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人 間 社 会 学 研 究 集 録 5 (2009), (2010 年 3 月 刊 行 ) * NDU NDU * 1 NDU NDU ,

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http://repository.osakafu-u.ac.jp/dspace/     Title ドキュメンタリー映画の視線 : 沖縄からの「暴動の予見」として の映画 Author(s) 中村, 葉子 Editor(s) Citation 人間社会学研究集録. 2009, 5, p.131-166 Issue Date 2010-03-25 URL http://hdl.handle.net/10466/10692 Rights

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ドキュメンタリー映画の視線

―沖縄からの「暴動の予見」としての映画― 中村葉子*

1 章 ドキュメンタリー映画の作家「主体」論

―70 年代における日本のドキュメンタリー映画状況― 1−1.ドキュメンタリー映画における作家主体がどう叫ばれてきたか はじめに、この論考では日本における 1970 年代のドキュメンタリー映画論と「日 本ドキュメンタリストユニオン」(以下 NDU)の作品分析をつうじて、ドキュメン タリー映画の「主体」論に焦点をあてる。現在においてこの「主体」論をとりあげ ることはこれまでの小川紳介の作品が「対象」と「記録者」との関係性における作 家主体の問題が数多く論じられてきたなかで、同時代的に存在したその他の作家に ついていまだ十分な議論がなされていない。その意味で NDU をとりあげることは、 小川紳介などの先行する作家の影響を受けつつ、70 年代に向けて新たな「主体」論 を展開したものとして、大変に重要であると考えている。それは、復帰前の沖縄と いう日本の「周辺」に身をおくことで撮影することと、運動を展開することの双方 の困難さから導かれたものであった。しかし、そうであったがゆえに作品がより重 厚なものとなり、状況への鋭い批判をもつものであったと思われる1。その点を明ら かにすることが今回の課題であり、2 章以降の作品分析を通じて具体的に明示して * 大阪府立大学大学院人間社会学研究科博士後期課程 1 NDU の諸作品は関西圏では京都・大阪を中心に上映会が行なわれ続けているが、1995 年の 「山形国際ドキュメンタリー映画祭 日本ドキュメンタリー映画の格闘 70 年代」において小川 紳介、土本典昭の二人の業績に連なるような形で NDU もともに上映された。『鬼ッ子 闘う青 年労働者の記録』(1969)、『沖縄エロス外伝・モトシンカカランヌー』(1971)の2作品がとりあ げられ、「運動そのものをえがいた作品」として『鬼ッ子』が位置づいている。また 2008 年の韓 国における「日本ドキュメンタリー映画祭」では韓国で撮影された『倭奴へ 在韓被爆者無告の 二六年』が、韓国との歴史的な関係をふまえつつ、映画を再度在韓被爆者とともに共有する機会 が設けられた。あるいは最近では仲里効の「沖縄映画論」の範疇において注目された。仲里効 2007『オキナワ、イメージの縁(エッジ)』, 未来社 人間社会学研究集録 5 (2009), 131-166 (2010年3月刊行)

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いきたい。まず、1 章では 2 章以降の前段階として「主体」論の範疇において何が 議論の中心として語られていたのかを論じていく。 「ドキュメンタリー映画」という言葉の始まりは古典的な映画理論が確立された 1930 年代のイギリスのドキュメンタリー映画運動においてである。この「ドキュメ ンタリー映画」という言葉自体は、1926 年にイギリス人映画作家のジョン・グリア スンの映画評に始めて登場した2。映画史家のリチャード・メラン・バーサムによる と、グリアスンのドキュメンタリー映画に対する信条は、「第一にドキュメンタリー は実際の世界を観察し選別し、明らかにさせる、新しく、そして力強い芸術の形態 であり、第二にドキュメンタリー映画作家は劇映画作家よりも題材への解釈の想像 力が豊かであり、第三に「生」の題材や物語は、演じられているものよりも現実的 だと、グリアスンは信じていた」1とまとめている。劇作家よりもドキュメンタリー 作家のほうが題材にたいする豊かな想像力でもって、新たな現実世界を提示する力 強い芸術形態だと考えられていた。 そしてグリアスンの理論は、ドキュメンタリーの古典的理論を確立したイギリス 出身のドキュメンタリー作家、ポール・ローサに受け継がれていく。彼もまた「い かなる意味においてもドキュメンタリィは歴史の再構成ではないし、それを行なお うとする試みは失敗せざるをえないのである。ドキュメンタリィは、むしろ人間社 会への関係においての表現された現代的な事実であり事件なのである(中略)ドキ ュメンタリィの監督は中立的であろうとしてはならない。さもなくば、彼は単に叙 述的であり事実的であるにとどまるだろう」と記す。そのうえでローサの目指す映 画はセルゲイ・エイゼンシュテインの『戦艦ポチョムキン』や『十月』(1927)をあ げている。そして、ドキュメンタリー方法の本質は「現実的題材のドラマ化にあ る」3 とする彼の有名な言葉は、作家の積極的な現実解釈に重きをおくものである。 ドキュメンタリー映画を日本の状況にうつして考えていくと、1960 年代の日本で は彼の理論は作家主体の確立という点において映画作家に多く参照された。また「ド 2 ロバート・フラハティ監督の『モアナ』を“documentary film”と評した。グリアスン的解釈に よると、このときの物語とは劇映画の「物語 Story」とは区別され、現場でおのずから生まれ る物語であるということが重要である。(岩本憲児,「台頭期のドキュメンタリー映画と記録映画」, 村山匡一郎編, 2006,『映画は世界を記録する ドキュメンタリー再考』, 森話社, p. 38.)

3 Rotha, Paul, 1952, Documentary Film, London: Faber and Faber Ltd. p. 117, (『ドキュメンタリー映 画』, 厚木たか訳, 1960, みすず書房, p. 88)

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キュメンタリー映画」は「記録映画・教育映画・PR 映画」の名称でよぶことが 60 年代までは一般的であったようである。戦後いちはやくこのローサの映画理論を論 じた花田清輝は、既存の客観主義的ドキュメンタリーを批判し、作家自らの「内部」 で「外部」をとらえたドキュメンタリーを創造すべきだといい「シュール・ドキュ メンタリズム」を提唱した。 その花田清輝の議論をふまえて松本俊夫も「対象」への深い洞察をふまえたうえ での「主体」の確立を第一に据えて、論じていくこととなる。花田清輝がかつてル イス・ブニュエルの作品を詳細に論じていたが、松本俊夫もその議論に呼応する形 で、ジェルメーヌ・デュラックの『貝殻と僧侶』、ルイス・ブニュエルとサルバドー ル・ダリの『アンダルシアの犬』、マン・レイの『ひとで』について考察を深めてい る。彼はそれらの映画について、シュルレアリスムの観点にそって対象の持つ日常 的な意味を引き剥がし物体そのものの発見をとおしての内部世界、つまり無意識の 世界の発見という方法論が採用されているとし、「物体」を凝視する先に見えてくる 作家の主体の確立を論点の中心として語っていくこととなる。例えば『アンダルシ アの犬』などはその表現行為の中で「主体の確立」がおこなわれてはおらず、結果 的になんら強力な現実批判にはならないと考えている。以下引用が長くなるが、シ ュルレアリスム的手法を用いた映画をオブジェへの傾倒として鋭く批判しつつ、没 主体性について問うた重要な部分であると思われる。 むろん『アンダルシアの犬』のなかの、雲が月の上を通過し、剃力の刃が女の眼 を截断などという描写や掌のうえにいっぱい蟻が群がりでてくるなどというイメー ジは、一応内部と外部の対応をふまえようとはしている。しかし、この熾烈厳格な 創造的精密さで具象化された世界は、ダリのいわゆる象徴機能のオブジェ以外の何 ものでもなく、そこには強力な現実批判と、主体の回復につながらないフェティシ ズムの危険が、すでに内深く胚胎していたといえないこともない。4 彼の議論の中心は「内部」「外部」の対応関係の中で議論を進め、外部をつきつ めていく作業からいかに主体が立ち現れてくるかに次なるドキュメンタリー映画の 可能性を見ようとした。それが達成された映画としてあげるのは、アラン・レネの 『ゲルニカ』である。『ゲルニカ』はアラン・レネの主観によって切りとられたピカ ソの絵の断片(荒れ狂う馬、横たわる屍、のけぞる女)が映画になって再構成され 4 松本俊夫 2005(初出 1963 年)『映像の発見』, 清流出版, pp. 58-59. ドキュメンタリー映画の視線 133

