藤田美術館所蔵「玄奘三蔵絵」小考 ―詞書と絵画
表現に見える観音信仰に着目して―
著者
小池 寧々
雑誌名
美術史学
号
42
ページ
63-89
発行年
2021-03-31
URL
http://hdl.handle.net/10097/00131210
63 藤田美術館所蔵「玄奘三蔵絵」小考
―
詞書と絵画表現に見える観音信仰に着目して―
藤
田
美
術
館
所
蔵
「
玄
奘
三
蔵
絵
」
小
考
―
詞書と絵画表現に見える観音信仰に着目して
―
小
池
寧
々
は
じ
め
に
仏教東漸以来、数多くの僧が中国や日本で活躍してきたが、中で も玄奘三蔵(?~六六四)は、最も有名な僧の一人である。中国明 時代に著された小説『西遊記』による影響が大きいものの、そのは るか以前から、玄奘は日本人にとっても憧憬の対象であった。法相 宗の鼻祖として、また自らの疑問を晴らすためにあらゆる障害を乗 り越えて天竺へ赴き、多くの経典・仏像群を中国にもたらし、翻訳 事業まで行ったという、偉大な業績に対する畏敬の念が存在したた めである。 この中国唐時代の僧・玄奘の行状をあらわした高僧伝絵が、本稿 で 扱 う 絵 巻「 玄 奘 三 蔵 絵 」( 大 阪・ 藤 田 美 術 館 所 蔵、 以 下 本 絵 巻 ) である。鎌倉時代末期(十四世紀初頭)の制作とされ、異本や類本 は確認できないため、玄奘の唯一の物語絵巻に位置づけられる。 その詞書の大部分は、玄奘の弟子によって著された伝記『大唐大 慈恩寺三蔵法師伝』 (以下『慈恩伝』 )をもとに制作されている )( ( 。た だ し、 エ ピ ソ ー ド の 取 捨 選 択 が 行 わ れ る ほ か、 『 慈 恩 伝 』 に 認 め ら れない文章も取り入れられる。このような『慈恩伝』以外の典拠は 研究によって次第に明らかになりつつあるものの、特定の典拠を持 たない細かい言い回しの変更点については、依然として検討の余地 が残る。 また絵画表現の面においても、 深く追究されていないモチー フが認められる。これらを解き明かすためには、詞書と絵画の関係 を考慮する必要があろう。 また、本絵巻に関しては、先行する旧本の存在が問題となってお り、いまだその有無についての決定的な答えは出ていない )( ( 。旧本の 存在が想定されているのは、文献史料に基づく推察のほかに、例え ば本絵巻が平安時代から鎌倉時代初期の作品に見られる図像を多く日本における中国絵画史研究の動向とその展望
―
宋元時代を中心に
改訂増補版(上)
―
小
川
裕
充
美 術 史 学 第四十二号美 術 史 学 第四十二号 64 用いる点に由来する。しかしこれは、高階隆兼工房による古画研究 の結果とも思われ )3 ( 、使われたモチーフの存在をもって旧本の有無を 論 じ る こ と は 難 し い。 さ ら に 詞 書 に お い て は、 鎌 倉 時 代 初 期 の 僧・ 貞 慶 や 明 恵 の 著 作 を 意 識 し、 こ れ を 典 拠 と す る 部 分 が あ る と さ れ る )4 ( 。けれども、これも旧本の存在を決定づける根拠とはならず、た だ貞慶や明恵周辺の思想を受け継いだ人物による制作の可能性を示 唆するのみである。 したがって本稿では、本絵巻が鎌倉時代末期に制作されたことに 重点を置きつつ、何を意図し、どのような信仰が反映されているの かを考察する。 まず本絵巻の概要と先行研究について確認したのち、 詞 書 と『 慈 恩 伝 』 を 比 較 し て 明 ら か と な る 文 章 の 付 け 足 し や 削 除、 言い換えが、観音信仰に関係する改変であることを指摘する。 次に、本絵巻の巻一第四段を取り上げ、詞書と絵画表現の分析に 基づき、観音信仰が反映されていることを明らかにする。そして最 後に、本絵巻の制作主体について考察を加える。
一
概要と先行研究
本絵巻は紙本著色、全十二巻七十六段構成で、各巻の寸法は表の 通りである(表一) 。 制作に関する具体的な記述は残されていないものの、室町時代中 期 の 興 福 寺 僧・ 尋 尊 の 日 記『 尋 尊 大 僧 正 記 』( 以 下『 尋 尊 記 』) 、 室 町時代後期の公卿・三条西実隆の日記『実隆公記』などの史料に登 場し、伝来や制作事情が窺える。これらによると本絵巻は、もとは 興福寺大乗院で代々の門跡により受け継がれ、室町時代には宮中に 運ばれて天皇や公家に披見されていたという )( ( 。しかし大永五年(一 五二五)に公開が制限されたため、以後の記録には見られなくなっ た。のちに寺外に流出し、明治時代の実業家・藤田傳三郎とその子 息によって購入され、藤田美術館の所蔵となり現在に至る。 本絵巻を手掛けたのは、高階隆兼(生没年不詳)とその一門とみ るのが通説となっている。鎌倉時代後期の宮廷絵所絵師として、 「春 日権現験記絵」 (以下「験記絵」 )を描いたことが知られ、画風、モ チ ー フ な ど に 本 絵 巻 と の 共 通 点 が 指 摘 さ れ る ほ か )6 ( 、『 実 隆 公 記 』 の 記述を筆者の根拠とする )( ( 。「験記絵」 については、 付属する目録から、 鎌倉時代後期の公卿・西園寺公衡(一二六四~一三一五)によって 発願、制作され、春日大社に奉納されたことが確認できる )( ( 。隆兼に 「 験 記 絵 」 を 描 か せ、 藤 原 一 門 の 氏 神 を 祀 る 春 日 社 に 奉 納 し た と の 事実は、同じく藤原氏の信仰を集めた興福寺の院家・大乗院に、本 絵巻が伝来したことと無関係ではないであろう。このような「験記 絵」との共通点から、本絵巻の制作主体を公衡とする説がある )( ( 。 本絵巻が伝来した興福寺大乗院については、室町時代の史料『三 箇院家抄』中の「三箇院家等相伝次第」に詳しい )(1 ( 。平安時代後期の6( 藤田美術館所蔵「玄奘三蔵絵」小考
―
詞書と絵画表現に見える観音信仰に着目して―
僧 ・ 隆禅により、寛治二年(一〇八七)二月に建立供養されて以降、 大乗院は興福寺僧により受け継がれ、長谷寺別当も兼ねていたとい う )(( ( 。 ま た、 『 興 福 寺 濫 觴 記 』 や『 南 都 七 大 寺 巡 礼 記 』 に よ れ ば、 本 尊は丈六十一面観音であった )(1 ( 。 中 世 の 興 福 寺 で は、 摂 関 家 の 子 弟 が 入 室 す る た め の 院 家 と し て、 一乗院と大乗院が存在し、両院が交互に興福寺別当職に就いたとい う。本絵巻が制作されたと考えられる時期の大乗院門主は、九条道 家の四男 ・ 一条実経の子で、大乗院僧 ・ 尊信の弟子となった慈信(一 二五七~一三二五) である )(1 ( 。「験記絵」 目録からは、 慈信が 「験記絵」 の詞書編纂に関わっていたことが知られる。ここから、慈信が隆兼 や公衡、 また「験記絵」詞書を編纂した興福寺東北院院主 ・ 覚円(一 二七七~一三四〇)と関係していたことが指摘されており、慈信を 本絵巻の制作主体にあてる説もある )(1 ( 。 このほかに、詞書筆者から制作主体について考察し、これを西園 寺公衡、あるいは大乗院僧とすることに疑問を呈したのが、落合博 志 氏 で あ る )(1 ( 。 同 氏 は『 絵 え 詞 ことば 難 なん 訓 くん 抄 しょう 』 と い う 資 料 か ら 本 絵 巻 の 詞 書 筆者を特定し、これに洞院実泰(一二七〇~一三二七)が含まれる ことから、洞院家と覚円の関係に注目した )(1 ( 。