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(1)

『新千歳市史』編さんだより

志古津

過去からのメッセージ

Message From the past

HOKKAIDO

CHITOSE-CITY

世界一周大飛行の歌

作詞 掛川 俊夫 作曲 橋本 国彦 二 広い海原 雲の 峯 越え つ ゝ めぐる 五大 洲 わが ニッポン は たくましい つばさで強く 抱く のだ 三 すさ ぶ吹雪と 熱風の 大洋ふたつ 飛び越えて わが ニッポンの 行 くか な た 大空晴 れ て 虹を呼ぶ ※ 一 番 は 本 文 原 稿 中 に 掲 載 。 。 ︵昭和十四年制作︶

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表紙の写真(大)は、昭和14 年 8 月 27 日、世界一周に向 けて羽田を飛び立つ「ニッポン」を歓喜で見送る人々を伝 える新聞記事(東京日日新聞)。写真(小)は、米国国立文 書館が公開した米軍占領時に撮影された基地司令部庁舎。

志古

10号

目 次 エッ セイ 長都 の想 い出 ・・・ 神出 杉雄 ・・ 1 世界一周機﹁ニ ッ ポン﹂千歳 出 発 ・・・ 守屋 憲治 ・・ 4 明治 期千 歳の 学校 教 育 の実 情 ・・・ 西田 秀子 ・・ 米軍 文 書 に み る 空 襲 目 標 と して の千歳 ・・・ 及川 琢英 ・・ あと がき 明治期の千歳小学校の先 生たちと児童 後列の右から、石山専蔵学 務委員、三木勉戸長、小笹久 吉(『千歳小学校開校百年記 念誌』より)。

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猫 私は生 ま れる とき、 猫 に借り を つく った。祖 母の 話 で は、私が生まれ る 前、 家にい た 三 毛 とい う猫に 、﹁三 毛や、 赤 児 あか ご が生 ま れ た ら お前 は う ち に ゃ 置け ん け えの ﹂と 、 毎 日の よ う に 言 い 聞 かせ ていた そ うだ 。 その 頃 、 農村 では、 生 まれ た て の赤ん坊を藁 で 編 んだ ﹁いずこ ﹂に 寝せ て 家 に残し、 皆 で 畑仕 事 に 出 て しまう農家が多かった 。 そ の 留 守に猫が ﹁い ずこ ﹂に 入り込 み、赤 ん 坊に 添い寝を し て 、窒息 死 させる こ と が 時たまあ っ た 。祖母 は それ を心配し て い たのだ。 と こ ろ が 、私 が生ま れ たとき、家 人 が気 づかな い 間に 、三毛はいな くな って い た 。 ひと月ぐ らい経ったある寒い日、 祖 母 が 家の 近くの 林 道 を 歩い ていると、 道ばた に 積み上げ られた 棚 薪 たな まき ︵農 家の燃 料 ︶ の 上に、 三 毛が しょんぼりと 坐っ てい た 。 ﹁あり ゃ 、三毛 や 、わり ゃ こ げ んと こにおったんか 。 こ の 寒いに﹂と声 を か けると、三毛 は、なつ かしそ う に﹁ニャー ン ﹂ と 一 声 鳴い て、それ き り姿 を消し て しまった、 ﹁ 聞き分 け の え え 猫 じ ゃ った ﹂と祖 母は言う。 それ を 聞 いた私は 、子 供心に抱い た 三毛 に対す る 負い 目み たいなも のが 、 大きくなっ て も、心のど こ かに残って い たよ うだ。 風景 私が小学校 に入 ったの は 、昭 和元年 だ か ら 、 今 か ら 八四 年 前 であ る。 当時の長都には、今 の よ う な広々と した 田 園 の 風 景 は な く 、ほ とん ど が 雑 木林 で、と こ ろ ど ころに 畑 があり 、 水 田があっ た 。 家屋は お お む ね木造 の 草葺き屋根。 なか に は 壁 も すべ て草囲 い 、と い う 家 もあ った 。 材 料に は 葭 よし が使 われ ていた。 そ の ため火災が 多 く、 火災が 発 生す れ ば必 ず 全 焼 で 、 ど この 家 も た い てい 一 度は全焼に見 舞われ て いる。 大正 末期か ら 昭 和 の初め は 、ま だ ス ト ー ブも なく、 居 間の炉に薪を くべて 炊事 や、 冬の 暖をとっ た り するの で 、 煙く て大変 だ った 。 当 時 の 家は 、 居 間 には天 井 がない。草葺 きの 屋根 裏が露 出し ていて、 葭や、 骨 組みの丸太や、 荒 縄などが、 長 年 の 煙 で 真っ黒に 煤 すす け、煤が つ ら ら 状 にぶら下が っ て い ると こ ろ もあった 。 そ の下で 、 家族が 食事 をし てい ると 、 真 っ黒 な屋 根 裏 を、 青大 将 が 這 い 回 っ ている こ とも あ っ た 。 彼 ら は 、 逆 さに な っ て 屋 根裏 を 這 い 回 って も 、 決 し て 食 事を して い る と ころ へ落ちて くる ようなこ とは なかっ た 。 農業と生活 今は 色々な耕 作機械が使わ れ て い るが、 当時、 田 畑はす べ て 馬 耕だっ た 。 飲 料 水は井戸水、洗濯は小川や灌漑 用水など で、 照明 は 石 油 ラ ンプ 。 秋 の 収穫 で 多 忙にな る と、 徹夜作 業 に安 全灯と い うのが使わ れ て い た 。い ずれ 写真-1 昭和初期の草(葭)葺きの住宅(執筆者所蔵)

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も燃 料 は 石 油 で、 電 灯 が と もり 、 水道 が 普 及 し たの は戦後の こ と で ある 。 農家 は、春 か ら秋ま で は外 で働 くが、冬も縄綯 な い、米俵編 み など で 、 結構 忙しかった 。 冬 の夜、母 が家の 中 に稲藁 を 持ち 込ん で、 掌 ての ひら や指 を赤 く 擦 す り剥 む きな が ら 縄綯 い や 、俵 編み な ど をし て い た 光景 を私は思 い出 す。 昭和十 年 代に 入ると 、 縄綯 い機 という機械 が 出 て 来 て 、冬の重労 働か ら解放 さ れ、年 間 必 要 な数百 ㌔の 縄 が 、 短 時 日 で出 来 る よ う に な った 。 し か し 、当 時 の 農 家 はそ れ を 買う 金 が なか った の で 、 何 軒か 共同 で 購 入し、日程を 決め て 、 使 い 回し をし ていた 。 当時 、 稲 作農家の 経営は、 水持ち の悪 い火山 礫 地で 収 穫 が少 なく 、生 活が 苦しか っ た 。 畑 作 農 家 のほ う は 、 その筋 か らの 指導もあり 、酪農 が次 第に普及しつつあったが、その ﹁多 角経 営﹂がもた ら したもの は、極 度 の多忙さだった。農家 の 人々は、時間と体 力の 限 り を 尽 くし て 働 き続けな けれ ば な らな かった 。 学校 と生徒 私が小学校の一年生に入っ た 当時は、農 村 では 自転車 も 珍しい時代 だ っ た。学校 か ら 三㌔範囲 の子供 た ちは 、夏 も 冬 も、 雨の 日も吹雪 の 日 も、毎 日 歩 い て 通っ て い た。 もちろ ん 、親 が 送 り迎えす るわけで もな い。 通学す る 履物 は、 夏は草 履 、冬は 藁 で 編 んだ長 靴 だっ た。草 履 の鼻 緒な ど、 すぐ切れ て し ま う の で 、い ろいろ苦労した も の だ 。 子供たちの服装 は 、 家 でも学校 で も 、 夏 は木綿 の 絣 かす り の 袷 あわ せ 、 冬 は綿入れ など を着 ていた 。 鼻 水 を垂 らし ている 子 が多 く 、 そ れ を袖 で拭くの で、 着 物の 袖口は、乾いた 鼻 汁 で ぴかぴ か 光 っ て い た。 パンツ だ のズ ボン だ の 服だ のが 現われ て きた の は 、昭和四 年頃 で、そ れ までは、 校庭 で 遊 ん で いるときなど、男 の子 も女の 子 も、し ゃ が む と下の方が丸 見 え になるの で 、 お互いに冷やかした り して い た も の だ 。 子供たち の遊び は 、学校 で は、男 の 子 は砂 の 上 に 円 を描 き な が ら 相手 を 攻 め て い く ﹁国 盗り﹂ 、パ ッチ 、女 の子は 、 綾と り、おは じ き などだっ た が 、学校以外 で は、 雑木林へ 行っ て、服 や ズボ ン に あ ち こち鉤 かぎ 裂 き を作りなが ら 、木登りしたり 、 山い ちごや山 葡萄採りをしたり 、木 の 枝 写真-2 田植え(執筆者所蔵) 写真-3 鳥に餌をやる老女(執筆者所蔵) 写真-4 生徒たちも田植え作業(執筆者所蔵)

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に テ ング ス で 魚 針 とミミ ズ を ぶ ら下 げ て 、小 川で 魚釣りをしたりし て い た。 時には、小川に つ ないで あ る誰かの丸木舟を無断 で 借 用し て 長 都沼へ行く など 、﹁ 悪 さ ﹂も 結 構 やっ て い た 。 その 頃 、 長都 小学校という の は 、 現 在の長都神 社の隣で 、藤本敬一 氏 の 土地に建 てられ て いた、木 造板張りの 校 舎 で 、生徒 は 八十数人、一年生か ら六 年 生 ま で を、 二 つ の 教 室 に 押 し 込 ん で、 先 生 は 二 人 、 一 人 の 先 生 が 三 学級 ずつ を教 えていた。 一 時間 ごとに 一 五分の 休 憩 が あっ て、残 り 四五分 のなか で 、一学 級 が習う時 間は一五分しかない。あと は 自 習 だ が、 こ の 自 習の 間 、 真面目に勉 強し ている子 もいれ ば 、ノート や教科書の余白 に 落書 き を し た り、木 製 の机 のふ たにナ イ フ で 穴 を 開け たり、 い ろ い ろ な こ と を するの が いた 。 この 、長 都 小 学 校 は本 校 で 、 それか ら 約四 ㌔離れたと こ ろ に、 釜加の 分 校と い う の が あ り、そ こ では一年生から六年 生ま でを た っ た一人 の 先 生 が 担当し て いた 。し かし 、当 時 、 年間の 行 事 で あった 四 大 節 や、 運動 会、 学 芸 会な ど は 、本 校 、 分校 、全員 が 集まり 、 父兄 も 集ま っ て 盛 大 に行 われた の で 、 生徒 た ち に と っ て そ れ は楽 し い日 でもあ っ た。 とこ ろ が 、 昭 和 六 年 の 夏、 長都の 学 校 問 題と い う の が 始 ま っ た。 長都地 区 の半 分と釜 加 全域 の父兄が、子 供に登校拒否を さ せ、家 庭学習 を 始めたの だ。こ れ は 当 時 で は珍しい事件で、全国紙 に 大々的に報 道 さ れた。問 題 の 発生は、長 都 小学 校と釜 加 分校 と の 、 住 民の 意向 を 無 視 し た 移転 統合に あった。そのト ラ ブ ル は解 決されないま ま、長い年月 の中 で風 化 し てし ま っ た が 、 そ の 複 雑 な 顛 末 は 、 記 せ ば 長 く な る の で割 愛 し よ う。 写真-5 馬鈴薯掘り。小学生も放課後は労働力(執筆者所蔵)

