し左方では,この林泉は厳しい分化を示しているの だ。背後に無限の精神を蔵しているこの関係の豊富さ一最初は息づまるばかりであっ た。. --これらの[新書院の]室々と他奇のないこの御庭[新書院前の芝生の庭]との美 しい調和。 引返して茶室(松琴亭)に赴く道。-、和やかな田舎の趣。. 二、せせらぎの田園詩。. 三、粗石と荒磯の寂家,岬の突端の『外側』に石灯寵が立っている。待合があった。 四、粗硬な石は訪う人の歩みを阻むかのごとく『静思せよ!』と要求する。水の上に架し た長い角石,この橋を渡るとやや高く松琴辛がある。茶室に参る気持の安らかさ、ここに は『帝王のぎぎたる荘厳』は微塵もない。 茶室につづく『散歩道』、しなやかな線は池辺をめぐり橋があり小丘がある。自然石の 下に設けられた雅致ある排水溝。丘の繁みにたっ石灯篭の灯火は蛍を誘いよせ蛍の光はま た池水に映ずる,この佳景を向いの月見台から賞翫するのである。御堂(園林堂),棉, 斜めに植込まれた蹄喝の列,大きな船着場,やや大きな茶室(笑意亭),それから新書院 の近くに昔の大弓場。 御殿を下りて中門を出てみる,ここから池をのぞむ眺めは,流れの上に小松が懸ってい るだけでまったく中正の趣である。流れに架した門外の橋からの眺めはもとより一層中正 である。ところが御殿のなかを進むにつれて,林泉の趣はいよいよ豊富になる。古書院の 控えの聞から見る素晴らしい景観。然し平常の御居間である新書院の御庭には,もうこの ような造園術はまったく見られない。芸術的翫賞のこの上もない優雅な分化だ,すべての ものは絶えず変化しながらしかも落着きを失わずまた控え目である。眼を悦ばす美しさ、 然しここでは眼は精神的なものへの変圧器だ。. 【]本は実に眼に美しい国土である。. 帰途につく。今日はおそらく私の一生のうちで最も素晴らしい誕生日であったろう」。 (タウト全集第-巻「日記抄」. 259-261). 1934年5月7日[再度の訪問] 「桂に赴く。離宮拝観に四時間半を賛す。 私はこれまで幾度となく桂離宮の美を葦にまた口に称賛してきた。今日,御庭を避適し.

(7) 欧米(人)における日本庭園の写像. 81. ながら一つの着想が私の頭をかすめた-たとひ私の主観的な考だけにせよ,桂離宮の 全体を日本の筆を用いたスケッチと言葉とで,それも忠実な写生ではなしにまったく私の (タウト全集第一巻「日記抄」257-263)0. 感じたままを一気阿成に描写したらどうであろう」. こうして書かれたのが,庭の要所のスケッチとそれぞれのスケッチに書き込まれた短文 (原文はドイツ語). 27葉が『画帳桂離宮の回想』. (訪問の翌日と翌々臥. 8日と9日に作成). だが,短文のそれぞれの内容は,論文と日記で述べられていることの簡略な要点と読める ものである。. 以下さらに,論文「桂離宮」(1933,昭和8年6月24日から7月6日の間に執筆。日本 での最初の著作『日本』. Nippon,. nit. ewurop云ischen. Augen,. 1933. に収められている). (タウト全集第一巻5・33)から補足のために言葉を拾う。 「桂離宮とその御庭とは一の緊密な統一体であり,人馴れた噺暢や雨蛙、亀のような動 物までもこれと一体をなしている」(9)0 「この御庭全体を知性によって分析する前に直接感じられるのは,ここにも用いられて いる造園術が人との関係と関連とを極めて巧撤な形式によって表現していることである。 この無限に豊富な関係は殆ど息づまるばかりであり--」. (23)0. 「このように御庭の諸部分は著しく分化[細かく分かれている]していながら,しかも すべてが相集まって一個の統一を形成している。ここの達成せられた美は,けっして装飾 的なものではなくて,実に精神的意味における機能美である。この美は,眼をいはば思考 への変圧器とする。即ち眼は、見ながらも思考するのである」. (28). 以上のようなタウトの言葉のなかで,関係という言葉はすこし整理してみる必要がある かもしれない。関係とは,まず庭と人間との関係であろう。人間の日常生活や囲遊や社交, 精神的活動との関係であろう。日常生活を営み,自然な田舎の風景の中を歩く楽しみや, 集って茶の湯や懐石を楽しみ,また翻って独り禅のように厳かな思索を求めるというよう な人間の多元的存在を考慮して造られているということであろう。細かなことだが,松琴 亭へ赴く人々がいったん腰をおろして待つ四腰掛では,. 「そこに座る人々が互いに真正面. から向きあわず人の横顔をかすめて外を眺めるように配置されている」こともここに含ま れるであろう。そしてまた関係とは,庭園の構成物の間の関係,すなわち,苑路,庭石, 踏石,池水,石疾,舟着場や舟,石灯龍,生垣,滝や流れ,棉,園亭,樹木や花木,亀や 蛍,蝉などの生物などの間にみられる配置や遠近や見え隠れなどの関係であり,また,影 と日向,大小,高低の関係,色彩や濃淡の関係,さまざまな水音や鳴声の関係,さまざな な景の趣の間の関係などもあるであろう。さらに,建物と庭の調和のとれた関係。古書院 の月見台からの眺めの美しさと逆に庭から建物を見るときの美しさという関係。さらに, 松琴亭の襖の青白の-松模様と滝のきらめきの対応関係などもタウトの眼に映じていた関 係のうちに数えられるであろう。そしておそらく庭の眺め(視覚的な姿)と庭が背後に潜 める思想や精神との関係。このような整理の後で,さらに,タウトが捉えた桂離宮の庭の もっ複雑で豊富な関係は,このような列挙を越えるものであったに違いない,と付け加え なくてはならないのかもしれない。. タウトは,銀閣寺の庭は,絵のように美しいが,たんに部分の寄せ集めで全体的統-が.