そして本絵巻制作は覚 円によって発企され、 これに働きかけられた洞院家(実泰)による、 西園寺家の「験記絵」制作への対抗の産物であった可能性を提示し た。 一方詞書の編纂者については、 目録の残る「験記絵」とは異なり、 いまだ明らかになっていない。しかし玄奘の弟子である中国唐時代 の僧・慧立と彦悰が著した『慈恩伝』に基づき、玄奘の主要な事績 を取捨選択しているのは確かである。本絵巻の構成を『慈恩伝』の そ れ と 比 較 す る と、 『 慈 恩 伝 』 が 全 十 巻 の う ち、 一 巻 か ら 五 巻 ま で の約半分を生い立ちから天竺求法の旅の記述に割くのに対し、本絵 巻は、全七十六段のうち五十三段という約七割を西域・天竺旅行と する。つまり、本絵巻は玄奘の西域・天竺での事績を長くあらわし て お り、 こ れ を よ り 重 視 し て い た と 分 か る。 さ ら に 詞 書 に は、 『 慈 恩 伝 』 テ キ ス ト と の 間 に 差 異 が 認 め ら れ、 『 慈 恩 伝 』 の 単 な る 和 訳 に終始していない。そこには、絵巻の企画者や詞書の作成者の意図 が 強 く 反 映 さ れ た 制 作 事 情 を 窺 う こ と が で き る。 そ こ で 次 章 で は、 テキストが変更された具体的な例を挙げ、その背景に存在する意図 を探っていきたい。二
詞書に見る観音信仰
先述のように、本絵巻の詞書には『慈恩伝』テキストからの改変 が認められるが、 その中にことさら観音菩薩を重視する部分がある。 以下、①から③に分けてその内容を紹介し、詞書と『慈恩伝』を引 用しつつ、比較検討する )(1 ( 。美 術 史 学 第四十二号 66 ①巻二第三段 詞書 いと心ほそきまゝに、たゝ観音を念し、心経を誦し給。この経 は、法師蜀におはせしとき、病人のかさみたれ、衣やふれたる をあはれみて、衣服をあたへてたすけ給に、かの病人さつけた てまつりける経なり。この病人さためて化人なるへし。これに よりて、つねに誦したまふ。 『慈恩伝』巻一 唯一但だ観音菩薩及び般若心経を念ず。初め法師蜀に在り、一 病人に見える。身瘡臭穢にして衣服破汚す。 慜 れんで将に寺に 向かいて衣服飲食の直を施与せんとす。病者慚愧し乃ち法師に 此経を授く。因りて常に誦習せり。 玄奘が「野馬の泉」へ行くために、砂漠を渡る場面である。 詞 書 で は、 「 蜀 で 心 経 を 玄 奘 に 授 け た 病 人 は、 き っ と 化 人 で あ っ たであろう」 との文章が付け足される。この場合の 「化人」 とは、 「神 仏が自ら仮に姿を変えて人となって現れた者」であるが )(1 ( 、それでは 何者が病人に姿を変えて現れたのであろうか。 平安時代から鎌倉時代の仏教説話集の玄奘伝の中には、同様の場 面で、 病人が何者であったのかを語る話がある。十二世紀初頭の 『今 図1 「玄奘三蔵絵」巻二第三段 部分
6( 藤田美術館所蔵「玄奘三蔵絵」小考
―
詞書と絵画表現に見える観音信仰に着目して―
昔物語集』巻六「玄奘三蔵天竺に渡り法を伝え帰る語」では )(1 ( 、玄奘 が旅の途中、山中に肌の爛れた病人の女性を見つけ、肌を舐めて病 を治そうと試みた後に起こったことを以下の様に述べる。 其ノ時ニ、俄ニ微妙ノ栴檀 ・ 沈水香等ノ如クナル香出来ヌ、亦、 日ノ始テ出ヅルガ如クナル光有。法師驚キ怪テ退テ見レバ、此 ノ病人忽変ジテ観自在菩薩ト成リ給ヒヌ。 また、平安時代後期の作とされる『打聞集』 「玄奘三蔵心経の事」 では )11 ( 、同様の場面において、 その程に、えもいは□かうはしき香出きぬ。又見れば朝日のさ したるが如くなる光出きぬ。驚てあやしびて見ば、此病人えも いはず貴き観自在菩薩と成ぬ。 とする。 さらに、十三世紀後半の作とされる『撰集抄』巻一「行賀僧都の 事」では )1( ( 、玄奘が病人を助けたことを例に出し、 く さ く け か ら は し き 病 人 を。 頭 よ り 足 の あ な う ら に 至 る ま で。 舐給時。観音と成給て。心経を授けさせ給へりと承る。 と語る。これらの説話と詞書の間には相違も多いが、玄奘が救った 病人が観音菩薩となって「心経」を授けた点は共通する。 このように、平安時代から鎌倉時代にかけては「心経を玄奘に授 けた病人は、実は観音菩薩の化身であった」との見方が出来上がっ ていたと分かる )11 ( 。それゆえ、本絵巻の「化人」も、観音菩薩の化身 を意味するとみるのが自然であろう。この説話を踏まえ、詞書では 玄奘と観音菩薩の関係を強調するために「化人」という語を付け足 したとみられる。 ②巻二第三段 詞書 沙河に至るほとに、悪鬼のあやしきかたちしたるにあまたゆき あひ給ぬ。この経を誦したまへは、こゑをあけてみなちりうせ ぬ。 『慈恩伝』巻一 沙河の間に至り、諸の悪鬼の奇状異類にして人の前後を遶るに 逢う。観音を念ずると雖も去らしむること能わず。及ち此の経 を誦するに、声を発して皆散ず。 ①と同じ段の出来事であり、その後、玄奘が砂漠にて悪鬼に遭遇美 術 史 学 第四十二号 6( す る 場 面 で あ る( 図 ()。 巻 二 段 三 段 の 絵 で は、 馬 上 の 玄 奘 が 巻 子 をひろげて何かを読み上げる様子をあらわす。 これは詞書でいう 「こ の 経 」、 つ ま り「 心 経 」 で あ ろ う。 玄 奘 の 行 き 先 に は 赤 や 緑 の 肌 を した鬼らしき化け物が見えるが、玄奘の読む「心経」を聞いて逃げ 出すものもいる。 詞 書 で は、 『 慈 恩 伝 』 の「 観 音 を 念 ず る と 雖 も 去 ら し む る こ と 能 わず」との一文を削除する。 『慈恩伝』のこの一文は、 「心経」の効 果を強調する働きが認められるが、一方で観音菩薩の意義を貶めて しまっている。 『 法 華 経 』「 観 世 音 菩 薩 普 門 品 第 二 十 五 」( 以 下「 普 門 品 」) で は、 観音菩薩の名を称する、また念じることで、悪鬼から逃れられると 説 く )11 ( 。 こ れ を 考 慮 す る と、 削 除 さ れ た 一 文 は、 「 普 門 品 」 の 内 容 に 反することとなる。それゆえ、この削除は「普門品」の内容や、観 音菩薩を念じる効果を重んじた結果の改変と認められる。 ③巻七第一段 詞書 中に精舎あり。刻檀の観自在菩薩の像おはします。威神ことに 掲 焉 に し て、 人 あ り て、 七 日 あ る ひ は 二 七 日 断 食 を な む し て、 もろ〳〵の願をいのるに、まことあれは、生身の菩薩の像中よ りいてゝ、その願をみて給。 『慈恩伝』巻三 最も中の精舍に刻檀の観自在菩薩像あり。威神特に尊し。常に 数十人あり、或いは七日、二七日、粒を絶ち漿を断て諸願を請 祈すれば、心の殷至なる者は、即ち菩薩の具相荘厳、威光朗曜 として檀像の中より出で、其の人を慰喩し、其の所願を与うる を見る。 玄奘が伊爛拏鉢伐多国(イーリナパルバタ国)へ向かう道中、迦 布徳(カポータ)伽藍の南の山中にある精舎へ寄る場面である。こ の精舎には檀木で造られた観音像が安置されているという。この像 に願を祈ると起こることについて、 『慈恩伝』では、 「菩薩の具相荘 厳、威光朗曜として檀像の中より出で」とし、詞書では「生身の菩 薩の像中よりいてゝ」とする。つまり、どちらも断食をし、まごこ ろを込めて願を祈ると、 「観音が檀像の中から出現する」と述べる。 またこのほかに、像に向かって香花を投げ、手または肘にかかれば 願が叶う瑞相である、という伝承があるという。これを聞いた玄奘 が、願とともに花を投げたところ、手、両肘、さらには首にまでか かった、と語られる。 絵 で は、 玄 奘 が 観 音 像 に 花 を 投 げ る 場 面 を 描 く( 図 ()。 精 舎 の 屋根や扉に隠れるため、観音像の全容は明らかではないが、檀像ら しく彩色の施されない姿をとる。また、観音菩薩出現のくだりはあ
