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デジタル映画論 PART Ⅱ : クリント・イーストウッド『15時17分、パリ行き』

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Academic year: 2021

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デジタル映画論 PART ? : クリント・イーストウッ

ド『15時17分、パリ行き』

著者

柴田 健志

雑誌名

鹿児島大学法文学部紀要人文学科論集

86

ページ

117-125

発行年

2019-03-13

URL

http://hdl.handle.net/10232/00030449

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一一七 ものになっている。つまり、この英雄的な行為がなされるにいたった3 人の人生を再現した上で3人のヨーロッパ旅行が描かれる構成になって いる。ルガー ・ セミオートマチック拳銃と300発の銃弾およびドラコ ・ セミオートマチックアサルトライフルで武装したテロリスト、アイユー ブ・ハッザーニと素手で格闘したスペンサー・ストーンを中心に3人の 成長が描かれるのだ。   イーストウッドの意図は、この英雄的な行為がなされた理由を彼らの 人生から示そうというものだろう。この3人を演じているのは彼ら自身 だ が、 子 ど も 時 代 ま で 本 人 が 演 じ る わ け に は い か な い。 当 然 の こ と な がら、本人たちとは関係のない子役が演じている。リチャード・リンク レ イ タ ー の『 6 才 の ボ ク が、 大 人 に な る ま で 』( 2 0 1 4) の よ う に、 10年以上かけて子どもの成長を撮影するようにはじめから計画された 映画ではないからだ。だから、子役によって演じられた少年時代の3人 と本人たちとのあいだの人格の同一性を観客がどこまで信じることがで きるかという点が、映画のリアリティーにとってはすごく重要だ。子役 が演じる人物と本人が演じる人物は現実には同一の人格ではないことが 分かっているのに、観客はそれらを同一の人格として見ようとする。そ れが映画の約束だから。したがって、映画を作る側はこの約束を破らな いようにしなければならないはずだ。つまり、観客が人格の同一性を信 じ込めるような演出がなされなければならないのだ。この映画を読み解 くときにイーストウッドの演出が興味の焦点になるのはそのためだ。ま た、この映画がデジタル撮影されたという点もイーストウッドの演出と 同じくらい重要だ。イーストウッドの演出とデジタル撮影の関係は前回 の「 デ ジ タ ル 映 画 論 」( 柴 田 2018 ) の テ ー マ だ っ た が、 今 回 も 同 じ テ ー

デジタル映画論

PART

  

クリント・イーストウッド

『15時17分、パリ行き』

 

 

 

 

はじめに

  2018年に公開されたイーストウッドの最新作『15時17分、パ リ行き』は実話にもとづく映画である。2015年8月21日、高速列 車タリスに乗車した554名の乗客を標的にしたテロリズムが3人のア メリカ人青年による英雄的な行動によって阻止された事件である。アレ ク・スカラトス、スペンサー・ストーン、アンソニー・サドラー。この 3人は少年時代からの親友だった。3人で出かけたヨーロッパ旅行で偶 然テロに遭遇し、それを阻止したのだ。   『15時17分、パリ行き』の主役は当然この3人である。ところが、 驚くべきことは、映画の中でこの3人を演じているのは彼ら自身だとい うことである。本人だからこそリアルである。それがこの映画の最も魅 力的な点だ。   こ の 映 画 は 3 人 の 英 雄 的 な 行 動 を 描 い た も の だ。 し か し、 オ ラ ン ダ からパリに向かう列車の中での出来事を描いた部分は30分足らずであ る。残りの1時間半ほどはこの3人の少年時代から現在までを再現する