(8) 岩. 82. 切. 正. 介. ない,という。また,修学院の隣雲亭から眺める庭は,イギリス庭園を思わせるといい, 桂離宮の庭園と異なり,十分に時間をかけなかっただけに,未解決の部分が残っており, 観せる部分(つまり事々しい部分)となっている,ともいう。さらに日本で造られる近代 の多\くの庭園は過剰で遊玩的であるともいっている。ここからもタウトが桂離宮をどう見 たかが伺える。. タウトは,銀閣寺の庭についてさらに「銀閣寺,美しい林泉,庭は支那風で怪奇,はっ きり理解できないところがある」 言っている。タウトはt. (タウト全集第二巻「日記抄」333,. 1933年6月25日)と. 竜安寺,西芳寺,その他多くの庭を見て,それらの庭についても. 語っている。 「それから頗る堂々とした村長の家を観る。大きい立派な藁屋根と巧轍な日本庭園」 (タウト全集第二巻「日記抄」429,. 1934年3月2日,白石,犀川). 「三人(蔵田,上野,タウト)で竜安寺へ。夕陽のなかの道を寺に上って行く。 然しこれが庭だろうか。明るい広開な砂利の上に十数個の石が配置されているだけである。 ・・・-この庭は静かに観照し、沈潜することを要求する。入念に選ばれた砂利は生命あ・るも のごとく,石は大海の巌の観がある。然し全体はまさしく日本的な景観であり,その広い 面と繊細な感情とは,単純のうちに極めて複雑な意味を含蓄させている。元来は支那の影 響であるが,そのなかからまったく日本的なものが生じたのである。以前は土塀の向うに 遠山を望んださうだが,今は樹木に蔽はれている。この水平に限られた樹々の緑と白くか がやく砂利。『庭のない庭園』である。下の池には夕かげに明るく光る水の面と,これを 限る生垣。京都の満月!(上の寺には茶室の前にささやかな庭,この静閑! 集第二巻「日記抄」. 335・336,. )」. (タウト全. 1933年10月3日)0. 「--いくつかの村を通りすぎる。. --やがて森のなかの西芳寺に着く。心字池。苔の種 類が二十四もある。茶亭。森の中の清浄な林泉。密生した竹。 --門,石段,本堂。ここ で僧侶は,仏陀のごとく蛙池畔の石上に座禅するのである。石庭,小滝一支那の影響 をうけている。自然の芸術、苔。方丈につづく本堂で住職から抹茶の饗応にあづかる。-」 (タウト全集第二巻「日記抄」. 356-257,. 1933年5月5日)0. ところで広く,日本の庭園一般についてタウトが述べていることば,およそ次のように まとめられるかと思う。 1. 単なる写景ではない。山水を模したものでない。. 2. 建築は直線と直線相互の釣合を考慮して作られる(人工的)が,日本の庭園はそれと 異なる自然の原理で作られる。庭は自然のもののもっている形態を生かして作られる。 樹木,石,池水などの個々の要素も生命体であり,庭全体も-個の生命体である。. 3. 違う原理で作られる建物と庭はそれ故に調和する。. 4. 庭石や石灯寵を一直線に並べたり,苑路を一直線にしない.人間の眼は楽しむために 働き,人間は真っすぐ歩かないものだからである。. 5. 日本の庭は自由人の作る良き社会に似ている。. 6. 日本の庭には,宇宙と一体であるという幌想を助ける思想が盛り込まれる。.

(9) 欧米(人)における日本庭園の写像. 83. こう要約してよい根拠として,さらに「生ける伝統」「洗心事記」「日本の四季」や「日 記」に述べられたことを以下挙げる。 「私は控え目で簡素な,美しい庭園をいくつか観た。また遊玩的な造園術をまったく用 いてない住宅庭園もゆっくり鑑賞させてもらった。そのなかには叢林と芝生だけの庭もあ り,また山中に広大な庭園を設けて殆んどまったく人工を加へぬところに雄大な趣を示し ているものもあった」. (タウト全集第二巻「生ける伝統」. 287。. 『日本』所収。執筆は1933,. 昭和8年と推定) 「私達は静かに諸方の庭園を鑑賞した。それは概ね古典的建築物に付属した物静かな大 庭園であった。私達はこれらの庭をよく訪れては静思しまた研究した。然し時にはあても なく歩きまわることもあった」. (タウト全集第二巻「洗JL亭記」. 6lo. 『日本の家屋とその生. 活』所収。執筆は1935,昭和10年6月から8月)。 「いったい頻りに喧伝されている日本庭園の本質なるものは何であろうか。日本の庭園 は小山水にすぎないのであろうか。まったく写景のみであって,これがその本質なのであ. ろうか。諸方の庭園を観に行くと,これはどこそこの山水を模したものであるという説明 を聞くことがしばしばある。実際その通りなのであろう。然しここに日本庭園の原理を求 めることはまったく誤りであると思ふ。日本人は四季を通じて外気に親しんでいるので,. 樹木・岩石・弛水などに不自然な形を与えることには.まったく趣味をもち得ないのであ る。. ---小堀遠州政一は日本の生んだ最大の芸術家でありまた世界の奇跡たる桂離宮の建 築家であるが・・--また日本最大の造園家であり--。然し遠州の築庭は,彼の建築とはまっ たく反対の要素を含んでいるやうに思はれる。建築においては、直線と直線から生ずるす ぐれた釣合とが自然的でありまた最もすぐれた様式である。ところがこれは庭園では最も 不自然な形式であるo遠州は,庭園をいはば生物の集合体と見なした。かかる生物を切断 し破壊して-例えば岩石を裁断して一家屋にのみ必要な整然とした形にすることば, まったく不合理である。樹木,叢林,池水,岩,苔-これらのものは,おのがじし独 自の生命をもっている。これが本来の相のままで家屋に近接すると,ここに初めて家屋と 庭との見事な調和が生じるのである。そしてこのとき家屋の表現するところのものもまた 一個独自の生命にはかならない。このように庭園の構成部分は、いづれも生命の表現形式 を自然のうちに見出すのである。故にこれらのものに対して,建築から生じた諸形式を強 要することば所詮作為的であり非芸術的であって,その本質からの帝離にほかならない。 それだからJ造園芸術家が画家にも劣らず自然を研究したり,また画家が絵画によって哲学 的思想を表現するごとく-これは僧侶の絵によく見るところである一造園家もまた 庭園に思想を付与することばまったく当然であった。日本の庭園では,日本画を鑑賞する ときと同様に,我々の眼は疲れることを知らない。眼はただ見るばかりでなく、思想への 変圧器になるからである。庭の敷石道は一直線であってはならない。人間は軍隊式に訓練 されていないかぎり真直ぐに歩くことを好まぬからである。門と庭の戸口とは平行に置く べきではない。家へ入る道は行進する軍隊のためではなくて思惟し享楽する眼のために造 られたものだからである.石灯寵やまたその他のものもすべて同一の軸上に整列させる必 要はない。つまり一切は,あたかも独立した自由人からなる良き社会のごとくである。即.