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ていたとして、レネの「ゲルニカ」が現されていると指摘していた5。そして、作家 にとっての主体の確立ということをさらに以下のように言及している。 私などが問題にするドキュメンタリーというのは、いっさいのできあいの物差を 捨て去って、いわば裸の眼で現実を凝視すること、その凝視そのものの軌跡として 記録の問題を追及すること、いいかえれば対象をあくまでも主体的に記録すること を意図しています。6 この「対象」そのものへの「凝視」をつきつめていったうえでしか主体の発露= 「表現」というものはないとするのが彼の一貫した議論の中心である。そして、この 松本俊夫の理論の根底には戦中の国策映画に追従し、戦後には共産党系の意図に沿 った形で無批判に映画制作を進めてきた作家たちに対する憤りがある。 映画作家の「主体」と、その被写体となる「対象」との関係性について戦後のド キュメンタリー作家は、自らの内部世界を自覚せずに「対象と自己とのかかわりの 、、、、、 表現 、、 をつきつめなかった点にある 」7 とし、続けて次のように述べている。それ は東宝争議以後の日本共産党に追随した映画運動において、作家は政治的プログラ ムに追従してしまい、「戦争中の戦争宣伝映画のそれと、その本質的なあり方におい てほとんど変わっていない」と鋭く「没主体」のありようを問うのである8。また、 「没主体」の作品として記録教育映画製作協議会とその周辺で制作されたものがあげ られている9。 対象と自己とをつきあわせていく作業をつうじて主体的にその関係性を表現し ていくこの態度はたんに松本俊夫の論点に限ったことではなく、70 年代のドキュメ ンタリー映画の中で常に意識されていったとおもわれる。この論点をより明白にす るために、1970 年代の小川紳介の映画と彼の表現方法をひも解いていきたい。 1950 年代後半から高度経済成長と歩調を合わせるように劇映画とともにドキュ メンタリー映画(教育映画、PR 映画などもふくめて)は隆盛をきわめる。そして 1960 年に突入していく中で大手映画会社の製作本数がピ−クをむかえていくなか で、大手映画会社や企業の理念優先の PR 映画などにおいて、会社に「追従した」 5 同書 p. 61. 6 同書 pp. 74-75. 7 松本俊夫「『記録映画』覚え書 戦後の映画雑誌④」『映画批評』, 1971 年 3 月号, 神泉社, p96. 8 松本俊夫, 『映像の発見』, p.75. 9 『五二年メーデー』『米』『京浜労働者』『日鋼室蘭』『月の輪古墳』『一人の母の記録』松本 俊夫, 前掲書『記録映画』, p. 97. 134 中村 葉子

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映画作りからどうにか抜けでようと苦心したドキュメンタリー作家たちが登場して くる。それはまた、60 年代にはいり「全共闘運動」の昂揚との密接な関係の中で、 「運動の記録者」として作家自身も闘っていこうとする動きのなかでうまれてきたも のであった。現在から当時のドキュメンタリー映画をふりかえった時に取り沙汰さ れる主な映画作家は、60 年安保の前後に登場してきた黒木和雄、土本典昭、小川紳 介、東陽一などの岩波映画製作所の人々である。その岩波の若手スタッフで結成さ れた「青の会」は作家主体の確立を論じ、共産党系作家がヘゲモニーを握った「記 録映画作家協会」からの離脱を経て、やがてそこで煮詰められた議論を実践に移し 始める。 小川紳介が『圧殺の森・高崎経済大学闘争の記録』(1967)で高崎経済大学の不 正入学をとりあげ、不正行為に異を唱える学生たちが学生ホールを占拠しやがては 分裂していく姿を懸命に追った映画を制作。また同年に『現認報告書・羽田闘争の 記録』でベトナム反戦運動のただなかでおきた「10・8 佐藤ベトナム訪問阻止闘争」 での山崎博昭君の死因を徹底的に「警察権力側の不正を暴く」目的で制作された。 映画で頻出するデモやストライキの現場は撮影者自身が学生と同じように機動隊の 方向を向き運動のための映画が「自主上映組織の会」によって全国で上映されてい った。それは、60 年代反安保闘争からの思想的、運動的手法を受け継ぎつつも作家 の主体と「対象」との関わりが新たな転換を迎えたことであった。それがどのよう につきつめられていったのか。この点について次節以降で詳しく述べていきたい。 1−2.生活を政治的におくること ―「記録者」と「対象」の関係性をめぐる問題 以下ではドキュメンタリー映画が劇映画以上に注目されるようになった70年 代初頭の状況において、どのような論点で 60 年代の議論をふまえつつドキュメンタ リー映画が批評されていったのかを詳細に論じていきたいと思う10。なかでも中平 10 1971 年度の『キネマ旬報』『映画評論』のベスト・テンをみると土本典昭の『水俣』が 13 位と 3 位、小川紳介の『三里塚・第二砦の人々』が 14 位と 4 位、そして NDU『モトシンカカラ ンヌー』は 25 位と 22 位となっている。その他には、ATG と提携した独立プロの作品が目立つ。 大島渚『儀式』、松本俊夫『修羅』、黒木和雄『日本の悪霊』、寺山修司『書を捨てよ町へ出よう』、 実相寺昭雄『曼陀羅』、自主制作の吉田喜重『告白的女優論』などがあがっている。このベスト・ テンにおいて佐藤忠男は 10 位中、2 位につけた『三里塚』を「ひとつの抵抗運動をこれほど長 期にわたって、ともに闘争しながら記録し続けたということは希有のことであり、内容的にも、 ドキュメンタリー映画の視線 135

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卓馬による小川紳介と土本典昭の作品評は新たな時代のドキュメンタリー方法論を 示唆しているように思われる。 中平卓馬は小川紳介への批評として以下のように述べる。「『圧殺の森』(1967) では観客はヘルメット部隊が機動隊を押しまくった時、さかんに「異議ナーシ」の かけ声をあげ、機動隊の弾圧にたいして「ナンセンス」の声が飛びかっていた。つ まり観客は、スクリーンという仮構をつきぬけて直接的に対象現実につながってい たのである。それが良かれ悪しかれ一連の小川プロ映画がぼくたちに与えた衝撃で あろう」というように、時代状況に呼応した「運動のための映画」としての衝撃を 語っている。その一方で土本典昭の『パルチザン前史』(1969 年)11は「いささか特 殊な革命家たちの人 物 論ヒューマンドキュメントになってしまったのではなかろうか。あるいはそれを現 実へむかって張った土本のわながあまりに精緻であったために現実に外側から規定 されてゆく本来のドキュメンタリーではなく現実を強引にからめとってゆくものに 変わってしまったと言いかえてもいいだろう」とする。これは、作家主体といった ものがあまりに先行してある場合、「記録者」の視線が外部世界を規定しすぎてしま うという痛烈な批判を行なっており大変に示唆的である。その先にあるのは土本典 昭の「作品」でしかなく、ふたたび「記録者」をもこえて現実に投げ返してやらね ばという12。 こうした中平卓馬の表現されたものに対する考えは「記録者」の手中を離れて、 また新たに「観客」とドキュメンタリーの「対象」とが出合うことの重要性を説い ていた。この、観客の問題は重要な指摘であるが、「記録者」が外部を規定しすぎて しまう危険について述べたことをこれ以降の論考の中心にすえて考察していきたい。 それだけ農民と一体にならなければ撮ることのできない、率直さと親密さにあふれている」とし、 『水俣』(1 位)は、「徹底的に患者たちの味方となってともに抗議行動をする者以外には撮れな い、患者たちの生活のラディカルから発するのっぴきならない真実な主張がある」と指摘する(佐 藤忠男「一九七一年度内外映画総決算 日本映画/多彩だった作品群 悲観的な状況の中での秀 れた活動」『キネマ旬報』, キネマ旬報社, 1972 年 2 月号, pp. 72-75.)。これは撮影者が運動の担い 手とどれだけ長期にわたって親密に生活し、双方の間には距離のない「味方」であるといってそ の関係性の印象を語っている。 11 映画の内容は京大全共闘内の闘争の日々(ゲバ棒による訓練の模様や火炎瓶を作る姿など) を中心に構成され、その理論的支柱であり同時に学生とともに運動に参加する京大助手滝田修の 演説が組み込まれて構成されている。 12 中平卓馬「ドキュメンタリー映画の今日的課題」『なぜ、植物図鑑か 中平卓馬映像論集』 所収,ちくま学芸文庫,pp. 139-140(初出 1970 年 1 月). 136 中村 葉子