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柴    田    健    志 一一八 ら子どもたちの性格が読みとれるように演出されているのだ。3人とも 悪い子どもではない。だからといって、優等生とはいえない。優等生と は大人が設定した規範に従うことのできる子どもなのだから。それは行 為に対する評価であって、性格に対する評価ではないのだ。しかし、教 師が見なければならないのはむしろ性格だろう。3人はそれを見てもら えなかった。イーストウッドは演出によって観客にそれを見せているの だ。演出の焦点は、本人たちの現在の性格と子役によって演じられる少 年時代の彼らの性格とのあいだにつながりを作り出すことにある。なぜ な ら、 人 間 は 身 体 的 な 特 徴 よ り も む し ろ 性 格 を 基 準 に し て 他 人 の 人 格 の同一性を判断しているからだ。実際、近年の道徳心理学の研究によれ ば、人格の同一性の判断基準となるのは道徳的な観点から見た性格であ る( Prinz & Nichols 2017; Strohminger & Nichols 2014; Strohminger & Nichols 2015. )。ロック ( Locke 1975: 344-345 ) からパーフィット ( Parfit 1984: 204-209 ) に 至 る 哲 学 の 伝 統 的 な 理 論 で は、 人 格 の 同 一 性 の 判 断 基 準は「記憶」であると考えられてきたが、実際にはそうではないという ことが心理学によって実証的に明らかになりつつあるのだ。   しかし、映画を作る人間は心理学者よりずっと前からこのことを知っ て い た。 例 え ば、 ハ リ ソ ン・ フ ォ ー ド 主 演 の『 心 の 旅 』( 1 9 9 1) の も と に な っ た『 心 の 旅 路 』( 1 9 4 2) で は、 戦 争 後 遺 症 で 記 憶 喪 失 と なった男(ロナルド・コールマン)が病院を脱走してしまう。行方が捜 索されるが、ある女(グリア・ガーソン)が彼を田舎の家に匿い、2人 で生活を始める。ところが男が1人でロンドンに出かけた時に記憶が戻 る。男は自分の家に帰り実業家としての生活を再開するが、女との生活 の記憶を喪失する。これを知った女は男の会社の秘書となって記憶が回 マでイーストウッドの最新作を考えてみよう。

 

性格

  アレク・スカラトスとスペンサー・ストーンは同じ公立学校に通って いた。教師たちの評価はよくなかった。授業に集中することができない という理由で、彼らの母親は学校に呼び出される。映画の始まりのシー ンである。2人の母親、ハイディとジョイスはともにシングル・マザー だ っ た。 そ れ で こ の 2 人 は 気 が 合 っ た。 家 も 隣 同 士 だ っ た の だ。 「 シ ン グル・マザーのもとで育った男の子は、統計的には問題を起こす傾向に あるんです」と教師は2人に向かって決めつける。注意欠陥障害だとい うのだ。しかし、行為が悪いからといって性格にまで問題があるとは限 ら な い。 こ の 教 師 に は そ れ が 分 か っ て い な い。 「 先 生 の 仕 事 を 楽 に す る た め に、 私 が 子 ど も に 薬 を 飲 ま せ る と 思 っ た ら 大 ま ち が い で す 」。 こ う 言い放ったのはジョイスだ。二人はそろって教室を出て行く。イースト ウッドらしい演出だ。 教師は子どものいったいどこを見ているのだろう。   その後、2人の少年はクリスチャンの私立学校へ転校する。そこで出 会ったのがアンソニー・サドラーという黒人の少年だった。アンソニー は「クール」なやつだった。いつも悪態をつくのでそのたびに校長室に 呼び出されていた。しかし、父親は地元サクラメントではよく知られた 牧師だ。3人は気が合った。アンソニーの家は離れていたがよく3人で 遊んだ。ペイントボールガンを使ったサバイバル・ゲームだ。このゲー ムの様子はじつに丁寧に演出されている。3人はルールに則ってゲーム を楽しんでいる。決して本気で相手を傷つける気はない。このゲームか