(10) 岩. 84. 切. 正. 介. ち自由な精神はそれぞれ自己の個人的性格に従って行動しながらしかも矛盾することなく 見事な全体的統一を形成するのである。家屋と庭園との関係はまったくこれであり,また 家屋の諸部分相互の関係も古典的建築にあってはまさにこれにはかならない。 「・--遠州自身も庭園の意味を尋ねる人々に,この庭はどこそこの山水を模したもので あると言って彼等を納得させたことであろう。然し遠州にせよまた他の造園家にせよ,上 に述べたやうな見解を踏まへていたからこそ,写景を行ってもいかものに堕しなかったの である。つまり彼等は景観に関する思想-即ち宇宙と一体であるという隈想的気分を 助けるやうな思想を庭園に結合したのである。. --. 「・--奇怪な姿態をした樹木が数多くある。これを仕立てるには植木屋のすぐれた技量 を必要とするものであるが,然しかかる形はもはや日本的ではなくてむしろ支那伝来の趣 味であろう。立体形に刈りこんだ大きな生垣は江戸時代に創ったものであるが,恐らくヨー ロッパの影響を受けているのではあるまいか」. (タウト全集第二巻「日本の四季」. 148-1530. 『日本の家屋とその生活』所収。執筆は1935,昭和10年6月から8月)0. タウトは,論文「芸術」において,日本の芸術がもつ,世界に類をみない優れた特質は 「清純」だと述べた。その要点は,次の通りである。 日本の芸術の独自の点は,線の流動であるo軽快な技法が見られ,厳格な形式ももって いる。しかし悲憤や悲哀は表現されない。むしろ,明朗である。しかし浮疎放逸はない。 色彩は鮮麗明瞭。一般に端静な境地を示している。これらを一語でいうと,. 「清純」であ. る。「美しい」と「清い」を一語でいうと「椅麗」である。神道こそ,日本の芸術及び文化 感情の基にあるものである。神道は宗教でなく,自然観である(タウト全集第三巻「芸術」 23-32). (『日本文化私観』. この本の執筆は,. Japans. Kunst,. nit. europ去ischen. Augen. 1936所収o. gesehen,. 1934,昭和9年12月14日から翌年2月1日)。明言はしていないが,タ. ウトは,同様のことが庭園にも幾分かは当てはまると思っていたのではないだろうか。. (2)大正期 ヴェンセスラオ・デ・モラエス. Wenceslau. de. Moraes. (1854・1929)は,ポルトガルの. 海軍軍人で,明治末期に来日し,神戸・大阪総領事を務め,日本婦人と結婚,晩年は徳島 に住んだ。 30余年を日本で暮らし,日本文化紹介の著書を書いた。庭について「ときには 開け放った障子の向うに,気持ちのいい苔や樹木の枝に覆われて二,三の庭石が互いに重 なり合い,荒削りな自然の風景を縮写したような空想を起こさせる狭い小庭の緑がちらち らする」. (『日本精神』1925年,大正12年執筆)の述べている。モラエスは,. の風景は,神々の仕業のように美しく珍しい」。. 「日本の自然. 「日本は,優美な風習や芸術の天分でわれ. われを魅了する国」であるとも語っている。. (3)明治期 ラフカディオ・ハーン. Lafcadio. Hearn. (小泉八雲). (1850-1904)は,. 1890年(明治23. 年)バーバー誌特派員として日本の文化,思想,宗教,民俗,心理などを書くために来日。.

(11) 欧米(人)における日本庭園の写像. 85. 松江の中学校(島根県尋常中学校),熊本五高の英語教師,神戸で記者,. 1896年東京帝国. 大学講師, 1904年早稲田大学講師を務め,日本の文化を深く内面的に理解し紹介した人物 としてあまりにも有名である。 ハーンは日本の神社仏閣をよく見て歩いた。それほどではないにしても,明治の日本の 面影を伝える庭もハーンの好むものであったらしい。ハーンが日本の庭について語ったも ののなかには,日本人の感性を越えると思わせる見事なところさえ散見される。 ハーンが日本の庭園について語ったことを要約すれば,次のようになるかと思われるo 生け花と同じように微妙極まる感覚で作られ,自然と調和するように作られる。美しさ の要は天然の石である。日本の庭は(イギリス風景式庭園と同じような)一種の風景式庭 園だが,山水の庭である。 自然の景色がさまざまに移り変わりながら,歓びや厳粛の念を、恐ろしさや優しさを、 力や安らぎを感じさせるように,自然を模した日本の庭園は,美感ばかりでなく,魂の中 に何らかの情調を生み出す。さらに貞節,信心,平安などの東洋的観念を表すことが意図 されていることもある。. 仙洞御所の庭は,庭師と自然が長い歳月をかけて作り出した厳かさと美しさがある。 そこの小鳥にとっても俗世をはなれた楽園である。 わが家の庭(松江)には小鳥やとんぼが訪れ,蛙が鳴き蝶が舞い,蓮の葉に水玉がこぼ れ,美しい日本の詩情や四季の変化が楽しめる。その庭は,学校の勤めから帰ってくつろ ぐ場所である。その庭は塵界や文明を閉め出した世界である。しかし,急激な西洋文明の 摂取によって消え行く運命にある。一切のものは漫襲に入ると教える仏教が作った庭とも 感じられる。--. ハーンの美しい文が綴る日本の庭はたとえば次の通りである。 ト-・私は先頃公開になったばかりの広い庭園を訪れた。仙洞御所の御苑と呼ばれると ころである。. --私はまるで魔法をかけられた場所にでも足を踏み入れたような心地がし. た。. この庭は,自然の趣きを生かす風景式庭園の一つであり,仏教的な性格も備えている.. -・・・. この仙洞御所は,昔,俗世間の虚栄に嫌気のさした天皇や皇子達の宗教的な隠遁の場とし て建てられた僧院だったのである。門をくぐっての第一印象はt. イギリスの古い大庭園を. 思わせた。巨大な木々、刈り込んだ草、広い散歩道、爽やかな緑の匂い-イギリスを 思い出させるものばかりである。しかし,先-進むにつれて,これらのイギリス的な印象 はゆっくりと薄れて行き,それに代って正しく東洋風の印象が姿を現すo大木の姿は明ら かにヨーロッパのそれとは異なるし,様々の細部に驚くべき風変わりな特徴が見られるよ うになり,気がつくと,世にも珍しい形をした幾っもの橋で結ばれた小島や大岩の浮かぶ、 静かな池が目の前に広がる高台に出ているのである。はんの少しずつではあるが,その限 りない魅力ー仏教的な不思議な魅力が好ましく思えてくる。その古色蒼然とした趣は, 人に畏敬の念を起こさせる働きをする,美的感覚の琴線に触れるのである。 人の力によって成された面のみを考えてみても,この庭園は驚嘆に値する。庭園全体の.

