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HACHIOUJI CITY HISTORICAL MUSEUM NEWS

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古い写真を読む  八王子の献納飛行機(昭和 17 年) 目次 P.1 古い写真を読む26        「八王子の献納飛行機」(昭和 17 年) P.2 特別展「八王子の産業ことはじめ」     八王子のお土産コンクール P.4 紙芝居「日光と八王子千人同心」      ∼千人頭石坂弥次右衛門∼ P.5 世界が認めた日本のデザイン       ∼ 1964 東京オリンピック公式ポスター P.6 幕末・千人同心の海防策 P.8 八王子の文化財 傳法院の石塀

 昭和 17 年(1942)9月 21 日、所沢飛行場で献納飛行機「愛国」 の命名式が行われた。この日、八王子からは、3機の飛行機が献 納され「堤号」、「八王子織物号」、「八王子撚糸号」と命名された。 写真の「堤号」は、堤商事株式会社の呼びかけにより 10 万円が 集まり飛行機1機を献納したものである。当日式場には、数百機 の飛行機が並んだといわれ、当時の内閣総理大臣・東条英機が式 辞を述べている。  飛行機の献納は、昭和7年(1932)に始まり、同 18 年頃から 全国的に広まっていったといわれる。陸軍機の「愛国」のほかに 「報国」(海軍機)が知られ、献納者には、会社や組合などだけで なく、女学生や個人によるものがあった。       (こん)

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特別展 「八王子の産業ことはじめ」

会期:平成 26 年 2 月4日(火)∼ 3 月 23 日(日)

   

※会期中の休館日 月曜日・2 月 12 日(水)

開館時間:午前 9 時∼午後 5 時

会場:郷土資料館一階特別展示室  入館は無料です !

 明治時代、殖産興業をスローガンにかかげた政府は、技術を競い高め合うことを目的に全国 規模の内国勧業博覧会や、地域と物産を限定したミニ博覧会である共進会を度々開催しました。 八王子からも織物や生糸、繭など工夫を重ねた様々な製品が出品され、更に良いものを作ろう という気運が高まりました。特に農家の副業として家計を支え続けてきた織物は、技術が磨か れ、回を追うごとに高い評価を得るようになったのです。  また、器械製糸工場の経営や輸出用のハンカチーフの製造、煉瓦の製造、花百合の球根の生 産など新しい事業に乗り出した人々もいました。明治三十年代に入ると県や郡、市町村、農会 が主催する共進会や品評会が盛んに開かれ、技術を競う場が更に増えたのです。  今回の特別展では、明治時代から大正時代にかけての八王子の産業界を紹介します。人々が 技術を競い合い、独自の技術を生み出し、また新しい事業に乗り出していった当時の熱気と活 気を感じていただければ幸いです。 左:第二回南多摩郡物産共進会正門   (絵葉書) 明治 44 年 上段左:生糸商標(萩原製糸場)     明治 20 年代      横浜開港資料館蔵 上段中央:織物商票(小川時太郎)      明治 20 年代  上段右:織物商票(石場製造)