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クリント・イーストウッド『15時17分、パリ行き』 一一九 過去が作り上げる。そして性格はその人間の未来を決定している。同じ 状況に直面しても、 それにどう対応するかは性格によって異なるからだ。 この意味で人間の未来は過去の中にあるといってよいだろう。   スペンサー・ストーンをはじめとする3人のアメリカ人青年が、重傷 を負ったひとりの乗客の救出に成功し、武装したテロリストを制圧する という英雄的な行為を成し遂げた理由も、おそらく彼らの過去の中にあ る。だからこそ、 映画はそれを再現しなければならないのだ。ところが、 3人の少年時代には後の英雄的な行為を予感させるものは何もない。─ ─何でもないことで3人そろって校長室に呼び出される。教師に眼を付 けられたからだ。 それでますますやる気がなくなる。 彼らが唯一好きだっ た科目は歴史だった。歴史の教師がノルマンディー上陸作戦など、有名 な 作 戦 の 話 を い ろ い ろ 聞 か せ て く れ た か ら だ。 3 人 で『 プ ラ ン ベ ー ト・ ライアン』 (1998)を見て、それをサバイバル・ゲームで模倣した。 しかし、楽しい時間は長くは続かない。アレクは父親の住むオレゴン州 に引越。アンソニーは公立学校に転校。スペンサーが1人残されたこと になる。少年時代の話はここまでで終わり、映画には本人たちが登場す る。   その後、アレクはオレゴン州軍に入隊。アンソニーはカリフォルニア 州立大学サクラメント校に入学。スペンサーはといえば、大学へも行か ず、スムージーの店でバイトをしていた。将来の展望など何もない。と ころが、 店の前に募兵センターがあり、 軍人がよく店にきた。スペンサー は軍人の1人と話したのがきっかけで米国空軍パラレスキュー部隊に入 隊する意志を固める。 人生ではじめて本気になって何かを目指したのだ。 入隊試験に合格するために身体改造にとりかかる。1年後、体力試験に 復するのを待つのだが・・・。こんな物語が成立するのは、記憶を失っ ても人格の同一性は失われないという前提があるからである。観客がそ ういう暗黙の前提で映画を見ること、いや人間を見ていることを、映画 を作る人間はよく知っていたのである。イーストウッドの演出もこうい う映画の伝統の中で培われたものなのだろう。

 

過去

  ところで、 人間の性格はいったいどうやって形づくられるのだろうか。 この問いかけに対して、その人物のこれまでの人生全体が現在の性格に 集約されていると答えることができる。人間の性格とは、ひとことでい えばその人物の過去の全体が総合されたものである。これはベルクソン の 哲 学 に も と づ く 考 え だ。 「 わ れ わ れ が 何 か 決 意 す る と き に は い つ も そ こにある『性格』というものは、われわれの過去のすべての状態が実際 に 総 合 さ れ た も の で あ る 」( Bergson 1984: 287 ) と ベ ル ク ソ ン は 述 べ て いる。では、この考えを受入れると、性格についていったいどんなこと が理解できるのだろうか。   過 去 と は も う 存 在 し な い も の の こ と だ。 た し か に、 過 去 そ の も の は もう存在しない。しかし、過去は現在の性格の中に生きており、その人 間 が こ れ か ら 何 を な し う る か を 決 定 し て い る。 「 わ れ わ れ と は 何 か。 わ れ わ れ の 性 格 と は 何 か。 わ れ わ れ が 生 ま れ て こ の か た 生 き て き た 歴 史 が 凝 縮 し た も の 以 外 の 何 も の で も な い。 (・・・) わ れ わ れ が 何 か を 望 み、 意 志 し、 行 動 す る と き、 わ れ わ れ は 自 分 の 過 去 全 体 を 用 い て い る 」 ( Bergson 1984: 498 ) と ベ ル ク ソ ン が 述 べ て い る と お り で あ る。 性 格 は