(12) 岩. 86. 切. 正. 介. 骨格である,地形の概略を,巨大な岩を組み合わせて作り上げるだけでも,数千人の熟練 者を必要としたであろう。地形を定め,土を盛って木を植え,あとは自然の驚異が仕上げ を施すのを待ったのである。十世紀間の年月をかけて、自然は芸術家の夢を凌いだ いや,拡大して見せた。日本の造園の趣旨や習わしに疎い門外漢で,しかも正確な知識も 持たぬ者には,これらすべてがおよそ一千年昔にある人の設計したものだとは思いもよら ないことであろうo. ・・・・・・岩の表面,異様な形をした木の根,密蒼とした木陰に続く小道、 文字の刻まれた古い石碑など,すべてが厚い苔に覆われており,蔓植物の茎は伸びて厚さ -フィートはどにからまり合い,大蛇のように空中に垂れ下がっている。 ・・・・・・頭上から降 り注ぐ楽しげな小鳥のさえずりには驚くが,その声はまた,訪れる人達に,この俗世を離 れた楽園に住む野生の生き物達が人間に脅されたり傷つけられたりした経験の一度もない ことを,感謝をこめて告げているのである。残念ながらついに出口に行き着いてしまった 時,私はこの庭の番人を羨ましく思わずにはいられなかった。このような庭園で働くこと ができたら,それだけでも素晴らしい特権であろう」(ラフカディオ・--ン『明治El本 の面影』 227・229,明治27年。執筆は明治24年) 「ところで,日本の庭一般についてごく簡単に。 日本の生け花を少しでも学んだ後では--われわれ西洋人が『ブーケ(花束)』と呼ん でいるものを,花の野卑な虐殺,色彩感覚に対する凌辱,忌まわしい蛮行としか思えなく なってしまった。. --日本の古い庭がどんなものであるかを知った後では,わが西洋のど. んな賢を尽くした庭園も,思い出すと,自然を犯す不調和を創り出そうとただやみくもに 富を浪費し,それを誇示しているとしか思えなくなってしまった。 そもそも日本の庭は花の庭ではない。. --十中八九,花壇に類したものはない。緑が全 然なく,すべて岩と石と砂から出来ている庭もある。一般的にいえば日本の庭は山水の庭 である。. (以下要約)大きさは様々で,. 1エーカーでも数エーカーでもよく,はんの十フィー. ト四方の庭もある。床庭という鉢か箱の中に作られて狭い住居の中に置かれる庭もある (以上要約)0 きわめて重要なことがもう一つある。. -それは,日本の庭の美が分かるためには,. 石の美を理解しなくてなならない--ということだ。石といっても・-・・自然の力だけで形 作られた石なのだ。石に性格があり,石に色調,明暗(ヴァルール)があるということを 感じる-それも痛切に感じるようになるまでは,日本の庭の芸術的な意味のすべてが, 啓示されたとはいえない。. ・・--. (以下要約)寺院の参道,道傍,神社,墓地,公園や庭園. に,川床からもってこられた,水の摩滅でできた色々な形の自然石が,奉納牌,記念碑, 墓石や手洗鉢に使われ,個性や表情を持ちさまざまな気分や感情を暗示し想像力に訴える。 人手を加えた石よりはるかに美しい。天然石のなかには,何百ドルという美的価値を有す るものもある(以上要約)。大きな石はまた古い日本の庭の設計で、骨組み,ないしは枠 組みの役割を担っている。日本の庭の民間伝承について,私が語れることは実に微々たる ものだ。石とその名前,庭の哲学についてさらに知りたいといわれるなら,コンダー氏の 日本の山水庭園の造り方や日本の花の飾り方についての美しい本とをお読みいただきたい。 モースの『日本のすまい』の中の「庭」についての一章も短いながら,魅力に富んでいる」。.

(13) 欧米(人)における日本庭園の写像. 「(以下一部要約)日本の庭の芸術的な意図は,本当の風景を忠実に模写して,現実の風 景が与える現実的な印象を伝ようとするにある.一幅の絵であり,. -編の詩でもあるが, 絵よりも詩の方にいっそう近い。自然の景色が,さまざまに移り変わりながら,歓びや厳 粛の念を,恐ろしさや優しさを,力や安らぎを感じさせるように,山水庭園の中に景色が 忠実に反映されれば,美感が喚び起こされるだけでなく,魂の中に何らかの情調が生ぜず にはすまない。昔の造園師であった仏僧たちは,庭作りを秘術のようなものに発展させ, 理論をさらに一歩押し進め,庭の構図で道徳上の教訓を表現し,貞節、信JL、、敬度、知足、 平静、夫婦の幸福といった抽象観念をも現しうると考えた。それ故造園の設計は,詩人, 武士,哲人,僧侶等,その庭の所有主の性格に合わせてなされることとなった。そうした 古い庭では(悲しいことにこの造園術は,まことに陳腐な西洋趣味の影響を受けて衰退し, 急速に消滅しようとしている)自然の情調に加えて,人間の情調の或る珍しい東洋的観念 も同時に表現されているのである(以上一部要約)」。 「わが家の庭の中心となる区画がどんな人間の情感を映そうとしたものかば,分からな い。. --しかし庭を一遍の自然詩としてみる時,それは解説者を必要としない。庭の主要 部分は--南向きの位置にある。 ‥-・南の庭には苔蒸した大きな石が幾っか据えられてい る。水を容れておく奇妙な形をした石の鉢が三つ四つ。年経て緑色に変じた石灯寵も幾つ かあるし,お城の屋根の尖った角に見られるような鰻もーつある-大きな石の魚,い わば想像上の海豚が鼻面を大地につけ,尾を空中にはね上げているのである。古い木の茂っ ている小さな山もある。草の生えた長い緑の斜面もあって,そこには花をつけた潅木が影 を作っていて,川の土手を思わせる。緑におおわれた築山は小島のようである。すべてこ れら緑の小高い山々は,絹のように滑らかで,川の湾曲蛇行を模した、黄色味を帯びた砂 の斜面から盛り上がっている。この砂地は踏んではならぬ。足を踏み入れるには美し過ぎ るのだ。填一つあっても折角の印象が台なしになってしまうだろう。完壁な状態に保って おくためには,この土地の経験豊かな庭師の腕が要る-この人がまた惚れ惚れするよ うな老人なのだ.しかしこの砂地は特に切り削りをしていない平たい石を伝って,色々な 方向に横切って行けるようになっている。この踏石はまた,いささか不規則な間隔で据え られていて,まさしく小川の飛び石という感じがする。全体の趣は,どこかわびしく眠気 を催すような,美しい場所を音もなく流れる川の岸辺に身を置いているかのようである」。 「この幻想を破るものは何もない。それ程この庭は塵界を離れている。高い塀の囲いが 街路と近隣の世界を閉め出している。境界に近くなるにつれて高くまた密生した茂みや樹 木が隣の家中屋敷の屋根さえ見えないようにしてくれている。日の射している砂地に映っ た木の葉の影がかすかにふるえて,心和らぐ美しさだ。暖かみを帯びた風がそよぐ度に, 花々の香りがはのかに漂い、蜂の羽音も聞こえて来る」。 「北側にある第二の庭は私のお気に入りだ。. (以下要約)小さな池,小さな島,小さな山々,. 小人のような桃の木,松,つつじ。一世紀以上の歳月を経ている木もある。島に石灯寵。 岸辺に平たい大きな石。そこから池を眺める。岸辺に鮮やかな董色の花が咲くあやめ。そ の他様々な鑑賞植物や羊歯や苔。池の蓮が最大の妙趣。葉がはぐれ,花が咲き,落ちる過 程が目を楽しませる。雨の日の蓮もよい。葉にたまった雨水の重みで柄がたわみ,水を池. 87.