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美甘 由紀子

 今回は大正時代に開催された品評会の一例とし て、大正 6 年(1917)10 月に八王子商業会議所 主催の「土みやげひんひんぴょうかい産品々評会」を紹介しましょう。  大正 6 年は市制が施行し、八王子市が誕生した 年で、市制祝賀式をはじめ、さまざまな祝賀行事 が行われました。10 月 22 日から 26 日まで、市 立第四尋常小学校(現・八王子市立第四小学校) を会場に南多摩郡八王子市連合特産品展覧会が開 催されました。土産品々評会は、特産品展覧会 の会期中に行われました。出品点数は 184 点で、 出品人は 60 名でした。出品物は、工芸品、菓子 其他飲食品、雑品に分けられ審査を受けました。 その結果は、以下の通りです(カッコ内は店名と 出品人)。  この結果を見ると、選ばれた土産物のほとんど がお菓子です。「高尾羊羹」「高尾煎餅」「桑の都」 「桑の露」「機の音」などのネーミングから「高尾山」 と「養蚕」「織物」が八王子を象徴する言葉であっ たことが分かります。特に「高尾煎餅」は数軒で 製造しており、どれも入賞しています。  入賞した土産品はどのような製品だったので しょうか。萬屋を経営していた八幡町の小林直之 家には、出品にあたっての解説書が保管されてい ます。それによると、雪印賞状を得た「桑都煎餅」 は、「八王子に関係する古歌をもとにした絵を焼 きつけた煎餅で、軽便な容器を用いた」とありま す。苺飴は、「南多摩郡農会が栽培を奨励してい る八王子近郊の苺を使い、汽車の中でも食べられ るように小型にして一個ずつ経木で包装した」、 月印賞の「桑の都」は、「桑の実を少し混ぜて鶏 卵の白身と黄身で色づけをしたもので、熱湯に溶 いて飲む。入れ物は、封筒入れや菓子器にも使え、 土産に貰った人が後々まで八王子を連想してもら えるように留意した」という解説があり、持ち運 びの便、特産品の使用、容器の再利用などいろい ろな工夫を重ねていたことがわかります。  審査概況では、「従来八王子には土産品として 他に紹介するに足るもの無し、商業会議所此の点 に着眼し本品評会を開催し」と述べられています。 また、土産品について「実質が良く、貯蔵のきく 物であるのは一般のお菓子と変わらないが、特に 価格が高すぎず、ちょっと気が利いていて、かさ ばらず手軽で、携帯に便利で、贈る側も恥ずかし くなく且つ貰う方も心持ち良い品であるべき」と かなり高度な要求をしています。  土産品々評会は市制施行という新しい八王子の 始まりを契機として、他所に誇れる「土産物」を 作りだし、商業を活性化させようとする試みであ り、市内の営業者も創意工夫を凝らした製品を作 りだして出品したのです。 [ 参考文献 ] 『市制祝賀会連合展覧会記念写真帖』1918 写真:「名産苺あめ」(左)と「桑の都」(右)の商標         小林 直之氏蔵 

八王子のお土産コンクール

【雪印賞状】桑都煎せんべい餅・苺飴(萬よろず屋 小林萬蔵)・ 自然薯羊ようかん羹(元木屋 楢本長五郎)・御國の寶たから(青 木朝造 萬年屋)・高尾羊羹(有喜堂 峯尾熊次郎) 【月印賞状】化粧品(梅原兵蔵) 高尾煎餅・桑の 露(元木屋 楢本長五郎) 高尾煎餅(青木朝造  萬年屋)  わらび餅(新玉 野村とく) 桑の 都(萬屋 小林萬蔵) 煉羊羹(布袋屋 田中信蔵) 梅ひしお(丸常 鈴木常吉)  【花印賞状】八雲楽焼(原吉郎) 木製玩具(日野 屋 栗山傳吉) 化粧品(森田真之助) 高尾煎餅 (布袋屋 田中信蔵) 玉露羊羹(新玉 野村とく) 御所饅まんじゅう頭(玉川亭 野村清吉) 大正漬(鈴木常吉) 機 はた の音(木村屋支店 木下敏(俊)雄) 高尾煎 餅(小美根半次郎) 絵葉書及地図(文華堂 熊 澤廣吉)