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柴    田    健    志 一二〇 たく同一の存在である。   だから『15時17分、パリ行き』がもしフィルムで撮影されていた ら、イーストウッドの緻密な演出でさえ観客に不自然な感じを抱かせる ことになっただろう。子役はアレク・スカラトス、スペンサー・ストー ン、アンソニー ・ サドラーの少年時代として見られる約束になっている。 つまり、本当は別の人格をもつ人間のあいだに同一性を認めるという前 提 に よ っ て 映 画 は 成 立 し て い る。 し か し、 そ う い う 映 画 の 約 束 に 反 し て、フィルムは3人の役を演じる子役の存在をそのまま保存してしまう のだ。少年時代の彼らでなく、彼らの少年時代を演じている子役を観客 は見てしまう。観客は人格の同一性を信じ込もうとしているのに、フィ ルムは明らかにそれに反するイメージを与えてしまうのだ。ある人物の 生涯を映画にする時には子役の存在が不可欠である。しかし、この製作 手法はフィルムの性質と本質的に馴染まないものなのである。どんなに うまく演出されたとしても、子ども時代の映像は嘘っぽく見えてしまう のだ。映画全体がひとつの虚構つまり嘘なのに・・・。   『 1 5 時 1 7 分、 パ リ 行 き 』 に 最 も よ く 似 て い る 作 品 は ウ デ ィ・ ア レ ンの 『アニー ・ ホール』 (1977) なのかもしれない。この作品はウディ ・ アレンとダイアン・キートンの過去の恋愛関係を本人たちが演じる映画 だからである。ちなみにダイアン・キートンの本名はダイアン・ホール で、 ダ イ ア ン の 愛 称 は ア ニ ー だ か ら、 「 ア ニ ー・ ホ ー ル 」 と は ま さ し く ダイアン・キートンを指している。ところが、物語の中にウディ・アレ ンの子ども時代のシーンがあって、それを子役が演じている。それがい かにも作りものの感じがしたのは、この映画がフィルムで撮影されてい て、ウディ・アレンの子ども時代を演じている子役の存在がそのまま映 すべて合格。ところが 「奥行知覚試験」 に引っ掛かった。パラレスキュー 部隊にはもう入れない。そこで、SERE指導教官育成プログラムに志 望変更。しかしここでも落第。こうしてスペンサーは救急救命士(EM T)のコースに入ることになる。スペンサーの夢は消えたが、ここでの 訓練が高速列車タリスのテロ事件で役立つことになる。   ポルトガルに配属されたスペンサーはアフガニスタンに派遣されてい たアレクとヨーロッパ旅行の計画を練り始める。そこにアンソニーが誘 われる。久しぶりに3人で遊ぶ計画だ。ここから映画はクライマックス へ と 進 ん で い く。 3 人 そ ろ っ て 校 長 室 に 呼 び 出 さ れ て い た 少 年 た ち が、 これからテロリストと戦うことになるのだ。観客が今見ているのはあの 子 ど も た ち の 成 長 し た 姿 だ。 観 客 が そ う 感 じ な け れ ば 映 画 は 失 敗 で あ る。事実、子役によって演じられた少年時代の3人と本人たちとのあい だには人格の同一性などないのだ。この事実にもかかわらず、観客がそ れらの同一性を信じることができる理由のひとつは、間違いなくイース トウッドの緻密な構成と演出にある。しかし、 もうひとつの理由がある。 この映画がデジタル撮影されたという理由である。

 

デジタル・イメージ

  ど う し て デ ジ タ ル 撮 影 が 重 要 な の だ ろ う。 こ の 点 を 理 解 す る た め に、 映 画 が フ ィ ル ム で 撮 影 さ れ て い る 場 合 を ま ず 考 え て み よ う。 ア ン ド レ・ バザンが主張していたように、フィルムは現実に存在する対象の視覚的 側 面 を そ の ま ま 保 存 す る( Bazin 2002 )。 し た が っ て、 現 実 に 眼 で 見 た 対象とフィルムに定着したイメージは、視覚的な点だけからいえばまっ