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それはまた、松本俊夫の主体論の中心としてあわせて論じていくべきものでもある。 つまり、ドキュメンタリー映画において「記録者」が「対象」あるいは外部世界と のどのような「関係性」でもって存在し、実際のところ彼らの内在的な「主体」の 発露としての、どのような表現方法が確立されていくのかについて考えるというこ とである。 「記録者」と「対象」との関係性はかつて大島渚が「記録映画の原則」はまずも って「記録する対象への愛、強い関心、執着であり、今一つはそれを長期にわたっ て行なうということ」だと語っていた13。この「長期間記録」と「対象への愛」を 前提として、彼が評価するのは小川紳介の三里塚シリーズ第一作、『日本解放戦線・ 三里塚の夏』(1968 年)である。大島渚の議論にはいる前に、まずはこの映画の独 自性についてシナリオを参照しつつ言及しておきたい。 小川紳介がそれまで大学闘争と「羽田闘争」に呼応する形での映画づくりから、 「運動のための映画」という目的意識性は引き継ぎつつも、小川紳介(小川プロ全体 を含めて)独自の表現方法が確立された映画だと思われる。それは、特に筆者が印 象に残っている場面として、空港建設阻止を機動隊と真正面から対じした「三里塚 青年同盟」の武装をすることについて語るシーンに垣間見えるものである。以下長 くなるが映画の語りの雰囲気を伝えるうえで重要だと思うので引用する。 島〔三里塚青年同盟〕「なんで石を持ったりねゲバ棒もったりするのかと云うことに ついて話し合った訳よ、機動隊が入ったり公団が来るからねそれはあると思う けどさ、頭にくるからやると、それだけなのか、もちろんそれだけじゃなくて 本当に俺達は反対同盟らしい、反対同盟の空港反対斗争をするんだって云うさ、 そう云う同盟のわけじゃない。でその同盟の意思をさ入ってきた公団なり機動 隊なりにね、まいわば政府のおさき棒かついでいる奴らのさ、そいつらに俺た ちの決意を示すと同時にさ、やっぱり条件賛成派なり周囲でもってさ俺達を見 ている人間な、そう云うものに俺達の態度はっきり示すって云うことでしょう。 ところがそれをやろうとすると、どうしても機動隊が出て出てそう云う反対 同盟の意思表示を弾圧すると、力で圧殺しようってするって訳でしょう。それ をやっぱりなんて云うか最低防衛するってことね、俺達の意思表示をさ、それ と同時に奴らをこっから追い出すと云うさ」14 この後にも滔々と他の「青年同盟」「青年行動隊」の対話が続いていき、次のシ ーンとして、三里塚農民による抗議集会の日がうつしだされる。そして、この何故 13 大島渚「小川紳介・闘争と脱落」『映画批評』, 批評戦線編, 新泉社, 1970 年 12 月号, p. 17. 14 シナリオ「日本解放戦線・三里塚の夏」『映画評論』, 映画出版社, 1969 年 1 月号, p. 155. ドキュメンタリー映画の視線 137

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闘うのかの対話が反映されていくかのように、次のような青年行動隊(先の対話に 出てきた人物)による宣言へと映画は結実していくのである。 本日、はじめて我々はここに竹槍と鎌をもった。本日、我々はここに始めて武装 した。15 三里塚の青年同盟の闘いを描くときに小川紳介はたんに「本日、我々はここに始 めて武装した」という決意表明のみをもってくるのではなく、その前段階における 武装することの意味を深く対象に寄り添いながら表現していこうとした。それは、 この武装がどれほどの決意をもつものであり、闘争する反対農民内部の対立を含み こんだ、これからの闘争をどう担いきれるのかといったさまざまな彼等の格闘を抜 きがたい要素として組み込んでいったといえる。そして大島渚もまた上記のような 青年達が「武器をもつことの意味」について語るシーンを、「アジプロ的な映画」で はなく「内省的に語り合う映画」として、以下のような観点で論じている。 小川紳介にとっては、烈しい闘争の現場とともに、あのように内省的に語りあう 場面が絶対に必要だったのである。それなくしては何故闘うかということがとらえ られないと小川は考えたのであろう。そうして、そういう語り合いのシーンの長い こと長いこと。それは通常の映画の時間のバランスをいちじるしく崩している。恐 らく手なれたテレビドキュメンタリーのディレクターに編集させたら、会話の部分 を五分の一以下に短くして、なおかつすぐれた作品と呼ばれるものをつくりあげる だろう。小川がそうしないのは小川と小川プロが正に独特の生理時間を持っている からであり、それが作品を支配し、それ以外の表現をとりようもないからなのであ る。このようなことを私達は方法と呼ぶのであり、そうした独自の方法を持つもの を作家と呼び創造集団と呼ぶのである。16 小川紳介の方法論について、当時の編集記などを見ると現前としてある「存在」 にどう寄り添いつつも、表現としてどのようにそれを切り取っていくかに苦心した ことがうかがえる。密着から来る方法論の確立として青年行動隊の言葉を一語でも そぎ落としたらいけないという緊張感が伝わってくる。そして方法論的な帰結とし てかの有名な長回しの技法が編み出されていくのである。そして NDU の場合はど のように「対象」を深く洞察したうえでの、ドキュメンタリー方法をつかみとって いったのだろうか。その表現方法における考察は 2 章で論じるとして、以下では上 映当時の批評のなかで何が語られたのかを大きく二つの論点を上げて述べていく。 15 同書, p. 156. 16 同書, p. 22. 138 中村 葉子