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紙芝居「日光と八王子千人同心」

~千人頭石坂弥次右衛門~

 八王子市郷土資料館では、平成 13 年(2001) から展示解説ガイドボランティアを導入しました。 館内の展示解説活動の他に八王子かるたの作成、古 文書の勉強などいくつかの勉強会を自主的に行って おり、その中の活動の一つに「紙芝居会」がありま す。「紙芝居をとおして八王子の歴史を分かりやす く子どもたちや市民の皆さんに伝えていこう」とい う会のねらいのもと、平成 20 年に武田信玄の娘で 八王子に逃れ信松院を開基した松姫をテーマにした 「松姫ものがたり」、平成 22 年に太平洋戦争で空襲 をうけた八王子をテーマにした「八王子空襲」の2 つの紙芝居を完成させてきました。これらの紙芝居 は毎月1回開催されるガイドボランティアの定例会 の日にあわせ、資料館の集会室で 30 分ほどの上演 会を開催し、依頼を受けた場所で上演する紙芝居の 出前と貸し出しも行ってきました。第2作目の「八 王子空襲」は平成 22 年夏に完成し、特別展「戦争 と人々のくらし」の関連講座として 7 月 29 日に初 上演会を行い、その後資料館や八王子市で開催する 平和展でも上演会を開催しました。これまでの紙芝 居の上演会は延べ 74 回 2,174 人にも及び、演者の 解説も回を重ねるごとに向上していきました。参加 者の方からは「もっと多くの方々に伝えて下さい」 といった励ましの言葉も頂き、ガイドボランティア にとってこれらの活動は間違いではなかったと紙芝 居仲間の士気は上がっていきました。  そんな中ボランティアのなかで「八王子の歴史を 語るに欠かせないものは何だろう」との話題から、 今まで候補に出ていながら選ばれなかった「八王子 千人同心の紙芝居を作ろう」という話で盛り上がり ました。そこでボランティアの一人が書いた千人同 心をテーマにした物語を原案にして、紙芝居用に脚 色していくことに決めました。慶応 4 年(1868) 紙芝居メンバーによる打ち合わせの様子  日光勤番中に新政府軍が攻 めてきた際、日光を戦火か ら守るため戦わずして新政 府軍に日光を引き渡したこ とで責任をとり自害をした 千人頭「石坂弥次右衛門」を主人公とした紙芝居の 作成が、平成 23 年 1 月からスタートしました。  新メンバー 1 人を加えた 4 名での作業となり、1 人で 3 ∼ 4 場面のシナリオを担当し月 1 回約 2 時 間の打合せで、紙芝居の台本は 4 回も書き直しを 行いました。幕末の歴史をわかりやすく表現するこ とを心掛けたため文字数を 350 ∼ 400 文字に増や し、13 枚で作製することにしました。千人同心が 解隊した幕末は遠い昔であるかのようですがまだ約 150 年前のこと、時代考証にも神経を使いました。 シナリオがある程度出来たところで 13 枚のシナリ オにボランティアによる絵コンテを入れましたが、 1 場面にいろいろ内容の違うものが織り込まれてい たためどう描くかが難しいところでした。千人同心 を題材とした紙芝居をどうしても完成させたい思い から悪戦苦闘しながらも意見を戦わせ 35 回の打合 せの末、2 年 10 カ月かけた紙芝居が完成し、今年 11 月 20 日に郷土資料館の集会室で初上演に至り ました。またガイドボランティア定例会での意見を もとに、シナリオをやさしい表現に変えた「子ども 編」と、より理解を深めていただくように解説資料 も作成しました。世界遺産となった日光東照宮を命 がけで守った 270 年余の八王子千人同心の業績を 紙芝居を通して語り続けるとともに、ご覧頂いた市 民の皆さんに八王子と姉妹都市日光とのつながりを 理解する一助になればという思いで、これからも上 演していきます。   紙芝居「日光と千人同心」の初上演会 日光と八王子千人同心にっこう 紙芝居シリーズ (3) 八王子市郷土資料館ガイドボランティア紙芝居会 千人頭 石坂弥次右衛門 はちおうじせんにんどうしん 紙芝居の一場面