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世界

一周機﹁

ポン

千歳

出発

新千 歳 市 史 編 纂 委 員 会 専 門 部員 はじめに ﹁ ニ ッポン﹂J︲B A CI とは、昭和十四︵一九三九︶ 年 八月二十七日 午後 三時三分四十 七 秒 に実 質的 な出発 地 点・千歳か ら 、世界 一 周 を めざ し 四三四 〇 ㌔ 彼 方の 米 ア ラス カ ・ ノー ムに向け飛 び 立った大阪毎 日 ︵ 大 毎 ︶・ 東京日日 ︵東 日︶新聞 社の 大 型 双 発 機 で ある。 ニ ッ ポン の 発 航は、戦 前 にお ける日 本航空史にお ける一 大 エポ ック で あ る が 、こ れま で 刊 行 さ れた﹃ 千 歳市 史﹄ 、﹃ 増補 千 歳 市史 ﹄ の い ず れに も そ の 機 名 を 見出すこ とは 出来な い 。八 三年の 歴 史を 有する 千 歳飛行 場 史 に お いて 唯一 つ日本 航 空史 関連書 籍 に記 事が掲 載 され る 事 件で あり、今年は ニ ッポン発 航か ら 七 〇年 の 記 念すべき 年に当る。 本 稿 に お いて は 、 ニッ ポン 以 前 の太 平洋 横 断 飛行 へ の 挑 戦 の経 過 、 図 書 に記述のないニッ ポ ン と な る機 体の誕生 と千歳 に おけ る様子 、 最 大 の難 関 で あ っ た 北太 平洋 無着 陸横 断 な どを 関 係 者 か ら 聞 き 取 り し た話 を 織 り 交 ぜ なが ら記述 し て い く 。 太平 洋 無 着 陸 横 断 飛 行 へ の 挑戦 昭和二年、 チ ャール ズ ・ リ ンドバーグ搭乗 の ラ イ アン単 葉 ﹁スピリット・ オブ・セントルイス﹂がニ ューヨ ー ク︲ パリ間=大西 洋 無 着陸横断飛行に 成功 し て か ら 飛 行 家の次 な る挑戦 は 太平 洋無 着陸横断 とな った。 航空機に よ る 太 平 洋無 着陸横 断 は、 昭和四年八月 の独飛行船 ﹁ グラ ー フ ・ ツ ェ ッペリン﹂で 霞ヶ 浦︲ロ サ ンゼ ルス間 九 五〇 〇㌔を 七 九時間二二 分 で 飛行した。来日 し た飛行船のコースは独 を 出 発、 ユー ラ シ ア大 陸か ら 樺 太 ︲ 天 売・ 焼尻︲岩内・ 寿都︲噴火湾 と北海道上空を縦断、茨城・土浦 の 霞 ヶ 浦 海 軍 航空隊に到着した 。 太 平 洋横 断飛 行は気象条件 を 考 えると偏西風 で 日 本か ら 北 米 大 陸 に 至る コー ス が 時 間 的 に 有 利 だ っ た 。 飛 行 機に よる挑 戦 の経 過は 次 の よう なも ので あっ た。 昭和五年 九月から の一 年間に、 青森 ・ 三 沢 村 淋 代 さびし ろ 海岸か ら 米ワシン トン 州 タ コ マ 市に向け、エ ムス コ 単 葉機 で 三 回の無着 陸飛 行 が 試みられた。 初 度 のブロムリ ー 、ゲ ッティ 搭 乗﹁シティ・オブ ・タ コ マ ﹂ は 悪天候 の ため得 撫 うるっぷ 島 付 近 か ら引 き返 し 尻 屋岬 尻 労 海 岸 に不 時 着 。 二 度目 、 ア ッ シ ュ 搭乗の ﹁ パ シ フイ ッ ク ﹂ は 離陸 に失敗 。 三度 目のモイ ル ・ アレ ン搭 乗の ﹁ク ラナ マ ッ ジ ﹂ は、 一 月 ほ ど をか け タ コマ に 到 達 し た が 記録 に 残 る も の で は なか った 。 こ れ ら は同 一機 体 を 改 造 、機 名 を 改 称 し た もの だ っ た 。 昭和六年十月四日、バングボーンと ハーン ド ンが 搭乗し た ベ ラ ンカ単 葉 ﹁ ミ ス・ ビード ル ﹂が 淋代から離陸、七九一〇㌔ 離れたワシン トン州ウエ ナ ッ チ飛行場 に胴体着 陸した。空気抵抗 を 減 らす ため 、太平 洋 上空 で 車 輪 を投 下 し ての 無着 陸 横 断 飛 行だ った 。 こ の よ う な状況下、日本の航空界も太平 洋 無 着陸横断の挑戦 を 試みた。 昭和三年には帝国飛 行 協 会 が ﹁ 日本 人の手によ っ て太平洋を 制 す﹂と、 川西K ︲ 12型単葉機 ﹁さ くら﹂ で 無 着 陸横断 を 計 画 した が 、 航 空 局の 堪航 ︵ 耐 空︶ 証 明 を 受 けら れず中 止 のや む な き に 至っ た。 昭和六年十二月、報 知 新 聞 社は無着陸飛 行 計画 を 発 表し た 。 ひ と つ は ミ ス・ビードル同型の ﹁ 報 知 日 の 丸﹂ で 米 国シア ト ル か ら日本 に 向 け 飛行 す る も の で あっ たが、七 年三月 に 名越大尉が 試 飛行 中に墜落した。

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も う ひ と つが日 本 人初 の無着 陸 飛行 の挑 戦 に こ ぎ つけ た 長 距 離 機 ユ ン カ ースW︲ 33型﹁第三 報知 日本号 ﹂ J︲ BFU Bだ っ た 。乗員 は 本 間 中佐 、 馬 場 飛 行 士、井 下 通信 士の三 名 。七 年九月十日に 東 京・ 羽田飛行場 を 離 陸 し た 。上空か ら 東 京朝日機 、 東 日機をはじめ と す る多く の 飛 行 機 が 壮挙 を 見送 った。最 終 出 発点は淋 代、飛 行 準 備 の上天 候 を 見 計らっ て 二十四日、 米ア ラスカ・ ノーム に 向 け 飛び 立 っ た が 択 捉 えと ろふ 島 を 通 過 後 、 消息 を絶った 。 北洋にお ける気 象 条件は厳し く 、気 象の変 化 に対応するこ とが 操縦士 に 求め られた が 、当時 の 測 候 技術 では千 島 列島上 空 の 気 象情報 を 得 る こ と は 出来なかった 。 晴 天下に日本を離陸し て も 航 路上 で 雨 、 濃 霧 、 強風に遭遇 する ことは避 けられな かった。無着陸飛 行に挑戦した こ の 項の三機種はい ず れ も単発 で 燃 料 を満 載した、まさに死と 隣 り合わせの冒険飛行だっ た 。 朝日 ・﹁ 神風 ﹂ の ロ ン ドン飛行 と大毎 ・ 世界一周飛行の企画 朝日と大毎・東日︵注・昭和十八年︲ 毎 日 新 聞と改題 ︶は、二大新聞 社 と し て 飛 行機に よ る取 材合戦で ある 新聞空中戦 を 繰り広 げ ると ともに 海 外 への 連 絡 訪 問 飛 行 を競っ て いた 。 朝 日 は大 英帝 国 皇 帝戴冠 式祝賀をかね東京 ︲ ロン ドン間一〇〇 時間飛行 を 研 究し、 連 絡 通 信機とし て 陸 軍 の 試 作 機キ 15を選定 し た。 こ の 三 菱 雁 型 かり がた 複座 機は 後に 九 七 きゅうな な 式司令 部 偵察 機となった 。 単発・低翼・ 固定脚の九 七 式司偵 は 、ノモンハ ン 事 件 から第 二 次 世 界大戦 初 期にかけ高速長 距 離性能 を 遺 憾な く発揮 し 全戦 域 を 縦 横 に翔 破した 名 機 で あっ た。最大 速度は 毎 時 五 〇 〇㌔ 、 航 続 距 離は 四〇〇 〇 ㌔に 及んだ 。 ﹁神風﹂ J︲BAAIと命名されたキ 15は飯 沼正明操縦士と 塚 越賢爾機 関士搭 乗 で、昭和 十 二 年四 月六 日午前 九 時十四 分 に東 京・ 立 川 飛 行 場 を 離 陸した 。 その 後、台北︲ハ ノ イ ︲ビエ ン チャ ン︲カル カッタ︲ジョ ドブー ル︲ カ ラ チ ︲ バス ラ︲バ グ ダッ ド︲アテ ネ︲ ロ ー マ ︲ パリ を経由し て ロ ン ドン・ ク ロイ ドン飛 行 場 に 着陸 した。全 行程 一万五三 五七 ㌔ を 九四時間 一 七分五六秒︵実 飛 行 時間五一 時間一九分二三秒︶と世界 的 大 飛行記録を樹 立 し た。 朝日は 神 風の 成功 を 受 け、 紙面 を 通 じ陸 海 軍 飛行機﹁ 全日本 号 ﹂ の献納キ ャン ペ ー ンを 敗戦まで 大々 的に展 開 し多 数 の 献 納 を な したと い う 。 大毎・東日 は昭和十四年四 月、朝日 の 神 風に対抗するため 世界一周 大 飛 行委員会を設置した 。 目的 は記録 を 狙ったもの で はなく、国際親善と 在 外 同 胞 の 激 励 に あった が 、当 時の 時 代 背 景 と し て 国威 発揚 もそ の 一 つ だ った 。 機 種 は 太 平洋 と 大 西洋 の二大 洋 を 横 断す る た め長 距 離 飛 行 が 可 能で 、 長 崎・ 大村と台 湾・台 北 か ら上海 、 南 京へ 東 支 那 シナ 海を 渡洋する 戦略爆 撃 を 敢 行し、国民か ら ﹁ 中攻﹂と 親しまれた海 軍 の 三菱 九 六 きゅうろ く 式陸上 攻 撃機︵ G 3M ︶ を 選 定 した 。 七 月 三日 付大毎 ・ 東日 は、大 々 的に 世 界 一 周 飛行 を 予 告 し た。 本社 の 壮 挙 世界一 周 大 飛 行 太平 洋を 一 気 に横 断 空前・五 大洲 を歴翔 純国産機・ 八 月下旬決行 聖戦す で に満 二年、 有 史 以 来 未 だ 嘗 な い 日 本 国民の 飛 躍 期 におい て 、 大 空翔け る 〝 荒 鷲 〟 の 姿こ そ 、 われ らの力 強 い象徴 で あら う。 こ の 時 、 本社 は八月下 旬 を 期 し て ﹁ 世 界 一 周大 飛 行 ﹂を 決行する 。使用機は最新鋭 の純国産機 で ある 。 一周空路 は北 米、 南米、 ア フ リ カ、 欧 州 、 ア ジヤの 五 大陸 を 貫 い て 、 歴 翔 三 十 余ケ国、 全行程 六 万キロ ︵ 赤道 の 約 一倍半︶ そ の 間赤 道 を 跨 ぐ こ と 二回、 実 に 世界 航 空 上 史 空前 の大 飛行 で あ る 。 即 ち そ の スケー ル の 雄 大 と 翔 破 距 離 の長 さ におい て 従来 試み られ た外 国人 の世界一 周 を 断然 引 き 離し、 目 覚し き世界的記 録の 樹立 を目 指す も の で あ る 。 し か も、本 飛 行 行 程 の 中 に は太 平洋 横 断 あ り 、 南北アメ リ カ およ び ア フリカ大陸横 断あ り、 南大西洋 横 断 あり、 そ の一 つ