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1971 年に『モトシンカカランヌー』が上映された当時、秋穂淳はこれまでの「左 翼系映画」にありがちな「デモ」のシーンだけで満足する映画を批判し、『モトシン カカランヌー』にはそうした「運動」のみを描くのではなく最底辺の人々をうつし たことで従来の「左翼系映画」の域を超えたものとしてみている。 彼らは沖縄の闘争の高揚期に、全軍労17の闘いを謳歌して終えるような愚は犯さな かった。彼らは全軍労に対して、スト破りにまわる人々をこそ、対象にした。闘い の上塗みをすり抜けることでは沖縄の複雑に錯綜した疎外の構造を把握することは できぬと看破したと言える。存在の底を生活の中でとらえようとする視点の正当性。 その上、ラストの黒人暴動とカチャーシーを踊る人々の像に示された自己解放のイ メージは、限りなく美しい。18 「存在の底を生活の中でとらえようとする視点」は、松田政男の批評によってさ らに深められる。彼もまた『モトシンカカランヌー』のすごさは「一体感と異和感 の狭間からコザのモトシンカカランヌーたち、すなわち売春婦ややくざたちが浮上 し、ブラックパワーの兵士たちの野放な表情が<暴動>の季節を告知する」と言及19。 そして、これら<小川紳介>以後に現れたドキュメンタリストの布川徹郎、星紀市 を評して「彼らがその空間において生きることとは「政治生活」をおくることでは なく、あくまでも、己の「生活を政治的に」送ることにほかならなかった」とする20。 また、NDU と同時期に登場した星紀市21 に対してもたんに「政治党派の目的意識 性に同伴」するものではないと評価している。この小川に連なる「運動の経験」を 17 「全沖縄軍労働組合」の略称。全軍労の運動については 2 章で詳述する。 18 秋穂 淳「新人評論第二作 ――「モトシンカカランヌー」と「倭奴へ」 第三世界への“片 思い的思い入れ”について」『映画評論』, 映画出版社, 1971 年 2 月号, p.92. 19 松田政男,「沖縄はいかに描かれたか」,『キネマ旬報』(558 号),1971 年 8 月下旬号,キネマ 旬報社, pp. 104-105. 20 松田政男, 「七〇年代ドキュメタリストの栄光と悲惨をめぐって(下)」, 『キネマ旬報』 (573 号),1972 年 3 月上旬号, キネマ旬報社,pp.100-101. 松田政男,「七〇年代ドキュメンタリス トの栄光と悲惨をめぐって(上)」, 『キネマ旬報』(572 号),1972 年 2 月上旬号, キネマ旬報 社,pp.100-101. しかし、その「運動の映画」の撮影現場が韓国、アジアへと広がっていく中で「汎 アジアの下層大衆に寄せる己の<志>を心情のレベルを超えたところでもう一度問い直すべき だった」と批判する。 21 星紀市(1944−)『砂川反戦塹壕行動隊』(1969 年)、『塹壕』、『続・塹壕』(1971 年)、「塹 壕」シリーズの総編集版である『大地の砦』(1977 年)を制作。立川基地撤去闘争での米軍のベ トナム輸送機の飛行阻止において住民、学生、労働者の姿を描く。ベトナム戦争終結後も、自衛 隊移駐に反して学生と労働者が塹壕で住まいしつつ反対闘争を繰り広げる姿をおさめ、その後 77 年まで住民との「農学共闘」関係が崩れるまでの 9 年間を記録し続けた。 ドキュメンタリー映画の視線 139

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引き継ぐような形で「己の「生活を政治的」に送る」ことが果たしてできたのか。 そして、NDU の評価として第二の点は、竹中労が「暴動の予見」としてこの映画を 位置づけていることである22。そこでは『モトシンカカランヌー』については直接 的には「暴動の予見である」と明示してはいないが、この映画に暴動の予見をみて いたであろうことは明白である。それは、「この記録映画が傑作と評価されるゆえん は、基地の街コザとむかし越来村との交錯を、鮮烈なダブルイメェジで映像化した」 23と評価するからである。これはつまり、後の 1970 年 12 月に起こった「コザ暴動」 の風景である、カチャーシーを踊り指笛を吹き鳴らしながら人々が奮い立っていた 情景が、映画にすでに表現されていたがゆえに、暴動を予見するものとして指摘し ていた。以上のように『モトシンカカランヌー』の映画批評をまとめると、次の二 つの観点があげられる。第一にデモをする学生主体の運動の映画を撮るのでなく、 運動からも疎外された「底辺」の人々に焦点をあてることではじめて、沖縄の「複 雑に錯綜した疎外の構造を把握」し、あるいは「生活を政治的に」おくることがで きたということ。第二に、そうしたありようで表現された映画が暴動を予見させる ような衝撃をもっているということ。「生活を政治的に」おくることから導き出され る暴動の風景は、映画の中でどのように構成されているのだろうか。それをひも解 いていくには松本俊夫の主体の確立、それは小川伸介的な意味での方法論の確立が いかに行なわれたのかを論じることによって明らかにできるのではと考えている。

2 章 「暴動の予見」としての映画

はじめに映画について述べる前に、NDU の作品を年代順に紹介しつつ、『モトシ ンカカランヌー』が諸作品のなかでどのような位置をもつ作品であったのかを述べ 22 1971 年度のキネマ旬報ベストテンでは2位に『モトシンカカランヌー』、6位に『三里塚』 が入る。深作欣二監督作品の『博徒外人部隊』を3位に入れ、これを評して「一九七〇年十二月 二十日未明、コザ市で暴動が発生した時点で、深作欣二はこの作品を編集し終わっていたはずで ある。だが、彼はよくやった。ここには、みごとに“暴動”の予見が結晶している」と言及する。 しかしながら、『モトシンカカランヌー』については直接的に「暴動の予見である」と明示して はいない。(竹中労 2002,『琉球共和国 −汝、花を武器とせよ』所収, 筑摩書房 p. 196) 23 竹中労「コザ ―モトシンカカランヌー」『テレビ山梨新報』, 1972 年 2 月 19 日∼3 月 11 日, (2002,『琉球共和国 −汝、花を武器とせよ』所収, 筑摩書房 p.232.) 140 中村 葉子

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ておきたい。 NDU は早稲田大学学費値上げ反対の「早大 150 日間ストライキ」を担った早大中 退者を中心に 1968 年に結成された。第一作品は反戦青年委員会の運動や国鉄労働者 のストライキ、「10・21 国際反戦デー」での「新宿騒乱」をとらえた『鬼ッ子―闘 う青年労働者の記録』(1969)がある。この映画ではじめてこれまでの学園闘争から より広範囲な街頭での直接行動の現場へとむかい、全共闘運動に深くかかわってい く。砂川基地での学生と機動隊との衝突、立川の米軍ジェット燃料輸送の阻止闘争 に参加しつつ、1969 年沖縄ではいまだ労働組合のない「未組織労働者」が存在する ことを知り『沖縄エロス外伝・モトシンカカランヌー』(1971)を制作する24。そし て 1971 年に韓国にわたり、広島で被爆し治療もされぬまま忘れ去られている在韓被 爆者を取材した『倭奴へ・在韓被爆者無告の 26 年』(1971)をつづけて完成させる。 その後、八重山群島、台湾へと渡って撮影を進めるなか、第二次大戦時に旧日本軍 として最前線で戦わされていた台湾の人々「高砂族」をえがいた『アジアはひとつ』 (1973)をつくる25。 これらの作品群を見ると、1971 年に制作・上映された『モトシンカカランヌー』 は、60 年代後半における早大ストライキ、日大・東大闘争、立川基地撤去闘争とい った様々な現場に共闘して撮影を行なっていた時代から、方法論的に新たなありよ うを模索しようとしていた時期に位置づく。つまり、同時期の小川紳介、土本典昭 らが「三里塚」、「水俣」にこだわり長期撮影を行なっていったように、NDU も「沖 縄」という返還前のゼネストで大きく揺れていた「運動の場所」に「長期」にわた り「生活を共にする」映画づくりをはじめたのである。具体的な期間は 1969 年の沖 縄の「4・28 ゼネスト」直前から 1970 年 12 月 20 日の「コザ暴動」の直前までの一 24 「沖縄で“2・4ゼネスト”が提起されていると、新聞報道によって知った。同じ頃、沖 縄では「売春禁止法」がまだ施行されておらず、売春婦を、「モトシンカカランヌー」と呼んで いると、週刊誌で知った。『元手の掛からない商売』すなわち労働者である。「軍用基地依存」の 労働者であっても、未組織労働者であるだろう。この日本の戦後の米軍占領下の「ゼネスト」は 聞いた覚えはあるが…。彼女たちはどの様に「立ち現れる」のだろう。ぼくは、佐世保の『空母 エンタープライズ阻止闘争』で彼女達の「反米」感情と盛り上がる「市民運動」を現地で体験し ていたが、沖縄についてはまったく無知であった」。(布川徹郎 2001「近代の残酷と想像力 あ るドキュメンタリストの方位感覚」『現代思想 7 月臨時増刊特集戦後東アジアとアメリカの存 在』, 青土社.) 25 現在は当時のメンバーである布川徹郎と井上修によって NDU の活動は継続しており、『ア ジアはひとつ』の「高砂族」の人々をテーマに映画『出草之歌』(2005)を制作した。 ドキュメンタリー映画の視線 141