(14) 岩. 88. 切. 正. 介. にこぼし,またまっすぐになるo蓮の葉の上を滑っていく水の動きと色は,水銀のようだ」。 「第三の庭はたいそう広く,. (以下要約)北と北東の境界に当たる木の繁った小高い山々. の麓まで達している.北東の-角に井戸があり,竹筒で家まで冷たい水が引かれる.北西 の隅の嗣o家の東側にあたるこの広い庭の一角には菊作りに当てられた耕地がある」o ハーンは,庭の生物を,四種類の蛙,いもり,水生の甲虫,一匹の亀,蛇,鳶と烏,煤, 蝉,鮮やかな美しい色をしたきりぎりす,とんぼ,二種類の蚊,. 「さねもり」 (稲の害虫),. 蛾,かまきり,さまざまな色をした甲虫,美しい蛍,蜘妹と挙げ, 「庭の後の小山をおおう高い木立には,たくさんの烏たちが棲み,野生のうぐいす,ふ くろう,野鳩,それから烏はうんざりするはど多く,それに夜,ホーホ-と低く長い,不 気味な声で鳴く奇妙な鳥もいる。はととぎすもいる。とんびもきて---魚を掃ったり裏庭 で盗みをはたらく。山鳩の鳴き声は,はとんど毎日のように森から聞こえてくる。野生の うぐいすもしばしばその歌で私の夏を楽しくしてくれる」という。 「毎日,学校のつとめを終えて帰って釆て,教師用の制服を格段に着心地のいい和服に 看がえた後,私は庭を見下ろす縁側に目蔭にくつろぐ。. --古風な庭の塀は町のざわめき. を閉め出す。. ---電信、新聞、汽船といった、変貌してしまった日本の喰りも閉め出して くれる。内側にはすべてに安らぎを与える自然の平安と-六世紀の夢とがまだ残っている。. --風変わりな石にふれる,ふるえる木々の枝葉から漏れる夏の日射しは優しい幻の愛撫 のように感じられる。この庭はみな過去の庭なのだ。未来はこれらの庭を夢として知るだ けだろう。忘れられた芸術の所産であって,その妙なる美を再現することは.どんな天才 をもってしても,もはやかなわない。. これらすべてが一古い家中屋敷もその庭もー永遠に消え去ってしまうのにそう長 い歳月は要しないであろう。すでにわが家の庭よりもひろくて美しい庭が数知れず田んぼ や竹やぶに変わってしまった。そして古風は出雲の町も,長い間の懸案だった鉄道が…たぶんあと十年ど待たずして一関通すれば,膨張し,変貌し,月並みの町になって, この地所を工場や製作所に転用せよと言い出すだろう。ここだけではない,日本の全土か ら,昔ながらの安らぎと趣が消え去るのは免れぬ定めらしい。無情は事物の本性であって, 日本では殊にそうなのだから。時移り人も変って,すべてはこの世から消滅してしまう -愛惜もまた空である。この一画の美を創り出した今はなき芸術は,あの万物に慰め を与えて止まぬ経文の一節, 『革も木も,岩も石も,まさに一切連繋に入るべし』を奉じ ている宗教が生み出した芸術でもあったのだった」. (『神々の国の首都』 284-328。明治27. 年,執筆は明治24年)0 ここに描かれているわが家の庭とは,明治24年6月から借りて住んだ松江城近くの静か な屋敷町にあった松江藩士百石の根岸家代々の屋敷と庭である。. コンドルの『日本の庭』 (1893,明治26年). Landscape. Gardening. in. Japan. は,初め. て欧米人に本格的な日本庭園の姿を伝えることになった画期的な名著である。本文は156 ページ(挿絵多数)で,巻末に写真40葉が付されている。 ジョサイア・コンドルJosiah. Con°er. (1852-1920)はイギリスの建築家で,. 1877年(明.