6( 藤田美術館所蔵「玄奘三蔵絵」小考
―
詞書と絵画表現に見える観音信仰に着目して―
くまで伝承であり、玄奘が実際に体験したことではないためか、絵 には反映されない。 改 め て 詞 書 と『 慈 恩 伝 』 の 差 異 に 着 目 す る と、 前 者 に は「 生 身 」 との語が用いられていると分かる。中世において、これを仏像に用 いる際には、例えば信濃善光寺の阿弥陀如来像のように、生きてい る よ う に 意 志 を 持 っ て 動 く 像 と し て 信 仰 す る こ と が あ る )11 ( 。 し か し、 詞 書 で は 仏 像 自 体 を「 生 身 」 と は 言 わ ず、 「 生 身 の 菩 薩 が 像 の 中 か ら出現する」と述べる。つまり観音像と生身の観音菩薩は区別して おり、この意識は『慈恩伝』でも同様である。 こ の 場 面 で「 生 身 」 と の 語 を 用 い て 言 い 換 え る の は、 『 慈 恩 伝 』 の内容を尊重しつつも、中世において重視された、まごころを込め た祈りに応じて出現する仏菩薩のイメージを観音像に付与すること で、像の霊験を強調する働きがあるものと推察する )11 ( 。 以上が、 詞書において『慈恩伝』テキストからの言い換え、 削除、 付加によって、観音信仰を優先させたと認められる部分である。全 体を通して見ると、これらは玄奘と観音菩薩の関係を強調すること ( ① )、 観 音 菩 薩 の 地 位 を 下 げ な い こ と( ② )、 観 音 菩 薩 の 霊 験 を 強 調すること(③)を目的としている。また、平安時代後期から鎌倉 時代頃の説話集との内容の一致から、当時の玄奘に関する説話を踏 ま え な が ら 語 ら れ て い る と 分 か る 。 た だ し 、 話 の 流 れ を 大 き く 変 え る こ と は し て お ら ず 、『 慈 恩 伝 』 を 尊 重 す る 態 度 に も 留 意 し て お き た い 。 図2 「玄奘三蔵絵」巻七第一段 部分美 術 史 学 第四十二号 (0
三
巻一第四段に見る観音信仰
(一)巻一第四段の詞書と絵画表現 詞書のほかに、絵画にも観音信仰があらわれた箇所として、巻一 第四段が挙げられる。この段は、玄奘が須弥山に登る夢を見て、旅 に出る決意を固める場面である。本絵巻の中でも、詞書の細かな改 変が多いことに加え、絵画にも興味深いモチーフを多く描く、特に 注目すべき段となっている。 詞書 巻一第四段 貞観三年、御年廿六にして、つゐに一生の身をすてゝ、万死の みちに思いたちたまふ。このとき、夢に、大海のうちに須弥山 あり。渡むとするに、浪たかくして船なし。しかれとも、おそ るゝ心なく水をふまんとするに、 石の蓮花たちまちにいてきて、 あ な う ら を う く。 ふ み て わ た れ は、 あ し の さ る に し た か ひ て、 あとのれんくゑはうせぬ。かくしつゝ山のもとにいたれは、峰 け は し く し て、 の ほ る に た よ り な し。 も し や と 身 を か ろ め て、 をとりあかるに、つしかせ俄にふきて、山のいたゝきにいたり ぬ。瞻望さはる所なく、雲海眇漫たりと見てさめぬ。これ先途 をとけ給へき祥瑞なるへし )11 ( 。 『慈恩伝』巻一 貞観三年秋八月、将に首塗せんと欲し又祥瑞を求む。乃ち夜夢 に大海中に蘇迷盧山あるを見る。四宝所成にして極めて厳麗た り。 意 に 山 に 登 ら ん と 欲 す れ ど も、 洪 濤 洶 湧 し て 又 船 筏 な し。 以て懼れとなさず。乃ち意を決して入る。忽ちに石蓮華の波外 に涌き足に応じて生ずるを見る。却つて之を観るに足に随いて 滅 す。 須 臾 に し て 山 下 に 至 る に、 又 峻 峭 に し て 上 る べ か ら ず。 試みに身を踊らせて自ら騰るに、摶飈の颯至するあり。扶け上 げて山頂に昇到す。四望廓然として復た礙を擁するなし。喜び て寤めたり。遂に即ち行く。時に年二十六なり。 この詞書は明恵上人との関連 )11 ( 、さらに貞慶著『中宗報恩講式』と の近似が指摘されるが )11 ( 、注目したいのは、段の最後の「これ先途を と け 給 へ き 祥 瑞 な る へ し 」 と の 一 文 で あ る。 話 の 流 れ か ら、 「 先 途 をとけ給」 のは玄奘であり、 「先途」 とは天竺において 『瑜伽師地論』 に関する疑問を解決することと考えられる )11 ( 。この一文は、 『慈恩伝』 の「将に首塗せんと欲し又祥瑞を求む」という部分の言い換えであ るが、文意を「祥瑞を求める」から変え、新しく「先途をとげるは ずの祥瑞」とした以上、何らかの意味を持たせたと考えるべきであ る。 話 の 内 容 を 確 認 す る と、 詞 書、 『 慈 恩 伝 』 と も に、 石 の 蓮 華 や 風(( 藤田美術館所蔵「玄奘三蔵絵」小考
―
詞書と絵画表現に見える観音信仰に着目して―
に助けられながら須弥山という仏教世界の中心に辿り着く、という 瑞夢を見たために、玄奘が改めて天竺行きの意志を固めたとしてい る。すなわち、夢中での幇助により、天竺への旅立ちを後押しされ た も の と、 玄 奘 本 人、 『 慈 恩 伝 』 著 者、 詞 書 制 作 者 が と も に 解 釈 し ていたのであろう。さらには、 この夢を玄奘に見せた何者かがおり、 その存在からの助けを確信したことで、旅立ちを決意したとも捉え ら れ る )11 ( 。 つ ま り 詞 書 に お い て は、 夢 が「 先 途 を と げ る は ず の 祥 瑞 」 であったとの文章の追加により、夢を見せた何者かによって玄奘が 目的を遂げることができる、と強調しているのではないか。 では、この夢を見せたのは何者で、どんな役割を持ったのであろ うか。 こ の 段 の 絵 は 大 き く 二 場 面 に 分 か れ、 異 時 同 図 法 が 用 い ら れ る。 それにより、玄奘の姿は三箇所にあらわれる(図 3)。 まず屋内で眠る姿であり、霞で仕切られた先から、その夢の中に 入 る。 夢 に は 荒 々 し く 波 打 つ 大 海 が 広 が り、 海 上 に は 龍、 摩 竭 魚、 亀といった海獣が泳ぐ(図 4、 ()。 次 に、 海 の 上 に 出 現 し た 石 の 蓮 華 を 渡 る 姿 で あ る( 図 6)。 蓮 華 が向かう先には須弥山が聳える。画面に収まりきらない高さと、切 り立つ崖を側面に持ち、周囲に日月がまわり、中腹より上の辺りは 雲に覆われる。滝が流れ落ち、草花や木々が生える。 その頂上に、手をかざして遠くを見つめる玄奘の姿を描く。その 図3 「玄奘三蔵絵」巻一第四段 部分 図5 摩竭魚、亀 「玄奘三蔵絵」巻一第四段 部分 図4 龍、摩竭魚「玄奘三蔵絵」巻一第四段 部分美 術 史 学 第四十二号 (( 眺める方向とは逆側から黒雲がわき、連太鼓を背負った雷神が、雷 を伴って登場する(図 ()。 こ の 絵 を 詞 書 と 比 較 す る と、 「 夢 中 の 玄 奘 が 荒 波 の 大 海 に い る 」、 「 石 の 蓮 華 を 踏 み 須 弥 山 に 近 づ く 」、 「 須 弥 山 に 登 っ て 頂 上 か ら の 景 色を眺める」という話の流れに従い、内容を忠実に描くことが分か る。しかし、一見して詞書や『慈恩伝』には触れられないものを描 くことに気づく。それは泳ぐ海獣と空中の雷神である。これらはい ずれも、 絵画化にあたって新たに追加された注目すべき要素である。 (二) モ チ ー フ の 象 徴 性