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年以上にわたる。そこで、モトシンカカランヌーとヤクザが住むコザは照屋地区の アパートで生活をおくりながら撮影をおこなったのであった。生活を共にするとこ ろから撮られた映画というものが大島渚の議論に引き寄せたかたちでどのように表 現されているのかを論じるために『モトシンカカランヌー』は「記録者」のありよ うをとてもよく表現するものとしてあるのではないだろうか。 2−1. 本土と沖縄の関係 −「モトシンカカランヌー」のとらえがたさ 映画『モトシンカカランヌー』はコザの照屋地区で黒人を相手にして生計を立て ている「モトシンカカランヌー」のアケミが登場するところからはじまる。彼女の 身体の肩の部分には刺青がいたるところにあり、手にはタバコで焼かれた跡がある、 この魅力的なアケミや、当時の沖縄の運動、そして「記録者」のありようを中心に すえて 2 章以降を論じていきたい。 そのうえで、アケミと彼女が唄う『十九の春』が基地の風景とどのように意図的 に構成され、それが「音と映像の衝突」として表現されているのか、また NDU が どのように対象と関係を切り結ぼうとしていったのかに焦点をあて考察していく。 「1 外人客相手の売春婦アケミの話」26 ①アケミの横顔 ②テロップ「どうして私が悪いの」と記す ③トラックに乗るベトナム帰還兵 ④軍港の風景 26 「1 外人客相手の売春婦アケミの話」というシークエンスのくくり方はシナリオの番号 に対応する形で付した。また①から⑬までは筆者が任意に選んだシークエンスの中の一部の「シ ョット」を表し、その並び方は時間順ではあるが、ショットどうしは連なるものではない。(NDU 「シナリオ『モトシンカカランヌー』」, 批評戦線編, 『映画批評』, 1971 年 10 月号, 新泉社, pp.58-77.) 142 中村 葉子

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映画の冒頭は「1 外人客相手の売春婦アケミの話」として以下のようなさまざ まな風景が重ねられたシークエンスではじまる。まずアケミの存在は彼女の息づか いが聞こえ、その身体に触れられるほどに「記録者」と彼女の距離は近い。あきら かに彼女の姿を凝視してそのしぐさと表情をカメラにおさめようという「対象への 愛」と執着をもって撮影しているのが伝わってくる。それはまず無言ですわってい るアケミの横顔のアップが 20 秒間続くなか、アケミが突然喋り始める。「あんたた ちゃ、日本から来た時に、吉原にいったでしょ、ひゃーすけべえ……」と吐く。次 にいきなりジェット機の劈く音と、売春宿の廊下が写り、アケミの部屋に戻り身の 上話がつづく。実の母は広島にいて継母に育てられたこと、そして中学のときに遊 び仲間に連れ立って家を出たきり帰らなくなったことが滔々と語られる。それは① の横顔のアップに重ねられ、何も喋らずタバコを吹かすアケミにカメラは寄り添い、 寝転ぶアケミには上から覗き込み、その息づかいが感じとれるほど近づいている。 その次に彼女と一緒に住む暴力団とのやりとりでは無理やりに強姦された話が続い ていく。 アバ〔暴力団〕「あけみ、それはあれだろう、自分もあげようと思ったんだろう?」 アケミ「ちがうさ!ゴーカン、むりやりゴーカン、こわくてよや、終わってからさ、 おなかばかり押してから、にんしんしたらいかんて、……あの時、わらばあ(子 供)だったから、中学二年!ファックユー、シャーラップ!」 アケミつぶやくように アケミ「シュガー、ヒンガー、シュガヒンガー、ぬうがわんさあみい(何で私が悪 いの)?」 このやりとりがショットの②で「どうして、私が悪いの」というテロップを付さ れて終わる。そして沈黙の後に、アケミの唄う『十九の春』がベトナムの帰還兵の 表情にかぶっていく。「みすてられても 私は/あなたの未練は のこさせぬ/歳も ドキュメンタリー映画の視線 143

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若くあるうちに/未練残すな あすの花」。この沖縄の状況に重くのしかかる軍事基 地の街「コザ」のアメリカ支配というものを風景として浮かびあがらせたまま、そ こに記録者との次のやり取りが入る。記録者が「本土復帰したら、売春禁止法にな っちゃうんだぞ」というなげかけにアケミは激しく切り返して、「なんで人を売春、 売春っていうね、シャラップヒヤ!」と怒りを向ける。その後にまた唄のつづきが 奏でられる。「一セン二センの葉書さえ/千里万里の 便りする/同じ部落に住みな がら/あえない 私の身のつらさ」。この『十九の春』が流れるあいだじゅう、ショ ット③―④の米軍の風景と、最後には沖縄戦における旧日本軍の大砲があらわれる。 これが「音と映像の衝突」として「記録者」と「対象」との関係性を明確にする意 図を持って構成されているといえる。つまり、記録者の投げかけ(「売春禁止法にな っちゃうんだぞ」)と「なんで人を売春、売春っていうね、シャラップヒヤ!」とい う会話だけは基地の風景にかぶせることで、「記録者」=「基地の風景」=「旧日本 軍の大砲」と同列におく。そのことで、「記録者」もまた本土からの人間であるとい うことに「自覚的」になりつつ、沖縄、日本、アメリカの三者の関係が交錯して構 成されていくのである。 このように NDU は自身のありようを、「親密」な空間における「記録者」の「主 体」の危うさに忠実になりつつ、沖縄をとりまく「状況」を描ききるという方法論 でもって表現したと思われる。この点をさらに深く考察していくために、「記録者」 のまなざしの力学を記録者とモトシンカカランヌーたちとの宴会のシーンにそくし てさらにみていきたい。それは、モトシンカカランヌーの唄による「犯す」「犯され る」といういわゆる「猥歌」が流れる場においてである。 「7 売春婦との昼食会」27 『ストトン節』 四つ、夜中に起こされて 五つ、いやとはいえません ストトン、ストトン 六つ、むりやりさしこまれ 七つ、泣いたり笑ったり 八つ、やられた後からは 27 「7 売春婦との昼食会」は冒頭のアケミのはじまりから、入墨を入れる老婆(古来の風 習である)の話しと那覇市内の市場、総評旅行団の来沖、日米共同声明抗議集会のシーンがあい だに入った後にあらわれる。 144 中村 葉子

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九つ、子供ができたのよ ストトン、ストトン 十でとうとうできました 男の子なら 東大へ 女の子なら 吉原へ それで親子は楽するね ストトン、ストトン ⑤宴会の中で抱き合う ⑥団扇に書かれた「殺す」の文字 『ストトン節』の歌詞に即すと、性的に強姦される唄の中に様々な意味がこめら れている。それはたんに女性が強姦される模様を表すだけでなく、沖縄と日本、ア メリカが暗示的にかぶさってくるのである。性的なものの表象として女は「むりや りさしこまれ」ていくことを身に引き受けていく、その「絶望的」でさえある支配 /被支配の関係を性的なことと政治的なことを連動したものとして描いていく。ま た、女の身に重くのしかかる抑圧は沖縄の「復帰」という状況に重ねあわされるよ うである。それは、生まれた子供である男の子は(東大へというところからして)、 「発展」を遂げていく日本の姿でもあり、他方、生まれた女の子は売春させられると いう関係のなかで、沖縄を表象していく存在としてとらえることができる。 そして、この宴会の場で戯れる NDU(⑤)にたいして、モトシンカカランヌーた ちはその立場性を問うかのように次の瞬間、ふと強烈なワンカットが入る。それは、 団扇にかかれた「殺す、殺せ、絶対殺す」の文字が画面いっぱいにうつりこむ(⑥)。 彼女の手(あるいは記録者かもしれないが)に握られているその言葉をもってして、 「対象」との温和な日常生活がこの「絶対殺す」によって崩壊している。「殺す」は 「偶然」に入り込んだ文字であるけれども、これは改めて NDU の存在自体を問う表 現としてえがかれている。つまり、いくら親密に戯れようとも本土から来たものを 撃つという意味と、性的な意味では「売春」への抵抗とひきのばして重層的にその ドキュメンタリー映画の視線 145