(15) 欧米(人)における日本庭園の写像. 89. 治20年)工部省技術官・工学寮教師として来日,日本の西洋建築を指導した。鹿鳴館,ニ コライ会堂,旧東京帝室博物館など多数の作品があり,その功績は大きい。庭園では,旧 古河庭園や三井倶楽部の庭園の洋式部分が残っている。東京で没した。ちなみに,西洋で は,ひとりで建築家と造園家を兼ねることが珍しいことではなかった。コンドルもこの伝 統のなかにいたのであろう。コンドルの記述からは,コンドルがイギリス風景式庭園(と くにケント)や中国の庭(チェンバーズの紹介)の知識を基礎にもっていたことが伺える。 --ンも推しているこの『日本の庭』のおよその内容は,次のようにまとめられよう. 日本の庭園は日本の風景を再現した(模した)ものである。各地の名所や有名な景色が 手本(模範)とされる。植物の自然な生育の姿や植生(生えているところ)がよく観察さ れ,それが細かな点まで庭造りに再現される。. (庭の)人手をかけた小山(丘),岩,池,. 渓流や滝は日本の風景の中にあるものを写している。 自然の風景を模すといっても,生け花や日本画と同じように,よく考えて選択し,変形 して,再現する[基本性格]。 日本の庭は自然風景式といっても,イギリス風景式の庭園や中国の庭とはいささか異な る.日本の庭は,広さ(大きさ). unity,釣り scale,縮尺proportion,統一(まとまり) 合いbalance,一致(適合,合うか合わないか) congruityなど美学的な規則に従って構. 成され,芸術的な休息(安定)と調和artistic. repose. and. harmoⅢyを生み出すように配. 慮される[造園の原理。目的,目指すもの]。 水墨画,茶の湯,生け花,庭園は,独特の哲学(世界観,人生観,思想). quaint. ophyのなかで営まれ,日本の庭園は(上に述べた美学的な原理と同程度に)その倫理(管 理)に支配されている。これらの諸芸術を営んだのは,賢人,詩人,哲学者である[世界 観の空間,思想の空間,哲理の空間]。 日本の庭園には,詩歌や物語の盛り込みも見られる。日本の庭は,部屋,辛,棉,石 のうえなどからの眺めがいいように造られる。借景である。. 庭師は弟子にこう教える。 ・自然の風景を異なる地点から描き取る。洗練・変化させて庭に作る0 ・土地(地形,傾斜,起伏)をよく吟味する。隣り近接地の眺めを頭に入れる。すでに ある川,滝,蘇(木立),丘の利用をはかる。 ・すでにある庭園,とくに名園の見学。 ・そして,構想を立てる。 コンドルのこの本では,池,滝,石組,築山,棉,飛石,辛,樹木,花,灯寵,手洗鉢, 井戸,垣,仏塔などについて個別の説明があり,西洋の庭園史,日本の庭園史それぞれの 略史,日本庭園の分類(形)も述べられ,有名(代表的)な日本の庭園の概略記述があり, その部分では,現在は消えてしまった江戸最大の池泉回遊式庭園であった徳川尾張藩の戸 山囲も取り上げられている。巻末の写真40葉は,有名な庭園の紹介と造園の細部,例えば, 他の眺め,棉,石組,樹木の配置や植え方,滝の作り方,枯山水などの例示のために掲載 されており,写真に見えるのは,当時の不忍池(東京の上野),松島,石山の滝と急流 (琵琶湖),天然の滝(箱根のたますだれの滝),浜離宮,吹上御苑,京都御所の庭,金閣寺. pbilos.

(16) 岩. 90. の庭,銀閣寺の庭,. Tokusui-In. 切. (Kioto) [東本願寺],小石川後楽園,滝(小石川. Garden. Satake-no-Niwa. 後楽園,赤坂離宮),大名庭園(本庄,水戸藩), (深川),小石川植物園, 階級の庭(深川). Tsuyama. Garden. [清澄園],茶庭(深川). 川),公園,茶庭(王子),. 介. 正. (本庄),. Hotta-no-Niwa. (Daimio, Tokio),駒込の庭園[六義園],上流 [清澄園],上流階級の庭(番町),豪商の庭(潔 (Negisi,茶庭),寺院の庭[日光,大日堂?. Okano-no-Niwa. 兼六園,岡山後楽園,京都本願寺の蘇鉄の庭,青森の商人の庭,仙厳園(鹿児島), no-Niwa. 日本文化・文学を研究紹介した日本学看で,. は,. Sirase-. (Niigata),庭の岩(根岸の茶庭)などであるo. ル・チェンバレン. Japanese. ],. Basil. Hall. Chamberlain. --ンを松江中学に斡旋したバジル・ホー (1850-1935)の事典『日本事物誌』. Things. (1890,明治23年)にも庭園Gardensの項目があり,増補第六版(1939年)で. 225-227頁に記述されている。なお増補は1927年の版からで,ハーンが読んだ版はお. そらく第一版であろう。 以下チェンバレンの庭園の記述である。 ・日本では花のない庭も多い。. ・パーク[西洋の広い自然風景式庭園]のような風景庭園で,有名な自然の景色を連想さ せるように作られる。 ・優れた園芸技術で花をさかせるが,花は季節が終わると片付けられる(フラワーショウ に似ている)0 ・盆栽も優れた園芸技術の産物である ・根回しの技術で,大木でも遠隔地に運んでいくことができる。したがって,日本の新興 階級は,どこにでも先祖代々からあるような庭を作ることができる。 ・日本の風景庭園は,一つの芸術fine ・. 1. artである。. 5世紀の半ばから,親方から弟子へ次々と教え継がれた庭の作り方は洗練に洗練を重. ねられ,芸術であると同時に秘術と考えられるようになった。素人には分からない複雑 で難解な言葉で語られるに至った。 ・石灯龍,手水鉢,垣,石など庭を構成するものには実に多くの種類と名前がある。 ・大きな石[石組]によって,庭の骨格を作るものと考えらている。 ・細部についてもいちいち規則がある ・規則は流派により全く逆になることもある。ある流派では,築山を庭の手前に作り,輿 に小さい築山を配して,庭を実際より大きく見せようとするが,ある流派では,築山の 大小の前後が逆になる。 ・暗示の方法はよく使われる。小池の一部を隠して,大きい池であるかのように思わせる。 また砂利を敷いて川を表すものと考える。何事にも難しい理由がっけられている。 ・庭は,平安peace,貞節(あるいは清純,簡素などと訳すのであろうか) 年old ageなど,抽象観念を象徴的に表することもできると考えられている。. chastity,老. Daita ・ある寺にある,はとんど石だけで作られた小さな囲われた庭は,ダイタ 高僧が岩山に登り集めた石(複数)に仏の教えを説くと,石(複数)が恭しく首をたれ. という.