―
「 普 門 品 」 の 経 絵 に 着 目 し て―
須弥山を図示した有名な例としては、東大寺金堂の盧舎那仏台座 蓮弁の須弥山図や、 玉虫厨子須弥座背面の須弥山世界図などがある。 けれどもそこには海獣や雷神は見当たらない。 海獣に関して加須屋誠氏は、種々の工芸品や絵画における海の描 写内に海獣が見受けられる場合、人知の及ばぬ広大で混沌とした場 所をあらわすとした )1( ( 。特に「地獄極楽図屏風」については、現世や 地 獄 と い っ た 汚 れ た 世 界 と 清 浄 な 極 楽 浄 土 が、 は る か な 隔 た り を もって位置していることを、海獣によって象徴的に示していると論 じた。また土屋貴裕氏は、本絵巻のこの段における海と須弥山を取 り上げ、玄奘がこれから向かおうとする天竺と須弥山のイメージを 重ねることで、天竺が須弥山に並ぶほどの聖地であり、はるか遠く 図6 石蓮華、須弥山 「玄奘三蔵絵」巻一第四段 部分 図7 雷神 「玄奘三蔵絵」巻一第四段 部分(3 藤田美術館所蔵「玄奘三蔵絵」小考
―
詞書と絵画表現に見える観音信仰に着目して―
に位置していることを象徴するとした )11 ( 。つまり、海の此岸と彼岸に は、我々が窺い知れないほどの隔たりがあり、海獣の泳ぐ海は未知 の世界への入り口を象徴している、というわけである。確かに中国 から天竺への道のりやその場への憧憬が、人間のいる閻浮提から聖 地である須弥山までの距離や、その神聖さに例えられたとみること ができ、海獣が跋扈する大海はまさしく異世界への入り口と言える であろう。 では、 本絵巻の研究でこれまで取り上げられてこなかった雷神は、 いったい何を意味しているのであろうか )11 ( 。 雷 神 と い え ば、 「 北 野 天 神 縁 起 」 の 道 真 の 怨 霊 が 真 っ 先 に 思 い 浮 かぶが、 怨霊が玄奘の夢と深く関係しているとは考え難い。一方で、 『 法 華 経 』 の 見 返 絵 や、 観 音 経 絵、 補 陀 落 山 浄 土 図 な ど の 観 音 信 仰 に関連する絵画の中に、雷神が海の上におり、海獣と同じ場面に登 場する例を見出すことができる。 『 法 華 経 』 の 見 返 絵 で は、 釈 迦 説 法 の 様 子 を 中 央 に 配 し、 そ の 周 囲 に 各 巻 に 含 ま れ る 品 の 内 容 を 描 く。 ま た 日 本 で は、 『 法 華 経 』 は 通常全八巻の構成をとるが、 雷神と海獣が同じ画面に描かれるのは、 決まって「普門品」が含まれる巻八の見返絵である。 分かりやすい例として、滋賀・百済寺所蔵『法華経』巻八見返絵 (十二世紀)を取り上げる(図 ()。全体を見ると、中央に釈迦説法 の様子を据え、そこから上方を遠山で仕切り、その上に激しく波打 つ荒れた海を描く。また釈迦説法の下方では、左右で異なる場面を 描く。 画面上方の右には、沈没しそうな船と、そこから落下したと思し き荷物、その周りに恐ろしげな魚が見える。中央と左には、船の方 を向いた龍と雷神を大きく描く(図 ()。 一方、画面右下には、衝立を背後に据えた台座に坐す男女と、そ の前で頭から水、足から火を出す童子、頭から火、足から水を出す 童子、その方向を見て坐す人物を描く。加えて画面左下には、二人 図8 『法華経』巻八 見返絵 滋賀・百済寺美 術 史 学 第四十二号 (4 に押されて崖の上から落とされた男、崖下にもそれと同一人物であ ろう男を合掌する姿で再度描く(図 (0)。 これらが何を意味するのかは、見返絵と『法華経』巻八に収録さ れ る 品 の 内 容 を 照 ら し 合 わ せ る こ と で 明 ら か に な る。 実 の と こ ろ、 この見返絵は、 画面の半分ほどを「普門品」の内容表現に使用する。 画 面 上 方 は、 「 普 門 品 」 の「 念 彼 観 音 力 」 の 効 果 が 発 揮 さ れ る 場 面をあらわすとみられる。具体的には次の二つの偈、 或漂流巨海、龍魚諸鬼難、念彼観音力、波浪不能没 におけるそれぞれ前半の内容、すなわち荒れた海や海獣、雷雨など の悪天候に見舞われる場面を組み合わせて描く。また画面左下も、 或被悪人逐、墮落金剛山、念彼観音力、不能損一毛 という偈の絵画化である。なお、画面右下の表現は「普門品」では なく、 「妙荘厳王本事品第二十七」の内容を描くとみられる )11 ( 。 つまり、 この見返絵の難破船の周りを囲む魚や、 巨大な龍、 雷神、 崖 か ら 突 き 落 と す 人 物 と い っ た モ チ ー フ は、 「 普 門 品 」 の「 念 彼 観 音力」の効果によって排除される存在をあらわしている。以下、本 稿ではこれを「難」の表現と呼ぶこととする。 図9 『法華経』巻八 見返絵 画面上部 滋賀・百済寺 図10 『法華経』巻八 見返絵 画面下部 滋賀・百済寺
(( 藤田美術館所蔵「玄奘三蔵絵」小考
―
詞書と絵画表現に見える観音信仰に着目して―
ほかの『法華経』巻八の見返絵でも、ほとんどが同じ題材を選ん で お り、 画 面 上 方 に 荒 れ た 海 と 難 破 船、 雷 神 を 配 す る こ と が 多 い。 また、須弥山や金剛山から落とされても無事に済むとの題材も好ま れ た ら し く、 し ば し ば 認 め ら れ る( 表 二 )。 こ れ に よ り、 『 法 華 経 』 巻八に含まれる内容や、 「普門品」 を絵画化する際のモチーフとして、 龍や摩竭魚と共に雷神が選ばれたことが確認でき、その組み合わせ が「普門品」に関係することが明らかとなる。 見返絵以外には、石川・本土寺所蔵「観音経絵」 (十三世紀後半) や、メトロポリタン美術館所蔵「観音経絵巻」 (十三世紀半ば) 、富 山・ 本 法 寺 所 蔵「 法 華 経 曼 荼 羅 図 」( 十 四 世 紀 ) な ど「 普 門 品 」 を 絵画化した作品に同様のモチーフが認められ、ここでも「難」の表 現 と し て 雷 神 が 描 か れ る )11 ( ( 図 ((、 ((、 (3)。 ま た、 こ れ ら の 絵 画 化 では、雷神と風神の一対を同時に「難」の表現として扱う例は少な 図11 「観音経絵」左幅 部分 石川・本土寺 図13 「法華経曼荼羅図」部分 富山・本法寺 図12 「観音経絵巻」部分 メトロポリタン美術館美 術 史 学 第四十二号 (6 く、雷神のみを描くことが多い。 (三)補陀落山浄土図との共通点 以 上 を 踏 ま え、 「 普 門 品 」 の 絵 画 化 以 外 に 関 係 す る 作 例 と し て、 観音の浄土を描いた補陀落山浄土図に注目したい。