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世界が認めた日本のデザイン 

1964 東京オリンピック公式ポスター

 ここに紹介する資料は、昭和 39 年(1964) に東京で開催された第十八回オリンピック東京大 会のポスターです。 写真 1 の第1号ポスターは 白地に赤い太陽と黄金の五輪マークを組み合わせ た亀倉雄策のデザインで、亀倉は、この前年にコ ンペを経て制作した東京大会のシンボルマークを そのまま引き延ばしてポスターとしました。この 第1号ポスターは昭和 36 年(1961)2 月に 10 万部が発行され、日本中の繁華街、公官庁・役所、 駅や空港などありとあらゆる所に掲示され、人び とに「東京にオリンピックがやってくる」ことを 印象的に伝えました。  以後 4 回発行された公式ポスター(写真 1 ∼ 4) は、いずれも亀倉がアートディレクターとしてデ ザインしたものです。亀倉が「自分の功績はシン ボルマークをデザインしたことではなく、作ろう と提案したことだ。」というように、それまでの オリンピック大会ではシンボルマークなどは存在 せず、いわゆる「五輪」のマークしか使用してい ませんでした。その後、こうした大会独自のシン ボルマークやロゴは好評を得て、オリンピックの 各大会やワールドカップなどの国際的イベントで 作られていおり、今となっては国際的慣例となっ ています。  また亀倉は、それまでのオリンピックで制作さ れたポスターをすべてチェックしたうえで、第 2 号ポスター以降には「写真」を採用することを決 めたといいます。亀倉曰く、「デザインする前に 代々のオリンピック・ポスターを研究したが、ろ くなのがなかった。どれも絵描きさんがちょこ ちょこっと描いて作った、まずい絵ばかりで、そ れで、僕はリアルに写真を使うことにした。」と いうのです。大きさも B 全(1030 ㎜× 1456 ㎜) で7色刷りのグラビア印刷という、当時としては 大きさ、印刷技術ともたいへん贅沢な仕上がりを 要求したといいます。確かに、それまでの大会ポ スター(写真 5、6)と比べて鮮烈で、それは写 真のもつ圧倒的なリアルさをもって強烈なインパ クトを見る者に与えます。亀倉はこの東京大会に おいて、シンボルマークやポスター4種のデザイ ンを手がけたほか、そもそも東京大会が決定され 写真 1:第 1 号ポスター 写真 5:1936 年ベルリン 大会のポスター(「世界各 国オリンピックポスター 集」日本書籍出版協会) 写真 6:1960 年ローマ大会 のポスター(「世界各国オリ ンピックポスター集」日本 書籍出版協会) 写真 2:第 2 号ポスター 写真 3:第 3 号ポスター 写真 4:第 4 号ポスター 参考資料:「オリンピック東京大会 資料集8 報道部」財団法人オリ ンピック東京大会組織委員会、「世界各国オリンピックポスター集」日 本書籍出版協会、野地秩嘉『東京オリンピック物語』小学館 2011 たミュンヘン IOC 総会で使用した英文パンフレッ トの装丁も亀倉が手がけたものでした。こうした グラフィックデザイナーや機器の技術者たちが東 京大会を陰で支え、その制作(製作)物が日本の デザイン、技術力を世界に知らしめることとなり ます。  (つづく)

小林 央

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加藤 典子

 アヘン戦争における清国の敗北以来、諸外国に よる日本侵略の可能性は具体的な危機感となって 顕在化しました。嘉永6年 (1853) 6月のペリー 艦隊の来航でその危機意識は決定的なものとな り、学者や幕府関係者のみならず、末端の下級武 士や一般庶民に至るまで視覚的に 「 危機 」 をとら えることとなりました。  さて、この度ご紹介するのは、千人頭志村源一 郎の組で組頭を勤めた村松家に残されていた文書 です ( 資料① )。「 近来異国船度々渡来仕候に付」(1) と題されたこの文書には、署名や年代の記載がな く、執筆者を特定することは出来ません。しかし、 文末の 「 右愚案下輩之身分も不顧奉恐入候得共奉 申上 」 の一文や、紙面に修正を加えた箇所が散見 されることなどから 「 上書 」 の草案であるとわか ります。内容については後述しますが、「 砲術 」 に関する記載が多いため、江川太郎左衛門英敏の もとで砲術訓練を受けていた組頭村松丈之進の手 によるものと考えるのが自然でしょう。安政 3 年 (1856)、組頭 9 名は芝新銭座に開設された大小砲 習練場に入門し西洋砲術の訓練を受けました。こ れは千人頭の入門に先駆けておこなわれ、翌年に は千人同心の近代軍制化に尽力した千人頭河野仲 次郎らが入門しています。丈之進は上記9名の内 のひとりで、安政 6 年には砲術免許皆伝となり、 千人同心の中では最も 「 砲術 」 に精通した人物と いえます (2)。また、文中に 「 大艦其外御製作相 成候 」 と日本にも大きな艦船ができることを想