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クリント・イーストウッド『15時17分、パリ行き』 一二一 に映し出されるイメージは、過去が想起されるのと同じ論理にしたがっ て見られることができる。 人間は過去を想起することができる。 しかし、 想起された過去の心的イメージは、過去の視覚イメージとは異なる。た とえ記憶に残っていたとしても、過去に存在した対象を人間は二度と見 ることができないのだ。同様に、デジタルで再現された3人の子ども時 代のイメージも、撮影された子どもたちの視覚イメージとは異なった存 在だ。彼らの子ども時代を演じた子役たちの演技は、すでに過去となっ てもうどこにも存在していない。フィルムならば過去をそのまま保存し 再生することができるが、デジタルではそれは不可能なのだ。しかしだ からこそ、人格の同一性に関する問題を克服することができる。観客は 3人の少年時代の映像を彼らの記憶イメージとして見ることができるか らだ。   このように、イーストウッドの緻密な演出と相まって、デジタル撮影 されたことによって、子役によって演じられた少年時代の3人と本人た ちのあいだに観客は人格の同一性をリアルに感じることができたのであ る。逆説的にも、デジタル撮影によってリアリティーが生み出されてい るのだ。映画とはフィルムで撮影されたものであるという考えは今日で も一定の支持をえているだろう。たしかに、フィルムに定着したイメー ジのリアリティーを基準にすれば、デジタル・イメージにリアリティー などない。しかし、フィルム・イメージを無条件にデジタル・イメージ の上位に位置づけるような考えは、 たんなる固定観念にすぎないはずだ。 ここで示したように、フィルム撮影によっては技術的に克服できなかっ た映画のリアリティーに関わる問題がデジタル撮影によって克服されて いるというのが事実なのだから。 し出されてしまうからである。観客はそこに人格の同一性を感じること ができないのだ。   イーストウッドのかつての作品の中にもまったく同じ問題が指摘でき る。 『ミスティック・リバー』 (2003)は少年時代の3人の友人が大 人になってからの物語だ。ティム・ロビンス、ショーン・ペン、ケヴィ ン・ベーコンの共演という贅沢なキャスティングだ。──3人の少年が 路上でホッケーをして遊んでいると、黒いリムジンから下りてきた男が 警官を名乗って1人だけを連れ去る。少年は数日後に救出されるが、そ れは手放しで喜ぶことのできる結末ではない。少年がそこで何をされた かは映画では描かれていないが、性的な虐待がほのめかされているから だ。大人になった少年をティム・ロビンスが演じている。子どもの面倒 をよく見る父親だが、内向的な性格でどこか暗い。ティム・ロビンスは この演技でアカデミー賞を与えられた。ただ、ティム・ロビンスの少年 時代とティム・ロビンスのあいだに人格の同一性を感じることは、観客 にとってかなり難しい。ショーン・ペンとケヴィン・ベーコンについて も同様である。観客は映画の約束を受容れて人格の同一性を認めている だけで、それをリアルに感じているわけではないのだ。いったいどうし てこういうことになってしまうのか。この作品がフィルムで撮影されて いたからだと考えられる。   これに対して、 『15時17分、 パリ行き』はデジタル撮影されている。 デジタル撮影は現実に存在する対象の視覚的側面をそのまま保存するも の で は な く、 そ れ を 視 覚 対 象 と は 性 質 の 異 な る、 「 ピ ク セ ル 」 と い う 単 位に分解して保存し、再生するものである。つまり、撮影された時点で すでに対象からは切り離されてしまっているのだ。だから、スクリーン