まず、奈良・東 大 寺 戒 壇 院 千 手 堂 の 千 手 観 音 厨 子 奥 壁 画「 補 陀 落 山 浄 土 図 」( 十 四 世紀半ば、以下東大寺戒壇院本)は、荒れた海の上に、中腹がへこ み、 山頂が膨らむ形をした巨大な補陀落山を描く作品である (図 (4)。 注目すべき点は、海上の龍や摩竭魚と、画面上方の風神と雷神であ る。これらは、本絵巻の巻一第四段に登場するモチーフと一部重な る。 東大寺戒壇院本の海獣は、加須屋氏の見解のように、この世と浄 土の隔たりの象徴と理解されるであろう。また、風神と雷神は、一 般的に千手観音の眷属二十八部衆の家来であり、千手観音に従う存 在 と さ れ る。 確 か に、 『 別 尊 雑 記 』 の 図 像 や、 い く つ か の 千 手 観 音 二十八部衆像の絵画作品に、風神と雷神が示されるのと同様、東大 寺戒壇院本でも一対として画面上方の左右に配す。また、この作品 は千手観音像の厨子壁画であり、風神、雷神、千手観音という一式 が揃っていることからも、眷属としての性格が認められる。 次 に、 京 都・ 海 住 山 寺 の 本 堂 旧 壁 画「 補 陀 落 山 浄 土 図 」( 十 五 世 紀後半、 以下海住山寺本 )11 ( )、 福井 ・ 大善寺所蔵の黒漆塗厨子正面扉(十 図14 「補陀落山浄土図」 千手観音厨子奥壁画 奈良・東大寺戒壇院千手堂
(( 藤田美術館所蔵「玄奘三蔵絵」小考
―
詞書と絵画表現に見える観音信仰に着目して―
四 世 紀、 以 下 大 善 寺 本 ) を 見 る( 図 ((、 (6)。 荒 れ た 海 上 に 巨 大 な 補 陀 落 山 が 浮 か ぶ と い う 基 本 的 な 型 や、 補 陀 落 山 に 描 か れ る 僧 侶、 獅子などのモチーフは、東大寺戒壇院本と一致する。しかし、空に 描かれるモチーフが異なる。ここでは風神を描かずに、雷神のみを 補陀落山の向かって左側に配している(図 ((、 (()。 先 述 の よ う に、 「 普 門 品 」 の 絵 画 化 に は、 風 神 を 描 か ず に 雷 神 の みで「難」を表現する例が多く認められた。ここでは、必ずしも雷 神を観音菩薩の眷属として描いているわけではない。このような例 と同様に考えると、海住山寺本や大善寺本に描かれた雷神、また龍 や 摩 竭 魚 は )11 ( 、「 普 門 品 」 に 説 か れ る よ う な、 観 音 菩 薩 に よ っ て 排 除 される「難」をあらわすと解釈できる。つまりこれらは、異世界と 図15 「補陀落山浄土図」京都・海住山寺本堂旧壁画 図16 「補陀落山浄土図」厨子正面扉内面 福井・大善寺美 術 史 学 第四十二号 (( の境界を示すだけでなく、補陀落山に辿り着こうとする者に対する 障害の象徴でもあるとみられる。 ここで、本絵巻の夢中の場面に話題を戻す。多くの『法華経』巻 八 の 見 返 絵 に お い て は、 「 普 門 品 」 の「 山 か ら 堕 ち る 難 」、 「 海 に 漂 流して海獣に襲われる難」 、「雷などの悪天候に見舞われる難」を選 んで絵画化していたが、 これらは本絵巻の巻一第四段に描かれる 「巨 大な山」 、「海獣の泳ぐ荒れた海」 、「雷神」という場面やモチーフの 選択と重なる。さらに、巻一第四段の荒れた海の上に巨大な山が浮 かぶ構図は、先に言及したいくつかの補陀落山浄土図の構図に極め て 近 似 す る。 巻 一 第 四 段 の 山 は 補 陀 落 山 で は な く 須 弥 山 で あ る が、 特に中腹がくぼむ山の形状や、滝が流れ、所々に植物が生え、海に は海獣、空には雷神がいるといった要素が共通する。 平安時代から鎌倉時代にかけ、補陀落山を表現する際に用いられ た『 不 空 羂 索 神 変 真 言 経 』 巻 八「 清 浄 無 垢 蓮 華 王 品 第 十 一 」 で は、 補陀落山は須弥山と同様の形であると説明されるため )11 ( 、二つの山の 形が似ているのは当然ではある。ただ、本絵巻とそのほかの作例に おいては、海獣や雷神が現れる部分までもが一致する。補陀落山を 想像させるよう、意図して描いたとみてよいであろう。すなわちこ の 場 面 は、 「 普 門 品 」 の 絵 画 化 を 連 想 さ せ る モ チ ー フ を 選 び つ つ、 須弥山と補陀落山という二つの山のイメージを重ね、海獣や雷神が 「 難 」 を 運 び、 そ れ が 観 音 菩 薩 の 力 に よ っ て 排 除 さ れ る 様 子 を 描 き 図18 雷神 「補陀落山浄土図」部分 福井・大善寺 図17 雷神 「補陀落山浄土図」部分京都・海住山寺本堂旧壁画
(( 藤田美術館所蔵「玄奘三蔵絵」小考
―
詞書と絵画表現に見える観音信仰に着目して―
出したと解釈できる。 以上を踏まえると、巻一第四段の絵全体に観音菩薩を彷彿とさせ る要素が散見されることから、玄奘に夢を見せ、助けたのは観音菩 薩であると考えられる。さらに、土屋氏による「須弥山と天竺の聖 地イメージを重ねている」との指摘を考慮すると、須弥山の周囲に 雷神や摩竭魚などの「難」を配し、聖地としての天竺へ行く困難を 表現する一方、蓮華やつむじ風の助けにより、玄奘が須弥山の頂上 に到着していることから、観音菩薩に助けられつつ、無事に天竺に 到 達 し 疑 問 を 解 決 す る と い う、 「 先 途 を と げ る 」 未 来 を 暗 示 し て い ると結論付けることができる。四
制作主体について
―
大乗院僧・慈信に注目して
―
本 絵 巻 の 制 作 主 体 と し て は、 公 家 の 西 園 寺 公 衡 お よ び 洞 院 実 泰、 ま た 大 乗 院 僧 の 慈 信 が 挙 げ ら れ て い る。 し か し 本 絵 巻 を 見 る 限 り、 例えば「験記絵」や「石山寺縁起」詞書で、制作企画者の家系に関 わる内容を選んで記述するような、西園寺家および洞院家の関与を 思 わ せ る 内 容 は 確 認 で き な い )11 ( 。 し た が っ て、 本 絵 巻 に は「 験 記 絵 」 との共通点はあるものの、公衡が積極的に制作に関わったとは考え 難 い。 ま た 実 泰 の 詞 書 染 筆 へ の 参 加 は あ く ま で 結 縁 の た め で あ り、 絵 や 詞 書 に 注 文 を 付 け る ほ ど の 深 い 関 わ り で は な か っ た と み ら れ る。 一方、大乗院僧については、前章にて挙げた補陀落山浄土図の図 様 と の 関 係 が 想 定 で き る。 こ の 図 様 は 大 乗 院 を 中 心 と し た 律 宗 の ネットワークの中で展開し )11 ( 、鎌倉時代初期の絵仏師・尊智、及びそ の弟子たちによって継承され、尊智と同時代の大乗院門主・信円以 降、 大 乗 院 に お い て 尊 ば れ て い た と い う )1( ( 。 ま た、 「 玄 奘 三 蔵 絵 」 巻 一第四段の絵が、一連の補陀落山浄土図の構図に近いことはすでに 述べた通りであるが、尊智の弟子・命尊が高階隆兼と同時代に活躍 した事に注目したのが、谷口耕生氏である )11 ( 。両者の画風に通じるも のがあるとしたほか、巻一第四段の絵は、尊智流の絵仏師により受 け継がれた聖地図像に通じ、この図像の隆兼工房への影響も想定し た。 