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批判性を受けとめることができる。その表象の仕方が意図的かどうかについては定 かではないが、「男の子なら東大へ 女の子なら吉原へ」という唄を聴く NDU は、 その映画の構成上から見て自らの立つ位置と、売春そのものの「暴力性」にまで分 け入って表現している。この複雑な視線の力学は、松田政男の「生活を政治的にお くる」こと28の議論にもつながるのではないか。それは、立場の異なる「個」の独 自性を安易な和解へと組み込むのではなく、あくまで分断を内包しつつ、複数の人 間の集合体を表現しようとしているように思うのである。 また、ドキュメンタリー映画はときに作家の意図を超えて、偶然入り込んだ風景 の細部によって幾重にも錯綜した状況を暗示的に物語っていくものである。その意 味でかつて中平卓馬や大島渚が「記録者」と「対象」との関係について述べたこと をここでふたたび想起したい。「現実に外側から規定されてゆく本来のドキュメンタ リー」というものがあるなら、記録者はつねに「対象」との関係において疑問に付 され続ける存在である。そこから立ちあらわれた関係性をありのままに観客に示す ということでもって、NDU は方法論にかえているのではないだろうか。それは、「記 録者」の手中を離れて、また新たに「観客」とドキュメンタリーの「対象」とが出 合うことの可能性を含んだものであるともいえる。 以下では再び映画のシーンに戻り、モトシンカカランヌーの存在を本土からやっ てきた人々はどのようにみていたのかについてひも解いていこうと思う。 「4 総評旅行団の来沖」 総評・関西ブロックの旅行団へのインタビュー 港の船客待合所では観光後の人々でごった返すなか、コザの売春婦について尋ね る 総評・女4「あのーああいう人達はね、今の現実に対してねどうして生きたらいい んかというよりも現に、目の前の現実に適応して生きなければならないってい う生き方をし、私達は、やっぱり、それをやったらいかんのちがうかっていう、 批判的な目ね、一応持っている、そういう違いやないかなあって思います。」 (中略) 総評・男8「それとぼくらそういうところに遊びに行きましてもね。ある…組合の …幹部幹部いう形やってるんですね。ですから、一つの勉強の意味にも、その 中でもちろん遊びだけじゃなしに、話しいうのは、沖縄返還ということの話題 28 松田政男のこの「政治的に」という点に関しては、具体的な映画のシーンに即して述べら れてはいない。 146 中村 葉子

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を主にやりましたけどね」 総評の運動家によってモトシンカカランヌーたちが露骨な差別的発言によって 語られていく。ここでは米軍占領下における観光産業と性産業の関連のなかで生み だされた彼女達の存在はあくまで本人の「責任」としてわりきられてしまう。そし て、そのシーンの次に来るのは日米共同声明に対する抗議集会である。その集会で 響く演説では、戦後の占領体制の継続状態と、日米防衛における第一線として沖縄 がふたたび犠牲になることに激しく抗議する言葉がいくつも叫ばれ、同時に角材を もったデモ隊が激しく機動隊と対じする場面が続く。例えば一つの演説内容に次の ような言葉が吐かれていく。 アジ「私は悲しみをあらためてかみしめる時、たくさんの人々の涙を犠牲にして、 勝ちえた、この平和が、再び戦争によって破壊されてよいでしょうか……」 派出所が燃えている 火炎瓶が投げ込まれる 燃える路上 この抗議集会のシーンが暗闇の中で赤々と燃えるデモ隊の火炎瓶闘争で終わろ うとするとき、米軍のジェット機の音が挿入される。そして、その轟音を掻き消す ように指笛の音が鳴り響き、再び暗闇の売春街がうつしだされる。真っ暗闇の街頭 に車のヘッドライトだけで照らされるため「モトシンカカランヌー」たちの体の一 部分だけぼんやりと浮かびあがってくる。 これらのいくつものシーンを相互に関係させて考えると、ジェット機の音は冒頭 のシーンで見たように、沖縄の軍事支配の象徴的な音としてあり、重ね合わせて流 れる指笛は沖縄の「土着」の音として響いてくるような表現としてある。またラス ト近くのシーンにも同様にそうした表現が使われており、ジェット機の音が聞こえ ればエイサーやモトシンカカランヌーの姿が必ず挿入されるのである。その音でも ってコザ―売春街の風景がともに流れ出すとき、意図的に売春婦の側に「抵抗」の 契機を見出そうとしているといえるのではないだろうか。この点についてはモトシ ンカカランヌーの当時おかれた状況を映画内容とはいったん離れて論じる必要があ ると思われる。それをふまえたうえで、彼女たちの位相が状況のなかから浮かびび あがったときにあらためて映画のラストにおいて暴動へと結実していく勢いを見い ドキュメンタリー映画の視線 147

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だすことができるのである。 2−2. 「裏の戦場」 ― 基地労働者の闘いとモトシンカカランヌー 基地の街コザは米軍の占領によってベトナム兵相手の性産業の中心地として拡 大してきた29。それはまたベトナム戦争が爆撃という目に見える形での戦場であっ たなら、コザの売春街は兵士の「私生活」における「慰安」目的において戦争を支 えるもう一つの「裏の戦場」30であった。1972 年の復帰を目前にして「モトシンカ カランヌー」たちのおかれた状況をみると、それは第一に「基地依存」の状況がま ずあり、第二に構造化された搾取の形態があることがわかる。琉球政府法務局の 1965 年から 1970 年まで実態調査と、2000 年以降の小野沢あかねの研究をふまえて 以下、述べていきたい(しかしながら今回の論考では復帰にともなう彼女たちの状 況を断片的に記述するにとどまる)。1965 年の段階で、琉球政府法務局は那覇やコ ザ、名護、八重山、石垣島、宮古島の各地域で売春の「実態調査」を行なった。調 査報告において、地域ごとに売春業者は業種を変えて売春行為を提供しており、名 護では小料理店で、吉原(コザ)はバーで、那覇では旅館、宮古島では料亭と多岐 にわたる。また売春行為は勤務時間内か営業後に近くのホテルへと場所を変えて行 なわれる場合が多い。当時の売春婦の人数は琉球全体で総数 7362 名、コザにおいて は 2575 名に上る。(この数は「風俗営業組合長」等を媒介にした調査であるから、 調査を断った業者も考慮に入れると、結果的に低くみつもられている)。 売春にお いては管理売春(強制売春)、と単純売春(自由売春)に大きく分けられているが、 29 コザの性産業を基地との関係でまとめたものとして次のような指摘は示唆的である。 「東アジア、および東南アジアでは、観光産業とレジャー政策はまた、地政学的状況と密接に 関係している。この地域における観光産業と観光政策は、インドシナ紛争の折、アメリカの兵隊 たちの R&R(Rest & Recreation)市場にねらいを定めたのがそのはじまりで、その典型がタイと

フィリピンであり、香港と日本(沖縄)にもある程度この傾向が見られる。(中略)この産業基 盤は新しい形のレジャー活動をうみだし、外国人労働者の福祉と生活水準の維持をすることにな る個人サービス産業という、価値の高い、新しい賃金労働をうみだした。レジャー産業、レジャ ー政策、そして地球的規模で変化している社会的時間が相互に作用しあって、再生産とセクシュ アリティの新秩序の構築に影響を与えたのである」。(タン・ダム・トゥルン 1993『売春 ―性 労働の社会構造と国際経済』, 田中紀子・山下明子訳, 明石書店) 30 平井玄「コザの長い影」―-「歌の戦場」を励起する」『音の力 コザ沸騰篇』、インパクト 出版会、1998、pp. 21-56. 148 中村 葉子