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柴    田    健    志 一二二 その人生をすべてたどったとしても、その理由が十分に明確になるので はなくただ示唆されるにすぎない。観客も、あの少年達が英雄になると いう事実をこの映画の中に見ただけで、その理由を見出したわけではな いだろう。無論、それでかまわないのだ。その理由が十分に明確になっ てしまったら、未来が予知できることになるからだ。   『 1 5 時 1 7 分、 パ リ 行 き 』 の 3 人 の 主 人 公 は 逆 ら う こ と の で き な い ある種の流れにとらえられていく。はじめて行ったヨーロッパで出会っ た 何 人 か の 旅 行 者 は み な パ リ 行 き を 勧 め な か っ た。 ド イ ツ の バ ー で 出 会ったアメリカ人は彼らに忠告した。 「 友 よ、 悪 い こ と は い わ な い。 フ ラ ン ス の こ と は 忘 れ て、 ア ム ス テ ル ダ ムに行け。絶対そのほうがいい」 。 実際、 その通りだった。アムステルダムはじつに居心地がよかったのだ。 その時点で3人ともパリ行きを見送るつもりだった。アレクはこういっ た。 「パリに行くのは止めにしよう」 。 ところが、なぜか3人ともパリ行きの電車に乗ることになる。そうしな ければならないと感じたのだ。スペンサー・ストーンは何かに突き動か されるように感じたのだと述懐している。じつはスペンサーの母親ジョ イスは3人のヨーロッパ旅行に「嫌な予感」を感じていた。しかし、そ れにどんな根拠があるのかは分からない。それが分かってしまったら未 来予知なのだ。   この映画を読み解くキーワードはじつはこの「予感」である。すでに 述べたように、人間が与えられた状況の中で何をするかはその人間の性 格によって決まる。 ところが人間の性格は過去によって作り上げられる。   観客は2時間足らずの映画の中に人間の生涯を見る。これは映画がこ れ ま で ず っ と し て き た こ と だ。 『 1 5 時 1 7 分、 パ リ 行 き 』 も そ ん な 映 画 の 中 の 1 本 だ ろ う。 で は、 こ の 作 品 の 特 徴 と は い っ た い 何 だ ろ う か。 その生涯が映画になるのは有名人だ。その点はこの映画も同じだ。しか し、 有 名 人 の 子 ど も 時 代 は、 後 に 有 名 に な る ほ ど の 才 能 を す で に も っ て い る 人 物 と し て し ば し ば 描 か れ る。 例 え ば、 「 ブ ロ ー ド ウ ェ イ の 父 」、 ジョージ ・ コーハンの生涯をジェームズ ・ キャグニーが演じた 『ヤンキー ・ ド ゥ ー ド ゥ ル・ ダ ン デ ィ』 ( 1 9 4 2) な ど は 典 型 的 で あ る。 子 ど も に どんな才能があり、何をなしうるかはその時になってみなければ分から ないはずなのに、 映画は才能の片鱗を窺わせるように子ども時代を描く。 この子どもならば、 将来成功するのが当然であるかのように。実際には、 現在からふり返って過去を意味づけているだけなのだ。 『15時17分、 パ リ 行 き 』 が こ れ ま で の 映 画 と ま っ た く 違 っ て い る の は こ の 点 だ ろ う。 イーストウッドは人格の同一性についてはこれまでの映画よりも説得力 のある作品を作り出した。しかし、人格の同一性はその人物の現在の属 性を過去に投影することによって生み出されていない。むしろ、人格の 同一性がリアルであればあるほど、この3人の平凡な過去がいったいど うして現在の栄光に結びついたのかと不思議になってくる。しかし、じ つはそこがリアルなのだ。では、これがリアルだと感じられるのはいっ たいなぜなのだろうか。

 