また、特に慈信については、落合氏が本絵巻の発企者として挙げ る 覚 円 と の 関 係 に も 注 目 で き る。 『 三 箇 院 家 抄 』 中 の「 血 脈 相 承 次 第等」によれば、覚円は慈信の弟子であった )11 ( 。また『尋尊記』では 覚円の弟子であり、一乗院僧の覚実を大乗院の末流としており )11 ( 、大 乗院側の認識としては、慈信、覚円、覚実という法流があったこと が指摘されている )11 ( 。 本絵巻の制作主体が慈信であった可能性は、すでに源氏、谷口氏 によって指摘され )11 ( 、特に谷口氏は、慈信が有した大乗院の血脈相承美 術 史 学 第四十二号 (0 に対する意識の高さに注目し、その血脈を明示するために本絵巻制 作を企画した可能性を提示した。 一方、 慈信の大乗院相承については安田次郎氏による研究があり、 慈 信 が 大 乗 院 に お け る 地 位 を 確 立 し た 時 期 に、 西 大 寺 流 の 律 僧 や、 西大寺の末寺であった、額安寺とつながりを持っていたことを挙げ た )11 ( 。 額安寺は、代表的な律僧である叡尊、忍性により再興され )11 ( 、一連 の聖地図像と同種の補陀落山浄土を描く黒漆塗六角厨子(現・法隆 寺 所 蔵、 鎌 倉 時 代 ) が 伝 わ っ た 寺 と さ れ る )11 ( ( 図 (()。 こ こ に は 雷 神 は描かれないものの、東大寺戒壇院本などと同様のモチーフが確認 できることから、信仰基盤を共にする共通の図様に依った可能性が 高いとの指摘がある )11 ( 。 さらに安田氏は、大乗院が鎌倉時代後期(一二九〇年頃)に南都 に立てた南市に関し )1( ( 、慈信が軸となって市立てを行い、それに西大 寺流律僧・信空が関与した可能性を示した。また南都の市としては 珍しい観音堂の存在に注目し、信空を中心とする律僧が、南市の祭 神として観音菩薩の勧請を行ったと推測した。同氏は勧請の主体と して律僧に注目したが、大乗院側の信仰も一方で考慮すべきであろ う。 慈信本人も鎌倉時代末期において、貞慶の観音信仰を継承してい た人物であったとされる )11 ( 。また慈信には、快慶の弟子・長快作の長 谷寺式十一面観音像(三重・パラミタミュージアム所蔵)との関係 も 見 出 せ る )11 ( 。『 尋 尊 記 』 に よ れ ば、 本 像 は も と も と 禅 定 院 観 音 堂 の 本尊であったが、堂宇が倒れたのち、慈信の御座所であった「福智 院御所御堂」に移されている )11 ( 。 先述のように、本絵巻の詞書には鎌倉時代初期の貞慶や明恵の著 作を参照したと認められる部分があることから、貞慶周辺の思想を 受け継ぐ僧の関与が想定される。また本稿にて、本絵巻に観音信仰 が反映されていることが明らかになったため、特に観音菩薩を重ん じる人物が制作主体として挙げられるであろう。 慈信は鎌倉時代初期から隆興した貞慶を中心とする観音信仰の流 図19 「補陀落山浄土図」 六角厨子背面 奈良・法隆寺
(( 藤田美術館所蔵「玄奘三蔵絵」小考
―
詞書と絵画表現に見える観音信仰に着目して―
れを汲んでいた。また鎌倉時代末期に至り、律僧との活動で観音信 仰を重んじ、長谷観音への信仰も有していた人物とみられる。さら に覚円との師弟関係があることから、慈信を媒介に覚円も制作に関 わ っ た 可 能 性 が 高 い。 こ れ に よ り 落 合 氏 の 指 摘 に あ る よ う に、 「 験 記絵」制作の縁によって、大乗院と直接の関係を持たない人物にも 詞書染筆を仰ぐことができたであろう。 以上の理由から、本絵巻の制作主体は大乗院僧・慈信であり、信 円・貞慶の時代から受け継がれた大乗院の血脈相承の明示という目 的標榜の一手段として、巻一第四段のような聖地の図像を用いた可 能性を指摘しておきたい。お
わ
り
に
本稿では、 これまでの本絵巻研究でさほど論じられてこなかった、 詞 書 と『 慈 恩 伝 』 と の 細 か な 差 異 や、 モ チ ー フ の 象 徴 性 に 着 目 し、 観音信仰の反映が認められることを指摘した。また制作主体として 大乗院僧・慈信を挙げ、大乗院の血脈相承への意識をもとに、鎌倉 時代初期から受け継がれた聖地図像を用いた可能性に言及した。し かし、観音菩薩や「普門品」の功徳を重んじる内容に詞書を改変す る理由は、血脈の明示、あるいは単に大乗院本尊への信仰のみに終 始するものではないと考える。そこで最後に、本絵巻制作や律僧と の活動において、観音菩薩が重視された理由について触れておく。 慈信が貞慶の思想を受け継ぎ、春日四宮信仰に基づく十一面観音 信仰を有していた可能性は高い。貞慶の著作によれば、観音信仰の 一つとして、極楽浄土や補陀落山浄土への往生を期待していた )11 ( 。ま た南市にて、律僧や一般の人々が観音菩薩に期待したことも、極楽 浄 土 へ の 引 接 で あ っ た と い う )11 ( 。 こ れ は、 叡 尊 の 弟 子・ 定 証 に よ る、 嘉元四年(一三〇六)の尾道 ・ 浄土寺再興の際の「定証起請文」 (以 下、 「起請文」 )などをもとにした推測である )11 ( 。 しかし、 ほかに鎌倉時代末期の律僧と観音信仰、 さらに「起請文」 に関して、長谷寺式十一面観音に対する信仰にも注目すべきであろ う。 「 起 請 文 」 に よ れ ば、 浄 土 寺 復 興 に 伴 っ て 新 造 し た 十 一 面 観 音 像は、長谷観音を模していたという )11 ( 。また再興に信空が関与してい たことも見逃せない )11 ( 。 近年、叡尊以降の中世律僧により、長谷寺観音信仰が各地に広め られた可能性が注目されている )11 ( 。これに関して、先述の禅定院観音 堂伝来の長谷寺式十一面観音像を安置した福智院の門主として、 『尋 尊記』は叡尊の名を挙げる )1( ( 。大乗院と律僧の関係を考察する上で重 要な記述であろう。また長谷観音には、春日四宮信仰との融合を見 せる作例も残る )11 ( 。長谷寺を末寺とした興福寺大乗院、律僧と共に活 動したとされる慈信もまた、長谷寺観音信仰の流布に関与していた のではないか )11 ( 。美 術 史 学 第四十二号 (( いまだ解き明かすべき疑問が多く残るが、慈信と律僧の関係、鎌 倉時代末期の大乗院と、長谷寺を始めとする末寺の観音信仰の究明 を今後の課題として提示し、ひとまず本稿を終えることとしたい。 【注】 ( () 源 豊 宗「 玄 奘 三 蔵 絵 総 説 」( 源 豊 宗 編『 新 修 日 本 絵 巻 全 集 第 十 五巻 玄奘三蔵絵(法相宗秘事絵詞) 、角川書店、一九七七年) 。 ( () 旧本の問題については、主に以下の論文で言及されている。 ・ 谷信一「玄奘三蔵絵と春日権現験記絵の伝来」 (『室町時代美術 史論』 、東京堂、一九四二年) 。 ・ 源豊宗「法相宗秘事絵詞について」 (『大和文華』三十、一九五 九年) 。 ・ 宮次男 「玄奘三蔵の絵巻
―
法相宗秘事絵詞―
」(『古美術』 七、 三彩社、一九六五年) 。 ・ 源氏前掲注( ()論文。 ・ 永島福太郎「玄奘三蔵絵の製作環境―
詞書書写年代の推定を 中 心 と し て―
」( 源 豊 宗 編『 新 修 日 本 絵 巻 全 集 第 十 五 巻 玄奘三蔵絵(法相宗秘事絵詞) 』、角川書店、一九七七年) 。 ・ 小松茂美 「二か一か―