幕末・千人同心の海防策

定した文言が見られます。「 大船建造禁止令 」 が 解禁となったのは嘉永6年であるためそれ以降の 文書と確定できます。以上から、本文書は村松丈 之進かその周辺の人物によって、砲術訓練がおこ なわれ始めた安政年間以降に書かれた 「 上書 」 で あると推定できるのです。  それでは、文書の内容に入っていきましょう。 まず、筆者は日本の特徴的な戦略形態として 「 剱 鎗其外銘々心得候芸術を以手詰之摂(接)戦 ( 勝負 )」 と 「 接近戦」を挙げています。また当時は、この ような白兵戦を武士の美徳ととらえる風潮があり ました。武士は個々の能力を発揮した接近戦にこ そその実力を示してきたとしています。一方で、 諸外国は 「 砲術に精妙之趣に下説風聞仕候 」 と得 意の鉄砲を生かした 「 遠戦 」 にこそ力を発揮する ことも指摘しています。そして双方が鉄砲を撃ち 合った場合、どんなに勇敢な武士であっても一発 の銃弾を受ければ無駄死にとなると、鉄砲を使用 した戦いの実態について述べています。  筆者による具体的な海防策は 「 皇国は海岸多し 国に御座候 」 の言から始まります。これは林子平 の『海国兵談』にも通ずる言説で、日本は周囲を 海に囲まれた島国であり、海上交通が発達した現 在においては海岸防備に力を入れなければならな いという結論を導きます。本文書も当時の諸献策 同様の問題定義を起点として独自の海防策を展開 していきます。この献策が興味深い点は、極めて 具体的であること、そして日本側の兵力の基礎 資料① 「近来異国船度々渡来仕候に付」(前半部)

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に鉄砲を想定している点です。まず筆者は、海岸 に城郭縄張のように、海岸から3・4町 ( 約 327 ∼ 436 m)手前へ幅2間 ( 約 3.6 m )・深さ7尺 程 ( 約 2.1 m ) の溝を堀割、その海岸側に縁より 約4尺下へ幅5尺の道をつくって、残りの7尺に 最寄りの川や水堀等から水を引くという壮大な計 画をたてています。また、通行のために各所に橋 を渡し、海岸側に住む漁師やその家作一切を川よ り手前に強制的に移住させます。そして、掘割の 際に出た土砂を川より5・60 間 ( 約 109 m ) 手 前へ積み上げ、高さ5・6尺の土手台場等の要害 を築き、二重外郭を形成しようとする遠大かつ無 謀な計画なのです。  さらに 「 上書 」 には、敵方が海岸に上陸した際 の上記設備を用いた防御策について記されていま す。まず、溝川の手前に築いた土手を正隊の陣営 とし、溝川の下道に鉄砲の兵やその他の奇兵を並 べます。平地を掘割しているため、13 間位迄は 敵方が押し掛けても溝下に隠れる兵は見えず、伏 兵に気付いても川縁より下へ打ち込むことは出来 ないので鉄砲の玉に当たることはないとしていま す。敵が2・30 間まで近付いたところの合図で 兵は立ち上り、溝縁を台にして銃砲でねらい打ち にする算段です。3尺の高さのある下道上で立ち 上がるので、身体は約4尺分 ( 約 1.2 m ) が堀に 隠れることになります。縁を台にするのにも適し た高さです(図版1)。筆者は 「 ねらい打に打立 候はば十に八・九は亦打倒可申と奉存候 」 とこち ら側の優勢を指摘しています。そして、そのよう になれば川より手前に敵が侵入することはありえ ないとし、敵方の動揺に乗じて鎗などでの接近戦 も可能であるとの自信をみせています。また、文 書後半部には使用する鉄砲についての詳細が記さ れています。鉄砲の型については立ち打ちのため 重いものは避け 「 三匁位より拾匁位又は三拾匁位 迄 」 が良いとあります。理由として小さいサイズ ならば弾薬も少量で済む上、巧妙でないため使用 が容易で、玉込の作業も手早く隙間なく打ち込む ことができることをあげています。そして結びに は 「 砲術之義厚く御世話も被為在候故習熟精陳之 趣味方之損亡少き様にと愚意仕候 」 と、砲術習練 への援助手厚い中、鍛錬に臨む味方の損失を如何 に少なく抑えるかを考えた結果としての 「 上書」 であることを述べています。  文末には 「 捧げたき心斗りや春の野に ( 捧けん とおもふ斗りのこゝろかな ) 雪かきわけてつめ る若葉も 」 の一首が詠み込まれていました。身命 を賭して日本の防衛に当たろうとする 「 武士 」 と しての気構えがよく表われています。この 「 上書 」 の海防策は経済面・労力面などを勘案しても現 実的ではなく、実現できるものではありません。 しかし、このように千人同心が 「 危機 」 を自らの ものとして受け止め、真剣に海防策を立てていた 点に大きな意味があるのです。さらに、得意の 「 砲術 」 を生かそうとする点からは、自身の価値を 最大限に主張する幕末千人同心の姿が見て取れま す。来年度には幕末期に西洋諸国と接触した八王 子の人々について取り上げた企画展を開催する予 定です。今回の 「 上書 」 もその一 事例と位置づ けることができるでしょう。 【出典】 (1)村松家文書(門倉家所蔵)「 近来異国船度々 渡来仕候に付」 (2)『 八王子千人同心関係史料集第三集 』「千人頭月番日記」   (八王子市教育委員会、平成 2 年) ※翻刻内の丸括弧部分には草案の修正前文章を掲載。  文書中の旧字は新字に、片仮名は平仮名に統一した。 図版1 「上書」の海防策を図式化したもの