が わ が国にと つ て は全 く未 知の処女 コ ー ス で ある 。︵ 略 ︶ 異 常 な る 躍 進 を遂

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げたわ が 国の航空 科学、 航 空工業 お よび 航空 技 術 の 力 を 列 強 に 示 し わ が国に対する明確な認識を 深 か ら しめ、 こ れ に よ っ て 国 際 親 善 交 歓を 行はんとする もの で あ る。 殊に こ の 機会 におい て 海外万里遥かに母国 のた めに万丈 の気を 吐 き つ ゝ あ る 同胞 を慰 問し 、 激 励する こ と の 出来 る事も 、 わ れ らの 心か らの 歓喜で あ る。 ︵略︶ 予定 コ ー ス主 要地点 東京↓根室 ︵ 北 海 道︶ ↓ノー ム ︵米 国ア ラスカ︶ ↓ ホ ワイ ト ホ ー ス ︵カ ナ ダ ︶ ↓ ヴ ン ク ー ヴ ︵ 同 上 ︶ ↓ シ ヤ トル ︵米国︶ ↓ポートランド ︵ 同上︶ ↓サ ンフ ラン シ ス コ ︵ 同上︶ ↓ ロサ ンゼルス ︵同 上︶↓シ カ ゴ ︵同上︶ ↓ニュー ヨー ク ︵ 同上︶ ↓ ワシント ン︵ 米国首 都 ︶↓ マイアミ︵ 米 国 ︶ ↓サ ンホ ゼ ︵ 中 米 コスタ リ カ︶ ↓グ アヤキル ︵ 南 米エク ア ドル ︶ ↓ リ マ ︵南米ペ ルー︶ ↓ ア リ カ ︵ 同チ リー︶ ↓サ ン チ ャゴ ︵ 同 上︶ ↓ ブ エノ スア イレス ︵アルゼンチ ン ︶ ↓ サン パウ ロ ︵ ブ ラ ジ ル ︶ ↓ リ オ ・ デ ・ ジ ャ ネ イロ ︵同上 ︶ ↓ ナ タール ︵ 同上︶ ↓ ダカール ︵仏 領西アフリカ︶ ↓ カサブ ラ ン カ ︵ モ ロツコ ︶ ↓マド リ ッド ︵ス ペイ ン首 都︶ ↓パリ ︵ フラン ス 首 都 ︶ ↓ ロン ドン ︵英国 首 都 ︶ ↓ ベル リン ︵ドイツ首都︶ ↓ ローマ ︵ イ タ リ ー 首都︶ ↓ バクダッド ︵ イ ラ ク ︶ ↓カ ラチ ︵イ ン ド ︶ ↓ ジョ ドブー ル ︵同 上︶ ↓バ ン コ ック︵タ イ︶ ↓台北↓ 東京 ︹大 阪毎 日・ 東京日日 新聞 社︺ 記事 中 、﹁ 従 来試 み ら れ た 外 国 人 の 世 界 一周 ﹂ は 、 大 正十 三 年 以 来 小型 機 に よ るも のが七 回 あっ たが、 大 毎 ・ 東日 機 成 功の 暁には 五 大 陸 翔 破 ・ 赤 道 越 え 二回は初の快 挙となる も の だっ た 。 世界 一 周 大飛 行の 機 材 世 界 一周 の機材と し て 九六 式陸 上攻撃機︵九 六陸攻︶を 選 定した大 毎 ・ 東 日 だ っ た 。 陸 攻 と は ワ シ ント ン 会 議 と ロン ド ン 軍縮 会議 で我が 国 の海 軍 力が米英に対し て 六割に抑 えられた ことに対抗 す る 邀 撃 ようげ き 作戦 のため、 陸上 基地か ら 発進 し長 距離飛 行 が 可 能 な 大型の雷 撃・爆 撃 機だ った。 邀撃作戦とは太 平 洋を 西進し日本に来襲 する優勢な米機動部隊に対し遥 か洋上 で 、陸 攻と巡 洋 性を備え た 大 型の 伊 号潜水艦によ っ て 雷 撃 を行い、 漸減した米艦隊に連 合 艦隊が艦隊決戦 に 臨む作戦をいう。 こ の 作戦 で 日 本 本土 は不沈空 母の 役割 を担 った 。 邀撃 作戦の た め昭 和 十 一年 に制 式 と な っ た陸 攻 を 九六 式と い う 。九六と は 十 一年が皇紀二五九 六 ・・ 年で あるこ と を 示 す。 海 軍 軍 令 部は 渡洋爆撃 に活躍 す る現 役 機 を 海 外に 飛 ば すこ とに 躊躇し た が、最 終 的 に 協力 が 得 られた。 ﹃毎日新聞百年史﹄には次のよ うにある。 この計画 は最初、 海 軍 航空本部 が首 を振 った。 九 六 陸 攻は現 に 中国大陸 で 作戦 中の第一 線機で 、 貸与する余裕がない。 国 際 情 勢 からみ て 本飛行の実施 は 図-1 世界一周大飛行 ニッポンの航程と距離(8 月 19 日付東日転載)

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か ん ば し く な い 、 とい うのが主 な理由 で あ った。 し か し 、 そ れで 引っ 込 む わ け にはいかない 。 海 軍 に お 百 度 を 踏ん で交渉し、 最 後に高石 会 長 、 奥 村社長 が 直 接、 山本五十 六 海 軍 次 官に会っ て 、 本 飛 行 の 意義を説明し 、 海 軍 の 全 面 的 な 援 助を 要請 した。 山 本次官も本社 が命運をか け た 大 事業に 「 よし承知し ま し た 」 の一 言 。 使 用 機材は、国 産 機初 の引込 脚 と自動操縦 装 置︵オート パ イロ ット︶を 備え た 九 六陸 攻 21型製 造32 8 号機 を改造した 三 菱式双 発 型輸送機 ︵海 軍 九 六 式 輸 送機 L 3 Y︶ の類 型で あっ た。 主 な 改 造 点は 、 旅 客 機 とす る た め 隠 見 式円筒 銃座等の 撤去、下 方 銃 座部分の段差の整形 、 機首 に 航 法用窓と 着陸 前 照 灯 を 新設 、 胴 体 後 部に 七席の 客 室と 小 窓 ︵ 右 六 ・ 左 四 ︶ を 設けた 。 21型 の 正規 燃料槽 三 八七 四㍑に 加 え、 新設し た 一四 〇〇㍑ の 翼内 増槽に よ って 積載 燃料 を 五 二〇 五㍑以 上 とし た 結 果、二四 時間の 飛 行が 可能と な っ た。 原型 21型に 機体を み ると 全長一 六 ・ 五 ㍍、 全 幅 二五 ㍍、 発 動 機は 空冷九 〇 〇 馬力 の ﹁ 金 星 ﹂ 二 基 だ っ た 。 改 造 機 の た め詳 細な諸元は 不 明 で あ るが、 巡航 速 度 は毎時二八 〇 ㌔といわれ て い る 。 搭乗 員は世界 一周 使用機 材 で 、 木更津海 軍 飛 行場を基地に四 ヵ 月間に亘 って 操縦 ・航法 な ど の 完熟訓練に明け暮れ た 。 七月五日付の 新聞紙上に搭乗員は、 中尾純利機 長 ︵満州 航 空︶ 、 吉 田重 雄 操 縦 士 ︵ 航 空 部 ︶ 、 下 川 一 機 関 士 ︵ 海 軍 ︶ 、 八 尾 川 長 作 機 関 士 ︵ 航 空 部 ︶ 、 佐 伯弘技術員 ︵ 三菱︶ 、 佐藤 信 貞 通 信 士 ︵ 大日本航空 ︶ に加 え大 原武夫親善 使 節︵航 空 部 長 ︶の 七名と 発 表さ れた 。 機体には J︲BACI の レジ が主翼 両 面と 胴体側 面 に記 された。日本国 籍を 示す 日 の 丸 が 両翼 端に、 J が 方 向舵と 水 平尾 翼に描 か れた。機名公募 には一三二万 九五五八通の 応 募 があり 、 八月 二日 梨 本 宮殿 下御臨席の命名 式で ﹁ ニ ッポン ﹂ と 決 まっ た。 機名は、キ ャ ノピ ー右下 ︵ 機長席 側 ︶ に 〝ニ ツ ポ ン 〟 、左 下に N I P P O N と書 か れ た 。 ニッ ポ ン はジ ュ ラル ミ ン 地 肌 の 銀 色 で 、 胴 体 底 部 に 赤 い ライ ン 一 本 を 入れた双発・ 双舵 、 引 込脚 ・沈頭 鋲 の採用 で 速度と 航 続 距 離 を 追 求 した魚雷型の 細長 いスマ ー トな機 体 の 美 しさ か ら ﹁ 貴 婦人 ﹂ ﹁双 舵 の 美 女 ﹂と も 呼 ばれた 。 当 時 、航 空技術廠︵空 技廠︶ 飛 行実験部員 だった 横 田 和 平は 、﹁ ニ ッ ポン は 私 が飛 行実 験 を担 当 し 、 い つ も の よ う に 湘 南 の 空 を飛 ん で いた 九 六 陸 攻 で、 横 須 賀 の 追浜 飛 行 場 に 着陸 距離 を短く す る海 軍式の 三 点着陸 を しよ うと して 尾輪を護岸に引っ掛け、 機 体後部を壊 し た た め格納庫に 放置された機で し た。その事 故 機 を応急修理し三菱 の名航︵注・名古 屋 航 空機製 作 所︶に空輸 し て 民 間 輸送機 に 改造し た もの です。当時 、 多くの民間人が空技廠に出入 り し て い ました 。 大毎・東 日関 係 者 と知ったの は 後 の ことで し た﹂ と証言した。 千歳 ルー ト 選 定の理由 七 月 三日 に大毎 ・ 東日 が大々 的 に世 界一周 飛 行を 予告し た 時、 搭乗員 の 根室における宿舎 は兼 古 酒 造当主 兼 古萬 吉 宅 とすでに決まっ て いた 。兼古 酒造 は 、 優等 清酒 ﹁牡 丹 いろ媛﹂ の蔵元とし て 知 ら れ て いた ︵注 ・ 兼 古 酒 造は昭 和 四 十 四年 に北の 誉 酒造と 合 併 す る︶ 。 ニッ ポ ン が飛 び立つ と さ れ た昭 和 七 年 設 営 の 根 室 ワッタ ラ ウス︵ 注 ・オ 図-2 ニッポン