(17) 欧米(人)における日本庭園の写像. 91. Nodding. たので,自分の周りに据え,仏性のあるうなずきの石. Stones. とした伝説に. ちなみ,仏の教え(真理)の力を表したものだと言う。 ・径,橋,築山,石灯寵,その他すべてを備えた風景庭園をそのまま縮めて鉢か盤の中に つくった庭もある。箱庭hako-niwaとよぶ。奇抜な玩貝と言うべきか。 ・農家の屋根(棟)が花壇のようにみえることがときどきある。平らな場合,よくあやめ か赤いユリの花で覆われている。疫病除けのためだという人もいるし,偶然だという人 もいる。藁葺きを強くするためだという意見を述べる者もいる。おそらく最後の意見が 正しいのであろう。. このような記述に,まとまりのなさを感じるのは私だけであろうか。非歴史的で断片的, 羅列的であり,誤解,さらに不十分な理解と知識も感じとられる。関心の浅さも。ただ, ハーンが受け売りしたらしい所が数箇所わかるのがおもしろい。. エドワ-ド・. し』 Japanese. S.モース Homes. and. Edward Their. が挙げている本である.庭は,. Sylvester Surroundings. Morse. (1838・1925)の『日本の住いと暮ら. (1886年,明治19年)は,やはりハーン. 「第六章庭園」として,. 272-295. (全23頁)で扱われ,. 27の. 挿絵が付せられている。石碑,石組,石灯寵,橋,園亭,池,園径,花木,盆栽,鉢植と いった庭園の要素に加えて庭園例が,簡潔適切に説明記述されている。井戸や垣は別の所 で扱われている。記述の資料は,自らの見聞と江戸時代の『築山庭造伝』 Teizoden. Chikusan. (前編は1735年北村援琴,後編は1823年鮭島軒秋里の手になる)であると思われ. る。日本の庭園として,枯山水があることも述べられ,典型的な庭園の例として,寺の小 さい庭,商家の庭,大名の庭の3例を『築山庭造伝』から挿絵で紹介しており,全体とし て均整のとれた構成になっている。 モースは,明治日本の和風の住いのなかに,アメリカではみられない,自然と人工の融. 合や装飾と簡素との巧みな調和を見た。庭園もやはり同じ特徴を示していると捉らえたこ とが伺える。モ-スは,日本の庭について次のように語る。 アメリカの庭は,広いものではフランス様式であるか,単に整形の花壇で造られており, 住宅の庭は潅木と花で造られるが,潅木には混乱,花にはただ種類の多さだけが見られる。 最近の傾向として,花々の間の調和を諦め,緑一面の芝生にして,庭の手入れはただ芝刈 機を押すだけになってきている。緑の芝生の庭,この単色の庭は,しかし,無能と無知の 証明ではないか(同書273)0 日本人は,様々な色と形をした石と岩を用いて庭を飾るのが好きで,百ドル以上する赤 い色の高価な石もある。庭造りの本では,石組と石の置き方について,詳細な説明がある のが普通である。. 園亭の窓はふつう南側に造られ,つる華や木の葉で太陽を遮るようになっており,木漏 れ陽がきらめく様子はいいようもなく美しく魅力的である。 東京の吹上御殿の庭では,素晴らしい風景庭園の楽しみが味わえる.緑の芝生の平地か ら他の橋を渡り,渓流と滝がいかにも自然に造られている渓谷の樹下の径を登り,築山の 頂きにでると,園亭があり,前方に美しい富士山の姿が目にはいる。登って釆た方を振り.

(18) 岩. 92. 切. 正. 介. 返ると,びっくりする。今登ってきた渓谷がみえない。足元から緑の平面が遠く下の芝生 に連なっているのである。一瞬,自分はどこにいるのかという気に襲われるo樹木の頂き が刈り揃えられ緑の平面になっているのである。しかし,この方向へ少し進んでみると, 樹の透き間から今登ってきた急峻な渓谷が覗かれる(同書283-284)0 モースはこの吹上御殿の庭の記述のなかで,. landscape-gardeningや. (形. picturesque. 容詞としてforest-pathにつけている)というイギリス風景式庭園とともに出現した語嚢 を使用しているo 以上,短いものだが,モ-スの記述の中には,日本庭園に寄せた共感と理解がよく感じ られる。. ジョン・ラファ-ジJohn. La. Farge(1835-1910)は,アメリカのジャポニズムの画家. で,東洋思想に救済を求めたアメリカ知識人のひとりに数えられる。老荘思想や連繋に関 心があったラファ-ジは,明治19年来日し,三ケ月滞日した。日光に滞在した後,鎌倉, 岐阜,京都などを旅行し,帰国後『画家東遊録』(1897)を書いた。ラファ-ジに「日光 での家の庭の滝」. (1886,明治19年)という絵がある。その絵には,岩壁を流れ下る滝の. そばに観音様が描かれ,老松や楓などの生えた岩壁の後の空の一点から光が射している。 その光は仏の慈悲の光とも考えられる。すると,絵は仏教の連繋の境地を描いたものとの 解釈もできるという。さらに,庭と自然の一致(老荘思想の道)を描き込んでいるように も見えるので,. 「JL、の庭」の風景を表した絵かとも思われる(『アメリカのジャポニズム』. 161-165)。この絵に描かれた庭と背景は,連れ立って来日したダムズともに,日光で仏僧 から借りた家で「私たちの家は新築の二階建てだが,家主の家は屋根が大きくて古く低い 家で,脇の一棟の亭が小さな庭にせりだしていた。家主の家のうしろには岩と塀が高く奪 え,頂きには柳,松,楓,それからその葉が皇室の紋章になっている桐などが植えてある。 小さな滝が岩に流れ落ちて来て,庭と風呂の水を供給してくれる」. (『画家東遊録』. 33-34). と描かれている。家主の家と借家と小さな庭は,大きな山の斜面にあったようだ。背後に 社森と岩壁を背負い,岩壁を滝が三段で下り,滝の左右に大きな桐と柳,岩壁を背景に老 松が数本。岩の窪みに嘆くピンクの蹄踊が滝を受ける池を紅に染める。弛は菖蒲に縁取ら れ,三枚の大きな板石が渡されている.庭の隅は苔.豊かな自然の懐に抱かれた庭から東 照宮の塀の端や男体山が見えたという(同書87-88)0 とができ」. 「日本の庭園は僅かな素材で造るこ. 「ときには,砂と二,三の石で無限の理念を現す」。庭を切り詰めて造っても,. 自然を参考に想像で補う。日本人は,そのものを扱えないときは,絵にする.日本人には, 縮小されたものは不自然ではないが,西洋人の眼には矯小だと映る。これは中国の伝統が 日本で単純化された結果であろう。日本の庭は,自然を抽出したり,伝統や歴史に基づい て造る。だから連想による思想表現もできる。「聞くところによると,西洋の想像力では ちょっと把握できそうにない微妙な意味,たとえば平和と純正、平穏な老境、結婚の幸福、 孤独の愉しさなどをさまざまな様式で表現しようとする」. (同書89-90)。ラファ-ジは. 「最近モース教授の好著」で日本の住いの単純性が考察されている,という。ラファ-ジ がモースの本やチェンバレンの本で日本の庭の知識をえたことが想像される。ラファージ.