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自由意志で売春を行なうものはごく少数で、管理する組織が明確でなくとも「ヒモ」 など売春を強いる第三者が存在するという。以上をふまえてこの調査の結論として 述べられているのは、管理売春(強制売春)が売春婦たちを永続的な借金状態にお くという「サクシュ的」な構造になっていたということである。それは稼いだお金 は前借金の返済のためにすべて充てられ、着物や布団などの日用品はさらに借金と して積み重なっていくため売春から抜け出すことのできない状態に置かれるという ことである31。 そうした状況のなかで復帰による売春防止法の施行にともない、売春婦たちから 以下のような「要望」が提出されていた。「(一)法制定には反対である(各地区)、 (二)どうしても法を作るなら前借金を政府で返済してほしい(各地区)、(三)月平 均一〇〇ドルくらいの収入のある仕事を保証してもらいたい(吉原)32、(四)現在 の希望としては一日も早く独立して小さいながらも自分の飲み屋を経営したい」。33 ここでは売春婦たちの「要望」がどのような理由からきているかこれ以上詳しくは 言及されていない。しかし、調査者の見地から「売防法の施行=復帰」による深刻 な問題として提出されたのは、復帰によって商売が立ち行かなくなり、彼女たちの 身が危険にさらされるということである。それは、前借金も返せぬまま放り出され ると、暴力団によるさらなる過酷な売春行為の強制と、軍人によって強姦、性病の 蔓延34をまねきかねないという理由からきている。 31 「売春婦は、交渉以外の収入(ときにはチップ)はなく、しかもそれが歩合制であるため、 仮に一月に百八十ドルの水揚げがあったとしても、それが折半であるときは、業者の収入であり 残り九〇ドルが売春婦のとり前となるが、実際には手取額であるべきの九〇ドルはさらに前借金 の返済に全額充当され、手取収入はなく、売春婦は恩恵的に一、二割程度の小遣しかもらえず売 春婦の逃亡を未然に防止するうえから風呂代、煙草代のほかは、現金をもたせず、日用品は現物 を支給する方法をとっている。(略)又婦人が着物を新調したり、化粧品を買つたりするときは、 小遣いをかしてくれるが、これが即ち帳貸といって前借にとり入れられ、女の体をしばるのであ る。このようなサクシュ的酷使に反抗して逃亡でもしようものなら、業者は暴力団などに連れ戻 しを依頼しその費用が又前借に繰り入れられ仮に逃亡婦の発見ができない場合でも、売春婦の寝 具、日用品などを前借に充当し、足りない分について売春婦の家族に責任を転嫁する。いわゆる 家族連帯保証制をとり、その実現のために第三者をして強制し、投下資本の回収にあたるわけで ある」。(琉球政府法務局 「沖縄における売春の実態調査」『日本婦人問題論資料集成 第1巻 人 権』市川房枝編, ドメス出版, 1978, p. 782. ) 32 コザ地区の売春街を通称「吉原」とよんでいてこの地域からの要望である。 33 同書, pp. 778. 34 性病の蔓延についてはA サインバーの売春婦たちに米軍憲兵隊の性病検査義務がなくなる ことで、性病患者が増大するという指摘があった。(前掲書,p. 787. ) ドキュメンタリー映画の視線 149

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そして、1970 年 7 月 10 日売春防止法が公布され、1972 年 7 月 1 日から全面施行 されたのちの売春婦たちの境遇については小野沢あかねの研究からその一端がわか る35。それは A サインバーのホステスであった、ある一人の女性からの聞き取り調 査において(彼女は売春行為をしていないが)愚連隊、暴力団による売春の強制が あり売春行為からなかなか抜け出せない状況を明らかにした。また、復帰後のもう 一つ大きな転換であった、時給制から歩合制の導入(すべての売春業者がこの形態 をとってはいないが)によって、生活はより不安定になり、収入が極端に減ったこ とがあげられている。こうして復帰によってなんら代替的な職も保障されぬままに、 前借金の問題が売春婦たちの体を拘束し、売春を恒常化させていく「基地依存」の 状態がさらに深刻化していったと考えられる。この「身体」に直接行使される搾取 の問題抜きには復帰というものの実情が見えてこない。それは次に見るような「全 軍労」の運動もまた復帰によって職をなくすという意味において売春婦とともに不 安定な労働状況におかれていた。しかし、全軍労の運動はまた、そうした労働それ 自体への「欺瞞性」を突くものであった。つまり、「基地依存」からくる不安定な雇 用形態が生みだされるのは、アメリカによる戦後占領体制に根本的な「搾取」の問 題があるということを鋭く見抜いていたのである。 全軍労は 1967 年以降、基地撤去要求を先導していく基地労働者の労働組合であ るが36、運動の盛り上がりはまず、1968 年 11 月嘉手納空軍基地で B52 の墜落事故 を契機とした爆撃機の撤去闘争からはじまる。「全軍労のストライキこそ、基地機能 をマヒさせ、米軍の沖縄支配を根底からゆるがすことのできる最大の武器である」 と新崎盛輝は言及している。また 1970 年以降の基地撤去と反復帰の運動は「基地労 働者の中には、解雇撤去闘争を基地撤去闘争へ転化せよという明白な主張が、少数 ながら存在した。それほど明確な主張のかたちをとらないまでも、基地労働者大衆 35 小野沢あかね「戦後沖縄における A サインバー・ホステスのライフ・ヒストリー」『日本 東洋文化論集』, 琉球大学法文学部紀要, 2006 年 3 月. pp. 207-238. 36 全軍労の闘争がもっとも先鋭的に当時の反安保闘争とそれに連なるベトナム反戦の運動を 展開していたとして新崎盛輝は以下のようにまとめる。全軍労が民衆の広範囲な支持を得るよう になった理由として、「基地の機能保持を前提にした佐藤政権の沖縄返還交渉に対する危惧」と 基地の重視が「労働者の無権利状態の固定化」がこれまでどおり行なわれることへの強い反発が まず前提にあった。そして 1968 年 4 月 24 日の全軍労ストライキによって平均月額 15 ドル 60 セントから18 ドル72 セントの賃上げを認めさせたことによって実質上布令一一六号を無効なも のとして位置づけた。(新崎盛輝, 中野好夫 1976,『沖縄戦後史』, 岩波新書, p. 178) 150 中村 葉子

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のあいだにひろがっていた「首を切るなら基地も返せ」という叫びは、基地合理化 政策の核心を突いていた」とする37。また全軍労牧港支部(牧港補給基地)の活動 家達の言葉をかりれば、その運動はたんに労働者だけの問題として復帰を見るので はなく、仮に沖縄からの給油がとまれば「沖縄ではストの効果は目に見えないかも しれないが、実際の影響はベトナムであらわれる」と説明し、反戦をかかげた国際 的な闘いをも意味していた。このように、基地の廃絶と同時に反戦を考えていく思 想は現在の沖縄と米軍基地の問題を鋭く批判する意味でラディカルな要求としてと らえることができるのである。 それでは、これらの運動状況が映画ではどのように表現されていくのだろうか。 全軍労の主張は、しかしながら途切れ途切れにしか聞こえず、あくまでモトシンカ カランヌーとの関係においてそのありようが登場してくる。例えばコザの街中での ストライキは同じ「基地依存」で働かざるをえないモトシンカカランヌーとともに 描かれている。以下シーンに即して詳しく考察する。 「11 全軍労首切り撤回闘争」 ⑦バーの上から全軍労を眺める女たち 37 同書, p. 202. ドキュメンタリー映画の視線 151