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ワッ タ ラ ウス とも 発 音 、 根 室交 通 花 咲 線 バス 停 留 所 と し て 名 が 残 る ︶の 海 軍 飛 行場は、当時 面 積 二〇 〇町 歩 で 一〇 〇〇 ㍍ 弱 の X 形滑走 路 を有 し て い た。後に 紙面上は、八 年に完 成 した 札幌の 北 二十 四条飛行場に 変更と な る が、滑走路延 長は最 大 九 〇 〇㍍ で泥炭か らな る軟弱路 盤だ った。い ずれの 飛行場 も 滑走路は未舗装 で 、 装 備 品 と燃料 を 満載したニッ ポ ンが離陸速度 に 達 し安 全に飛びたつには滑 走 路が 短く、 滑 走路 延長上 の 安全性も確保さ れて いな く危険 性 が大で あ っ た 。 ニ ッ ポン が世界 一 周に 飛び立 つ 道内 飛行場が根室 や 札 幌とされ たのは 、 設営中の海 軍 飛行場 を 秘匿 するため で 紙 面に﹁千歳﹂の文字 が 現れ ること はなか っ た 。 千歳海 軍 航空 基地は昭和十四年十月一日の開 庁 を 目 指し、設 営の 最 終 段 階 だ っ た 。 千歳 か ら 飛 び 立った 理 由 と し て 、 大 圏航 路 で 北 米 大陸 に至近 、 燃 料 五二 〇五㍑ を 満載 した 全 備 重 量 一万 一七五〇 ㌔ の 大型機の 離陸 に 適 した 一二〇 〇㍍の 舗 装 滑 走路 がある こ とにあ っ た 。 征空への出発 ニッ ポンが世界に飛び立つため 、出発・壮行会場 である 東 京・羽田飛行 場か ら本土出 発地点 で あ る 設営中の海 軍 千歳飛 行 場 へ の移 動 、 そ し て 全 コ ース 上 で 最 も 難関 であった 北 太 平 洋 横 断 の 様 子 を 下 川 一、 佐藤 信貞 など 関 係者か ら の 聞 き 取りと、それを報じ た 大毎 の 記 事か らみてみる。 な お 、当 時の羽 田 飛行 場は昭和十三 年か ら 十 四年にかけ 、 六年 開港当 時 の三〇〇 ㍍舗装 滑 走路を大型 化 する 旅客機に対応 するた め八〇 〇㍍に 延 伸 した 直 後 だ っ た 。 ・八 月 二 十 六 日 下川 一か らの 聞き取り﹁ 羽 田か ら未成 の 千歳 へ ﹂ ﹁ニ ッ ポ ン は 羽田 出 発 直 前 にト ラクタ ー ︵注 ・ ト ラッ ク︶ で牽 引 中 、左 プロペ ラ がロー プ に絡 ん で 一 翼 の三 分の 一 位 を九〇度に 曲 げ て しまっ た の です 。 急 遽 、 羽田 に い た 大 日本 航 空 の 同 型 機 の プ ロ ペ ラを は ず し 交 換 し 、 試運転 を した ら 振 動が多く無理 だと 思 い ました が 飛 行 場には数 万人の見送 り の 方が 待っ て い るし、 こ れ 以 上待 た す こ と は で きないと思い ました。私 は ﹃ よし、こ れで とも かく北 海 道まで 飛 び、 北海 道 で さらに調整する か、 交換 す る か 、 いず れ か の 方 法 を と ろ う ﹄ と出 発 す る こ とに し ま し た 。 私 は 油だらけ の 作 業 服 のま ま飛 行 機 の中にい て 、 したがっ て 見 送り の方々 の 前 へ出 ま せ ん でした 。 あ い さ つ も せ ず に 出 発し た の です 。午 前 十 時 二 十七 分 に羽 田 を 離 陸 、千 歳 飛 行 場 に着 陸 す る よ う海 軍側か ら 指示 が あ り 、 三時 間 あまり で 千歳に 着 陸しました。千歳 飛 行 場は一本 滑走路があるだけ で 、 格 納 庫 も外郭と屋 根だけで 未完 成 で し た 。場 内には 刑務所 の 赤 い 服 を着 た囚 人が整地 などを し て い ました。まも な く予備の新しいプロペ ラ を 別の 飛 行 機で 名古屋三菱 か ら運 ん で き ま した。 宿舎は札幌神社 ︵注 ・ 現 北 海 道 神 宮︶ 参道入 口 右 側 角の 斎藤甚之 助様宅 で した ﹂。 大毎 二十八 日 付 廿六 日あ さニ ツポ ン羽 田を出 発 とい ふ報に着 陸地 の栄 光を根室 から 受け 継い だ札幌は 勿 論 全道民は早く も 沸 き 立 った 札幌の飛行場にはニツポンが母国の土 を けっ て 最 難関たる北太平洋四千㌔の 処女航路 を見送る ため わざわざ東京から来 札 し た 藤原航 空 局長 官代理桜 井技 術部長、 千田航 空 局乗員 課 長、 大久保同 国際 課長 をは じめ 地元の半 井北 海道長 官、 斎藤 警察部 長 、 平 本 学 務部 長、 三沢 札幌市 長 、 遠 藤 札 幌逓 信局長、 戸津 北 海道会 副 議 長 、 辻 札幌飛行場長、 木 下 成太 郎代議士、 乗 員 宿 舎 提供斎藤甚 之 助 氏ら 、 そ れから根室代表 と し て 駆けつ け た松尾根室 町 長、 兼古 万 ママ 吉氏延 原 町議 等町会代表が詰め かけ て 着 陸予定時間 を 待 ち 遠しげに西南の空に瞳 を 輝 かせ

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る ︵ 略 ︶ ニ ツ ポン は 同 一時 四十 五 分 予定 時間 に狂 いな く観 衆 の 嵐の よう な 歓 呼 を浴びながら 飛行 場中央に 着陸し た 、︵ 略 ︶ 万歳の嵐の中 を潜り根室 町 で 宿 舎 を提 供 さ れる は ず であ っ た 兼古万 ママ 吉氏 令嬢知子さん ︵一〇︶ が振袖姿も美しく 根室 町 か ら の 花束 を使 節に 贈 れ ば、 ま た 拍 手 の 怒 涛 だ 、 乗 員 た ちは 直 ち に 歓 迎 宴会場に臨み半井北海道長官は三百万道民を 代 表し て ニ ツ ポ ンの安着と壮途 を 祝 し て ビ ー ルの 杯 を あげ次い で さ き に 着陸予定地た る根室を 代表し て 松尾 町長 が 同 じく 歓迎 の辞 を述 べる、 こ れに 対 し て 大 原 使 節、 中 尾 機長 の力 強い 挨 拶があり本社 を 代 表し て 松 尾取締役 が謝辞 を 述べ て 歓 迎宴は同二時 十分終了、 かく て乗員は歓呼の人 垣をくゞ つて 札 幌 神社 に 参 拝 、 午 後 四 時 過ぎ宿舎の市外円山斎藤甚之助 邸に入っ た︵札幌発︶ 大毎の 記 事に根室代表とし て歓 迎の た め 駆 け つ け た 松 尾 根室 町長等 の こ と が記 述 さ れ て い る が 、こ れは 大 毎 の要 請 によ っ て 根 室 町 役 場 教 育主 任 の古源孝を世話役とし て 夜 行 列車 で 千 歳に来たも の だった。 古源⑥ の ほか町長 の松尾豊治 ③、町議の石井政治①と木村 兵右衛門⑧、商工 会長・佐野 忠三郎⑤、醸造業・兼古萬吉 ②と長女トシ・二女貞子・三 女知子、 米穀雑 貨 商の吉田圭 介 ④ 、青 年団長 ・ 延原 重男⑦ と い う名 士 と そ の 子女 だ っ た 。 千歳 で は、 男 性 は燕 尾服 、 兼 古 の 長女 は 和服 、 二 女 は セー ラー服 、 三女 は 振袖 と全員が正装 した︵ 男 子氏名 の○数字は 写 真﹁ニッポンと 根 室 の人 々﹂ ・ 左 か ら の 位 置 を 示す ︶。 新聞記事 ではニッ ポンが札幌に着 陸、大群衆の 歓迎を 受 けたか の よ うに 記述さ れ て い る が 、千 歳に お け る 歓迎 は大毎 ・ 公官署関係者以 外は根 室 か ら 来 千 した一〇人だけだった 。 ニッ ポンが千歳に到着した とき、 根 室町民は根 室 町 旗 ・﹁ 歓迎 世界一周 機 ニッポン﹂と染め 抜かれ た 旗を 振っ て 歓 迎し た。こ の 情景を 東 日 の カ メラ マ ン が撮影、二十七日離 陸 時の様子とし て 全 国の 映 画 館 で ニ ュ ー ス 映 画とし て 放 映 され た ︵1 ︶ 。 古源孝は ニッポ ン を ﹁ 実に立 派 な大き な 飛行機 で した﹂と 回想 した。 そ の日、ニッポンは巴組が開 発 し た 大 空間 を 創 るための 骨 組 み構造 で あるダ イヤ モン ドトラ ス 工法で 建設 中 の 格 納庫に 入っ た。 ・八 月 二 十 七 日 下川一か ら の 聞き取 り ﹁千 歳出発 ﹂ ﹁プロ ペ ラを 交換 す る よ う 桜井中将︵注・航空 局 技術部長︶ か ら言われ ま し た が 飛ん で い る間に馴染 ん だせいか振動が減 っ て き ま したの で ﹃大丈 夫、 こ の ま ま 飛 ぼ う﹄ と 決 心 し その旨を 回 答 しま し た 。 オ ク タ ン 価 92の燃 料を あら かじめ 送 っ て おい た の で 出 発前に 満 タン に給油 し まし た。出発に 写真-2 歓迎の旗を振る根室の人々 ニュー ス映画のコマといわれている(執筆者所蔵) 写真-1 ニッポンと根室の人々:8 月 26 日午後 2 時 30 分頃(執筆者所蔵)