「玄奘三蔵絵」 の制作をめぐって」 (小 松 茂 美 編『 続 日 本 絵 巻 大 成 第 九 巻 玄 奘 三 蔵 絵 下 』、 中 央 公論社、一九八二年) 。 ・ 中野玄三「 「玄奘三蔵絵」概説」 (小松茂美編『続日本絵巻大成 第九巻 玄奘三蔵絵 下』 、中央公論社、一九八二年) 。 ・ 加藤悦子 「鎌倉時代末期に於ける宮廷絵所の研究」 の内、 「五 「玄 奘三蔵絵」について」 (東京大学博士論文、一九九四年) 。 ・ 谷口耕生 「総説 玄奘三蔵絵―
三国伝灯の祖師絵伝―
」(『天 竺へ 三蔵法師 3万キロの旅』展図録、奈良国立博物館、二〇 一一年) 。 ( 3) 高階隆兼工房による古画研究については、以下の論文で詳しく述 べられる。 ・ 加 藤 悦 子「 「 春 日 権 現 験 記 絵 」 研 究 」( 『 美 術 史 』 一 三 〇、 一 九 九一年) 。 ・ 高 岸 輝「 天 皇 と 中 世 絵 巻 」( 『 天 皇 の 美 術 史 』 三、 吉 川 弘 文 館、 二〇一七年) 。 また、異国の表現においても、従来の手法を用いることが指摘 される。特に奈良・内山永久寺(廃寺)の障子絵であったとさ れる十二世紀制作の「真言八祖行状図」とのモチーフの一致に ついては、以下の論文で述べられる。 ・ 柳澤孝 「真言八祖行状図と廃寺永久寺真言堂障子絵 (一) ~(五) 」 (『美術研究』三〇〇・三〇二・三〇四・三三二・三三七、一九 七 六 ~ 一 九 八 七 年、 同 氏 著『 柳 澤 孝 仏 教 絵 画 史 論 集 』〔 中 央 公 論社美術出版、二〇〇六年〕に再録) 。 ・ 北 澤 菜 月「 高 階 隆 兼 に と っ て の「 玄 奘 三 蔵 絵 」」 (『 天 竺 へ 三 蔵 法師 3万キロの旅』展図録、奈良国立博物館編、二〇一一年) 。 このほかに、 本絵巻と同様に異国を描く 「吉備大臣入唐絵詞」 (ボ ストン美術館所蔵、 十二世紀末~十三世紀初)を見ると、 「中国風」 をあらわす服装、持ち物、腰掛け、机、車などのモチーフに近似 が認められる。また本絵巻巻十第三段の、玄奘が翻訳作業をする 場 面 と、 「 吉 備 大 臣 入 唐 絵 詞 」 第 二 段 の、 唐 人 達 が『 文 選 』 の 難 解な部分について討議する場面に登場する「鼻をかむ人」の形も 一致し、 「彦火々出見尊絵巻」 (模本、明通寺所蔵、十七世紀)に(3 藤田美術館所蔵「玄奘三蔵絵」小考
―
詞書と絵画表現に見える観音信仰に着目して―
も登場する。さらに本絵巻巻十二第四段の無遮大会の場面に描か れる病人たちは、一部「病草紙」からの図像学習が認められる。 ( 4) 中野氏前掲注( ()論文にて明恵の著作との関連の指摘が、野村 卓 美「 解 脱 房 貞 慶 と『 玄 奘 三 蔵 絵 』―
貞 慶 作『 中 宗 報 恩 講 式 』 をめぐって」 (『文芸論叢』七三、二〇〇九年)にて貞慶の講式と の関連がそれぞれ指摘される。 ( () 谷氏前掲注( ()論文。 ( 6) 源氏前掲注( ()論文、 中野氏前掲注( ()論文などで、 「験記絵」 と本絵巻の装丁、画風などの近似が指摘される。 ( () 『実隆公記』長享二年(一四八八)八月十三日条( 『実隆公記』巻 二上、続群書類従完成会太洋社、一九五八年、 〈 〉内は割注) 。 ( 略)〈玄奘三蔵絵隆兼筆、 南都大乗院絵、 彼院家如血脈相承、 異于他霊宝云々、画図之彩色玄々妙々驚目者也、都合十二巻 在之、 〉可令拝見之由勅定、詞読申上、 〈九巻予読之、三巻連 輝軒読之給、 〉 ( () 末 柄 豊「 『 春 日 権 現 験 記 絵 』 の 奉 納 を め ぐ っ て 」( 『 日 本 歴 史 』 六 九 五、 吉 川 弘 文 館、 二 〇 〇 六 年 ) に よ れ ば、 「 験 記 絵 」 は 完 成 後 すぐに春日大社に奉納されたわけではなく、西園寺公衡が亡くな るまでその手元に残され、その後に奉納された可能性が高い。 ( () 源氏前掲注( ()論文(一九五九年) 、永島氏前掲注( ()論文。 ( (0) 「三箇院家等相伝次第」 『史料纂集 三箇院家抄』巻一(続群書類 従完成会、一九八一年) 。 ( (() 永島福太郎執筆『国史大辞典』五「興福寺大乗院」によると、創 立後、大乗院は治承四年(一一八〇)に起きた平氏の焼き討ちに より寺地が被害をうけたため、 当時の大乗院門跡であった信円 (一 一五三~一二二四)が、兵火を逃れた禅定院に移り、ここを新た に大乗院家に定めたという。この禅定院は、もとは元興寺の末院 として興福寺僧の成源(一〇〇四~一〇五八)が建立した。 谷口氏前掲注( ()論文によれば禅定院とは、玄奘のもとで学 んだ道昭が、 帰国後に飛鳥の地に建てた法興寺(元興寺)禅院が、 平城京遷都後に移されて禅院寺になった後、さらにその後身とさ れた寺院である。治承の兵火後に信円によって大乗院と禅定院の 二つの院が統合されたことが、興福寺系の北寺伝と、元興寺系の 南寺伝が信円の時代に併合され、以降、窺基を直接の祖師として いた興福寺側で、玄奘も祖として仰ぎ、玄奘からの血脈を意識す る根拠となるとした。 ( (() 『 興 福 寺 濫 觴 記 』、 『 南 都 七 大 寺 巡 礼 記 』 と も に『 続 々 群 書 類 従 』 第十一輯。 ( (3) 「大乗院門跡次第」 (『続群書類従』第四輯下) 。 ( (4) 源氏前掲注( ()論文、谷口氏前掲注( ()論文。 ( (() 落合博志 「「玄奘三蔵絵」 の詞書筆者」 (『絵巻マニア列伝』 展図録、 サントリー美術館、二〇一七年) 。 ( (6) 落合氏前掲注( (()論文にて言及される覚円と洞院家の関係につ いては、大藪海「興福寺東門院の相承 文明四年北畠氏子弟入室 の前提」 (『史学』第八十巻、二〇一一年)に詳しい。 ( (() 詞書は、小松茂美編『続日本絵巻大成 第七~九巻 玄奘三蔵絵 上・中・下』 (中央公論社、一九八一~一九八二年)を参考にし、 句読点は筆者が付した。 『慈恩伝』は『大正新修大蔵経』巻五十、 訓読は『国訳一切経』史伝部巻十一を参考にし、旧字・異字体は 常用漢字に改めた。また、 傍線を付した部分が詞書において付加、 変更された部分、二重傍線を付した部分が詞書において削除され た部分である。美 術 史 学 第四十二号 (4 ( (() 『広説佛教語大辞典』上巻(東京書籍、 二〇〇一年) 【化人】より、 ①神通力によって現出された人。変化の人。幻の人間。化作され た人。②神仏が自ら姿を変えて人となって現れた者。権者。③人 間を教化すること。④魔法使い。幻術師。 ( (() 『新日本古典文学大系 三四 今昔物語二』 (岩波書店、一九九九 年) 。 ( (0) 中島悦次著『打聞集』 (白帝社、一九六一年) 。 ( (() 『続群書類従』第三十二輯下。 ( (() な お、 金 文 京「 『 西 遊 記 』 の 魅 力 」( 『 中 国 四 大 奇 書 の 世 界 』 和 泉 書院、二〇〇三年)にて、玄奘が観音菩薩から『般若心経』を授 かる話は、 中国でも玄奘の死後まもなく伝説として存在しており、 しかも広く流布していたことが指摘される。 ( (3) 『大正新修大蔵経』巻九、一九一頁c ・ 若三千大千国土満中夜叉羅刹。欲来悩人。聞其称観世音菩薩名 者。是諸悪鬼。尚不能以悪眼視之。況復加害。 ・ 或遇悪羅刹、毒龍諸鬼等、念彼観音力、時悉不敢害。 ( (4) 中世の「生身」観については、以下の論文に詳しい。 ・ 奥健夫「生身仏像論」 (『講座日本美術史』第四巻、東京大学出 版会、二〇〇五年) ・ 長岡龍作「高清水善光寺阿弥陀如来像と中世の生身観」 (『仏教 芸術』三〇七、二〇〇九年) ( (() 佐藤弘夫 「彼岸に誘う神 : 日本の浄土信仰におけるイメージとヴィ ジ ョ ン( 公 開・ 国 際 シ ン ポ ジ ウ ム イ メ ー ジ と ヴ ィ ジ ョ ン 東 西 比 較 の 試 み )」 (『 死 生 学 研 究 』 十 六、 二 〇 一 一 年 ) に よ れ ば、 中 世 の「生身」信仰について述べられる。中世では、祈願者の祈りに 応え、その場にヴィジョン(仏像や神像といったモノとしての質 量を持った存在に対して、幻視や夢などのように実体を伴わない 存在のこと)がじかに姿を現す現象は、祈りの成就を意味し特に 尊重され、 この願いに応じて顕現するヴィジョンは、 しばしば「生 身」と呼ばれたという。 ( (6) 小 松 茂 美 編『 続 日 本 絵 巻 大 成 第 七 巻 玄 奘 三 蔵 絵 上 』( 中 央 公論社、一九八一年)によれば、傍線部は「これ先達をとけ給へ き 祥 瑞 な る へ し 」 で あ る が、 「 先 達 」 を「 遂 げ る 」 と 続 け る 用 例 は 見 ら れ な い。 改 め て 詞 書 の 文 字 を 確 認 す る と、 小 松 氏 が「 達 」 とする文字は、 「途」のようにも見える。 「先途を遂げる」であれ ば、 「目的 ・ 本望を遂げる」という意味になり、 文意も通じる。よっ て本稿では「達」を「途」と読む。 ( (() 中野氏前掲注( ()論文。 ( (() 野村氏前掲注( 4)論文。 ( (() 本絵巻の巻三第二段、巻四第六段、巻六第一段、巻六第六段、巻 七 第 九 段、 巻 八 第 二 段 詞 書 に て、 『 瑜 伽 師 地 論 』 を 学 ぶ こ と に こ だわる玄奘を語る。 ( 30) 西郷信綱『古代人と夢』 (平凡社、一九七二年)では、 「夢は神仏 などの他者によって見せられるもの」という考えを、中世文学な どを例に述べる。 ( 3() 加須屋誠「金戒光明寺所蔵地獄極楽図屏風試論
―
その図様構成 と 主 題 の 問 題―
」( 京 都 大 学 文 学 部 美 学 術 史 学 科『 研 究 紀 要 』 第一二号、一九九一年、同氏著『仏教説話画の構造と機能―
彼 岸と此岸のイコノロジー―
』〔中央公論美術出版、二〇〇三年〕 に再録) 。 ( 3() 土屋貴裕「絵巻に描かれたた旅―
鎌倉 ・ 南北朝期における祖師 ・ 高僧伝絵の制作をめぐって―
」( 『王朝文学と交通 平安文学と(( 藤田美術館所蔵「玄奘三蔵絵」小考
―
詞書と絵画表現に見える観音信仰に着目して―
隣接諸学 (』竹林舎、二〇〇九年) 。 ( 33) 小 松 茂 美 編『 続 日 本 絵 巻 大 成 第 七 巻 玄 奘 三 蔵 絵 上 』( 中 央 公論社、 一九八一年)巻一第四段解説にて小松氏は、 「すでに、 「北 野天神縁起」などでなじみのもの。連鼓を背に、両手の桴を激し く打ちすえる雷神の表情は、一面、飄逸味に富んでいるではない か。 絵 師 の 遊 び を か い ま み る 思 い で あ る。 」 と 語 る の み で、 こ の 雷神の描かれた意味については特に言及しない。 ( 34) 童子二人は浄眼・浄蔵という名の子らで、外道のバラモン教信者 の父親の心を変えるために神変を起こしている。台座に座る男女 はその父母であり、童子二人の前で合掌するのは、改心後の父親 とみられる。 ( 3() 本土寺「観音経絵」は、雷神のほかに摩竭魚も描く。また徳川黎 明会所蔵の『法華経』普門品第二十五の見返絵(十二世紀)は摩 竭魚と龍を「難」として描く。 ( 36) 清 水 健「 解 脱 上 人 と 本 堂 旧 壁 画 」( 海 住 山 寺 公 式 H P・ 解 脱 上 人 特集・解脱上人寄稿集№五七 二〇一三年二月六日公開、二〇二 〇 年 八 月 五 日 最 終 ア ク セ ス、 h t t p : / / w w w . k a i j y u s e n j i . j p / g d / k i k o / s e n t e n c e / k 5 7 . h t m l ) で は、 海 住 山 寺 本 補 陀 落 山 浄 土 図 は 十 五世紀の作としては古様を示すことから、貞慶の晩年の時代にお ける祖本の存在を想定する。 ( 3() 海住山寺本は雷神のみで海獣を描かないが、 大善寺本は雷神、 龍、 摩竭魚を描く。 ( 3() 『大正新修大蔵経』巻二〇、二六八頁c 其山腰像須弥山腰。山顛九嘴猶若蓮花当中嘴状如蓮華台。山 上画諸宝樹花果一切薬草。山下大海水中魚獣水鳥之類。 ( 3() 野 間 清 六「 「 春 日 権 現 験 記 絵 」 の 概 観 」( 『 新 修 日 本 絵 巻 物 全 集 第十六巻 春日権現験記絵』 角川書店、 一九七八年) によれば、 「験 記絵」詞書は、西園寺家にゆかりのある霊験譚に重点を置き、詞 書が竹林殿造営の物語から始まるのも、西園寺公衡が竹林院と号 すことにちなんだとする。 また、洞院実泰息の洞院公賢が制作企画者とされる「石山寺縁 起」詞書では、洞院家に関わる歴史を選び、記述する。これにつ い て は、 相 澤 正 彦「 「 石 山 寺 縁 起 絵 巻 」 詳 解 」( 『 石 山 寺 縁 起 絵 巻 集成』論考 ・ 資料編 中央公論美術出版、二〇一六年)に詳しい。 ( 40) ①清水健氏前掲注( 36)論文。 ② 同氏 「観音来迎図の研究」 (『鹿島美術研究』 年報第二一号別冊、 二〇〇四年) 。 ③ 同 氏「 根 津 美 術 館 所 蔵 春 日 補 陀 落 山 曼 荼 羅 小 考 」( 『 美 術 史 学 』 二五、二〇〇五年) 。 ( 4() 谷口耕生 「鎌倉時代やまと絵の形成―
尊智 ・ 円伊 ・ 高階隆兼」 (『日 本美術全集八 中世絵巻と肖像画』 小学館、 二〇一五年) 、同氏 「南 都絵所の形成―
尊智流を中心に」 (『研究発表と座談会 平安時 代 後 期 を 中 心 と し て 絵 師 の 工 房 を め ぐ る 諸 問 題 』、 仏 教 美 術 研 究 上野記念財団、二〇一八年) 。 ( 4() 谷口氏前掲注( 4()論文。 ( 43)「 血 脈 相 承 次 第 等 」『 史 料 纂 集 三 箇 院 家 抄 』 巻 一( 続 群 書 類 従 完成会、一九八一年) 。 ( 44)『 尋 尊 記 』( 『 増 補 史 料 大 成 大 乗 院 寺 社 雑 事 記 』 臨 川 書 店、 一 九 七八年)文明七年四月五日条。 ( 4() 高 山 京 子「 門 跡 の 組 織 と 経 営 」( 『 中 世 興 福 寺 の 門 跡 』 勉 誠 出 版、 二〇一〇年) 。 ( 46) 源氏前掲注( ()論文、谷口氏前掲注( ()論文、野村氏前掲注美 術 史 学 第四十二号 (6 ( 4)論文。 ( 4() ① 安田次郎「永仁の南都闘乱」 (『お茶の水史学』三〇、一九八七 年。 『中世の興福寺と大和』 〔山川出版社、二〇〇一年〕に「永 仁 の 闘 乱 」 と し て 再 録 )、 同 氏「 大 乗 院 の 譲 状・ 置 文 」( 『 中 世 の興福寺と大和』山川出版社、二〇〇一年) 。 ② 同 氏「 奈 良 の 南 市 に つ い て 」( 石 井 進 編『 中 世 を ひ ろ げ る