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⑧全軍労のピケット ⑨下着姿のマネキン 全軍労はコザの街の中心でピケットを張っている。しかし、そこに A サイン業者 と暴力団がスト破りにきて両者が対立する。その風景を A サインバーの女たち(モ トシンカカランヌーかどうか定かではないが)が二階の窓からなにもいわずに眺め ている(⑦)。そして、次のように全軍労側から A サインバーもともに闘おうとい う意思が伝えられる。「こういう風俗業〔A サインバーをさす〕というものは、既に 日米安保条約の延長によりましては、極東のこの要といわれる米軍基地は自衛隊に 変わってきます。この向いのカデナの航空隊基地は、航空自衛隊変ってくるでしょ う。同じ運命をかかえている者が、こちらで殴り合いをするような行為をしてはな らないと考えます」。この「同じ運命」という言葉において、NDU は A サイン業者 と風景においてあらわれる女たち(二階から眺める女)を同じ境遇としてともに位 置づけようとしていく。それは次の夜のコザの町にあらわれる双方の姿が、ワンシ ョットの中で語られていく箇所において明らかである。 夜のピケ風景。 闇の中、全軍労組合員はピケを張り続けている。 ピケの間を割って、通り過ぎる車。 ピケ破りに対するアジテーションがかぶっていく。 アジ「それで祖先に顔向けができるか!祖先に対して、自分らの祖先が築いた…… 帰んなさい!そうすれば一生後悔しませんよ。……あさましい、豚になるんじ ゃないぞ!……やせても枯れても……男になろうじゃないか……それで人間と いえると思うか。みんな首かかっているんだ」 ピケ隊の列から、A サインバーへパーンすると、洋服家のショーウィンドーの中 に下着姿のマネキン人形が立っている。 152 中村 葉子

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この全軍労のストが一時的には A サインバーの営業を中断させるために、全軍労 と A サインバーのモトシンカカランヌーたち(業者もふくめて)は烈しく対立して しまう。かつてその状況を竹中労は沖縄での『モトシンカカランヌー』上映活動に 率先して協力した際に、彼女達が運動の現場から「疎外」されるものであったこと を指摘している38。この共闘することの困難さにおいて、しかしながら両者ともに 基地依存で働く最底辺の労働者である。全軍労は身を賭けてストをやりぬこうとし、 モトシンカカランヌーもまた軍人を相手に身を酷使して働く者同士である。映画に おいてこうした両者のあらわれは「空間的な位置づけ」によって緻密に語られてい き、この部分に「記録者」の深い洞察が主体的な表現方法として選びとられている と思われる。それは、ピケを二階の窓から眺める女たち(⑦)においては上から眺 めるだけということでもってして厳然たる隔たりをあらわしていく。「共闘」を呼び かけようともそれは空高くに拡散していき交わりの困難さがここで顕在化している のである。 一方で夜のピケ風景は全軍労とモトシンカカランヌーの「共闘」できない関係を 現実に即した形で誠実に表現していこうとする。上記のアジテーションもまた、こ こで踏みとどまり闘いつづけようと懸命に訴える。そのすぐ後で両者がパンによっ て、⑧の全軍労のピケットから⑨の下着姿のマネキンへと「ワンショット」で表現 される。ここではあえて彼女たちの姿を生身であらわそうとしなかった。それが「マ ネキン」である意味を深くひも解こうとすると、いくつか段階をふまえて考える必 要がある。まずは批判的にこれをとらえると、彼女達の身体が「空虚」な物言わぬ 存在として全軍労と対比的に見えてくる。さらにいうと全軍労は声を張り上げて「運 動する男」でモトシンカカランヌーは「押し黙る女」として位置する風景であると も考えられる。 しかし、両者の関係は互いに基地の底辺で働く者たちの「共闘」する意味におい て、沖縄の錯綜した現実を描こうとすればするほど、安直に共闘の関係を描こうと はしなかったのではないか。両者をつなげることは「記録者」自身の立つ位置にお いて本土から来たものをよく意識しているからこそ、「生身」のモトシンカカラン ヌーは存在しなかった。それは特に真横のパンが空間的には同じ視線の高さにある 38「全軍労ストのピケに、A サイン酒場の女酔ってパンティ一つでデモをかけ、「私の商売ど うしてくれるのよ!」と叫ぶ。労働者、学生、ゲラゲラ笑って見物、キチガイ女とののしって石 を投げるものがあった」。(竹中労 2002『琉球共和国 −汝、花を武器とせよ』, 筑摩書房 p. 241.) ドキュメンタリー映画の視線 153

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ものの、そこに彼女たちは「不在」であった。沖縄の現状を知ればつまり、真横の パンの作用において共闘の望み――つまり、両者は同じ目線、それはいいかえれば ともに「連帯」するという意味において同じ視線の高さであることを意味している ――をこめてはいても、そこに生身ではない女の「マネキン」を写しだそうとする ところに「記録者」としての真摯な表現があらわれているのではないかと思う。沖 縄の現実に即せば、モトシンカカランヌーがあらわれない現実をそのまま表現する ことが状況に即した描き方であり、安易に両者の連帯を表すと「運動」の表層のみ を描いて満足するような映画になってしまう。そして、共闘の難しさは沖縄の問題 ではなく、その根本的な原因に「記録者」も含めての、日米と沖縄の関係に自覚的 であったからこそ、すべての矛盾を剥ぎ取って対象と同一化する方法論をとらなか ったとおもわれる。また、次に見るように、あくまで「記録者」と「対象」との関 係のとれなさを表現方法として選択していった(選択せざるをえなかった)といえ る。それはアケミとのラスト近くのシーンである、「親密」な場所での関係におい て非常によく表現されてくるのである。 2−3. 暴動の予見としてのモトシンカカランヌー 「15 園田のエイサー」39 ⑩コザの街に響くエイサーの踊り ⑪リズムをとる「白人兵」 39 「15 園田のエイサー」ではエイサーの踊りからワンショットでリズムをとる「白人」 へとパンする。その後シーンが変わり、アケミのシーンに連なっていき、間にストリップショー とマリファナを吸う黒人兵たちがそれぞれ個別のシーンで挿入されたあと、「21 黒人暴動」 へとながれていく。 154 中村 葉子

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「16 再び外人客相手の売春婦アケミの話」 「21 黒人暴動」 ⑫アケミの顔のストップモーション ⑬「黒人暴動」 コザの町にエイサーが流れ込むとき、その始まりの旋律はすでに指摘したように 常に米軍の輸送機の轟音に重ね合わさってひびく。ショット⑩−⑪では、エイサー のリズムと掛け声響くなか、またもワンショットの真横のパンによって長いエイサ ーの列と「リズムをとる白人兵」がうつしだされる。前節でみたようにこの真横の パンをワンショットで表現することの意味を「共闘」あるいは「連帯」の表象とし て考えた。けれどもこの場合には、「白人兵」がそのリズムにあわせて音頭をとると き、エイサーの踊りと兵士の姿が相対立するものとして描かれているようである。 エイサーの踊りで太鼓を叩いたときの劈くような音、そして踊りの大きな身振りに よる人の波うつエネルギーが、「白人兵」に向かい突き刺さっていくようである。そ の「白人兵」の腕に抱かれる女の人はその顔に笑みを浮かべるが(⑪)、彼女の存在 とモトシンカカランヌーを重ねるように、次にアケミの住む売春宿の廊下がうつさ れる。そして、ふたたびアケミの部屋で客と記録者が話しはじめる。その一言一句 が「記録者」と「対象」とのどうしても埋められない距離を浮かびあがらせており、 大変に重要であると思うので長くなるが引用する。 アケミ方言で喋る アケミ「すぐこのこたちは、モトシンカカランヌーを写すといって、私を写すの」 アケミの話、共通語に戻る アケミ「わからないのにモトシンカカランヌーって題名出すね。沖縄に来てからに、 こんな、こんなしてわざわざ、ヨシハラ、あんな所のモトシンカカランヌーっ ドキュメンタリー映画の視線 155

参照

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