(19) 欧米(人)における日本庭園の写像. 93. は,日本の家屋,天皇の宮殿から庶民の家すべてに共通する単純さ,すばらしい清潔さを 称え, 「何もないようにみえるが,必要なものはあって,その配置は洗練されている。日 本の住いは「ある-つの理想. -. 僅かなもので満足するという理想を主張」しており,そ. れ故に「気品のある外観」を示し,アメリカの骨董品で飾り立てた客間やあらゆる独裁者 の宮殿の華美とは別世界のものである。「私もアメリカに帰ったら,ごたごた並べた部屋 にますます嫌気がさして,美的な民族が保持してきた,この遥かに文明化された空虚さを 懐かしがることになるかもしれない」(同書90-91)と語っている。後の昭和のタウトを連 想させる。 『画家東遊録』は手紙の形式で書かれているから,西洋文明の中にいる人々へ のラファ-ジのメッセージという色合いがある。. ギメ. Emile. Gnimet. (1863-1918)は,フランス人実業家(染料,船舶,化学製品などの. 工場を営む)で,幅広い関心と教養の持ち主で,とくに社会問題の解決という点から,秦 洋の文化,思想,宗教に関心があり,直接,現地を踏み現地の人々と接したいとの希望か ら,明治9年,挿絵画家のレガメと来日し,三ケ月間滞日し,横浜,日光,東京,京都な どを訪れ,多くの寺で僧侶と会った。帰国後,リヨンに東洋語学校,ギメ博物館(現在パ リ)を創設した。 「家屋も庭も芸術」. ギメには日本の自然の風景と庭園が気に入ったようである。. 「風雅な. 庭が絵のように作られ--光が美しくあたるように配されている。その上あらゆる細部が 我々を驚かし魅了する」. (『日本散策』1878,明治9年)。日光へいく途中で宿泊した宿屋. の庭について「部屋の前に,小さいが趣のある庭がある。縮小した大自然。これは言うこ とのないはど非常に風情がある」. (同書132) [旅館朝寓(あさよろず)とのこと。埼玉県. 北葛飾郡幸手町に庭とともに現存(同書訳注174)] レガメ. Felix. Regamey. (1844-1907)は,フランス人挿絵画家でt. ロンドン,ボストン. などで活躍。ギメに同行して,明治9年に来日した。レガメも日本に好意的で,日本人は 「自然を愛し取り入れることが巧み」で,日本は「芸術的で詩情豊かな優しさに満ちた国」 (手紙1876,明治9年)と述べている。パリ市の視学官にもなったレガメは,. 1899(明治. 32)年,日本美術教育視察のために再度来日し,この時も3ケ月滞在した。これをもとに 旅行記『日本』 (出版年は不明。. 1903年以降。翻訳書では『レガメ日本素描旅行』という. 題)を書いた。日本に関係の深い小説,劇も書いている。. 1900年にはパリの日仏協会の事. 務局長になった。 『日本』の中に庭園が出てくる。横浜で通訳を務めてくれた女性(パリ留学の時に知り 合いとなった)の家の「広くない」「庭に足を入れると,魅力的な光景がたえず目に映ず る。この景色を構成している樹木や岩,石やブロンズの小建築物は, ど小さい。すばらしい釣り合いの感覚が,その配置にみなぎっている」 この『日本』のなかに庭園の挿絵が1 名園』 [不詳]から取ったもので,. ・・・・・・信じられないは (『日本』220・221)0. 2点はど載っている。本人のスケッチと『京都の. 『京都の名園』から金閣寺,銀閣寺,修学院,岡崎公園,. 等持院と衣笠山,金地院を選んでいる。. 「自然の諸要素の選択と配置に」細心の注意が払. われ,それら「自然の諸要素は,池や曲がった小川を特徴とする人工の風景を構成してい.

(20) 岩. 94. 切. 正. 介. る」 (『E]本』280)0 「日本の庭師は,季節によって互いに引き立っように,樹木の大きさ,. 色合いを組み合わせ,また太陽や月の光が枝に当たることも考慮する(『日本』. 280・281)。. 本人が「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」に寄せた吹上御苑のスケッチも載せ, 書中で「堂々とした杉が,あらゆる種類の樹木や,岩や,滝などの間に点在している。. --・. 眺め入ると実に美しい光景で,日本の風景はすべて人工的でさもしいと軽率に非難される が,この光景には,そんな様子は微塵もない」と述べている(『日本』. 281)0. レガメは東海道線の開通(1887)について,昔からある実に多くの樹が切り倒された, と残念がっている。景観や風景の保護にいまから心掛けるべきであろう。日本は自然の美, 芸術の美が豊かである。スイス,フランドル,イタリアのように観光で利益をあげること もできる。北アメリカには美しい自然とバイソンを護る広大な国立公園がある。. 「優しさ. と美しさの帝国である日本は,地球上のあらゆる国の人々の平穏な出会いの地となり得る であろうし,世界の庭となるのに,よい立場にあるのである」という。これが『日本』を 締めくくる言葉である(『日本』. 282・283)0. アントワネット・オシコルヌ[不詳]という女性は,. 「日本を訪れる外国人にとってもっ. とも心に深く印象に残るのは日本の庭園である。その優雅な美しさば,初めて目にする人 工の丘や,小さい飛石が向う岸までつながり,島まで浮かんでいる池などが醸し出すので ある」. (明治9年頃?)という言葉を残している(『日本の開国』. 明治期の最後にブスケGeorge. Hillaire. Bousquet. 74)0. (1846-1937)という人物の庭園観察. に触れるべきかと思われる。明治5年にいわゆる御雇外国人の法律家として来日し,ボワ ソナードやアペルとともに我が国の法学教育や法制度の近代化に大きな貢献をした。明治 9年にフランスに帰国し, で,来日した時は,. 『日本見聞記』(1877,明治10年)を出版した。来日前は弁護士. 26歳(一説に29歳)であった。ブスケはヨーロッパの観念から日本の. 社会と文化を眺め,一般に違うというより劣るものとみたようだ。庭園の理想についても, ヴェルサイユやフォンテーヌブローが頭にあり,日本の庭は,みすぼらしく小さい,息が 詰まるようだ(同書677-678),自然の剰窃,改悪(同書679)であるという。日本では, 自然そのものがそもそもみすぼらしい。建築も,盲目的な外界の模倣,しばしば拙劣な模 写である。精神主義的・理想的性格,秩序,調和の反対物である(同書681).ブスケの基 本的な考えはこうである。. 一自然はもともと無秩序である。調和や秩序を示さない。人 「芸術家は自然を写すのではな 間が自分の奥底から秩序と調和の観念と法則を引き出すo い。自然を造り直すのであり,建て直すのであり,説明するのであり,追い越すのである」。 可視的な世界で「象徴やモデル」となるのは「人間の身体のシンメトリー」である。とこ ろが中国や日本の芸術では,自然の光景の無批判的な賛美に終わる。理想的法則あるいは 永遠の法則[これは人間が考え出す]を作品化しようとしない。混沌のなかに調和をふた たび打ち立てようと欲しない。模倣だけで十分なのだ(同書644・655)0 自然と人間を対立的に置き,人間の理想(理念)で自然を造りしたものが,芸術(建築 も庭園も)である,というこのブスケの立場はいかにも西洋的で,おそらく当時の多くの.

参照

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