世界の理由

  英 雄 的 な 行 為 が な さ れ た 理 由 は 彼 ら の 人 生 の 中 に し か な い。 た だ し、

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クリント・イーストウッド『15時17分、パリ行き』 一二三   では、 人間にはいったい何ができるのだろう。ライプニッツによると、 人間にできることは、自分の過去を振り返ることによって現在の自分の 存 在 を 認 識 し た 上 で、 こ れ か ら 何 を な す べ き か を 熟 慮 す る こ と で あ る。 「 よ く 反 省 し、 場 合 に よ っ て は 十 分 に 熟 慮 し た 上 で な け れ ば 行 動 も 判 断 もしないという堅い意志によって、思いがけない出来事の出現に備えて おくことが魂になしうることである」 ( Leibniz 1996a: 454 )。そこに 「予 感」のようなものが感じられる余地はあるだろう。というのも、ひとり ひとりの心の中には「すでに起こったことの名残やこれから起こること の徴だけでなく、 宇宙に起こるすべてのことの跡までもが存在している」 ( Leibniz 1996a: 433 ) と 考 え ら れ る か ら だ。 人 間 の 性 格 の 理 由 が 本 人 に さえ理解できないものであるということ、またこれから自分に何が起こ るかは「予感」としてしか見えてこないということ、これらは表裏の関 係になっている。   どうしてこの世界があるのか。自分はこの世界でこれから何をするこ と に な る の か。 そ ん な こ と は 誰 に も 分 か ら な い。 人 間 に で き る こ と は、 まったく理由の分からない世界のなかにすでに存在している自分の生を できる限り善く生きることだけだ。ただ、その時点で「最善と思われる こ と 」( Leibniz 1996a: 454 ) を し た と し て も、 ど ん な 結 果 が 待 っ て い る かまでは分からない。未来がまだ存在しないからではなく、世界の理由 が分からないからである。パリで栄光を手にした3人も、はじめからそ れを望んだわけではない。むしろこれまでの人生からすれば起こりえな いことが起こったのだ。 とすれば、未来は過去の中にある。しかし、過去をくまなくたどりつく したとしても決してその人間の未来を予知することはできない。せいぜ い「予感」することができるだけなのだ。いったいなぜだろう。   ある人間の存在は別の誰かの存在と関係していて、この誰かの存在も また別の誰かの存在と関係している。したがって、ある人間の性格の理 由は過去の中にあるとしても、その人間の過去をたどっただけではその 理由を汲み尽くすことはできない。その理由は別の誰かへとつながって いき、最終的には世界全体へとつながってしまうからである。これはラ イプニッツの哲学にもとづく考えだ。   ラ イ プ ニ ッ ツ の 哲 学 に よ れ ば、 「 す べ て は 繋 が っ て い る 」( Leibniz 1996b: 599 ) が ゆ え に、 あ る 出 来 事 の 理 由 を 知 る に は 世 界 全 体 を た ど っ ていかねばならない。 「何事も十分な理由なしには起こらない」 ( Leibniz 1996b: 602 ) と 考 え ら れ る か ら だ。 す る と、 ひ と り の 人 間 の 性 格 お よ び それによって引き起こされた出来事の理由を完全に明確にするには、世 界全体をたどり尽くさなければならないということになるはずだ。しか も、ライプニッツによれば、この世界が存在することの理由は、なぜ別 の 世 界 で な く こ の 世 界 が 存 在 す る の か と い う 問 い か け を 含 ん で し ま う。 したがって、理由の分析は現実の繋がりだけでなく、可能な繋がりにま で及ばなければならない。なぜこの出来事が現実に起こったかを知るに は、それが起こらなかった可能性および別の出来事が起こった可能性ま で検討しなければならないというのだ。ところが、ライプニッツによれ ば 「可能な宇宙は無限に存在している」 ( Leibniz 1996b: 615 )。したがっ てその分析は現実には不可能である。人間知性が世界の理由を汲み尽く すことができないのはこのためである。