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際し ては関 係 者十 二 、 三人 と囚人 に 見 送 られ ま し た ﹂。 大毎 二十八 日 付 いよ

今 廿 七 日 午 後 二時 札幌 飛 行 場を 出発 、根室上 空を 通過しアラス カの ノーム へ 向け全 コ ー ス の 難 路 で ある 北太 平洋 四 千 ㌔ 横 断の歴 史 的壮 挙につ く こ と と な つた 、 な ほ け ふの ニツ ポン の飛 翔 コ ース の天候を 観 測 し出発の 断 を 決 定する気象 陣 最後の打 合 会 は航空局千 田 大佐、中央 気象台正野技師 、 堀技 手、 和田 本社航空部副部 長 ら参集 し て 廿 六日夜札幌市 で 開 かれ千島、 カ ム チ ャッ カ 、 ア リ ューシ ャ ン方面各地から集まっ た気象通報を綜合熟議の結 果 オ ホ ーツク 海中部に七百四十ミリ内 外 の低 気圧とベー リ ング海に 同程 度の低 気 圧があり 多少 気遣 われるが出発に決 定し た、 し か し な ほ廿七 日 正 午 から飛行 場 で 中尾機 長が新 し い情勢を見 極 め て 最 後 の決定をする こ と になっ て ゐる ︵ 札 幌発 ︶ 滑走 路 北 端 に 駐機 したニ ッ ポンの キ ャ ノ ピー 天 蓋 に は 日章 旗 と 大 毎 旗が V形に掲 げ ら れて いた。搭乗員は乗 り組み 前 に格納庫前 の 芝生で 車座 にな っ て た ば こを吸った。 プ ロ ペ ラが回り 、海兵によっ て チョ ークが外された 。 午後 三時三分四十 七 秒 の こ とだ った。 見送り は 根 室 町民のほか航空 局 桜井忠武技術部長、和田航空 部 副 部 長を は じ め と する大毎関係者の 総 勢わず か に十数人 と、前月に大湊か ら異動し てきた 千 歳 空 設立 準 備 部 員 、作 業 の 手 を 休め た 土 工 と 受刑 者 、 誰 し もがニ ッポンの前途の安全 を 祈った。 しかし、 その中に千歳村民 の姿 はなかっ た 。 燃料 、装備 品 を満載 し た ニ ッポ ン は 、風 速六 ㍍の南 風 を 受 け八〇 〇 ㍍の 滑走 でよ う や く離陸 し た 。 雌阿寒 ・ 雄 阿寒を左に 見 て 飛行し根室 ・ 落 石 おち い し から午後 四時二 十 分二 十九 秒、ニ ッ ポ ン は高 度 を 二〇 〇㍍ に 下 げ ワ ッタ ラ ウ ス 飛 行場 上 空 を航 過、根 室 到 達時間を記 録 する ととも に 人文 字﹁ニツポン ﹂に手を 振って 応 え た 。 飛行場には根室 町 助役 の川合 新 三郎を始めとする一万人が集まっ て い た 。 川合は大 正 十 五年当時、千歳着陸場に飛 来一番機﹁北海﹂第 一 号 を 迎え た 千 歳 村長で 、 ニ ッポン が 軍 事 機密の 千 歳飛行 場 から 飛んで く る の を 知 る数 少ない関 係者の一人 だ った︵注・川合は戦後、十二年間に亘って 千 歳町の 代 表 監査 委員を 務 めた︶ 。 根室町民は日の丸を 振 り、 ﹁国をう ずめた日の 丸 の/ 歓呼 の 中 に羽搏 は ば たい て / わが ニ ツ ポンはまっしぐら/六 萬キロ の 空 を 飛ぶ/空を 飛 ぶ ︵ 作詞 ・ 掛 川 俊 夫︶ ﹂ と ﹃世 界一周 大 飛行 の歌﹄ を 大 合 唱し て太 平 洋 横 断 に 挑 む 機 影 を 見 送 っ た 。 その後 ニ ッポンは、 千 島列島を 左下に 見 ながら 北 洋を飛んだ。 幌 筵 ぱら む し る 島 附近 では低気 圧の た め 高 度 五〇 〇 〇 ㍍以上 を 飛 行 、千 歳に酸 素 ボ ン ベ三本 のうち二 本 を 降ろし余 計に燃料 を積 載した こ とから、酸素が不足し搭乗員 が急 性 低 酸 素 症 で 意 識 朦 朧に陥っ た が 自動 操縦 装 置が順調に作動した 。 こ の ことにつ い て 佐藤 信貞 は ﹁ 千 歳 か ら 根 室 上 空を経 て 、千島 列 島を 左 に見 な が ら カ ムチ ャ ッ カ 半島南端に近 い日本最北 端の 幌 筵 島の 上空 を飛び 、 そこ から 幌筵 の 海 岸 局 の 電波 を方向 探 知し てノー ムへ 向 か い ま した が 、 夜 間の 誤 差 の た め 一 時 間 位 し か 方向 探知が 出 来ま せ んで した。風が変わって 図-3 北太平洋におけるニッポンの飛行経路(8 月 28 日付大毎転載)

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カムチ ャ ッ カの山 脈に衝突 する ことを避 けるため雲の上に出ようと上昇 を は じ め ま した が、燃料 を満載し て重か っ た こ と、翼 や プロペ ラ が凍 結し は じ め 効率が悪かった こ となどでなかなか雲 の 上 に 出る こ と が出来ません で し た 。一 時間近くも高 高度飛行が続 いたの で 、一 本だけ 積 んだ 酸素も 使 い 果 た し、 乗 員 全員が酸素不 足で 昏 睡 状態 になりま した﹂と横田和平 を 介 し て 執筆者 に伝え た 。酸 素ボン ベ の重 さは一 本 一五 ㌔だっ た が、 そ こ まで し てま で も 燃 料 を余 計 に 積 み た か っ た こ と を物 語 る も の であ る 。 ま た 、下 川一は ﹁ 翌二 十八日 午 前六 時四十五分八秒に四 千 ㌔離 れた ノ ー ムに無事着陸しました。飛 行 中 、コ マ ン ド ル スキー島︵注・アリューシャ ン列 島西端 ソ 連領 ・米領 ア ッツ島 付 近 ︶ 上空 では六 三 〇〇 ㍍ ま で上 昇、外 気 温 は マ イナス二五度、北西 の 強風で 航 路 か ら 機 首 を 左 一 八度に維持 し て のもの で した﹂と述懐した 。 二十 九 日 付の 大毎 は次の よ うに 伝 え た 。 太平 洋横断 に 凱歌 ニツ ポ ン ノ ー ムに 安 着 盲 目 飛 行 に 科 学 の 勝利 われ 等 のニツポ ンは ︵略︶ ノ ームに 着 陸し た旨 アンカ レ ージ 局経由ノーム 飛行 場航空 無電局依 り落 石無電局に入 電 があっ た 。 根 室通過以来約 一四時間 余 で 四千キロ の北太平洋を無着陸横 断に 成功、航 空日本の実力 を世界に示し た。 ︵略︶ ・ 註︵1︶撮影された 16㍉モ ノ ク ロ ニ ュ ー ス 映 画 ﹃ 大 毎 東 日 機 ニ ッポン 世界 一周大 飛 行﹄ が ビ デ オ 化 さ れ 、 平成二十一年 八月二十 四日 から二十 八日 ま で 千 歳市役所市民ホール で 開催 された ﹁﹃ニッポン﹄ 号千歳出 発 七〇周年 記 念 パネ ル展∼新 た な 千 歳空港 の 歴 史 、 発 見∼ ﹂ で 終日放映 された。 フィルムに は 設営 中 の 千歳 飛行 場を秘匿 する ため ︵札幌 ︶ 着 陸 時の映 像 が な く、 離陸 時に 一瞬 写 る 根 室 の 人 々 と水 平線 が 見 える 千歳 ママ チ原 野 か ら銀 翼 を ピン と張 っ て 離陸 する機体だけ が記録さ れている ︵パネ ル 展 は 、 千 歳航 空協 会 ・ 毎日新 聞 北 海 道 支社・千歳市 の共催︶ 。 四大陸翔 破と終 焉 ニ ッ ポン は 寄 航 先 で 熱 狂的な 歓 迎を 受け、 国 際親 善を 果 た し日 本製 航 空 機 の技術 の高さを 示し た。米西海岸、南米 の 在外 同胞は 寄 航先 に集ま り 、 ﹃世界一周大飛行の歌﹄ を 大合唱し日の 丸を打ち 振 っ て ニ ッ ポ ン を 迎えた。 ニ ッ ポン は在外 同 胞に 日本人とし て の誇りと勇気を 与 え た。 ニッ ポ ン が米 国内 を飛 行 中 、独 軍がポ ー ラン ド に 侵 入 し第 二 次 欧 州 大戦 が 勃 発し た 。 こ の ためパリ、 ロ ンドン、ベ ル リ ン へ の寄 航 を 避け、ロ ーマ ︲バス ラ ︵イ ラ ク ︶と地中海上 を 短絡し飛行 を 継続した。 羽 田 出発 以来五 十五日 目・十 月 二十 日、ニ ッ ポン はビス一本の交換も な く 飛 行距 離五万二八八 六㌔、 飛 行 時 間一九 五 時間 二十四 分 二十 八秒で 世 界 一 周 の壮挙を 成し遂げ、羽田に帰還 し た。 二大洋 ・ 四大 陸︵太 平 洋︲ 北米 ︲南米 ︲ 大 西 洋︲ アフ リ カ ︲ユ ー ラ シ ア =欧 州 ・ ア ジ ア︶ を単機 で 連続 翔 破した の はニ ッポ ン が 世界 で 初 の 快 挙だ った 。 米駐日大使グルー は﹁日本は、 こ の 大貢献を世界に誇示し て 可 なり。相 互 理 解 こ そが戦いに災 いされ た 世界において 唯 一 無 二の希望 を た り得 る﹂ と絶 大 な 賞賛 を贈 った︵ 注 ・グル ー は親 日家 とし て知 ら れ 、戦中 に 国務次 官となっ た ︶。 戦時 中のニッ ポン を佐 藤 信 貞は﹁ニッ ポ ンはその後、毎日新 聞 社航空部 に払 い 下 げ ら れ﹁ 暁 星 ぎょ う せ い ﹂と 名 を 改 め まし た 。 終 戦 ま で 報道 や 高 級士 官の 連絡機と し て 本土と中部太平洋 の連合艦隊 の 間 を 暗緑塗装 で 飛 ん で い た よ うで す ﹂ と語っ た 。 ニッ ポ ン の ラ ストフ ラ イ ト と最 後の状況 は、平成二十︵二〇〇八 ︶ 年十 月二十 一 日の 毎日新 聞 ﹁飛 べ!ニ ッ ポン1939︲ 70年の伝言②羅針 儀 ﹂