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八王子市郷土資料館 〒 192-0902 八王子市上野町 33 電話 042-622-8939 2013.12.28 再生紙を使用しています  現在の八王子の街は、江戸時代に甲州街道の宿 場として発展した町を引き継いでいます。しか し、市街地は度重なる火災や戦災のため、古い町 の記憶をとどめている文化財はあまり残っていま せん。その中で市指定有形文化財である南新町の 成田山傳法院の石塀(平成 25 年 3 月 21 日指定) は、貴重な歴史資料です。  この石塀は、ひとつの大きさ約 24 × 60 × 1.7 ㎝の直方体の延べ石を積み上げて作られており、 そのひとつひとつに寄進者である商店、旅館、織 物関係業者などの名称や店のしるしなどが町名と ともに刻銘されているのが特徴です。  明治 30 年(1897)4 月 22 日の「八王子大火」で、 傳法院は本堂、庫く 裡などすべてを焼失してしまいり ました。復興は八日町 105 番地から現在地へ移 転し、翌年 3 月に本堂落慶法要を執行。その後 境内を拡張し、石塀は明治 39 年(1906)に完 成しました。  石塀は 7 段積、基礎から笠木までの高さは約 2m、寺の敷地の南から一部西側にめぐっていま す。南塀は一部失われていますが長さ 23.46 m、 西塀は 3.96 mが現存しています。延べ石に使用 されている「伊豆青石」は凝灰岩系統の軟らかい 石で、加工しやすく耐火性もあるのが長所ですが、 風化しやすいという欠点があります。傳法院の石 塀も、剥落して刻銘がわからなくなってしまって いる部分があります。  では残っている刻銘の内容を見てみましょう。 町名を見ると、「八日」、「八幡」、「本町」など甲 州街道沿いの町名、「久ひさしま嶋」、「馬うまのり乗」、「元子安」 といった、今ではなくなってしまった宿の名残を 残していた名や、「停車場前」のように鉄道敷設 後の新しい地名も刻まれています。  寄進者は、織物製造業、生糸商、仲買商などの 織物関係者が多くみられます。「杢もくだい代工場」、「外 塚工場」といった刻銘からは、織物製造業が拡大 し工場生産が行われていたことをうかがわせま す。商店は、「大谷花泉堂」、「森田呉服店」など の大店や「徳とっくり利亀屋」での名で江戸時代から知ら れた旅館の「亀屋」、「菓子舗元木屋」、「黒沼たび」 といった老舗が名を連ねています。ほかには、履 物店、魚店、小間物店といった小売店、そば、寿 司のような飲食店、旅館、床屋、医者、材木店、 石工、銭湯など多種多様の業種がみられます。  傳法院はその後、昭和 20 年の八王子空襲で再 び堂宇のすべてを焼失します。石塀に刻まれた商 店は乾物の埼玉屋、荒物の加嶋屋、印刷業の柴田、 黒沼たび(現在は鰹節店)などは現在も続いてい るものもありますが、今ではほとんどありません。 明治の大火から立ち直り町の復興の一事業として 石塀に寄附者として名前を刻んだ当時の人々の心 意気や八王子の繁栄を、残された刻銘から思いを めぐらせてみてください。(河)

《八王子の文化財》

 

で ん ぽ う い ん

法院の石塀

写真 1  南塀外側(南側から西方向) 写真 3 南塀外側(正面から) 写真 2 南塀境内側(停車場前の刻銘 )

参照

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