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柴    田    健    志 一二四 等を挙げることができるかもしれない。その最も進化した作品が『15 時17分、パリ行き』なのである。なぜなら、出演している本人たちの 人生を再現するという大胆な手法によって、人間が何かをしてしまう本 当の理由は何なのかという問いかけを提示したのがこの作品であり、ま たその意図を実現するためにデジタル技術が駆使されることで、フィル ム撮影が克服できなかったリアリズムの問題が解決されているからであ る。 文献 ・アンソニー ・ サドラー、 アレク ・ スカラトス、 スペンサー ・ ストーン、 ジェフリー ・ E・ ス タ ー ン 2018 『 1 5 時 1 7 分、 パ リ 行 き 』 田 口 俊 樹・ 不 二 淑 子 訳 早 川 書 房 ・ 柴 田 健 志 2018 「 デ ジ タ ル 映 画 論 ─ ク リ ン ト・ イ ー ス ト ウ ッ ド『 ア メ リ カ ン・ ス ナイパー』 『ハドソン川の奇跡』─」 『鹿児島大学法文学部紀要』85号 85-98 ・ Bazin, André 2002, “Ontologie de L’ image Photographique,” Qu’ est-ce que le

cinéma? Les Édition du Cerf

Bergson 1984, Œuvres, Édition du Centenaire, PUF

Leibniz 1996a, Die Philosophischen Schriften 4, Georg Olms

Leibniz 1996b, Die Philosophischen Schriften 6, Georg Olms

Locke 1975, An Essay Concerning Human Understanding, Oxford

Parfit, Derek 1984, Reasons and Persons, Oxford

Prinz, Jesse J. & Nichols, Shaun 2017,

“Diachrinic Identity and The Moral Self,”

Julian Kiverstein(Ed.) The Routledge Handbook of Philosophy of the Social Mind, 449-464

おわりに

  人 間 が 何 か を し て し ま う 本 当 の 理 由 は 何 な の か。 『 許 さ れ ざ る 者 』 ( 1 9 9 2) 以 降 の イ ー ス ト ウ ッ ド の い く つ か の 作 品 は こ ん な 暗 黙 の 問 いかけを内に秘めているように感じられる。 例えば、 『パーフェクト ・ ワー ル ド 』( 1 9 9 3) で は、 刑 務 所 を 脱 獄 し、 成 り 行 き か ら 子 ど も を 人 質 にして盗難車で逃走するブッチ(ケヴィン・コスナー)を保安官のレッ ド(イーストウッド) が追跡する。 犯罪心理学の博士号をもつサリー (ロー ラ・ダーン)が、市長の命令で捜査に同行することになる。犯人の性格 から行動を予測するためだ。はじめのうちは博士号など信用しなかった レッドは、あることをきっかけにサリーを信頼し、耳を傾けるようにな る。イーストウッドが得意とする演出だ。サリーがブッチのプロファイ リングをしていくと、レッドの存在が浮かび上がったのだ。ブッチは少 年犯罪で起訴されたことがある。保護観察が妥当な処遇だった。にもか かわらず、 少年院へ送られた。その決定を下したのがレッドだったのだ。 ブッチは、父親が家を出た後、売春の行なわれる酒場で母親と暮らして い た。 そ ん な 環 境 よ り も 少 年 院 の 方 が ま し だ と い う 判 断 だ っ た。 実 際、 少年院で更生した者はいる。しかし、 その判断は本当に正しかったのか。 そ ん な こ と は 誰 に も 分 か ら な い。 心 理 学 者 の サ リ ー も そ れ に 同 意 す る。 その時点で、脱獄犯の追跡はブッチという人間を理解する旅に変容する のだ。   こ の 系 譜 上 に あ る 作 品 と し て、 『 ト ゥ ル ー・ ク ラ イ ム 』( 1 9 9 9) 、 前述した 『ミスティック ・ リバー』 、『アメリカン ・ スナイパー』 (2014)

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クリント・イーストウッド『15時17分、パリ行き』 一二五 ・ Strohminger, Nina, Nichols, Shaun 2014, “The Essential Moral Self,” Cognition 131, 159-171 ・ St roh mi nger , Nin a, Ni chol s, Sh aun 20 15, “N eur ode gen era tio n and Ide nti ty, ” Psychological Science vol.26(9), 1469-1479

参照

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