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に次の よ う に 掲載 さ れ た 。 玉音 放 送 か ら 8日 後の 45年8 月 23日、大 阪 か ら 社長 等 を 載 せ 羽 田 に 降 り立 とうとし たが 荒天 で 果 たせ ず、 埼 玉 ・ 所 沢 の 陸 軍 飛行 場に着陸し た 。 こ れが最 後の フライトと な った。やがて 米軍 が 進 駐 し 機体は破棄され た 。 あとがき 郷里の小学校の図書室で ニ ッポンが 千歳から 飛び立った こ とを 知っ て か ら 四 十八年が経過した。昭和五十年、遊 学を終 え 千 歳 に 職 を 得て か ら ニッ ポンの こ と を 調べ だした 。 毎日新聞 社航空部か ら 下川一 さ ん ︵ 埼玉 春日 部︶ を 紹 介い た だ い た 。 執 筆者が昭和五十八 年 に ﹃千歳飛 行場1926 - 1945﹄ を 著わしたこ と か ら横 田 和 平 さ ん︵ 室 蘭 ︶ と 知り 合 い に な れ 、 横 田 さ ん を介 し て 佐藤 信貞 さ ん ︵ 東 京 池上 ︶ を 知ることが で き た 。 横 田さんと佐藤さん は 昭 和五十五年 九月放 映 の N HK 教 育 テ レ ビ﹃ 昭 和 回 顧 録 ニッ ポ ン 号世界 一 周 昭和十四 年﹄に佐 藤さんが出演 し て い た のがき っ かけ で 知 り合っ た 。ま た、古源孝 さん ︵千歳 ︶ からいただいたニ ッ ポ ンの 前 で の 記 念 写 真に 写っ ている 人 物 の氏 名を 根室 市 史 編 纂 室 の 森 崎 真郎 さんに 教 えて い た だ い た。 森崎さ ん は 、 根室 で新聞 記 者時 代に古 源 さん と 記 者仲間だった。さ らに森 崎 さ ん は、千 歳 着 陸場一番機を迎え た川合 新 三郎 村長の長男仁 さんと 商 業学 校 で 同 級 生 だった 。 多 く の方 がニッ ポ ンに思 い 入 れ を持 っ て いた 。佐藤 さ んの ﹁ニ ッ ポンに﹃号 ﹄ を付け る の は 間違 い で す﹂ との 言葉が印象に残 る 。 今 回 、 ニ ッポン 七 〇年を記念すべ き 年に ﹃志 古津 ﹄ に 寄稿 でき た こ とを、 その 主 部 を ﹃ 新千 歳 市 史 通史編 ・ 上巻 ﹄ に 掲載 で き ることに感謝し た い 。 引用・参 考文 献 守屋 憲 治 昭和 六 十 ︵ 一 九八 五 ︶ 年﹃北の 翼 ︲ 千歳 航空 史 ﹄ みや ま書 房 毎日新聞 社 昭和四十 七︵一九七二︶年 ﹃毎日新聞百年 史 ﹄ 平成元︵一九 八九︶年 ﹃ 銀 翼 の航跡 ︲ 5 2 ,86 0 km﹄ほ か 、 ニッ ポン 関連新 聞記事 郡 竜彦 平成十二 年 ︵ 二〇〇〇 ︶ 年 ﹁航空記者三十年の回想﹂ ﹃航空情 報 別 冊 航空 秘話 復刻版 シ リ ー ズ︵3︶ 生き て い る 航 空 日 本史外 伝 ︵ 上 巻 ︶ 日 本の 航空ルネサンス ﹄ 酣 燈 社

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明治期千歳の学校教育の実情

︱新出史料の紹介をかねて

西

千歳市総務部市史編さん担当 主任編集員 はじめ に 明 治 十四 ︵一八 八 一︶ 年、千 歳 小学 校の前 身 で あ る千歳 教 育所 が開設 さ れて 千歳 の公教 育 が始 まる。こ の明 治期 の 千 歳の教育に つ い て は、既 刊 の ﹃千歳市史﹄ ︵一九六九︶ や ﹃ 増補 千歳 市史﹄ ︵ 一九八三 ︶ に記述 が あるも の の 、 両 市史と も に史 料不足を 原因 とし て 、 開設 当初 の教育 の 実情や 教員 の赴 任状況 な ど、具体 的 な 叙述 に欠け て いる。 ところで 平成二 十 ︵二 〇 〇 八 ︶ 年、 明治二 十 二 ︵ 一八八 九 ︶ 年 の千歳小学 校 に おけ る児童 の 試験 成績表 等 が発 見され た。こ の 新史 料は、 札 幌市 在住 の 高 澤 勝 吉 氏 が所 蔵 す る 屏 風の 下 張 り に 使用 さ れ てい た も の で 、 平 成 二 十 一 年 、札 幌市文 化 資料室に寄贈され、現在は目録を作成中 で あ る。し た が って 史料 の履歴や 内容 等の解 明 はこ れか ら の 段階 だが、 同資料室によると 概略 は次の 通 り で あ る 。 総 点 数は 約六二 〇 点に のぼ り 、 年代 は一部 近 世を 含み、 お おむ ね 明 治 十 年 ︵ 一八 八〇︶ 代 か ら 二十年 ︵ 一八九〇︶ 代 初期 に集中する。 種類と 内 容 は、千 歳 村 戸 長役場 罫 紙 に 記した 出 納 帳 、初 代 戸 長 で あり 駅 逓 を経 営した 石山専 蔵 や二代目 戸長の 秦 一明 、千歳 小 学校訓 導 の 小 笹久 吉 や 五 代 目戸長 の三木勉、河合 は る、 多数 のアイヌ 名が 見える帳 簿類な ど いず れも千 歳 在 住者 が 記 録 し た公文 書 や 私 文書 である 。 本稿 では、 こ の新 史料や北海道 立文書 館 所蔵の ﹃ 札幌県治 類典﹄等 公文 書調 査 史 料 を 用い 、次の よ うな内 容 で学校教 育 に つ い て 記 す。 ① 開拓 使 時 代 の 民間 千歳教 育 所 の 開設と 公 立へ の移行 の 経緯 。 ② 三県時 代 の千歳 学 校 に おける生徒 数 と就学事情、アイ ヌ子弟の 就学の 実状 。 ③ 千歳学校経 理 の 赤 字と学 校 維持 費に学 田 を創設。 ④ 新史 料に よる明治 二十二 年 の千 歳学校 ﹃ 小試 業評点表﹄ の 分析。 ⑤ 教育 所 開 設 以 降 の 教員 の赴任情 況。 ⑥ ﹁旧 土 人 保護 法﹂ によ るア イ ヌ 学 校 の建 設 候 補 と 簡 易 教 育 所へ の 転 換 。 こ れ らを 通し て 、 明治期 の 千 歳 教育 所はア イ ヌ学 校として 開設 、運営 さ れて い た こ と を 明 ら か にする 。 一、 寺子屋か ら 公立千歳 教 育 所 へ 寺子 屋 明治二 年 東京 に開拓使が設 置され、四年になる と 札幌に開拓使 本府が移設され た 。新開拓の村 落に 開設され てい た 郷 学 校 または郷校とい う 私 塾・ 寺子屋 風 の教 育機関を 明治 六年九 月 、文部省令に準拠 し て 教 育 所 に改め る こと とな った。各 郡に は教育 所 を設置 す る こ とが勧 奨 さ れ 、開 拓 使 本 庁下 の札幌や 函館 支庁に 近 い道 南地 方は、漸 次公費 に よ る 公 立教 育所 が開 設 さ れ て いく 。 千歳 村 に ﹁千 歳外 五 ヶ 村 ﹂ 戸長 役場が開 設さ れたの は 明治 十 三 年 二 月の こと で 、 所 管 区域 を 千 歳 村 ・ 蘭 越 らん こ し 村・ 烏 柵 さく 舞 まい 村・長 都 おさ つ 村・ 漁 いざ り 村・ 島松村 と し た。 十三年 二 月、 初代戸 長 には 五年以降駅逓 の 経営 や 千 歳郡 の総 代も 務 め た石 山専蔵 が就任 したが 、 八ヵ 月後の十月に 辞任す る 。後任は二 代 目 秦 はた 一明 が十三 年 十月か ら 病 死 する 十 七 年八 月ま で務め る 。 秦 の死 後、 同年 十一月 に 三 代 目の 太尾 お 長祥が決定する間は、石山が千 歳郡各村村用 係 を 命

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じられ て いる。 当 初は 戸長役 場 とい っ て も 独 立家屋の勤務場所 があるわけ では な く 、 戸 長の 自 宅 が あ てら れ た 。 ︵1 ︶ 十 三 年当 時の千 歳 村の戸数は 、 和人一一戸。アイヌ二八戸、千 歳郡内 全 体では和 人 二 六戸、ア イ ヌ 七 八 戸 で 七五㌫はアイヌ民 族が占め て い た。 寺子 屋 と 学校 に つ い て 、明 治三十九年 に 編纂 さ れ た ﹃ 千歳 外 三 ヶ村 沿革 史﹄ に次の よ うにあ る 。 明治 十二年始メテ千 歳 ニ於テ 児 童ヲ集 メ 、 昔 時寺 小 ママ 屋風ニ倣ヒ、 読書 算術 習字 ヲ教ヘ、 尋 テ 明 治 十三年 始 メテ民屋 ヲ借 リ、 小学 校ヲ創立 セリ 。 寺子屋 を 始めた人 は誰なのか。その動機 、経緯、 場 所 、児童数 等につい て 具 体的な記述はないが、 ﹃千 歳外三 ケ 村沿革史﹄ に よれば、 千 歳 の民間教 育 は 十二 年の寺 子屋が 始まりで ある。 た だ 、﹁十 三年始メ テ民 屋ヲ 借リ、 小 学校 ヲ創立セ リ ﹂ とあるの は、正 確 に は 民間の 千 歳 教 育所の こ と で ある。 開拓 使札幌 本 庁は十 二 年の ﹁教 育令﹂ 布 告と 、続く文 部省達 二 号 に もと づき 、明 治十三 年 一月 、開拓地社会 の実 情に 応じ て、 ﹁小 学校則﹂ ﹁小 学教 則 ﹂﹁変 則小学 教 則﹂ を 制 定した 。 札 幌 、 函 館など の 都 市 部に 実施し た ﹁小 学 校 則﹂は、教 場 規則や食事規則、 生徒 罰 則 などを 定 め、生徒の入 学 年 齢 を 満 六歳以上満 一 四歳ま で ︵ 入 学希 望があ れ ば年齢を問 わ ない︶とし、正 則小学校は修業年 限 を 六年、 課 程 を 六級の六年制とした 。 同時に、 六科 ︵読 書、習字、算術、地理、歴 史 、修身︶ を授 業 で き な い小学校 は、変則小学 校とするこ と が 通 達された。 変 則小学校は 修業年限を 四 年 、課 程を 八 級 と する四年制 で 、﹁ 小学教則﹂ を 簡 易 化し 、教 育内 容を省略した も の で あ った 。 また 、正 則 小 学校 ︵ 六 年 制 ︶よ り も 一 段 と低 い 位 置 づ けの た め 、 変 則 学 校 を卒 業 し 更 に 勉 学 を希望 す る 者 は 、 受 験 し て 合 格 し な けれ ば 正 則 小 学校 に は入 れ な い 仕 組 み であ っ た 。 こ の よ う に 明 治 初 期 に は 本 州 と 北 海 道 との 間 だ け で な く、 さらに道 内の市 街 地と 開拓地 と の間 において も 学 校 教育 は 制 度的 差 異 の も とす すめ られ た 。 公 立 千歳 教育所と 苫小 牧 学 校 千 歳分 校 十三年開設の 千歳 教 育 所 は 翌十 四 年 四月 に公立 千 歳教 育所に 移 行す る。こ の 間の経緯が 以 下二 点の史 料 に 書か れ て い る 。 ︵一 ︶十四 年 秋に開 拓 使 学 務 局 督 学 係 ・ 三吉 み よ し 笑吾 が巡検し 、翌 十 五 年 二 月 付け で次の よ うに報 告 した 。 千歳村 教 育所 ハ戸長 秦 一 明 、 駅逓 石山 専蔵 等ガ主トシ テ 之ヲ 創 はじ メ其 ノ他 二三ノ 有志ト同 ジク 私金 ヲ 出 シテ村内ノ子 弟ヲ教ユルコトト ナレリ 。 況ン ヤ 旧 土人 ノ 子弟ノ如キハ例ニ 午 ひる 飯 めし ト筆紙墨 トヲ與ヘテ之 ヲ導ケリ之等 ハ巡回中ニ於 テ 最 奇特 ナル モノニ有之候 。 ︵明 治十五年 ﹃ 開 拓使 学務 局沿 革﹄ 道立 図 書 館蔵 ︶ ︵二︶さ らに、 札 幌県学務課督 学係・志村恒敬 が 明 治 十八 年十一月六日に 札幌 県 令 調 所 広丈 に次の よ うに復 命 した 。 前戸長秦一明 、曾テ奉職中 、千歳村一二父兄ニ商議シ 役場ノ隣房ヲ教場トシ 、 私塾様 ノ モノ ヲ開キ、 後 更 ニ 村 内 ノ 有 志 ニ 謀 リ 、 毎月若 干 金ヲ醵集シ、 別 ニ 旧 土人ノ 子 弟四五名ヲ モ 教 授 セ シ カ、 一時其都合 宜 敷 ノ 勢ヒアルヲ以テ公 立 学校 願出ルニ 至レ リ。然ル ニ一 明死シテ 有志 頓 とみ ニ減 シタ リ。 ︵明 治十 八年 ﹃ 札 幌 県 学務 課 復命書 ﹄︶ 以上 二つの 文 書か らは次の こ と が読み取れる。十三年 二月に戸長 役 場が 開設され、 十 月 に 秦一 明が戸 長 に就 任する と 、 石 山 専 蔵らが 醵 金 きょ きん して 役 場 の隣 房 を 教 場 にし て和人 子 弟の 私塾 を開 いた 。 ま た 寄 付金 を募っ て 運営し ア イ ヌ子弟四、五人 に も教授 し 、ア イ ヌ 子弟には 昼飯 や 筆 ・紙・墨 を 与 え てい る 。 次い で児童 も 多く 集 ま り 活 気づ いた ことか ら 、十四 年 四月 一 日 、秦 戸長 は 苫 小牧 の勇払 郡 役所 へ﹁途 上 ﹂し、公立 教 育所 への移行を 願 い出た。郡 役所 では 巡 回 中の 開 拓 使 学 務課・ 三 吉笑 吾が秦 戸 長 に 面会し 、 千 歳 村教 育

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所の 様 子 を尋 問し た 。 千 歳 村教育 所 ノ 模 様ヲ聞ク。 戸 長ハ 正当ノ開 業 式 ヲ行ハザレ バ 授業ヲ始 ムベ カ ラザルモ ノト 思ヒルガ 如シ 。 乃 チ仮 リニ開 業 シ テ 追 テ 其 ノ 式ヲ行 フ 可 キ ヲ指示 ス。 ︵明 治 十 五 年 ﹃ 開 拓 使 学 務 局沿 革 ﹄﹁ 十 四年 四月 一 日 の項 ﹂︶ 三吉督 学 係 は 早急に 授 業 を 始め るよう督 促し 、追っ て 正式の 開 業式 を行 え ば よいこ と を 指 示して い る 。 四月 に 入 り、 千歳 教育所 は 開業 式を行 い 四 年 制 の変 則小学 校 に相 当する 公 立千 歳教育 所 として 正 式に開設 された。公 立教 育 所 開 設 につ い て は 、﹃ 開 拓 使 事業報 告 第四 編﹄ に も 次の ように あ る 。 明治十四年四 月設立 、 千歳 教 育 所ト称 ス 。 戸 長授業ヲ兼務シ、 維 持 未タ其法 ヲ 得ス 、日用諸 品ハ皆有志者寄附ニ係ル。教員一名、生 徒、男一〇名、女一名 、 計十一名 。 しかし 、 文政十一 ︵一八二八 ︶ 年生まれ で 五 三歳の 秦 戸長による授業は、 漢文 などを教 授した の か手 習師 匠のよ う で あ り 、 熱心 な指 導の割 に は そ の 効果 が み られ なか ったよ う だ。公式記録 には以 下 の よ うに書かれ て いる 。 千歳郡千歳村 教育所ハ本年 四月開業、 戸 長 秦 一明 之ガ授 業 ヲ兼務シ現在生徒旧 土人 ヲ合 セテ 凡ソ二十 名ト ス。 然レド モ 、 教 授方ハ純然 タ ル古ノ手習 師 匠タル ガ故、 教 師 ガ 心 ヲ 用井ル程 ノ 結 果 ヲ 得 ズ 。 資 本モ又其 方法 ヲ 得 ザルガ為 メ、 自 今ハ 、只日用 ノ諸品ヲ弁スルニモ、 有志 者ノ寄 投 ヲ 待 テリ。 ︵明 治十 五 年 ﹃ 開 拓使 学務 局沿 革 ﹄︶ 教育 内 容 この 頃の 教 科 内 容 は 次 のよ う な も の であ っ た 。 父 母の 営 業 を 助 け 長く 学 業 に 従 事す るこ と が で き な い 児 童 の た め、 つ と め て ﹁日 用 切 近 ノ学 科﹂ を教 授する と し て 、 読 物 復 読 、 口授 ︵修身 ・ 養生 等の教 授 ︶、 作文 、 算術 、習字 、 書取、体操、農業となっ て いる。変則小学校の算術 は 筆算 で は な く珠 算︵ そろば ん ︶を 採 用 し、 習字は 最 初は 石版に 書 き 、 次 の 段 階 で 草 紙 に筆を使って 練習した 。﹁ 日用切 近 ノ学科﹂ とは 、実 学 の 意 味 ではな く 、 小学教 則 の 場 合と質的に劣 らない内容 で あった。 ︵ 2 ︶ 生徒数と 就学事情 秦戸長よ り札幌県 学務課に提出 し た次 の ﹁学校表﹂ ︵ ﹃ 明 治 十 五 年 学 事 年 報 原 稿 ﹄ ︶ に学 事の実情 が記 さ れ て い る。 これ によ る と 、 公 立 千歳 教 育 所の 名称 は十 四年四 月 以 降 十五年六 月ま で の 期間 で あ る 。 十五年 七 月以 降十六 年 末は、苫小牧 学校の千 歳分校となっ て い る。 分校 と は 訓 導 ︵教 員 ︶ 不在の 学 校 が 、校長ま たは 訓導 の在職 す る本 校の 指 導 を受 け て 学 校 を運 営 す る場 合 で あ る 。 十七 年以降 は 予備 教 員 の青木毛一が赴任した こと か ら か ︵ 後 述 ︶ 千 歳学校と称した。 ︵ 3 ︶ 一 年 を二 期に分 け 、前 期を二 月 から 六月まで とし 、後期 を 七 月から十二 月 ま で とし て い る。一月の一ヵ月間は冬休みという こ と に なる 。 ﹁学校 表 ﹂ に ある六級生前 期・後 期 という の は文部省教則に八級よ り一 級ま で の 課程があり 、 六級前期は初歩の 段階 で 、﹁五十音﹂ 、﹁伊呂波﹂ 「 一 ヨリ百マデノ読 方 ﹂な どを学 習 した。 ︵ 4 ︶ 児童 数 ﹃明治十五年学事年 報 原稿 ﹄の﹁学校表 ﹂ を 読み解く と、十 五 郡 歳 千 国 振 胆 所 育 教 歳 千 合十人 内旧 土人八名 六級 生前 期 女 男 拾人 内旧 土人八名 就学 男女 教 員 合十七人 内旧 土人十 三 人 女 四人 男 十三 人 不就学男女 学務 秦一 明 委員 石山専蔵 郡 歳 千 国 振 胆 校 分 歳 千 合十一人 内旧 土人八人 六級 生 後期 女 一人 男 十人 内旧 土人八人 就学 男女 教 員 合十六人 内旧 土人十二人 女 四 人 男 十二人 不就学男女 学務 秦一 明 委員 石山専蔵 明治十五年︵従二月至六月︶千歳教育所表 明治十五年︵従七月至十 二 月︶千歳 分校表

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年 の 千歳郡内の学齢児は和人七人 、 アイ ヌ二〇人、合計二七人 で あ る。そ のうち就学児童は前期が男子 の み で 一〇人、後期 になって 女子一人 が 入 学 して 一一 人とな る 。 内 訳は 和 人 が三 人、 ア イ ヌが 八人 で あ る。 学齢児 の う ち 和 人児 童 が 七 人 中三 人、 ア イ ヌ児 童も学 齢 児二 〇 人 中 八 人が 就学 して い る 。 一方 の不就 学 児童 は前期 に 男一 三人・ 女 四人 の計一 七 人 で そのうちア イヌが一三人 。 後 期は男一二 人 ・女四人 で 計 一六 人 、 その うち アイ ヌが十 二 人 で あ る。全校児童 の七割を アイヌ児童 が 占め、就学 率 も和 人・ア イ ヌ ともに四割 で ある 。開校 間 もない千歳 教 育所・千歳 分 校 で は、和人より も ア イ ヌ児 童が多 く在籍 し 、学 ん で い る こ と が分かる。 明治十 六 年、 ﹁変則 小 学教 則﹂ は、 文部 省 「 小学校教 則綱領 」 ︵十 四年五 月 制 定 ︶に もとづき廃止となる 。代わ っ て 札 幌 県は 同年九 月 一日 、小学 校 規 則︵ 甲 第 一 七 号 ︶ を 施 行 し 初 等 科︵ 三 年 ︶、 中 等 科︵ 三 年 ︶、 高 等 科︵ 二 年 ︶ の三科八年制 を 実 施し た 。 こ れ により千歳学校は、初等科の み が開設 さ れ て 三 年間 の就学 期 間に 変わっ た 。 こ の こ とは十七 年十月二十三 日、秦 戸 長 の 逝 去後 に 千 歳学校学 務委員 の 石山 専蔵が 、 札幌 県学務 課 に提 出し た次 の ﹁札 幌 県 胆 振 国千 歳 郡 壱 番 学区 表﹂ ︵ 5 ︶ に報告されて いる 。郡内 六 カ村に初等 科 の 千歳学校が 一 校あ り、生 徒 は一 四人、 学 校経 費など も記さ れ て い る。 千歳村、 漁村 、 島 松村 、長 都村、 烏 柵舞 村、蘭越 村 右之通有 之候 明治十七年十月二十三日 千歳郡壱番学校学務委員 石 山 専 蔵 ま た 、学 務課長 ・ 三吉 笑吾が 十 七年 十月二 十 七日 に報告 し た﹁ 千歳学 校 生 徒旧 土人﹂ ︵ ﹃ 同 簿書番号九七六 五 ﹄ ︶ に よ る と 、 生 徒 総 数 一 四 人 の う ち 、 初 等科六級に次のアイ ヌ 子 弟 一〇人の名前 がみ える。 千歳村 初等科六級 水本 小判治 十二 年 八 ヶ 月 ︵*年 齢 ︶ 長都村 仝 川村 三太 十年 蘭越村 仝 小田イ ナ ダ 十一年 仝 仝 小山田孫六 十二 年 漁 村 仝 鳥井 志有四郎 二十一 年 烏柵舞村 仝 今泉 サ ヱ カ ン レキ 十六年 千歳村 仝 川崎 ウレ タ 十二 年 長都村 仝 川村 ヱサンタ 十一年 千歳村 仝 鳥沢 孫四郎 七年 六 ヶ 月 仝 仝 栃木清 三 郎 六年 こ の 名簿 のなか の 漁村 の鳥井 シ ウ シ オ︵志 有 四郎︶は、 明 治十 四年当 時 から、秦戸長のもと で 戸長役 場 の小使に雇 用 されて お り、十七 年当時は二 一歳 であっ た が千 歳 学 校 で 学ん でいる 。 在 籍 年 齢 制 限 も、 現 在 と 異 なり 、 緩やか で あった こ とがわかる。 十 八 年に なると 八 月十 七日に 視 察し た札幌 県 師範 学校助 教 諭・ 藤井秀が ﹁初等四級女 二 名 。同五級旧土人 二 人 、 此級ニ旧土人 ノ今泉秀治ナルモノ アリ。 年 齢十八年、 頗 ル 学 業 篤 志ナリ。 女二人。 同六級 十 八 人 内男 十 五 名・ 女三 名﹂と ﹃ 復命書﹄に記し た 。今 泉秀治とは サヱ カンレ キ のこ とで あ る 。 藤井は 不 就学児 が 多い ため漁 村 に分 教場の設置 を 、 また島松 ・ 長 都 ・ 蘭越・ 烏柵舞の各村 には巡 回 授業 を行うべきだと学務課へ報 告し ている 。 一四 生徒 数 千歳郡 壱番学区 学区名 四里 距離 通学最遠 学校 町村名附 所在 一五六 戸数 百七十 円 八十銭 学校 一ヶ 年 経費額 五七六 人口 八五 学齢 人 員 十八円六十一銭 学区一ヶ 年 経費額 一 学校 数 初等 科 学校 等 科 ○ 通学ス ル 他学区学 校名 其他及 最 近 最 遠距 離 千歳学 校 学校 名

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初期 の ア イ ヌ 子弟 教 育 明治 九年十 二 月、 開拓使 が ﹁旧土人教 化 ノ儀 ニ 付テ ハ 、 之 迄 毎々 相 違 候 通 リ何 分 ニ モ 誘 導可 致 ハ 勿 論 ニ 付 、 兼 テ 戸 長総 代 ヲ 始 教育 所有之 場所 ハ 教 員等 ヘモ懇 々 説諭 シ、 従 令 速ニ他ノ 人 民 ト並 立ス ルニ 至 ラ ス ト モ、漸 々 教化 候様注意可 為 致﹂ ︵ 6 ︶ と 明 記し、アイヌ民 族 子 弟教 育を軽視し ない よ う 達した 。 開拓使の目的 は 、﹁他 ノ人民ト並立 スルニ至 ラ ス トモ、 漸 々教化候様﹂ と あ る 。す なわち 和 人と 同等に 日 常生 活がお く れる ように 、 ま た 同等に な ら な く とも、次第に教化し て いくよ う 、戸長、総代、教育所の教員へ注 意 を 促し た 。 千 歳 村の 秦 戸 長 、 石山 総 代 は こ のよ う な 明 治 九年 の 通 達 の 方針 に より、教 育所で ﹁ 教化 ﹂ を 実践した。 訓 導を 秦戸 長が務 め たように、 授 業 は 日 本語で行わ れ た 。 作文 や 読 みも日本語を 覚 え 、ひら が な で 文章 を 書 け ること が 和人の子 弟同様にアイ ヌ子弟にとっ て目標 と されたの であ る。 開 拓 使は 明治十 一 ︵一 八七八︶年、 行政上 ア イヌを ﹁ 区 別 ﹂す る呼称 と し て ﹁旧土人﹂に一定した。 ︵ 7 ︶ 十五年二 月以降 の 三県時 代 になると、函 館 ・ 札幌・根 室 三 県が 教育資金 一 〇〇〇 円の補 助 を 宮 内庁に 上 請し た。それに対 し て 十 六 年三 月﹁旧土人 教 育 資本 金合 計 一 千円﹂ が 宮 内 庁 よ り下賜 さ れ、 札 幌 県は ア イヌ民族 に ﹁教 育資 本 金 下 付 ﹂県 令 口 述書 ︵ 8 ︶ を示 した 。 要 約 す る と 次 の よ う に な る 。 ﹁今般天皇陛下より特別の思召 を以っ て 北海道旧土人 を教育せんが為に其の 資本とし て 三 県下旧土 人 に 金 千円を恩賜 せ られた り 。 実 にありか たき仕 合 わせ の至りな らず や﹂ 。 「 かつて 漁 場 請 負 人 な る も の あり。 惨 酷にも 旧 土人を 使役せ し こ と牛 馬犬 狗の如く ﹂ で あ っ た。 アイヌ と 場所請負 人と の交易の際も、 数 枚 の熊皮に 対し て 煙 草一 包み で あ っ た り、 数 枚 の鷲羽 が 針一本と交 換 さ れ る 。 こ のように﹁愚 昧視﹂され 使 役惨 憺た る こ とは慨嘆すべ きこ と で ある 。﹁ 天皇 陛 下は明 治 の始め、 開拓使 を 本 道 に置か れ 汝 等 の保護 又 厚 き を加へ ら れる 。 是 を 昔に比ぶ れば雲と泥と の 差 ちが いあり﹂ 。 十 一年 に樺太アイヌ の子弟向けに 開設さ れた﹁対雁教 育所﹂は 、﹁ 言 語 応 答 読 書 算 術 ﹂につい て和人と﹁並立 し て﹂ 同 じように対応 でき る子弟もいる。 ﹁ 此 教 育なけ れ ば 耳 目 を 聡 明 にし道 理 を弁知 する こ と は能す﹂ 、﹁ 教育は衣食 水 火﹂ のご とく 一日も欠かす こ と は で きないも ので あ る 。 ﹁教化﹂とはこ の ように、 天皇制国家の下 で 臣民となる こ とで あっ た 。 そ の 後、 文部省 か ら の 二〇〇 〇 円 を 追加し た 教育 下賜資金三〇 〇〇円は 北 海 道庁 時代に な ると 道庁が 管 理し 、 昭 和 六 ︵一 九三一 ︶ 年に 至って ﹁ 旧 土 人 奨学 資金﹂ の 財源 となる ︵ 奨学 資金 の 受 給者 の一人に東京 帝国大 学 に 進学した知里真志保がいる ︵ 9 ︶ ︶ 。 アイ ヌ戸数の 多い 部落に は 学校 を建 て、天皇 や皇族の 恩賜 金 で 維 持 する ﹁ 旧 土人学 事 規 則 案﹂が十八 年 頃、 札幌県 の 教育 制度の構想に 上っ た ︵a ︶ 。こ れはやがて三十二年の﹁北海道旧 土 人 保 護法﹂の公布に よ っ て 新しい段階 に 入 り、 アイヌ 人 口多 数 の 道 内 二一 ヵ所 の地 域に 、国庫 に よる ﹁アイヌ学 校﹂ ︵旧 土人 学校 ︶ を 建 設 する こと で実 行さ れ る ︵ 後 述︶ 。 二、学校維 持 費と学田創 設 開拓 使 補 助金 交付 開設当 初 の千歳教 育所 の 運 営費 や日 用諸 品は有志者 の寄附に頼っ て い る。もとより公立学校用地は、 明治七 年 の﹁大小区学校 用地無価渡の件 ﹂ が実施されて 以降、無償下付され て い た が、 九年、 開 拓 使札 幌 本 庁 は 学校 維 持 経 費 およ び 教 員 俸 給の 官 費 払 い を廃 止 し 、 町 村の 負 担︵協議費と称す︶とする こ と とし た 。 代わりに 文部省では、 各 地 の状況 に応じ て 学 齢 児一人 当 た り 一四銭 の 補 助 金を一回 限り 交付 する こと にした 。 開 拓 使は 、﹁ 北海 道 で は 新 たに 移住す る 者が 多いた め 、 特 別に保 護を 加えて 二 倍 の 二 八銭﹂に増額し、九 年 に交 付した。千歳村外五ヶ村︵ 千歳村・漁

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